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[2726] 来たるAI社会こそ運動体の弁証法のヘーゲルの復権が必要
愚按亭主 - 2017年12月01日 (金) 11時09分

 ビッグデータを瞬時に処理できるAIの発達によって、人類は将来的なAIに支配される時代が到来するのではないか、という不安・恐怖が生まれ、SF映画などにもその憂いが反映されたものがいくつか登場しています。

 一方、これに対して、人類にはAIにない創造性があるから、それは杞憂にすぎない、という楽観論もあります。ドクターXという人気テレビ番組の中で、将棋のAI対決において若手のホープが、ドクターXの言葉をヒントにいったん無になってそこで閃いた手でAIを破るというシーンをやっていました。創造性にしても、この番組のシーンにしても、AIは何もないところから何かを産み出す創造性がないからとか、定式に囚われない破天荒はAIには処理できないからというように、何となく感情的には分かる気がしますが、それがいったいどういう必然性を示すものなのか?ということが分からないので、安心できませんし、では何をしたらよいのかも分かりません。

 そこで、この問題を論理の問題として、考えてみたいと思います。AIのシステムの基本は0か1かという、つまり、あれかこれかの静止体の弁証法の論理です。またビッグデータという過去の膨大な事実を、この論理で同一性と区別性とに分けて整理していって、最終的に答えを導き出していくわけです。ということは、即自的な事実の論理の唯物論と、形而上学的な静止体の弁証法と、同一の論理性をもっているということになります。となると、唯物弁証法こそが唯一の学問の方法だとしている人たちは、AIの確実性・高速性の前にひれ伏すことになってしまう可能性が非常に高くなります。否、現代科学の少なくない領域において、すでにそうなっている面が無きにしも非ずと言えます。使いこなしているつもりでも、いつの間にか使われていたりするわけです。

 では、人類は本当にAIに支配されてしまうのでしょうか?現在のような“インスタ映え”に熱狂する感性的認識ばかりが異常に発達する傾向のままですと、そうなる可能性は高くなると言えましょう。しかし、ご心配無用!人類がそうならないための、とっておきの秘策があります。それは、ヘーゲルの復権です。あれかこれかの判断破壊によって創り上げられた、ヘーゲルの運動体の弁証法は、AIには理解不能であり、それを使いこなす人類には、AIはひれ伏すしかないのです。したがって、人類はAIを部下として使いこなし、AIの利点を存分に活かして、AIを有効活用できるようになるのです。

 だからヘーゲルは、人類が、絶対観念論すなわち概念から絶対理念になって神になる道を説いたのです。その際に、唯物論的な個別科学やAIは、その運動体の内部の一構造として組み込まれることによってはじめて、その真の本領が発揮できるようになるのです。これが、すなわち、運動体の弁証法なのです。ところが、統括者たる学問の冠石の存在しない、唯物論では、有限的な部分が互にバラバラのまま一体性がないために、それぞれの真の本領が発揮されなくなるだけでなく、それぞれが傷つけ合い、相殺しあって歪んだ形でしか、その本領が発揮されなくなってしまうのです。結果として、感情をもたないAIが次第に圧倒し、凌駕して人類がAIにひれ伏す、ということにもなってしまうことにもなりかねません。

 では、そうならないためにはどうしたら良いのでしょうか?それは、ヘーゲルが確立した、AIでは絶対不可能な運動体の弁証法の思惟、すなわち論理的思考を技化し、本能化することです。例えば、それはどういうものかと言いますと、以下の、有と無との統一としての成についてのヘーゲルの説明のような思惟のあり方です。そして、これこそが運動体の弁証法のエッセンスなのです。

「2、成の二契機〔生起と消滅〕
 成、即ち生起と消滅とは有と無との非分離である。それは有と無とを捨象する統一ではない。むしろ、それは有と無との統一として、こういう規定的な統一であり、云いかえると、その中には有も無も共にあるような統一である。しかし、有と無との各々がその他者と非分離のものである以上、そこには有も無もない。つまり、両者がこの統一の中に有るにしても、消失するものとしてあるのであり、止揚されたものとしてあるにすぎない。両者は、はじめに両者がもっと考えられた独立性から契機に、即ちいまもまた互に区別されてはいるが、しかし同時に止揚〔否定〕されているような二契機に落とされる。

 この両契機の区別という点から見ると、各々の契機はこの区別の中にありながら他方のものとの統一という形である。それ故に成は、有と無との各々がそれぞれ有と無との統一であるような二つの統一として、有と無とをその中に含んでいる。一方の統一は直接的なものとしての有であり、他方の統一も直接的なものとしての無であるとともに、また有に対する関係としての統一である。その意味で、二つの規定は共にこういう統一でありながら、不等な価値をもっている。

 成はこうして二重の規定をもつ。一方の規定においては無が直接的なものとしてあり、
即ちこの規定は無から始まり、この無が有に関係する。即ち無から有に推移する。これに反して他方の規定においては有が直接的なものとしてあり、即ち規定は有から始まり、その有が無に推移する。――即ちそれは生起と消滅である。

 この両者は同じもの、即ち成であるが、またこのような互にちがった方向を取るものとして互に浸透しあい、相殺しあう。一方の方向は消滅であって、有が無に推移するが、しかしまた無は自分自身の反対であり、有への推移であって、即ち生起である。それで、この生起は反対の方向を取るものであって、ここでは無が有に推移するが、しかし有はまた自分自身を止揚するのであって、むしろ無への推移、即ち消滅である。――両者は単に相互的に相手側を、即ち一方が外面的に他方を止揚するのではない。むしろ各々はそれ自身の中で〔即自的に〕自分を止揚するのであり、しかもそれ自身において〔対他的には〕自分の反対となるのである。」(「大論理学」第一巻の上、有論より)


 



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