カウンター 現在の世界の対立混乱の激化の大本は、じつはマルクスにあるとは? - 談論サロン天珠道
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最近他所の問題を此処で意見する者が増えてきました。
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[2703] 現在の世界の対立混乱の激化の大本は、じつはマルクスにあるとは?
愚按亭主 - 2017年10月17日 (火) 18時44分

 講習会を無事終えましたので、議論になるかどうかわかりませんが、タマゴさんのリクエストにお答えしましょう。この問題に対する原理的な解説は「マルクスがヘーゲル哲学を受け継げなかった理由ー絶対的観念論が理解できなかった」のスレッドの中ですでに解説済みなのですが、ここではそれをもう少しテーマに即して解説しようと思います。それを理解してもらうために是非次の記事を参照にしていただきたいと思います。
[2639]「 マルクスの「労働」批判こそヘーゲルの弁証法が理解できなかった証拠」

 この記事の中で私は、マルクスが、ヘーゲルが概念論のレベルで奴隷労働の本質的意義を説いたのに対して、現象論のレベルで奴隷労働の負の側面を見ていない、とヘーゲルを批判したことを問題にしました。マルクスは、この現象論レベルでの労働の負の側面である抑圧され搾取された労働の担い手である奴隷や労働者こそが人間解放の担い手となりうる、として、あたかもそれが本質的であるかのように言っております。

 しかし、ヘーゲルが奴隷労働を本質的だとしたのは、人間の労働の普遍性として、対象に対して目的意識的に働きかけて世界創造を行っている点を言っているのであって、それが、まさに動物の行動と人間の労働との本質的に異なる点であることを指摘したのです。その観点から言えば、その労働が抑圧され搾取されているかどうかという問題は、労働の普遍性に対しての特殊性に属するものに過ぎず、本質的な観点からすれば、どうでもよい問題なのです。ところが、マルクスは、その普遍と特殊との区別と連関を論理的に把握できずに、ヘーゲルの正統な主張に対して、見当違いな批判をしたわけです。

 そして、その挙句、マルクスは、人類が真の自由をものにする要となるヘーゲルの哲学を、自ら実質葬っておきながら臆面もなく次のように述べています。
「哲学がプロレタリアートのうちにその物質的武器を見いだすように、プロレタリアートは哲学のうちにその精神的武器を見いだす。そして思想の稲妻がこの素朴な国民の地盤を根底まで貫くやいなや、ドイツ人の人間への解放は達成されるであろう。……この解放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートの揚棄なしには自己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには自己を揚棄しえない。」

 このマルクスの言葉は、その肝心の本物の哲学を、自ら破壊し、まがい物にしてしまった後においては、虚しく響くのみと言えます。何故なら、プロレタリアートを揚棄できる哲学はヘーゲル哲学以外にないからです。

 実際、それが如何に誤りであったかについては、その後の歴史が証明しております。スターリンや毛沢東による膨大な血の粛清や、文化大革命やカンボジアにおいて行われたインテリ階級の抹殺や文化の破壊、その後の中国で行われた下放運動や農民を大学の校長にするという愚行は、先に挙げたマルクスのヘーゲルの自分勝手な解釈誤った批判に基いたものと言えます。

 ヘーゲルは学問の歴史を教養として身に着けることが自らを人間として完成させることだとしましたが、マルクス主義は、抑圧された農民や労働者こそが人間解放の担い手だから、その農民や労働者に学べとして、それまでの人類の文化に精通した学者を殺して教養のない農民を大学の校長にするというような愚行が行われたのです。だから、今に至るも中国人の大半は人間としてレベルが低いのです。その大本は、マルクスの誤りにあるのです。よくロシアや中国の社会主義革命がうまくいかなかった理由を、資本主義段階を経なかったためだという議論がありますが、そればかりでなく、原理面でのマルクスの誤りをも、もっと問題にすべきだと思います。

 このマルクス主義の文化破壊とイスラム原理主義の文化破壊とは、現象面での相似性ばかりでなく、原理面でも非常に酷似しています。それはどういうことかと言いますと、宗教のイスラム原理主義は相対的真理の絶対化ですが、マルクス主義の同じく相対的真理の絶対化という共通性があるということです。ただし、イスラム原理主義の方は観念論だけあって唯物論がなく、マルクス主義の方は唯物論だけで観念論を否定しているために、唯物論の相対的真理のみで学問を完成させようとして、結果的に否定的媒介抜きの、短絡的な相対的真理の絶対化になってしまうということです。

