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[2729] 今年一年の歩みを振り返ってーヘーゲルの復権の重要な意義とは
愚按亭主 - 2017年12月30日 (土) 10時34分

 今年は良い意味でも悪い意味でも、私にとって激動の年でありました。これは反省ではありませんので、あえて良かった点だけを上げますと、何といっても念願の本を、電子本という形ではありますが、曲がりなりにも上梓できたことは、何よりの喜びでした。そして、もう一点あげるべきは、「ヘーゲルの復権」が人類にとっても何よりの大事であるという認識に到達することができ、かつ、それを明確な形で世に問う問題提起することができたことです。これはとても大事なことですので、年の終わりにここで改めて取り上げて整理してみたいと思います。

 マルクス主義や南郷学派のおかげでヘーゲルはすでに過去の人として扱われてしまっている現実があります。このことは、ヘーゲルの研究者たちとて例外ではなさそうです。都立の中央図書館でヘーゲルの研究者たちの本をパラパラめくってみても、ヘーゲルの復権の意義を説いたものは見当たりません。

 つまり、ヘーゲルをヘーゲルのレベルで説いたものは皆無で、みな自分のレベルで、ヘーゲルの体系の中の自分が説きたいと思った部分を自分流の解釈で説いているものばかりです。だから、今ヘーゲルの復権が、人類のまともな発展にとって何よりも大事であるという一番肝心な認識がないのです。

1、ヘーゲルは本当に体系を完成できなかったのか?
 ヘーゲルの研究者たちの間では、ヘーゲルは学問体系を完成できていないのではないかという見方が力を得てきているようです。これについては、南郷先生も同様にヘーゲルの哲学には体系がないと決めつけています。しかし、それは本当でしょうか?私には、ヘーゲルの概念の弁証法の論理が理解できないために、ヘーゲルの体系が見えないだけの話だということが、よく見えます。

 まず、ヘーゲルの研究者たちの言い分を聞いてみると、ヘーゲルの著作にはヘーゲル自身が直接に書き下ろしたものが少なく、講義を書き残したものが多いことが、その有力な理由として挙げられているようです。しかし、これは体系があるか否かを判定するにふさわしい理由とは言えません。何故なら、体系的な論理像があるか否かは、ヘーゲルの頭の中の「精神の王国」の中身を吟味して初めて判定できることだからです。それが本という形で客観化されているか否かは、二義的な問題にすぎません。しかも、ヘーゲルはそれを全く客観化していないわけでもなく、著作で充分に体系が存在するか否かは判定できるものですし、ヘーゲルはしっかりと判定できるだけのものを残してくれています。

 次に、南郷先生が「ヘーゲルには体系が存在しない」と断じた問題ですが、これも、南郷先生が考える学問の形而上学的な学問体系の像と、ヘーゲルの弁証法的な学問体系の像とが、あまりにもかけ離れていたために、南郷先生には全く理解できず、結果として「ヘーゲルの哲学には体系がない」と思ってしまった、ということなのです。

 具体的にどこがどう違うかと言いますと、南郷先生の学問体系は形而上学ですから論理と事実とが、論理は論理、事実は事実としてはっきりと分けられていて、学問体系は論理の体系として、現象論・構造論・本質論という形に形式が定められていて、運動性・発展性がなく固定化されています。

 これに対して、ヘーゲルの体系は、論理と事実とが現実的に統一されたものが概念であり、その概念が、即ち実体の発展に照応・一体化する形で無限に発展していく体系そのものなのです。そして、それは次のような構造を持っています。すなわち、有論つまり事実の論理と、本質論つまり論理の論理とが、特殊性すなわち構造論を媒介として相互浸透的に統一されたものが概念論、つまり絶対理念へ向かって自己運動する概念の運動・発展を論ずるものです。

 したがって、ヘーゲルにあっては実体の発展に相応して概念すなわち体系も発展していくのであり、そしてその両署はまた、別々のものではなく、同一性であり、否定の否定の過程をたどって、その両者の各々は他のものを創造するとともに自らを創造し、自らを他のものとしても創造していく、という形でその同一性を目的意識的に実現するのが、すなわち本流としての人類なのです。ヘーゲルは明確に初めに完成された体系ありきではないことを断っています。つまり、今の段階で説けるものを説くということです。ヘーゲルの体系を未完とする者は、このヘーゲルの言葉の意味が分かっていないのです。なぜなら、ヘーゲルは体系としての概念が無限に発展していく過程・論理・設計図を見事に描き切っているからです。

