カウンター 弁証法の基本技とは何かー南ク学派に見られる技のなさ・技の崩れ - 談論サロン天珠道
【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催

談論サロン天寿道

この掲示板は、東洋医学に関する諸問題を真摯に討論するためのものです。
個人的な誹謗中傷ではなく、学問的な議論であれば、どんなに激しくとも可です。
最近他所の問題を此処で意見する者が増えてきました。
ここは独立した掲示板ですのでそのような書き込みは削除いたします。

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
アップロード
URL
削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[2630] 弁証法の基本技とは何かー南ク学派に見られる技のなさ・技の崩れ
愚按亭主 - 2017年05月09日 (火) 19時36分

〔観念論そく誤りとする風潮の愚〕
 私はすでに何度か言及していることですが、弁証法には基本技というものが「ある」と思っています。こういうと必ず、基本技というものがあらかじめ「ある」というのは観念論だ、ここは唯物論的に、技は創るものだとしなければならない、とクレームをつけたがる人が出てきます。私がいう「ある」というのは、弁証法の歴史を私なりに措定したうえで、弁証法の構造として、基本技と位置付けられる必然性がたしかに存在するという意味で「ある」という言葉を使用しているのです。ですから、もしこういう批判があったとしたならば、それは全く相手の真意を理解しようともせず、あるいは理解できずに、言葉尻で批判していることになります。

 同じことが、ヘーゲルに対する大方の誤解にも言えます。たとえば、
「ヘーゲルの構築した壮大な哲学体系は、世界観(この物質的な世界は永遠の昔から物質的に統一されていたのか、それともある時点で精神的な存在によって創造されたのか、というこの世界のあり方の根本にかかわる観方)としては観念論(精神こそ根本的な永遠的な存在であって、物質と呼ばれるものはその産物であるとする世界観)にもとづいたものでした。つまり、ヘーゲルにおいては、この世界全体の歴史的発展のあらゆる過程が、絶対精神なるものが自己を展開していく一連の過程として捉えられていたのです。」

 この文章は、ヘーゲルの壮大な哲学体系は観念論であるために誤りである、というニュアンスで述べられています。この捉え方は、ヘーゲルの哲学に対する代表的な評価・とらえ方であると思います。しかし、この観念論だという一点だけで、ヘーゲルの哲学は誤りであるとする決めつけ方は、前にも述べておいた通り、観念論が世界の起源に関する観方であるという規定自体がそもそも誤っているのであって、それを正しいとする前提での議論(観念論だから誤りであるという)そのものがナンセンスであり、誤りなのです。

 ところが、ほとんどの研究者たちが、その誤った思い込みで創り上げた先入見・色眼鏡で(観念論的に)ヘーゲルの文章を読んでしまっていて、ヘーゲルの文章が、どんなに正しいこと・凄いことを書いてあるものであっても、「ヘーゲルの立場からするとそうなる」というような突き放したような評価となって、つまり、自ら高い壁を設けて、折角の宝物を自分のものにできないように、自分に浸透しないように防御して、自分が真の学問人になれないように、そういう現在の自分を一所懸命守っているのです。これは、その個人にとっては自己満足できるのでしょうが、日本の学問の発展にとって、とても残念なことであり、悲しむべきことです。

 ヘーゲルは「絶対精神」を、この世界の「絶対的本質」という意味で使っているのですが、「精神」という言葉が使われている、ということだけでその中身を見ようとしないで、観念論だ決めつけて、その色眼鏡をもってすべてのヘーゲルの文章を解釈しようとするのです。その結果、その精神が物質に化体する、すなわち精神が物質に姿を変える、と解釈して、やはり観念論だ、としているのです。しかしながら、「絶対的本質」とは、全体の本質ということであり、その本質の立場から見れば、本質が現実の自然として姿を現す、、ということは本質が現象するということであって、何らも学問的に問題がないどころか、まさにその通りであるはずです。ところが、はじめから観念論だと決めつけてしまっているので、その正しい指摘を素直に受け止められずに、これも物質が精神の仮の姿にすぎないことになると強引に解釈して、これは観念論だから誤りだと訳の分からない理由で否定するのです。しかしこれは、三浦つとむさんの誤った世界観の観方に基づく解釈であって、ヘーゲルが言っていること違うのです。ですから、それをもって断罪して真の学問のヘーゲルを否定して、自らの学問的実力を自ら投げ捨てていることに気づいていないのです。あわれと言う他ありません。

〔学問は絶対的観念論でなければならない〕
 マルクスエンゲルス以降、南郷学派も含めてほとんどの人は、学問は唯物論の立場でなされなければならない、ということが流行し常識となっている観があります。ところが、ヘーゲルやディーツゲンは、学問の体系化は、唯物論の立場から離れて自由でなければならない、としています。実際、その言葉の通り、個別科学の体系化をある程度果たして、いざ学問全体の体系化に唯物論を堅持したまま乗り出そうとした、南ク学派の実態は、唯物論を貫き通そうとすればするほど、ますますボロが出てきて、論理的破綻をきたし、論理的一貫性の喪失があらわとなってくる始末です。具体的にどういう論理的破綻があるかと言えば、弁証法の歴史を弁証法的に解けないという論理的破綻であり、しかもその自覚が全くないだけでなく、その弁証法の歴史の唯物論的・認識論的な措定と称するものが、人類初のかがやかしい学問的成果であるとまで豪語しているのです。これに対する私の批判は、すでに前の記事で行っておりますのでここでは省略しますが、その根本的な原因が、観念論を否定し唯物論を貫こうとしているためなのです。その大本は、マルクスのヘーゲルに対する次の批判にあります。
 
