カウンター 悪しきグローバリズムを根本的に克服する道はヘーゲルの復権しかない - 談論サロン天珠道
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談論サロン天寿道

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[2742] 悪しきグローバリズムを根本的に克服する道はヘーゲルの復権しかない
愚按亭主 - 2018年01月18日 (木) 23時20分

 ソ連の崩壊で共産主義が歴史の舞台から姿を消すのかと思いきや、世界は依然としてマルクスの亡霊に囚われて、左派が国連を仕切り、世界のマスコミを牛耳って、コミンテルンがペキンテルンに引き継がれて、その悪しきグローバリズムによって国家を侵食し続けています。その最も模範的な成功例が、日本です。というのも、世界の中で最も人間的でまともな社会・国家を創り上げた唯一の国が日本で、それが国家という枠組みを壊そうとしている悪しきグローバリズムにとって、一番厄介で危険な警戒すべき存在だったから、徹底的に解体し自立化できないようにする施策が見事に成功をおさめたからに他なりません。

 ではその悪しきグローバリズムとはいったいどういうものでしょうか?それには大きく分けて三種類のグローバリズムが存在します。一つは、ユダヤや客家の華僑などのような国家からはみ出し国家を持たないで、ウィルスのようにいろいろな国家に侵入してそのエキスを奪って大きくなっても、本質的に国家になじまずに世界に広がっていこうとするグローバリズムです。

 第二は、経済的に肥大化した金融資本が国家の枠組みを超えて世界を一つにまとめて自分たちが経済的に支配する世界にしようとするグローバリズムです。

 第三は、マルクスが創り上げた
万国の労働者団結せよ!」と国家および国家権力を否定し、攻撃する共産主義的グローバリズムです。

 これらのグローバリズムは、国家そのものを軽視し否定するその共通性から、連携しあい複雑に絡み合って、現在の世界を覆っている状況があります。これに対して昨年から国家を取り戻そうとする運動が活発化して、英国のEU離脱や、アメリカファーストを掲げるトランプ政権が誕生しました。本当はこの流れに乗って日本も日本を取り戻すべく国家としての真の独立を勝ち取るべきでしたが、あいにく日本は、他国に守ってもらう属国根性がしみ込んでしまって、日本を自立させないようにしようとする左翼グローバリストたちの「憲法9条」を守れという声に誑かされて、折角の絶好の機会を逃してしまいました。

 日本の左翼グローバリストは、欧州の左翼と比較して、とりわけ自国に対する愛が欠如しているのが特徴だそうです。それには、国家を否定するマルクス主義に忠実になろうとする姿勢や、日本を悪く思わせる自虐史観教育によるもの、日本人らしい顔をしてじつは日本人でない者がたくさん紛れ込んでいる等々の事情によるものと思われます。私自身も元左翼でしたから、被差別・被抑圧人民に連帯すると称して、反日的なことをする左翼の心情はよく分かります。その者たちは、それが本当に正しいことだと信じ込んでしまっているのです。

 共産主義の実態・破綻が明らかになった今でも、共産主義を誰も信じていなくても、何故依然として左翼が大きな力をもってはびこるのか?それは、マルクスが大きな誤りを犯しているとは誰も思っていないからです。それに加えて、それに代わる本物があることを誰も知らないからです。

 現在の世界の悪しきグローバリズムと即自的なナショナリズムとの対立を解決する道は、即自対自のグローバリズムと、即自対自のナショナリズムとを統体止揚した、ヘーゲルの絶対理念へと向かう絶対精神の国家第一主義のみであると思います。その道は、人類を束縛してきた宗教から、本当の意味で人類が卒業し、主体性を確立して真の解放を実現できる道でもあります。

 つまり、学問的な国家第一主義によって、各々の国家・社会が国家・社会としてまともに発展できて、はじめて国家同士が対等な形で融合していって、巨大な国家第一主義のまともな統一国家が生まれるのです。これこそが真のグローバリズムなのです。この真のグローバリズムは、国家第一主義のまともな発展の結果として創られるのであって、決して国家をバラバラン解体して個人を奴隷化することによって形成される悪しきグローバリズムではないのです。

 

Pass

[2763] トランプ大統領の米第一主義とヘーゲルの国家第一主義とどう違うか?
愚按亭主 - 2018年01月28日 (日) 18時35分

 トランプ大統領がダボス会議で演説したそうです。前の年、習近平が演説して喝采を浴びたとか。ダボス会議はグローバリズムの巣窟だそうですから、共産主義グローバリズムの習近平とは馬が合うのでしょう。ただマルクス主義は創始者のマルクス以来の<ダブルスタンダード>ですから、信用できません。自分たちが権力を持っていない時は人権や自由を盾にするのに、自分が権力を握った途端自由を無慈悲な形で圧殺しようとします。これがマルクスの言う「人間解放」の実態なわけです。彼らの言う言論の自由も、自分たちだけの自由であって、日本の左翼は反対者の言論を手段を択ばずに圧殺しにかかろうとします。そして、その自由の中身も目的のためならデタラメでもなんでも結構という自由であって、ヘーゲルの言う「必然性の洞察」では決してありません。だから、習近平が支持する自由貿易をも、ダンピングという市場を乱す不当なやり方でもなんでも結構という自由なのです。

 初めから話が横道にそれてしまいましたが、主題のトランプ大統領のダボス会議の演説に戻して、そこでトランプ大統領はどういう演説をしたのでしょうか?NHKNEWSWEBの記事を見てみましょう。

「トランプ大統領は『世界は、強く、繁栄したアメリカの復活を目の当たりにしている。アメリカはビジネスに開かれており、再び競争力を獲得している』と述べ、減税などの税制改革の実現を通して、アメリカ経済の成長は加速していると自身の経済政策の成果を強調しました。

 そして貿易の不均衡の是正に向けて公正な貿易を求める姿勢を改めて示したうえで、TPP=環太平洋パートナーシップ協定に関連して『アメリカはあらゆる国と互いに利益がある貿易協定について交渉する用意がある。それはTPP交渉の参加国も含んでいる。こうした国々と個別に、もしくは多国間で交渉を検討するだろう』と述べ、再交渉を前提にTPPに復帰する可能性を示唆しました。