 人類の学問史において、この視点はヘーゲルにおいて初めて完成的に到達・実現されたものです。ところが、それは一瞬の輝きを放ったものの、弟子のマルクスが、折角のこの人類の宝物を、その価値も分からずに直ちに破壊して、衣だけ拝借してその中身を、実体と認識とを別のものとして絶対的に切り離す唯物論的弁証法もどきの形而上学に変質させてしまいました。このことは、マルクス自身は前進であるかのように謳っていますが、実際は学的にも時代的にも後戻りでしかなく、つまりヘーゲルの学問体系を矮小化するものでしかありませんでした。その証拠に、それから百年以上も経つのに未だに学問の体系的発展は全く見られなくなり勝手気ままなバラバラな発展しかない現実があるからです。その中で南郷先生がやっと、唯物論的な弁証法もどきの形而上学を用いて静止的な定有である個別科学の体系化をなんとかはたしたのがやっとという状態です。

 その南郷先生は、ヘーゲルの遺志を継いで学問を完成させると豪語しながら、マルクスのこの決定的誤りを反省もせず、誤りを誤りと自覚できないまま、学の体系化をはたそうとして、結果的に形而上学的な学問体系の設計図しか創り上げることができませんでした。これでは、学問全体の体系化は到底不可能です。これはなるべくしてなった必然的な結果なのですが、南郷先生ご自身は、これを「新世紀」の画期的な学問の完成への序曲だと思い込んでいるようです。

 その必然性の根拠は、南郷先生がなぜか固執する唯物論にあります。唯物論と観念論のうちのどちらかに偏執的に固執することは、本人の意思にかかわらず形而上学にならざるを得ない必然性があるということです。そのことを南郷先生が見事に証明してくれました。だから、ヘーゲルやディーツゲンは、唯物論から離れて自由にならなければ学問の体系は完成できないと警告しているのです。南郷先生はディーツゲンから学ぶとしながら、ディーツゲンのこの言葉をわざわざ引用しながら、肝心のここの部分は黙殺して、どうでもよい他の部分を使って他人を批判するという愚行をされているのです。これには本当に驚きました。これでは、南郷先生の<学び>とは、要するに自分の都合の良い処だけもらって都合の悪い処はもらわないというのが、<学び>ということになってしまいます。

 じつは、私がディーツゲンがそういうことを言っているということを、南郷先生が引用してくれたディーツゲンの文章によって初めて知ったのです。ですから一読してすぐにピンときました。南郷先生がこの文章を引用するということはおそらく何度も読み返しているはずです。にもかかわらず、南郷先生にはピンとこなかったようです。それが何とも不思議でなりません。学問の体系化を志しているならば、この言葉は、たとえ自分の立場と相いれなくとも、素通りできないはずです。ですから一旦は吟味したのかも知れません。その結果自分の方が正しいと結論付けて確信的に無視するようになったのかも知れません。

 ではなぜ唯物論に固執すると形而上学になってしまうのか?じつは、その構造を、ヘーゲルは「有論」の中で見事に説いてくれています。すなわち、有の運動体である成がどのように定有になるのかの論理を、ヘーゲルはどのように規定しているのかについて、見ていくことにしましょう。

「成がこのように有と無との統一への推移となるとき、しかもこの統一が存在するものという形をとった統一であり、云いかえると統一が二契機の一面的な直接的統一という形態をもつようになるとき、その成は即ち定有なのである。」(「大論理学」第一巻の上、有論)

 これはどういうことかと言いますと、全体性の運動を止めて、有と無との「二契機の一面的な直接的統一という形態」をとって実在化したものが定有だということです。したがって、事実すなわち実在化した定有を起点とする唯物論は、必然的に静止的になり、一面的になるので、その弁証法は形而上学へと後退していしまう宿命を持つことになるのです。そのことを見事に証明してくれたのがほかならぬ南郷先生です。つづけてヘーゲルの説明を見ていきましょう。

「両者の相互の区別という点から見れば、有は有であり、無は無である。しかしその真理から、即ちその統一から見れば、そこではこのような規定をもつものとしての有と無とは消失し、両者はもうちがったものになっている。即ちそこでは有と無とは同じものである。そこで、両者が同一のものであるが故に、両者はもはや有と無ではなくて、別の規定をもっている。成の中では両者は生起と消滅であったが、別種の統一としての定有の中では再びまた別種の契機となる。そこで、この統一が今後は両者の基準となるのであって、両者がこの基礎から逸脱して有と無という抽象的意味に舞い戻るということはないのである。」(「大論理学」第一巻の上、有論)

 唯物論の起点は、このこの「一面的な直接的統一という形態」の定有です。そして、その別種の規定・契機が、実在性と否定性となります。それについてのヘーゲルの説明を見てみましょう。 