 「ヘーゲルの法哲学批判」の中で、マルクスは次のようにヘーゲルを批判しています。
「ヘーゲルが普遍と個というような、推理の抽象的諸契機を現実的対立物として取り扱っているばあい、それはまさにかれの論理学の根本的二元論である。」
そしてさらに、その三十年後に「資本論第二版」のあとがきの中で、依然として彼はヘーゲルの弁証法を次のように批判しています。
「ヘーゲル弁証法の神秘的な側面は、わたしがおよそ三十年前、ヘーゲル弁証法が流行していた時代に批判した」

 ここでマルクスは「根本的二元論」を間違いだとしていますが、マルクスのこの言葉こそ、彼がヘーゲルの弁証法を正しく理解していなかった証拠といえます。この「根本的二元論」とは観念論と唯物論との二元論という意味ですが、ヘーゲルはこの対立を止揚して統合しています。ところが、観念論を否定して唯物論に一元化したいマルクスは、この統合をわざわざ離間させて対立のままに戻して「根本的二元論」として、「抽象的なものと現実的なものとを混同している」と批判したわけです。ところがヘーゲルにあっては、抽象的な論理的諸契機は、現実的な対立を含めた全体の一モメントに過ぎないのです。だからこそ、ヘーゲルは抽象的な論理的諸契機を現実的な対立としたのですが、マルクスは、そのヘーゲルの弁証法の論理学の弁証法性を理解できずに、「神」とか「絶対精神」という用語を使っているから神秘主義や観念論だと規定してしまって、その正当性を理解できなかったのです。

 じつは、そのマルクスの誤りに対する根本的な批判が、科学的唯物論の立場に止まる限り学問は完成しないということが、「小論理学」の中で明確に述べられています。残念ながら、マルクスはその言葉を素直に受け止めなかったようです。マルクスは、ヘーゲルの弁証法を観念論的・宗教的・神秘主義的側面をもつ欠陥があると規定してしましたが、それには、マルクスが、ヘーゲルの弁証法をもって現実の問題を解こうとして役に立たなかったという事実があったために、ヘーゲルの弁証法から離れて唯物論の立場・科学的立場に立って現実の問題を解く必要性に迫られていた、という事情もあったためと考えられます。

 しかし、それはヘーゲルも見通していたことであって、ヘーゲルの弁証法の欠陥でもなんでもなく、マルクスは自らヘーゲルの弁証法の通りに行動しながら、それを自覚できなかったばかりか、ヘーゲルの弁証法を誤りだと批判してしまったために、否定の否定の行程における第一の否定を、第二の否定ができない形で行ってしまったのです。それがために現在、南ク学派が第二の否定ができずにもがき苦しんでいる事態を招来してしまった、と言っても過言ではないと思います。

 このようにヘーゲルの弁証法は、マルクスが「根本的二元論」として部分的に認めていたように唯物論も観念論も含むものです。そして、その「根本的二元論」を統体止揚した絶対的観念論がヘーゲルの学問的立場であり、唯物論を離れて立つべき「自由な立場」の真相なのです。この絶対的観念論の構造はどういうものかと言いますと、唯物論の即自的悟性と、観念論の対自的否定的弁証法的理性との、根本的二元論を統体止揚して統合した絶対的観念論の即自対自的肯定的弁証法的理性が、すなわち学問であり、絶対理念だということです。学問の形態は、論理の体系化すなわち理念であり観念であり、その学問体系の頂点に位置する学問の冠石である絶対的真理が、学問全体を統括するわけですから、観念主導の絶対的観念論が、学問の立場として正解なのです。

〔「根本的二元論」とはこの世界のもつ普遍的二重構造〕
 マルクスはヘーゲルの弁証法を「根本的二元論」で誤りだとして批判していますが、じつはこの「根本的二元論」は、現実の世界そのものが持っている性格・二重構造に即したものであり、決して間違いではないどころか、学問に必須な見方にほかなりません。どういうことかと言いますと、この世界は現象する事実の世界と、その奥に貫かれている体系的・論理的に統一された世界との二重構造になっているということです。この二重構造は、静止的な無機の世界から動的な有機の生命的世界へそしてさらにより高次の人間的な歴史的世界へと、連綿と発展し続けているこの世界に普遍的に存在する基本的な構造です。

 この構造について、ギリシャ哲学は、次のように問題としてそれなりの答えを導きだしています。すなわち、パルメニデスが、まず最初に「世界は一にして不動」と論理的に規定し、それを受けてプラトンが、その不動の論理であるイデアこそが真理で、現象している世界はその投影に過ぎないと規定し、さらにアリストテレスが最終的に、師匠であるプラトンの説を、現象する世界は投影ではなく現実の世界であるが、その現象する形の世界の上に本質的な論理の世界が存在し、こちらこそが重要であるとする形而上学を創り上げたのです。

 しかしながら、この哲学すなわち形而上学(静止体の弁証法)は、静的な無機的世界の物理学的な運動にたいしては有効ではありえても、動的な有機化学的世界の生命運動に対しては対応しきれないものでした。これを可能としたものが、ヘーゲルの創り上げた運動体の弁証法です。ですから、ヘーゲルの弁証法では、有機体の運動すなわち生命がとても重要な過程を占めるものとなっています。なぜなら、ヘーゲルの弁証法の終局目標と言える学問の完成形態である絶対理念の形成過程を、ヘーゲルは次のように規定しているからです。
<生命―認識―学問>
 つまり、生命は学問の出発点に位置付けられているのです。

