カウンター ヘーゲルの哲学が、行為哲学とか実践哲学と呼ばれる所以は何か? - 談論サロン天珠道
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[2670] ヘーゲルの哲学が、行為哲学とか実践哲学と呼ばれる所以は何か?
愚按亭主 - 2017年08月21日 (月) 20時28分

 論をはじめる前に、「心に青雲」の主宰者にしてわが友である都築詠一氏が身罷られました。死が遺してくれた私の本の推薦文が最後の遺稿となりました。「健康腺療法勉強会」のサイトの本の案内のページにその推薦文とともに私の哀悼文を載せてありますので、とりあえずここでは、謹んで哀悼の意を表すだけに止めたいと思います。(合掌)

 さて、早速本題に入りたいと思います。ヘーゲル哲学の評価の中に、行為哲学とか実践哲学というものがあります。このような評価自体は、ヘーゲル哲学の矮小化に過ぎないものなのですが、そういう評価をもたらすヘーゲル哲学の真髄そのものはとても重要であり、これまでのヘーゲル哲学の研究者たちは、そこが分かっていないがために、ヘーゲル哲学がりあいできないと思われるので、その点について論じていきたいと思います。

 学問の曙であるギリシャ哲学以来の哲学の一貫したテーマは、思惟と存在との関係如何?、ということでした。この観念論的な哲学の系譜においては、思惟が本質で存在は仮象に過ぎないというプラトンの説を含みながらも、みな思惟と存在とを一体のものとみなしていました。

 ところが、自然科学の発達を媒介にして生まれた唯物論的な経験論以来、唯物論は思惟は存在の像に過ぎないとして、みな思惟と存在を切り離して、そこに絶対的な障壁を築いてしまいました。

 ヘーゲルは、それを再びより高次元の完成された形で弁証法的に統一したのですが、弟子のマルクスによって再び分断され、それがあたかも学問の正しい形であるか皆が思い込んでいるのが、今の現実です。ですから、今の研究者のほとんどは、学問はあくまでも理論であって実践とは別物であって、相対的独立だと思っているので、「ヘーゲルが「意志の自由」などと言うと奇異に感じて、ヘーゲルの哲学は、普通の学問と違って「行為の哲学」だとか「実践の哲学」だということになるのです。

 ところが、現代医学の人間中心の誤った自律神経説と同様に、個の唯物論の誤った学問説も、長い物質の歴史とりわけ生命の歴史から見ると、それが如何に狭量な人間中心の独善説に過ぎないかが良く分かるはずです。

 つまり、自律神経と言うのは人間の意志に従わない勝手に働く神経と言う意味ですが、その人間の意志は、長い生命の歴史の最後の方にちょこんと出てきた新参者に過ぎないのであって、生命の歴史の過程で鍛えられてきた長い歴史を独自に持つベテランからすれば、ひよっこの様なもの言うことを聞かないということだけで、その個々の長い歴史を無視して、一括りにされてしまうのは心外であり、たまったものではないと言えます。

 同じように、学問などと言ってすべての存在から離れたところに祭り上げられて自己満足に浸っていますが、そのルーツは生命にあり、生命の一部に過ぎないものなのです。したがって、そもそも、思惟と存在を、思惟は像にすぎないもので物質そのものではないからと分断することがそもそもおかしいのです。何故なら、像も物質の機能であって物質の一部には違いないからです。

 ヘーゲルは学問のルーツを生命としていますが、これは、生命の中にすでに学問が内在しているということです。それは何かと言いますと、遺伝子です。学問とは何かといますと、それはすなわち論理です。遺伝子は生命の実態を論理化して生命の受け継ぎを媒介します。この遺伝子の論理化する力が、生命の危機に際して新たな環境とのとの統一的論理化をはたして、生命は進化していったのです。

 しかし、この遺伝子にも当然のことながら限界が存在します。それは大まかに言えば、相対的真理の限界性です。つまり、それまで培った事故の歴史性と周りの環境とを統一的に論理化した相対的真理であって、その条件が変化した場合、対応できなくなるという限界性を持った相対的真理だということです。

