[2729] 今年一年の歩みを振り返ってーヘーゲルの復権の重要な意義とは |
- 愚按亭主 - 2017年12月30日 (土) 10時34分
今年は良い意味でも悪い意味でも、私にとって激動の年でありました。これは反省ではありませんので、あえて良かった点だけを上げますと、何といっても念願の本を、電子本という形ではありますが、曲がりなりにも上梓できたことは、何よりの喜びでした。そして、もう一点あげるべきは、「ヘーゲルの復権」が人類にとっても何よりの大事であるという認識に到達することができ、かつ、それを明確な形で世に問う問題提起することができたことです。これはとても大事なことですので、年の終わりにここで改めて取り上げて整理してみたいと思います。
マルクス主義や南郷学派のおかげでヘーゲルはすでに過去の人として扱われてしまっている現実があります。このことは、ヘーゲルの研究者たちとて例外ではなさそうです。都立の中央図書館でヘーゲルの研究者たちの本をパラパラめくってみても、ヘーゲルの復権の意義を説いたものは見当たりません。
つまり、ヘーゲルをヘーゲルのレベルで説いたものは皆無で、みな自分のレベルで、ヘーゲルの体系の中の自分が説きたいと思った部分を自分流の解釈で説いているものばかりです。だから、今ヘーゲルの復権が、人類のまともな発展にとって何よりも大事であるという一番肝心な認識がないのです。
1、ヘーゲルは本当に体系を完成できなかったのか? ヘーゲルの研究者たちの間では、ヘーゲルは学問体系を完成できていないのではないかという見方が力を得てきているようです。これについては、南郷先生も同様にヘーゲルの哲学には体系がないと決めつけています。しかし、それは本当でしょうか?私には、ヘーゲルの概念の弁証法の論理が理解できないために、ヘーゲルの体系が見えないだけの話だということが、よく見えます。
まず、ヘーゲルの研究者たちの言い分を聞いてみると、ヘーゲルの著作にはヘーゲル自身が直接に書き下ろしたものが少なく、講義を書き残したものが多いことが、その有力な理由として挙げられているようです。しかし、これは体系があるか否かを判定するにふさわしい理由とは言えません。何故なら、体系的な論理像があるか否かは、ヘーゲルの頭の中の「精神の王国」の中身を吟味して初めて判定できることだからです。それが本という形で客観化されているか否かは、二義的な問題にすぎません。しかも、ヘーゲルはそれを全く客観化していないわけでもなく、著作で充分に体系が存在するか否かは判定できるものですし、ヘーゲルはしっかりと判定できるだけのものを残してくれています。
次に、南郷先生が「ヘーゲルには体系が存在しない」と断じた問題ですが、これも、南郷先生が考える学問の形而上学的な学問体系の像と、ヘーゲルの弁証法的な学問体系の像とが、あまりにもかけ離れていたために、南郷先生には全く理解できず、結果として「ヘーゲルの哲学には体系がない」と思ってしまった、ということなのです。
具体的にどこがどう違うかと言いますと、南郷先生の学問体系は形而上学ですから論理と事実とが、論理は論理、事実は事実としてはっきりと分けられていて、学問体系は論理の体系として、現象論・構造論・本質論という形に形式が定められていて、運動性・発展性がなく固定化されています。
これに対して、ヘーゲルの体系は、論理と事実とが現実的に統一されたものが概念であり、その概念が、即ち実体の発展に照応・一体化する形で無限に発展していく体系そのものなのです。そして、それは次のような構造を持っています。すなわち、有論つまり事実の論理と、本質論つまり論理の論理とが、特殊性すなわち構造論を媒介として相互浸透的に統一されたものが概念論、つまり絶対理念へ向かって自己運動する概念の運動・発展を論ずるものです。
したがって、ヘーゲルにあっては実体の発展に相応して概念すなわち体系も発展していくのであり、そしてその両署はまた、別々のものではなく、同一性であり、否定の否定の過程をたどって、その両者の各々は他のものを創造するとともに自らを創造し、自らを他のものとしても創造していく、という形でその同一性を目的意識的に実現するのが、すなわち本流としての人類なのです。ヘーゲルは明確に初めに完成された体系ありきではないことを断っています。つまり、今の段階で説けるものを説くということです。ヘーゲルの体系を未完とする者は、このヘーゲルの言葉の意味が分かっていないのです。なぜなら、ヘーゲルは体系としての概念が無限に発展していく過程・論理・設計図を見事に描き切っているからです。
