カウンター ヘーゲルの学的論理学と唯物論のむき出しの論理学との違い - 談論サロン天珠道
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[2673] ヘーゲルの学的論理学と唯物論のむき出しの論理学との違い
愚按亭主 - 2017年09月20日 (水) 10時08分

 ヘーゲルの「大論理学」の序論に本物の学的論理学がどのようなものかが見事に説かれています。ここをマルクスが自由な立場でもっと真面目に読んでいたら、人類の学問の歴史は大きく変わっていたのではないかという気がします。

 人類は19世紀に、ヘーゲルによって、本物の学問の基礎である概念の弁証法とその論理学が創られ、そしてそこへと至る哲学の歴史を踏まえた教養の形成過程が示されました。しかし、すぐにその弟子にあたるマルクスによって、折角できあがった学問の原型が否定され捨てられてしまって、以後人類は単なる素材に過ぎないものを学問と錯覚して現在に至っています。どうしてそういうことになってしまったのかと言いますと、学問の曙のギリシャ哲学の時代は、目の前の事実を研究しながらも全体を全体として追究しておりました。全体を全体として考察するためには現実的な自分の立場のままではできませんから、現実的な自分の立場を離れて観念的に自由に動き回れて全体を見て取れる観念的立場で追究がなされました。

 したがって、はじめは自分(主観)も対象(客観)も一つのものであり、本質と現象・論理と事実も一つのものとして追究されていました。ところが部分的分野を専門的に研究する個別科学が盛んになって、それが直接に生活の向上に役立つ事実が積み重ねられていくと、その見方である経験論的・唯物論的な哲学が力を得て、認識と対象、事実と論理とをはっきりと区別する観方が主流になっていきました。当然これに対抗して観念論哲学の側も、数学の形式的明瞭性で哲学の形式を整えようとする動きも出てきました。

 しかし、ヘーゲルはこれに対して、数学は非本質的な量的関係の論理であって、対象を外的に規定するものであり、内的必然性を追究する哲学の論理とは異なると一蹴すると同時に、認識と対象とは別ものだと分けて壁を設けてしまった唯物論に対しても、現象的な事実から取り出したむき出しの事実と対立したままの直接態の論理は、そのままでは素材でしかないと痛烈に批判しています。そして、ヘーゲルは、本物の学問的論理は、この直接態としての素材レベルの論理が、否定の否定の過程をたどることによって、本質と現象の統一体としての運動する有機的生命態となった概念の一部に正しく位置付けられてはじめて論理として完成する、と述べております。

 マルクスや滝村先生および南ク先生は、唯物論の立場に拘泥するあまり、このヘーゲルの言葉を理解できず、唯物論的な論理学が、ヘーゲルによって、すでに見事な形で論破されていることに全く気づかず、「天を捨て」ればヘーゲルと超えられると勝手に思い込んでしまったのです。

 では、具体的にヘーゲルがどのように言っているのかを見てみましょう。ヘーゲルは近世の思想すなわち唯物論的な論理学を、ギリシャ哲学などの古い形而上学との対比において、次のように批判しております。

「論理学の従来の概念は、認識の内容と形式との、或いは真理と確実性との常識的に戴然と前提された分離に基づいている。ここでは第一に、認識の素材は思惟の外部にある既成の世界としてそれだけで別に存在しているということ、思惟はそれ自身としては空虚であるが、形式として外面的にその質料に働きかけ、それによって自分を充たし、そこでははじめてある内容を得、そうすることによって実在的な認識となるということが前提される。
 この点から見ると、古い形而上学は近世の思想よりも、思惟に関してずっとすぐれた概念をもっていた。つまり、昔の形而上学の根本前提となっている考えは、事物について、また事物において思惟によって認識されるもののみが事物の真実の真理だということであった。従って事物はその直接性のままで真なるものではなく、思惟の形式に高められ、思惟されたものとなるときにはじめて真なるものである。それ故に昔の形而上学は、思惟と思惟の諸規定とを対象に無関係のものではなくて対象の本質をなすものと見る。云いかえると、事物とその思惟とは全く一致するものであり、その内在的諸規定としての思惟と事物の真の本性とは同一の内容と見たのである。」(ヘーゲル著「大論理学」序論〔普通の論理学〕より)

 このヘーゲルの主張に対して、学問は唯物論の立場で行うべきだと考えている人たちは、おそらく、近世の思想で良いのではないか、なぜヘーゲルはそれを批判するのか?理解できない、と感じることと思います。たしかに唯物論の立場に立つとそう感じるのは無理もないことです。つまり、それは唯物論の必然性だということです。これが何を意味するかと申しますと、唯物論だけでは学問はでき上がらないということを意味します。

 それは何故かと申しますと、唯物論の本性は事実と密着することです。事実と密着するためには全体を否定しなければできませんから、結果的必然性から唯物論は部分的真理を扱う相対的真理の系譜に属するという宿命を負うことになります。したがって、唯物論が主張している認識と外界とを別のものとして扱う見方は、私が常々批判しているところの、現代医学が人間を中心に見て部分的事実から創り上げた自律神経論を金科玉条のごとく信仰して、それを覆す歴史的事実が明らかになっても頑固に改めようとしない態度と同じく、人間を中心に見てそこにあった部分的事実を至上のものと錯覚して、全体的・本質的観点からの反省・反照をかたくなに拒否して、何が何でも唯物論の立場を離れようとしないのです。

 これに対して、ヘーゲルは、人間の認識の思惟の運動も、本質の本流の運動の一部にすぎないものであって、その本質が己自身について本質と規定することが、本当の真理であり、古の形而上学はそこのところを正しくとらえていて、「事物とその思惟とは全く一致するものであり、その内在的諸規定としての思惟と事物の真の本性とは同一の内容と見たのである」とヘーゲルは高く評価したのです。

 これは一体どういうことかということを、もう少しかみ砕いて説明しますと、唯物論者は、認識はあくまでも対象の像であって対象そのものではない、と一見もっともらしく謙虚にふるまっているように見えますが、実は、自分だけこの対象的世界から抜け出して、超然と特等席から眺めて「物質的生活の生産が歴史の原動力だ」などと、外的に規定して分かったつもりになって自己満足しているだけなのです。これは、その本質・本流の運動に自らを加わわろうとしないから、その本質・本流の内的必然性が分からないということになってしまうのです。

 では、その内的必然性とはどういうものかと言いますと、人間の理性的認識は、それまで本質・本流の運動をけん引してきた一般化力を持った遺伝子の後継であり、かつその遺伝子の相対的真理的限界性を越えて、絶対的真理を目的意識的につかみ取ろうとするものです。この人間の理性的認識の思惟の運動こそが、本質・本流の内的必然性だったのです。この概念の運動こそが究極の歴史の原動力に他なりません。マルクスは、ヘーゲルから学びながら、肝心のそれを学び取ることができませんでした。それを邪魔したのが唯物論です。ヘーゲルは人間の認識を物質の本質・本流の運動の最高形態としたのですが、唯物論は、認識を対象の像に過ぎないと規定したその規定に過剰に自信を持っていたのですから、その認識が物質の運動の最高形態などという話は到底受け入れられなかったのだと思います。

 これも、唯物論の短視眼・部分を全体と見る悪い癖のなせる業です。 たしかに人間の認識の事実だけを見ただけでは分からないのも無理はありませんが、視野を広げて物質の歴史・生命の歴史という大きな流れの中で見てみれば、ヘーゲルの話はとても納得ができるのですが、唯物論者はその短視眼・目の前の部分を全体と見る悪い癖を、絶対に直そうとせず、唯物論から離れようとしないから分からないのです。

 ヘーゲルは、さらに続けて、この唯物論に対する批判を、次のように述べています。
「ところが、いま反省的悟性が哲学を支配することになった。われわれはこの頃、しばしば標語として用いられるこの言葉が何を意味するかということを正確に知っておく必要がある。それは一般に分離に固執するところの抽象的悟性、従って分離的悟性を意味する。それは理性に反対を表明して、自分が日常的な人間悟性(常識)であることを標榜し、真理は感性的実在に基くものであること、思想はただ感性的知覚が思想に内実と実在性を与えるかぎりにおいてのみ思想でありうるということ。理性はそれが単なる理性であるかぎりは、単に妄想を産むにすぎないものだということを主張する。けれどもこういうように理性が自分自身を見限るとともに真理の概念は失われてしまうのである。そこでは理性はただ主観的真理、現象だけを認識することに、云いかえると事柄そのものの本性と適合関係をもたないようなものの認識に極限されてしまう。」(同)

 このヘーゲルの指摘は、まさに現在の南ク学派の実態を鋭く抉っています。ヘーゲルはまるで見てきたかのようです。これが論理というものなのでしょう。南ク学派は、唯物論を徹底して貫き通そうとして、観念論的な理性の思惟の運動を否定してしまったために、ギリシャ哲学をまともに解けなくなって、事実に縛られたとても窮屈な論の展開をして学問の香りが全く消え失せてしまいました。以前の南郷学派は、とても自由でスケールが大きく勢いがあって、学問の香りがしていたものです。

