カウンター 少しまとめました - 談論サロン天珠道
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談論サロン天寿道

この掲示板は、東洋医学に関する諸問題を真摯に討論するためのものです。
個人的な誹謗中傷ではなく、学問的な議論であれば、どんなに激しくとも可です。
最近他所の問題を此処で意見する者が増えてきました。
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[2690] 少しまとめました
tada - 2017年10月02日 (月) 23時33分

 ヘーゲルの論理学と滝村先生の科学的方法は 名辞は違っても 内容は対応する 同じものです。天寿堂さんによれば それだけでは 足りないと言う。純粋哲学的思惟の錬磨がない。この過程がない唯物論は欠陥を持つという。果たしてそうでしょうか?繰り返しになりますが 滝村先生の国家論にはわかりにくい部分はあるかとは思いますが 重大な欠陥はありません。
 
 ヘーゲルは論理学の達人であるにもかかわらず 晩年の著作である法の哲学で 国家論をものにはできませんでした。三権分立論においては この論理学が思考に対して型をはめ 対象の事実から抽出する論理をゆがめるという短所・欠陥を露わにしました。

 哲学・思想・形而上学などのアプリオリ・先見的思考はその発想の自由さ・面白さをもち 論理学は一般性レベルの思考の方法として位置をもちます。しかし 論理学は対象に直接にあてはめることはできない。あくまでも対象の特殊性に基づく方法論が必要なのです。論理学は一般性レベルまで 抽象化している論理だからです。


 

Pass

[2691] 私が一貫して主張していることは何か?
愚按亭主 - 2017年10月03日 (火) 17時19分

 それは、唯物論では学問の体系化を完成させることはできないという一点に尽きます。偉大なる滝村先生や南郷先生という巨人をしても、それがかなわなかった・かなわないでいるという事実が、そのことを歴史的に立証・実証していると思います。実はこのことはすでにヘーゲルも言っていることなのですが、学問は唯物論でなければだめだ、と思い込んでしまっていたマルクスや滝村先生・南郷先生には、それが分からなかったようです。これもまた唯物論ではだめだという一つの例証ともなりえます。

 ヘーゲルの言う概念とは、絶対的本質すなわち全体性の本質のことです。ですから、概念の弁証法というのはこの絶対的本質(全体性の本質が、否定の否定を通して個別科学を取り込んで発展していく運動を言います。このことをマルクスも滝村先生・南郷先生も分かっていないのです。というよりも唯物論に相容れないということで、この概念とそれを駆使する理性を意識的に否定しているので、唯物論のままでは分かり様がないということです。だから、三人が三人とも、ヘーゲルによって駄目だしされているそのレベルに過ぎないことに気づかずに、ヘーゲルよりも上を行ったつもりになっているのです。

 この三人の唯物論的論理学には、ヘーゲルの論理学には明確に存在する、部分的事実の論理的把握である即自的悟性と、全体性の論理的把握である対自的理性との区別と連関がありません。唯物論的な即自的悟性しか認められないからです。これでヘーゲルの論理学が分かるはずがありません。「天を捨て」れば済むと思っていたようですが、それは、学問の冠石を捨て、ひいては学問そのものを捨てるに等しいことが分かっていなかったようです。

 ヘーゲルの論理学が、学問の体系化になぜ必須なのかは、次のヘーゲルの論理学の構造を見れば一目瞭然となるはずです。

有論(現象論ー対象の非本質的部分)において対象の確定すなわち定有の措定にも、全体からの切り離し定有の区別(第一の否定)、対自有化すなわち全体への戻し(第二の否定)=定有の完成・確定という否定の否定の過程があり、それに対して否定的媒介による本質論への移行が始まる。

本質論(本質論ー対象の規定的な本質的部分)この移行(悟性的思惟)によって形成された抽象的悟性ーこれはまだ直接態としてのむき出しの本質論でまだ言葉だけで内容が伴っていない段階。これも対自的理性による否定的媒介によって初めて有限性が無限性へと飛躍して本質としての実質が備わるのです。

 しかし、この段階ではまだ両者は対象内で対立したままの状態であって、運動は生じません。つまり、このままでは死んだ普通の論理学とさして変わらないということです。この対象内の対立する両者をその内的必然性に基いて統一されて生命と運動を生み出するものが概念であり、その展開が概念論なのです。これがヘーゲルの説く論理学です。ですから、マルクスの論理学とも、滝村先生の論理学とも全く次元が異なるものなのです。

 ヘーゲルの「法の哲学」は、哲学とあるように個別科学としての国家論ではありません。それを個別科学レベルから批判している滝村先生は、学問の体系化の何たるかが全く分かっていないのです。それは個別科学の国家論(即自的悟性)に対するところの、否定的媒介としての哲学すなわち対自的理性としての国家論です。個別科学の国家論を取り込んで無限に発展していくところの概念なのです。そこが分からない滝村先生は、ヘーゲルの「法の哲学」を否定することによって、自らの国家論の学的体系化の道を自ら閉ざしてしまったのです。


 