 この遺伝子にもとづく動物の本能の限界を超えるために生まれたのが人間の認識です。ヘーゲルは、これを<生命ー認識ー学問>と規定しました。つまり、その認識が、相対的真理を根本的に超える絶対的真理を冠とした学問への道を歩み始める、ということです。そして、実際に人類はその道を歩んできました。

 そして、ヘーゲルのところまでは、非常に順調に進みました。人類が向かうべき絶対理念への道を指し示し、遺伝子が行った論理化をより高次元の絶対的真理レベルにおいて論理化した論理学までも用意してくれたのです。この論理学についてヘーゲルは、次のように述べております。

ヘーゲル著「大論理学」上巻の一の第一版の序文(P5〜6)より

「意識とは、具体的な、しかも外面性の中に囚われているところの知識としての精神である。しかし、この対象の進展運動は、あらゆる自然的、並びに精神的生命の展開と同様に、全く純粋本質性の本性に基づくものである。ところで、この純粋本質性こそ論理学の内容をなすものである。現象する精神としての意識はその展開の道程において、その直接性と具体的形態から解放され、これらの純粋本質性そのものをその即且向自的の相において〔それ自身を〕対象とするところの純粋知識となる。これらの純粋本質性は純粋思想であり、自分の本性を思惟するところの精神である。その純粋本質性の自己運動こそ、それの精神的生命であって、これが即ち論理学を構成するものなのである。つまり論理学とは、この精神的生命の叙述にほかならない。」

 つまり、ここに書かれている「精神的生命」とは遺伝子が絶対的真理を希求する認識・精神として外化して、絶対的真理レベルの論理を駆使する思惟の運動のことであり、論理学はそれを自ら反省的に叙述するということです。そして、その論理学について、ヘーゲルは、大論理学の序論の中で次のように述べております。

「論理学の対象である思惟、厳密に云えば概念的思惟も本質的に論理学の内部で取り扱われるものである。この思惟の概念は論理学の行程の中で産み出されるものであって、従って前以て立てられることはできない。だから、この序論の中で豫め云われることは論理学の概念を基礎づけるとか、或いは論理学の内容と方法とを豫め学問的に確立しておこうなどという目的からなされるものではなく、ただ普通論理の面と歴史的の面とから若干の説明と反省とを加えて、論理学を考察するための観点をより明らかにしておこうというにとどまる。」

 よく言われるヘーゲル哲学への批判の中に、ヘーゲルの弁証法はえ円環が閉じていて発展性がない、という者がありますが、ここに書かれていることは、それに対する強烈な反証です。つまり、ヘーゲルの運動体の論理学は、豫めその内容と方法を円環的に規定しておくものではなく、その論理学の行程の中で概念を産みだしながら発展していくものだということです。さながら遺伝子がその行程の中で新たな概念を産みだしながら進化を支えていったようにです。

 ですから、ヘーゲルにあっては学問や論理学は、そういう遺伝子の延長線上にあるものなのです。だから、「意志の自由」なのです。つまり、ヘーゲルの学問は、遺伝子であり、新たな人間の本能となるべきものだということです。それゆえに、ヘーゲルにあっては「絶対理念」が「世界創造」するなのです。

 これも、ヘーゲルが思惟と存在、主観と客観、本質と現象を見事に統一したからこそ到達できた境地なのです。ところが、唯物論囚われている人たちは、この境地が全く分からないために、それでも真摯にヘーゲル哲学に向き合おうとするものは、ヘーゲル哲学を「行為哲学」「実践哲学」という規定をしたわけです。一方、ヘーゲル哲学を観念論だからとして否定する唯物論者たちは、それを全く無視してみようともしないために、ヘーゲルの凄さが分からないのです。ところが、ヘーゲル哲学の体系からすれば、彼らがこれこそが真の学問だとするものが、じつは定有レベル・悟性的本質レベルのものでしかなく、そこから対自有に、対自的否定的理性すなわち対自的本質に進み、そこからその両者の統一としての即且対自的な概念レベルの本質進むことによって、はじめて学問と言えるものになることが、分かっていないのです。つまり、初歩中の初歩レベルでしかない、ということが分かっていないということです。、