さらに『アメリカ第一主義はアメリカの孤立ではない。アメリカが成長するとき世界も成長する。アメリカの繁栄は世界の雇用を創出した』と述べ、みずからが掲げるアメリカ第一主義は世界の分断をもたらすという見方に反論しました。」

 このトランプ大統領の演説は、国家第一主義の観点からするならば、とても優れた内容です。TPPへの復帰の問題にしても、グローバリスト主導のTPPを断ち切るために降りたのだろうと想像されますし、アメリカ第一主義の主導権を確立して復帰するというのはそれなりに筋が通っていると思います。つまり、トランプ大統領は、トランプ大統領なりにナショナリズムとグローバリズムとの融和を、現在の大半のグローバリストと異なるトランプ流のグローバリズムではかろうとする意志が感じられるものです。

 もしそれが本当ならば、トランプ大統領はヘーゲル的な国家第一主義を実現するのではないか、との淡い期待を抱きたくなるかもしれませんが、残念ながらそれは難しいと思います。アメリカの社会の半分はグローバリズムであり、もう半分は即自的なナショナリズムであるので、たとえトランプ大統領の意識がそうであったとしても、一人では如何ともしがたいものがあります。それに加えて、トランプ大統領がヘーゲルの国家第一主義を理解して自分のものにしているとは、到底思えませんから・・・・。

 ヘーゲル的な国家第一主義を定着させるためには、社会的意識の大改革が必要となりますが、そのためにはその基礎となる学問が変わらなければなりません。現在のようなマルクス主義の枠内の古い形而上学的なあれかこれかという硬直した意識をぶち壊して、ヘーゲルの運動体の弁証法の思惟の運動こそが正しいのだという認識が、人類の共通認識とならなければなりません。

 先に私は、江戸時代の日本はヘーゲルの国家第一主義を実現した世界で唯一の事例だと述べておきましたが、江戸時代のことを知れば知るほど、それは正しかったという確信を得るとともに、改めて江戸時代の日本は本当に凄かったのだということを実感しています。

 たとえば、武士道の実態について、主君のどんな理不尽な命令にも唯々諾々と従っていたわけではなく、それが藩全体・国家全体にとって明らかに良くない場合は、家臣の代表である家老が殿を座敷牢に押し込めて、ひざ詰め談判で徹底的に話し合い、殿が納得したら座敷牢から出して、指揮をゆだねるということが実際にあったそうです。主君個人に仕えるのではなく藩・国家そのものに仕え、主君が国益を損なうようなことをしないように支えるのが本当の武士道なのだそうです。かの有名な上杉鷹山でさえも、座敷牢に押し込められたことがあるそうです。これこそが、ヘーゲルの説く国家第一主義に他なりません。

 ですから、我々が学校で習ってきたマルクス主義的な階級闘争史観で脚色された、江戸時代は封建的な差別的身分制度に縛られた暗い時代であったというのは全くのでたらめで、士農工商というのは単なる区別に過ぎず、時々ドラマに出てくるように武士が町民になったり、新選組のように農民が武士になったりというように、自由に職業替えできていたそうです。実際、西洋人が日本に来て抱いた印象は、決して暗い社会どころか、皆が幸せそうにしていることに一様に驚いていたという事実があるくらいでした。

 では、ヘーゲルはその国家第一主義についてどう言っているのでしょうか?
「国家が市民社会と混同されて、国家の規定が所有および人格的自由の保全と保護にあるとされるならば、個人そのものの利害が諸個人を統合させられる究極目的となり、これによりまた、国家の成員であることは任意のことがらとなる。」(「法の哲学」より)

 これはまさに今の世界の国家観の常識に他なりません。だから、簡単に国を捨て移民になる人が後を絶たないのです。また、ヘーゲルは国家は民族国家であるべきだと言っていますが、欧米列強の植民地支配はまさにその民族国家をぶち壊すように他民族を移住させていがみ合わせるように仕向けたことは、国家のまともな発展を阻害する犯罪的な所業でした。では、ヘーゲルはまともな国家像をどのように描いていたでしょうか?

「しかし国家は個人に対して全く別の関係をもつ。国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ。諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである。個人のその他の特殊的満足、活動、ふるまい方は、この実体的なもの、普遍妥当するものをその出発点とするとともに成果とする。――理性的であることは、これを抽象的に見れば、一般に普遍性と個別性との浸透し合う統一のうちにあり、これを具体的に見れば、内容の点では、客観的自由すなわち普遍的実体的意志と、個人的知識としてのまた特殊的目的を求める個人意志としての主観的自由との統一のうちにあり、――したがって、形式の点では、思惟された、すなわち、普遍的な法的に永遠にして必然的な存在である。」(「法の哲学」より)

 ここには何が説かれているかと言いますと、国家は国民の下僕ではなく、むしろ普遍的真理の国家の理念の高みに、国民の側が、誇りをもって自らの主体的・主観的自由意志との統一を図るべく登ってくることを要求するものだということが書かれています。そして、その国家の理念について、ヘーゲルは次のように書いています。

「国家の理念は
(a)直接的現実性をもち、そして自己が自己に関係する有機的組織、すなわち国内体制(憲法)あるいは、国内法としての個別的国家である。
(b)国家の理念は、個々の国家の他の国家への関係に移行する――国際法
(c)国家の理念は類としての普遍的理念であり、また個別的国家に対する絶対的権力である。すなわち、世界史の過程においてみずからに現実性を与える精神である。」(「法の哲学」より)

 つまり、国家の理念は、全世界の絶対的本質としての普遍的理念として現在の世界情勢において現実性を与えるものとして設定し、それを憲法としなければならない、ということです。

 このヘーゲルの学問的国家論を読みますと、日本の左翼が呪文のように唱えている「憲法は国家権力が民を圧迫しないように縛るものだ」という愚論が、如何にまともな憲法論からかけ離れたものであるかがよく分かります。

 そのマルクス主義者が、このヘーゲルの「法の哲学」を評価しない大きな理由として、ヘーゲルが国家のあらまほしき形態として立憲君主制を説いているからです。その批判を見てみますと、