Pass

[2692] 抽象度を考えよ
tada - 2017年10月03日 (水) 23時33分

天寿堂さんの考えている哲学と 私や滝村先生の考えている哲学の意味が違うようです。天寿堂さんの哲学とは総合学問のような学問総体を意味しているようですね。私の哲学とは科学以前の学問。先見的アプリオリな思想性が高い学問です。科学的な実証性が薄い学問。個別科学に分割される以前のある特定の人物の名前が冠につくような学問です。ちなみにヘーゲルは哲学と科学の分岐点に存在しています。 

当然体系化と言えば 「個別科学」の国家論の学的体系化しかわかりません。滝村先生の場合 研究対象が国家論であるため プラトン・アリストテレスからカント・ヘーゲルに至るまでの古典学的巨匠たちにとって最大最高の学問的対象である国家論と一致しているわけです。それがために 滝村国家論は 古典的巨匠たちの発想方法論をほとんどすべてにわたって 分析できるわけです。これで哲学の把握は十分できるのです。滝村先生は国家論をつうじて 学的本質を掴まれた。学的一般論を提示することができたのです。

天寿堂さんの哲学体系で考えれば 現実には宇宙論と進化論がまだ あとに控えているわけです。これら未解明の問題を対象にするとき 仮説的先見的アプリオリな哲学思想から始まり 先行諸学説へ つまり 限定的な確実性ある科学へ向かう試練の道 もしくは 仮説的先見的アプリオリな哲学思想だけで止まり この世に哲学を先祖返りさせるエセ科学の道が考えられます。天寿堂さんは本質規定レベル・抽象度の高いレベルの体系化を言っているだけです。これならそう難しくはないのです。逆に具体的レベルでは そう簡単には 体系化できません。滝村先生の世界史の方法を考えてください。

Pass

[2693]
ゼロ - 2017年10月04日 (水) 09時39分

あなたの「主張」は、誤解の余地なく伝わっていますよ。

そして、唯物論という公式に当てはめれば正解が出る、なんてこともあり得ないことは誰もが知っています。もちろんマルクスだって滝村先生だって南郷先生だって。

あなたこそヘーゲルを絶対視する、図式的思考でしかものが言えてないように見えます。もしそうじゃないというならば、あなたの「主張」ではなく、その実践である「天珠医学が説く目から鱗の人間牡身体の真実」を公開すれば、あなたの丸ごと全部の力量がわかります。

Pass

[2694] 人類の学問の歴史の流れはどうなっているか
愚按亭主 - 2017年10月04日 (水) 18時33分

 tadaさんの言わんとすることは、私も以前はそう思っていましたからよく分かります。その私が、相対的真理主体の唯物論的な真理論に疑問を感じて、、絶対的真理こそが根本的・本質的であるという形に発想を大転換してみたら、驚くべきことに人類の学問の歴史も、今の学問がどういう壁に突き当たっているかも、見えるようになりました。これは、決してヘーゲルを読んでそうなったのではなく、独力で行ったことです。人類の学問史を絶対的真理の系譜と相対的真理の系譜との絡み合いで解く見方も私が独自に開発したものです。こうした研鑽の結果として、ヘーゲルの考えと一致しただけの話です。

 だから、ヘーゲルの言わんとすることも、よく分かり、その凄さも身に染みて実感できるのです。そういう私から見ると、どうして皆こんな簡単なことが分からないのかと不思議でなりません。私は、本当の話、ヘーゲルの本を一度読むか読まないか程度しか、ヘーゲルを勉強しておりません。たったそれだけで分かってしまうのです。それだけでマルクスや滝村先生・南郷先生がヘーゲルがまるで分っていないことも分かるのです。これについては具体的にその人たちの本の文章を引用して説いてあるはずです。つまり、言葉だけでなく具体的にどこがどう間違っているかをしっかりと説いてあるので、異論のある人は遠慮せずに、論争を挑んできていただきたいものです。

 人類の学問の歴史は、ギリシャ哲学という哲学からはじまります。これは、相対的真理的な動物的本能の限界・欠点を克服するために本能を捨てて(第一の否定)絶対的なものを希求するという内的・本質的必然性に基づくものでした。ですからそのためにこそ人類は、現実的な自分から離れて、自由に運動できる認識を新たに創り上げたのです。つまり、現実の自分の立ち位置に縛られないで、自由に全体を俯瞰して、いかなる変化にも対応できる超然たる絶対的な真理を認識しうる実力を創り上げたのです。

 だから、学問は先ずその絶対的真理を追究する観念論的な思惟の運動としての思弁哲学として生まれることになったのです。そうやって最初に完成したのがアリストテレスの形而上学および形式論理学すなわち静止体の弁証法です。そして、人類の学問史は、これがあったからこそ、唯物論的・部分的な事実の究明としての個別科学の追究がはじまり、その中で各分野での静止的・不動の法則が次々に発見されていったのです。

