[2703] 現在の世界の対立混乱の激化の大本は、じつはマルクスにあるとは? |
- 愚按亭主 - 2017年10月17日 (火) 18時44分
講習会を無事終えましたので、議論になるかどうかわかりませんが、タマゴさんのリクエストにお答えしましょう。この問題に対する原理的な解説は「マルクスがヘーゲル哲学を受け継げなかった理由ー絶対的観念論が理解できなかった」のスレッドの中ですでに解説済みなのですが、ここではそれをもう少しテーマに即して解説しようと思います。それを理解してもらうために是非次の記事を参照にしていただきたいと思います。 [2639]「 マルクスの「労働」批判こそヘーゲルの弁証法が理解できなかった証拠」
この記事の中で私は、マルクスが、ヘーゲルが概念論のレベルで奴隷労働の本質的意義を説いたのに対して、現象論のレベルで奴隷労働の負の側面を見ていない、とヘーゲルを批判したことを問題にしました。マルクスは、この現象論レベルでの労働の負の側面である抑圧され搾取された労働の担い手である奴隷や労働者こそが人間解放の担い手となりうる、として、あたかもそれが本質的であるかのように言っております。
しかし、ヘーゲルが奴隷労働を本質的だとしたのは、人間の労働の普遍性として、対象に対して目的意識的に働きかけて世界創造を行っている点を言っているのであって、それが、まさに動物の行動と人間の労働との本質的に異なる点であることを指摘したのです。その観点から言えば、その労働が抑圧され搾取されているかどうかという問題は、労働の普遍性に対しての特殊性に属するものに過ぎず、本質的な観点からすれば、どうでもよい問題なのです。ところが、マルクスは、その普遍と特殊との区別と連関を論理的に把握できずに、ヘーゲルの正統な主張に対して、見当違いな批判をしたわけです。
そして、その挙句、マルクスは、人類が真の自由をものにする要となるヘーゲルの哲学を、自ら実質葬っておきながら臆面もなく次のように述べています。 「哲学がプロレタリアートのうちにその物質的武器を見いだすように、プロレタリアートは哲学のうちにその精神的武器を見いだす。そして思想の稲妻がこの素朴な国民の地盤を根底まで貫くやいなや、ドイツ人の人間への解放は達成されるであろう。……この解放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートの揚棄なしには自己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには自己を揚棄しえない。」
このマルクスの言葉は、その肝心の本物の哲学を、自ら破壊し、まがい物にしてしまった後においては、虚しく響くのみと言えます。何故なら、プロレタリアートを揚棄できる哲学はヘーゲル哲学以外にないからです。
実際、それが如何に誤りであったかについては、その後の歴史が証明しております。スターリンや毛沢東による膨大な血の粛清や、文化大革命やカンボジアにおいて行われたインテリ階級の抹殺や文化の破壊、その後の中国で行われた下放運動や農民を大学の校長にするという愚行は、先に挙げたマルクスのヘーゲルの自分勝手な解釈誤った批判に基いたものと言えます。
ヘーゲルは学問の歴史を教養として身に着けることが自らを人間として完成させることだとしましたが、マルクス主義は、抑圧された農民や労働者こそが人間解放の担い手だから、その農民や労働者に学べとして、それまでの人類の文化に精通した学者を殺して教養のない農民を大学の校長にするというような愚行が行われたのです。だから、今に至るも中国人の大半は人間としてレベルが低いのです。その大本は、マルクスの誤りにあるのです。よくロシアや中国の社会主義革命がうまくいかなかった理由を、資本主義段階を経なかったためだという議論がありますが、そればかりでなく、原理面でのマルクスの誤りをも、もっと問題にすべきだと思います。
このマルクス主義の文化破壊とイスラム原理主義の文化破壊とは、現象面での相似性ばかりでなく、原理面でも非常に酷似しています。それはどういうことかと言いますと、宗教のイスラム原理主義は相対的真理の絶対化ですが、マルクス主義の同じく相対的真理の絶対化という共通性があるということです。ただし、イスラム原理主義の方は観念論だけあって唯物論がなく、マルクス主義の方は唯物論だけで観念論を否定しているために、唯物論の相対的真理のみで学問を完成させようとして、結果的に否定的媒介抜きの、短絡的な相対的真理の絶対化になってしまうということです。
宗教の本質は相対的真理の絶対化ですが、これこそが、宗教が対立抗争の原因となる所以です。つまり、それぞれが絶対的たる中身を有しないのに、自ら(自らの神)を絶対的と思い込んでいるところに対立が生まれるということです。
ではマルクス主義はどうかと言いますと、絶対的真理を否定しながら唯物論を絶対視して観念論を絶対的に否定し、弁証法を標榜しながらその根底において弁証法を否定し、相対的真理を絶対化して対立を煽ってばかりいて統体止揚を否定するので、いつまでたっても問題が解決しないのです。したがって、一時期マルクス主義が世界中に大流行したことは、対立を世界中にまき散らすことになったわけです。
マルクスはヘーゲルの弟子でしたので、本来であればヘーゲルの意志を受け継いで、観念論と唯物論とを統一した絶対観念論の立場から宗教をも自らのうちに内在させた真の学問の完成への道、人類の真の解放への道を切り拓いていくべきところを、当時の時代の、部分的・科学的な唯物論の熱狂に押し流されて、師匠がすでにその次元を超越していたことに気づかずに、師匠の死後、師匠が批判していた低次元の立場から、師匠を批判して葬ってしまったのです。結果として、全世界に対立と混乱だけをもたらしてしまったのです。
またそればかりでなく、師匠のヘーゲルが、絶対的真理の学問を完成して、同じ絶対性を希求していた宗教に真の絶対性とは何かを示して、宗教が本物の絶対的真理の下に道を譲って、絶対的学問の構造の一部へと解消していくべきところを、マルクスは、ヘーゲルの学問の方を宗教と同じ観念論だとして葬り去る一方で、戦いを挑んでいた宗教の方は、とってかわることはできなかったのです。それは、同じ相対的真理の立場では、対立することはできてもそれを内に含むということはできないことだったからです。結果として宗教が納まるべきものを破壊して宗教の行き場をなくして、宗教を残す結果となってしまって、宗教に囚われている人類を解放することはできなかったのです。これはマルクスの重大な犯罪です。だから、現代の全世界の宗教的な対立・混乱の元凶はマルクスにあると主張するのです。
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