Pass

[2671] 「心に青雲」都築詠一氏に対して哀悼の意を表します
tada - 2017年08月24日 (木) 11時12分

天寿道さんから 都築詠一氏の訃報を聞き 大変驚いています。
生前 面識もなく ただ 「心に青雲」の一読者として 応援と批判をしてきました。「心に青雲」に対するコメントは陰謀史観の記事に対して過去一回のみしました。陰謀史観は麻疹のようなもので 真っ当な国家論・政治観がないとき 人が手軽に依拠してしまうものであると。もちろん 都築氏には論理的に反論してはもらえませんでした。そして 論壇サロンでの私の文章には少し触れてもらえ 滝村隆一批判を数回展開されました。滝村先生は過去に言っています。論理と思想は違うと。学的であるのなら 論理が最重要であり 個々人の思想とは別ものであると。言い換えれば 思想的におかしくとも 論理的に見るべきものがあれば 評価するとの考えです。(最近になって偶然 先生の教えを聞く機会があり 以前からそのことを実践していてよかったと強く思っています。)
都築氏の真骨頂は武道論からの生活論・教育論にありました。もっと大きくとらえれば 人生論それも世間の常識を疑う 南郷先生の弟子として 当然のことながら 生命の歴史からのスケールの大きな人生論でした。彼の人生論に諭され、はげまされたことは 枚挙に暇がないほどです。大変感謝しております。これからも折に触れ 保存した膨大な都築氏の文章を読むことで 実践を深めていきたいと思っています。都築氏の滝村隆一批判に対して 当てつけで南郷学派批判を展開したことも 都筑氏亡き今は良き思い出です。

すべては恩讐の彼方に 心に青雲さん 都築詠一さん 安らかに

Pass

[2672] ヘーゲルの有論・本質論・概念論について
愚按亭主 - 2017年08月25日 (金) 13時26分

 tadaさん都築さんへの追悼の言葉ありがとうございます。お話の中で一つ気になったことがありますので、そのことについてちょっと触れたいと思います。その気になった部分とは、次のフレーズです。

>論理と思想は違うと。学的であるのなら 論理が最重要であり 個々人の思想とは別ものであると。言い換えれば 思想的におかしくとも 論理的に見るべきものがあれば 評価するとの考えです

 論理と思想をそのように分けてしまうのは如何なものかと思います。なぜなら、ヘーゲルはその関係について次のように述べております。すなわち、思想は思惟の自己展開によって生成されるもの。したがって、思想は個人の頭の中に思惟の結晶として形成されるものであり、学問は初めは個人の頭の中に思想として形成されることになります。もちろん、個々人の思想の中には論理的に一貫性のないものなど様々ありますが、論理的に体系かされた学問的な思想も存在すると思います。

 
 では本題に入ります。前回私は、ヘーゲルの哲学が、その完成形である絶対理念を、体系化された学問としてだけでなく、人間が持つべき心の本能としてとらえていたことを述べました。つまり、ヘーゲルにあっては学問は、それ自身の完成を目指す者だけで終わることなく世界創造をもって完結するものだ、としました。だから、「行為哲学」とか「実践哲学」とか呼ばれることになるのです。今回はそのヘーゲル哲学の論理的構造としての有論・本質論・概念論について、検討してみたいと思います。

 今回初めてその内容に立ち入って検討に入る前の私は、この有論・本質論・概念論について、漠然と次のように想像しておりました。それは、有論と本質論は相対的真理のレベルの論理であり、概念論が絶対的真理のレベルの論理、というものでした。