〔ヘーゲルの概念の論理学の否定の否定的二重構造〕
 ヘーゲルは、古の本質的ではあるが運動性のない形而上学的論理学や、本質的ではない近世唯物論の直接態の分断固定的な単層構造むき出しのままの論理学を、死んだ論理学と批判して、新しい学的な論理学を次のように説いております。

「われわれは通常の論理学通有の観念に訴えてものを見る。例えば、定義は単に認識主観に属する規定を意味するものではなくて、むしろ対象のもっとも本質的な本性を構成するところの対象の規定を意味するものと見られる。或いは或る所与の規定から他の規定へ推論する場合に、その推論は対象に外的なもの、無関係なものではなくて、むしろ対象そのものに属するものと見られ、従ってここでは存在はこの思惟と対立するものと考えられる。要するに概念、判断、推論、定義、分類、等々の形式を使用する場合、これらのものが単に自意識的な思惟の形式であるのみならず、また対象的悟性の形式でもあるということが大切である。思惟とは思惟が自分の中にもっている規定を特に意識のに上せるということを意味する言葉である。しかし悟性とか、理性とかが対象的世界の中にあるということ、精神と自然とが普遍法則をもち、その法則に基いてその生命、そのいろいろの変化が生ずるものだということが云われ得るかぎり、思惟規定が客観的価値と存在をもつということもまた許されるのである。」(同)
「〔論理学の方法〕
 この論理学の死んだ骨に精神を吹き込み、これに実質と内容を与えるためには、その方法が論理学を純粋学となし得るような唯一の方法でなければならない。しかし、論理学の現状では学的方法が見つけ出されそうな見込みはほとんどない。いまでは論理学は経験科学とほとんど同じ形態を具えている。・・・(中略)・・そこで学的進展の方法を獲得するために必要な唯一の点は(中略)否定が同様に肯定的なものであるということ、或いは自己矛盾的なものが零に、すなわち抽象的無に解消するのではなくて、本当はただその特殊的な内容の否定に解消するにすぎないものだということ、云いかえると、このような否定が全称的な否定ではなくて、元々解消するものであるような特定の事柄の否定であり、従って特定の否定だということである。それ故にまた結果の中にはその結果を生んだ原因が本質的に含まれているということになる。・・(中略)・・それで、結果を生ずるもの、即ち否定は規定的な否定であるから、否定は内容をもっている。この否定(否定の否定)は一つの新しい概念であるが、先行の概念よりは一段と高い、一段と豊富な概念である。というのは、この否定はその先行概念の否定のために、或いはその対立者のために、それだけ豊富になったからである。それ故に、この新しい否定は先行概念を包含しているが、しかしまた更に先行概念よりも多くのものを包含しているのであって、その点でそれは先行概念とその対立者との統一である。――概念の体系は一般に、このような道程の中で形成されねばならない者であり、――不断の、純粋な、外部から何もものをも取り入れない行程の中で、他の具体的な諸対象の上で、従って哲学の個々の部門の中で自分を完成しなければならないものである。」(同)

 以上のようにヘーゲルの論理学は、生きて弁証法的に発展運動をする概念の運動論理学です。ここにある先行概念とは、対象から直接取り出したむき出しの論理です。唯物論の論理学は、この論理を扱うもので、それで学問が完成すると思っているようですが、それらは有限のむき出しの素材レベルの論理にすぎないのですが、唯物論者はそれで満足して、対象との統一をはかろうとする気もなく、論理は論理としてそれだけで完結させようとしているようです。

 これに対して、ヘーゲルの論理学は、理性の思惟の運動によって、個の先行概念、つまりむき出しの有限で直接態の素材的論理を、否定的にその有限性と直接性を洗い流す形で洗練化すると同時に対象との統一を図って、現実的で有機的かつ運動性を持った生きた概念を完成させ、その概念自身によって己の運動を叙述させるものなのです。ですから、ヘーゲルの論理学には、アプリオリにあらかじめ存在する前提や外的な形式は一切存在しないのです。マルクスはここが分からなかったために、「概念は現実的だ」というヘーゲルの主張を二元論(ダブルスタンダード)だと批判しましたが、ヘーゲルが即自向自的に統一したものを、わざわざ分離して固定したのはマルクスの方で、「二元論だ」との批判は自ら弁証法が分かっていないことを告白しているようなものだということが分かっていないのです。これはもはや喜劇と言う他ありません。

 最後に、ヘーゲルがこの概念の弁証法の論理学の学びについて、極めて示唆的なことを述べておりますので、是非とも参考にしてほしいと思います。

「われわれが論理学を最初に学びはじめるときには、まずただその個々の概念等を理解し、知るという程度にし、その範囲とか深みとか、またはその立ち入った意味とかは、必ずしも望まないという程度にせざるを得ない。そうして他の学問に対する知識が深まるに及んではじめて論理は主観的精神に対して、単なる抽象的普遍ではなくて、いろいろの特殊的なものの豊饒を中に含む普遍となってくる。・・・(中略)・・論理も個々の学問をやった結果において獲得されたものとなるときはじめて、その価値が賞味されることになる。その場合には、論理は普遍的価値として精神の面前に立ち現れることになり、他の素材や実在と同列の特殊的知識ではなくて、これらすべての特殊な内容の本質として精神の前にその姿を現すのである。
 論理はその学習のはじめに当たっては、こういうような意識された力として精神の前に現れるものではないとしても、精神はその学習を通して自分をあらゆる真理の中に導く力を感得しないわけにはいかない。論理学の体系は影の国であり、あらゆる感性的な具体的形態から離された、単純な本質性のせかいである。この学の学習、この影の国での滞在と研究は、意識の絶対的な教養であり、純真な訓練である。ここでは意識はいろいろの感性的直観や目的から、感情から、或いは単なる日常の観念の世界から遠離した仕事にたずさわる。」(ヘーゲル「大論理学」序論〔論理学と教育学との関係など〕)

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[2674] マルクスと滝村・南郷両氏は皆ヘーゲルの概念が理解できなかった
愚按亭主 - 2017年09月21日 (木) 16時47分

 この前の論稿を読んでいただければ分かっていただけるとは思いますが、念のため、一番肝心な点に焦点を絞って、よりわかりやすく説明したいと思います。その一番肝心な点とは、概念とは何か、です。ヘーゲルを尊敬し、ヘーゲルから学びながら、マルクスや滝村隆一・南郷継正といった歴史的な錚々たる頭脳が、なにゆえヘーゲルの概念論を理解できなかったのか?

 これは頭脳の問題ではなく、立場の問題に他なりません。個別科学の立場に過ぎない唯物論を、学問全体の立場だと錯覚・誤解(特殊性を一般化)して、それをアプリオリな先入見として、観念論的に自分の頭脳の働きを縛り付けてしまったために、ヘーゲルの言わんとしていることを正しく理解できなかったのです。そして、他のほとんどの専門のヘーゲル研究者たちも同様に、学問は唯物論で行うべきという常識にとらわれているために、ヘーゲルを正しく理解できていないのです。だから、かの偉大なヘーゲルの哲学を、「行為哲学」などというなさけなく矮小化した解釈に貶めていることに気づかないで、まだ誰も言っていない規定をつけたことに満足して悦に入っている始末なのです。私もはじめは同じでしたが、真理論への疑問から、意を決して立場の大転換を行ったところ、嘘のようにヘーゲルの言わんとすることが、手に取るように分かるようになったのです。ですから、この私の唯物論批判は、自分自身の体験で実証検討済みの真実であり、真理なのです。

 だから、私如きが、偉大なマルクスや滝村・南郷両氏の文章を初めて読んだだけで、即座にその誤りに気付いて批判することができるのはまさに、頭脳の問題ではなく、立場の問題なのです。それほど、ヘーゲルの論理は、論理的であり、明確であり、分かりやすいのです。そして、その立場とは、自由ということです。このことはヘーゲル自身が述べているだけでなく、南郷先生が尊敬するディーツゲンも、同じように唯物論から離れて自由な立場に立つべし、と述べています。私がそれを知ったのは、ほかならぬ南郷先生が引用したディーツゲンの文章を読んだ時です。これを読んで、私は、ディーツゲンもそう云っていたのかと妙に感動したことを覚えております。しかし、ディーツゲンを尊敬していると述べ、この文章をわざわざ引用した南郷先生が、どうしてヘーゲルやディーツゲンが云うように自由になろうとしないのか、本当に不思議でした。

 つまり唯物論の毒に阻まれて、マルクスも滝村先生も南郷先生も、皆ヘーゲルの説く概念を素直に受け止められなかったのです。では早速マルクスの誤りについて具体的に見ていきましょう。