 宗教の本質は相対的真理の絶対化ですが、これこそが、宗教が対立抗争の原因となる所以です。つまり、それぞれが絶対的たる中身を有しないのに、自ら(自らの神)を絶対的と思い込んでいるところに対立が生まれるということです。

 ではマルクス主義はどうかと言いますと、絶対的真理を否定しながら唯物論を絶対視して観念論を絶対的に否定し、弁証法を標榜しながらその根底において弁証法を否定し、相対的真理を絶対化して対立を煽ってばかりいて統体止揚を否定するので、いつまでたっても問題が解決しないのです。したがって、一時期マルクス主義が世界中に大流行したことは、対立を世界中にまき散らすことになったわけです。

 マルクスはヘーゲルの弟子でしたので、本来であればヘーゲルの意志を受け継いで、観念論と唯物論とを統一した絶対観念論の立場から宗教をも自らのうちに内在させた真の学問の完成への道、人類の真の解放への道を切り拓いていくべきところを、当時の時代の、部分的・科学的な唯物論の熱狂に押し流されて、師匠がすでにその次元を超越していたことに気づかずに、師匠の死後、師匠が批判していた低次元の立場から、師匠を批判して葬ってしまったのです。結果として、全世界に対立と混乱だけをもたらしてしまったのです。

 またそればかりでなく、師匠のヘーゲルが、絶対的真理の学問を完成して、同じ絶対性を希求していた宗教に真の絶対性とは何かを示して、宗教が本物の絶対的真理の下に道を譲って、絶対的学問の構造の一部へと解消していくべきところを、マルクスは、ヘーゲルの学問の方を宗教と同じ観念論だとして葬り去る一方で、戦いを挑んでいた宗教の方は、とってかわることはできなかったのです。それは、同じ相対的真理の立場では、対立することはできてもそれを内に含むということはできないことだったからです。結果として宗教が納まるべきものを破壊して宗教の行き場をなくして、宗教を残す結果となってしまって、宗教に囚われている人類を解放することはできなかったのです。これはマルクスの重大な犯罪です。だから、現代の全世界の宗教的な対立・混乱の元凶はマルクスにあると主張するのです。
 

 、

Pass

[2704]
タマゴ - 2017年10月19日 (木) 01時08分

>マルクス主義はどうかと言いますと、絶対的真理を否定しながら唯物論を絶対視して観念論を絶対的に否定し、弁証法を標榜しながらその根底において弁証法を否定し、相対的真理を絶対化して対立を煽ってばかりいて統体止揚を否定するので、いつまでたっても問題が解決しないのです。

なるほど。
マルクス・エンゲルスを信奉する組織や国家が、延々と分裂・対立を繰り返しているのは、其れぞれが思い思いの唯物弁証法を主唱しては他を排撃してばかりいるからなのでしょうが、
そもそも教祖たるマルクス・エンゲルスの弁証法に統体止揚の概念が希薄であることも大きいのでしょう。

天寿堂さんの専門分野でいえば、以前の天寿堂さんは現代医学を邪道だなどとこき下ろす一方でしたが、
最近のFacebookの投稿を読んでいると、天珠療法と現代医学の理論を構造に分け入って統体止揚せんと知恵を絞っているのかな...と感じます。
医師や薬剤師を納得させるレベルまで持っていけるとよいですね。

Pass

[2706] 滝村先生はマルクスを解体できなかった
愚按亭主 - 2017年10月20日 (金) 11時07分

 滝村先生はマルクスを解体したと言いながら、マルクスと同じ誤りを受け継いでおり、残念ながらマルクスを克服できませんでした。それは何を意味するかと言えば、滝村先生は、ヘーゲルが、それまでの普通の論理学の判断破壊を通じて、概念の弁証法を創り上げていった過程を、折角論理的に措定しておきながら、肝心の概念の弁証法をものにできなかった、ということを意味します。このことは、南郷学派が、せっかく生命史観を措定してヘーゲルの絶対精神の自己運動の弁証法の一部具体化に成功しながら、それを全く生かせていないことと同じです。その原因は、唯物論絶対主義にあります。

 マルクスの誤りは、ヘーゲルの学的な概念の弁証法を、「天を捨て」、対自的理性を否定し、統体止揚を糾弾して、すべてを即自レベルでの対立だけにしてしまって、俗的な唯物弁証法に矮小化してしまったことです。

>唯物論的であること 科学的であることも 非常に困難なことであると感じるのです。

 それは当然のことです。そもそも学問を創るのに唯物論だけでやろうとすること自体に無理があるからです。早くそのことに気が付いてほしいものです。

>科学理論的には後世に残る社会構成理論、唯物史観を作り上げたにもかかわらず 思想的にはまるでダメ 後世の社会に厄災をもたらしたというわけです。滝村先生は理論と思想はきちりとわけ 評価しなければいけないと言っています。

