カウンター ヘーゲル的国家第一主義の源流としての日本の古代の真相 - 談論サロン天珠道
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[2766] ヘーゲル的国家第一主義の源流としての日本の古代の真相
愚按亭主 - 2018年02月03日 (土) 10時18分

 以前に私は、日本は、豊かな自然に恵まれた離れ小島であったために、他の大陸のような他の部族を皆殺しあるいは奴隷化するのが当たりの前の社会とはならずに、話し合いによる共存共栄が当たり前の社会となったこと、そしてそれが、日本の言語構造と他の国の言語構造の違いとして残っていることを述べておきました。

 その言語構造の違いについて、もう少し具体的に言いますと、自分の思いよりも先に内容の説明から始める日本語の構造と、これに対して、他の多くの言語は、まず敵か味方かをはっきりさせないと安心できない精神構造の表れとして、自分の思い・結論をまず先に表明し内容はその後に続くという構造になっている、という違いがあります。つまり、日本語には警戒心の精神構造が入っていないということです。それは警戒する必要がなかったことを意味します。

 最近、CGSというインターネット番組を主催している神谷宗弊氏と日本の歴史に詳しい小名木善行氏との「ふたりごとー目から鱗の日本の歴史」を大変興味深く聞く機会がありました。そこで初めて知ったのですが、最近の日本の歴史教育は、近隣諸国条例の悪影響で、韓国に配慮しそれに合わせて内容がどんどん自虐的に変化しているそうです。その一つが、今の教科書の日本の古代の規定が、以前とは全く違うものになっていて、鎌倉時代までが古代ということになっているそうです。この変化は、韓国の歴史に合わせて、それよりも先んじないように、日本はいつまでも文化的に遅れた社会だったという印象を日本の子供たちに植え付けるためのものなのだそうです。これが、日本の文部科学省や教育界が行おうとしている日本の教育の実態なのです。これを聞いて、もう自虐教育はなくなっていると思っていた私は、正直そこまでひどくなってしまっていることを知って、本当に驚きました。

 ところが本当の日本の歴史は、小名木氏によると、じつは昔の日本は、大陸の大国に比肩するほどの大国だったのだそうです。このことは中国の歴史書に明確に記載されている事実なのだそうです。「魏志倭人伝」にある倭に贈った金印がそのことを示す証拠だそうです。というのは、当時魏が外国に贈った印鑑にはその国のレベルに合わせた等級が金・銀・銅とあって、朝鮮半島の国はすべて銅だったそうです。

 また、「旧唐書」という唐以前の歴史をつづったものに書かれている日本の姿は、畿内・九州・朝鮮半島にそれぞれ60前後、全部合わせて220くらいの氏族共同体の連合国家だったようです。ですから、邪馬台国畿内説や九州説も両方とも正しかったわけです。

 そして、朝鮮半島の歴史書「新羅本義」にはその創始者は日本から来たことが誇らしげに書かれているそうです。(その新羅がのちに唐に寝返ることになるのですが・・・)当時、新羅や百済の王子は日本に留学して寝食を共にしながら一緒に学び親交を深めていたそうです。これは、その当時の日本の統治のあり方を示す特徴と言えるものです。

 さて問題は、日本が統一国家として形成されるとても重要な飛鳥時代について、未だに釈然としない説明ばかりですので、この小名木氏に期待したのですが、この時代のことになると途端に切れ味が鈍くなってしまいます。それは万世一系の天皇家という動かし難い前提が邪魔をして、鈍くなってしまうのだろうと思います。あの論理的な切れ味で定評のある井沢元彦氏ですらがそうなのですから、むりもありません。そういう状態ですから、現在の教育界の、聖徳太子は実在の人物でないとして教科書から削除されたり、聖徳太子が嘘なのだから、17条拳法もねつ造に違いないと教科書から削除させようとする動きがあるそうですが、それに対する、反論・批判も今一つ精彩が感じられませんでした。