「君主の世襲制の正当化の問題、君主が結びつく家族は、実際は長子相続制という自然的規定を君主権と共有している土地貴族であることなど、ヘーゲルの国家論はマルクスをはじめとしてその問題点が指摘されてきている。」(ブログ「プロメテウス」より)

 しかし、この批判は頭から立憲君主制はだめと決めつけての批判であって、ヘーゲルの主張を真面目に読んでのものではありません。もっとも読んでも理解不能であることは火を見るより明らかですが・・・・。ではそのヘーゲルの主張を見てみましょう。

「絶対的概念から存在へという同じ転換がある。この転換は近代における概念の深みをなしたものであるが、しかし最近では理解し難いものといいふらされている――それでは、概念と定在との統一のみが真理なのであるのだから、真理の認識が断念されたことになる。悟性の意識は、この統一を自己のうちにもたず、真理の両契機の分離のもとにとどまっているが、それゆえにむしろ、この対象において概念と定在との統一への信仰を暗に認めているはずなのである。しかし、君主の表象は通常の意識にまったく親しいものとみなされるから、ここでは悟性はますますその分離にとどまり、またその分離に由来する自分の理屈っぽい才智の結論にとどまって、国家における最終決定という契機が即自的かつ対自的に(すなわち理性概念において)直接的な自然的性格と結合していることを否定する。ここからさしあたり、この結合の偶然性が導き出され、そして両契機の絶対的差異が理性的なものとして主張されることによって、さらにこの結合の非理性的性格が導き出される。したがって、この結論には、国家の理念を破壊する別の帰結が結びつくことになる。」

 これは現在の世界の国家の現状を見通していたような鋭い洞察です。ここにどういうことが書かれているかと云えば、君主は国家理念の実体化したものとして一体であれねば国家はその高みを維持できないが、国家理念は国家理念、君主は君主と形而上学的に切り離してしまうと、国家理念が破壊されて国家が堕落する、ということが述べられています。昨今の世界は天皇や国王が人間化して親しみやすくなった結果として、国家が堕落して民主主義によってそれがさらに一層促進されて国家が国民の下僕へと成り下がっている現実があります。

 戦前の日本人が、なぜ世界に尊敬されたのかは、まさにヘーゲルのいう君主制のもとに誇り高い国民であり続けたからに他なりません。

Pass

[2764] ヘーゲルの国家第一主義における家族とマルクス主義の家族との違い
愚按亭主 - 2018年01月29日 (月) 17時39分

 杉田水脈と河添恵子の歴史戦:女のインテリジェンスというインターネットのトーク番組で、リベラル派が推し進める男女同権、ジェンダーフリー、家族解体への疑問をテーマに、いろいろ展開されていましたが、確かに問題であるのは分かりますが、疑問を投げかけるだけでこの問題をどうとらえるべきかの指針を見いだせないでいるところに、もどかしさがありました。彼女らは、その背景にはコミンテルンならぬペキンテルンの国連・ユネスコをも利用した隠然たる力が働いている、と見ているようでした。

 そこで、その大本であるマルクス主義は、この問題をどう見ているのか、そして、マルクス主義が否定したヘーゲルの国家第一主義はどうとらえていたのかについて、マルクス主義者たちのサイト「プロメテウス」と、ヘーゲルの「法の哲学」を参照しながら論じてみたいと思います。

 まず、そのマルクス主義者たちはヘーゲルをどのように批判しているかを見てみましょう。

「だが、「近代的個別家族は、妻の公然または隠然の家内奴隷制のうえに築かれており、そして近代社会は、個別家族だけをその構成分子とする一つの集団なのである」とするエンゲルスなどからすれば(D)、ヘーゲルの婚姻の把握は男性中心主義的なものであるという批判がなされよう。」
「ヘーゲルの男女観自身が保守的なものである。彼によれば、男性は対自的に存在する人格的独立性と普遍性を知りかつ意志する存在であるが、女性は実体的なものを「具体的な個別性と感覚の形式において」知りかつ意志する存在である。したがってまた、男性は対外関係においてたくましく活動するものであるのに対して、女性は「受動的で主観的なもの」であり、妻として「家族の内に実体的規定をもち、この恭順の内にその人倫的心術をもつのである」。さらに、男性と女性の間の区別は「動物と植物のそれ」であるとすらされる(P.d.R.§318)。こうした男女観や婚姻観は保守的で男性中心主義的なものといわざるをえないであろう。」(サイト「プロメテウス」より)

 マルクス主義者はヘーゲルの「立憲君主制」や夫中心の家族観を保守的で時代遅れだと批判しますが、本当は時代遅れなのはマルクス主義者の方です。というのは、ヘーゲルの、当時最先端であった(じつは現在でさえもその輝きはいささかも衰えることのない人類の宝物である)、唯物論と観念論とを統合した絶対観念論にもとづく運動体の弁証法を、あろうことか壊して古いあれかこれかの形而上学的な唯物弁証法に後退させてしまったのは、マルクスの方だからです。ですからマルクス主義は人類の歴史を発展させるどころか、その発展を妨害し、解決できない矛盾のるつぼに人類を追いやっただけでなく、今もなお破壊工作を確信犯的に継続し続けているのです。

 この流れを断ち切るためには、ヘーゲルに立ち戻って、本物の学問を構築するしかありません。そこで、ヘーゲルの文章を改めて検証してみましょう。まずヘーゲルの家族の規定は以下の通りです。

「家族は精神の直接的実体性として、精神の感じとられた統一、すなわち愛を自己の規定としている。したがって、その志操は、精神の個体性の自己意識を即自的かつ対自的に存在する本質性としてのこの統一のうちにもつこと、それも、この自己意識を、それがその統一のうちで独立した人格としてではなく、成員として存在するようにもつことである。」(「法の哲学」より)

 このヘーゲルの文章を理解する上で大事なことは、唯物論と観念論とを統合した絶対観念論の観点から叙述されている点に留意することです。それはどういうことかと言いますと、その中には当然事実の論理も含まれていますが、絶対的本質だる絶対精神の運動として論述されている、ということです。ですから「精神の直接的実体性」とか「個体性」とか言う時の、精神とは絶対的本質としての絶対精神のことなのです。ですからそれが「直接的実体性」とか「個体性」という形で現れるという評価をえているということは、とても重要な位置づけとしてとらえられていることを意味します。