「哲学上の意味では例えば経験的な実在性と云えば、価値を持たない定有を意味する。・・・中略・・いわゆる単なる理念、単なる概念に対しては、実在的なものが唯一の真なるものと考えられる。けれども内容の真理の決定を一方的に外的存在にのみ帰するような考えは、理念、本質、或いは内的な感情を外的な定有に無関係なもの考えて、それが実在性から遠ざかっておればおるだけ、すぐれたものと考える場合と同様に一面的である。」(「大論理学」第一巻の上、有論)

 ここのところはとても重要です。ここに何が説かれているかといいますと、端的に言えば、唯物論も観念論もそれだけでは一面的で真理としては不備になるということが説かれているのです。ちなみに老婆心ながら最後の「理念、本質、或いは内的な感情を外的な定有に無関係なもの考えて、それが実在性から遠ざかっておればおるだけ、すぐれたものと考える場合」というのは具体的に歯プラトンのイデアや、カントの純粋理性のことを言っているのです。

 唯物論的形而上学の一面的な有論とちがって、ヘーゲルの有論は弁証法的ですから、実在性・定有も、単なる実在性・定有に終わるものではありません。そのことをヘーゲルは次のように説明しています。

「実在性は規定的な質と見られているが、実はその実在性はその規定性を超え出るのであるから、実在性も実在性でなくなる。即ちそれは抽象的有となる。あらゆる実在中での純粋な実在である神、云いかえるとあらゆる実在性の総括としての神、その中ではすべてが一つであるところの空な絶対と同様の没規定的なものとなり、没内容的なものとなる。」(「大論理学」第一巻の上、有論)

 ここで言う「神」とは言うまでもなく絶対的本質のことです。くれぐれも「神」という言葉に拒否反応を示して、神を持ち出す観念論は誤りだから読んでも意味がない、と食わず嫌いにならないで頂きたいと思います。いずれにしても、このようにヘーゲルの体系は、末端の現象論にいたるまで全体に戻る筋道が用意されているような現実的な体系なのです。その過程で大きな役割を担うのが、無から進展した否定的契機ですが、それについてのヘーゲルの説明を見てみましょう。

「このような個体、即ち有限的なものそのものが即且向自〔絶対的〕であるどころではなく規定性は本質的に否定と見られることになるから個体は打ち砕かれ、抽象的統一、即ち実体の中ですべてのものを消滅させるような悟性の否定的運動の中に投げ入れられることになる。
 それでここでは、否定は直接的に実在性と対立する。しかし、進んで反省された諸規定〔本質〕というその本来の領域になると、否定は肯定的なもの〔積極的なもの〕と対立するものとなる。だから、そこでは肯定的なものとは否定に反省〔反射〕する実在性であり、――この実在性そのものの中ではまだかくされている否定がその他面として姿を現すような実在性である。」(「大論理学」第一巻の上、有論)

 このように実在性の否定は、はじめは悟性による規定性の破壊として始まり、その反省を通じて本質レベルの否定的理性としての己を確立すると、こんどはそれまで否定していたものを肯定的に自らに反省(反射)して、否定と肯定との統一が図られるようになっていくのです。ここではそこまで説明されておりませんが、ヘーゲルの論理からすると、そうなっていくはずです。

2、日本を亡国の淵から救うのに一番根底的で肝心な点は何か?
 
 

 


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[2730] 日本を強靭化するために一番大事なのはヘーゲルの復権である
愚按亭主 - 2017年12月31日 (日) 11時50分

2、日本を亡国の淵から救うのに一番根底的で肝心な点は何か?
 亡国の淵にある日本を再生するために各大学の教授や中国問題の分析で異彩を放つ河添恵子女史などがあつまって日本強靭化会議が行われたそうですが、その様子をユーチューブで聞きました。とても面白い内容でしたので、最後まで聞き入りました。

 まず、はじめに一番の問題として挙げられたのが、日本に国家として真の独立した状態になく、したがってこの世界の中で主体性を持った国家戦略というものを持てていない点が挙げられたので、おっこれは期待できそうだなと思いました。しかし、その問題はそれ以上深く検討されることなく流れていってしまったのはとても残念でした。というのも、後の議論で出てくる日本を亡国の道へと導ているのは、財務省の国家戦略なしの省益オンリーの緊縮財政路線にあるという議論の淵源は、まさにそこにこそあるからです。

 次に、日本の再生のためになすべき具体的施策として挙げられたのが、凋落著しい大学の立て直しが挙げられたことも、素晴らしいと感心いたしました。ただ残念なことに、お金の問題や形式的な議論に終始して、肝心な内容に関する議論がなかったことは少々期待外れでした。