 そこで、私が、日本におけるヘーゲル的国家第一主義の源流を明らかにするという観点から、その真相を説いてみたいと思います。まず、私の立場は、聖徳太子は蘇我馬子だったと観る立場です。つまり、蘇我馬子がその当時の日本の天子だったということです。当時の日本は諸氏族のゆるやかな連合体でしたが、大陸に隋という強力な軍事大国ができたという緊急事態に、それまでの平和な緩やかな連合体という国家形態では対処できないという共通した危機意識から、天子を中心とした冠位十二階を定めた組織的な統一国家づくりが行われました。その時、天子の座についてそれを行ったのが蘇我馬子だったのです。

 蘇我馬子すなわち聖徳太子(天皇)は、仏教をもって国づくりを行いました。それが17条憲法です。だから17条憲法には「二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」という1条が入っているのです。

 そして、蘇我馬子すなわち聖徳太子(天皇)は、絶好のタイミングをとらえて、隋の煬帝に小野妹子を通じて「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)という親書を送って日本が対等な独立国家であるという気概を示します。これに対して煬帝から次のような返書が送られたようです。

「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」※この返書は紛失したとされていますが、なぜか「日本書紀」には以上の内容が書かれているそうです。

 そして、その日本側からの返書が「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)だそうです。なぜ日本書紀にこのような記述がされたのかの謎解きは後で行いますが、このように隋と対等なやり取りが行われていたことは、その当時の日本が大国といえる実力を持っていた証であると言えると思います。

 しかし、国家をまとめる要因となった隋がすぐに滅んでしまいました。国を脅かす国難が去り、蘇我馬子が死ぬと、物部氏のような力のある勢力が権力欲しさ国内を乱す動きが出てきて、それとの権力争いを強いられるようになり、蘇我氏の政権も安定できず、三代目にして、権力争いに長けた中国からの亡命氏族にそそのかされた神道勢力の若者らによるクーデターによって、滅ぼされます。これが大化の改新です。この本国の中枢における政変は、朝鮮半島の諸国の動揺を招き、新羅の造反につながっていき、新羅を属国にしようとする唐との一戦を交えることになり、白村江の戦いで敗れることになります。この戦いによって日本は朝鮮半島における勢力圏を失うことになります。

 敗戦後、その虚を突いて中心勢力から外れた天武天皇が、権力を握って即位します。じつは天皇を名乗り始めたのはこの天武天皇からなのですから、「天皇」や「即位」という言葉は正確ではありませんが、結果的に天武天皇になったということです。天武天皇はとても優秀な天皇で、乱れた国内を安定させるために、皇統の正当化および権威づけのために、記紀(古事記・日本書紀)の編纂に着手し、現在の天皇家の礎を見事に築き上げました。。

 じつは、この天武天皇は、前の政権の蘇我氏の血も引いていて、一族の英雄であった蘇我馬子を尊敬していたため、何とか日本の歴史にその功績と名をとどめたいと考えたのです。そこで考え出されたのが、虚像でもあり実像でもある、偉大な英雄が歴史に押しつぶされようとする不運に対する最高の諡(おくりな)で修飾された聖徳太子なのです。しかしさすがに正式の天皇とするのははばかられたのでしょう。そこで編み出したのが、太子にして摂政として天皇に替わって政治を行うという形でした。そして、その話を記紀の中に入れさせたのです。さらに天武天皇は、周到にも法隆寺の釈迦三尊像の背中の碑文に「聖徳太子に似せて作った」という一文を入れさせて、聖徳太子が実在したと思わせる証拠も残しておいたのです。

 天武天皇が天皇と名のったのも、蘇我馬子が隋の煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」という親書を送ったこと、また、後で詳しく論じますが蘇我馬子が制定した17条憲法の中に「君をば則(すなわ)ち天とし」という名文句があったからに違いありません。だから、蘇我馬子の煬帝への返書の中に「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)という文面をあえて「日本書紀」の中に入れさせたのです。一族の英雄蘇我馬子を天皇として残しておきたかったからに違いありません。というのも、聖徳太子が出したとされる親書や返書の「天子」あるいは「天皇」は、太子なのになぜ天皇なのか?はたまた架空の推古天皇をさすのか?あいまいなまま置かれていいますが、そのあいまいさの中にこそ暗に蘇我馬子が天皇だったという真相を隠す余地が生まれるからです。

