カウンター 一連のヘーゲルの著作の意味を問う - 談論サロン天珠道
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[2640] 一連のヘーゲルの著作の意味を問う
愚按亭主 - 2017年06月14日 (水) 10時30分

 ヘーゲルは、「精神現象学」→「大論理学」→「エンチュクロペディー(論理学:通称小論理学、自然哲学、精神哲学)→「法の哲学」の四作しか書物を著していないそうです。この一連のヘーゲルの著作には、ヘーゲルの並々ならぬ強い意志・意図が感じられます。ところが、ヘーゲルの研究者のほとんどは、それが分かっていないようです。つまり、ヘーゲルの高みを分かったつもりになることで、自己満足している人がほとんどだ、ということです。

 ヘーゲルは、フランス革命の中に理性・理念の存在を見て、理念による、「彼岸」などではない、現実的な世界創造の道を明らかにしたのです。マルクスは、このヘーゲルの現実的な改革の道を実質的に受け継ぎながら、ヘーゲルのこの思いの核心である絶対理念を、現実的でないと批判して否定してしまったために、ヘーゲルの哲学の真髄を受け継ぐことはできませんでした。このマルクスのヘーゲルに対する批判は、結果的に彼の弁証法を形而上学的弁証法へと後退させることになり、精神の主体性・能動性を否定した唯物史観となって、彼の夢見る人間解放や自由は、内実のない虚像に過ぎなかったことが、後世の社会主義運動の崩壊によって実証されてしまうことになったのです。

 このように自らの理論を実証できなかったマルクスに対して、そのマルクスによってその真髄を否定されたヘーゲルは、自らのギリシャ哲学の論理的反省によって創り上げた概念の弁証法の三項の論理を用いて、ドイツ哲学を学問として完成させることによって、自ら創り上げた論理・理論を実践的・実証的に見事な形で証明して見せたのです。それが、ヘーゲルの四つの著作なのです。そのことを要領よくまとめた文章がありますので、紹介しましょう。

「精神現象学は私たちの意識の経験と人類の歴史を素材にしており、その豊富な内容を読むことはきっと心躍る体験を与えるだろう。個人の意識の成長と共同精神の発展の道筋を描くことは、知の純粋な境地(絶対知とか純粋学と呼ばれる)へと意識を浄化させることを目標としている。この険しい登山道を登り詰めると、大論理学という広い頂上に達する。ヘーゲルは大論理学を「創造以前の神の叙述」あるいは「影の国」というが、そこには存在の青写真が描かれているのであり、、理念と呼ばれる神、これがいくつかの存在の国々を経巡る旅の様子が描かれている。残りの二冊は教科書である。その名称(「概説」「紅葉」)からも分かるように、これらは読者が理解しやすいようにパラグラフで書かれており、論理展開が分断されている点は否めない。ヘーゲルは到達した大論理学という雲上の頂から、下の平地を眺めやって、エンチュクロペヂィーを書いたのである。この教科書は、「論理学(「小論理学」と呼ばれる)ー自然哲学ー精神哲学」の三部からなっており、大論理学で描かれた存在の「影」すなわち存在のネガフィルムを、実在する世界に投影したものです。最後の教科書、法の哲学は精神哲学の内、特に客観的精神を説明したものである。」「ヘーゲル『第論理学』」海老澤善一著、晃洋書房、はじめにpXより)

 この説明は、私の言わんとするところと極めて近く、ツボをしっかりと把えていて、とても分かりやすい説明です。ほとんどつけ加える必要はないほどですが、あえてつけ加えるならば、「精神現象学」は、「精神」すなわち本質的論理と「現象」すなわちその体現としての事実との関係性を過程的に明らかにしていく中で、絶対的本質つまり絶対精神にたどり着いていくものです。そして「大論理学」は、その絶対精神すなわち絶対的真理の論理学に他なりません。しかし、これはまだ否定的媒介としての対自的否定的理性でしかありませんので、「ヘーゲルは到達した大論理学という雲上の頂から、下の平地を眺めやって、エンチュクロペヂィーを書いたので」す、という過程が必要になります。だから、私は前の記事で次のように述べたのです。