 なぜなら、そこにこそヘーゲルの復権の意義があるからでもあります。というのは、ヘーゲルは、絶対理念へと向かう絶対精神の本流の流れを<生命ー認識ー学問>と規定していたのであり、だから、私は人類の本流の流れの基準を、<学問の発展>を制したものとしたのです。ところが南郷先生には、全くそういう発想がなかったようで、アレキサンダー大王の世界制覇を、ただ侵略したかったから侵略したとして、それが人類の本流の流れを大きく規定する歴史的出来事であったことに目もくれていません。

 アレキサンダー大王は、ただ侵略したかったから侵略したのではなく、師であるアリストテレスの学問の世界を実現しようとして、目的意識的に世界制覇を行ったのです。、だから中東にアリストテレスの学問が息づき、アレキサンダー大王は征服者であったにもかかわらず伝説の英雄となり、その偉業が、西欧の個別科学の発展へと結びついていったのです。これが人類の本流の流れの淵源となると言えるほどの歴史的な偉業だったのです。

 このように国家の発展にとって学問はとても重要なのですが、現在の日本の大学の現状は、本来の学問の府ではなくなり、小役人の言いなりになって、目先の成果ばかりを追求する実用主義に堕してしまっています。そのため学生の意欲の低下がはなはだしく、東大では官僚になりたがる者がどんどん減っているそうです。

 これは今の若者の意識の中に国家が全く存在しておらず、国のため、日本のためという意識が欠如しているものがとても多いという現状を示しています。一時期のような国歌斉唱の時の抵抗感は最近ではなくなっていますが、皮肉なことに個人の意識の中の国家意識は確実に薄れてきているようです。

 そのような亡国の淵にある日本を再生し強靭化していくために、まず第一にやらねばならないことは、大学の学問の府としての再生であり、学問の復権であり、とりわけヘーゲルの復権こそが最も重要です。何故なら、人間は目的意識的存在であり、その人間が構成する社会や国家は、その構成員たる人間がどのような目的意識を持っているかによって、大きく違ってくるからです。人間は社会的存在だからと放っておいても社会意識は育つものではありません。

 では、現在の人類の国家に対する意識は、どうなっているでしょうか?民主主義と全体主義との解決できない対立の楮図にあることは間違いありません。そして、今の日本は民主主義の陣営に属して全体主義に対する拒否反応が顕著にあります。これは果たして正しいことなのでしょうか?名だたる国家論研究者も、この問題を正しく解決できておりません。その結果が、現代の世界の対立になっているのですが、じつはその元凶といえるのが、マルクスです。

 じつは、人類の学問の歴史において、この問題に正しい答えを出した人物がいます。そうですヘーゲルです。ヘーゲルは、それまでの形而上学的論理学では解決できなかった対立を、その形而上学的判断破壊という荒行を通じて、全く新しい論理学を創造して、この解決できなかった対立を統体止揚することによって見事に解決する概念の弁証法を創り上げて、人類の進むべき道を明示したのです。

 ところが、その弟子のマルクスは、あろうことか師匠の歴史的偉業を壊して、形而上学的な、解決のできない対立の世界・構図へと人類を逆戻りさせてしまったのです。その結果が、現代の世界の対立・混乱なのであり、日本がいろいろな妨害をはねのけて国家としてのまともな自立・発展ができないで、亡国の淵をさまよい亡国へと確実に後退している現実です。

 ではヘーゲルは、その概念の弁証法を用いていかなる国家像を描いたのでしょうか?それは「法の哲学」の中で見事に説かれているように、個の意志・全体の意志とを統体止揚した国家の意志が、必然性の洞察である学問によって真の自由な意志となって世界創造をしていく、という国家像です。これを世間では国家第一主義を評されているようですが、人類の長い国家の興亡の歴史において、唯一このヘーゲルの国家第一主義を見事な形で実現した社会・国家があります。それが江戸時代の日本です。

 だから、その当時の日本は、圧倒的に学問力・技術力でアジア諸国を植民地化していった、欧米列強に対して、まともな形でその学問力を吸収して自分のものとし、対抗して結果的に敗れたりといえどもアジアの植民地を解放するという、人類の歴史を大きく塗り替える偉業を成し遂げたのです。

 この日本の驚異的な人間力・社会力・国家力に恐れをなした、欧米各国や支那は、日本が再生できないようにといういろいろな工作を仕掛けてきました。昨今の韓国やアメリカでの慰安婦像騒動の仕掛け人は、宋美齢以来の客家の華僑の仕掛けによるものだそうです。