 天武天皇以降の天武系の天皇は、この天武天皇の意を受けて、蘇我馬子が推進しようとしていた、仏教の興隆を推進します。その代表と言えるのが聖武天皇です。この聖武天皇の時に一般庶民への仏教の普及が始まり、奈良の大仏の建立に際しては、国民の半数近くが寄付を出したほどその普及は目覚ましいものがあったそうです。

 これに対する神道勢力側の巻き返し、第二の大化の改新と言えるのが藤原氏の援護を受けた桓武天皇による平安遷都です。以後は17条憲法の精神とは無縁な中国的な権力の私物化傾向の強い藤原氏が政治の実権を握っていくことになるのです。儒教にまみれた藤原氏は、文を尊び武を嫌って、遣唐使を廃止して鎖国状態になると、武を捨てて文の方にいそしむようになります。そして、この時全国に広まっていった、蘇我・天武・仏教系の影響力をそごうと、勘解由使を派遣するのですが、あまりうまくいかず、17条憲法の精神を受け継ぐ勢力として武士が生まれ、着々と実力を蓄積して、台頭して、やがて、藤原氏が捨てた武をになうようになっていくことになります。

 最後に、聖徳太子(蘇我馬子)が制定した17条憲法が、ヘーゲル的国家第一主義から見ても如何に見事なものであったか、について見ていきたいと思います。紙面の都合上現代語訳で検討していきます。

第一条:一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

※これはまさにヘーゲルの三項の論理の統体止揚を説いているもので、マルクスが否定したものです。

第二条:二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

※ここは、仏教をヘーゲルの学問に置き換えて、学問・真理・学者にすれば、そのままヘーゲルの国家第一主義の土台となります。

第三条:王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。

第四条:政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。

※これを実現したのが、まさに江戸時代でした。八代将軍吉宗治下江戸の小伝馬町の牢獄に二十年間罪人は入らなかったという記録があるそうです。そこでどういう使われ方をしていたかと言いますと、役人が罪を犯しそうなものを見つけると、説教し牢に入れて頭を冷やすようにしたそうです。その結果として罪を犯す者がいなくなたとのことです。まさに治未病ですね。

第五条:官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。

※これが国家第一主義の精神です。この精神が脈々と受け継がれてきたのですね。それが昨今はだいぶ崩れてきているようです。

第六条:悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。

第七条:人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

第九条:真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

第十五条:私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。

第十七条:ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

 以上のように、日本のヘーゲル的な国家第一主義は、聖徳太子(蘇我馬子)の17条憲法から始まっていたことが良く分かります。

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[2767] いわゆる国民国家と日本のヘーゲル的国家第一主義との違い 
愚按亭主 - 2018年02月06日 (火) 13時37分

 歴史学者の宮脇順子先生の「国民国家論」は大変面白く参考になりました。それによると、西洋において国家が国家としてまともな体裁を具えるようになったのは18世紀から19世紀にかけて国民国家が誕生してからなのだそうです。それまでは、王族や貴族・領主の私有地が複雑に混じって点在したりして、国境がはっきりしない状態だったそうです。また、意識も国と意識が希薄だったようです。

 また、東洋においても西洋の国民国家や日本をまねた国家もどきが誕生したのは、つい百年ほど前のことなのだそうです。それが辛亥革命における中華民国の国家樹立宣言以降のことだそうですが、それも国民国家としての実態が備わったことはないままに現在に至っているので、いまだに中国や韓国の支配層や金持ちたちは、外国籍を取得していつでも逃げ出せるようにしている実態があります。

 こうした国は論外として、西洋における国民国家の形成過程のあり方や、その問題点について見ていきましょう。もともと西洋は皆殺しか奴隷化が当たり前の社会でした。ですから西洋においては、支配する者と支配される者との関係は、支配される者は支配する者の私物のような扱いをされる関係、つまり人間とは見ない関係が、以後もずっと続くことになります。このような現実があったからこそキリスト教が流布したと思われます。というのは、現実の世界の出口の見えない辛い状況は、自らに罪があるからでその罪を神に告白すれば精神的には一応救われたからです。その関係が少しずつ変わり始めたのは、支配される側に経済的な力をつけて、支配する側に貸し付けたり優位な関係が築かれるようになっていったという背景があります。そしてそれと一体の形で学問的な認識の発展もあって、支配される側も人間であり、人間として平等だという認識・思想が創られ流布していくことになります。また、キリスト教も次第に現世での神の恵みによる救いを求めるプロテスタントが支持されるようになっていきます。