 これに対して、マルクス主義者であり「小論理学」の翻訳者である松村一人氏は、普遍性レベルを問題にしている時に、特殊性である<生命>を持ち出すのはおかしい、と異議を唱えています。しかし、この松村氏の批判は、氏の論理能力が静止体の弁証法すなわち形而上学レベルでしかないことを告白しているようなものです。ヘーゲルの弁証法は運動体の弁証法ですから、普遍性も発展していくのです。つまり、ヘーゲルの弁証法は、この物質世界の本流の発展を通じて世界全体が発展していく構造を説いたものなのです。生命は、その本流の発展の一過程を担ったものだからこそ、ヘーゲルは生命を取り上げたのです。そして、その生命の普遍的構造として、経験するあらゆる事実を論理的に総括した遺伝子と、その遺伝子に媒介されて現象する進化的事実との二重構造が存在していることは、すなわち、「現象する事実の世界と、その奥に貫かれている体系的・論理的に統一された世界との二重構造」の発展形態に他ならないということです。

 そして、それが人間の認識の段階になりますと、その二重構造の、動物由来の即自の事実性の測面は感性的認識へと発展し、遺伝子由来の対自の論理性の側面は理性的認識へと発展するという認識の二重構造へと連なっていくことになります。弁証法は、後者の遺伝子由来の対自的な理性的認識の思惟によって、事実とは相対的独立に全体性の論理性の把握として創られ発展していくことになります。

〔弁証法とは何か―弁証法の基本技とは〕
 ヘーゲルの弁証法では、絶対精神は即自有と規定されています。これはどういうことかと言いますと、この世界そのものがあるがままの状態、すなわちまだ己自身を自覚できない状態、つまり、自然成長性のままに存在しているということです。それがその内在的な自然成長性のままに発展していって、人類が誕生してその認識の発展の中でギリシャ哲学が生まれて世界の本質についての対自的な思惟の反省運動が始まって精神となっていきます。これが絶対精神の中の概念的部分の顕在化の端緒となります。そして、この運動をはじめて対自的に自覚したものが、デカルトの「われ思うゆえに我あり」です。これが、絶対精神がはじめて己自身を自覚した瞬間であり、自己意識が芽生えた瞬間であり、<即自有>が目的的な<対自有>へと転成していく出発点となりました。そして、カントを経てヘーゲルが学問の冠石である弁証法を完成させました。このヘーゲルの弁証法が、弁証法の基本となります。この基本となるヘーゲルの弁証法は、この世界の本質である絶対精神の運動である、この不断に運動・発展する世界をけん引する本流の運動・発展の構造を、論理的体系として、この世界の基本骨格として明らかにするものです。

 この弁証法の基本を修得するためには、それを創り上げた思惟の運動を展開できる実力、すなわち弁証法的論理能力が必須となります。この実力の養成のためには、ゼノンが行ったように事実を介さない形での、つまり純粋な形で、論理の論理性に基づいて、その論理を発展させ体系化する訓練が必須となります。この訓練によって養われた論理能力が、弁証法の基本技となります。この基本技が使用に耐えうるレベルに出来上がったところで、今度は、技の創造から離れて、この基本技を対象に合わせて使用する過程に進みます。その場合、技の創造においては観念論的に弁証法の論理を中心としてそれに対象を合わせていましたが、技の使用の過程においては基本技は否定される形で対象に合わせることに全力が傾けられます。しかしながらこれが結果的に基本技と対象との統一すなわち統体止揚されて思惟と存在との統一が実現されることになるのです。

 南ク学派は、この技の使用に関して目覚ましい成果を上げることができました。しかしながら、この基本技とその使用との関係性の自覚がなかったために、その使用過程において対象の立体性・重層構造性に合わせて弁証法の構造も立体化・重層構造化していくことが、弁証法の発展であるとの思いを強くした結果として、基本技とは何かを明らかにしないまま突っ走ったために、対象の多様性に弁証法的な論理の体系性・一貫性が損なわれていても気づかなくなるという、技の崩れが顕わになってきてしまいました。

 もともと南ク学派は、弁証法の基本技の創造をまともに踏むことなしに、事実と直接的に格闘しながら喧嘩憲法的に弁証法の技を創ったものですから、弁証法的な論理的体系性や一貫性に鈍感・無頓着なところがありました。たとえば、せっかく「哲学とは何か」を措定しながら、肝心の真理論における絶対的真理と相対的真理の関係性についてまで、その論理を貫き通そうとはしませんでした。

 このように、南ク学派の弁証法には、ヘーゲルの弁証法に見られるような、論理的体系性・論理的一貫性が見られないわけは、そういうことなのです。つまり、ヘーゲルの弁証法を否定して弁証法の基本技をきちんと創らなかったこと、対象の多様性・複雑性に技が創られたことを、技の多さを誇って技のなさに気づかない少林寺拳法のように、その重層構造が弁証法の発展だと単純に誤解して、基本技としての論理的一貫性が失われていく深刻な問題として自覚することができなくなってしまったのです。 



 