 こうした状況の中で、日本が再生するためには、かつての日本へのノスタルジーだけでは無理であり、その必然性の洞察である学問の力によってなされなければなりません。その要となるものが、ヘーゲルの復権なのです。ヘーゲルの国家第一主義の国家即国民・国民即国家ということを、徹底的に教育し、国家が自立できていない現状をまず変えて、国家としての主体性を取り戻して、ヘーゲルの学問に基いて国家理念を創り、世界を領導する日本の未来像にしたがって、国家も国民も自由な意志で世界創造をしていく国家を創らなければなりません。

 したがって、今問題になっている憲法改正も9条を変えるとか変えないとかそんな些末な問題を議論するのではなく、現在の社会において日本が国家として如何なる道を歩んで行ったらよいのかの議論を尽くして、国家理念を創り上げ、それを憲法に反映させるべきです。

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[2731] 世界は日本(眠れる絶対精神)の復権を望んでいる
愚按亭主 - 2018年01月01日 (月) 12時50分

河添恵子女史によれば、世界は中華民族(??}によってものすごい勢いで侵食されつつあるようです。その中華民族は、それぞれが自分の利益を最優先にする血なまぐさい内部抗争しながらも、俺たちが世界の中心だという勝手な中華思想で固まる非常に貪欲な恐ろしい集団です。中国が国家として推進している一帯一路構想ばかりでなく、世界中に張り巡らされた客家の華僑ネットワ―クが、各国にエリート養成校を作って教育の面からその国への侵食を図っっています。

その客家の華僑ネットワークが、20年前のクリントン政権の時代に反日の方針を決めて組織的活動が強化されたそうです。その結果が韓国をはじめとする世界各地で積極的に推進されている慰安婦像設置運動であり、ユネスコの記憶遺産への日本兵による30万人南京大虐殺という悪意のある捏造された嘘事実の登録を起点として、これから始められようとしているその記念館を世界中にあるホロコースト記念館並みに作っていこうという動きです。

そしてその行きつく先の真の狙いは、沖縄を手始めとする日本の属国化です。そしてそれは、もうすでにかなりな部分侵食が進行してしまっているようです。これに対抗するためには日本が国家として精神的にも実体的にも自立できていなければならないのですが、トランプ政権の誕生という絶好の機会にチャンスを逃し、その後の北朝鮮のミサイル騒動で、すっかりアメリカへの属国的依存をますます深めてしまいました。

ところが、トランプ政権と習近平政権とは、金正恩対策を媒介として二大国間の相互協力、互恵関係を構築しつつある事実もあるので、現在のような属国状態のままでは、両大国間の駆け引きにいいように翻弄されて場合によっては、本当に中国の属国になってしまいかねない危険性をはらんでいるといえます。

そんな時に、日本国内では何が議論されているかと言えば、安倍首相のお友だちが学校を作るのに便宜が図られたのではないかなどということが延々と国会で議論されていたのです。憲法問題にしても、現在の世界情勢の中において国家としてを日本はどうあるべきか、から議論されてしかるべきであるのに、欠陥だらけの占領憲法を前提にして、それにがんじがらめに縛られながらの議論をしようとしているのです。その結果、9条を残したまま自衛隊の名前を 明記しよう、などという危機感ゼロの内向きのみの提案が首相から出されるという体たらくなのです。

では、現在の世界情勢の中において日本は国家としてどうあるべきなのでしょうか?まず、世界が中国に支配されたとしたならば、世界は事実なんてどうでも良い、真理なんてクソ食らえの、勝った者勝ちの非学問的なデタラメの地獄へと堕して行ってしまいます。これでは、曲がりなりにも絶対理念への道を歩んできた物質の発展、人類の発展は、大きく歪なものになってしまいます。

では、どうしたら人類はまともな歩みを取り戻すことができるのでしょうか?そもそもなぜ人類の歩みはこのように歪なものになってしまったのでしょうか?それは、次の人類の歩みを先頭になって 担うべき歴史的使命をもつ日本が、国家として主体性をもてないように巧妙に籠の中に閉じ込められて、その歴史的使命を果たせないようにされてしまったからであり、日本自身も、その歴史的使命を自覚できる学問であるへーゲルの学問を、その当時流行していたマルクス主義に邪魔されて、正しく理解できる者が出てこなかったからです。

そんな日本が本当にその歴史的使命を持っているのかという疑問に対する回答は、国家レベルでできない状態の中でも、個人レベルで多くの日本人が世界の各地でその社会の発展のために献身的に尽くして地元のヒーローになっている事実を最近の日本のテレビが次々と紹介していることです。とはいえ残念ながら、このような個人レベルの取り組みでは、人類の歩みを前進させるような歴史的使命を果たすことはできません。ましてや、邪悪な暗雲が地球全体を覆っていくような状況の中においては、なおさらのこと国家レベルでの歴史的使命の覚醒と、それを阻止する国家レベルの取り組みがどうしても必要になります。ですから憲法も、人類が本物の学問に導かれていくような世界を創るという高い次元の国家理念に基づいて全く新しい憲法を創っていかなければなりません。