 滝村先生が分かっていないのは、人類全体の学問は、個人の思惟の運動によって創られた思想によって創られていくという事実であり、論理です。さらに言えば、同じ個人の理論と思想が論理性・体系性として一貫性がない、別物であるということは、学者と言えるレベルの者ならばありえないことです。ですから、そのように見えるとすれば、マルクスの社会構成論や唯物史観そのものの論理性にも問題があるはずです。実際、唯物史観は人間の精神の主体性を過小評価する代物でしかなく、サルが何故木を降りて人間への道の第一歩を踏み出したのかについて、唯物史観の定式では、食糧危機があったからとしてしか説明できません。これでその重大な第一歩を説明したと言えるでしょうか?マルクスの思想と理論の原理的な欠陥については、すでに前の記事で詳しく論じておきましたので、もう一度読んでみてください。

 ヘーゲルは、個人の思惟の運動によって創られた思想によって人類全体の学問が創られること、そしてその学問を個人が教養として学んでそれを基礎にして事実との格闘を通じた思惟の運動によって新たな思想を生み出し、それが学問の内容を豊富化していくという形で、人類全体の学問と個人の思想との相互規定・相互浸透を通じた否定の否定的発展によって、その統体止揚としての絶対理念が世界創造をしていくということを述べています。滝村先生のその言葉はこのヘーゲルの概念の弁証法を、ついに理解できず、マルクスと同じように俗物的に区別・対立を持ち込むだけで、その統体止揚の人類の未来図が描けないでいたことの証明でしかありません。

>私見を加えると マルクスの思想が宗教化しているのです。マルクスブランドと科学の信頼の名の下に 批判以前の信仰対象になってしまっている。

 この件に関して、どうしてそうなってしまうのかについては、前の記事で詳しく論じたとおりです。

>ヘーゲルもそうですが マルクスも三権分立はわからなかった。こうなるとマルクス・ヘーゲルが破産したのも 仕方のないことですね

 いかなる根拠をもって、ヘーゲルが破産したと言えるのですか?全く説明がありません。学問の説く真理は、単純な構造から複雑な構造へと発展していきます。後から生まれた細かな構造は、その真理の具体化・詳細化でしかありません。つまり、その論理の範囲内だということです。それを破産というのですか?

 そもそも学問は、歴史的事実として、対自的な全体性の論理を探求する思惟の運動の思弁哲学として生まれて発展し、その成果を踏まえて、即自的な部分的・具体的な事実の論理を探求する個別科学が生まれて発展し、その両者の相互規定・相互浸透を通じて否定の否定的に発展してきました。これを私はヘーゲルとは独自に、絶対的真理の観念論的な思弁哲学の系譜の発展と、相対的真理の唯物論的な個別科学の系譜の発展との、二重構造的・らせん構造的発展と規定してきました。その構造からしますと、ヘーゲルの説く絶対的真理を、相対的真理の個別科学としての政治学の細かい構造である三権分立がないから、ヘーゲルの絶対的真理は破たんしたなどと言っても、笑われるだけです。ヘーゲルは絶対的真理は、相対的真理の発展を自らの構造に構造化しながら発展していくと述べています。その運動の一環でしかなく、破産などでは決してありません。

 このように論理のレベルの違いが分からなくなって、すべてを同等にしか考えられなくなってしまうのも、唯物論絶対主義の弊害と言えます。

Pass

[2708]
tada - 2017年10月20日 (土) 23時06分

>いかなる根拠をもって、ヘーゲルが破産したと言えるのですか?
 
これは 人権思想・個人の存在を尊ぶ実存主義に ヘーゲルの国家主義・マルクスの社会主義が批判され 思想界から片隅においやられ 忘れ去られたという歴史的な経緯について話をしたまでです。三権分立を理論化できていないことは 国家を専制国家としてみることしかできない。滝村理論を知る者にしてみれば 1990年代からヘーゲル・マルクスの欠陥として 彼らの国家論は体をなしてない・理論に時代的な制約が大きいと指摘しています。しかし 彼らの世界史の方法・社会構成理論につながる理論的発想は不滅のものだと評価しています。ただ ヘーゲルの絶対○○とかは神学的意匠としかみていません。絶対と神は同義語と考えています。科学的に言えば 普遍的法則性です。