Pass

[2631] 近視眼的唯物論から離れなければヘーゲルの弁証法は正しく理解できない
愚按亭主 - 2017年05月12日 (日) 23時16分

 現在の学問の低迷・混乱を克服するカギは以下の通りです。まず、学問の要となる真理論を、現在のいびつなものから正しいものへ戻してやることです。具体的に言いますと、現在主流となっている真理論は、唯物論の相対的真理のみで構成された、いわば頭部が切り落とした歪な体系となっています。したがってこれを、その切り落とされた真の頭部である絶対的真理を中心とする正常な体系に戻してやることです。そしてそのうえで、人類の学問の歴史を、絶対的真理の系譜と相対的真理の系譜との弁証法的な発展過程として、整理することです。そうしますと、これまで難問とされてきたさまざまな問題が、一刀両断的に氷解していくことになります。

 「学問の体系化は唯物論の立場でなされなければならない」と思い込んでいる人たちは、自分たちが特殊性の一般化という誤りを犯していることに気づいていないようです。どういうことかと言いますと、科学の研究は事実から論理を探求するものですから当然唯物論の立場で行わなければなりません(実際はその中にも観念論が含まれているのですが・・・)。しかし、それはあくまでも科学の研究においてであって学問全般ではないのです。つまりそれは、特殊性に過ぎないということです。ですから、「学問の体系化は唯物論の立場でなされなければならない」というのは、特殊性の一般化という踏み外しだという誤りになります。

 したがって、観念論の立場で行われた哲学の歴史を、わざわざ唯物論の立場から解釈し直すという作業は、全く意味のない無駄な作業でしかありません。ご当人たちは、本物の学問的作業をしているつもりでしょうが、残念ながらその実態は、高次元の中身を低次元なものに矮小化することにしかなりません。このことは「哲学史」の中でヘーゲルも具体的な例として説いています。そこのところを、京都弁証法認識論研究会の主催するブログ「主体性確立のための「弁証法・認識論」講義」の中の「ヘーゲル『哲学史』を読む(8/13)」の中の唯物論哲学者ロックに関して次のように評価している部分を、以下に引用します。

「思惟(精神)と存在(物質)との関係という問題を、あくまでも個別的な人間の経験の問題として考えよ抜こうとしたのがロックでした。ロックは、思惟と存在との区別にこだわり、我々の外にある感覚的な対象こそが真実の存在である、と主張しました。経験によって形成された単純な観念のそれぞれを真理だとして済ませてしまうロックに対して、ヘーゲルは、根源的な存在としての絶対精神から全世界のあらゆる事物事象にまで(それら全てについて絶対精神それ自身が姿を変えたものとして)体系的に筋を通して把握しきってこそ真理が現出するのだ、と主張します。ヘーゲルのいわゆる『真理そのもの』とは学問体系のことにほかならず、そのような立場からみれば、ロックにおいては個々の知識(具体的経験から析出された一般概念)がバラバラのまま放置されているだけで、およそ弁証(法?ー筆者)的ではない、ということになるのです。」

 唯物論者のロックが、それまでの観念論哲学のお歴々の全体性の議論から外れて、全体性・統一性を目指さない議論に陥ってしまったのは、唯物論そのものが事実に密着した部分的真理を扱う立場だからにほかなりません。ですから、哲学のような全体性の論理を扱う場合には、唯物論から離れなければ、議論にならないということをこの歴史的事実は示しております。ですから、私には、唯物論の立場で哲学と説きなおそうとしている人たちが、このことを問題として取り上げて自らの反省の糧として検討しようとしていないことは、不思議でなりません。按ずるに、どうも観念論は誤りで哲学も唯物論の立場から書き直さなければならないものとして、頭から決めつけてしまっているので、そんなこと歴史の単なるエピソードに過ぎないと歯牙にもかけていないように感じられます。 

 実際、「ヘーゲル『哲学史』を読む(13/13)」という記事の次の一節を読みますと、そういう姿勢が如実に表れているように思います。
「観念論の立場から説く哲学と唯物論の立場から説く哲学との差異は何でしょうか。哲学というものは、世界全体(宇宙の生成から現代までの歴史性をも含む)に体系的に筋を通して把握したものですから、その成立のためには、観念的な自己をいわば神の立場に立たせて、世界全体を(その歴史性をも含めて)眺め渡すという過程が絶対に必須となります。これはフィクションであると自覚しているのが唯物論の哲学で、実際にその通りなのだ、自分はもともと神と同じものなのだ(自己=絶対精神)と思い込んでしまうのが観念論の哲学だ、ということもできるでしょう。」

 この「ヘーゲル『哲学史』を読む」という一連の記事は、ヘーゲルが、人類の思惟の発展過程を、それに関わる具体的な哲学者一人一人を挙げながらその特徴および絶対的真理に向かう思惟の発展過程における評価を与えながら説いたものを、とても忠実にうまくまとめたものです。その意味で私自身もとても参考になりました。ヘーゲルは、人類が絶対的真理に到達する過程をとても見事に把え切っていたということがよく分かり、あらためてヘーゲルの凄さを実感したものです。ところが、それを唯物論から評価するとフィクションに過ぎないということになってしまうのだそうです。ところが、これを読みますと、ヘーゲルが、真理たるにふさわしい内容であるかどうかについて、一々とても厳しく評価している様を、つぶさに追って描いておきながら、簡単にフィクションだと切り捨てることのできる感覚は、私にはとうてい理解できるものではありません。しかし、これが唯物論の縛りの恐ろしさだと思います。だからこそ、唯物論から離れる自由さが学問の完成には必要なのだと思います。