 「ヘーゲルの法哲学批判」の中で、マルクスは次のようにヘーゲルを批判しています。
「ヘーゲルが普遍と個というような、推理の抽象的諸契機を現実的対立物として取り扱っているばあい、それはまさにかれの論理学の根本的二元論である。」

 このマルクスのヘーゲル批判は、まさに彼がヘーゲルの論理学、とりわけ概念という概念を正しく理解できていなかったことを物語るものです。というのはヘーゲルが「普通の論理学」として批判したまさにそういう論理学の見方から、マルクスは、ヘーゲルの論理学の現実性を批判して「根本的二元論」などという全く見当違いの批判をしているからです。では、そのヘーゲルの「普通の論理学」の批判とはどういうものかを見てみましょう。

「論理学が一般に思惟の学とせられる場合、論理学は次のようなものと見られる。即ちこの思惟が単なる形式にすぎないということ。論理学はすべての内容を捨象するものであるから、認識のために必要なもう一つの要素、いわゆる第二の構成部分である質料は他所から与えられねばならないということ。それ故にこの質料に全然関係を持たない論理学は真なる認識の形式的条件を与えるにとどまり、真理の本質である内容が全く論理学の外部にある以上、論理学は実在的な真理そのものを含み得ず、従ってまた実在的な真理に到る途(方法)ともなり得ない。」(ヘーゲル著「大論理学」序論より)

 なるほどこの「普通の論理学」では論理は現実的ではないことになります。つまり、マルクスの批判は「普通の論理学」からヘーゲルの論理学を批判したことになります。しかし、ヘーゲルは、この「普通の論理学」を、見事に完璧に論破しています。マルクスは自ら弟子だと認めているくらいですから、当然このヘーゲルの「普通の論理学」への批判を読んでいるはずですが、その論破された立場にあえて立って師匠を批判するというのは一体どういうことなのでしょうか?ただこれだけは言えそうです。マルクスは師匠のヘーゲルから一番肝心なことを学ばなかった、学び損ねてしまった、ということです。その学び損ねたものとは「概念とは何か」です。そこで、「概念とは何か」についてのヘーゲルの言葉をみてみましょう。それが良く分かる部分は「精神現象学」の序論にありますので、まずそれを見てみましょう。

「カント的な三律体系(アプリオリとアポステリオリと両者の統一)は、まだやっと本能的に再発見されたもの、まだ死んだもの、まだ概念的に把握されていないものであるが、この三律体系が絶対的意味に高められ、そのためその真の形式がその真の内容のうちで同時にかかげられ、学の概念が生み出された後で、この形式を使う段になると、それを命のない図式に、もともとの影法師におとしめ、学的組織を一覧表におとしめるようなやり方をとるのは、やはり学的であるというわけにはいかない。」(「精神現象学」序論)

※これはまさに唯物論の論理学に対する強烈な一撃です。

「学はただ概念自身の生命によってのみ組織されねばならない。規定値というものは、外的に図式から定在にはりつけられるものであるが、学にあっては、この規定値は充実した内容の自ら動く魂である。存在者の運動は、一方では自らが自らにとり他在となり、こうして自らに内在する内容となることである。他方では、存在者はこの展開乃至自らの定在を自らにとりかえす。すなわち自己自身を一つの契機とし、自己を単純化して、規定値とする。この前者の運動においては、否定性は区別するはたらきであり、定在を措定するはたらきである。この後者の自己への復帰においては、否定性は一定の単純化が生成することである。」(同上)

※こことこの後の部分は、生命における遺伝子(概念)の生成過程としても読み解くことができます。

「自らの存在において自らの概念であるという、存在するもののこの本性のうちにこそ、一般に論理的必然性が存立するということが在る。この必然性だけが理性的なものであり、有機的な全体のリズムである。この必然性は、内容が概念であり本質であるのと同じように、内容は知である。或いはこの必然性のみが思弁的なものである。具体的な形態は、自ら動きながら、単一な規定となる。こうして具体的な形態は論理的形式に高まり、自らの本質的な姿のうちに在る。その形態の具体的な定在はこの運動にほかならず、これがそのまま論理的な定在なのである。だから、具体的な内容に形式的図式を外からつけ加える必要はない。具体的内容が、それ自らに即して形式的図式に移行するのであるが、この図式はそういう外的な形式的図式であることを止める。というのも、形式は具体的内容自身に固有の生成だからである。」(同上)

※だからヘーゲルは「普遍と個というような、推理の抽象的諸契機を現実的対立物として取り扱っている」のです。これは、まさに現実の生命の体内において「普遍=形式=遺伝子」と「個=内容=具体的形態」との現実的対立として実際に実在していることからです。そしてそこにおいては、概念すなわち遺伝子は魂をもって主体的にその生命体を創り上げていることは紛れもない事実だからです。

 概念が魂をもって自ら動く、と云うと、唯物論で凝り固まっている人たちは、すわ観念論だとその内容もみようとせずに言葉尻だけで否定してしまいますが、これを生命の遺伝子の運動として見てみれば、それなりに納得できると思います。人間の認識の概念は、それが外化したものだという、捉え方をすれば良いのです。その場合、遺伝子の概念は、まだ相対的真理レベルの概念であって限界性を持っておりますが、人間の認識の概念は、認識の自由な運動によって絶対性を獲得し得るものになって、はじめて絶対理念へと到る途が切り拓かれることになったのです。その意味でヘーゲルが
<生命ー認識―学問>としたのは、本当にすごいことだと思います。

 次に、滝村先生はどうかと言いますと、滝村先生は自らの専門とする国家論の学問化の過程で突き当たった壁を突破しようと、ヘーゲルの概念の弁証法をもう一度学びなおそうという明確な目的意識のもとにヘーゲルに取り組んだのですが、残念ながら失敗しました。なぜ失敗したかについては、すでに説いたように唯物論を捨てて自由になれなかったからです。そのことを物語る一節が、ヘーゲルの再学習の後に著した「国家論大綱第二巻」の中の次の一節です。

「観念的事象といっても、それは、哲学的な思弁や妄想によって捻り出された、いわばこの世に存在しないような類の、〈純粋観念〉のことではない。」

 これはまさに、ヘーゲルの真髄に対する真っ向からの否定です。これでヘーゲルからまともに学べるはずがありません。その通りに、滝村先生がヘーゲルから頂いてきたものは、概念の弁証法ではなく、<普遍―特殊ー個別>の論理だけでしかありませんでした。まさに使えそうな論理をつまみ食いしただけだったのです。上に挙げたような認識で学んでも、ヘーゲルの概念が分かり様なないからです。

 その通りに専門の国家論においてもヘーゲルが全く理解できずに、次のように批判していたので、私はそれに対して反論を書いたことがあります。そこのところをもう一度見てみることにしましょう。

「『ヘーゲルがここでも、余りにも徹底的に、その概念弁証法による思弁的構成に、こだわり過ぎた点にある。それは、学的国家論を、〈法ー道徳ー人倫)という法的理念の弁証法的展開による、〈法哲学〉の構成に、端的に示されている。これを裏からいうと、国家論の学的解明において、〈国家〉それ自体を学的対象として、直接正面に据える学的方法が明確に斥けられたことである。』(『国家論大綱第二巻』452P)
 そして、滝村先生は、その例証として、ヘーゲル自身が述べている文書(準備草稿)を紹介しています。
『国家をそれだけで考察し、国家組織や政府がどうあるべきかを明らかにしようとする傾向があります。人びとは上の階を建てるのに忙しく、上層を組織立てようとはするが、土台たる結婚や速脳集団はおざなりになり、ときに、粉々にされたりもする。が、一組織、一建造物は空中に浮かんでいるわけにはいかない。共同体は国家の共同性という形をとって存在するだけでなく、その本質からして特殊な共同性をとっても存在しなければなりません。』(長谷川訳、『法哲学講義』作品社、496P)
 滝村先生は、おそらく前半部分の国家をそれだけで考察する傾向をヘーゲルが批判している部分を示すためにこれを引用したのだと思います。ところが、滝村先生は気づかなかったようですが、ここで、ヘーゲルはとても重要なことを述べています。
 キーワードは『空中に浮かんでいる』のではない、という部分です。土台というのは、生命の歴史とのつながりで、国家をとらえよということです。だから、『共同体は国家の共同性という形をとって存在するだけでなく、その本質からして特殊な共同性をとっても存在しなければなりません。』となるのです。生命の本流の流れとして、動物の本能的な共同性から、人間の段階に至っての絶対理念へと向かうところの本能の外化としての法的規範の共同性という特殊性としてとらえよ、ということです。これが、ヘーゲルの概念論レベルの国家論となるのです。」

