[2714] ヘーゲルにとっての神とは |
- 愚按亭主 - 2017年11月03日 (金) 12時39分
マルクス主義は、「宗教はアヘン」だとして絶対的に排除します。しかし、この「宗教はアヘン」だという言葉は、ヘーゲルのパクリでしかありません。しかし、同じ言葉でもマルクスの方は、単なる否定・排除の論理でしかありませんが、ヘーゲルの場合は宗教を卒業して人間が主体性を確立する道を示したもので、全く中身が違います。なぜこのような違いが出てくるのかと言いますと、マルクスがヘーゲルの運動体の弁証法を否定し、対立をあれかこれかという形に絶対的に固定化する形而上学つまり静止体の弁証法に後退させてしまったからです。さらに言えば、絶対的真理を否定し、対自的理性を否定してしまったために、宗教が自らを揚棄して絶対理念へと到る途を塞いでしまい、最早時代にそぐわない宗教の行き場を奪って、よどみ・腐敗するしかない道に追い込んでしまったのは、他ならぬヘーゲルの学問を否定したマルクスなのです。
そもそもまだ動物でしかなかった人類の祖先が、何故に動物的本能で生きることを止めたのかと言えば、それは発展性のない動物的本能の相対的真理では最早発展できなくなったからです。つまり、動物的な発展性のない相対的真理の本能の限界を克服するための、第一の否定として、動物的本能のプログラミングを消したのです。
しかも、この動物の本能と環境との関係の固定的な相対的真理性の解体・止揚には二重構造が存在しました。一つは即自的悟性による相対的真理の発展性・創造性の獲得、つまり目の目の問題一つ一つを解決していく発展性・創造性という克服です。次にもう一つは、対自的理性の絶対的真理による相対的真理そのものの克服によってその発展性・創造性が止揚される、つまり、神によって安堵されたり、本質的必然性との癒合がなされたりという克服です。
したがって、宗教は、後者の、相対的真理を大きく超えた絶対的真理を希求する克服の一形態として生まれたものであり、理性が理性として完成する前に、悟性の衣を引きずったまま感性的認識と一体化・具体化しもので、絶対性を希求しながら、その内実は相対的真理の絶対化、すなわち絶対的真理の衣をまとった相対的真理に過ぎないものです。
ヘーゲルは、そういう宗教の実態を正しくとらえ返したうえで、それらを自らの内部の構造の一部として構造化しながら、絶対的真理の措定に成功したのです。それが概念の弁証法です。したがって、宗教は、この絶対的真理の学びなおしを通して、宗教を卒業して、絶対理念を目指すというのが正しい道筋なのです。
では、ヘーゲルにとって神とな何なのでしょうか?ヘーゲルにとって、神とは絶対的本質のことなのです。つまり、絶対精神であり、絶対理念なのです。人類は目的意識的に学問を自らの本能と化すことによって、自ら自身が絶対的本質となり、絶対理念となって主体的に世界創造をする。つまり、人間が神となって世界創造をするという設計図を描いたのです。ですから、宗教はその途上の一形態にすぎないということなのです。人類は宗教を一日も早く卒業して、自らが自らの主人となり、神となるべく絶対理念への道を目的意識的に歩むことこそが、真の人間への道なのだとヘーゲルは説いたのです。それが意志の自由ということなのです。
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