 こうした動きを背景にして、支配される側も権利を主張するようになり、国家を私物化している王権を法によって制限しようとする動きが出てくることになります。その草分け的な出来事が、英国で起きたマグナカルタ(大憲章)です。そしてこれが、憲法とは権力者を縛るものである、という主張の根拠となっている事実です。

 こうした支配される側の権利意識の芽生えと発展は、やがて米国が独立戦争勝利によって国民国家となり、つづいて仏国の国民による革命勝利と国王の処刑による国民国家の成立へとつながっていくことになります。こうして生まれた国民国家の兵士たちは自分たちの国を守るのだという意識で戦うので、国王が私費で賄う傭兵で戦う従来の戦闘では太刀打ち出きず、従来の国家は次々に敗れていくことになります。この流れを感じ取った他の国の国王たちも、このまま意地を張っていたのでは仏国王の二の舞になってしまうと妥協して、西欧の諸国は次々に立憲君主制を受け入れて国民国家化していくことになります。

 この西洋において生まれた国民国家は、形式的には全国民の法の下での平等が謳われておりますが、その実質・中身はどうだったのでしょうか?そもそも、西洋は、皆殺し・奴隷化の伝統の上に発展してきた社会であり国家です。つまり自分中心で弱いものを私物化していく即自性を、何とか憲法という対自性で抑え込んでいるだけで、その実質は変わらないままだということです。だから、植民地に対しては、現地の人を人間とは思わずに私物化して、自分たちだけが肥え太っていけばよいという姿勢でありつづけたのです。これが西洋の植民地帝国にして国民国家の実態だったのです。

 このような西洋の国民国家にも、即自性を克服して即自対自のまともな国家へと己自身を高める契機が、じつは存在していたのです。それは19世紀の西洋においてヘーゲル哲学という本物の学問が誕生したことです。ところが、マルクスをはじめとしてほとんどの西洋の自分を頭が良いとうぬぼれている人たちは、ヘーゲルの学問的価値を理解できず、見当違いの批判をしてヘーゲルの学問を学問の冠石から引きずり降ろし、自分の名前を売ろうということばかりに専念したのです。その結果として、西洋の国民国家は学問的発展をすることができず即自のままに止まってしまったのです。それが第一次世界大戦と第二次世界大戦の真の原因です。

 ではヘーゲルを批判した者たちは、ヘーゲルをどう批判したのでしょうか?マルクスについてはすでに何度も説いているので、一応名の通ったキルケゴールの批判を見てみましょう。

「たとえば美的・倫理的・宗教的実存の領域は、質的に本質を異にし、そこにはあれもこれもでなく、あれかこれかの決断による選択、あるいは止揚による総合でなく、挫折による飛躍だけがある。実存は、成りつつあるものとして無限への無限な運動、また単なる可能でない現実としてつねに時間的であり、その時間における運動は、決断とその反復において、時間における永遠を満たす。矛盾によって各々の実存に対して迫られた決断における真理の生成が、主体性の真理であり、主体的かつ実存的な思惟者は、いわば実存しつつ問題を解く」(ウィキペディアの「キルケゴールの弁証法」より)

 キルケゴールも、マルクスと同じように「あれもこれも」を否定し「総合」を否定して、運動体の弁証法をわざわざ分解して形而上学に引き戻したにすぎない自称弁証法を、ヘーゲルを超えたと錯覚してしまったのです。こんな紛い物の不細工な弁証法をありがたがっているようだから、西洋の国民国家は即自のまま即自対自(あれもこれも)になれなかったのです。

 これに対して、もともと共存共栄の社会を作ってきた日本では、はじめから即自対自の統一国家として誕生しました。それが「日出処の天子」である聖徳太子すなわち蘇我馬子が17条憲法をもって統治する国家でした。そして、その精神が脈々と受け継がれて発展していき、ついに17世紀に江戸幕府という見事なヘーゲル的国家第一主義の国家として結実することになったのです。これは、西洋的な形而上学的な即自の塊に過ぎないがゆえに民主主義で誤魔化すしかない国民国家とは違い、西洋がその契機を活かしきれずに実現できなかったヘーゲル的国家第一主義を、日本は、しかもヘーゲルから独立に、その理想国家を独自に達成してしまったのです。