 しかしながら、この静止的な運動性のない法則では世界を機械的に解釈するしかなく、これをもって絶対的真理というにはいささか役不足であり、運動・発展する世界を正しく把えうる新たな哲学の創造・登場が必須的必然性でありました。それを成し遂げたのがヘーゲルです。彼は当時解決困難問題としてあった、始元の問題すなわち唯物論と観念論との対立、主観と客観との対立、思惟と対象との対立等々の問題をすべて解決して、絶対知(絶対的真理)に到達して、絶対的本質としての概念の運動体の弁証法を完成させたのです。

 このヘーゲルの偉業の人類史的意義、学問史的意義を、その弟子であったマルクスとエンゲルは、残念ながらよく分かっておりませんでした。彼らは、当時の個別科学の発展の現実生活への圧倒的な影響力と、学問は唯物論でなければならないという流行の勢いに乗って、マルクス・エンゲルスは、ヘーゲルの本物の学問を、宗教と同じ観念論だから、という理由だけで否定してしまったのです。これは、ヘーゲルが折角到達していた統体止揚の学的境地を、わざわざ破壊して分離させ、その対立を固定化するもので、大きく前の時代の認識に後退させるものに他なりませんでした。

 ただその誤りの中でも、絶対的真理から相対的真理へ、観念論から唯物論へ、哲学から個別科学へという流れ自体は、第一の否定としての歴史的・本質的必然性のあるものであり、学問の歴史を進める意義のあるものでした。ですからその後はそういう発展がみられました。問題は、何年たってもその誤りに気付かず、したがってその反省の意識もなく、観念論から唯物論へ、哲学から個別科学へというのが、一時的なものであり、やがては発展し体系化された個別科学が、絶対的真理としての概念すなわち学問全体の中に包摂されるべきものであるという認識が全くないことです。それどころかむしろ、唯物論の立場に立って個別科学の集合体を学問にすることが絶対に正しいと思い込んでいたものがほとんどで、それが現在でも硬い岩盤状の常識となってしまっていることです。

 だから、個別科学の体系化を推進する時には、さほどの問題とはならなかった唯物論の立場を固守するということが、いざある程度出来上がった個別科学を学問として集大成するという場面になって、初めて問題が顕在化して、壁に突き当たって立ち往生しているのに、その真の原因がなんであるかということが分からないでいるというのが現在の状況なのです。その原因は唯物論の絶対視する硬直したアタマにあるのですが、それを反省しようという動きが全く見られないというのが今の現状なのです。だからこうして何度も何度も説き続けているのです。

 その意味で、ゼロさんの
>、あなたの「主張」は、誤解の余地なく伝わっていますよ。

 というのは、残念ながら「誤解の余地」どころか誤解以前の全く私の主張を真面目に読んでいないということを、次の文章が証明しております。すなわち「唯物論という公式に当てはめれば正解が出る」などと私は一言も言っておりません。

 私が言っているのは個別科学を究明する立場として唯物論は正当だが、学問全体を体系化する段になった時は、唯物論から離れて自由な立場にならなければ、学問の真の体系化はできないということを言っているのです。人類の学問史は、今まさにそれが痛切に問われている時代になっている、ということを言っているのです。このことは、ヘーゲルだけでなく、南郷先生や寄筆一元さんが尊敬しているディーツゲンも同じことを言っているもので、私の独断では決してないのです。

>、あなたの「主張」ではなく、その実践である「天珠医学が説く目から鱗の人間の身体の真実」を公開すれば、あなたの丸ごと全部の力量がわかります。

 それはすでに公開していて、誰でも読もうと思えば、天寿堂整復院のHP(https://tenjudo.com/)で簡単に購入して読めるようになっております。是非一読してみてください。そのほかに、天寿堂整復院のフェイスブックに毎日実践記録の更新が行われていますので、是非そちらも参照してみてください。糖尿病の本質は<交感神経ー副腎系>の異常である、というまだ誰も言っていない独自の規定をしてその実践報告もしております。

 

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[2695] 論理学と体系性について
tada - 2017年10月07日 (土) 17時30分

確認のため述べておきますが ヘーゲルにとって 哲学とは論理学のことです。その論理学とは概念弁証法のことです。この論理学つまり概念弁証法を駆使することがヘーゲルの学問であり 哲学でありました。手短に述べれば プラトンをはじめとする古典的学問群や当時最新の個別科学の論理性を高度に抽象化し、体系化することをヘーゲルは やってのけたのです。これは ヘーゲルがすべての学問領域をマスターしたというのではなく あくまでも論理性を汲み取ったとの意味においてです。このように 学問というのは論理性なのです。森羅万象の論理性は高度に抽象化することができ 体系化することができるのです。特に強調しておくことは この抽象化は当然 事実・具象化レベルからきたものです。だからその具象化レベルに規定されることになります。もしそれが中途半端なレベルだとすると それはアプリオリ・先験的思想哲学になる危険性があるのです。