 そして、その後私は、ヘーゲルの論理学に即して、この滝村先生の「国家論」の体系化に対する態度の誤りについて、学問の体系化に必須な<対自有>の不在だという批判を追加しました。滝村先生は、自らの学問を体系化するためにヘーゲルから学ぼうとして、そのヘーゲルの体系の大事な構成要素である<対自有>の意義を全く理解できなかったようです。もっともこれは、唯物論の立場に立つ限り、理解できないのは当然のことではあります。なぜなら、<対自有>は学的対象の確定に必須なものですが、それは一旦その学的対象の分野を全体から取り出して、その内容を明確にした後、もう一度それを全体に戻して正しく位置付けられて初めて、その学的対象の定在が定在として完成するとともに、全体の概念自体もその部分が明確化したことによって概念自体も豊饒化していくのです。ですから、この<対自有>は、概念の弁証法にとってもとても重要な過程なのですが、滝村先生は10年もかけてヘーゲルから学びながら、全くそのことをご存じなかったようです。私はヘーゲルの有論を一度読んだだけで、すぐにそれを自分のものにしたのですが・・・

 最後に南郷先生に関して「概念の労苦」の理解について取り上げる予定でしたが、長くなりましたので、次の機会に譲りたいと思います。


 

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[2675] 概念の労苦の中身はどういうものか?
愚按亭主 - 2017年09月22日 (金) 18時56分

 これまでヘーゲルの概念の弁証法の論理学と、唯物論的な普通の論理学との違いを、ヘーゲルの洞察に即して見てきました。そこで見えてきたのは、この両者は論理学の構造そのものが大きく違うということでした。唯物論的な普通の論理学は、事実の論理でのみ構成された単層構造であるのに対し、ヘーゲルの概念の弁証法の論理学は、二重構造、否もっと正確に言うなら三重構造になっています。なぜ三重構造化と言いますと、非論理的・非本質的な現象・事実もその中に含まれていて、それと論理的な本質との統一が、すなわち概念だとしているからです。

 だからヘーゲルの概念は現実的なのです。しかし、唯物論的な論理学は、論理と事実とをはっきり分けています。論理はあくまでも像であって事実ではないので、論理は現実的と言われてもピンとこないのです。だから、マルクスは、そのヘーゲルの言葉を理解できず、根本的二元論だと批判したわけです。これはおそらく、マルクスが現実的でないと思っている抽象的な論理をヘーゲルは現実的だと云うので、そんな理解できないことを言うのはもう一つ別の原理を使っているのだろうと思って、二元論としたのであろうと思います。しかし、これは何を意味するかと言いますと、マルクスは、弁証法を理解できなかったということを意味します。だから、主観と客観、論理と事実、唯物論と観念論というようにすべて分断して固定化しているのです。だから、ヘーゲルが対立物を統合するために媒介物を置こうとすると、マルクスはそれに反対して、ヘーゲルを批判したわけです。

 さて、前置きはこれくらいにして、本題に入りましょう。ヘーゲルの概念の弁証法の論理学と、唯物論の普通の論理学との違いの象徴は、「概念」に対する理解の違いにあります。そしてそれは「概念の労苦」の解釈の違いとなって出てくることになります。ということで、南郷学派の「概念の労苦」の解釈を見てみましょう。

 南郷学派の「概念の労苦」に対する解釈は、「学城」五号にある瀬江千史著「南ク継正『武道哲学講義』のヘーゲル論は何を説くのかー主題は学問構築のための過程的構造論であるー」の中で説かれています。

「たとえば、ヘーゲルであるならば、カントまでの学問的な世界の把握のレベルを自分のものとして、それを思想性高く把持したあとで、現実の世界で今おきている生の事実にとびこんでいき、いろいろな経験を積んでいくとなにがおきるか、それは、そこから対象の構造を概念化しなければならないという大問題に逢着する、ということである。」

 これはヘーゲルの言葉を南郷学派流に意訳したものです。この科中で「概念の労苦に相当する部分は「対象の構造を概念化しなければならない」です。したがって、瀬江千史先生はこの「概念の労苦」のことを、単純に「対象の構造を概念化すること」としてしまっています。これは一見正しいように見えますが、これでヘーゲルが「労苦」という言葉をわざわざ用いた意味が、これだけなのだろうかという疑問がどうしても残ります。

 そこでもう少し、南郷学派の言う「対象の構造の概念化」の中身と、ヘーゲルの概念の弁証法の論理学のいうところの「概念の労苦」の中身について検討してみたいと思います。

 まず、南郷学派の言う「対象の構造の概念化」というのは、おそらく事実から導き出した対象の構造に関する認識を、現象論・構造論・本質論という形に体系的に整理して概念化する、ということだろうと思います。たしかにこれも大変な作業となるものですから、「労苦」と言えなくもありません。

 しかし、この「労苦」は、やはりヘーゲルの言う「概念の労苦」とは別ものと言わざるを得ません。それは、そもそも「概念」の中身が違うからです。そのことを示す文章が、南郷学派の論稿の随所にみられます。

 たとえば、 悠季真理先生は、ヘーゲルの次の文章を取り上げて批判しています。
「思惟が感情的なものを超えて高まるということ、有限なものを超えて無限なものへと進むこと、感性的なものを断ちきって超感性的なものへと飛躍すること、これらはすべて思惟そのものである。このような移行をなせるのはただ思惟のみなのである。」(「エンチュクロペディー、予備概念50節)

 これに対する悠季真理先生の批判
「ヘーゲルは事実の世界から論理を導き出す過程がいかなるものかを説けずに、それを『飛躍』などとしか表現できていないのである。」(「哲学・論理学研究第一巻」)

 残念ながら悠季真理先生は、ヘーゲルの言う「飛躍」の意味が正しく理解できていないようです。ヘーゲルは単なる論理化という意味で、この「飛躍」を使っているのではありません。じつはここにこそ、南郷学派の言う「概念」とヘーゲルの説く「概念」との決定的な違いがあるのです。

 事実から直接導き出した有限の論理は、南郷学派流の「概念の労苦」をどれだけ積んでも、無限性を獲得することはできません。それは何故かと言いますと、飛躍がないからです。ですから、南郷学派の「概念化」とは有限性のまま論理化することに他なりません。
 ところが、ヘーゲルの場合は、現象論の段階からすでに有限の無限化をはかる飛躍を行っています。もちろんこれは決して「概念化」ではなく、定有の対自有への飛躍です。外的・形態的共通性をとらえた現象論の段階での有限の無限化は、当然に概念の生成へと結びつくものです。しかしそこに至るにはいくつかの道程を経なければなりません。その対自有化して定有として完成すると、それが否定されるという飛躍を経て、その内部の構造へと反省・反照して本質論が生成されていきます。
 しかし、これとてもはじめは有限な抽象的悟性でしかなく、ここでもそれを否定して、無限な対自的理性への飛躍がなければ、概念の生成は不可能です。かくして本質論も無限な対自的理性化が形成されたところで、概念化の準備が整うことになります。

 つまり、ヘーゲルの言う「概念の労苦」とはかかる道程をしっかり積んだ上で、それらすべてを肯定的に統一・統合することによって概念として生成されるのです。これが、ヘーゲルの言う「概念の労苦」の中身です。ですから、南郷学派が云うような「対象の構造の概念化」などという単純なものでは決してないのです。

 では南郷先生はこの概念についてどのように考えているかについてその講義を取り上げて論じている瀬江千史先生の論稿が「学城」五号にありますので、その中の南郷先生の講義の部分だけ取り出して見てみましょう。

「ここでヘーゲルが説いている概念の自己運動とは、では、≪絶対精神≫の自己運動とどう違うのであろうか。結論から説けば、≪絶対精神≫の自己運動に主体性をからませたのが、概念の自己運動だということである。先ほども、生きた実体では駄目で主体をからませた実体でなければならない、と説いている部分があったが、この主体をからませた自己運動が、概念の自己運動なのである。このようにヘーゲルは同じことを、くり返し違った言葉でいっているのである。」

「よってもって、『絶対精神』の精神たる自己自身は、『絶対精神』の自己運動の直接性の自己自身とともに、他者たる直接同一性の自然そのものを、しっかりと今の『絶対精神』である自己が他者となることによって、もともとの『絶対精神』の自己運動の直接同一性の他者である自然を学びとるのである。これがヘーゲルの説く、主体性をもってその対象に関わるということの内実である。
 では、どうしてそこがヘーゲル自身の言葉で説いていないのかが問題とされよう。それは本来、ヘーゲルはそこまでしっかりと説くべきであったが、まだ説く実力が当時はなかったのである。なぜなら、ヘーゲル自身が自己運動としての円環運動的発展(自己の内なる絶対精神の発展)をなしえていなかったからである。これからというところであったのであるが、結局は『エンチュクロペディー』のレベルで終わってしまったからである。したがって、本来展開すべきところを、展開できてはいなかったのである。」