 ではその差異のもう一方である、唯物論の立場からする哲学はどうあるべきかについて、京都弁証法認識論研究会は、次のように書いています。

「唯物論の立場からすれば、精神なるものは人間の脳細胞が描く像としてしか存在しません。唯物論の立場から説く哲学史では、客観的な世界の反映を原基形態として人間の頭脳において成立した精神が、人間が社会的労働を通じて客観的な世界(自然、社会)と主体的に関わっていく(問題にぶつかり解決しようと苦闘を積み重ねていく)なかで、世界の現象、構造、本質についての体系的な像を形成していくことになるのです。」

 これは、ヘーゲルがいみじくも指摘した「思惟(精神)と存在(物質)との関係という問題を、あくまでも個別的な人間の経験の問題として考えよ抜こうとしたのがロックでした。」と同じです。やはり、全体性の観点を持てない部分的真理の唯物論の立場からすると、こうなってしまうのは仕方がないことなのでしょうが、これこそが、唯物論の欠点であり、唯物論では哲学が説けない理由でもあります。この近視眼的な唯物論では、壮大なる物質の発展過程における認識の誕生の意義・意味や、なぜ認識が二重構造化したのかの意味も説けないようです。それはどういうことかと言いますと、この人間の精神という特殊性の主張には、直接に物質の本質・機能の一般性・普遍性も貫かれている、という弁証法性において把えようとしないで、観念論を排除するためにその特殊性を持ち出し、絶対化してしまうという愚を犯してしまっているということです。つまり、観念論を否定して唯物論にこだわればこだわるほど、弁証法性が失われていくということです。そのことをヘーゲルはそのロック評の中で説いているのであり、現に今も、南ク学派がそのことをあらためて実証してくれている現実が、われわれの目の前で繰り広げられています。にもかかわらず、ヘーゲルの「哲学史」を真面目に勉強しているはずの京都弁証法認識論研究会は、その反省もなしに、地獄への善意の道を歩もうとしている南ク学派の後を、何の疑問も持とうとしないで一所懸命踏襲しようとしているようです。

 ヘーゲルが、人類の学問史上において成し遂げた偉大な業績である唯物論と観念論の統一、主観と客観との統一や、思惟と存在の統一等々も、これらを、唯物論的に「精神なるものは人間の脳細胞が描く像としてしか存在しません」という特殊性としてのみ見る限り、唯物論と観念論の対立はもちろんのこと、主観と客観の対立も、思惟と存在の対立も固定化されて、その統一を直接性としてとらえることはできなくなってしまいます。だから、唯物論で見るとヘーゲルは理解できなくなり誤解してしまうことになるのです。これはヘーゲルの責任ではありません。唯物論からいったん離れて自由になれと言うヘーゲルの忠告を無視して従わない方に責任があるのです。

 実際その狭小な唯物論を離れて自由な思惟の運動性を獲得して、観念論的に神の立場に立って哲学的な全体性においてとらえてみると、人間の精神も「物自体」の機能としての一般性を持ち、かつまた「物自体」という本質そのものを探求しようとするところの思惟の運動を行う精神は、「物自体」が、自らを自覚する自己意識ということになります。これすなわち、思惟と存在とが直接的同一性として統一されることを意味します。同様に、主観と客観も統一されることになります。これを成し遂げたのがヘーゲルです。ヘーゲルはそれを成し遂げる過程において、「物自体」では運動・発展する絶対的本質を表現しきれないということで、「絶対精神」という表現を用いることにしたのだろうと思います。そのことを暗示させるヘーゲルの文章が「小論理学」の中にあります。それが

「こうした有限なものの地盤にとどまっているかぎり、無限なものが見出されないのは当然である。この地盤における最後の成果として生じたものは、外的な有限物の不定な集合として普遍、すなわち物質であった。」

 これは、唯物論でも物質という本質的概念を導き出せる、とした南ク学派に対する強烈なしっぺ返しとなるものです。つまり、部分をいくら集めても本物の全体にはならないということです。かつて南ク学派は、これと同じ論理を用いてウィルヒョウの細胞論を批判し否定していましたが、今同じ愚を自分自身が犯してしまっていることにどうして気が付かないのか不思議でしようがありません。この論理的な一貫性のなさを、弁証法の技の崩れと言っているのです。このように「物自体」では、唯物論のまがいものの本質に過ぎない「物質」と大して変わらないことになってしまうので、絶対的本質らしいネーミングをさがした結果、「絶対精神」という絶妙のネーミングが考え出されたのだと思います。これがなぜ絶妙なのかを、次に解説しましょう。

 絶対的本質としての「絶対精神」は、はじめは、<即自有>としてその内在的な発展性に基づいて自然成長的に発展していくことになりますが、その「絶対精神」が、その内在的な発展性が衰えを見せ始めてきたまさにそのときに、「絶対精神」は、発展性を持たない本能に代わって発展性を持つ目的的な認識を持って新たに本流として登場する人類となります。この人類の認識が、己自身である絶対的本質を追い求め始めていって精神へと発展していきます。そして、その精神がパルメニデスの「世界は一にして不動」の概念の起点(基点)に到達したとき「絶対精神」は「概念」となります。そして、その「概念」化した「絶対精神」が、デカルトの「我思うゆえに我あり」によって自己意識を獲得したとき、<対自有>となり、思惟と存在の直接性・主観と客観との直接性への道が切り開かれることになります。そしてそれを実現したのがヘーゲルで、ヘーゲルは同時に、哲学すなわち絶対的真理の基盤となる観念論と、個別科学すなわち相対的真理の系譜の基盤となる唯物論とをも統一して、学問の体系化の完成態である「絶対理念」への道の扉を大きくこじ開けるとともに、その「絶対理念」が、必然性を自在に活用して自由により高次元の世界を創造していくようになる、という未来の設計図となる絶妙なる弁証法を創り上げ、示したのです。