>同じ個人の理論と思想が論理性・体系性として一貫性がない、別物であるということ

これも普通にあることです。すべてにおいて 理論的に完全な人などいません。理論化前の思想で止まることもあります。思想とは先見的アプリオリなものです。理論と思想を厳密に腑分けすることが必要なのです。思想には理論に繋がる発想が含まれているのは当然なことです。先行学説の研究・直観的思考ここから学問が始まることも常識ですね。簡単に言って 実証性や法則性がみられるかが 単なる思いつきと理論をわけるのです。だから こんなことにこだわる天寿堂さんを 私は唯物論がわからないと言ったわけです。

Pass

[2709] ますますヘーゲルの復権の必要性が増しましたね
愚按亭主 - 2017年10月21日 (土) 14時17分

 tadaさんと私の見解の決定的な相違点は、tadaさんの言葉を借りれば「ヘーゲルの国家主義」と「マルクスの社会主義」とを同列に見ているか、いないかにあると思います。つまり、私は天と地ほどの違いがあると見ているのに対して、tadaさんは全く同列のものとして見ているという違いです。

 ですから、私は、マルクスは言葉・形式だけヘーゲルから借りてきて、中身は全く自分のレベルに矮小化してしまっている。と断じたのです。どういうことかと言いますと、ヘーゲルは国家と個人を弁証法的に統体止揚しているのに対して、マルクスの中身は社会か個人かという形で形而上学的に対立させたまま、社会の方を取った。これに対して、マルクスと同じレベルでしかヘーゲルを理解できなかった実存主義者たちは個人の方を取った。というだけの話です。つまり、どちらもヘーゲルを越えられなかったし、ヘーゲルの理論を破産させてもいません。

 では滝村先生がそれができたのか?それが三権分立主義というのであれば、とんだお笑い種です。国家と個人の統体止揚は、そんな形式的なことではありません。現に三権分立でそれが解決できていますか?いませんよね、肝心なことが抜けているからです。そんなことも説けないでどうして政治学者と言えるでしょうか?まさにヘーゲルをバカにするものは罰なしにはすまされないと思います。ちなみに言えば、それを実現できた唯一の国(社会)があります。それは江戸時代の日本です。この時代に三権分立などありませんでした。それでも、実現できていたのです。ですから、それは形式ではないのです。

 だから、今こそヘーゲルの復権が必要なのです。ヘーゲルの説く絶対的真理は、唯物論者の説く「物質」は「普遍的法則性」とは全く中身が違います。形だけで中身・生命のない死んだ論理だと批判しています。バラバラの細胞を集めて一つにまとめてこれが生命ですと言っているようなもので、それが個体として生きて運動はしないと批判しているのです。その違いが唯物論者たちは分からないのです。唯物論者は観念論だというだけで誤りだとします。神という言葉を使っただけで誤りだと決めつけます。その中身を決してみようとはしません。これをヘーゲルは、唯物論者は理性の不都合な面だけ取り上げて、理性そのものを否定していると批判しています。

 問題は、真理であるかどうかこそが問われなければならないのに、観念論というだけで中身も見ずに頭ごなしに否定するのが、唯物論を貫くことで、学問的な態度だと思い込んでいるようです。観念論でも真理に到達することは可能であることを、唯物論者は頭から認めようとしません。これこそが自分たちが観念論を批判するときに意識的に取り上げようとする悪しき観念論の典型に他ならないのに、そのことに気づいていないようです。皮肉を込めて言えば、そういう姿勢が、学問から遠ざかるばかりの、悪しき唯物論と観念論との統一に他なりません。

 人類は、歴史的事実として、観念論で絶対的真理に到達することができました。それを成し遂げたのがヘーゲルです。他方、唯物論の個別科学が相対的真理を次々に明らかにしていきました。そしてその統一こそが、完全なる真理であり、学問の完成なのです。そのことに唯物論絶対主義者たちに一日も早く気付いてほしいものです。だから、ヘーゲルの復権が人類にとって、人類に必須の学問の完成にとって必須だと主張するのです。

>これも普通にあることです。すべてにおいて 理論的に完全な人などいません。

 私が問題にしたのは、「同じ個人の理論と思想が論理性・体系性として一貫性がない、別物であるということは、学者と言えるレベルの者ならばありえないことです。」とあるように、マルクスや滝村先生・南郷先生のような論理的な思考を技化した人を言っているのです。もしそういう人が一貫性がない思考をしたとするならば、その人は偽物であり、技化がまともにできていなかったと言わざるを得ません。通常はそういうものを思想とは呼ばないはずです。tadaさんが、これだけ懇切丁寧に説明しても私の言うことが分からないのは、唯物論絶対主義という論理・思想に乗っかって(規定されて)思考しているからに他なりません。