「『小論理学』というのは、相対的真理の論理学だということです。ということは、すなわち有限な(部分的な)事実の論理の論理学であり、悟性的概念の論理学だということです。したがって、この『小論理学』の文章は、悟性の立場で書かれているものですから、弁証法的統一も第三者的な『統体止揚』ではなく、悟性による主体的な『自己揚棄』となるのであり、『超出』ということになるのだ、ということです。」

 ただ、ここは少し補足が必要でした。雲上の対自的否定的理性の大論理学から、地上の即自的な相対的真理のエンチュクロペディーに降りてきたのは、統体止揚して即自対自の肯定的理性を創り上げるためのものですから、この「小論理学」は単なる相対的真理の論理学ではなく、相対的真理の論理学から即自対自の肯定的理性の論理学になりに行く、つまり、「移行」「超出」して真の論理学になっていく論理学だ、ということです。つまり、相対的真理の論理学でありながら、絶対的真理の論理学でもある、という論理学です。もっと言えば、仮説的大論理学が、真の実質を兼ね備えた本質的論理学に転成する論理学だということです。そして、これが、ヘーゲルが、ギリシャ哲学の論理的反省から導き出した三項の論理を、自ら次元を数段高めた学問的事実として創り上げることによって、実証的・実践的に証明して見せた、ということです。

 ところが、このヘーゲルの概念の弁証法を、マルクスも南ク先生も、ヘーゲルやディーツゲンの忠告を聞かずに、唯物論から自由になれなかったがために、正しく理解することができなかったのです。じつはここにこそ、南ク学派の亜学問が真の学問へと転成するための鍵となるヒント、というよりそのものずばりの解答があるのですか、「精神現象学」のあと「大論理学」に行ったのが間違いだった、などという頓珍漢なことを言っているようでは、残念ながらまず無理な話でしょう・・・・。マルクスもマルクスで、ヘーゲルが「法の哲学」を書いた真の理由・意図・意味を分かることができなかったがために、頓珍漢な「ヘーゲル法哲学批判」などを書いて、結果として、マルクス主義は真の人間の解放の思想となることができなかったのです。

 では、なぜヘーゲルは、精神哲学を論じてあったのにもかかわらず、最後の著作として「法の哲学」をわざわざ書いたのでしょうか?そこには、ヘーゲルの特別な思いがあったはずです。それは、引用文の著者である海老澤氏の「法の哲学は精神哲学の内、特に客観的精神を説明したものである。」という説明のような無味乾燥なものではなく、もっと熱いヘーゲルの思いが込められていたはずです。そのことを、もののみごとに物語るものが、ヘーゲルの「法の哲学」の中の以下の文章です。

「自由な精神の絶対的な規定、あるいは絶対的な衝動といってもよいが、――それは、精神が対自的に、すなわち理念として、意志の即自的にあるところのものになるために、自分の自由を自分の対象にするということである。すなわち、それは精神が、自分の自由が自分自身の理性的な体系としてあるという意味においても、この体系が直接の現実であるという意味においても、自分の自由を客観的なものにするということである。意志の理念の抽象的な概念は総じて、自由な意志を欲するところの自由な意志である。」(1865)

 ここに書かれている「自由な意志」とは、絶対理念を体現した真の人間となった人類の意志を指します。そして、その絶対理念を体現した人類は、具体的には絶対理念を憲法として持つ国家として現象することになります。その国家は、人類が誕生するまでの本流であった動物の集団の後継として位置づけられるものですが、その動物の集団を統括していた内在的な本能にあたるものが、人類の集団すなわち自然成長的な家族・社会を目的意識的な国家として組織化する要となる客観的精神としての国家の「法」です。だから、ヘーゲルは最後の著作として「法の哲学」を書いたのです。そこに込められている思いとは、即自的直接性としての絶対精神から人類が誕生して対自的媒介性となった絶対理念が、国家として世界を創造していくために最も必要なものとして「法の哲学」を書いたのです。つまり、ヘーゲルは本気で現実を変えよう、人類を絶対理念化した真の人間にしよう、そして、本質的必然性にのっとた真に自由な世界創造を、人類が果たせるようにしよう、と真剣に思っていたはずです。その思いのほとばしりが、引用した「法の哲学」のあの「自由な意志」論に他なりません。


 


 

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