 ところが、このヘーゲルの本物の学問的な弁証法は、その内容ではなく観念論的だという理由だけで、すぐさま唯物論に傾倒した弟子のマルクスとエンゲルスによってわきに追いやられてしまいました。しかし、これはこれで弁証法の歩みとしては順当な信仰ではありました。すなわち、いったん、基本技である絶対的真理の思惟の弁証法が否定されて、唯物論の事実の弁証法による個別科学の体系化が行われるべき段階・時代にあった、ということです。つまり、個別科学のある程度の体系化がなったあとで、再び第二の否定を行って、観念論の絶対的真理の思惟の弁証法と、唯物論の個別科学の事実の弁証法との肯定的な統合、統体止揚による統一を図って、「絶対理念」を完成させられれば、何の問題もないのです。ところが、マルクスをはじめとする唯物論者たちは、こぞってヘーゲルが「精神」という言葉を使ったというだけで、この絶妙なる本物の学問的弁証法を誤りだとしてしまって、第二の否定をする気が全くなく、唯物論だけで学問を完成させようとして壁にぶつかって四苦八苦しているのです。

 昔の南ク学派は、獄門の方法論として、まず仮説的な一般論を定立して、しかるのちに対象的事実から論理を導き出しながら、それを一般論を媒介としつつ現象論・構造論として体系化していって、最終的にその構造論と一般論とに相互浸透的統一によって本質論を導き出す、ということが常識となっていました。この場合、最初に定立する仮説的な一般論は、全体を大雑把に眺めてそこから浮かび上がってくる論理性をもとに規定するものです。ですから、それは極めて直観的なものとなりますが、それで十分威容を足す者なのです。つまり、これは全体を全体としてとらえた全体性の論理と言うことで、一般論や本質論は、この全体性の論理として創らなければできないことをこのことは示していると思います。つまり、事実から積み上げていくだけでは、まともな一般論・本質論はできないということです。この論理を個別科学の体系化だけでなく、学問全体の体系化にもようようしようとするならば、唯物論の部分の論理の罪朝寝だけでは学問を体系化できないことは、容易に理解でkると思うのですが、唯物論の相対的真理の系列だけで学問の体系化は可能だと、無理やりい切ろうとするところに、一貫した論理を貫き通せない弁証法の技の崩れを感じるのです。


 

Pass

[2632] 哲学の実質は概念にある
tada - 2017年05月14日 (月) 23時06分

 天寿道さん 久し振りです。時間ができたので コメントしたいと思います。私は天寿道さんの弁証法に対して 科学的方法で説明できるとの考えを持っています。ここ最近 武道哲学第2巻の考察を深めているのですが 形式面つまり概念用語のニュアンスの違いなどを考慮すると 天寿道さんと自分の考えが意外に近いのではないかとの感想を持ちました。自分の見解を質問形式で書いて見ました。少しお付き合いください。

「唯物論の歴史を学ぶ(三)」(朝霧華刃著)の中引用文がわかりやすいのでここからはじめます。
「私にはシュヴェーグラーさんに関しては、述べたいことが山ほどあるのです。例を一つだけあげておきます。哲学を経験的な諸科学から区別するものは哲学の素材ではなくて、その形式、方法、認識の仕方である。これは南郷先生の哲学講義を学んだ私からすれば、間違いだらけだと思えてしかたがないのです。」

 哲学とは素材で決まる。つまり哲学は対象が問題であると この発想は妥当な考えだと思います。認識方法は科学と同じ。本質的構造把握であると。哲学とはただ「事物の一般性」を対象にした科学であると。パルメニデスの「世界は一にして不動」論を使ってみれば 世界を一つとして全体を本質的構造(最初はもちろん仮説であり直観であり先行諸学説の採用から始まる)で把握すること。世界を一般性レベルで把握する認識が哲学であると南郷学派は定義していると思います。この哲学観が南郷学派の一大特徴だと思います。武道科学を標榜していた南郷先生が今は武道哲学です。科学から哲学へ切り替わる時の発想としては 「事の是非」 を問わなければ腑に落ちるものです。しかし 辛辣に言えば この一般性止まりのままでは 学生相手の教科書は作れても 専門家レベルでは通用しないのです。(ここが問題点1)。しかし 学校教育レベルを目標にされているのだと仮定すれば問題ではないのですが...。 なお滝村先生の場合は限定された世界 歴史社会のみを対象にされました。生命史観・精神科学は当然のごとく ありませんので 部分的相対的真理の弁証法つまり科学であり 哲学ではないことを確認しておきます。
 天寿道さんの場合は 例えばこの南郷学派が提出した一般性から否定的契機・否定的理性を使い(私の場合は特殊性レベルの研鑽のことに対応します) 絶対真理に向かうという理解の仕方で間違いはありませんか?(問題点2) そして そうなると 私のヘーゲルの解釈でも同じで 単に弁証法が繰り返され 真なるもの 神的なるもの プラトンで言うイデア。私は ただ「概念」と言っていますが 天寿道さんで言う 絶対真理・絶対精神になるという寸法になります。別な言い方では 概念化が進めは 全体の概念的流れをまた弁証法化し 体系化(=絶対精神化)をつとめていくことです。この弁証法が繰り返されること。普遍(一般)―特殊―個別そしてまた個別が普遍(一般)になり 頭にもどって 同じ事が繰り返す循環をヘーゲルは無限性と言ったのではなかったですか?(問題点3)この無限性は カントとアリストテレスでは見られなかった。同じように南郷学派が思考停止したことと同じと考えてよいですか?(問題点4) 天寿道さんは科学の袋小路に入ったために 進展しないとの見立てですが 私は逆に科学が中途半端なために概念化のレベルアップができず(歴史社会の哲学に関しては滝村先生の学的業績を否定していることが原因です。)一般性レベルのままに胡座をかいて いつまでたっても個別性レベルに向かえない状態 真の哲学に届かない もしくは現状に満足しているというのが私の見立てです。 