Pass

[2710] 国家論大綱をよく読みなさい
tada - 2017年10月22日 (日) 13時44分

偽物には偽物である一貫性がある。失敗の思想を発想と方法論をみれば やはり失敗の体系性が見て取れるものです。だからその思想に科学的理論につながる発想と方法論があるのかが問題なのです。資本論で名を成したとしても 国家理論においては マルクスはダメでした。それだけのことです。カントも2項対立で機能主義ではありますが 国家権力の三権の把握はヘーゲルより常識的でした。プラトンやアリストテレスの思想も一貫性はありますし 発想と方法論からみて体系的です。思想が悪いのではなく そこから理論的にどう見るべきだということです。一流の学者の主たる業績に一貫性があるのは当たり前。二次的三次的業績に欠陥があるとしてもそれはそれです。空手の達人が合気道の名人にもなれるとはかぎらないでしょう。カテゴリーが違うと素人談義になるわけです。滝村先生も経済学では素人だと言っています。

普通にみれば 国家主義と個人主義が硬貨の裏表のように二重に存在するのが正解です。ヘーゲルも単なる国家主義ではないことはわかります。少なくともマルクスの思弁的な類的存在という考え方・発想で社会と個人を捉えたように 国家と個人をとらえていない。ただ国家第一のヘーゲルの考え方がヘーゲル主義者から拡散し レッテルを貼られ ヘーゲルの思想は誤解とともに追いやられたということです。三権分立の重要性がわからない、モンテスキューの思想の意義がわからない点もヘーゲルの国家論が専制国家論であると 単純にみられるわけです。しかし それは時代の制約があるから仕方のないことだと言っているのです。法の哲学を読めば 法的規範性が論じられています。そこから司法権の画期的な意義は 近代以降 歴史的事実が立ち現れないと わからないことであり ヘーゲルがいくらがんばっても論じられないことなのです。へ−ゲルの国家論は古典的教養・先行学説としては有用ですが 国家論として限界があるのです。しかし ヘーゲルの方法論と発想は科学理論では有用なのです。天寿堂さんの観念論と唯物論を止揚する絶対論は 私たちと同じく 当たり前のことを言っているだけです。表現の仕方が違うだけです。

歴史をみれば わかるように 近代以前の国家の政治形態は ほとんどすべてが専制国家です。近代以降において 議会制民主国家があるというのは 政治形態からみれば 例外に属するように見えるものです。この民主性が重要なのは 近代以降の統一的経済圏の広大な範囲に対する国家権力の強力で巨大な貫徹力に対抗するために歴史的形づくられたものです。ファシズム・スターリニズムを念頭に その独裁政治の凄まじさと恐怖に対する対抗策なのです。相手は核兵器まで持っている。鍬や鎌 刀で百姓一揆をおこしても無駄死にです。議会が立法権を奪い 執行権トップも選挙で選び 国家運営ににらみを効かす、法的規範としての司法権による国家意志への規定、時の権力者さえも法律違反で処罰される。この三権分立と議会制民主制こそが 近代巨大国家の独裁暴走に歯止めをかけられる唯一のものなのです。江戸時代 徳川幕藩体制でファシズム・スターリニズムを防げるとは笑止なことです。(この文 冗談ですので怒らないでください) 

Pass

[2711] 滝村先生は、ヘーゲルの法の哲学の意義が分かっていない
愚按亭主 - 2017年10月23日 (月) 07時56分

>偽物には偽物である一貫性がある。失敗の思想を発想と方法論をみれば やはり失敗の体系性が見て取れるものです。だからその思想に科学的理論につながる発想と方法論があるのかが問題なのです。

 仰る通りです。ただ、その問題を論ずるときに「思想」についての捉え方に若干のずれがあるようですから、その点を少し整理してから、論を進め
たいと思います。tadaさんは「思想」を理論の前段階のような捉え方をしているようですね。南郷先生はその個人の人生に関わる考え方というような定義をされていたと思います。では、ヘーゲルはどうとらえていたかと言いますと、個人の頭の中に思惟の運動によって創られたそれなりの体系性を具えるに至った論理像というような捉え方をしています。ですから、「思想」にもピンからキリまであって、まだ人類が発見できていない新しい論理や体系性を持った「思想」が公認されると、それが個人から離れて一般的な理論となり学問となっていくという関係であることを説いています。私は、この見方が正しいと思います。だから、後進は、先達の創り上げた学問を教養として学んで、それを基に現実と格闘しながら、自分なりの「思想」を創り上げていくという形で、個別の「思想」と一般的な「学問」との相互規定・相互浸透を通じて人類の理性的認識は発展してきたのだと思います。