 というのは、人類の段階における絶対精神の運動は、国家の運動として現れるものですが、家族がその直接的実体性であるということは、国家の始まりは家族であり、家族は国家の最小の単位としてとらえられていることを意味します。だから家族のそれぞれは独立した人格ではなく、家族(全体)の成員なのだということが強調されています。また、その家族が愛という感情的な規定性を持つものであることは、しっかりと頭に入れておいていただきたいと思います。というのは、それは子供の教育の問題を考えるときに大事なポイントとなるからです。

 さて以上を踏まえて、マルクス主義者のヘーゲル批判をもう一度見てみましょう。まず、取り上げるべきは、ヘーゲルの家族観を保守的な男性中心の家内奴隷制だという批判です。そしてここから出てくるリベラル派の主張は、男女同権であり、女性も労働者となるべきであり、子供の教育は社会に任せるべきだという家族解体論です。

 この点に関してヘーゲルはどう言っているのでしょうか?
「婚姻、そして本質的に一夫一婦制は、共同体の人倫がもとづく絶対的原理の一つである。婚姻関係の創立は、それゆえ、神々や英雄による諸国家の創設における諸契機の一つに挙げられるものである。」
「法的人格として他の家族との対抗関係にある家族を、夫は家長として代表しなければならない。さらに夫には、とりわけ外から所得をうることと、家族のもろもろの欲求に配慮し、家族の資産を処分し管理することが属する。家族の資産は共同の所有物であり、このため家族のいかなる成員も特殊的所有物をもたないが、各人はこの共同の所有物に対してはそれぞれの権利をもっている。しかし、この権利と先の家族の家長の裁量に属する処分とが衝突することがありうるが、それは人倫的な志操が家族においてはまだ直接的なものであり、特殊化や偶然性にさらされているからである」
「この家や家系ではなく、家族そのものが、このような法をもつ理念であり、そして資産の自由や相続権の平等によって人倫的形態は保持されるのであり、同様に家族もこのような自由や平等によって保持されるのであって、その反対物によってではない。」(「法の哲学」より)

 このどこが家内奴隷制なのか、理解に苦しむほどヘーゲルの家族論は至極もっともな主張であり、普遍性を持つ論理であるように私には思えます。それを保守的な家父長制だと批判するマルクス主義者の誤謬は、現実に存在する家父長制において妻が隷属するケースがあるという事実を、ヘーゲルの文章の中にある夫を中心とする家族形態論とを、その論理の中身をよく吟味せずに短絡的に結び付けて非難している点にあります。

 そして、このマルクス主義者の特徴は、国家や家族を、国家そのもの・家族そのものとして全体を丸ごととらえようとせず、いきなりその中から個人を分離して、強引かつ不自然に対立を持ち込もうとする姿勢がありありです。こういう姿勢の大本は、統一させようとするヘーゲルを批判して、対立させることが大事だと主張したマルクスの姿勢にあることは明白です。

 結果として、唯物論を唱えながら、階級闘争史観という観念論的な決めつけにすぎない歪んだ眼鏡で物事を見て、真実の姿を見えなくしてしまっているという、皮肉な無様さをさらけ出すことになってしまうのです。これを見ると、ヘーゲルが、わざわざ「それがその統一のうちで独立した人格としてではなく、成員として存在するようにもつことである。」と、個人を国家や家族から引き剥がし、分離させることの愚を強調したことの重要性が良く分かります。

 つまりそれは、家族の破壊、国家の破壊につながるということです。問題は、マルクス主義者は意図的にそれを目指している確信犯である、という点にあります。この家族の解体は、個人の人格のまともな発展をも歪ませてしまう、という大問題をもたらすものですのでそれについて最後に検討しておきたいと思います。日本のリベラル派は、子供の教育は社会に任せるべきだとして、親から子供を引き剥がし、母親を労働させようとしているようです。ところが、ヘーゲルが子供の教育について述べていることを、マルクス主義者は次のようにまとめていますが、それを見れば、リベラル派の主張が如何に誤りであるかが良く分かります。

「子供の教育には「二つの使命」があるとされる。第一のものは家族関係からみて「積極的な使命」であり、人倫的なものが子供の内で「直接的でまだ対立を欠いた感情」へと形成され、子供がそれを「人倫的生活の根拠」としてその最初の生活を「愛と信頼と従順の内に」送ることができるようにすることである。第二のものは家族関係からみて「否定的な使命」であり、子供を自立した自由な人格性へと高め、こうして子供に「家族の自然的な統一から出て行く能力」を獲得させることである(P.d.R.§175.S.327f)。こうして人は子供のときには両親のもとで愛と信頼の内で暮らさなければならないが、その際とくに「母親の教育」が重要であるとされる。「というのも、人倫的なものは感情として子供の内に植えつけられなければならないからである」(サイト「プロメテウス」より)

 このまとめは至極まともなまとめです。このヘーゲルの主張を真面目に捉え返したならば、自分たちが推進していることを反省しなければならないはずですが、はなからヘーゲルを観念論の批判の対象としてしか見ないから、それを受け止めるのは無理な話なのでしょう。

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[2765] 憲法は権力者を縛るためのもの論は何故愚か?−ヘーゲルの国家論の構造
愚按亭主 - 2018年01月31日 (水) 14時46分

 先に私は、リベラル派の「憲法は権力者を縛るためのもの」論を愚論と批判しましたが、これに対して、これは本当にあった歴史的事実にもとづくものであって、それを愚論だとするそちらこそ歴史的事実も知らない駄論ではないか!との強烈な反発が寄せられそうです。


 いかにもそういう事実は、重々承知しております。ですから、唯物論者のリベラル諸氏が、事実なのだからと、即自的悟性の事実の論理を振り回したくなる気持ちも、分からないわけではありません。しかし、それは真理とは到底言えるものではなく、むき出しの素材レベルの論理のうちの一つに過ぎません。たとえば、お隣の中国の憲法は、権力を縛るものですか?先日の中国共産党の党大会では、憲法に習近平思想が記載されて、習近平思想に忠実であれという内容の新しい憲法が決められたそうではありませんか?これはむしろ、権力者よりも国民を縛る内容ではありませんか?事実!事実!というのなら、、この事実と、先の事実の論理と、どう整合性をつけるのですか?このダブルスタンダードを、リベラル派はどう説明するのでしょうか?