このような起死回生の逆転満塁ホームランは、むしろ今のような亡国の淵の多くの若者が希望を失っているようなどん底状態だからこそ生まれる可能性が高いと思います。日本が、かつて世界で唯一ヘーゲルの学問的な国家第一主義を見事に実現して本流としての道を歩みはじめて、世界に大きな影響を及ばした日本に対する世界の絶大なる信頼と期待は、その遺産に安住し惰眠を貪って劣化していく日本と、野望に満ちた中華民族の仕掛けによって、今や掻き消され、目先の餌につられて取って替わられつつあります。その責任はいつまでも惰眠を貪っている日本にもあります。

したがって、日本は、潜在的、確実に存在する日本への期待に応えるべく、ヘーゲルの本物の学問に立脚した学問立国を宣言して、学問に立脚した自由な意志の力で、欺瞞に満ちた邪悪な意志を砕いていかなければなりません。そうでなければ人類は確実に不幸になってしまいまうことでしょう。

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[2732] 解決できない対立・矛盾もヘーゲルの国家第一主義なら・・・
愚按亭主 - 2018年01月05日 (金) 17時31分

 正月にテレビを見ていると、外来種によって絶滅の危機に立たされている日本の固有種を守れということで池の大掃除をする番組をやっていました。中でもとりわけ深く印象に残ったのは、鎌倉の古刹:光明寺の蓮池の蓮が、アメリカから来たアカミミガメと、中国から来た巨大な草魚によって食い荒らされて見るも無残なあり様になっていたことで、これからの日本を象徴しているようで、本当に身につまされるものがありました。それだけに、外来種から日本種を守るために大掃除をする試みは、じつにタイムリーな喝采ものの試みでした。

 ところが、今の日本の政治の現状は、民主党政権時代に外国人登録法の改悪が行われて、日本人と外国人との差別が撤廃されて、否それどころか、日本の学生には奨学金の返還を要求するのに、外国の留学生への奨学金は無償で差し上げるようになったり、日本が世界に誇る保険制度も同様に、外国からきて健康保険に加入して三か月も経てば、長年保険料を払い続けてきた日本人と同じ高額医療の保険サービスを受けられるようになって、それを悪用して保険証を使いまわしたり、何千万もする高額医療を月々の保険料千円程度で、自己負担月1〜2万円程度で済むとあって、それを目当てに大勢押し寄せるシステムも作られているそうです。かくして、日本のお金がどんどん彼らによて浪費させられているのだそうです。このかつての民主党のやったことは、貪欲・獰猛な外来種を池に呼び込んで、本来守るべき善良な日本の固有種を衰退させて、中国のもくろむ日本の属国化に寄与するものです。自民党は早急に改めるべきなのにいつまでもできないでいるのは、学問的な国家第一主義を持っていないために、人権主義攻撃が怖いせいなのではないかと勘繰りたくなります。、

 この問題に関連して、現在の日本や世界の抱えているナショナリズムとグローバリズム、難民・移民問題、人権主義と全体主義等々の問題は互に絡み合って根が深いのですが、全ての問題の大本は、マルクスが犯した誤りにあります。具体的に言いますと、対立・矛盾を統体止揚して発展の筋道をつける概念の弁証法を確立して、国家第一主義を通して人類が発展していく未来の設計図を描いてくれたヘーゲルの学問を壊して、対立させたままに引き戻して永遠に解決できないようにしてしまったマルクスの誤謬が、その元凶だということです。

 だからマルクスが提唱してはじまった共産主義運動は、ことごとく失敗して、人類の発展のために益にはならないことが証明されましたが、その理由について、かつて盛んに言われたことは、なるべき段階に至っていない国ばかりが、本来たどるべき段階を飛び越えてなってしまったために、失敗したのだということでした。

 しかし、そのようなマルクス主義では、たとえなるべき段階に至った国がなったとしても、失敗したであろうことが確信を持って言えます。なぜなら、それはマルクス主義自体に、重大な欠陥が存在しているからです。