 さて、冒頭私は、tadaさんの意見に同意しましたが、マルクスの思想の根底にある原理的な誤りについて、すでに何度も論及しております。それはマルクスが、ヘーゲルの弁証法の統体止揚の過程における媒介を否定して統体止揚の過程を破壊してしまったことです。これによって、人類の学問は、折角ヘーゲルによって命題内矛盾の実現こそが解決であるという運動の本質的構造を解明した、新たな運動体の論理学が産声を上げることになりましたが、その途端に、弟子にあたるマルクスによって、カントレベルの解決できない命題間矛盾の死んだ論理学・運動性のない普通の論理学に引き戻されてしまったのです。その結果、それ以後の学問は、このレベルで右往左往して、正しい答えを得られないまま迷走し続けているのが現実なのです。それこそがマルクsの最大の誤りです。滝村先生は、せっかくヘーゲルの概念の弁証法の論理構造を深く研究しながら、ついにそのマルクスの根本的な原理的誤りを見破れずに、したがって、マルクスを批判し解体したと豪語しながら、その実態は、自分自身もそのマルクスと同じ誤りを犯していることに、とうとう気づかないまま旅立たれてしまったのです。結果として、滝村先生の国家論は、本質論抜きの現象論に止まってしまったのです。これも滝村先生が、ヘーゲルの「法の哲学」をヘーゲルのレベルで著むことができずに、自分の国家論を学的に引き上げることになるはずのへーげるの重要な文章をあろうことか、逆に批判して投げ捨ててしまった報いだと思います。

 ヘーゲルの学問は常識を超越しています。ですから、「カントの方が常識的」なのは当たり前のことです。それはむしろヘーゲルの哲学が常識を超越した偉大なレベルにあることの証明以外の意味を持ちません。それを死んだ普通の論理学の常識から批判しても、批判になるどころか、反対に自らの不明を公言して恥をさらすだけです。

 では、ヘーゲルの「法の哲学」の国家論建設の上における意義は何かと言いますと、人間の国家・社会はいかなるものとして創り上げなければならないかの理想像・本質的必然性を明示したことです。それが、「自由とは必然性の洞察である」です。つまり、意志の自由とは、国家意志の自由とは、個人の意志の自由とは、を明らかにしたことです。これは、自由と不自由、国家と個人、との弁証法的統一、すなわち統体止揚の内実を示したものです。それを人類史上において唯一見事に実現して見せたのが、江戸期の日本でした。当時の支配階級を構成していた武士は、国家のために自ら主体的に一身を賭す武士道精神で自らを厳しく律していたため、その精神が社会の隅々まで(渡世人までも)浸透して、犯罪が少なく、商業においても公正価格や信用取引の世界の先駆けとなるシステムを創り上げ、庶民の娯楽であった歌舞伎などでも、「熊谷陣屋」などのような主人の世継ぎを守るために(国家のために自ら主体的に自分の子を身代わりにして首をはねる、というような話が人気を博していました。ですから、大政奉還ということも可能となったのです。

>江戸時代 徳川幕藩体制でファシズム・スターリニズムを防げるとは笑止なことです。

 ヘーゲルの国家第一主義と、マルクス的なファシズム・スターリニズムとは根本的に違います。それが生まれる背景は、対自的理性の存在しない即自だけのの国家主義、権力者たる自分の利益を守るために自らの地位を脅かしそうな者を皆抹殺するという発想は、、即自の唯物論的な発想です。残念ながら現在の世界はその発想が蔓延しています。これもマルクスの罪なのです。江戸期の日本は、まさに本質レベルのヘーゲルの国家第一主義と同じでした。ですから、そもそもファシズムやスターリニズムなど生じようがないので、防ぐ以前の問題です。この肝心の国家の本質論抜きに、現象論的な三権分立を云々しても本末転倒であり、まともな国家論など作れるはずがありません。せいぜいのところ、即自のエゴ丸出しの国家社会で何とか権力の暴走を防ぐ次善の策程度の意義しかありません。それは、物質の本質の運動・生命の本質の運動を受け継いだ、目的意識的な概念の本質の運動である理念的国家のまともな発展からは、程遠いものでしかありませんから・・・。

 