「我(朕)は おまえが朝廷を尊び わたし(天皇)の国を思い己を売ってまで忠誠をしめしたことを(顕・あきらかにした)うれしくおもう(嘉・よろこぶ)」

 これは、持統天皇が持統4年(690年)「大伴部博麻(おおともべのはかま)」という元倭国(日本)兵士に与えた勅語です。(日本書紀:第三十三巻持統天皇より)この大伴部博麻という兵士は、白村江の戦に敗れて捕虜として長安に連れていかれ、そこでたまたま「唐」が「倭国(日本)を攻める計画」を立てていることを知り、捕虜仲間に自分を奴隷として売ったその金て日本に帰って、この緊急事態を知らせてほしいと頼んで、日本を危地から救ったという自己犠牲的愛国精神に富んだ若者でした。

 日本では、こういうことが昔から当たり前のように行われていたのです。これは、まさに即自対自のヘーゲル的国家第一主義そのものです。これに対して、即自的な国民国家ではそこまでの愛国精神は生まれにくいと思います。

 そんな欧米の国民国家が、今では人種差別否定を謳い、民主主義を旗印とし、図々しくも人権で内政干渉までするようになっています。自分たちがかつて通ってきた道だから良く分かるのでしょう。しかし、その境地は決して自力で到達できたものではなく、共存共栄の道を行く日本というヘーゲル的国家第一主義の国との戦いの中で、朝鮮・台湾・満州国などの自分たちにはできなかった共存共栄の植民地経営を見せられ、それによって自分たちの植民地経営がいかに非人道的なものだったのかが浮き彫りにされることを恐れて、日本を悪者に仕立て上げて煙幕として用いながら、あたかも初めから自分たちが人道的な国民国家であるかのようにふるまって見せざるを得なくなっての、欧米の諸国民国家の現在なのです。

 もし、日本が戦いを仕掛けていなかったならば、植民地帝国は健在のまま、欧米の国民国家は、むき出しの人種差別・非人道的な国家のままであった可能性が大だったと思います。しかし、現実の欧米の国民国家は、日本のおかげで建前上は、共存共栄や人種差別反対、人権を守れを叫ぶものの、その実態は何ら変わっておらず、あれかこれかの形而上学的思考のままでは、共存共栄など夢のまた夢に過ぎず、男女同権や人権も、国家を無視した極論になって、却って害を振りまいているだけであるのが現実です。

 そして、敗戦した日本は、もっと高いレベルの国家を実現していたにもかかわらず、低級な国民国家を押し付けられて、どんどん劣化が進行している状態です。それゆえ、真の学問であるヘーゲルを一日も早く復権させて、そのヘーゲルの国家第一主義で、日本の国家を以前以上に見事な学問的な国家として再生していかねばならないと思います。それが、人類の絶対理念化を予言したヘーゲルの願いでもあるのです。
 

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[2768] ヘーゲルの和の弁証法は西洋では異次元、日本では当たり前
愚按亭主 - 2018年02月07日 (水) 17時06分

 ヘーゲルのあれもこれもの和の運動体の弁証法は、西洋においては全く理解されず大批判を浴びて、結局のところ、西洋社会をまともな発展へと導く学問として活用されないまま、学問の統括者の座から引きずり降ろされてしまいました。それは、西洋社会そのものが、敵か味方かをはっきりさせねば済まない、あれかこれかで動いていた社会に根本的に馴染まなかったからに他なりません。そのことは、その中にあってヘーゲルが、あれもこれもの、異次元の運動体の弁証法にまで到達できたことの方が、むしろ奇跡だったと言えるほどのものだったことを示していると思います。

 だから、マルクスもキルケゴールも、ヘーゲルの和の弁証法を批判して、ヘーゲルが時代遅れの古い論理学だとして批判していたその、あれかこれかの形而上学的弁証法(量を否定した質的弁証法・観念論を否定した唯物弁証法)を、それがすでに論破されていることも分からずに、したがって、何の反証・反論もせずに、ただこちらの方が自分の思いと合うからという一方的な決めつけだけで、自分の方が正しいと主張したわけです。