 しかし、いざその内容に立ち入ってみると、全く違いました。そんな単純なものではなく、有論の中に全体→部分→全体という否定の否定の構造があり、本質論の中にも悟性的本質→否定的理性→肯定的理性という否定の否定が存在して、しかもそれらが有機的に連関しあって最後に概念論においてその両者が統一されて、生命の歴史から精神の歴史が展開される、という構造になっています。そこのところを具体的に診ていくことにしましょう。

〔事実の論理だる有論の構造〕
 有論の基本的な構成は、有・定有・対自有という構成になっています。そして各論として、量や質および度という有の主な構造を示す基本的な基準についての説明があります。まず、注目すべきは、有論は、全体性の否定である事実の論理であるにもかかわらず、全体性に戻っていることです。それが対自有です。そして、ヘーゲルはその対自有をもって「完成」としていることです。そこの部分を見てみましょう。
「質的有は向自有の中で完成する。向自有は無限な有である。始元の有は没規定的であった。これに対して定有は止揚された有であった。」(「大論理学」武市健人訳、岩波書店)
「向自有は完成された質であり、そのようなものとして有および定有を観念的契機として自己のうちに含んでいる。向自有は、有としては単純な自己関係であるが、定有としては規定されている。しかしこの規定性は最早、他のものから区別されている或るものに見られたような有限な規定性ではなく、区別を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる無限な規定性である。」(「ヘーゲル小論理学」松村一人訳、北隆館、P264)

 この「大論理学」の叙述と「小論理学」の叙述を比較して見ますと、明らかに「大論理学」の方が単純明快で分かりやすく、「小論理学」の方はより複雑になっています。そういう意味でもやはり、「大論理学」から学び始めるのが正解だと思います。それはともかく、ここに書かれていることは、はじめの有は単純な自己関係、つまり全体の中の有ということであり、定有は部分として相対的に独立した有限な規定性を持った有であり、対自有はその有限の規定性から無限の規定性、すなわち全体に戻った有の規定性を意味するということです。そして、その対自有を、ヘーゲルは「完成された質」と呼んでいるのです。

 この有論は、もっと厳密にいうと現象している事実の論理ですから、感性的に目に見える対象の論理化に比重が置かれます。ですから、まずその大きさ、つまり「量」を問題とします。そしてその内容・規定性である「質」を問題とします。「度」というのは、その「量」と「質」の統一されたものを言います。ここで対象としているものは部分的事実ですからすべて有限な存在です。したがって、どの「度」にも必ず限界があります。これを「限度」と言います。このようにして有論の事実の論理は論理化されていくのですが、これらはすべて目に見えるものから導き出された論理ですから、現象論ということが言えます。

〔論理の論理たる本質論の構造〕
 この論理の論理たる本質論も、はじめは有論の事実の論理の発展を受けて、その抽象的悟性から出発します。これをヘーゲルは次のように述べています。

「本質は措定された概念としての概念である。その諸規定は相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって、概念はまだ向自として存在していない。本質は、自己自らの否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ自己自らに関係するものである。・・(中略)・・本質は自己自らのうちへの反照としての有である。
 絶対者は本質である。――この定義は、有も同じく単純な自己関係であるかぎり、絶対者は有であるといふ定義と同じである。しかしそれは同時により高い定義である。といふのは、本質とは自己のうちへ這入って行った有であるからである。言いかへれば、本質の単純な自己関係は、否定的なものの否定、自己のうちでの自己媒介として定立された自己関係であるからである。・・・(中略)・・・この否定性は有に外的なものではなくて有自身の弁証法なのであるから、有の真理である本質は自己のうちへ這入って行った有、あるひは自己のうちにある有である。本質と直接的な有との相違をなすものは、先に述べた反省すなはち本質が自己自らのうちへ反照するといふことであって、これが本質そのものに特有の規定である。」(「ヘーゲル小論理学」松村一人訳、北隆館、P304)