Pass

[2712] ヘーゲルの国家第一主義の構造
愚按亭主 - 2017年10月26日 (木) 10時07分

 ヘーゲルの国家第一主義が、マルクスや滝村先生の国家論と大きく違う点は、人類の国家を、絶対的本質の本流すなわち物質・生命の本流の流れを受け継ぐ主体、しかもその最高の発展形態、それも発展し続ける主体としてとらえている点にあります。

 マルクスは、このヘーゲルの見方を、現実との懸け橋を持たない抽象を、あたかも持つかのように夢想する「根本的二元論」と批判して、否定してしまいました。このマルクスの{国法論批判」を読んでいるはずであるのに、批判していないところを見ると、滝村先生も同じ考えのようです。ところが、天に唾した唾が自らに跳ね返ってくるように、マルクスの「類的存在」や「共産主義」の方こそ、現実からかけ離れた「架け橋」を持たない命題間矛盾的二元論であることは、其の後の歴史によって証明されてしまいました。

 これに対して、ヘーゲルの国家第一主義という普遍性は、ヘーゲルとはまったく無関係に、むしろヘーゲルの時代よりも前の時代の日本において、立派に実現されていたというように、普遍と個別との現実的対立の統一が、歴史的事実として存在していました。つまり、ヘーゲルの言った「現実的である」が正しく、「永久に橋がない」とこっぴどく批判したマルクスの方が間違いであったということです。ではなぜ、それが現実的であるかと言いますと、その普遍性が、内的な本質的必然性であったからであり、本当の真理であったからです。

 このヘーゲルの国家第一主義は、ヘーゲル哲学の「絶対観念論」や論理学の「有論・本質論・概念論」とまったく同じ構造を持っております。それは具体的にどう云う構造かと言いますと、たとえば、絶対観念論は、唯物論と観念論とを統一して、それを内的構造化した絶対的本質を主体とするという意味での絶対観念論なのです。

 また、論理学の基本構造についていえば、唯物論的な現象論である有論と、観念論的な思惟の運動によってその本質的な規定を明らかにする本質論と、その両者の統一体としてダイナミックな運動性を持った概念の運動を明らかにする概念論という構造になっています。

 では国家第一主義はどういう構造になっているのかと言いますと、国家が個別的な形で現れる唯物論的な即自の国民と、国家が対自的・観念論的・一般的な形で現れ統括する法や国家権力と、その両者の統一体・主体としての絶対観念論的な国家が存在するという構造になっています。ですからあくまでも主体は国家なのです。国家を構成する個人は、皆寿命があります。有限なのです。しかし絶対的本質としての国家は無限に発展しうるものです。ですから有限な国民も本質的に無限になるのです。これがヘーゲル的な真無限です。

 しかし、カント的・マルクス的な国家論では、国家と国民は対立したまま永久に交われない悪無限になってしまうのです。だから三権分立が必要になるのです。

 その点は滝村先生もうすうす気づいていて、本当は専制が良いとは思っているようですが、それは現実には不可能だから次善の方策として、民主主義や三権分立を選択する、というようなことを述べていらっしゃいます。しかし、この民主主義や三権分立を会社でやったらどうなるか?すぐにその会社はつぶれてしまうだろうとも述べていらっしゃいました。

 しかし、現今では、そのマルクス的な即自第一主義が会社にも浸透してきて、そのマルクス的な会社第一主義から会社の不祥事の隠ぺい工作が行われて、それがばれて外部からの第三者委員会の監査を受け入れざるを得なるというケースが増えています。これも、日本が心魂込めて創り上げてきたヘーゲル的な国家第一主義が、廃れてきている証拠です。また、組織の硬直化・官僚組織化の弊害の反動として、個人の自由を尊重したやり方が流行り出しています。これなども、マルクス的あれかこれかの振り子に過ぎません。

 ヘーゲルの国家第一主義の「自由とは必然性の洞察である」が、浸透すれば、それぞれが、それぞれの立場で国家第一主義に基づいて、主体的・真の自由的にその能力を発揮して国家全体としても見事な発展を示しうるはずです。それが、江戸期の日本であったのであり、その遺産を受け継いだ明治・大正・昭和初期の日本が、科学的には後進国であったにもかかわらず、それを自らの力で克服して、世界を植民地支配していた西欧列強に敢然と戦いを挑んで世界の歴史を大きく塗り替え、発展させた本流としての力なのです。

Pass

[2713] tadaさんとの討論のおかげ
愚按亭主 - 2017年10月28日 (土) 19時55分

 じつは告白しますと、前の記事で展開したようなヘーゲルの「法の哲学」の学問的な意義は、討論を通じてお互いの認識の発展をはかりましょう!としてはじめたtadaさんとのやり取りの中で、初めて気づいたことでした。つあり、それまではまったく気づいておりませんでした。しかし気づいてみれば、それがどんなに意味のあることで、価値のあることかをひしひしと感じます。そして、ますます、ヘーゲルの復権は、人類の正しい歩みのために、何が何でも果たさなければならないことだ、と痛感させられました。

