[2766] ヘーゲル的国家第一主義の源流としての日本の古代の真相 |
- 愚按亭主 - 2018年02月03日 (土) 10時18分
以前に私は、日本は、豊かな自然に恵まれた離れ小島であったために、他の大陸のような他の部族を皆殺しあるいは奴隷化するのが当たりの前の社会とはならずに、話し合いによる共存共栄が当たり前の社会となったこと、そしてそれが、日本の言語構造と他の国の言語構造の違いとして残っていることを述べておきました。
その言語構造の違いについて、もう少し具体的に言いますと、自分の思いよりも先に内容の説明から始める日本語の構造と、これに対して、他の多くの言語は、まず敵か味方かをはっきりさせないと安心できない精神構造の表れとして、自分の思い・結論をまず先に表明し内容はその後に続くという構造になっている、という違いがあります。つまり、日本語には警戒心の精神構造が入っていないということです。それは警戒する必要がなかったことを意味します。
最近、CGSというインターネット番組を主催している神谷宗弊氏と日本の歴史に詳しい小名木善行氏との「ふたりごとー目から鱗の日本の歴史」を大変興味深く聞く機会がありました。そこで初めて知ったのですが、最近の日本の歴史教育は、近隣諸国条例の悪影響で、韓国に配慮しそれに合わせて内容がどんどん自虐的に変化しているそうです。その一つが、今の教科書の日本の古代の規定が、以前とは全く違うものになっていて、鎌倉時代までが古代ということになっているそうです。この変化は、韓国の歴史に合わせて、それよりも先んじないように、日本はいつまでも文化的に遅れた社会だったという印象を日本の子供たちに植え付けるためのものなのだそうです。これが、日本の文部科学省や教育界が行おうとしている日本の教育の実態なのです。これを聞いて、もう自虐教育はなくなっていると思っていた私は、正直そこまでひどくなってしまっていることを知って、本当に驚きました。
ところが本当の日本の歴史は、小名木氏によると、じつは昔の日本は、大陸の大国に比肩するほどの大国だったのだそうです。このことは中国の歴史書に明確に記載されている事実なのだそうです。「魏志倭人伝」にある倭に贈った金印がそのことを示す証拠だそうです。というのは、当時魏が外国に贈った印鑑にはその国のレベルに合わせた等級が金・銀・銅とあって、朝鮮半島の国はすべて銅だったそうです。
また、「旧唐書」という唐以前の歴史をつづったものに書かれている日本の姿は、畿内・九州・朝鮮半島にそれぞれ60前後、全部合わせて220くらいの氏族共同体の連合国家だったようです。ですから、邪馬台国畿内説や九州説も両方とも正しかったわけです。
そして、朝鮮半島の歴史書「新羅本義」にはその創始者は日本から来たことが誇らしげに書かれているそうです。(その新羅がのちに唐に寝返ることになるのですが・・・)当時、新羅や百済の王子は日本に留学して寝食を共にしながら一緒に学び親交を深めていたそうです。これは、その当時の日本の統治のあり方を示す特徴と言えるものです。
さて問題は、日本が統一国家として形成されるとても重要な飛鳥時代について、未だに釈然としない説明ばかりですので、この小名木氏に期待したのですが、この時代のことになると途端に切れ味が鈍くなってしまいます。それは万世一系の天皇家という動かし難い前提が邪魔をして、鈍くなってしまうのだろうと思います。あの論理的な切れ味で定評のある井沢元彦氏ですらがそうなのですから、むりもありません。そういう状態ですから、現在の教育界の、聖徳太子は実在の人物でないとして教科書から削除されたり、聖徳太子が嘘なのだから、17条拳法もねつ造に違いないと教科書から削除させようとする動きがあるそうですが、それに対する、反論・批判も今一つ精彩が感じられませんでした。
そこで、私が、日本におけるヘーゲル的国家第一主義の源流を明らかにするという観点から、その真相を説いてみたいと思います。まず、私の立場は、聖徳太子は蘇我馬子だったと観る立場です。つまり、蘇我馬子がその当時の日本の天子だったということです。当時の日本は諸氏族のゆるやかな連合体でしたが、大陸に隋という強力な軍事大国ができたという緊急事態に、それまでの平和な緩やかな連合体という国家形態では対処できないという共通した危機意識から、天子を中心とした冠位十二階を定めた組織的な統一国家づくりが行われました。その時、天子の座についてそれを行ったのが蘇我馬子だったのです。
蘇我馬子すなわち聖徳太子(天皇)は、仏教をもって国づくりを行いました。それが17条憲法です。だから17条憲法には「二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」という1条が入っているのです。
そして、蘇我馬子すなわち聖徳太子(天皇)は、絶好のタイミングをとらえて、隋の煬帝に小野妹子を通じて「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)という親書を送って日本が対等な独立国家であるという気概を示します。これに対して煬帝から次のような返書が送られたようです。
「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」※この返書は紛失したとされていますが、なぜか「日本書紀」には以上の内容が書かれているそうです。
そして、その日本側からの返書が「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)だそうです。なぜ日本書紀にこのような記述がされたのかの謎解きは後で行いますが、このように隋と対等なやり取りが行われていたことは、その当時の日本が大国といえる実力を持っていた証であると言えると思います。
しかし、国家をまとめる要因となった隋がすぐに滅んでしまいました。国を脅かす国難が去り、蘇我馬子が死ぬと、物部氏のような力のある勢力が権力欲しさ国内を乱す動きが出てきて、それとの権力争いを強いられるようになり、蘇我氏の政権も安定できず、三代目にして、権力争いに長けた中国からの亡命氏族にそそのかされた神道勢力の若者らによるクーデターによって、滅ぼされます。これが大化の改新です。この本国の中枢における政変は、朝鮮半島の諸国の動揺を招き、新羅の造反につながっていき、新羅を属国にしようとする唐との一戦を交えることになり、白村江の戦いで敗れることになります。この戦いによって日本は朝鮮半島における勢力圏を失うことになります。