 ところで、百歩譲って、その論理にしたがって見るとするならば、現在の日本の憲法は、何のために権力者を縛っているのでしょうか?国民のためなのでしょうか?戦争をしないように縛っているのだから、国民のためになっているではないか!とリベラル派は主張することでしょう。しかし、それは本当に国民のためになるのでしょうか?その実態は、日本が、いつまでも国家として自立できないように縛りつけて、それによって国民が堕落するようにしているのであって、決して本来の日本国民のためになるものではありません。このように彼らの主張は全くスジが通っておりません。この通り彼らの論理に立ってみても矛盾だらけなのです。

 そもそも、その「憲法は権力者を縛るもの」という論理は、国家を私物化する君主のいる下等な国家においてのみ、それなりの有効性を発揮する程度のものであって、上等な日本においては、そのような憲法がなくとも、当たり前のように君主の迷妄は家臣によって正されていたので、憲法にそのような側面を持たせる必要性はさらさらないのです。

 つまりそれは、憲法の本義ではない、ということです。では、そもそも憲法とは何でしょうか?憲法とは、国家理念の実体化したものであり、国家の心棒となるものです。前にも紹介しましたが、その国家理念についてヘーゲルは次のように述べております。


「国家の理念は
(a)直接的現実性をもち、そして自己が自己に関係する有機的組織、すなわち国内体制(憲法)あるいは、国内法としての個別的国家である。
(b)国家の理念は、個々の国家の他の国家への関係に移行する――国際法
(c)国家の理念は類としての普遍的理念であり、また個別的国家に対する絶対的権力である。すなわち、世界史の過程においてみずからに現実性を与える精神である。」(「法の哲学」より)

 つまり、国家の理念は、全世界の絶対的本質としての普遍的理念として現在の世界情勢において現実性を与えるものとして設定し、それを憲法としなければならない、と言っているのです。したがって、憲法は縛るものなどではなく、権力者のみならず等しく国民全体が魂としなければならないものなのです。さすれば、自己保身に走る役人などいなくなり、日本はその本来の実力を縦横に発揮できるようになって、世界をリードしていくようになることでしょう。

 では具体的に、日本の国家理念としての憲法を、どのように創り上げたらよいのでしょうか?まず、「国家の理念は類としての普遍的理念であり、また個別的国家に対する絶対的権力である。すなわち、世界史の過程においてみずからに現実性を与える精神である。」ということでありますから、これを日本の立場から捉え返して措定するならば、たとえば、次のようになるかと思います。

「今の時代の物質の発展の本流すなわち代表として、その発展がより良いものにしていく歴史的使命を負っているとの自覚のもとに、とりわけ我が国は、世界史の過程において、国家としての普遍性を見事に体現できた唯一の国家であったという歴史性・伝統性を受け継ぐべく、国家の理念と真の主体性とを取り戻して、自らの発展と世界の発展とを両立しうる世界創造ができる国家になっていかなければならない。」

 というようにです。ですから。憲法は、権力者を縛るものではなく、権力者が国家運営をする場合の基本的な方向性を示す指針となるべきものですから、縛るという表現は制限するという意味あいが強く、権力者の自由な意志の発現を壊してしまうイメージが浮かんでしまいますので、適当ではないと言えます。

 ヘーゲルの国家の概念の構造は、唯物論と観念論との統合としての絶対観念論と同様の構造をもっていて、即自的悟性の国民と、対自的理性の法およびその執行機関としての国家機関と、それらの統合としての即自対自的理性としての国家理念・国そのもの・その実体化としての君主(日本でいえば天皇)となります。ですから、構造としての国民や法及び国家機関は時代とともに変化していっても、国家理念。国そのもの・その実体化としての君主は、変化しない不変性・普遍性をもたねばなりません。もっとも、この不変性・普遍性は、同時に時代とともに体系的に発展していく概念性をも兼ね備えていなければなりません。だから、絶対観念論と同じ構造なのです。


 

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[2778] マルクスの共産主義の根本的な誤りとは何か
愚按亭主 - 2018年02月26日 (月) 22時57分

 「日本よ、今・・闘論・倒論・討論2018 サヨクの本質ー共産主義は本当に死んだか?」というユーチューブの番組をみて、現在の世界における左翼・共産主義の実態が良く分かりました。結論から言いますと、ソ連が崩壊し、大学からマルクス主義経済学が姿を消したものの、依然としてマルクスの人気は根強いものがあって、政治勢力としても衰退するどころかむしろ巧妙に姿を変えて意図的な攻勢をかけて隠然と勢力を伸ばしてきているようです。

 ところが、共産主義を批判する人たちの中に、スターリンや毛沢東の何千万もの自国民の虐殺という非道をもって、駄目だと非難はできても、あるいは彼らが実現した社会主義の試みが、まじめに働かない労働者を作って社会を発展させられないという事実をもって、駄目だということはできても、なぜ駄目なのか?ではどうしたら良いのか?そもそもマルクスのどこが誤っているのかを指摘できるものがいない、というのが偽らざる現状です。

 このような実情を知ると、これまで漠然とマルクスを批判してきましたが、彼らのバックボーンとなっているマルクスの根本的な誤りを、人類を正しく導く本物の学問であったヘーゲルの哲学を破壊することによって、人類を救いのない不毛の対立へと迷い込ませてしまった結果として、多くの犠牲者を出すことになった大本を作った、という大罪を知らしめることの重要性をあらためて痛感いたしました。

 私は、これまで、この談論サロン天寿道の中で、マルクスの誤りを縷々説いてまいりましたので、詳しくはそちらを参照していただくとして、マルクスの共産主義が何故うまくいかないのか、に焦点を絞って説いていきたいと思います。