体系性とは何か?それは方法論により対象が論理展開したものです。ヘーゲルは方法が全体性の体系に他ならないと述べています。ただヘーゲルはこの方法に関しても 抽象的な概念としてしか述べていません。滝村先生は ある学者なり 思想家の方法論とその発想が何であるかを重要視します。それを突き止めたとき 滝村先生は○○を解体することができたと言っています。このことから体系の元をたどっていけば 方法論とその発想に突き当たるわけです。方法論とその発想が体系性を規定するのです。問題は体系性を把持しているとか いないとかではない。方法とその発想から導きだされる体系性が問題になるのです。方法論とその発想を問題にしなければ 体系性の問題は解けないのです。滝村隆一を越えたいのなら その方法論とその発想をまずは解体しなければならないのです。それができれば 私を含めた論壇サロンの読者を納得させる 天寿堂さんが指摘したい体系性の不備も明らかにすることができるでしょう。滝村学の方法論と発想元は国家論大綱にすべて提示されています。しかし ヘーゲルをダシにして 簡単に落とせるような学の城ではありません。

仮に私がやろうとするならば 社会構成理論を問題にします。政治原理つまり国家論は滝村先生にお任せして 経済原理を自然・生命から社会への流れと いわゆる生命史観を滝村国家学なみにやることです。文化原理からは 人類の観念現象・イデオロギーを 特に宗教を中心に政治原理と経済原理との絡みかたを問題にして これもまた観念史観を滝村国家学なみにやることです。社会構成理論はまだまだできることがあると思います。最近の経済学はご存じのように生物進化論が採用されていますし 思想面は最大難関のヘーゲル哲学の解体はできているので 膨大な知識が実証史的にある宗教分野も ある程度料理ができるでしょう。

Pass

[2696] 大いなる勘違い
愚按亭主 - 2017年10月08日 (日) 11時21分

 tadaさんが誤解していることは、私がヘーゲルをだしにして滝村先生にケチをつけていると思っていることです。私の真の意図は、学問の真の発展のためには、ヘーゲルの復権が必須だということです。そして、私の滝村先生への批判は(これは南郷先生への批判にも言えることですが)、ケチをつけるためのケチなどでは決してなく、唯物論という部分的個別科学の立場のみが学問的立場だと信じ込んでいるために、ヘーゲルの真の学問性が分からないことに対する批判であって、ヘーゲルの復権・真の学問の復権のために必須な立場とは何かを提起するためのものだったのです。その意味で、tadaさんにそこが理解して貰えず、本当に残念です。

 さて、tadaさんの哲学=論理学論ですが、たしかに論理学は哲学の重要な柱であることは間違いのないことですが、「=」ではありません。哲学は、世界全体の生成・発展の運動を明らかにするものですが、論理学は、世界の論理の生成・発展の運動を明らかにするものという違いがあるからです。ただ、世界を内容と形式に分けるとするならば、論理学は形式に当たりますので、普通の論理学は内容と形式とを区別して、ヘーゲルが普遍性と個別との対立を現実的対立と述べたのに対して、マルクスは根本的二元論だとして批判しましたが、ヘーゲルの概念論はこの形式と内容との統一ですので、普遍性と個別との対立は現実的対立なのです。したがって、tadaさんが云うように、ヘーゲルの哲学=概念の論理学は、ほぼ限りなく=になると思います。

>特に強調しておくことは この抽象化は当然 事実・具象化レベルからきたものです。だからその具象化レベルに規定されることになります。もしそれが中途半端なレベルだとすると それはアプリオリ・先験的思想哲学になる危険性があるのです。

 人間の認識は、遺伝子の論理化の能力を受け継いでおりますので、現象的な事実から論理を浮かび上がらせる実力が備わっております。ただ、誰も説こうとしておりませんが、その内容には二通りあります。それは、全体を全体としてみて大雑把に全体的論理を浮かび上がらせる実力と、個別の事実を丹念に観察する中から論理をつかみ取る実力とがあるということです。tadaさんが「先験的思想的哲学」と称しているものは前者に当たります。そしてこの思惟の運動による思弁哲学が、学問の基礎を創り上げたことは間違いのないことです。たとえば、多種多彩な現象形態の中に本質となる不動の真理が存在するという形而上学が、個別科学の特定の分野での不動の真理である法則の発見の道しるべとなったことは明らかです。このように学問は、それぞれのレベルで、対自的抽象的理性と即自的具象的悟性との間のやり取り・交流・相互浸透を通して発展してきたのです。

 ですからその「先験的思想哲学」を否定してしまったのでは、今の南郷学派のように、学問の歴史を正しく説けなくなってしまいます。そればかりでなく、ヘーゲルの真の学問も正しく理解できないために、、今後の学問の真の発展もはかれなくなってしまいます。実際、具象のレベルでの個別科学のある程度の体系化ができて、学問全体の体系化が現実的な問題として俎上にあがるまでになった現在、南郷学派がそれをできなくて右往左往しているのは、まさしくその観念論的な思惟の思弁哲学を否定してしまったからに他なりません。

 ヘーゲルは周到にも、有論すなわち現象論の段階からすでに、部分的な対象の定有としての措定が完了したら、直ちにその全体への還流を行って部分と全体との相互浸透をはかって、全体としての学問の体系化への備えをしています。

