カウンター マルクスがヘーゲル哲学を受け継げなかった理由ー絶対的観念論が理解できなかった - 談論サロン天珠道
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[2637] マルクスがヘーゲル哲学を受け継げなかった理由ー絶対的観念論が理解できなかった
愚按亭主 - 2017年05月27日 (土) 23時11分

 これまで、私は、南ク学派が、学問形成の否定の否定的過程における弁証法的な運動、すなわち第二の否定を自ら起こすことができなくなって躓いている、その大本にエンゲルスの呪いがある、として批判を続けてきました。これに対して、たしかにエンゲルスはヘーゲルを理解できなかったが、マルクスの方はしっかりと受け継いで、しかも発展させている、ときわめて高い評価を得ているようです。そこで本当にそうなのか検証してみようと思います。

 私は以前マルクスを次のように批判しました。

 「『ヘーゲルの法哲学批判』の中で、マルクスは次のようにヘーゲルを批判しています。
『ヘーゲルが普遍と個というような、推理の抽象的諸契機を現実的対立物として取り扱っているばあい、それはまさにかれの論理学の根本的二元論である。』
そしてさらに、その三十年後に 『資本論第二版』のあとがきの中で、依然として彼はヘーゲルの弁証法を次のように批判しています。
『ヘーゲル弁証法の神秘的な側面は、わたしがおよそ三十年前、ヘーゲル弁証法が流行していた時代に批判した』

 ここでマルクスは『根本的二元論』を間違いだとしていますが、マルクスのこの言葉こそ、彼がヘーゲルの弁証法を正しく理解していなかった証拠といえます。この『根本的二元論』とは観念論と唯物論との二元論という意味ですが、ヘーゲルはこの対立を止揚して統合しています。ところが、観念論を否定して唯物論に一元化したいマルクスは、この統合をわざわざ離間させて対立のままに戻して『根本的二元論』として、『抽象的なものと現実的なものとを混同している』と批判したわけです。ところがヘーゲルにあっては、抽象的な論理的諸契機は、現実的な対立を含めた全体の一モメントに過ぎないのです。だからこそ、ヘーゲルは抽象的な論理的諸契機を現実的な対立としたのですが、マルクスは、そのヘーゲルの弁証法の論理学の弁証法性を理解できずに、『神』とか『絶対精神』という用語を使っているから神秘主義や観念論だと規定してしまって、その正当性を理解できなかったのです。」

 この私の批判に対して、マルクスを高く評価するある人物から、次のように質問・忠告されました。まず「この『根本的二元論』とは観念論と唯物論との二元論という意味ですが?」そしてさらに、どこから「観念論と唯物論がでてきたのか?」と質問されたので、松村一人著の「ヘーゲルの論理学」という本を読んで、そのように理解して書いたものです、と答えると、「やはり孫引きでしたか、一度マルクスの本文を読んでみてください。その後に続く文章など凄いですよ」と言われて早速取り寄せて読んでみました。それを読みますと、たしかにマルクスのヘーゲルに対する批判は鋭いものがありますが、基本的に私の批判は間違ってはいなかったと意を強くしました。また、この『根本的二元論』については直接には抽象的論理的契機と個別性・単個性とを指したものでしたがそれは論理学に譲るとして、その後に続く本文では観念論(唯心論)と唯物論との二元論、あるいは哲学と宗教との二元論という形で展開されておりますので、私の推測は、あながち間違いではなかったと思いました。それが同じであることは後で詳しく説明いたします。では、早速マルクスの言葉を見てみましょう。

 マルクスは、ヘーゲルの論を『根本的二元論』であると批判して、それに対置する形で「これに対立するようにみえるのは両極相接すということである・」として次のように具体的に説明しております。

「したがってたとえば精神は物質の捨象にすぎない。そうだとすれば、精神は――この形式が精神の内容を成すとされるのであるからこそ――むしろ抽象的反対物であり、精神によって捨象される等の対象の抽象的在り方であり、したがってここでは抽象的唯物論が精神の実の在り方であることは自明の理である。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p160)

 これはたしかに凄いですね!観念論を否定して唯物論オンリーでやろうとしている人たちに、是非とも聞かせてやりたい行です。ただ、ここまでは凄いですが、問題はここから先、すなわち、本来は、物質の本質が精神であるというところに力点を置き、そちらを発展させるべきところが、マルクスは、唯物論の方に重点を置いて本質である精神の解明を行おうとせず、結果としておかしくなってしまいました。つまり、、ヘーゲルを正しく理解して受け継ぐ方向ではなく、逆にヘーゲルを批判する方向に行ってしまったところが、マルクスの限界だったと思います。おそらく、唯物論を正統化できたところで思考が停止してしまったのでしょう。だから、次のマルクスのヘーゲル批判は、的外れであり馬脚を現したものとなってしまっています。

「もしも一つの本質の在り方のうえでの差別が、自立化された捨象(もちろん、なにか他のものの捨象ではなくて、もともとそれ自身の捨象)と混同されたり、相互に相容れぬ諸本質の現実的対立と混同されたりしていなかったとすれば、三重の誤謬は避けられいたであろう。」。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p160)