Pass

[2633] 「形式、方法、認識の仕方」の方が重要ー例えば時間・空間の問題
愚按亭主 - 2017年05月15日 (月) 11時24分

 お久しぶりです。早速質問にお答えします。
質問1)
>哲学とは素材で決まる。つまり哲学は対象が問題であると この発想は妥当な考えだと思います。認識方法は科学と同じ。本質的構造把握であると。哲学とはただ「事物の一般性」を対象にした科学であると。

 たしかに哲学は一般的な論理を対象にするもので、科学は事実を対象にするというように、両者の対象・素材の違いは存在します。しかし、より重要なのは、シュヴェーグラーの言うように、そこからくる哲学と科学との「形式、方法、認識の仕方」の違いの方だと思います。

 どういうことかと言いますと、哲学は全体性の論理を問題としてその論理の論理性に基づいて思惟の論理的展開によって創られるべきものだということです、これを思弁哲学と呼びます。この場合、事実は問題とせず、したがって、事実による真理であるか否かの証明は一切しません。ここが唯物論者が一番納得しがたいところなのですが、これはこれで学問的に正当なのです。現にゼノンの詭弁も、カントの二律背反も、論理的証明であって事実的証明ではありません。全体性の事実的証明は、不可能だからです。しかし、論理的には可能だから論理で真理であることを証明するのです。ここが科学と決定的に異なるところですが、それが分からないから唯物論者・相対的真理の信奉者たちは、、絶対的真理など妄想だとして否定するのです。唯物論者たちはここが分からないから、ゼノンやカントの説く時間・空間論が分からないのです。

 たとえば、ちょうど今例の京都弁証法認識論研究会のブログでその時間・空間論について説かれているところですが、そこに展開されている彼らの見解を見てみますと、以下のようです。

「唯物論の立場からすれば、『空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性』であって、『空間は外的経験から抽象された概念ではな』いとするカントの主張は受け入れられないものである。そもそも、人間の認識は、外界の対象を五感器官を通して脳細胞に反映したものが原基形態であるというのが唯物論の立場からの認識論である。この直接の反映を、対象たる事物の共通性で括っていく、つまり論理化することによって、徐々に徐々に対象の具体性を捨象し、一般性を抽象していくのである。その結果、高度に抽象化された概念として、空間という認識が創出されるのである。
 とはいえ、唯物論の立場からの空間の規定は、物質は一般性として空間という性質を持っている、などとは主張していないわけであるから、では空間が「ある一定の物質の静止の具体化の一般性」であるとはどういうことか、生き生きとした像を描けるように、繰り返し繰り返し議論し続けていく必要があろう。」

 ここで紹介されている空間に関しての唯物論的な規定は、南ク学派の故加藤氏の規定のようですが、この規定は、決して「この直接の反映を、対象たる事物の共通性で括っていく、つまり論理化することによって、徐々に徐々に対象の具体性を捨象し、一般性を抽象してい」ったものではなく、また、人類の認識の歴史的発展過程を学問的・認識論的に反省することによって創られたものでもなく、現在の自分たちの認識をもって後付けで適当に解釈されて作られたものにすぎません。ですから、どちらかというと唯物論的にではなく、観念論的に創られたと言った方が、実態に近いと思います。つまり、時間・空間とはそういうものなのです。ここにカントが「空間は外的経験から抽象された概念ではない」と主張する由縁があるのです。南ク学派が認識論の本家を標榜するなら、ここをこそ認識論的に説(解)いてこそ、そう豪語するにふさわしい資格があるというものですが、それをやらずに怠けてしまっていることは、本当に信じられないことです。したがって、それが、南郷学派の時間・空間論に反映されていないので、その時間・空間論は、あまり学問的価値がないものと評価せざるを得ません。

 京都の皆さんは、この規定について「とはいえ、唯物論の立場からの空間の規定は、物質は一般性として空間という性質を持っている、などとは主張していないわけであるから、では空間が「ある一定の物質の静止の具体化の一般性」であるとはどういうことか」と、この珍妙な規定に戸惑いを隠せないようですが、その理由は簡単なことです。時間・空間は、通常の対象と論理化の形式が全く違うということです。これが哲学と科学の形式の違いなのですが、観念論を否定している南ク学派や京都の皆さんの弁証法的でない形而上学的唯物論では、全く理解することができないわけです。それで、あのようなふざけたと言うか、苦しい言い訳じみた頓珍漢な規定になってしまうことになるのです。

 ではその形式の違いとはどういうことかと言いますと、通常の対象の論理化は、帰納法的にその対象の本質に迫るように捨象・抽象して内的に凝縮していくことになるのですが、時間と空間の場合はこれとは全く異なる形式で措定されることになります。だから、カントは『空間は外的経験から抽象された概念ではない』としたのです。その内容を示す「哲学史」の中のヘーゲルによるカントの物自体論を紹介しましょう。