人類の学問史において、この視点はヘーゲルにおいて初めて完成的に到達・実現されたものです。ところが、それは一瞬の輝きを放ったものの、弟子のマルクスが、折角のこの人類の宝物を、その価値も分からずに直ちに破壊して、衣だけ拝借してその中身を、実体と認識とを別のものとして絶対的に切り離す唯物論的弁証法もどきの形而上学に変質させてしまいました。このことは、マルクス自身は前進であるかのように謳っていますが、実際は学的にも時代的にも後戻りでしかなく、つまりヘーゲルの学問体系を矮小化するものでしかありませんでした。その証拠に、それから百年以上も経つのに未だに学問の体系的発展は全く見られなくなり勝手気ままなバラバラな発展しかない現実があるからです。その中で南郷先生がやっと、唯物論的な弁証法もどきの形而上学を用いて静止的な定有である個別科学の体系化をなんとかはたしたのがやっとという状態です。
その南郷先生は、ヘーゲルの遺志を継いで学問を完成させると豪語しながら、マルクスのこの決定的誤りを反省もせず、誤りを誤りと自覚できないまま、学の体系化をはたそうとして、結果的に形而上学的な学問体系の設計図しか創り上げることができませんでした。これでは、学問全体の体系化は到底不可能です。これはなるべくしてなった必然的な結果なのですが、南郷先生ご自身は、これを「新世紀」の画期的な学問の完成への序曲だと思い込んでいるようです。
その必然性の根拠は、南郷先生がなぜか固執する唯物論にあります。唯物論と観念論のうちのどちらかに偏執的に固執することは、本人の意思にかかわらず形而上学にならざるを得ない必然性があるということです。そのことを南郷先生が見事に証明してくれました。だから、ヘーゲルやディーツゲンは、唯物論から離れて自由にならなければ学問の体系は完成できないと警告しているのです。南郷先生はディーツゲンから学ぶとしながら、ディーツゲンのこの言葉をわざわざ引用しながら、肝心のここの部分は黙殺して、どうでもよい他の部分を使って他人を批判するという愚行をされているのです。これには本当に驚きました。これでは、南郷先生の<学び>とは、要するに自分の都合の良い処だけもらって都合の悪い処はもらわないというのが、<学び>ということになってしまいます。
じつは、私がディーツゲンがそういうことを言っているということを、南郷先生が引用してくれたディーツゲンの文章によって初めて知ったのです。ですから一読してすぐにピンときました。南郷先生がこの文章を引用するということはおそらく何度も読み返しているはずです。にもかかわらず、南郷先生にはピンとこなかったようです。それが何とも不思議でなりません。学問の体系化を志しているならば、この言葉は、たとえ自分の立場と相いれなくとも、素通りできないはずです。ですから一旦は吟味したのかも知れません。その結果自分の方が正しいと結論付けて確信的に無視するようになったのかも知れません。
ではなぜ唯物論に固執すると形而上学になってしまうのか?じつは、その構造を、ヘーゲルは「有論」の中で見事に説いてくれています。すなわち、有の運動体である成がどのように定有になるのかの論理を、ヘーゲルはどのように規定しているのかについて、見ていくことにしましょう。
「成がこのように有と無との統一への推移となるとき、しかもこの統一が存在するものという形をとった統一であり、云いかえると統一が二契機の一面的な直接的統一という形態をもつようになるとき、その成は即ち定有なのである。」(「大論理学」第一巻の上、有論)
これはどういうことかと言いますと、全体性の運動を止めて、有と無との「二契機の一面的な直接的統一という形態」をとって実在化したものが定有だということです。したがって、事実すなわち実在化した定有を起点とする唯物論は、必然的に静止的になり、一面的になるので、その弁証法は形而上学へと後退していしまう宿命を持つことになるのです。そのことを見事に証明してくれたのがほかならぬ南郷先生です。つづけてヘーゲルの説明を見ていきましょう。