 マルクスは、宗教との戦いを科学の立場である唯物論で戦った結果として、あれかこれかの形而上学的弁証法になってしまい、唯物論か観念論かで戦う中て唯物論への執着が強くなり、その唯物論への執着が邪魔をして、ヘーゲルの思弁哲学の学問的意義を見誤ることになってしまったのだろうと思います。
 これに対して、ヘーゲルは宗教と同じ観念論の立場で宗教批判をしたために、立場の違いではなく、その内容において宗教をはるかに凌駕するレベルに己自身を発展させることに成功したのです。

 この違いが如実に表れたのが、この的外れなマルクスのヘーゲル批判です。つまり、マルクスが「混同」「三重の誤謬」と捉えたものは、マルクスの方が誤っているのであり、ヘーゲルの思弁哲学が理解できなかった証なのです。それを理解してもらうために、マルクスが論理学の仕事として棚上げした問題である『根本的二元論』すなわち普遍性と単個性(個別性)の問題から取り上げていきましょう。

 これはまさしく根本的・本質的な二重構造の問題です。すなわち、普遍性というのは論理・概念のことであり、単個性(個別性)は現象する事実のことです。そして、この両者を媒介するのが特殊性ですが、これにも二重構造があります。一つは普遍性の特殊性であり、もう一つは事実の特殊性です。そして、この二重構造を持つ特殊性の媒介によって普遍性と単個性(個別性)の事実とが一つになれるのです。つまり、この三者(項)は一者のモメントだということです。そしてこの『根本的二元論』は、概念の普遍性は観念論、事実の単個性(個別性)は唯物論の、それぞれの基点となるということです。ですから、唯物論の捨象が観念論となり、観念論の具体化が唯物論となるわけです。

 問題は、どちらが真理にとって重要か、ということですが、これは哲学の歴史が物語るように、現象的な事実よりも概念の普遍性の方が圧倒的に重要です。これがすなわち真理の体系である学問の冠石だからです。そして、学問の歴史的事実が物語ることは、「一つの本質の在り方のうえでの差別が、自立化された捨象(もちろん、なにか他のものの捨象ではなくて、もともとそれ自身の捨象)と混同」ではなく、一方の極の自立化した捨象として発展することが、むしろ必須だったことです。これは、より正確には「捨象」ではなく一からの概念の自己発展でなければなりませんが、唯物論者のマルクスには捨象しかなく、観念論においては「捨象」ではなく「加象」となることが分かっていないのです。ですから、物質の本質的概念は、「世界は一にして不動」と一旦捨象された後は、それを起点とする論理象の増築に次ぐ増築となるわけです。

 ですからその初期においては、三重の誤謬のその一である「ただ極のみが真なるものとされるがゆえに、いかなる捨象も一面性も己を真なるものとみなし、そのために原理が内面的全体としてあらわれず、かえって、他の原理の捨象としてのみあらわれるという誤謬」、否、これは誤謬などではなく歴史的・過程的真実・真理。これは、どういうことかと言いますと、プラトンやカントが概念の普遍性のみを真理として、現象的多様性や経験的認識を否定し、捨象してしまったことがあったからこそ概念が概念として完成することができて、そのおかげで弁証法が完成することができたということです。ですから、この事実は決して誤謬として否定すべきではなく、必然的過程であり、これなしには弁証法お哲学も発展できなかったのですが、マルクスはそれを誤謬として片づけてしまったのです。唯物論の立場に立つマルクスにとっては、この己を否定するこの仕打ちは許せないから誤謬にしたい、という気持ちは分かりますが、だからこそ唯物論の立場から離れて自由にならなければ学問はできないということを、このマルクスの発言は示してくれていると思います。

 そして、マルクスの指摘する三重の誤謬の2と3は、統体止揚の否定のようですが、この否定がマルクスの階級闘争論の土台になっていると考えられます。しかしながら、歴史的事実は、このマルクスの階級闘争論の方が、人類の発展にとって何の発展ももたらさないどころか有害ですらあることを北朝鮮の現実が今も実証し続けている現実があります。したがって、3の哲学と宗教との関係を題材に取った『根本的二元論』否定論は、それ自体は間違いではありませんが、結果として、哲学と宗教とを同じものとして、より高度なヘーゲルの思弁哲学を否定すれば宗教もおのずと消えるとの錯覚を、宗教との戦いがおろそかになってしまって、人類にとっての真の救いであるヘーゲルの哲学を葬って、宗教を温存してしまうという大変な誤謬を犯すこととなってしまったのです。
 
 では、具体的にマルクスはヘーゲルの法哲学をどのように批判しているのかを見てみましょう。
「したがって家族と市民社会が政治的国家に移り込んでいく移行は、即自的に国家精神であるところのそれら両圏の精神が、こんどはまた実際にそのような国家精神として己に相対し、そしてそれら両圏の芯髄として己に相対して現実的であるといった移行である。それゆえにこの移行は家族等々の特殊的本質と国家の特殊的本質から導き出されるのではなくて、必然性と自由との普遍的関係から導き出される。これは論理学において本質の圏から概念の圏へはいっていく場合になされる移行とまったく同じである。この同じ移行が自然哲学においては非有機的自然から生命へはいっていく場合になされる。」いつでも同じ諸範疇が魂を時にはある圏のために、また時には他の圏のために供与する。要はただ、個々の具体的な諸規定のために、それらに対応する抽象的な諸規定を見つけ出すだけである。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p13)
 