>ヘーゲルは方法が全体性の体系に他ならないと述べています。ただヘーゲルはこの方法に関しても 抽象的な概念としてしか述べていません。

 そんなことはありません。ヘーゲルは抽象的な論理が具体化していく過程の本質的必然性を明らかにして、学問が不断に発展していける論理を明示しております。それが

即自的悟性→対自的否定的弁証法的理性→即自対自的肯定的弁証法的理性

なのです。これこそが、学問が概念として不断に発展を遂げていく普遍的な論理構造に他なりません。ところが、この重要なヘーゲルの説いた論理を、南郷先生も滝村先生も無視して全く触れようとしておりません。これが、まさに南郷学派がとん挫した最も本質的な理由です。この件について、私は、南郷先生に手紙で問い合わせましたが、残念ながら返事はありませんでした。なぜ両先生が無視したのか?唯物論が邪魔をして全く分からなかったからに違いありません。

Pass

[2697] 勘違いへの補足
tada - 2017年10月08日 (日) 16時49分

>ヘーゲルは方法が全体性の体系に他ならないと述べています。ただヘーゲルはこの方法に関しても 抽象的な概念としてしか述べていません。それに対して天寿堂さんは

 >>そんなことはありません。ヘーゲルは抽象的な論理が具体化していく過程の本質的必然性を明らかにして、学問が不断に発展していける論理を明示しております。それが即自的悟性→対自的否定的弁証法的理性→即自対自的肯定的弁証法的理性なのです。 

天寿堂さん これが抽象的概念だということなんです。これが抽象的思弁的だということなのです。滝村先生のように国家論で具体的に論理を展開したうえでの方法論の解説が横にあれば ヘーゲルでも具体性から方法論の論理性の是非を考えることができるのですが 抽象的すぎるので なんとも言えない点を言っています。

>「先験的思想哲学」を否定してしまったのでは、今の南郷学派のように、学問の歴史を正しく説けなくなってしまいます。

先験的思想哲学を否定していません。唯物論的に考える我々は仮説・直観・先行学説として捉えています。問題はそこで 先見的思想的哲学で止まってしまう 安心してしまう怖さを言っているのです。天寿堂さんも具体例をだして 滝村国家論を否定していただければいいのですが 抽象論の展開なので なんとも言えなくなるのです。

>ヘーゲルをダシにして 簡単に落とせるような学の城ではありません。(刺激的な文で不愉快にしたことをお詫びします。)

ヘーゲルの国家論では滝村国家論が超えられないことを知ってしまった以上 ヘーゲルを自家薬籠中にしたうえで 天寿堂さんが正しいと思う国家論を自分の言葉で具体的に説明してほしいのです。ヘーゲルの権威とその抽象性の論理展開では もはや 読者諸氏も納得できないのです。

Pass

[2698] それはtadaさんがすべきことです
愚按亭主 - 2017年10月09日 (月) 11時11分

>天寿堂さん これが抽象的概念だということなんです。これが抽象的思弁的だということなのです。滝村先生のように国家論で具体的に論理を展開したうえでの方法論の解説が横にあれば ヘーゲルでも具体性から方法論の論理性の是非を考えることができるのですが

 マルクスと同じですね。これが唯物論の弊害なのです。ヘーゲルはこの論理を自ら実践して証明して見せているにもかかわらず、そういう事実が見えないというのは、抽象的なものと現象的事実との統一の仕方が分かっていない証拠なのです。ヘーゲルはこの論理をギリシャ哲学の完成(静止体の弁証法の=形而上学の完成)の過程の分析の中から導き出し、その論理を応用して、自らのドイツ哲学における自らの哲学の完成(運動体の弁証法の完成)をもって実践的に証明して見せています。

 そして、それを私が応用して、学問の完成に際して乗り越えられない壁にぶつかって苦しんでいる南郷学派に対して、その克服法を南郷先生に提起しているのですが、唯物論に固執して耳を貸そうとしません。そして、滝村先生に対しても滝村先生の著書である「国家論大綱第二巻」の中に書かれている事実から滝村先生の認識の事実を浮かび上がらせて、滝村先生がヘーゲルの学問の方法について分かっていなかったこと論理的に証明して見せました。ところが、そういう観念的な事実に関しては、唯物論の方々はまるで見ようともしません。だから、論理と観念的な事実とを結びつけられず、抽象的な概念は現実とつながっていないと思い込んでいることとも相まって、抽象的な概念だけでは判断できないとおっしゃっているのです。おかしいと思いませんか?しつこいようですが、これが唯物論の弊害なのです。

>先験的思想哲学を否定していません。唯物論的に考える我々は仮説・直観・先行学説として捉えています。問題はそこで 先見的思想的哲学で止まってしまう 安心してしまう怖さを言っているのです。

 これもヘーゲルが批判している普通の論理学の発想です。ヘーゲルの論理学がどういうものかについてはすでに説明していりますので、もう一度見てみましょう。
「両者は対象内で対立したままの状態であって、運動は生じません。つまり、このままでは死んだ普通の論理学とさして変わらないということです。この対象内の対立する両者をその内的必然性に基いて統一されて生命と運動を生み出するものが概念であり、その展開が概念論なのです。これがヘーゲルの説く論理学です。」
 ですからtadaさんの心配は杞憂にすぎません。