 その欠陥とは、まず第一に、人間的な観念論を否定し、動物的な唯物論のみでやっていこうとする一面性・形而上学性では、人類の目先の発展の先導はできても、人類の絶対理念へ向けてのダイナミックな発展を領導することはできないからです。
 第二に、共産主義ほど国家第一主義が必要であるのに、マルクスはそれを否定してしまったために、失敗する必然性があったということです。そのことを物語る話として、世界の中で唯一国家第一主義を実現した日本は、その国家第一主義の名残のおかげで、一時期どの社会主義の国よりも社会主義らしい国と呼ばれていました。
 第三に、マルクスは、奴隷や労働者を無条件的に人間を解放する主体と位置付けてしまう、という誤りを犯した結果として、中国共産党は農民に学べ、と若者の農村への留学、つまり下放運動が推進され、文化大革命によって知識階級が殺されて農民が大学の校長になるという考えられない愚行が行われました。その原因は、このマルクスの誤りにあるのです。

 ヘーゲルは、物質の本流の発展の流れの中に人類を正しく位置付けて、そういう自分自身を意識することによって精神となって自分自身に回帰してさらに高等な学問の完成者としての絶対理念となって神となることを、人間の解放としたのです。それが意志の自由の中身なのです。

 ところが、マルクスは、このヘーゲルの説く人間の解放の意味を正しく理解できず、奴隷の労働も、精神が自然に働きかけ自然を創り変える人間の労働の本質を含んでいる、とのヘーゲルの言葉を誤解して負の面を見ていないと批判し、自分の都合の良い面だけ見て、物質的生活の生産の虐げられた奴隷や労働者こそが、歴史を動かし人間を解放できる主体なのだと曲解してしまったのです。

 つまり、ヘーゲルは精神の自由・意志の自由こそが人間の解放なのだと説いたのに、マルクスは、物質的生活の悲惨さこそが大事で、そこから自由になることが人間の解放なのだと説いたわけです。だから、農民や労働者さえいれば人間の解放はなると、文化大革命のように平気で前の文化の担い手を殺して文化性・歴史性を壊してしまえるのです。これが絶対観念論と唯物論絶対主義との大きな違いなのです。

 マルクスは、ヘーゲルの国家第一主義を否定して、階級闘争史観を打ち立てて「万国の労働者団結せよ!」と国境を否定してかかりました。すなわち、国家の否定です。だから、左翼には国家を軽く見る傾向があるのです。国家と国民を分断して対立させ、国家よりも個人の人権を大事にしようとします。ところが、一旦国家権力を握るととたんに豹変してプロレタリア独裁を叫んで、人権抑圧に邁進するようになります。これこそ、形而上学的唯物弁証法のダブルスタンダードに他なりません。今の日本の共産党が人権人権と叫ぶのは、彼らの常とう手段であり、信用してはならない、ということです。

 しかし、そもそも人権という概念自体が、学問としておかしいのです。それは何故かといいますと、これは初めから国家と国民を分断して、敵対的に対立した関係にあることを前提とし、国家権力から国民を守るためと称して、時に国家よりも人権の方が強い場合が存在するという非常に歪な概念だからです。たとえば、従軍慰安婦問題にしても、国家の存亡の危機に際して国民が一丸となって戦った、つまり慰安婦も一緒になって戦ったという状況を抜きにして、語れないはずであるのに、一個人がひどい目にあったから国家を代表する首相が謝れというのは全く筋が違う話です。大変だったねご苦労さんでした、というねぎらいの言葉で充分です。そもそも一緒に戦った相手にどうして賠償しなければならないのか?ですから韓国に賠償するのもおかしな話なのです。なぜなら、それはあくまでも戦争の賠償なのだから・・・・。しかも、それが事実にもとづかない作り話で、なぜ日本がゆすられなければならないのか?なぜ政府が毅然とした態度が取れずにゆすられてしまうのか?それは国家第一主義がないからです。日本も世界も学問的に歪んだ人権主義に振り回されているからです。

 このマルクス主義のダブルスタンダードは、ヘーゲルの本物の弁証法を受け継ごうとしないで、唯物論的な静止体の弁証法、つまりは形而上学的弁証法の宿命なのです。たとえば、事実と論理とを分けたまでは良かったのですが、それを事実は事実、論理は論理と分けたまま放置して元に戻そうとしないために、あれかこれかに固定してしまい、それをもとに戻して統合したヘーゲルが、普遍(論理)と個別(事実)は現実的対立であるとしたのに対し、「根本的二元論」だとマルクスは批判したのです。ヘーゲルは自らの概念論の真実・真理を語っただけなのですが、マルクスの形而上学的弁証法の理解を超えていたために、批判のしようがなく、一番わかっている自分の悪癖を相手に押し付けて相手を非難する、という盗人が良くやる手口で応じたわけです。これが、マルクスがヘーゲルを訳の分からない非難をするにいたった実相だと思います。