 そこで話を蒸し返すようですが、唯物論と観念論との問題に立ち返って、少し考えてみたいと思います。というのも、マルクスや滝村先生や南郷先生がヘーゲルを正しく理解できない理由が、唯物論の立場から理解しようとして、皆失敗しているからです。南郷先生に至っては、学問的な哲学の歴史には中身が何もない、と完全否定までしてしまっているからです。あれほど人間の歴史性を強調されていた、同じ南郷先生のお言葉とはとても信じられない思いですが、唯物論を徹底して貫こうとすると、そこまで行ってしまうものなのだと、また、唯物論の色眼鏡は、そこまで偏光眼鏡となって、みるべきものを遮ってしまうのだ、ということを肝に銘ずる必要があるように思います。

 では早速本題に入りましょう。ヘーゲルは、「大論理学」上巻の1の有論のはじめのところで、学の始元について論及しています。この「始元」とは、世界の始元でもあり、学の始元でもあり、それは結局のところ、世界の原理すなわち基本構造そのものを意味すると述べています。そして、それは、あくまでもそのもの自身の、つまり内的な構造として究明すべきもので、外から持ってくるような外的規定であってはならないと、厳しく戒めています。

 ところが、唯物論こそ学問的な立場であると主張する人々は、平気で世界が創られたものだとするならば、それは物質以外の存在によって造られたはずだから、物質でない神のような精神的存在によってこの世界が造られた、という外的規定を持ち出して観念論を定義づけています。こんな安易な非学問的なやり方で唯物論を正当化して、学問的であるつもりでいるのです。

 これに対して、ヘーゲルは、いろいろな角度から幾重にも始元について検討した後で、結論的に次のような始元についての分析を行っています。曰く

「(1)まだ何もない〔無がある〕が、何かが生ずべきである始元は純粋な無ではなくて、何かがそこから発生するはずの無である。それ故に有もすでに始元の中に含まれている。それ故に始元は有と無との両者を含んでおり、有と無との統一である。――云いかえると始元は同時に有であるところの非有である。また同時に非有であるところの有である。

(2)次にまた、有と無とは始元においては区別されたもの〔ちがったもの〕として存在する。というのは、始元は〔それ自身すでに〕何か他のものを暗示しているものだからである。――始元は或る他のものである有に関係しているところの非有である。始まりつつあるものは、まだない。それは、まず、有を目がけて進む。それ故に始元は非有に別れを告げ、非有を止揚するものであるような有を、非有に対立するような有を含んでいる。

(3)しかし更にまた、始まるところのものはすでに存在するとともに、それはまた存在しない。それ故に有と非有という対立するものは、この始まりの中でそのまま合一している。云いかえると、始元は両者区別のない統一である。

 こういうわけで、始元の分析から得られるものは、有と非有との統一の概念〔即ち一種の有〕――もっと反省的な形式で云えば、区別のあるものと区別のないものとの統一、或いは同一性と非同一性との同一性の概念だと云ってよい。この概念は絶対者に関する最初の最も純粋な、即ち最も抽象的な定義と見てよいもので――一般に絶対者の定義の形式とか、名称とかが問題になるとすれば、実際この概念こそそれだといってよかろう。この意味で、この抽象的な概念が絶対者の最初の定義であるように、すべての更に進んだ規定や展開は、、ただこの絶対者の一層規定的な、また一層内実的な定義に過ぎないものと見られよう。だが、有が無に推移し、そこから有と無との統一が生ずるという理由で、有を始元とすることに満足できない人々は――始元の観念から始めるがその観念に恐らく正しいであろう分析を加えるとき、それもまた有と無との統一に達するというような――彼ら自身の始元が、果たして有を始元とするよりも満足なものであるかどうかを答えてもらいたいものである。」(大論理学上巻の一より)

 このようにヘーゲルは、常識的な唯物論(もとから存在していた)と観念論(発生によるもの)との対立を、見事に論理学として原理的に解決していたのであり、絶対者についても外的な神などではなく、内的な本質的概念であることを明確に述べております。

 これを観念論だとして、非学問的だとして否定することができるでしょうか?否定する人は、このヘーゲルの分析を上回る唯物論的な始元論を展開すべきと考えますが、誰か挑戦する人はいませんか?

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