>ヘーゲルの国家論では滝村国家論が超えられないことを知ってしまった以上 ヘーゲルを自家薬籠中にしたうえで 天寿堂さんが正しいと思う国家論を自分の言葉で具体的に説明してほしいのです。ヘーゲルの権威とその抽象性の論理展開では もはや 読者諸氏も納得できないのです。

 越えられないという問題ではなく、滝村先生の国家論では概念の中に正しく位置付けられないので、それができるように否定的媒介いが必要だということでしょう。そのヒントがヘーゲルの「法の哲学」の中にあるということです。
 私が今なすべきことはヘーゲル哲学の復権のために、ヘーゲルの論理学を誰もが学べるようにすることだと思っております。ですから滝村先生の国家論の問題は、むしろtadaさんこそがやるべきだと思います。是非滝村先生ができなかったことを成し遂げてください。その際に私の忠告もお忘れなく。特に壁にぶつかった時にはきっと役に立つと思いますよ。

Pass

[2699] 最後まで平行線でしたね
tada - 2017年10月09日 (火) 21時30分

天寿堂さん 議論は やはり平行線でしたね。これはわかっていたことです。しかし 久し振りに 大論理学と小論理学そして法の哲学と法哲学批判序説を読めたのが良かった。面白かったですね。ヘーゲルの哲学・概念弁証法の正体がよりよくわかった。天寿堂さんが唯物論を理解できないこともよくわかりました。だから他人にわかりやすい説明ができないのですね。抽象論を規定する具体論がだせない それは期待はずれでした。滝村先生のなぞの壁にせまりたかった。逆に国家論大綱第2巻の正当性が増しました。抽象概念は誤認誤読する可能性が大きいこと、弁証法は論理学であること、哲学・形而上学の自由な発想の面白さと科学の論理性の面白さ、方法論が体系化を規定することなど。思考がブラッシュアップしたような ちょっといい気分になりましたね。

Pass

[2700] 期待しています
愚按亭主 - 2017年10月11日 (水) 09時31分

 それは良かったです。今後のtadaさんの一層のご活躍を期待しております。ただ、
>天寿堂さんが唯物論を理解できないこともよくわかりました。だから他人にわかりやすい説明ができないのですね。抽象論を規定する具体論がだせない それは期待はずれでした。

 これには反論があります。私はなぜ唯物論に固執していたのでは学問が完成しないのかについて、事実も挙げて具体的に論証しているはずです。これに対して、私より唯物論を理解しているはずのtadaさんの方から、お得意のはずの具体的な唯物論的な反論は一切ありませんでしたが・・・。

 「大論理学」を読まれたそうですね。それは大変結構なことです。ヘーゲルはその「大論理学」第一巻の有論のはじめのところで始元の問題を論じております。ギリシャ哲学の時代はその端緒よりも原理そのものが問題となっていたことを取り上げて次のように述べております。

「初期の抽象的思惟はまずただ内容として原理にのみ関心を抱くが、教養または文化の進歩とともに他の面、即ち認識の態度に注意を払うようになる。すると主観的行為もまた客観的真理の本質的契機と考えられるようになり、方法は内容と、形式は原理と一致することの必要が感ぜられてくる。この意味で原理がまた始元であり、思惟にとって先であるものがまた思惟の行程における最初のものでなければならないということになる。」

 として原理的な検討に入っていくことになります。ヘーゲルはその原理的な検討を、媒介性か、直接性か、という具合に問題を立てて検討していきますが、最初の問題提起のところで、すでにこの媒介性と直接性で始元を説いて、それぞれ反駁しうることを述べています。これは明らかにカントの「二律背反」を念頭に置いたものですが、カントは、これを有限性と無限性という観点で問題を立てています。したがって、唯物論か観念論かは、原理的には、有限性か・無限性か、媒介性か・直接性かという問題として解いていけるということです。その結果としてヘーゲルが出した結論は、次の通りです。これはよくネガティヴな形で引用される有名な行ですが、最も大事な部分はカットされる場合が多いようです。

「天上であれ、自然の中であれ、精神の中であれ或いは他のいかなる所であれ、直接性とともに、媒介を含まないものは何一つとして存在しないということ。従って、この二つの規定は不可分のもので、両者の対立は下らないものだということである。」

 つまり、唯物論か観念論かの対立は不毛で下らないものになるといっているのです。ところが、マルクスはその下らない対立に引き戻して、折角ヘーゲルが創り上げた本質的な弁証法を捨ててしまったのです。だから私は、唯物論の立場に立った弁証法ということを標榜することは、絶対矛盾的自己撞着に陥っていてナンセンスだと批判しているのです。