 ヘーゲルは、その奇跡を、学問によって成し遂げたのですが、その学問も、あまりにもレベルが高すぎて、当時も今も、理解され難いと言う二重の要因によって、ヘーゲルの本物の学問は、人類史・学問史において雌伏を余儀なくされていると言えます。実際、現在でもヘーゲルの理解のされ方は、「ヘーゲルの弁証法は、いわゆる弁証法、言葉、言述記述で世界の全てを説明しつくし、世界を完全かつ正確に認識し、絶対正義を認識し、絶対に正しい完全な人間になり、絶対に正しい完全な社会をつくろうという試みであり、実際は壮大な虚構、虚勢です。」と思われています。この説明は、ヘーゲルの理解としてはとても優れたものですが、唯物論が邪魔をしてその学問性が分からない、典型例と言えましょう。

 では、そういう西洋社会に対して、日本はどうかと言いますと、日本は純粋な単一民族で成り立っていたものではなく、色々な所から漂着したいろいろな人種が殺し合うのではなく、共存共栄する形で少しずつ混ざり合いながら一つの民族として創られていった社会であり、国家です。ですから、否応なしに、むき出しの即自ではなく、即自対自の認識が創られていったのです。かくして、自分のことを思いながら、同時に全体のことも思える認識が自然成長的に創られていったのです。これに対して、同じくいろいろな国から来た移民によって創られた米国は、どうかといいますと、一つの国家であることを意識させる取り組みを事あるごとに目的意識的に働きかけているにもかかわらず、いつまでたっても混じり合わず一つになれずに分断されたままであり、国民国家とは名ばかりの、それぞれが即自的な自己の利益を主張するばかりの状態です。

 この比較からわかるように、日本は、ヘーゲルが目的意識的・学問的に到達した境地が、いわば自然に具わっていたのです。だから、7世紀の段階ですでに、大伴部博麻(おおともべのはかま)のような下級兵士にも、見事な愛国精神が具わっていたのです。もっと言えば、この場合の愛国精神は、ある特定の国を代表する人物に対するものというよりも、日本の国家そのもの、すなわち抽象的な概念としての国家を愛(おも)う心と言う意味での愛国精神ですので、西洋では19世紀になってやっと、つまり、国民国家が出現し、学問が発達してやっと到達できた認識のレベルなのです。否、それよりももっとレベルの高い、ヘーゲルのいう本流レベルの国家に匹敵するものなのです。

 つまり、日本では初めから即自対自のヘーゲル的な国家第一主義でしたから、自分即国家が当たり前のように具わっていた、ということです。ですから、17条憲法は、ないからあるようにしようとしたものではなく、すでにあるものを、理念として整理し、変わらないあらまほしき精神の形として文字化・実体化して残そうとしたものなのです。だから、それ以後の日本の精神の発展の中に、見事に脈々と受け継がれてきたのです。

 このように見てみると、全てがつながってきます。なぜ日本語が変幻自在の弁証法的な風呂敷言語なのか?なぜ多くの外国語が、形式的・形而上学的なパッケージ言語なのか?なぜ政権は次々に変化しているのに、君主である天皇は変わらず天皇であり続けているのか?なぜ日本においてヘーゲル以前にヘーゲル的な哲学である安藤昌益の「自然真営道」が創られたのか?

 それは、日本には、幸運なことにヘーゲル的な学問の土壌が存在し、かつ創られていたからに他なりません。つまり、それは偶然性でもあり必然性でもあったということです。ヘーゲルの学問では、物質の発展段階における人類段階においては、対象の構造と目的意識的に一致させる学問性こそが本流たる証となりますので、まさに日本はその本流たるにふさわしい学問性を持っていた、ということが云えると思います。

 

 

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[2777] 日本と支那・韓との儒教の影響の違い
愚按亭主 - 2018年02月25日 (日) 14時45分