 マルクスの誤りの第一は、ヘーゲルの絶対観念論を否定して、唯物論でやろうとしたことです。これはどういうことかと云いますと、ヘーゲルの絶対観念論を否定するということは、即自対自の人間の偉大な精神性を否定するということだからです。結果として、唯物論でやろうとすることは、動物的な即自でやろうとすることに外ならず、発展性がなく働いても働かなくても同じ給料なら働くのがばかばかしいとなってしまうのです。だから、同じ即自でも発展性のある資本主義的即自は、より多くを得たいと頑張ることになって、共産主義的即自を圧倒することになるのです。

 次にマルクスの犯した第二の誤りは、ヘーゲルの運動体の有機的統一の弁証法を否定して、事実レベルのあれかこれかの対立しかない形而上学的弁証法にしてしまったことです。これによって有機的統一体の国家そのものが見えなくなってしまい、国家も階級対立という側面からしか見えなくなって、敵としての国家権力、味方としての労働者階級・市民という構図が絶対化して、「日本を愛す」と言うとスワッ敵だ!ということになってしまうのです。これが、権力を奪取したときはどうなるかと云いますと、反対派は敵として徹底的に弾圧・抹殺するということになるわけです。ですから、スターリンや毛沢東の異常な粛清の大本は、他ならぬマルクス自身にあったわけです。

 マルクスの第三の誤りは、ヘーゲルの弁証法の統体止揚を批判して、ヘーゲルの説く、即自的悟性と対自的理性とを統体止揚して即自対自の自由な意志をもつこと、という人間解放論を否定したことです。ではマルクスの説く人間解放論は、どういうものであったかと云いますと、抑圧されている労働者が即自のまま抑圧を跳ね返して自由になることが人間解放だ、というわけです。ところがその実態はどうなったかと云いますと、資本主義に追いつき追い越せという威勢の良い掛け声が虚しく響くほど、社会主義経済の実態は無残なものだったことは、ソ連・中共・北鮮の歴史が証明している通りです。つまり、これが、マルクスの言う人間解放の中身だということです。

 ところが、目下のところ、この番組に出ているような日本を代表するような優秀な人たちでさえも、これに対して資本主義や民主主義を対置するしかできないのが現状です。これでは、同じ土俵の上でこれまでと同じようにしか戦えないので、有効な反撃手段とはなり得ません。本当に必要なのは、彼らの足元を崩すような理論闘争ができる中身を創ることです。

 じつは、われわれはそれに対する答えをすでに持っています。それも歴史的に実証された確実で有効な答えです。それについては、多くの日本人が気づき始めているのですが、必要なことは、そのことの学問的な意義について理解し、それを活かすことです。その為に必須なのが、ヘーゲルの復権なのです。

 それは、マルクスが見誤ったヘーゲルの学問を、われわれ日本人が歴史的に実践・実証してきたという事実です。あとは、それをわれわれ日本人が、ヘーゲルの復権を通して、その意義を自覚して、そのヘーゲルの学問を目的意識的により見事な形で応用して、本流としての日本を再生・再興することです。

 歴史的にわれわれ日本人は、常に貧乏でも誇り高く、わが身を犠牲にしても、国の発展のため、社会の発展のため、家族のために一生懸命働くという即自対自の認識が培われてきました。だから日本は社会主義国以上に社会主義的だと云われるのです。しかし、敗戦後70年間も属国状態のままで、様々な解体工作を受け続ける中で、さすがの日本も、その日本らしさがだいぶ崩されてきています。その上、さまざまな誤った考えが吹き込まれて、何が正しいのか混とんとした状態になっています。

 だからこそ、ヘーゲルを復権し、ヘーゲルの学問をもってそれらの雑音を一掃して、ヘーゲルの絶対観念論・弁証法・国家第一主義をもって、新しい日本の国創りをしていかないと、このままでは日本は、滅亡の危機に瀕していると云っても過言ではない状況にある、ことを認識する必要があると思います。

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[2779] アジアに癌(共産主義)を広めてしまった日本の為すべきこと
愚按亭主 - 2018年03月06日 (火) 09時14分

 江崎道朗氏によると、アジアにマルクスの共産主義を広めた元凶は日本だそうです。日清戦争で日本に敗れた清国の危機感をもった青年が大勢日本に留学して、その当時の日本のアカデミズムにマルクス主義・共産主義が大流行していて、それに多くの清国の留学生が感染してその中に共産党を作った陳独秀などが含まれていたそうです。

 彼らは、日本の幕末の志士のように、現実の問題として国を変えたいそのための旗印として共産主義を学んだので、非常に実践的ですぐにソ連のコミンテルンと結びついて共産党を創り、朝鮮人にも共産党を作らせ、そしてその下に日本人による共産党を組織化したそうです。つまり、日本共産党はその始まりから中国共産党に従属していたわけです。しかし、日本の共産主義者たちはアカデミックな人間が多く実践的には使いものにならなかったようで、別個にスパイ養成機関を作ってそこで日本人スパイを養成して、日本の政界など各界に送り込んでいたようです。その他に東南アジアの各地にも同様の赤化の戦略的な取り組みをしていたようです。

 このようにアジアにおいて、マルクス主義・共産主義を実際に蔓延させた張本人は中国共産党に違いはないのですが、そもそもその中国共産党をつくるキッカケを作ったのは日本だということです。そして、今、その日本が作ったといえる中国共産党・ペキンテルンのがん細胞が、日本の中に巣食って金の卵の日本を我が物にしようとしているようです。

 レーニン主義・毛沢東主義となったマルクス主義の戦略は、敵同士を戦わせて弱ったところを狙って内戦を起こし共産主義化していくというものだそうです。だから、日本軍と国民党軍とを戦わせ、アメリカと日本を戦わせるように画策したわけです。ですから、日本の敗戦はまさに狙い通り赤化の絶好のチャンスであったわけです。だから、朝鮮戦争が起き、日本の国内にも日本共産党と朝鮮共産党に暴力革命の指令が出て、日本国内はまさに危機一髪であったわけです。日本の国内は、米軍の日系人部隊の諜報活動によって事前のこの動きが察知され、レッドパージによって未然に防がれて日本の共産主義化は何とか免れたようです。