 それ故に、マルクスの説く階級闘争史観には対立しかなく、統体止揚が存在しないのです。滝村先生もそのマルクスの誤りを引き継いで、それをもって国家論を創り上げたのです。それが滝村先生の国家論の欠陥の根本的な原因です。滝村先生は、ヘーゲルの普遍・特殊・個別の論理を意識的に使って自らの国家論を構築しようとされましたが、不思議なことに、ヘーゲルがその論理を用いて説いているのに、耳を貸そうとしていません。

 それは、ヘーゲルが国家論も概念の運動の特殊性としてもみなければならない、ということを指摘した点についてです。具体的にヘーゲルはどういっているのかと言えば、
「国家をそれだけで考察し、国家組織や政府がどうあるべきかを明らかにしようとする傾向があります。人びとは上の階を建てるのに忙しく、上層を組織立てようとはするが、土台たる結婚や職能集団はおざなりになり、ときに、粉々にされたりもする。が、一組織、一建造物は空中に浮かんでいるわけにはいかない。共同体は国家の共同性という形をとって存在するだけでなく、その本質からして特殊な共同性をとっても存在しなければなりません。」(長谷川訳、「法哲学講義」作品社、496P


 これを、滝村先生は「これを裏からいうと、国家論の学的解明において、〈国家〉それ自体を学的対象として、直接正面に据える学的方法が明確に斥けられたことである。」と述べていますが、これは全くの滝村先生の誤解です。ヘーゲルは<国家>を学的に解明するための学的方法を斥けているどころか、むしろ反対に国家論を学的に完成させるために不可欠な学的方法として述べているのです。滝村先生ともあろうお方が、どうしてそこが分からないのか?不思議でなりません。

 これは、私の専門である医学の例で考えてみるとよくわかります。完成された人間の身体を一生懸命研究してそこに見つかった事実だけを見つめていると、人間の意志で動かせる神経と、そうでない自律神経とに分ける分け方が正当なように見えます。しかし、これはあくまでも人間中心の見方です。つまり、長い長い生命の歴史から見ると、それは極めて特異な特殊性に過ぎないのです。つまり、自律神経の方が普通であり標準であり、長い歴史性を経て創られてきた過去を持っている土台といえるものなのです。ですから、その流れを丁寧に見ないで、意思に従って動くかどうかを基準として考えて、自律神経の中身を真面目に研究しようとしない現代医学の方法は、誤りのねつ造を次々に生み出している現実があります。ですから、人間の生理構造の研究に生命の歴史を取り入れることは、人間の生理構造を正面に据える学的方法を明確に斥けることに他ならないと否定するのではなく、むしろ、そのような見方ができるようになってはじめて、自律神経を構成する交感神経と副交感神経との正しい関係が見えてくるのですから、学問として医学を創り上げるのにプラスになる見方だ、ということがいえます。

 同じように国家論の場合も、その土台から、本質から捉えることが大事です。ヘーゲルはこの行において直接には「家族」や「職能集団(市民社会)」を挙げていますが、「本質からして」とあるように、ここは土台というのは、本質レベルの概念から捉える必要があるということだと思います。すなわち、生命の歴史から見る必要があるということです。そうした観点から見てみますと、動物の本能的集団の共同性を含めた普遍性から、人間の国家の特殊性は何かを明らかにするということです。それが国家を対自有化することになり、またそうして確定した対自有化した国家を抽象化した、抽象的悟性を対自的理性をもって否定的に媒介するということにも通じてくるのです。

 では人間の国家の特殊性は何かと言えば、動物の集団の場合は本能的に固定化された内在的規定性をもって維持されていますが、人間の場合は、本能を克服した認識の自由な運動によって形成された目的意識によって、目的意識的に国家として組織化されていくという特殊性があります。したがって、その目的意識がどのように形成されていくかがとても重要になります。だから、それがより本質的必然性に則ったものとして形成されるようになるために、学問が本質的必然性となるわけです。ところが、目下の主要な国家論は、弁証法性を否定する形で創られているために、国家と国民が対立したまま捉えられているのが普通です。これははっきり言って、ヘーゲルの弁証法性を破壊したマルクスの罪であり、ヘーゲルの概念の弁証法を10年もの歳月を労して研究したはうなのに、これを克服できなかった大国家論学者:滝村隆一の責任でもあります。極端なことを言えば、現在の世界の対立混乱の激化の大本は、じつはマルクスにあると言っても過言ではないと思います。

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[2701]
タマゴ - 2017年10月11日 (水) 10時16分

>極端なことを言えば、現在の世界の対立混乱の激化の大本は、じつはマルクスにあると言っても過言ではないと思います。

せっかくなので、この点をもう少し突っ込んで議論してはどうでしょうか?