敗戦後、その虚を突いて中心勢力から外れた天武天皇が、権力を握って即位します。じつは天皇を名乗り始めたのはこの天武天皇からなのですから、「天皇」や「即位」という言葉は正確ではありませんが、結果的に天武天皇になったということです。天武天皇はとても優秀な天皇で、乱れた国内を安定させるために、皇統の正当化および権威づけのために、記紀(古事記・日本書紀)の編纂に着手し、現在の天皇家の礎を見事に築き上げました。。
じつは、この天武天皇は、前の政権の蘇我氏の血も引いていて、一族の英雄であった蘇我馬子を尊敬していたため、何とか日本の歴史にその功績と名をとどめたいと考えたのです。そこで考え出されたのが、虚像でもあり実像でもある、偉大な英雄が歴史に押しつぶされようとする不運に対する最高の諡(おくりな)で修飾された聖徳太子なのです。しかしさすがに正式の天皇とするのははばかられたのでしょう。そこで編み出したのが、太子にして摂政として天皇に替わって政治を行うという形でした。そして、その話を記紀の中に入れさせたのです。さらに天武天皇は、周到にも法隆寺の釈迦三尊像の背中の碑文に「聖徳太子に似せて作った」という一文を入れさせて、聖徳太子が実在したと思わせる証拠も残しておいたのです。
天武天皇が天皇と名のったのも、蘇我馬子が隋の煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」という親書を送ったこと、また、後で詳しく論じますが蘇我馬子が制定した17条憲法の中に「君をば則(すなわ)ち天とし」という名文句があったからに違いありません。だから、蘇我馬子の煬帝への返書の中に「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)という文面をあえて「日本書紀」の中に入れさせたのです。一族の英雄蘇我馬子を天皇として残しておきたかったからに違いありません。というのも、聖徳太子が出したとされる親書や返書の「天子」あるいは「天皇」は、太子なのになぜ天皇なのか?はたまた架空の推古天皇をさすのか?あいまいなまま置かれていいますが、そのあいまいさの中にこそ暗に蘇我馬子が天皇だったという真相を隠す余地が生まれるからです。
天武天皇以降の天武系の天皇は、この天武天皇の意を受けて、蘇我馬子が推進しようとしていた、仏教の興隆を推進します。その代表と言えるのが聖武天皇です。この聖武天皇の時に一般庶民への仏教の普及が始まり、奈良の大仏の建立に際しては、国民の半数近くが寄付を出したほどその普及は目覚ましいものがあったそうです。
これに対する神道勢力側の巻き返し、第二の大化の改新と言えるのが藤原氏の援護を受けた桓武天皇による平安遷都です。以後は17条憲法の精神とは無縁な中国的な権力の私物化傾向の強い藤原氏が政治の実権を握っていくことになるのです。儒教にまみれた藤原氏は、文を尊び武を嫌って、遣唐使を廃止して鎖国状態になると、武を捨てて文の方にいそしむようになります。そして、この時全国に広まっていった、蘇我・天武・仏教系の影響力をそごうと、勘解由使を派遣するのですが、あまりうまくいかず、17条憲法の精神を受け継ぐ勢力として武士が生まれ、着々と実力を蓄積して、台頭して、やがて、藤原氏が捨てた武をになうようになっていくことになります。
最後に、聖徳太子(蘇我馬子)が制定した17条憲法が、ヘーゲル的国家第一主義から見ても如何に見事なものであったか、について見ていきたいと思います。紙面の都合上現代語訳で検討していきます。
第一条:一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
※これはまさにヘーゲルの三項の論理の統体止揚を説いているもので、マルクスが否定したものです。
第二条:二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。
※ここは、仏教をヘーゲルの学問に置き換えて、学問・真理・学者にすれば、そのままヘーゲルの国家第一主義の土台となります。
第三条:王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。
第四条:政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。
※これを実現したのが、まさに江戸時代でした。八代将軍吉宗治下江戸の小伝馬町の牢獄に二十年間罪人は入らなかったという記録があるそうです。そこでどういう使われ方をしていたかと言いますと、役人が罪を犯しそうなものを見つけると、説教し牢に入れて頭を冷やすようにしたそうです。その結果として罪を犯す者がいなくなたとのことです。まさに治未病ですね。
第五条:官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。
※これが国家第一主義の精神です。この精神が脈々と受け継がれてきたのですね。それが昨今はだいぶ崩れてきているようです。
第六条:悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。
第七条:人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。
第九条:真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。
第十五条:私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。
第十七条:ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。
以上のように、日本のヘーゲル的な国家第一主義は、聖徳太子(蘇我馬子)の17条憲法から始まっていたことが良く分かります。
|
|