カウンター ヘーゲルにとっての神とは - 談論サロン天珠道
【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催

談論サロン天寿道

この掲示板は、東洋医学に関する諸問題を真摯に討論するためのものです。
個人的な誹謗中傷ではなく、学問的な議論であれば、どんなに激しくとも可です。
最近他所の問題を此処で意見する者が増えてきました。
ここは独立した掲示板ですのでそのような書き込みは削除いたします。

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
アップロード
URL
削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[2714] ヘーゲルにとっての神とは
愚按亭主 - 2017年11月03日 (金) 12時39分

 マルクス主義は、「宗教はアヘン」だとして絶対的に排除します。しかし、この「宗教はアヘン」だという言葉は、ヘーゲルのパクリでしかありません。しかし、同じ言葉でもマルクスの方は、単なる否定・排除の論理でしかありませんが、ヘーゲルの場合は宗教を卒業して人間が主体性を確立する道を示したもので、全く中身が違います。なぜこのような違いが出てくるのかと言いますと、マルクスがヘーゲルの運動体の弁証法を否定し、対立をあれかこれかという形に絶対的に固定化する形而上学つまり静止体の弁証法に後退させてしまったからです。さらに言えば、絶対的真理を否定し、対自的理性を否定してしまったために、宗教が自らを揚棄して絶対理念へと到る途を塞いでしまい、最早時代にそぐわない宗教の行き場を奪って、よどみ・腐敗するしかない道に追い込んでしまったのは、他ならぬヘーゲルの学問を否定したマルクスなのです。

 そもそもまだ動物でしかなかった人類の祖先が、何故に動物的本能で生きることを止めたのかと言えば、それは発展性のない動物的本能の相対的真理では最早発展できなくなったからです。つまり、動物的な発展性のない相対的真理の本能の限界を克服するための、第一の否定として、動物的本能のプログラミングを消したのです。

 しかも、この動物の本能と環境との関係の固定的な相対的真理性の解体・止揚には二重構造が存在しました。一つは即自的悟性による相対的真理の発展性・創造性の獲得、つまり目の目の問題一つ一つを解決していく発展性・創造性という克服です。次にもう一つは、対自的理性の絶対的真理による相対的真理そのものの克服によってその発展性・創造性が止揚される、つまり、神によって安堵されたり、本質的必然性との癒合がなされたりという克服です。

 したがって、宗教は、後者の、相対的真理を大きく超えた絶対的真理を希求する克服の一形態として生まれたものであり、理性が理性として完成する前に、悟性の衣を引きずったまま感性的認識と一体化・具体化しもので、絶対性を希求しながら、その内実は相対的真理の絶対化、すなわち絶対的真理の衣をまとった相対的真理に過ぎないものです。

 ヘーゲルは、そういう宗教の実態を正しくとらえ返したうえで、それらを自らの内部の構造の一部として構造化しながら、絶対的真理の措定に成功したのです。それが概念の弁証法です。したがって、宗教は、この絶対的真理の学びなおしを通して、宗教を卒業して、絶対理念を目指すというのが正しい道筋なのです。

 では、ヘーゲルにとって神とな何なのでしょうか?ヘーゲルにとって、神とは絶対的本質のことなのです。つまり、絶対精神であり、絶対理念なのです。人類は目的意識的に学問を自らの本能と化すことによって、自ら自身が絶対的本質となり、絶対理念となって主体的に世界創造をする。つまり、人間が神となって世界創造をするという設計図を描いたのです。ですから、宗教はその途上の一形態にすぎないということなのです。人類は宗教を一日も早く卒業して、自らが自らの主人となり、神となるべく絶対理念への道を目的意識的に歩むことこそが、真の人間への道なのだとヘーゲルは説いたのです。それが意志の自由ということなのです。


Pass

[2715] ヘーゲルの復権と自らを本流として目的意識的に創ることに重要性
愚按亭主 - 2017年11月04日 (土) 12時15分

 マルクスは、その著書「ヘーゲル国法論批判」の中で、ヘーゲルの「普遍性と個別性との現実的対立と統一」という規定を、「根本的二元論」だとして批判し、その両者の間をつなぐ架け橋は「永遠に存在しない」とまで言い切って、強く否定しました。これに対して、私は非常なる違和感を感じ、そこに異常性までも感じ取りました。

 というのは、ヘーゲル、がカントの<命題間矛盾論>を克服して成し遂げた<命題内矛盾論>の論理化を、弟子であるマルクスがわざわざ<命題間矛盾論>に引き戻し後退させた張本人であり、その<命題間矛盾論>こそが「根本的二元論」そのものだからです。そして、この<命題間矛盾論>ではたしかに永遠に架け橋は存在せず、従って解決できない対立・矛盾であり、したがって、現実的でないからです。つまり、マルクスは自分のレベル、自分の間違いを勝手に相手に押し付けて、正しい相手を非難しているのです。

 マルクスが、なぜヘーゲルを理解できなかったのかと言いますと、マルクスは当時非常なる勢いをもって台頭してきた個別科学の方法である唯物論こそが本当の学問の態度だと思い込んで、その立場から観念論のヘーゲルを批判的に見ていったために、ヘーゲルの高みが分からなかった。ヘーゲルが唯物論だけでは学問は出来上がらないと、唯物論で学問を創ろうとする人たちを批判していたのにもかかわらず、その師匠であるヘーゲルのまともな学問的批判に真摯に耳を傾けようともせず、自分の唯物論でなければならないという思い込みのみをかたくなに信じて疑おうともしなかったために、その師匠の批判を受け入れられなかったのです。これは、じつは唯物論が批判してきた観念論的な態度に他なりません。つまり、マルクスが本当に唯物論を貫こうとしたならば、マルクスは己自身を否定・揚棄して、唯物論も観念論も受け入れなければならなかったはずです。つまり、観念論を認めざるを得なかったということです、これがまともな弁証法的な否定的媒介なのです。

 ところが、マルクスはそこから逃げて、結果として無意識的に観念論になってしまったということです。いずれにしても観念論からマルクスは逃れられなかったということです。しかし、同じ観念論でも、前者と後者とでは天と地ほどの違いがあります。一方は学問の成就への道であり、もう一方は学問破壊への道という大きな違いです。結果としてマルクスは学問破壊の道を歩んでしまい、人類に大きな災厄をもたらしてしまったのです。

 では、ヘーゲルの言う「普遍性と個別性との現実的な対立・統一」とは具体的にはどういうことなのでしょうか?
 それは、普遍性である絶対的本質つまり絶対精神が本流として現象するということです。たとえば、南郷学派が解明した生命の本流の歴史が、その絶対精神の本流として現象の具体化に他なりません。そしてその流れを受け継いだ人類の中の本流の一つ一つの現象・個別性がその絶対的本質つまり絶対精神そのものだということです。ですから江戸時代の日本こそがまさにその本流の流れそのものだったわけです。

 したがって、私たち日本人は、その流れを受け継いだ、本流になれる資格を充分に兼ね備えた存在なのだということが云えます。動物の本流は、それを内在的な本性として自然成長的・無自覚的に行ってきたのですが、我々人類は目的意識的・自覚的にそれを為し得る、為し得なければならない存在なのだということです。その為にも、ヘーゲルの復権とその学びがとても重要なのです。

Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板