 このように南郷先生は「≪絶対精神≫の自己運動に主体性をからませたのが、概念の自己運動だということである。」としたうえでその中身を次のように説明しています。すなわち「今の『絶対精神』である自己が他者となることによって、もともとの『絶対精神』の自己運動の直接同一性の他者である自然を学びとるのである。これがヘーゲルの説く、主体性をもってその対象に関わるということの内実である。」つまりそれが概念の自己運動である、というわけなのでしょう。

 そして、ヘーゲルがそういう説明をしていないので、そこまで分かっていなかった、だから、我々がヘーゲルができなかったことを成し遂げたと思ってしまったようです。そのことを瀬江先生は次のように述べています。

「唯物論の立場に立った私達(と南郷先生は書いている)の歩みを、観念論哲学の最高峰であるヘーゲルと比較して(ヘーゲルを凌駕したことをー筆者)明らかにしたことである。」

 しかしながら現実は、南郷学派は生命史観をものにしながら、ヘーゲルには依然として遠く及んでいないのです。その証拠が、概念の主体性をまともに解けないことです。第一になぜ概念なのかすら解けていないのです。それで凌駕したと思い込めるとは本当におめでたいと思います。

 ヘーゲルは、生命が誕生するまでは物理的世界として概念論の対象外としています。そして、生命の誕生以降を化学的世界として、概念論の対象としております。つまり、生命の誕生が、絶対精神が概念となる契機だったということです。そしてそこから世界の本質である絶対精神は、概念となって絶対理念へと向かう道程を歩むようになったのです。

 だから、ヘーゲルはこの過程を捉えて<生命ー認識ー学問>としたのです。

 ではなぜ、そこから概念なのかと言いますと、そこから概念が主体性をもって発展をけん引していったからです。それはどういうことかと言いますと、概念即ち一般化の能力を遺伝子が生命の進化をけん引したからです。そして、人間になってその概念即ち遺伝子が外化して理性的認識となって文字通り概念となって学問の完成(絶対理念)を目指しつつ、主体的に世界を創造し始めたということです。

 これがヘーゲルの言うところの概念なのです。それを世界を知るレベルに矮小化しているのが南郷学派なのです。マルクスが現実化を二元論と批判したのと、全く同じ構造です。つまり、これが唯物論の限界だということです。

 最後に、ヘーゲルの「概念の労苦」についての「精神現象学」序論の中の文章を紹介しておきましょう。

「真の思想と学的洞察とは、概念の労苦においてのみえられるべきものである。概念だけが知の一般性を生み出すことができる。この一般性は、(中略)教養(形成)を経た完全な認識であり、(中略)固有の形成に成熟した真理である。この真理は、すべての自己意識的理性の所有たりうるものである。」

Pass

[2676] 滝村批判について一言
tada - 2017年09月24日 (日) 20時38分

 こんにちはtadaです。滝村先生の批判に対して一言述べたいと思います。天寿堂さんのヘーゲル理解と私の理解は違うので 平行線だと思いますが 読者のみなさんに対して いつもながらの科学側からの論点を提示することで 学的な展望が開けると思っています。

 ヘーゲル「法の哲学」に対して滝村先生は 国家論大綱で繰り返し批判しています。この批判はヘーゲルが生涯を通じて 学的国家論を提出できなかったことに対するものであり もっとはっきり言えば ヘーゲルは学的国家論を書きたくてもできなかった理由についてでした。 

 この理由には ヘーゲルの生きていた時代の規定が大きいといえるでしょう。それがため 時代の反映 ドイツ国家の未成熟さを国家としての対象にすることで ヘーゲルの思弁的認識は未完成な対象をかさ上げして概念化し 弁証法で体系化するよう 頭で国家論を作ったのです。上向法で書かれている意図がそれなのです。国家をバラバラの個人に分解したところで「占有・契約・不法」として始め、道徳規範にうつり 倫理という社会規範から家族→市民社会→国家とその共同性を弁証法でまとめあげて 作り上げたものなのです。ヘーゲルは「国家とは何か」から始めるべきでした。

 マルクスは法の哲学を占有からはじめていることは正しいと言っています。そういう意味において 私も法学的論究としてみれば 問題ないことだと思います。法の哲学を学的国家論としては 無視してもいいわけです。ヘーゲルに罪はなく その方法的発想を論究することが大事なのです。その哲学・思想の先験的アプリオリな認識が問題なのです。(当然ですが ヘーゲルの良い部分は大いにありますので誤解無きようお願いします。)

 一言述べたいのは天寿堂さんのその哲学的すなわち先見的、アプリオリな認識が科学を補正し いや それ以上に 科学の方向性をも左右していくという その発想なのです。そのような方法はどのように実践していくのですか?科学には仮説があります。哲学的思考は横に置いておいても問題ないでしょう。対自有の不在。<全体―部分>の方法のことでしょう。概念レベルの豊穣化であれば 滝村先生は国家の実質的構成・形式制度的構成・現実的構成・思想観念的構成と国家概念を各レベルで深化しています。弁証法神学を信仰することでヘーゲルのように 弁証法に取り込まれ 対象の把握を機械的に論理学で組み立て 正常な判断ができなくなる危惧のほうを考えるべきです。

Pass

[2677] 滝村先生はヘーゲルの論理学を全く理解できていなかった
愚按亭主 - 2017年09月25日 (月) 21時08分

Tadaさんの批判本当に嬉しい限りです。こうして議論するとお互いの認識を発展させることができるからです。ということですので遠慮なく反論させていただきます。批判を読み返してみて、改めて滝村先生は、ヘーゲルの論理学が分かっていなかったのだな、と思いました。ヘーゲルの論理学は、形式論理学や唯物論的論理学のような死んだ論理学ではなく、生きて発展する論理学です。ですから、その過程を見て取れる弁証法の実力がなければ、分からないのです。

私は、唯物論的弁証法などと言っている人間は、本当は弁証法の実力はないと思っています。何故なら、唯物論か観念論かという発想自体が古い形而上学のままだからです。つまり羊頭狗肉ということです。せっかくヘーゲルがすべてを弁証法的に統一して運動体の弁証法を創り上げたのに、それをわざわざ歴史を逆回転させて古い形而上学に引き戻して、看板だけさも新しそうに弁証法を掲げているのが唯物論的弁証法の実態だと思います。これに対して、ヘーゲルの絶対的観念論は、唯物論的な事実の論理である現象論論と、観念論的な論理の論理である本質論とを統一した、絶対的本質の発展運動の論理である概念論として展開するものです。ですからあらかじめ完成形というものがアプリオリにあるのではありません。しかし、それはそれぞれの段階でしっかりと真理であり続けているのです。そしてその真理も現象論の発展及び本質論を発展を内に含みつつ内的必然性として発展していくのです。ですから、滝村先生が現代のような形での国家論ができていないから、としてヘーゲルを批判するのは、このヘーゲルの論理学・弁証法の一番大事なところが全く分かっていないということです。

 そして、私が以前に取り上げたことのある、滝村先生のヘーゲル批判は、学問の体系化のためにヘーゲルを学ぶとしながら、全くその学問の体系化についてヘーゲルから学ぼうとしなかったことを意味するものです。というのは、ヘーゲルの指摘はまさに学問の体系化のための指摘そのものだったからです。それを真っ向から否定してしまった滝村先生は、ついに国家論の本質論に到達することもできませんでした。なぜならば、本質論をものにするためには、対自有の過程を経なければ不可能だったからです。じつは、ヘーゲルはまさにそのことを指摘していたのです。ですから、滝村先生がしなければならなかったことは、ヘーゲルの指摘を否定することではなく、そこに学びそれを実践してみることだったのです。そうすれば本物の国家論が構築できていたかもしれません。そして、そのためには一旦唯物論から離れなければならなくなりますが、それができていればの話ですが・・・・・

 ではもう一度その行を見てみましょう。
「ヘーゲルがここでも、余りにも徹底的に、その概念弁証法による思弁的構成に、こだわり過ぎた点にある。それは、学的国家論を、〈法ー道徳ー人倫)という法的理念の弁証法的展開による、〈法哲学〉の構成に、端的に示されている。これを裏からいうと、国家論の学的解明において、〈国家〉それ自体を学的対象として、直接正面に据える学的方法が明確に斥けられたことである。」(「国家論大綱第二巻」452P)

 そして、滝村先生は、その例証として、ヘーゲル自身が述べている文書(準備草稿)を紹介しています。
「国家をそれだけで考察し、国家組織や政府がどうあるべきかを明らかにしようとする傾向があります。人びとは上の階を建てるのに忙しく、上層を組織立てようとはするが、土台たる結婚や速脳集団はおざなりになり、ときに、粉々にされたりもする。が、一組織、一建造物は空中に浮かんでいるわけにはいかない。共同体は国家の共同性という形をとって存在するだけでなく、その本質からして特殊な共同性をとっても存在しなければなりません。」(長谷川訳、「法哲学講義」作品社、496P