 そう見えるかもしれませんが、そうではないことはヘーゲルが彼の「法哲学」の中で明確に述べています。
「〔概念の学における発展と、現存在する諸形態における発展〕
 理念は、自分をさきへさきへと規定しなくてはならない。というのは、はじめにはやっと抽象的な概念でしかないからである。だがこのはじめの抽象的な概念はけっして放棄されるのではなく、ただ自分のなかでますますより豊かになるばかりであって、最後の規定が最も豊かな規定というしだいである。
 このことによって、以前はただ即自的に有るだけのもろもろの規定が自分の自由な独立性を得るにいたる。だがそれは――概念こそがどこまでもたましいであって、これがすべてを総括するのであり、そしてただ、ある内在的なやり方によってのみ、それ自身のもろもろの区別を得る、というふうにである。それゆうえ、概念がなにか新しいものを得るなどと言ってはならないのであって、最後の規定は最初の規定と一体になってもとどおり一致するのである。そこで、たとい概念がその現存在においてはばらばらに割れているように見えるとしても、これはまさに仮象にすぎないのであって、進行していくうちにそういうものだということが明らかにされる。というのは、すべての個別的なものはひっきょう、普遍的なものの概念のなかへもとどおり帰ってゆくのだからである。経験的な諸科学においては通常、表象のうちに見いだされるものを分析する。そしてこんどは個別的なものを普遍的なものへ連れもどしたばあい、そこでこれを概念と呼ぶ。

 われわれはそのようなやり方はしない。というのは、われわれはただ、どのように概念がみずから自己を規定してゆくかを、よく追って見てゆこうとするだけであって、われわれの意見や思惟は一つもつけ加えないように自制するわけだからである。

 ところで、こういう仕方でわれわれの得るものは、一系列のもろもろの思想と、そしてもう一系列のもろもろの現存在する形態とであるが、これら二つの系列にあっては、現実の現象における時間の順序が概念の順序とはいくぶんちがっているということが起こりうる。だから、たとえば、所有は家族より前に現存在していたということはできないのであるが、それにもかかわらず本書で所有は家族より前に論ぜられるのである。
 そうすると、ここで、なぜわれわれは最高のものから、すなわち具体的に真なるものからはじめないのか、という疑問が出されるかもしれない。答えは、こうであろう。――われわれは真なるものを一つの成果という形式においてみようと欲するからこそであって、そのためにはまず第一に抽象的な概念そのものを概念において把握することがほんしつてきにひつようなのである、と。
 それゆえ、現実的であるもの、つまり概念の形態は、たといげんじつそのもののなかでは最初のものであろうとも、われわれにとってはやっとそのつぎのもの、あとのものなのである。われわれの進行は、もろもろの抽象的な形式がそれら自身だけで存立するものではなくて、非真なる諸形式であることが示されていくという進行である。」

 何という素晴らしい丁寧な概念の弁証法の実態の説明でしょうか!!ヘーゲルの「法の哲学」は、まさに概念の弁証法の最高のテキストです。ところが、マルクスは、この概念の弁証法の最高のテキストである「法の哲学」を徹底的に研究しながら、その真髄を全く理解できていなかったようです。その原因は、何度も言うように唯物論の立場にこだわった結果なのです。マルクスが、物質の本質が精神であることを喝破しながら、南ク先生が、哲学とは何かを自力で措定しておきながら、物質の本質である絶対精神の自己運動こそが哲学の真髄であることを、ヘーゲルから学ぶことができなかったという事実は、論理の恐ろしさ・厳しさを物語るものです。しかし、その反面、マルクスがあれほど心血を注ぎ、徹底的に研究しても分からなかった、ヘーゲルの論理を、初めて読んだ私が一読で即座に自分のものとして、マルクスの誤謬を喝破できるのも、論理の別の意味での恐ろしさであり、素晴らしさなのです。

 もう少しマルクスの具体的な批判を見てみましょう。マルクスは、ヘーゲルの次の文章に対して以下のように批判しています。
「この有機組織は理念の、それ自身のもろもろの区分への、そしてそれらの客観的現実性への、展開である。・・・・これらを通じて普遍的なものが不断に――しかもこれらのものは概念の本姓によって規定されている以上、――必然的な仕方で己を産み出し、そして――その普遍的なものはまたそれの産出にとって前提とされてもいる以上、――己を保持する。――この有機組織が政治的体制である。」

と、マルクスはヘーゲルの文章をピックアップした後、これに対して次のように批判しています。
「彼の目指す本来の成果は、有機組織を政治的体制として規定するにある。しかし有機組織という普遍的理念から国家有機組織または政治的体制という特定の理念へ渡って行くどんな橋も架けられていないのであり、また永遠にそのような橋は架けられようがないであろう。」