 ここには、とても大事なことが述べられています。まず、直接的な有と本質は同じものであること、しかし、その相違は本質が、自己自らのうちへの反省・反照によって得られた有の規定すなわち論理である、ということです。そして、もう一つ大事なことは、本質は、はじめは抽象的悟性から出発して、否定的なものの否定という自己自身の弁証法によって、全体性の絶対的真理たる否定的理性へと進化を遂げる、ということです。つまり、有論では、対自有という全体性に回帰したように、本質論でも対自的否定的理性という全体性に回帰するということです。

 ヘーゲルは「現存在の根拠としての本質」の「純粋な反省規定」における「同一性」の項で次のように述べています。
「本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎない。しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己と同一性である。
 この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、捨象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式へ変へることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いはゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取出すのであり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象してそれらを一つの規定性へ集約するのである。」(同P312)

 これは「純粋な反省規定」すなわち本質的論理の導き出し方について述べたものです。
つぎにヘーゲルは「根拠」について次のように説明しています。
「根拠は同一性と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者に反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である。」(P327)

 このように本質は自己のうちに反照することによって導き出されるものですが、今度はその反照の結果としての本質が、自己自身に反照する、つまり、反照された有が再反照されて有に戻る過程を見ていきましょう。それが現存在であり、現象です。

「現存在」とは
「現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に相関的なものとして他者のうちへ反照し、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無限の現存在である。」

「現象」とは
「本質は現象せねばならない。本質が自己のうちで反照するとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立するもの(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立である。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるのではなく、現存在するものが本質であることによって現存在は現象なのである。」(同P347)

〔即自的な有論と対自的な本質論との統体としての即自対自の概念論〕
「概念」とは
「概念は有と本質との統一である。本質は有の否定であり、有はそれによって仮象となった。概念は第二の否定または最初の否定の否定である。それゆえ概念は回復された有であるが、但し自分自身の中に有の無限の媒介と否定性とをもつものとしてのそれである。」(「大論理学」武市健人訳、岩波書店)
「概念は対自的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして概念はまた体系的な全体であって、概念のうちではその諸モメントの各々は、概念がこうであるような全体をなしてをり、概念との不可分の統一として定立されている。したがって、概念は自己同一のうちにありながら即自対自的に規定されているものである。」(「ヘーゲル小論理学」松村一人訳、北隆館、P413)

「概念の立場は一般に絶対的観念論の立場であり、哲学は概念的認識である。・・(中略)・・悟性的論理学においては概念は思惟の単なる形式、あるひは一般的な表象と考えられている。概念は生命のない、空虚な、抽象的なものだといふ、感情や心情の側からしばしばなされる主張は、概念に関するこうした低い理解にのみ当るのである。実際においては事情はまさに逆であって、概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものである。」(同P414)
「他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における弁証法的過程である。概念の運動は、これに反して、発展である。発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。自然においては、概念の段階に相当するものは有機的生命である。」(同P415)
 
 ここにとても重要なことが書かれています。これこそが弁証法の核心とも言えるものですが、残念ながら、それに気づいているものは皆無のようです。ここでヘーゲルが言わんとしていることは、発展性のある弁証法を人類の新たな本能とせよ!ということです。それが「概念は対自的に存在する実体的な力として、自由なものである。」であり、「概念の立場は一般に絶対的観念論の立場」であり、「概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なもの」なのです。ただ、最初に挙げた「大論理学」の規定にはそういうものが微塵も感じられません。

 実は私は、このヘーゲルの具体的な言葉を知る前から、絶対的真理を主体とみる立場に変えてから、一貫して、人類は弁証法を新たな本能とするために動物的な生き方をするための本能を捨てた、と主張してきました。前のテキストに私は次のように書いておきました。