Pass

[2702] マルクスと滝村隆一
tada - 2017年10月15日 (日) 22時09分

タマゴさん 久し振りです。マルクスの共産主義については滝村先生がすでに分析しています。マルクスの語る未来社会像には具体的な組織、制度的な枠組みつまり国家や国民の枠組がない。マルクスのいた現在から過去の分析はすばらしいものがあるが 現在から未来への分析は社会構成理論、唯物史観をつくったマルクスとはとても思えないと。未来について語るマルクスは思弁的抽象的なんです。科学理論的には後世に残る社会構成理論、唯物史観を作り上げたにもかかわらず 思想的にはまるでダメ 後世の社会に厄災をもたらしたというわけです。滝村先生は理論と思想はきちりとわけ 評価しなければいけないと言っています。逆に社会科学からみれば 社会関係上の人間を個としてバラバラに分解する社会契約論などは科学的方法論からして問題があるのにもかかわらず 個としての独立と自由、人権論としての思想として開花し マルクスの共産主義=全体主義に対してのアンチテーゼにもなったわけです。滝村先生の分析と私の考えによれば マルクスは共産主義・階級闘争論いわゆるプロレタリアートの革命論を頭で作っている。当たり前ですよね。現実にない、事実ではない対象を仮説で行い 実証もされていないのですから。未来に対する予想空想がそのまま社会科学の結論のように 世間に流布されたのです。これはマルクスの責任でもありますが エンゲルスをはじめとするマルクス主義者たちが批判できなかった 学的な怠惰のせいでもあるのです。私見を加えると マルクスの思想が宗教化しているのです。マルクスブランドと科学の信頼の名の下に 批判以前の信仰対象になってしまっている。これは世界規模でおこったユートピア運動 千年王国運動でした。
さらに深く考察すれば 人権・個人・個体の思想をどうマルクスが思想化したかに鍵があります。元はルソーの契約社会論 社会を一度バラバラにして契約として社会を構築する 科学ではなく 思弁的な考えです。それをヘーゲルは批判し 個人は国家のなかの個人であって 個人と国家が有機的につながっているものであると。マルクスはその発想をそっくり継承して 個人は社会のなかの個人である 社会あっての個人であると。国家社会の絶対性と個人の無力的存在が思弁的弁証法によって止揚され 人間的解放 社会的解放とうたわれた これにより 社会と国家に組み込まれる歯車のような個の存在が確定し 個としての自由と独立性を否定する思想につながるわけです。個人の具体性をふっとばし 人間を理念的に想定した 思弁的弁証法のせいとも言えます。最後に組織論から述べると 専制国家である共産主義国家や社会主義国家の元は やはりマルクスとレーニンの三権分立否定とパリコンミューン論からの民主集中制採用によるものです。ヘーゲルもそうですが マルクスも三権分立はわからなかった。こうなるとマルクス・ヘーゲルが破産したのも 仕方のないことですね。そして 彼らの科学的体系的思考法まで地に墜ちた訳です。

ゼロさん せっかくのアドバイスを無視して いまだに書いています。先回のコメントで少し休むつもりでした。滝村先生は浪曲の森の石松が好きだったそうです。「バカは死ななきゃ直らない」ようです。ご笑覧ください。

天寿堂さん 哲学的アプリオリな思考と思弁的弁証法の組み合わせは 恐ろしいものです。具体性をとっぱらった抽象化も本質論の顔を見せながら 我々を裏切っていきます。また唯物論的であること 科学的であることも 非常に困難なことであると感じるのです。90年代にマルクス学の解体を滝村先生が行なったわけです。すでに20年以上 未だにこのような論説を読めるのは 滝村先生以外はない。先生の偉大さをあらためて感じるとともに 学問の停滞が続いている現状を嘆くだけです。滝村先生の政治理論研究会の若いお弟子さんたちはどうしたのだろうか? 立正大学での講義で論文の書き方を学んだ学生たちはその後どうしたのだろうか?暗澹たる気持ちになるのです。

Pass

[2705]
タマゴ - 2017年10月19日 (木) 08時20分

なるほど。
マルクス自身の責任でもあるが、理論的後継者の中にも、マルクス主義の欠点を超克できるだけの具体的方法論を呈示できる者がいなかった、ということなんでしょうかね。
マルクス主義が当時としてはあまりに斬新かつ魅力的であったために、本来は主役たるべき人間という複雑で繊細な具体的存在を置いてきぼりにして、理論・観念ばかりが独走してしまった、という感じでしょうか...。

話は変わりますが、自由びとさんがtadaさんと語り合いたいようでしたので、お時間のある時に、宜しければあちらにも顔をだしてあげて下さい。

Pass

[2707]
tada - 2017年10月20日 (金) 21時24分

 タマゴさん ご理解いただき ありがとうございます。人間は有史以来殺し合いを続けてきたわけですが 近代以降の巨大国家においてのマルクス主義の失敗は史上最悪の規模になりました。ナチス・ヒトラーも大日本帝国にもマルクス主義の影響があります。思想の怖さ 人間存在の不条理さを感じます。唯物論は観念論の海に浮かぶ島のようなものです。観念論は歴史性をもち 広大な知の蓄積を持っています。人間の認識レベルで見れば 一般人の認識は習慣的で観念論的です。最近流行の行動経済学もその辺の考察だと思います。その底辺の広さを考えると 唯物論・科学を成し遂げるのは非常に難しいことだと 強く思う今日この頃です。

 自由びとさんのところには時間ができたら またお邪魔します。

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