 現在各国で問題となっているナショナリズムとグローバリズムとの対立も、一昔前世界を席巻していた金融資本の主導するグローバリズムは国家を形骸化する形で推し進められようとしていましたが、その実相・不当性が明らかになるにつれて、全世界に反発が広がりプーチン・トランプ・習近平の登場でそれが大きく後退して、その反動としてナショナリズムが勢いを増してきています。ところが、今度は独裁色を増した習近平が「一帯一路」を提唱して中国を中心とするやくざ的グローバリズム(新帝国主義)の一大勢力圏を築こうとしています。これが何故やくざ的なのかといいますと、たとえば、スリランカのコロンボの港をかすめ取った手口が、最初は甘い言葉で高利で貸しつけておいて、払えなくなったら担保物件の使用権を独占するというサラ金の様な手口で、世界支配のための軍事拠点を手に入れているからです。その習近平が喉から手が出るほど欲しいのが、日本であり日本の属国化なのです。

 しかし、このナショナリズムとグローバリズムの対立のまともな解決は、ヘーゲルの国家第一主義以外では不可能です。つまり、国家第一主義による国家のまともな発展の過程を経ることなしに、本当のグローバリズムは実現しないということです。

 つまり、あれかこれかでは絶対に解決しない、いびつなものになってしまうということです。ですから、それが可能となるためには、世界で唯一ヘーゲル的な国家第一主義を実現した日本以外にそれができる国はないということです。ですから、世界のまともな発展のためには、どうしても日本が国家としての主体性を取り戻さなければならないのです。それを一番警戒し、恐れているのが中国でありアメリカなのです。だから、日本の抑え込むのに有効性を発揮できている(日本が毅然としないで嫌がっているだけで反撃しようとしない)慰安婦像の設置運動が、アメリカで活発なのです。

 また、現在の日本が抱えている少子高齢化と、いじめや自殺・ニートの増大による労働力不足、そしてそこから発生する外国人留学生の受け入れ態勢や移民問題などに有効な対策を講じられないのは、最早日本にかつての国家第一主義が消えつつあるからに他なりません。

 親も学校も、子供に対自的な国家第一主義を教育しないから、こどもは即自的な感情のままに育つしかなくなり、何のために生きているのかの答えも得られないまま、ちょっとしたいじめに夢も希望を持てずに死を選んだり、自分の偶然的な即自的感情のままに男が女になりたがったり、それを人権と称して社会に強引に認めさせようとする風潮が蔓延することになります。

 これは、国家と自分を一体のモノととらえる国家第一主義ではありえないことです。その多様性は決して時代の進歩の必然性などではありえません。それは時代の迷路に迷い込んだだけの劣化にすぎません。それは自由などでもありません。なぜならそれは社会の必然性に反するものだからです。ところが、昨今はそれが国家の法律に加えようという動きまでもが出てきて、実際に現実化している現実さえあります。このような不合理がまかり通ってしまうのは、マルクスがヘーゲルの国家第一主義を否定し葬ってしまったせいなのです。

 このような社会を衰弱させる自分勝手な多様性は、何度も言うように自由でもなんでもありません。単なるわがままでしかありません。そんなわがままに国家・社会が首を垂れ公認を与えるなどと言う情けないことは、国家第一主義においてはありえないことです。ところが、マスコミは、そういう人間を大勢登場させて多様性は良いことだと、盛んに煽っている始末です。だから、そういうマスコミによって自分勝手に教育された若者は4Kといわれるきつい仕事を嫌がって社会にとってそれがなくてはならない仕事なのに日本人の成り手がいないという現実が生まれることになるのです。だから、そういう仕事は外国人にやらせようと移民を推進する悪循環になっていくわけです。ですから、少子対策のまず第一はそういうマスゴミの駆除・大掃除して、日本の若者が健全な精神が育つようにしなければなりません。

 国家第一主義の土壌のある日本にしてこういう現実があるのですから、そういう土壌のない外国では、困難な状況の中必死にその国家・社会をよくしよう、少しでも発展させようと頑張るよりも、手っ取り早く稼げる外国に行こうとする者が、ますます増えていくことになるのでしょう。つまり、多くの移民・難民が新たな国の中に入り込んで、国家の国家としての一体性が希薄になっていくという、悪循環が加速していくことになるということです。これは世界の危機でもあります。人類の絶対理念への道に黄色信号、否すでに赤信号がともっている状態にまできています。だからこそ、世界を救うことのできる日本が、一日も早く国家としての主体性を取り戻して、新たにヘーゲルの学問に基づく国家第一主義を確立して、それを踏まえて国家理念を創り上げ、それを現実化するための憲法を創って、テレビの番組でやっていたような大掃除して、再出発しなければなりません。世界を正しい方向へと導いていけるようにならなければなりません。それが日本の歴史的使命であり、本物の本流としての務めなのだから・・・・・・・

 

 

 

 

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