 ヘーゲルの展開する物質の本質・本流の自己発展の内在的必然性は立派に存在するのであって、それはマルクスの唯物論的な手法とは異質のものだから、マルクスには理解できなかった。したがって、「橋はない」ということになり、「永遠に」ないとまで断言するほど強く否定することになってしまったのです。世界全体の運動を統括する理念の自己発展の論理においては、人間社会の国家は、動物時代にはないものであり、動物時代の集団を受け継ぐ市民社会や家族は自然成長的なものであるのに対して、国家という有機組織は、人間になってから初めて創られた目的意識的組織です。ですから、この二重構造的一体性として人間の国家。社会をとらえなければなりません。これはちょうど、人間体を生物体と生活体との二重構造的統一体としてとらえるのと同じことです。これは概念の運動・理念の運動の必然性として充分にとらえ得る論理です。ですから「未来永劫」ありえないというのは間違いです。それよりも問題は、こういう観点を否定してしまったのでは、即自的悟性の論理だけでは、何時まで経っても本物の真理になることができない、ということこそが人類にとってまことに重大な問題であるはずです。現に、そこで躓いているのが、ほかならぬ南ク学派だからです。

 その真の原因がマルクスにあったというのが、今回明らかになったことです。加えて、滝村先生が、ヘーゲルの学問的立場を<絶対的観念論>と規定しておきながら、それを受け継ごうとせずに、なぜに唯物論にとどまってしまったのかの謎も、その原因は、やはりマルクスであったことがよく分かりました。




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[2638] 南ク学派なマルクス批判をどこまで徹底できるか
愚按亭主 - 2017年05月31日 (水) 16時53分

 「学城15号」の中の村田氏の論文にマルクス批判が展開されています。まずそれを紹介しましょう。
「資本制とは、人間労働が生み出した価値が一転に凝集して新たな人間労働を支配し、人間の持つ生産能力を最大に活用することで最大の価値を新たに生み出して生産様式にほかならない。
 しかしながら、マルクス自身は資本を一面においてしかみなかったところに大きな問題があったことを指摘しておかなければならない。つまり、マルクスは資本が労働者の労働を搾取するという側面をあまりにも強調し、資本の持つこうした生産力の歴史的な正当性、必然性を十分には理解できていなかったと言ってよい。理由は、マルクスが社会の経済的側面、言い換えれば物質的な生産諸関係の総体こそが歴史の原動力である、と深く信じ込んでいたために、経済的側面と政治や法との相互浸透を捉え切れず、ましてや精神が社会に大きく浸透してくることで、時代的世界が発展していく構造を理解することができなかったからである。」(p32)

 この指摘は、全くその通りだと思います。問題は、どうしてマルクスがそのような誤りを犯してしまったのか、その思想的な原因を徹底的に追及していくことが、とても重要です。はたして、そこまで極められるか楽しみに注視していたいと思います。と言いますのは、この問題の淵源は、南郷学派も共通して抱えている問題ですので、この問題を反照として自らの抱える問題の反省と克服がなされたならば、日本の学問は息を吹き返すことになるからです。

 南ク学派が、このようにマルクスを批判できるようになったのは、生命史観を創り上げたおかげなのですが、それがいったい何を意味するかを真面目に反省できたならば、南ク学派が今抱えている問題の解決の糸口が見つかるはずですので、それも含めて注視していきたいと思います。

 と言いながらも、おそらくは無理であろうとの推測できますので、私の方から答えに近いヒントを提示しておきたいと思います。それは、すでに提示してあるのですが、念のためにもう一度披露しておきましょう。それは前の記事の次の文章です。

「マルクスの指摘する三重の誤謬の2と3は、統体止揚の否定のようですが、この否定がマルクスの階級闘争論の土台になっていると考えられます。しかしながら、歴史的事実は、このマルクスの階級闘争論の方が、人類の発展にとって何の発展ももたらさないどころか有害ですらあることを北朝鮮の現実が今も実証し続けている現実があります。」

 この中で言われている「三重の誤謬の2と3」とは、具体的には
「2、現実的な両対立物が対立するものとしてきっぱりと分かれていること、それらが対極になっていくこと――このことはそれらの自己意識にほかならぬとともにまた決闘への煽りたてにほかならぬ――が、できるだけ避けられるべきとか、もしくは有害なことかのように考えられるという誤謬。3、両者間の仲介を企てるという誤謬、である。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p160・161)
です。

 これは、明らかに対立物の統体止揚の否定です。私もはじめて読んだ時、これ本当にマルクスが書いたのか?!と、にわかには信じられない思いでした。と言うのは、これは、明らかに弁証法の否定だからです。私はこれまでマルクスを批判するときに、「ヘーゲルはこの対立を止揚して統合しています。ところが、・・中略・・マルクスは、この統合をわざわざ離間させて対立のままに戻して」批判している、とその不当性を主張してきましたが、このマルクスのヘーゲルに対する「三重の誤謬批判」を見ますと、ヘーゲルの弁証法を理解しようとしているのではなく、確信犯的に師の核心的論理を真っ向から否定し、統体止揚するのではなく、わざわざ対立を煽って敵対的にもう一方の極をせん滅させようとしているようです。これが彼の弁証法のようです。

 つまり、マルクスは、ヘーゲルの唯物論と観念論とを統体止揚した絶対観念論を否定し、唯物論と観念論とを敵対的に対立させ、物質の捨象がすなわち精神だからと、抽象的唯物論の中に観念論も含まれるから観念論は必要ない、と否定して唯物論一極にしてしまったのです。この手法がそのまま階級闘争史観に持ち込まれて、プロレタリアートの一極独裁の社会主義・共産主義社会構想になったわけです。これによって、世界およびその後継者たちがどれほどの害悪をこうむってしまっているのか。観念論と言うだけで誤りだ、という唯物論的観念論が横行して学問の発展を妨げているのです。