「では『哲学を否定し、弁証法が科学の一種』とすることがどうして根本的な誤りなのかといえば、そもそも弁証法は、科学とは対極に立つものだからです。科学は即自的な事実の論理であるのに対し、弁証法は対自的な言ってみれば天上から世界の移り変わりを俯瞰する論理だからです。この違いが具体的にどのような形となって現れるかといえば、前者の弁証法を科学の一種と見る見方は、弁証法を常識を超えた科学的研究の前進に役立つものの見方考え方という方法論的な説明に終わるのに対し、後者の弁証法を科学と対極の対自的な俯瞰的論理と見る見方の場合は、人類の真の発展に必須な、人間を真の人間たらしめる本質とも言える本能化すべき最高形態の認識、という本質的必然性の説明になります。」
「そもそも人類がなぜ本能を捨てたのかといえば、動物的な本能の持つ弱点である相対的真理の限界性を克服するためであり、如何なる変化にも真理性を失わずに対応できる絶対的真理を生き方の新たな中枢として本能化して、新たなバージョンアップした合理性を獲得するためだ!ということができるのです。この絶対的真理が、ヘーゲルの言うところの絶対精神であり、弁証法なのです。ですから、自由とはデタラメをするための自由ではなく、ヘーゲルの言うように「自由とは必然性の洞察」なのです。つまり、新たな無限で柔軟な合理性を究明・応用・創造するための自由なのです。これが人類の宿命であり、使命でもあるのです。」(「人類が真の人間になるための弁証法入門」稲村正治著)

 これが、私がヘーゲルの言わんとすることが良く分かる理由です。他の人たちはそこのところが全く分かっていないから、ヘーゲルの言うことが分からないのです。

 さて、概念論の構成は大きくは以下の通りです。
「概念論は
(1)主観的あるひは形式的概念の理論
(2)直接態へ規定されたものとしての概念、あるひは客観性の理論。
(3)理念、主観=客観、概念と客観性との統一、絶対的真理の理論。」(同P416)

以下に順を追てみていきましょう。

A主観的概念
A 概念そのもの
「概念そのものは次の三つのモメントを含んでいる。
(1)普遍――これは、その規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性
(2)特殊――そのうちで普遍が曇りのない姿で自分自身のものにとどまっている規定態
(3)個――これは、普遍および特殊の規定態の自己反省である。
 そしてかうした自己との否定的統一は即自対自的に規定されたものであるとともに、同時に自己同一なものあるひは普遍的なものである。」(同P418)

 この主観的概念とは思弁哲学のことです。したがってこれが、論理学中の論理学となります。つまり、思惟の運動そのものといってよいと思います。ですから本当はこの後、「判断」「反省」「推理」と続くのですが、これは次回に取っておくことにします。ただ、上に挙げた普遍・特殊・個の概念の三つのモメントを非常に重視する先生がとても多いのです。滝村先生もその筆頭です。私がとても参考にさせていただいた「ヘーゲル大論理学」の著者である海老澤善一先生も、概念論の項の説明がいきなりここから始めています。つまり、私の重要だと指摘した前の部分は、無視されて全く触れられてもいません。学問には論理学のところさえあれば良いという考えなのでしょう。だから、駄目なのです。しかし、このような自分に都合のよいところだけをつまみ食いすることを、ヘーゲルは次のように厳しく批判しています。

「概念の論理学は普通単に形式的学問と考えられ、それは概念、判断、および推理の形式そのものを取り扱って、或るものが真理であるかどうかは全く問題とせず、さうしたことは全く内容にのみ依存する、と考えられている。もし概念の諸形式が本当に、表象や思想を容れる生命のない、無活動な容器であったら、その知識は真理にとって全く余計な、なくてもよい記述にすぎないであろう。実際はこれに反して、それは概念の諸形式として、現実的なものの生きた精神であり、現実的なもののうち、これらの形式の力で、すなはちこれらの形式を通じまたそのうちで真理であるもののみが真理である。にもかかはらず、これらの形式そのものの真理は、それらの必然的連関と同じく、かつて考察されたことがないのである。」

 これは今も変わらない現実です。その原因は、私が重要だと指摘した、ヘーゲル哲学の真髄・生命・精神と言える肝心要のところを、皆観念論的なたわごとだとして素通りし、無視しているからです。