 ここで滝村先生が「これを裏からいうと、国家論の学的解明において、〈国家〉それ自体を学的対象として、直接正面に据える学的方法が明確に斥けられたことである。」とのべているものは、まさにそれは定有を対自有化するということを意味します。つまり、部分的有限な対象を、全体の中に位置づけて無限化するということです。これが対自有化するということです。そして、ヘーゲルはこれをもって定有の措定が完成すると述べています。つまり、滝村先生の国家論の措定は、いまだ定有としても完成していなかったということです。だから本質論へ移行できなかったのです。唯物論に拘泥するということは、学問の体系化・論理学の形成を邪魔する有害な影響を及ぼすということです。

 だからヘーゲルもディーツゲンも、学問の体系化のためには唯物論から離れることが必要だというのは、まさにこのことだったのです。また、ヘーゲルが悟性的な唯物論的な論理学の駄目な理由として、理性の不適切な関係のみを取り上げようとして、理性の真理の側面を決してみようとしない点を挙げています。これはエンゲルスだけでなく、滝村先生も観念論の理性の妄想として、否定して見向きもしないでいます。滝村先生がエンゲルスとまったく同じことを述べているのを初めて読んだ時、本当に信じられませんでした。エンゲルスをあれほどこき下ろしていたのに、何だ結局は同じ穴の狢かと本当に失望しました。

 唯物論に拘泥すると、ヘーゲルが論理学のことを「神の叙述」などと表現するので、字面だけで拒否反応を示して中身を見ようとしなくなります。だから唯物論から離れなければヘーゲルが理解できなくなるのです。ヘーゲルはこの「神」を「絶対的本質」という意味で用いているのですが、そういうことも分からなくなってしまうのです。サルが人間になった時なぜ本能を捨てたのかと言えば、絶対的なものを求めて捨てたのです。だから、学問も宗教も内的必然性そのものです。しかし、宗教は感性的に絶対性を求めたために、本当の意味で絶対性に到達できませんでした。つまり、相対的真理の絶対化に止まったということです。これに対して学問の方は、ヘーゲルによってその絶対性が真理として見事に措定されたのです。ですから、その学問のうちにそれら宗教も正しく位置付けられて含まれることになったのです。このことが分からない唯物論者は、宗教と学問を同列に見て、宗教を葬り去ることができなかった反面、その宗教を学問的に克服できたヘーゲルの真の学問の方は葬り去ってしまったのです。その結果、人類は宗教から卒業できなくなって、主体性の確立・自立できなくなってしまったのです。これが最も大きな唯物論の罪です。

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[2678] ヘーゲル理論の高値つかみ
tada - 2017年09月26日 (火) 22時02分

 実際問題として ヘーゲルの国家論は役に立っていないそれが問題なワケです。滝村先生の国家論の更なる発展の条件とは 論理学よりも 健康状態であったと思います。
 天寿堂さんの準備草稿の引用は ヘーゲルが家族・市民社会が国家の根幹であると述べているだけです。(法の哲学255番に同じような記述有)社会構成理論の片鱗はありますが 国家本来から国家を説く姿勢がないのはだめでしょう。
 私は弁証法を論理学だと認識しています。だから既に知られている具体的なものの論理・科学・法則から弁証法・論理学を学ぶ姿勢を持っています。問題は未知の問題の本質的構造を論理で明らかにするときです。そのときは一般性から進んで 特殊性の論理構造と格闘するしかないのです。そして特殊性を把握したとき 一般性のなかで位置付けなおし 個別性として法則化されるのです。これだけでも応用が効きます。私には名称だけが違うだけで 天寿堂さんの対自有化論と同じ構造をここに見ることができますよ。最後に滝村先生が国家論の本質論に到達しなかったとは どういうことですか?真の国家論の本質論をとはどういうものなのですか?
 

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[2679] ヘーゲルを役だけられないのは、唯物論と形而上学が邪魔をするから
愚按亭主 - 2017年09月27日 (水) 09時50分

 私が一番理解してもらいたい点は、唯物論だけでは学問の体系化は不可能だという点です。皆が勘違いしている点は、まさにそこにあるからです。ヘーゲルをまともに役立てられない理由も、そこにあるからです。ヘーゲルの国家論が役に立っていないのではなく、役立てられない結果として役立っていないように見えるだけなのです。マルクス・エンゲルスがその流れを作ったのですが、滝村先生も自らの学問の体系化において壁に当たって、もう一度ヘーゲルから学びなおそうとして、取り組んだのは良かったのですが、そのマルクスエンゲルスの誤りを克服できなかった結果として、体系化の道を切り開くことはできませんでした。ですからそれは、健康の問題ではなく、もっと本質的な立場の問題であり、その結果として論理学も、肝心のヘーゲルの概念の論理学を、唯物論に拘泥するあまりつまみ食いに止めてしまって、体系化の可能性を自ら放棄してしまったのです。たとえ、滝村先生がお元気であったとしても、真の学問の体系化は無理だったと思います。

>最後に滝村先生が国家論の本質論に到達しなかったとは どういうことですか?真の国家論の本質論をとはどういうものなのですか?

 南郷学派も滝村先生の国家論には、国家とは何かの本質論がないと、批判しておりましたが、さすが生命史観を打ち立てただけあって、その点を鋭く突いていました。南郷学派はその原因を階級闘争史観に求めておりましたが、その大本はマルクスの「ヘーゲル国法論批判」にあります。これに対する私の批判はすでに提示してあるのですが、念のためにもう一度披露しておきましょう。それは次の文章です。

「マルクスの指摘する三重の誤謬の2と3は、統体止揚の否定のようですが、この否定がマルクスの階級闘争論の土台になっていると考えられます。しかしながら、歴史的事実は、このマルクスの階級闘争論の方が、人類の発展にとって何の発展ももたらさないどころか有害ですらあることを北朝鮮の現実が今も実証し続けている現実があります。」

 この中で言われている「三重の誤謬の2と3」とは、具体的には
「2、現実的な両対立物が対立するものとしてきっぱりと分かれていること、それらが対極になっていくこと――このことはそれらの自己意識にほかならぬとともにまた決闘への煽りたてにほかならぬ――が、できるだけ避けられるべきとか、もしくは有害なことかのように考えられるという誤謬。3、両者間の仲介を企てるという誤謬、である。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p160・161)
です。

「これは、明らかに対立物の統体止揚の否定です。私もはじめて読んだ時、これ本当にマルクスが書いたのか?!と、にわかには信じられない思いでした。と言うのは、これは、明らかに弁証法の否定だからです。私はこれまでマルクスを批判するときに、「ヘーゲルはこの対立を止揚して統合しています。ところが、・・中略・・マルクスは、この統合をわざわざ離間させて対立のままに戻して」批判している、とその不当性を主張してきましたが、このマルクスのヘーゲルに対する『三重の誤謬批判』を見ますと、ヘーゲルの弁証法を理解しようとしているのではなく、確信犯的に師の核心的論理を真っ向から否定し、統体止揚するのではなく、わざわざ対立を煽って敵対的にもう一方の極をせん滅させようとしているようです。これが彼の弁証法のようです。」

 このように現在の全世界の混乱・対立の激化の土台をなすのはマルクスの理論的な誤謬に帰すところ大なのですが、滝村先生の国家論もその路線を踏襲するものでしかありません。つまり、国家論として歪んでいるということです。それを修正するチャンスは、ヘーゲルの「法哲学」にあったのですが、この中で指摘されている対自有化へのお誘いを、マルクスも滝村先生も蹴っ飛ばして、国家論の本質論への移行の可能性を自ら捨ててしまったのです。それについての私の批判も〔2637〕「マルクスがヘーゲル哲学を受け継げなかった理由ー絶対的観念論が理解できなかった」のスレッドでといてありますので、参照してもらいたいと思いますが、最後にその一部をここでも再録しておきましょう。

        *          *
 
 では、具体的にマルクスはヘーゲルの法哲学をどのように批判しているのかを見てみましょう。
「『したがって家族と市民社会が政治的国家に移り込んでいく移行は、即自的に国家精神であるところのそれら両圏の精神が、こんどはまた実際にそのような国家精神として己に相対し、そしてそれら両圏の芯髄として己に相対して現実的であるといった移行である。それゆえにこの移行は家族等々の特殊的本質と国家の特殊的本質から導き出されるのではなくて、必然性と自由との普遍的関係から導き出される。これは論理学において本質の圏から概念の圏へはいっていく場合になされる移行とまったく同じである。この同じ移行が自然哲学においては非有機的自然から生命へはいっていく場合になされる。』いつでも同じ諸範疇が魂を時にはある圏のために、また時には他の圏のために供与する。要はただ、個々の具体的な諸規定のために、それらに対応する抽象的な諸規定を見つけ出すだけである。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p13)
 