 つまり、これがマルクスの唯物論・弁証法の実態だということです。ここからいえることは、彼の学問的立場である唯物論は、学問の立場としてはふさわしくないということが言えるということが一点。
 次に、彼の弁証法も、ヘーゲルの運動体の弁証法ではなく、カント。アリストテレスレベルの静止体の弁証法、すなわち形而上学的弁証法でしかない、ということがいえることが第二点目。
 さらに、村田氏が指摘する「マルクスは資本が労働者の労働を搾取するという側面をあまりにも強調し、資本の持つこうした生産力の歴史的な正当性、必然性を十分には理解できていなかった」のも「マルクスが社会の経済的側面、言い換えれば物質的な生産諸関係の総体こそが歴史の原動力である、と深く信じ込んでいたために、経済的側面と政治や法との相互浸透を捉え切れず、ましてや精神が社会に大きく浸透してくることで、時代的世界が発展していく構造を理解することができなかった」のも、すべてここから発しているということが言える、というのが第三点目、です。

 要するに、マルクスはヘーゲルの学問的立場である絶対的観念論も、概念の弁証法も正しく理解できなかった、ということがすべての誤謬の根源だということです。そして、南郷学派が、それを曲がりなりにも批判することができたのは、ヘーゲルの絶対精神の自己運動過程の一部分である「生命史観」を創り上げることができたからに他ならない、ということです。しかし、問題はこれからです。この論理をとことん突き詰めて自らに反照することができたならば、そこにおのずと道が開けてくるはずです。

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[2639] マルクスの「労働」批判こそヘーゲルの弁証法が理解できなかった証拠
愚按亭主 - 2017年06月06日 (火) 22時34分

 タイミングよく京都の皆さんが「マルクス思想の原点を問う」と題する5回にわたる連載の記事をアップしてくれました。この中に、、マルクスはヘーゲルの概念の弁証法を理解できず、したがって、それを受け継ぐことも発展させることもできなかった、との私の主張を裏付けてくれる具体例が書かれておりましてので、それを取り上げて詳しく解説したいと思います。

 とは言っても、京都の皆さんはそう思うどころか、マルクスはヘーゲルを立派に受け継いでその足りないところを補ってさえいる、と言うことを言わんがために、この記事を起こしたものと思われます。それだけに、その意に反することになって申し訳ないのですが、それを私の説を証明するために使わせていただいて、マルクスはヘーゲルを理解できなかったことを、これから立証していこうと思います。

 まずは京都の皆さんの主張に耳を傾けてみましょう。
「マルクスは、ヘーゲルが労働を人間の本質として捉えたことを高く評価しながらも、「彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」と批判してもいました。この問題は、私有財産の本質という問題とも直接に重なるものです。端的には、マルクス思想の核心ともいうべき「疎外された労働」という概念がここに関わってくるのです。」(4/5)

 このマルクスのヘーゲル批判は、彼がヘーゲルの真意、ヘーゲルの弁証法をヘーゲルのレベルで理解できなかったがために、発せられたものです。これはちょうど南ク先生が、ヘーゲルの弁証法は単層構造で初心者レベルでしかなく、自分たちの重層構造の弁証法の方がはるかに凌駕していると嘯いて見せたのとまったく同じ構造です。つまり、ヘーゲルの弁証法の深遠さ・壮大さが見えないがために、自分たちの方が上を行っていると錯覚できたがための批判にすぎないということです。

 後で詳しく説明しますが、まずは結論だけを手短に紹介しておきましょう。マルクスの誤りは、ヘーゲルが概念論レベルで説いたことを、そのレベルで理解できなかった結果として、有論レベルつまり、現象論レベルで批判しているということです。つまり、まともな批判になっていない、ということです。ヘーゲルは、直接にはギリシャ時代の奴隷の労働を説いたようですが、これは、奴隷労働の「否定的側面」ばかりを説く常識的な現象論に対して、ヘーゲルが対自的理性の否定的媒介として、概念論レベルの本流としての人間の労働の本質論から奴隷労働を説いたのです。したがって、これに対して、「否定的側面を見ない」とのマルクスの批判は、ヘーゲルの概念の弁証法がまるで分っていないということを意味します。

 どうもマルクスは、ヘーゲルの概念の弁証法の核心である三項の論理を理解できなかったか、観念論的な概念の弁証法自体を意識的に無視していたのではないかとも思えます。実際その通りに、マルクス主義には、ヘーゲルの概念の弁証法も、三項の論理も見当たりません。私自身も、絶対的真理の方こそが本質だということに気づいて、ヘーゲルを学び始める中で、そういうものがあることを初めて知ったほどでした。ですから、南ク先生への質問状に、これを取り上げて何故これを無視するのか聞いたことがありますが、残念ながら未だ回答はありません・・・・・。

