[2716] 南郷先生の「哲学・論理学原論(新世紀編ん)」」を論ず |
- 愚按亭主 - 2017年11月16日 (木) 09時43分
しばらくヘーゲルの「大論理学」の勉強に専念していたので、知りませんでしたが。ふと現代社のサイトを覗いてみると南郷先生が新著「哲学・論理学原論(新世紀編)」を出されていました。早速注文しましたが、まだ読んではいません。しかし、目次は紹介されていますので見 ることは可能です。そこで、その目次を見て本文を読む前の感想を認めておきたいと思います。目次だけ見た段階の私の予想が、どの程度的を射ていたかをチェックできるからです。
では早速、その目次を見ての感想を述べたいと思います。まず目次を一覧してみて、さすがの論理構成力だな、とうなりました。これが第一印象です。しかし、その仔細をよく見てみますと、私の批判を意識してか、以前のものよりも格段に隙がなくなって、完成度がいや増していますが、私の批判を唯物論のレベルで取り入れようとしているために、残念ながら私の批判を克服・凌駕するものとはなっていないように感じました。つまり、これまで行ってきた批判がそのまま批判としてまだ生きているということです。
具体的に、今度の目次の批判点を挙げるならば、もっともらしい内容が羅列されていますが、中身がない、つまり具体性が何もないと感じました。たとえば、学問の二重構造としての真理論における絶対的真理の系譜と相対的真理の系譜との否定の否定的な弁証法的な発展の構造が説かれていない点がまず挙げられます。したがって、「 哲学者になるには哲学の形成過程の歴史を辿らなければならない」も「 哲学の歴史を繰り返すとは、歴史上の人物に頭脳の働きとしてなりきることである」も空虚な言葉に過ぎなくなります。とりわけ後者の「歴史上の人物の頭脳の働きとしてなりきる」は認識論の学びとしてはともかくも哲学・弁証法・論理学の学びとしては、ナンセンスです。ここはヘーゲルが云うように、また南郷先生ご自身が生命史観を措定する時になさったように、個人の頭脳ではなく絶対的本質の認識の発展、すなわち本流の流れとして論理的にたどることこそが重要なのです。それがヘーゲルの「哲学史」に他なりません。それが南郷先生はお分かりになっていないのです。
次に、弁証法の歴史的発展の弁証法的構造について、静止体の弁証法から運動体の弁証法への発展が、ギリシャ哲学において既にその両者の萌芽が存在し、それがいったん否定されてまずは静止体の弁証法の方が開花し、やがてその発展からそれが再び否定されて、運動体の弁証法が開花するという形で弁証法が完成する、という弁証的な過程が説かれる気配が微塵も感じられないとこです。
また、それに呼応する形で、論理学も形而上学的な運動性のない論理学から、運動性のある概念の弁証法の論理学へと発展していった、という過程をたどって発展したというのが歴史的事実であり、論理学の発展の構造なのですが、それも出てきません。
南郷先生は、「大論理学」には体系がないとしていますが、それは南郷先生が考える現象論・構造論・本質論の形がない、とりわけ構造論がないというだけの話すぎないと想像していますが、それは逆から言いますと、南郷先生は、有論・本質論・概念論というヘーゲルの哲学(絶対的本質)が「学問の総括であり、かつ統括」する体系が分かっていないということでもあります。つまり、南郷先生が云う体系は、唯物論的な普通の論理学の体系であって、ヘーゲルの説く体系から見ると、いまだ次元の低い体系に過ぎないということが分かっていないのです。ですから南郷先生は「概念は生成発展する対象の構造をふまえるとできあがる」という静的な単純な構造ではなく、もっとダイナミンクな不断にその構造を取り込んで発展していく成的・動的なものなのです。、
ですから「 哲学、論理学は、学的レベルではまだ端緒についただけである」どころか、すでに完成しているのであり、それをきっちり受け継いで、発展させなければならないのは後進としての我々の責務なのです。それを「 まだ端緒についただけである」と勘違いして見当違いな浪費をして、学問の発展を遅らせるのは、愚の骨頂と言わねばなりません。
そのためには、唯物論を一旦捨てて、自由になって哲学の歴史を自分のものとしなければなりません。弁証法の学びも、まずは唯物論を捨てて、先達の学問の歴史の学びから始めなければならないということです。
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