B客観
 「客観は直接的な存在である。・・(中略)・・それはさらに自己のうちで統体であるが、同時にこの同一は諸モメントの即自的な同一に過ぎないから、それはまたその直接的な統一に対して無関心である。かくしてそれは諸区別に分裂し、その各々がそれ自身統体である。したがって客観は、多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾である。」(同P478)

 つまり、客観とは即自的・直接的な存在だということです。すなわちそれは現象・事象ということに他なりません。次にその客観を発展的・過程的にヘーゲルは論じていきます。

 A 機械的関係
「客観は⑴その直接態においては単に即自的な概念であって、主観的なものとしての概念を最初は自己の外にもち、すべての規定性は外的に規定された規定性として存在する。したがってそれは、区別されたものの統一としては、寄せ集められたもの、合成物であり、他のものへのその作用は外的な関係にすぎない。これが形式的な機械論である。」(同P480)

これが、現世界の土台をなす物理的(機械的)な関係です。主観的な発展の段階としては、静止体の弁証法すなわち形而上学を土台とした物理学などの個別科学の発展によってできあがった機械的世界観の段階を指します。

b 化学的関係
「吸引的な客観は一つの内在的な規定性をもっており、これがその本性をなし、このうちにそれは現存在をもっている。しかしそれは概念の統体性が定立されたものであるから、その統体性とその現存在との限定性との矛盾であり、したがってそれはこの矛盾を揚棄しそしてその定有を概念に等しくしようと努める。」(同P485)
「概念はこれまで客観として外面的および直接性のうちへ沈められいたのであるが、今やそれらの否定によって概念はさうした外面性および直接性に対して自由かつ独立なもの、 すなはち目的として定立されている。
 化学的関係から目的関係への移行は、化学的過程の二つの形態が相互に揚棄しあふ事のうちに含まれている。このことによって生じてくるものは、化学関係および機械関係においては即自的にのみそんざいしている概念が自由になるということであり、かくして独立的に現存する概念が目的である。」(同P488)

 これは客観的には物理的・機械的土台の上に新たに造られた化学的・生命的世界を指すもので、主観的には運動体の弁証法の段階に相当します。

 C 目的関係
「目的とは直接的な客観性の否定によって自由な現存在に入った独立的に存在する概念である。目的は、主観的なものとして規定されている。といふのは、上位の否定は最初は抽象的であり、したがって最初は客観性もまた単に対立しているからである。かうした主観性という規定性はしかし概念の統体性にくらべると一面的であり、しかも目的そのものに対しても一面的である。なぜなら、目的のうちにはあらゆる規定性が揚棄されされたものとして定立されているからである。したがって目的にとっても、前提されている客観は観念的な、本来空無な実在に過ぎない。目的は、そのうちに定位されている否定と対立とに対するその自己同一の矛盾であるから、それ自身揚棄であり、対立を否定してそれを自己と同一なものとして定立する活動である。これが目的の実践であって、そのうちで、目的はその主観性の他者になり自己を客観化することによって、両者の区別を揚棄し、もって自己を自己自らとのみ連結し、自己を保存しているのである。」(同P489)

 これは、それまでの物理的・機械的関係の土台の上に構築された化学的・生命的な客観と、人間の誕生によって新たに生まれた認識によって、客観と主観とを統一しようとする目的が出現した段階です。

C 理念
「理念は即自対自的な真理であり、概念と客観性との絶対的な統一である。その観念的な内容は概念の諸規定にほかならず、その実在的な内容は、概念が外的な定有という形式のうちで自己に与へる表現に過ぎない。しかも概念はかうした形態を自己の観念性のうちへ閉じこめて自分の力のうちに保ち、かくして自己をそのうちに保っているのである。」(同P501)