 したがって、マルクスがこのような誤りを犯すことは、必然性といえるものですが、その根本的な原因が、いつも言うようにマルクスが唯物論の立場でなければ本物の学問はできないと思い込んでしまったからに他なりません。しかしこれこそ大いなる間違いです。ヘーゲルは、ヘーゲル以前の哲学の理想主義的観念論と、当時台頭著しかった科学の土台となる唯物論とを弁証法的に統一して、真の学問の立場としての絶対観念論を創り上げました。ところが、マルクスは、折角できあがった学問の土台を、それが真の学問の立場であることが分からずに、普通の観念論と一緒だと錯覚して、弁証法的に統一されていたものをわざわざ解体して、ヘーゲル以前の唯物論か、観念論かの、つまり、あれか・これかの形而上学的対立に引き戻したうえで、ヘーゲルの哲学を、宗教と同じ観念論だ(実際は絶対観念論という真に弁証法的・学問的立場という次元の異なる決定的な違いがあったにもかかわらず)と決めつけて否定し、弁証法的(実際は形而上学的)唯物論・唯物弁証法こそが、真の学問の立場であり武器だとしたのです。これは、明らかなヘーゲルからの後退でしかありません。そして、その誤りは、後の、というより現在の南ク学派の、それが元での躓きとして現象している現実があります。

 さて、この結論を詳しく説明するためには、その前提となる基礎から説き起こしていく必要があると思いますので、しばらく我慢してお付き合いいただけたら嬉しいです。以下は、私の主催する弁証法ゼミのテキストの一部の抜粋です。まずこれをご覧ください。

        *           *

〔思惟の技化―悟性と理性との統一〕
 では、その思惟の技化はどのように行われるものでしょうか?それを理解するためには、まずその思惟の主体である認識の二重構造を知らなければなりません。これは論理的認識の二重構造と言えるものですが、その一番目の構造は、まず現実的なあるがままの事実と直接対峙する、即自の立場の論理的認識といえる悟性です。これは、現在の立ち位置で現象的事実と直接対峙するものですので、必然的に部分的・断片的で有限なものとなります。
 これに対して、二番目の構造は、現在の立ち位置から遠く離れて天空から己を俯瞰する対自的・全体的な体系性を持った論理的認識としての理性です。これは、全体性の論理ですので、部分的でも、有限でもない、真の無限の、全体にあまねく貫かれる本質的な論理ということになります。

その悟性と理性について、ヘーゲルは次のように説明しております。

「カントによってはじめて悟性と理性とがはっきりと区別された。カントによれば、悟性の対象は有限で制約されたものであり、理性のそれは無限で制約されないものである。ところで、単に経験にのみ依存する悟性の認識の有限性を主張し、その内容を現象と呼んだことは、カント哲学の非常に重要な成果ではあるけれども、しかしわれわれはこのような消極的な成果に立ち止まってはならないし、また理性の無制約性を、区別を排除する抽象的な同一にのみ還元するというようなことはしてはならない。このように理性を単に悟性の有限性および制約性を越えるものとのみ考えると、そのために理性そのものも実際は有限で制約されたものにひきさげられてしまう。というのは真に無限なものは有限なものの単なる彼岸ではなくて、有限なものを揚棄されたものとして自己のうちに含むものであるからである。」(「ヘーゲル小論理学」松村一人訳、北陸館、P152)

 この「小論理学」の中でヘーゲルは、思惟の技化について次のように述べています。

「人々が思惟、あるいは特に概念的思惟と言うとき、しばしば悟性の働きにのみ念頭をおいている。もちろん思惟は最初は悟性的思惟であるが、しかし思惟はそこで立ち止まってはいないし、概念は単なる悟性的規定ではない。――悟性の働きは一般にその内容に普遍性の形式を与えることにある。しかも悟性が作り出した普遍は抽象的な普遍であり、そのようなものとしてあくまで特殊に対立し、そのためにまたそれ自身特殊なものとして規定されている。」(「ヘーゲル小論理学」松村一人訳、北陸館、P214

 そして、この有限な悟性的論理から無限な理性的論理へと「超出」する過程の解明には、どうしても弁証法が必要となりますが、それについてヘーゲルは次のように述べています。

「弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。・・・中略・・・弁証法はこれに反して内在的な超出であって、そのうちで有限で一面的な悟性的規定はその真の姿において、すなわちその否定として示されるのである。すべて有限なものは自分自身を揚棄するものである。したがって弁証法的なものは学的進行を内から動かす魂であり、それによってのみ内在的な連関と必然性とが学問の内容に入り、またそのうちにのみ有限なものからの外的でない真の超出が含まれている原理である。」(同P219)

 ここで注意しなければならないことは、これが書かれているのは「小論理学」だということです。「小論理学」というのは、相対的真理の論理学だということです。ということは、すなわち有限な(部分的な)事実の論理の論理学であり、悟性的概念の論理学だということです。したがって、この「小論理学」の文章は、悟性の立場で書かれているものですから、弁証法的統一も第三者的な「統体止揚」ではなく、悟性による主体的な「自己揚棄」となるのであり、「超出」ということになるのだ、ということです。