「両者の相互の区別という点から見れば、有は有であり、無は無である。しかしその真理から、即ちその統一から見れば、そこではこのような規定をもつものとしての有と無とは消失し、両者はもうちがったものになっている。即ちそこでは有と無とは同じものである。そこで、両者が同一のものであるが故に、両者はもはや有と無ではなくて、別の規定をもっている。成の中では両者は生起と消滅であったが、別種の統一としての定有の中では再びまた別種の契機となる。そこで、この統一が今後は両者の基準となるのであって、両者がこの基礎から逸脱して有と無という抽象的意味に舞い戻るということはないのである。」(「大論理学」第一巻の上、有論)
唯物論の起点は、このこの「一面的な直接的統一という形態」の定有です。そして、その別種の規定・契機が、実在性と否定性となります。それについてのヘーゲルの説明を見てみましょう。
「哲学上の意味では例えば経験的な実在性と云えば、価値を持たない定有を意味する。・・・中略・・いわゆる単なる理念、単なる概念に対しては、実在的なものが唯一の真なるものと考えられる。けれども内容の真理の決定を一方的に外的存在にのみ帰するような考えは、理念、本質、或いは内的な感情を外的な定有に無関係なもの考えて、それが実在性から遠ざかっておればおるだけ、すぐれたものと考える場合と同様に一面的である。」(「大論理学」第一巻の上、有論)
ここのところはとても重要です。ここに何が説かれているかといいますと、端的に言えば、唯物論も観念論もそれだけでは一面的で真理としては不備になるということが説かれているのです。ちなみに老婆心ながら最後の「理念、本質、或いは内的な感情を外的な定有に無関係なもの考えて、それが実在性から遠ざかっておればおるだけ、すぐれたものと考える場合」というのは具体的に歯プラトンのイデアや、カントの純粋理性のことを言っているのです。
唯物論的形而上学の一面的な有論とちがって、ヘーゲルの有論は弁証法的ですから、実在性・定有も、単なる実在性・定有に終わるものではありません。そのことをヘーゲルは次のように説明しています。
「実在性は規定的な質と見られているが、実はその実在性はその規定性を超え出るのであるから、実在性も実在性でなくなる。即ちそれは抽象的有となる。あらゆる実在中での純粋な実在である神、云いかえるとあらゆる実在性の総括としての神、その中ではすべてが一つであるところの空な絶対と同様の没規定的なものとなり、没内容的なものとなる。」(「大論理学」第一巻の上、有論)
ここで言う「神」とは言うまでもなく絶対的本質のことです。くれぐれも「神」という言葉に拒否反応を示して、神を持ち出す観念論は誤りだから読んでも意味がない、と食わず嫌いにならないで頂きたいと思います。いずれにしても、このようにヘーゲルの体系は、末端の現象論にいたるまで全体に戻る筋道が用意されているような現実的な体系なのです。その過程で大きな役割を担うのが、無から進展した否定的契機ですが、それについてのヘーゲルの説明を見てみましょう。
「このような個体、即ち有限的なものそのものが即且向自〔絶対的〕であるどころではなく規定性は本質的に否定と見られることになるから個体は打ち砕かれ、抽象的統一、即ち実体の中ですべてのものを消滅させるような悟性の否定的運動の中に投げ入れられることになる。 それでここでは、否定は直接的に実在性と対立する。しかし、進んで反省された諸規定〔本質〕というその本来の領域になると、否定は肯定的なもの〔積極的なもの〕と対立するものとなる。だから、そこでは肯定的なものとは否定に反省〔反射〕する実在性であり、――この実在性そのものの中ではまだかくされている否定がその他面として姿を現すような実在性である。」(「大論理学」第一巻の上、有論)
このように実在性の否定は、はじめは悟性による規定性の破壊として始まり、その反省を通じて本質レベルの否定的理性としての己を確立すると、こんどはそれまで否定していたものを肯定的に自らに反省(反射)して、否定と肯定との統一が図られるようになっていくのです。ここではそこまで説明されておりませんが、ヘーゲルの論理からすると、そうなっていくはずです。
2、日本を亡国の淵から救うのに一番根底的で肝心な点は何か?
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