 こういうことがあったために、米国は、この共産主義勢力の攻勢に心底脅威を感じ、それに対抗するために日本に対する政策を転換して、一緒に戦おうと持ち掛けることになるのですが、日本はその後の60年安保や沖縄返還時を含めて、三度米国から一緒に戦おうと誘われたようですが、中国共産党の意を汲んだ勢力の憲法を守れキャンペーンによって、それに応えることができなかったようです。

 その結果、アメリカは、やむなくまずはソ連を標的として、中国共産党と組むという戦術に切り替えて中国共産党に話を持ち掛け、提示された日本の封じ込めに協力するなら、という中国共産党の条件をのんで組むことになったそうです。この日本の封じ込めとは、一緒に日本から搾り取ろうということだそうです。実際にそれ以後、米国の日本に対する経済的な締め付けが強くなり、日本はどんどん経済的に落ち込んでいくことになります。また、中国からは日中友好と称してODAなどどんどん金が搾り取られていったのです。また、中国は核の技術も米国から貰い、それを北朝鮮に横流しして、現在の北朝鮮の核技術の驚異的な向上が図られていくことになったわけです。

 一方で、日本は米中によって封じ込められて、経済的に疲弊し、防衛力も、相変わらずの中国共産党の画策による平和ボケ病に侵され、防衛予算をつける実力もなくなってきて、中国と北朝鮮の核ミサイルが日本目がけて配備されている状況であるにもかかわらず、全くお寒い状況のままでいるのです。これはまさに風前の灯火と云っても過言でない状態です。そして、今やお隣の韓国も北朝鮮に取り込まれようとしています。

 とはいえ、中国共産党は、折角の金の卵を産む日本を核ミサイルで壊してしまうような愚策に出る可能性は低く、ジワジワと日本を侵食して取り込んでいこうとしているようです。もし三度もあった米国からの誘いにのることができていたならば、日本の独立への道が大きく開けていた可能性は非常に高かったと思いますが、それを断った結果としての現在の危機的状況にあっても、日本はいまだに憲法改正すらできておらず、2条を削除なんてとんでもないという状態のままなのです。

 唯一の救いは、最近、有志のインターネットを使った働きかけが活発になって、日本の若者の意識の目覚めが多くみられるようになってきたことです。それは、真実の姿を知れば当然のことと言えます。そういう中で、特に大事なことは、その真実の真の意味を真理として把握することです。それができるのが学問に他なりません。とくに重要なことは、ヘーゲルの復権によって、ヘーゲルの学問によってのみ、それがはたされることを理解することです。

 というのは、そのヘーゲルの説く学問の構造が以下の通りだからなのです。
即自的悟性:事実の論理・部分の論理=個別科学(唯物論)
対自的理性:全体の論理・本質的論理の論理=哲学(観念論)
即自対自的理性:全体的論理と部分的論理の統一、事実の論理と本質の論理との統一としての体系的理論=学問(唯物論と観念論の統一としての絶対観念論)
 したがって、事実の論理としての科学はそれがいくら正しくとも真理としてはまだ半人前であり、科学だけでは学問とは言えないということです。

 では早速、そのヘーゲルの学問から、日本のすばらしさ・日本の歩むべき道について、その学問的な意味を説いていくことにしましょう。ヘーゲルは、カントがギリシャ哲学以来の観念論的な哲学の歩みを総括して創り上げた「二律背反」のあれかこれかの運動性のない形而上学的な弁証法を、壊してあれもこれもの矛盾が実際に動き出す生きた論理に創り変えて、共存共栄的に発展していく和の弁証法を完成させました。ところが、その弟子のマルクスは、科学の勃興と唯物論の大流行の波に乗って、唯物論こそが本当の学問の立場だという強烈な思い込みから、つまり、ヘーゲルの学問の価値が見えなくなる偏光眼鏡をかけたままヘーゲルの学問を見て、ヘーゲルの本物の人類の救いとなる<和の弁証法>を壊して、再びあれかこれかの硬直した死んだ絶対的対立の弁証法へと崩してしまいました。これは単なる反動では済まされない災厄をもたらすことになりました。というのは、同じあれかこれかの弁証法でも、カントの場合は観念論でしたから、その対立は頭の中だけで済んだのですが、マルクスの場合は、唯物論でしたから、その対立が現実の世界に持ち込まれて、世界を対立と混乱の渦に巻き込むことになって、多くの犠牲者を出すことになってしまったのです。

 なぜそんなに大惨事となってしまったかと云いますと、マルクスのその非学問的な弁証法は、師匠のヘーゲルの本物の学問の虎の衣を借りてのモノでしたから、見た目は世界を魅了するに十分な輝きを放っていました。結果として、マルクス主義は世界中の若者の心をとらえて、空前の大流行をすることになります。そのアジアにおける中心が、日本だったわけです。

 もともと日本は、ヘーゲル的に生まれヘーゲル的に発展してきた国ですが、自然成長性で対自的理性を自覚しての目的意識性ではなかったので、ヘーゲル的なマルクス主義の外見に惑わされて容易にその詐欺に引っかかってしまったのです。このように、ヘーゲル的なものが、本家においても、また分家と言えるこの日本においても、マルクスおよびマルク主主義によって破壊され、現在もなおそれが壊され続けている現実があります。だからこそ、この手強いマルクスの亡霊を駆逐して、以前のようなヘーゲル的な即自対自の国家第一主義の国家・文化を再構築する必要があります。そして、そのためには、マルクスが壊したヘーゲルの学問の復権と、そのヘーゲルの学問によって、マルクスおよびマルクス主義の迷妄を徹底的に破壊・駆逐して、人類を目覚めさせ、人類の歩みを正常な発展の軌道に戻すことが重要です。

 そのヘーゲルの学問について、もう少し見ておきましょう。ヘーゲルが創ってよく使う言葉に「即自、対自(向自)、即自且対自」があります。
 <即自>とは、ありのままの自分、難しい言葉で言えば直接態としての自分、即自分・主観的な自分ということです。これに対して
 <対自>とは、その即自の自分から離れて云ってみれば天上に上って大きな観点から自分を見る自分、つまり、自分を客観的に見るということです。これは媒介態としての自分ということです。
 <即自且対自>とは、その両者を統合し、統体止揚した自分として完成した自分、否定の否定の過程を経て真実の自分、絶対的真理性を獲得した自分ということです。