 では、概念(論理)的認識の二重構造のもう一つの柱である、絶対的真理の論理学、つまり理性的概念の論理学はどうなのかといいますと、これが説かれているのがおそらく「大論理学」です。(まだ読んではいませんが・・・)南ク先生は「精神現象学」を論じたときに、ヘーゲルが「精神現象学」のあとに「大論理学」を書いたことを誤りだとしていましたが、これは、南ク先生の方こそ、学問とは何かが分かっていないと言えるほどの大失態と言える誤りです。ヘーゲルの「精神現象学」は精神すなわち本質的論理と現象すなわち事実との関係を説いたものです。その上で、ヘーゲルは、まず本質的論理から説き始めたのです。これに対して南ク先生は「エンチュクロペディア」から書くべきだった、つまり、事実の整理から説き起こすべきだったと批判したわけです。しかし、学問の常道として、まずはじめに一般論を提示すべきことは、南ク先生ご自身も、以前はたびたびそのように強調されていたはずです。そして、人類の学問の歴史を見ますと、学問の冠石の方が先に論理化され、学問化されて、思弁哲学として思惟の運動が展開されてきました。そして、そこから事実の論理である個別科学が発達していったという人類の学問の発展の歴史的構造もあります。ですから、ヘーゲルが、準備過程として「精神現象学」の中で事実と論理との関係を明らかにした後、「大論理学」から説き始めたことは、学問的に正当な順序であった、と言えます。


        *        *

 この悟性と理性との違いが分からなければ、ヘーゲルを正しく理解することは困難です。マルクスが説いている論理は、相対的真理の即自的かつ唯物論的な、したがってまだ断片的な真理の萌芽に過ぎない悟性的概念です。ですから、マルクスは、その中途半端な悟性的概念で、ヘーゲルの完成された大人の体系的な理性的概念を批判したわけですが、それができたということは、マルクスは、ヘーゲルの理性的概念の次元を感じ取ることすらできずに、自分のレベルと同じレベルだと勘違いして、それを悟性的概念レベルに矮小化して批判したということです。

 このことが分からない京都の皆さんは、次のようにマルクスを絶賛しています。
「ヘーゲルよりも半世紀ほど後の時代に生きたマルクスは、当時のドイツ社会の現実――資本主義経済の勃興につれて物質的な利害の衝突が生じてきているという現実――と対決しながら、『すべての人間が本来自由である』というヘーゲルの掲げた世界歴史の究極目的を真に実現していく(普遍的な人間解放を実現する)ためにはどうすればよいのかを探究していった結果、市民社会の弊害を完全な形で一身に体現させられているプロレタリアートこそが普遍的な人間解放の担い手とならなければならないこと(労働者の解放が直接に普遍的な人間解放を含むこと)を見出し、さらに『疎外された労働』の必然的な結果として成立させられている私有財産を積極的に止揚することで、人間が自然の必然性を把握しつつ自然と調和して生きられる社会、人間が他人に抑圧されることなく自由に生きられる社会の実現を目指すという共産主義の思想に到達したのでした。端的には、若きマルクスが抱いた共産主義の思想とは、ヘーゲルの自由論の延長線上に、近代市民社会の現実を踏まえながら、普遍的な人間解放を構想したものにほかならなかったのです。」(5/5)

 マルクスは、ヘーゲルの理性的労働論を、自分の立場である悟性の唯物論の立場から都合よく解釈してヘーゲルを分かったつもりになり、自分の立場から不足があると批判を加えました。どういうことかと言いますと。マルクスは、ヘーゲルの奴隷労働における「本質的側面」の指摘を、奴隷と同じような境遇にある労働者階級との副次的な「否定的側面」の相似性の方に目を奪われて、短絡的に同一視してそちらの方こそヘーゲルに優る本質的な論理だと錯覚してしまった結果、即自対自の弁証法的過程抜きに、即自の労働者階級を即自のまま持ち上げて、その自己揚棄を問題にしないまま、自由や人間解放をスローガンとして唱えるのみで、本当の筋道を説かないままに終わってしまったのです。
 
 ところが、ヘーゲルの理性的労働本質論は、そんな皮相なレベルのものではないのです。つまり、極端なことを言えば、抑圧されていようがなかろうが関係ないのです。人類の本質は、発展性の衰えた自然の内在性に代わって、精神が自然に働きかけ自然を創り変える人間の労働が、新たな本流であることの証であり本質的なのだということを、ヘーゲルは言いたかったのです。たとえ、奴隷のように人格を否定されていようが、労働に携わる者こそが人間の本質・本流たるを表す労働の体現者なのだ、ということをヘーゲルは説いたのです。ですから、この場合、否定的側面は副次的でしかないのに、マルクスは本質ではない、副次的な現象的特殊性の面ばかりを異常に重視して、それがない、とヘーゲルに見当違いの批判を加えたのです。ですから、抑圧されたことを盾にとって横暴を働く現在の左翼連中の劣性の大本は、このマルクスの誤り、すなわちヘーゲルの矮小化にあるのです。

 ヘーゲルは「法哲学」の中で次のように述べています。
「意志は普遍性を、つまり無限な形式としての自己自身を、自分の内容、対象、目的としている以上、即自的に自由な意志であるばかりでなく、同様にまた対自的にも自由な意志――真の理念である。
 意志の自己意識は、欲求、衝動としては、感性的である。――感性的なものとはそもそも外的なもの、したがって自己意識の自己――外――存在をいうのだが、自己のなかへ折れ返って反省する意志は、この感性的なものと、思惟する普遍性という、二つの要素をもっている。
 即自かつ対自的に有る意志は、意志としての意志そのものを、それゆえ自分をその純粋な普遍性において、自分の対象としている。――この普遍性とはまさしく、自然性の直接無媒介性と、そして、反省によって生み出されもするが同様にまた自然性もそれにまつわられるところの一個の特殊性とが、そのうちで揚棄されているということにほかならない。だがこの揚棄して普遍的なもののなかへ高め入れることこそ、思惟の活動といわれるものである。」(1722)