 これはどういうことかと言いますと、それまでは、概念(論理)と客観性(事実・現象)とが静止的・外在的であったものが、生命の誕生によって内在化して初めて統一されたということです。具体的に言いますと遺伝子(論理)と生命体(個・事実)との内在的統一ということです。これによって発展性が生まれることになりました。つまり、運動的・内在的になって、概念が理念へと進化したということです。

a 生命
「直接的な理念は生命である。ここでは概念は魂として肉体のうちに実現されている。魂は第一に肉体といふ外面的なものの、直接に自己へ関係している普遍性であるが、第二にはまた肉体を特殊化するものでもあって、そのために肉体は概念規定が肉体に即して表現する以外のいかなる区別をも表現していない。最後にそれは無限の否定世として個である。すなはちそれは、独立の存立といふ表象から主観性へ復帰させられた肉体の諸部分の弁証法であり、したがってあらゆる部分は相互に一時的な手段であると同時に一時的な目的でもある。かくして生命は、最初の特殊化であるとともに、最後には否定的な向自有する統一となり、弁証法的なものとしての肉体性のうちで自己自らとのみ連結する。(同P509)

B 認識
「潜在的にあるひは生命としては同一であるところの二つの理念の関係はしたがって相対的な関係であって、このことがこの領域における有限性の規定をなしている。この関係は反省関係である。といふのは、それ自身のうちでの理念の区別化は第一の自己分別にすぎず、前提作用はまだ定立の作用として存在していないからであり、したがって主観的理念にとっては客観的理念は目前に見出される直接的な世界であるからである。別な言葉で言へば、生命としての理念は個別的存在といふ現象のうちにあるからである。同時に、この自己分別が理念自身の内での純粋な区別であるかぎり、理念は顕在的に自己であるとともにその他者であり、したがって客観的世界と自己との潜在的な同一性との確実性でもある。―—理性はこの同一性を顕現しその確実性を真理にまで高めうるといふ絶対的な信念をもって、また理性にとって潜在的に空無である対立を実際に空無なものとして定立しようとする衝動をもって、世界に現れてくる。」(同P516)

「有限な認識が証明のうちで作りだ出す必然性は、最初は単に主観的知識のために作りだされる外的必然性である。しかし必然性そのもののうちで、有限な認識はその前提および出発点、すなはちその内容が目前に見出されまた与へられているといふ事態を越えてしまったのである。必然性そのものは即自的には自己関係的な概念である。主観的理念はかくして即自的に、絶対的に規定されたもの、与へられたものではないもの、したがって主体に内在するものに到達したのであり、これによって意志の理念へ移ってゆく。」(同P527)

 つまり、理念が、内在的な遺伝子と生命体との統一体と、外在的な理性的認識と感性的認識との統一体とに、自己分別したということです。そして、外在的な理念である理性的認識と感性的認識との統一体が目的を創りだして、目的意識的に世界創造を始めたということです。それが、「理性はこの(自己と客観的世界との)同一性を顕現しその確実性を真理にまで高めうるといふ絶対的な信念をもって、また理性にとって潜在的に空無である対立を実際に空無なものとして定立しようとする衝動をもって、世界に現れてくる。」です。なお老婆心ながら、「主観的理念はかくして即自的に、絶対的に規定されたもの、与へられたものではないもの、したがって主体に内在するものに到達したのであり、これによって意志の理念へ移ってゆく。」の内在は、私の言う認識の外在性に対しての内在ではなく、主体が主体的に主観的理念と客観的理念との統一を内在化して、世界創造をする主体たる意志の理念へと発展していくということです。

C 絶対理念
「主観的理念と客観的理念との統一としての理念は理念の概念であってそれにとっては理念そのものが対象であり、客観は理念である。すなはちそれはあらゆる規定を包摂している客観である。したがってこの統一は絶対的な且あらゆる真理、自己自らを思惟する理念であって、しかも論理学のうちでは思惟的な、すなはち論理的理念としてそうである。
 絶対理念は先づ理論的理念と実践的理念との統一であり、したがって同時に生命の理念と認識の理念との統一である。」(同P531)

 ここはもうつけ加えることは何もありません。そのまま理解してください。



 

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