 これを大雑把な国民性として見てみますと、お隣の二つの国の国民性は、自分たち自身が組織化したまともな国家を作った経験がないために、対自が育つことができずに即自のみになってしまった結果として、国と国との約束を平気で破ったり学問・科学といった対自を真面目に創ったことがないために、でたらめ・嘘をついても何らも後ろめたさを感じないという国民性です。

 これに対して、西洋の国は法体系や学問・科学といった対自を作った経験があるために、対自がしっかりと存在しますが、あれかこれかという形で分離したまま、表向きは対自でいるのですが、その認識は自己中心の即自のままでいる国民性です。

 では日本はどうかと云いますと、はじめから共存共栄で発展してきたので、当たり前のように個人個人の認識が即自且対自になっています。(それでもだいぶ崩れてきつつありますが)バンクーバーオリンピックで日本選手団が主催国のカナダの国旗と日本の国旗の二つの国旗をもって入場行進をして、外国人に理解できないと呆れられていたというエピソードを、有本香女史が動画で紹介していましたが、彼女はこれを即自且対自の日本人の認識の美徳として説明しようとはせずに、外国人の視点に合わせて否定的に見ているようでした。

 この問題は大変重要な問題を提起するものですので、少し考えてみましょう。有本女史が感じた日本人の軽いノリをそれは違うだろうと感じた感覚には一理あります。しかし、日本人のそういう感覚にも一理あるのです。ではこの矛盾をどう解決したらよいのでしょうか?これを論理的に整理してみますと、日本選手団のあれもこれもは即自レベルのあれもこれもだったので、有本女史は軽く感じてちょっとそれは違うだろうとなったのですが、それはどういうことかと云いますと、オリンピックなどの国同士の関係は、即自レベルではなく対自的理性レベルにおいて行われなければならないのですが、近年の日本は、かつてあったその対自的理性レベルで、日本国民を創るということが行われなくなってしまったことが挙げられます。ですからそういう区別ができなくなってしまっている現実があります。その象徴が天皇の人間化です。天皇が国民のレベルに降りてきてしまっているために、国民が天皇のレベルに昇って行こうという努力・区別がなくなってしまっているということなのです。だから、日本の選手はオリンピックになると勝てなくなる、他の国の実力の落ちる選手に金メダルをさらわれてしまうという現実が多くい受けられたのです。

 しかし、それでも、日本にはまだ即自対自の認識が、即自レベルながらも、個人の認識として、社会の認識として残っているから、自国と他国の国旗を二つ持って行進するという、日本の常識は世界の非常識という一風変わった国民として現象することになるのです。このように、日本はよく日本の常識は世界の非常識と良く揶揄されますが、じつはその非常識とされる日本の常識の方が、むしろ本質的という意味での普遍性だ、ということが云えるのです。この日本と他の外国との違いを、典型的且つ意味深長的に示すものが、言語です。

 言語の構造は、その言語を創った時のその民族の精神構造を如実に示すものです。弱肉強食で負けたものは皆殺しの運命になるような社会状況にあった他の外国語文法構造は、まず敵か味方かを判別するために先に結論を表明する文法になっており、共存共栄でそうした心配のなかった日本語の構造は、相手に早く内容を伝えたいというおもてなしの文法構造になっています。

 その結果、外国の言語は自己中心的な硬直した運動性のない構造になっているのに対して、日本語は、一音一意の手にお歯を配置した変幻自在のあれもこれもの運動性。発展性あふれる弁証法的な言語ですので、平和な社会と合わせて、それを駆使する日本人の認識が豊かに賢く発展していったのです。

 だから、日本の国家・社会は、縄文時代のはじめからヘーゲル的な即自且対自の国家第一主義的な発展を遂げてきたのです。その結実が、隋に対して独立自尊の意気を示した聖徳太子(蘇我馬子)が創った17条憲法でした。また、その聖徳太子(蘇我馬子)の志を受け継いで、壬申の乱で藤原氏の言いなりになって日本の唐化を目指す天智系を破って、独立自尊路線を堅持して、その基礎を固めた天武天皇の指示のもと編纂された、「古事記」の前文の哲学の見事さなのです。

 その前文の、天地の始元・地球の誕生・人類の使命、とりわけ人類の新たな世界創造を説いた人類の使命は、人類が学問をもって世界創造して世界の発展を先導することを説いたヘーゲルの人類の使命論とうり二つなのには、本当に驚かされます。そして、そういう日本が江戸期に創り上げた国家こそが、まさにヘーゲルの即自対自の国家第一主義の完成形と言えるほどの内実をもった国家だったことは、それに優るとも劣らない驚きであり、自分がその日本人の一員であることに限りない喜びと誇りを禁じ得ません。

 最後にヘーゲルは、国家論を論じた「法の哲学」の中で、家族について次のように述べています。
「家族は精神の直接的実体性として、精神の感じとられた統一、すなわち愛を自己の規定としている。したがって、その志操は、精神の個体性の自己意識を即自的かつ対自的に存在する本質性としてのこの統一のうちにもつこと、それも、この自己意識を、それがその統一のうちで独立した人格としてではなく、成員として存在するようにもつことである。」(「法の哲学」より)

 このヘーゲルの文章を理解する上で大事なことは、唯物論と観念論とを統合した絶対観念論の観点から叙述されている点に留意することです。そして、人類の段階における絶対精神の運動は、国家の運動として現れるものですが、家族がその直接的実体性であるということは、国家の始まりは家族であり、家族は国家の最小の単位としてとらえられていることを意味します。だから家族のそれぞれは、独立した人格ではなく、家族(全体)の成員なのだ、というこのヘーゲルの言葉は、国家と国民についても云えることなのです。つまり、人権を、国家と切り離して抽象的な概念として、無条件的に振り回して国家を攻撃しようとするマルクス主義者たちの言動は、その大本のマルクスの学問的な誤りをそのまま引きずった誤謬に他ならないので、早急に正しい学問的な国家論を創り上げてその誤りを正していかなければならないと思います。

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