 ところが、現実のマルクス主義に指導された労働者階級の運動には、労働者としての特殊性を「揚棄して普遍的なもののなかへ高め入れる」「思惟の活動」が見当たりませんが、その原因には、論じてきたようなマルクスのヘーゲルの誤解・自分のレベルへの矮小化があるのです。

 では、ヘーゲルが考える本当の自由とは一体どういうものでしょうか?ヘーゲルの説く論理はすべて弁証法ですから、自由と言えども対立物の統一・止揚によって、真理といえる本物の自由が導き出されることになります。具体的に言いますと、「自由」と「必然」とは、相対立するものであるとされておりますが、それを弁証法的に統体止揚したものが、本物の自由であり、それを表現したものが、この「自由とは必然性の洞察である」です。

 そして、人類は、ギリシャ哲学からドイツ哲学への哲学の歴史的な歩みの中で、この世界全体の絶対的真理である絶対的本質を明らかにするまでになったのです。つまり、「必然性の洞察」の、その大本の無限の発展運動をしている「本質的必然性の洞察」を、とうとう成し遂げることができたのです。それが明らかになったということは、人類の誰もが、それを自覚でき、意志として自分のものにして、真の自由を獲得できる可能性を持っているということを意味します。この意志が真の自由な意志になることについて、ヘーゲルは次のように言っています。

「自由な精神の絶対的な規定、あるいは絶対的な衝動といってもよいが、――それは、精神が対自的に、すなわち理念として、意志の即自的にあるところのものになるために、自分の自由を自分の対象にするということである。すなわち、それは精神が、自分の自由が自分自身の理性的な体系としてあるという意味においても、この体系が直接の現実であるという意味においても、自分の自由を客観的なものにするということである。意志の理念の抽象的な概念は総じて、自由な意志を欲するところの自由な意志である。」(1865)

 ところが、マルクスは、人類が真の自由をものにする要となるヘーゲルの哲学を実質葬ってしまったのです。「哲学がプロレタリアートのうちにその物質的武器を見いだすように、プロレタリアートは哲学のうちにその精神的武器を見いだす。そして思想の稲妻がこの素朴な国民の地盤を根底まで貫くやいなや、ドイツ人の人間への解放は達成されるであろう。……この解放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートの揚棄なしには自己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには自己を揚棄しえない。」とのマルクスの言葉も、その肝心の哲学を自ら破壊しまがい物にしてしまった後においては、虚しく響くのみと言えます。その反省なしには、真の自由、人類が真の人間になることは難しいと思います。はたして南ク学派の反省はそこまで到達できるであろうか・・・・・




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[2680] マルクスの「橋はない」という批判は唯物論ならば正解
愚按亭主 - 2017年09月27日 (水) 17時48分

 「彼の目指す本来の成果は、有機組織を政治的体制として規定するにある。しかし有機組織という普遍的理念から国家有機組織または政治的体制という特定の理念へ渡って行くどんな橋も架けられていないのであり、また永遠にそのような橋は架けられようがないであろう。」

 このマルクスの、普遍的理念が「特定の理念へ渡って行くどんな橋も架けられていないのであり、また永遠にそのような橋は架けられようがないであろう。」という批判は唯物論に立つ限り正当であり正解です。ですから、唯物論を信じるマルクスとしては、正直に正しいことを述べただけです。しかしながら、これは同時に、唯物論では学問の体系化は不可能であることを自ら告白したようなものです。だから、ディーツゲンは「学問の体系化のためには現実的立場(唯物論ー亭主)から離れて自由にならなければならない、と述べたのです。ディーツゲンは、マルクややヘーゲルと違ってヘーゲルを素直に真面目にまなんだようです。その意味で本当に見事です。

 またこのマルクスの批判は、弁証法の基本ができていないことの告白でもあります。何故なら、弁証法の基本は、即自(悟性・唯物論)から対自(理性・観念論)への飛躍(橋渡り・否定的媒介)であり、その両者の統一いいう思弁・思惟の運動であるからです。ですから、唯物論のこだわってこの弁証法性を身に着けそこなった結果として、彼の唯物史観は、弁証法の基本ができていないために、一番大事なところが形而上学的なのです。たとえば、歴史の原動力は物質的生活の生産であるという規定などです。ヘーゲルを真面目に勉強していたならば、生命の段階からすでにその歴史の原動力は概念であったことは明白だからです。老婆心ながら念のために、この場合の概念は、マルクスの言うような現実性のない抽象的普遍などではなく、ヘーゲルの言う本質と現象との統一としての概念であることは言うまでもないことです。

 そして、何より大事なことは、この弁証法の崩れの根本的な原因は、唯物論を形而上学的に信奉して、観念論的に自らを規定縛り付けてしまったところにあるのです。これが、マルクスや滝村先生南郷先生が・ヘーゲルの哲学を理解できなかった真の原因なのです。

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