 そう見えるかもしれませんが、そうではないことはヘーゲルが彼の「法哲学」の中で明確に述べています。
「〔概念の学における発展と、現存在する諸形態における発展〕
 理念は、自分をさきへさきへと規定しなくてはならない。というのは、はじめにはやっと抽象的な概念でしかないからである。だがこのはじめの抽象的な概念はけっして放棄されるのではなく、ただ自分のなかでますますより豊かになるばかりであって、最後の規定が最も豊かな規定というしだいである。
 このことによって、以前はただ即自的に有るだけのもろもろの規定が自分の自由な独立性を得るにいたる。だがそれは――概念こそがどこまでもたましいであって、これがすべてを総括するのであり、そしてただ、ある内在的なやり方によってのみ、それ自身のもろもろの区別を得る、というふうにである。それゆうえ、概念がなにか新しいものを得るなどと言ってはならないのであって、最後の規定は最初の規定と一体になってもとどおり一致するのである。そこで、たとい概念がその現存在においてはばらばらに割れているように見えるとしても、これはまさに仮象にすぎないのであって、進行していくうちにそういうものだということが明らかにされる。というのは、すべての個別的なものはひっきょう、普遍的なものの概念のなかへもとどおり帰ってゆくのだからである。経験的な諸科学においては通常、表象のうちに見いだされるものを分析する。そしてこんどは個別的なものを普遍的なものへ連れもどしたばあい、そこでこれを概念と呼ぶ。

 われわれはそのようなやり方はしない。というのは、われわれはただ、どのように概念がみずから自己を規定してゆくかを、よく追って見てゆこうとするだけであって、われわれの意見や思惟は一つもつけ加えないように自制するわけだからである。

 ところで、こういう仕方でわれわれの得るものは、一系列のもろもろの思想と、そしてもう一系列のもろもろの現存在する形態とであるが、これら二つの系列にあっては、現実の現象における時間の順序が概念の順序とはいくぶんちがっているということが起こりうる。だから、たとえば、所有は家族より前に現存在していたということはできないのであるが、それにもかかわらず本書で所有は家族より前に論ぜられるのである。
 そうすると、ここで、なぜわれわれは最高のものから、すなわち具体的に真なるものからはじめないのか、という疑問が出されるかもしれない。答えは、こうであろう。――われわれは真なるものを一つの成果という形式においてみようと欲するからこそであって、そのためにはまず第一に抽象的な概念そのものを概念において把握することがほんしつてきにひつようなのである、と。
 それゆえ、現実的であるもの、つまり概念の形態は、たといげんじつそのもののなかでは最初のものであろうとも、われわれにとってはやっとそのつぎのもの、あとのものなのである。われわれの進行は、もろもろの抽象的な形式がそれら自身だけで存立するものではなくて、非真なる諸形式であることが示されていくという進行である。」

 何という素晴らしい丁寧な概念の弁証法の実態の説明でしょうか!!ヘーゲルの「法の哲学」は、まさに概念の弁証法の最高のテキストです。ところが、マルクスは、この概念の弁証法の最高のテキストである「法の哲学」を徹底的に研究しながら、その真髄を全く理解できていなかったようです。その原因は、何度も言うように唯物論の立場にこだわった結果なのです。マルクスが、物質の本質が精神であることを喝破しながら、南ク先生が、哲学とは何かを自力で措定しておきながら、物質の本質である絶対精神の自己運動こそが哲学の真髄であることを、ヘーゲルから学ぶことができなかったという事実は、論理の恐ろしさ・厳しさを物語るものです。しかし、その反面、マルクスがあれほど心血を注ぎ、徹底的に研究しても分からなかった、ヘーゲルの論理を、初めて読んだ私が一読で即座に自分のものとして、マルクスの誤謬を喝破できるのも、論理の別の意味での恐ろしさであり、素晴らしさなのです。

 もう少しマルクスの具体的な批判を見てみましょう。マルクスは、ヘーゲルの次の文章に対して以下のように批判しています。
「この有機組織は理念の、それ自身のもろもろの区分への、そしてそれらの客観的現実性への、展開である。・・・・これらを通じて普遍的なものが不断に――しかもこれらのものは概念の本姓によって規定されている以上、――必然的な仕方で己を産み出し、そして――その普遍的なものはまたそれの産出にとって前提とされてもいる以上、――己を保持する。――この有機組織が政治的体制である。」

と、マルクスはヘーゲルの文章をピックアップした後、これに対して次のように批判しています。
「彼の目指す本来の成果は、有機組織を政治的体制として規定するにある。しかし有機組織という普遍的理念から国家有機組織または政治的体制という特定の理念へ渡って行くどんな橋も架けられていないのであり、また永遠にそのような橋は架けられようがないであろう。」

 ヘーゲルの展開する物質の本質・本流の自己発展の内在的必然性は立派に存在するのであって、それはマルクスの唯物論的な手法とは異質のものだから、マルクスには理解できなかった。したがって、「橋はない」ということになり、「永遠に」ないとまで断言するほど強く否定することになってしまったのです。世界全体の運動を統括する理念の自己発展の論理においては、人間社会の国家は、動物時代にはないものであり、動物時代の集団を受け継ぐ市民社会や家族は自然成長的なものであるのに対して、国家という有機組織は、人間になってから初めて創られた目的意識的組織です。ですから、この二重構造的一体性として人間の国家。社会をとらえなければなりません。これはちょうど、人間体を生物体と生活体との二重構造的統一体としてとらえるのと同じことです。これは概念の運動・理念の運動の必然性として充分にとらえ得る論理です。ですから「未来永劫」ありえないというのは間違いです。それよりも問題は、こういう観点を否定してしまったのでは、即自的悟性の論理だけでは、何時まで経っても本物の真理になることができない、ということこそが人類にとってまことに重大な問題であるはずです。現に、そこで躓いているのが、ほかならぬ南ク学派だからです。



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[2681] 先見的アプリオリな思考について
tada - 2017年09月28日 (木) 00時14分

天寿堂さん 国家論の体系のゆがみというのは具体的にどうなのか知りたいのです。滝村先生のヘーゲル研究は壁につきあたったことを乗り越えるためではなく 国家論大綱の成果を使って ヘーゲルの学説を解体するのが目的です。知らない人が誤解するようなデマは流さないほうがよろしいです。引用の論評だけ 南郷学派がこういっているから 滝村国家論はダメだと それを思弁的言辞で誤魔化している点もです。自分の言葉で論じたほうが良いですよ。
 結論から言えば ヘーゲルの概念論の主である先験的アプリオリな思考を大事にしたいようですね。これはもちろん哲学・思想・形而上学と言われきた古典群の思考形態です。その自由な思考法はそれで十分面白いし 考えるヒントになります。歴史哲学から世界史の方法が生まれました。モンテスキューの法の精神から滝村三権分立論が生まれました。過去の学説・哲学的思考、観念論の解体とそこからの科学、唯物論の発展。滝村国家論はそこからヘーゲルの大論理学を参考に体系化までしている。それでいいんじゃないんですか。天寿堂さんの絶対的真理論はオリジナルだなと思っていたんですが いろいろと読ませていただくと思っていたよりも 普通の思考形態でしたね。その華麗な思弁的レトリックに惑わされていました。
 マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読めばわかるように マルクスは経済が政治を決定するなどと単純なことは言ってはいません。経済決定史観はエンゲルスです。マルクス は観念・イデオロギーの影響で政治が変わる様を鋭く指摘・分析しています。  

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[2683] 間違って別のところに書いてしまったので、改めて返答します
愚按亭主 - 2017年09月28日 (木) 15時56分


> 国家論大綱の成果を使って ヘーゲルの学説を解体するのが目的です。

 そういう馬鹿なことをしたから学問の体系化ができなかったのだということを、これまで理由を挙げて批判してきたのですが、どうも通じなかったようですね。是非とももう一度読み返していただきたいと思います。

 しかし、「国家論大綱第二巻」にはエンゲルスの弁証法では学問の体系化は無理だからヘーゲルの概念の弁証法を学びなおしたとありましたが、これは、自らの国家論を学問的体系的に整備するために行ったことではないのですか?