 平昌オリンピックにおいて、スピードスケート女子500メートルでの韓国人スターターや、フィギアスケート男子シングルスでの中国人審査員の、自国選手への露骨な依怙贔屓が話題になっています。対自的な公平性を保持すべき立場にありながら、このような即自丸出しの態度を平気でとってしまう根本的な原因は、支那や韓国にはまともな国家を作った歴史・経験がないために、対自的な認識がそもそも存在しないためです。だから自分の都合で平気で法を破り、約束を破るのです。同じように即自を基本とする西洋の国家は、対自的な学問や法体系の発達によって、一応の即自と対自の区別はできていますが、日本のように個人の認識レベルで即自対自ができている国はほかに例を見ません。だから、日本は、パシュートという団体競技に抜群の強さを発揮するのです。

 こう云うと、怪訝な顔をして、学校で習った歴史では、支那や韓国にも国というものがあったと習ったが、あれはみな嘘だというのか?と聞き返してくることでしょう。

 この疑問はもっともな疑問ですが、学校で習う歴史は、国家とは何かが分かっていない歴史研究者が、現代の国家のあり方を過去に覆いかぶせて解釈したものがほとんどで、現在その実態が次々に明らかにされつつあります。それを見ると、とても国家とは呼べない実態が浮かび上がってきます。その結果としての、現代の支那人や韓国人なのです。

 具体的に説明しますと、支那の歴代王朝のほとんどは、外来の遊牧民の王朝で漢民族の社会共同体が自ら組織化した国家はほとんどないのです。いわば外来人に支配され続けてきた歴史なのです。だから「上に(占領)政策あれば、下に(いかに誤魔化すかの)対策あり」の連続でしたから、もともと即自しかなかったところに、このような状況でしたから対自が育つはずがなく、即自丸出しのまま現代に至っているというのが、偽らざる現実なのです。

 では、韓国はどうかと云いますと、もともと韓国のご先祖様は、日本の一部でした。その名残が、日本語と韓国語の基本的な文法構造が同じであり、似た言葉が存在する理由です。私はこのことを二年前に書いたテキストの中で次のように述べました。

「このことが日本語と他の言語の文法構造に決定的な違いをもたらしました。すなわち、大陸の言語は、まず敵か味方かを判別することが第一義的に大事であったことから、まずイエスかノーかをはっきりさせる文法構造になっています。これに対して、日本語は、結論は後回しにして、状況説明の方を最初にする構造になっています。このように述べますと、大陸の言語の中で、韓国語は日本語と同じ語順になっているではないですか、という疑問・反論が寄せられることと思います。

たしかにその通りですが、これに関して私は、一つの仮説を持っております。それは、昔の朝鮮半島は日本の一部だったという事情が反映されているのだろうと思っております。これは全く荒唐無稽な妄想ではなく、むかし朝鮮半島に任那日本府があったということは、事実として教科書にも載っておりますが、もっと日本の影響力は強かったことを、この言語の構造が示していると思います。歴史の解釈は政治状況によって簡単に変えられますが、言語の構造はそう簡単に変えられるものではないので、どちらの方がより信憑性が強いかといえば、圧倒的に言語構造の方だと思います。

その後、日本と百済の連合軍が、唐との戦いに敗れて朝鮮半島は完全に中国の属国になってしまい、精神構造もその状況が創る面が圧倒的に強くなった結果として現在の朝鮮半島の人たちの民族的精神構造が創られていったのだと思います。つまり、それまでは日本の領土だったために、昔の日本人と同じ言葉を使っていたことが今の韓国語(朝鮮語)の土台となったから言語構造が似ているのです。しかし、言葉は似ていても精神構造は全く違います。韓国人の精神構造は、敵か味方かを先ずはっきりさせたがる傾向が強く、一旦味方と分かるといきなり必要以上にまるで家族のような扱いになるという特徴があるようです。このことは韓国人の精神構造を創るのに、日本語的言語の構造よりも、大陸的環境の厳しさの方が勝っていたということを意味するものだと思います。」

 これを書いた時は、ほとんど論理性を主体として立てた仮説でしたので、事実はそれほど多くはありませんでしたが、最近になって、それが本当に事実であったことが分かってきました。これが論理性の凄さです。ですから、自虐史観の猛威がすさまじかった頃、この日本語と韓国語とが似ている事実を、韓国が日本のルーツだなどと、当時の在日の左翼が盛んに云い立てておりましたが、事実は全くその逆であったわけです。そのことは、精神構造と言語構造が一致する日本語と、精神構造と言語構造が一致しない韓国語という論理性から真実は見るまでもなかったとは言えます。