>引用の論評だけ 南郷学派がこういっているから 滝村国家論はダメだと それを思弁的言辞で誤魔化している点もです。自分の言葉で論じたほうが良いですよ。

 もう一度よく読み返していただければ分かると思いますが、私が南郷学派を持ち出したのは、それに依拠するためではなく、一定の評価を与えるとともに、、もっと大本があるのだとということを提起するためです。その南郷学派が説けていない点を、、自分の言葉で展開してあるはずです。引用は、、実際にマルクスがどういっているのかを知ってもらうためで、それをもとにマルクスは対立ばかりを見てその統一・統体止揚を見ようとしていなかったという証拠を提示するためです。

 これは、マルクスの弁証法が本物の弁証法ではなかったということを物語る証拠でもあります。だから、マルクスの階級闘争史観には統一がなく、それを受け継いだ滝村先生の国家論にも弁証法的な統一・統体止揚が見られない、という歪みです。マルクスはヘーゲルの有機的統一体としての概念論と、有論・本質論とを結ぶ「橋」を「永遠にない」とまでの強い口調で真っ向から否定して、現象論と本質論をいつまでも対立したままで良いと思っているから、マルクスは普遍は現実的になり様がなく、ヘーゲルの概念論においては普遍と個は現実的対立だなどとは到底受け入れがたかったので、「根本的二元論」などという訳の分からない批判をしてしまうのです。

>マルクス は観念・イデオロギーの影響で政治が変わる様を鋭く指摘・分析しています。

 マルクスの弁証法もどきも一応唯物弁証法と歌っていますから、弁証法らしき体裁はもっております。しかし、究極の歴史の原動力は物質的生活の生産として精神の主体性を否定しておりますから、そこに馬脚が現れています。そこが、ヘーゲルの概念の弁証法と大きく違うところです。ヘーゲルの概念論では、生命の誕生以降は概念が、本質的・内的必然性として歴史を主導していきます。環境の変化や、物質的生活の生産様式の変化はあくまでもその構造的要因にすぎません。かかる観点を土台にして国家論を作っていかなければならないのに、それを示唆するヘーゲルの言葉の意味が分からずに解体するとはなんというアホなことをしたものでしょう。

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[2684] 唯物論のむき出し論理学でもかまわない
tada - 2017年09月29日 (金) 00時10分

 >「国家論大綱第二巻」にはエンゲルスの弁証法では学問の体系化は無理だからヘーゲルの概念の弁証法を学びなおしたとありましたが、これは、自らの国家論を学問的体系的に整備するために行ったことではないのですか?

冗談はやめてください。そんなことを滝村先生が言うはずがないですよ。もう一度調べなおしたほうがいいですよ。

ヘーゲル哲学の解体でアホ呼ばわりですか。滝村用語では解体とは方法と発想を丸裸にして 思想の根源の分析を行うという意味です。現実をみればわかるように ヘーゲル哲学は実存主義にみられる個体原理重視の発想により分析どころか 実際に批判・解体・消去されてしまっているわけです。マルクス主義も同じ運命をたどりました。だからこそ ヘーゲル哲学の最良の部分である論理学の復権が必要であるわけです。マルクス・ヘーゲルの論理学の本質を説いてくれたのは やはり滝村隆一でした。天寿堂さんの理論は対象に適用していない机上の理論なので 説得力がないのです。

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[2685]
愚按亭主 - 2017年09月29日 (金) 11時06分

 滝村先生をあほ呼ばわりは少々調子に乗りすぎました。私も滝村先生の「国家論大綱第二巻」の歴史的儀は重々承知しており私も多く学ばせていただきました。しかし、自ら創り上げた国家論の方法を世界史的な観点からとらえ返そうとしてヘーゲルに取り組んだのは良いのですが、そこで、滝村先生がまずなすべきだったことは、ヘーゲルの解体の前に、自らを解体すべきだったことです。つまり、唯物論的なマルク主主義の上に立って創り上げた自らの方法を否定して自由な立場に立って行うべきだったということです。

 それをしなかったために、ヘーゲルと己との統体止揚に失敗して、結果としてつまみ食いに終わってしまって、ヘーゲルが批判していた有限的・悟性的な普通の論理学の域に止まってしまったのだと思います。

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[2686]
ゼロ - 2017年09月29日 (金) 13時26分

tadaさんもういいよ、ほっときなさい。机上の理論というのは、みんな知ってるから。相手にしようがないもの。

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[2687] 滝村先生の概念の弁証法はどのようなものか
愚按亭主 - 2017年09月29日 (金) 17時55分

 滝村先生をあほ呼ばわりは少々調子に乗りすぎました。私も滝村先生の「国家論大綱第二巻」の歴史的儀は重々承知しており私も多く学ばせていただきました。しかし、自ら創り上げた国家論の方法を世界史的な観点からとらえ返そうとしてヘーゲルに取り組んだのは良いのですが、そこで、滝村先生がまずなすべきだったことは、ヘーゲルの解体の前に、自らを解体すべきだったことです。つまり、唯物論的なマルク主主義の上に立って創り上げた自らの方法を否定して自由な立場に立って行うべきだったということです。

 それをしなかったために、ヘーゲルと己との統体止揚に失敗して、結果としてつまみ食いに終わってしまって、ヘーゲルが批判していた有限的・悟性的な普通の論理学の域に止まってしまったのだと思います。

滝村先生は、序論の中で、ヘーゲル哲学が完璧な形で完成されていて弁証法的論理が隅々まで行き届いているから、全的受容か拒絶かの二者択一しかないと述べておられますが、それは嘘です。何故ならご自身は全的受容もしていなければ、拒絶もしていないからです。もっともご本人は全的受容したつもりだったのかもしれませんが、事実はそうなってはおりません。

たとえば、滝村先生はその序論の中で、次のように述べておられます。
「第一に、これを(形式的)に見ると、一方、個別歴史的・具体的事例から、その内的特質とくにその(内的な仕組みと骨格)を探り、普遍的な学的理論として把握し構成する作業、他方、自他を含め先行し前提とした学的理論のレヴェルから、個別具体的事象を把握していく作業、従って、第二に、これを(内容的)にみれば、一方における、(個別的特殊性に即した、学的理論としての普遍化(普遍的一般化)と、他方における、(普遍的な学的理論による個別的特殊性の把握・包摂)という真逆の対立的な学的作業である。
これは、ヘーゲル的にいうと、学的・理論的方法における、矛盾的・対立的・両項であって、真なる学的方法は、両項の思弁的統一にあることを意味している。」(「国家論大綱第二巻」序論)

これは学問の体系化についてといていると思いますが、内容を見ると個別科学の体系化を説いているに過ぎません。その証拠に、その前に書かれた具体的事例を見ると、次のように書いてあるからです。

「一方において、(未開社会[原初的社会])から(近代社会)に到る、歴史的世界史的発展過程の追究である。そして他方では、(近代ー現代社会)から(国家)の歴史的始源と形成にまで大きく朔行させる、歴史的世界史的発展過程の追究である。」

ここには、滝村先生の錯覚が二つあります。一つは、この滝村先生が独自に編み出したとする(真逆の対立的な学的作業)の同時的遂行は、ヘーゲルの説く概念の弁証法の方法でも何でもないということです。ところが、滝村先生は「もとより私自身は、これを方法的に自覚(把握)することなく、殆ど学的直観的に実践していた。従ってそれは、客観的事象と直接切り結ぶ学的思惟における、否応なしの方法的要請・強制であったともいえる。」と述べているように、ヘーゲルの概念の弁証法に自分の実践法の像を重ね合わせて捉えてしまったために、ヘーゲルの概念の弁証法を自分流に誤解してしまったのです。 
 概念の弁証法における学問の体系化のための学的方法の基本は、即自的悟性ー対自的否定的理性ー即自対自的理性ですが、そもそも唯物論は対自的理性を認めていないので、それを無視してやるとこうなってしまって、単なる個別科学の方法になってしまうのです。そもそもヘーゲルの言う学的思惟は事実との格闘の中から生まれてくるものではなく、ギリシャ哲学に端を発した哲学の歴史を教養とした、事実から隔絶された思惟の錬磨の中で造られるものです。そこに滝村先生の大きな勘違いがあり、概念の弁証法に対する誤解があるのです。つまり、絶対的本質の運動という観念が存在しない概念の弁証法は、概念の弁証法ではないということです。そこが、滝村先生が分かっていないところです。

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[2688] 補足
愚按亭主 - 2017年09月30日 (土) 18時55分

 前の記事で引用した滝村先生の文中に次のような記述があります。
「自他を含め先行し前提とした学的理論のレヴェルから、個別具体的事象を把握していく作業」
 
 これは明らかにヘーゲルの対自的理性を意識した文章だと思います。つまり、この対自的理性を滝村先生なりに言い換えたもの℃と思います。しかし、この言いかえは大いに問題があります。対自的理性は、有限な悟性すなわち個別科学的論理に対するところの、無限な理性すなわち全体性の体系化された論理であって、「自他を含め」というレベルでは到底ないからです。また、ヘーゲルの論理学では前提とする学的理論は、運動性のない普通の論理学の警視kだとして否定されております。つまり、ヘーゲルの概念の論理学では、概念は自ら弁証法的に発展しながら作られていくもので、硬直した前提によって規定される小野ではないということです。

 このように滝村先生は唯物論にとどまったために、ヘーゲルが批判した普通の論理学のままにならざるを得なかったのです。それが唯物論の宿命なのです。だから、本物の学問を構築するためには唯物論から自由になることが必須なあのです。唯物論が一世を風靡する勢いのあった時代に、楽音の体系化のためにはゆいぶつろんからはなれなければならないと説いたディーツゲンが如何にすごかったかが分かろうというものです。

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