 面白いのは世界の各国の教科書の朝鮮に対する以下のような記述です。客観的な評価はこうだったんですね。私も初めて知りました。
◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」

 やはり、韓国は日本の一部だったのに間違いはないようです。戦後の日本は、そんなことはとても口に出せない状況にありましたから、日本国内にいたのでは真実の姿を知ることもできず、そんなことを云ったら袋叩きにあいそうな雰囲気でした。

 韓国の歴史はそのほかさんざん内陸の遊牧民族の蹂躙にあい、属国とされておりましたから、韓国は、自立したまともな国家であったことは一度もなかったのです。その象徴が、李氏朝鮮です。モンゴルの属国であった高麗の一武将であった李成桂が、これからは退潮するモンゴルよりも明だと、王の命令を裏切って王族を殺して、自分が王になって明に認めてもらおうと御注進にいったところ、国名はどうするのかと逆に聞かれて、明に決めてもらって朝鮮となったという経緯があります。しかも、この李成桂は半島人ではなく、カラコルム生まれのモンゴル系だったそうです。つまり、これも外来政権だったということです。

 これに対して、日本はどうだったのかと云いますと、蘇我馬子の聖徳太子が隋に対して独立国としての気概を示して以来、その魂が連綿と受け継がれてきております。途中、支那からの亡命氏族とつるんだ天智系がクーデターを起こし、唐に敗れてから唐風の朝貢国家への道を歩もうとしましたが、多くの地方豪族の支持を得て壬申の乱に勝利した、蘇我馬子の血を引く天武系によって独立自尊の道が堅持され、その天武天皇によって日本書紀や・古事記が編纂されて、その道が盤石なものとされました。

 ですから、支那系の亡命氏族である藤原氏に支えられて天智系による巻き返しの平安遷都があっても、唐への朝貢国家への道はすでに閉ざされていました。やむなく藤原氏は、支那流の文偏重・武軽視の儒教主義で日本を統治したことが、結果として平安文化の興隆に寄与し、その一方で、独立自尊の魂は野に拡散して、それを受け継ぐ、仏教系や武士の台頭をお膳立てすることになりました。

 そして、その独立自尊の魂が爆発するのが室町時代であり、それが国家第一主義として各国の切磋琢磨の中でいくのが戦国時代であり、そして、その結実が統一国家となった江戸時代だ、と大雑把にみることができます。戦国時代が野盗が跋扈するような無法時代だとするのは左翼お得意の作り話であって、実際にその時代に目撃しているザビエルの報告書には、、貧乏でも皆誇り高く、他の國には見られない平和で安定した国だと評価しているそうです。戦国領主たちは自分の領地を豊かにするために腐心して、戦ばかりでなくそういう面でも競い合い切磋琢磨していたのです。その表れが鉄砲の発達であり、楽市楽座などの産業・商業の振興策です。

 このようにして生まれた統一国家としての江戸時代の日本は、学問と云えば、四書五経などの儒教でした。しかし、そもそも儒教は武を軽んじるものですから、その武が儒教を学ぶところに皮肉な矛盾が存在します。しかし、この矛盾が、日本の発展を促進した面が間違いなくあります。

 井沢元彦氏はこの儒教的側面を否定的に見ておりますが、私は、むしろ肯定的に見ています。どういうことかと云いますと、日本人は、儒教を柔軟に自分たちの発展にプラスになるように使ったということです。具体的に云いますと、身分制は緩やかに、モノづくり・金儲けの否定には目をつぶり、親孝行や忠義などの国家第一主義にプラスになるものは、積極的に活用する、というようにです。

 この儒教を最も忠実に実践したのは韓国です。、支那は外来政権ばかりでしたから、儒教がはびこりようがありませんでした。五百年も続いたという李氏朝鮮の両班階級は、支那の文化に憧れ儒教を本家以上に実践することに汲々として、李氏朝鮮と呼ばれる国家らしき集団をどんどん衰退させてゆきました。そして、皮肉なことに、これが李氏朝鮮を長持ちさせることになったのです。

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