「註釈(先験的観念論の物自体)
 即ち物自体は、そのものとしては、すべての規定性の空虚な捨象にほかならないということ、しかもそれがまさにすべての規定の捨象であるとせらるその故に、我々はそれについては勿論、何事も知り得ないのであると。ーーーこのように、物自体が無規定的なものとして前提されることになると、すべての規定は物自体の外部にあり、物自体には無関係的な反省で、物自体の方でも、この反省に対して無関心であるような反省の中にあることになる。先験的な観念論にとって意識は、このような外部的な反省なのである。
 この哲学体系においては、もののすべての規定性は、その形式上も内容上も、意識の中に移されるから、この立場によれば、物は私の中に即ち主観の中にあることになる。即ち木の葉を黒色でなくて緑色と見、また太陽を円とみて四角とは見ず、砂糖の味を甘いと云って辛いと云わないのは私である。
 更にまた、私が時計の第一鈴と第二鈴とを継起的とするのであり、これを並立的としたり、また第一鈴を原因、第二鈴を結果と規定したりしない。ーーーこの主観的観念論の極端な主張は直ちに時湯の意識と矛盾する。」

 ここでヘーゲルが問題としたのは、一般的な本質的な概念としての物自体ではありません。個別的なカントの物自体論です。カントは現象論的な経験的認識一切を否定して、人間の認識から経験由来のもの一切を切り捨てていって最後に残った、時間と空間の概念こそが純粋理性の所産であり、真理の王宮にふさわしい住人であるとして、これを用いて二律背反論を創りました。そして、それを基に物自体論を創り上げたのです。カントにおいて「すべての規定は物自体の外部にあり」となったのは、この時間と空間が、全体性の論理を扱う思惟の運動においt、前提的・アプリオリ的に存在しているかのような主観的・直観的な<無限の場>であった、からです。たとえば、ゼノンの思惟の詭弁において、アキレスが亀を永久に追い越せないことが可能となるのは、このアプリオリ的・前提的に存在する時間・空間の無限性があったからに他なりません。逆からいえば、もしここに、経験的事実的なものを介在させたならば、この論理は絶対に成立しえないような、純粋な思惟の運動だということです。かくして、カントは現象的な経験的認識の一切を排除して純粋理性による真理の王宮、すなわち全体性論理である絶対的真理の居場所を創り上げたのです。

 この純粋理性の思惟の所産である全体性の論理は、現象論的な経験的認識から産み出される事実の論理の積み重ねによってできるものではなく、つまり、内的構成の大部分を捨象というより問題にしない、言ってみれば無視する形で、全体を外部から全体としてみてその論理性を追究していった結果として創りだされるものです。たとえば、問題の時間・空間もその中にある具体的な内容物をすべて取り去ったとしても、そこに必ず存在しているもので、その取り去った具体物とは一切関係性がないのです。ですから「具体化の一般性」というのは誤りのなのです。もし具体化の一般性であるとしたのなら、そこに入るものは必ず限定されることになってしまいます。しかし、空間や時間の場合は、一切限定されないのです。一般性でもなんでもなく、関係がないから何でも入れることができるのです。つまり、時間・空間は、内的規定なのではなく、外的規定だということです。

 だから、カントにあっては、時間や空間は認識の側にあって、認識の側が物自体にその性質を与える形になるのです。ところが、カントは経験的現象論をすべて否定してしまっているので、内部構造的な積み重ねられた論理がありません。だから「物自体は、そのものとしては、すべての規定性の空虚な捨象にほかならないということ、しかもそれがまさにすべての規定の捨象であるとせらるその故に、我々はそれについては勿論、何事も知り得ないのであると。ーーーこのように、物自体が無規定的なものとして前提されることになると、すべての規定は物自体の外部にあ」ることになってしまって、結果として、内部構造をも含めてすべての性質を、認識が与える形となってしまうのです。そのことを、ヘーゲルは、そうなるとどうなるかと言う形で揶揄し批判しているのです。これは、カントの物自体論に対する正当な批判です。ヘーゲルは、カントの物自体論に対して、学問的な本質論である物自体論は、事実からしっかりと内実を持った論理で創って行かなければならない。と主張して、実際に絶対精神の本質論を創ってこの問題を解決したのです。

 この哲学と科学の形式と方法認識の仕方の違い、もっと言えば、哲学は観念論でなければならず、科学は唯物論でなければならないこと、そして本当の真理つまり、学問の体系はこの観念論と唯物論との統一・統体止揚によってはじめて成し遂げられる、という肝心な点が南ク学派は分かっていない・分かろうとしていないことが最大の問題なのです。だから、観念論を否定してしまうのです。その観念論を否定する根拠が、神が世界を創ったという宗教的観念論と同じ観念論だからというのですが、そもそもカントは二律背反の中である時点で世界が創られたとするなら、それ以前は絶対無となるわけだが、絶対無からは何も生じえないと、観念論の立場からそれをきっぱりと否定しています。つまり、南ク学派の観念論否定の論拠は、このカントの観念論と宗教の観念論とを一緒くたにするという、非学問的極まりない薄弱な根拠でしかないのです。

Pass

[2634] つづき
愚按亭主 - 2017年05月16日 (火) 11時22分

問題点2
>南郷学派が提出した一般性から否定的契機・否定的理性を使い(私の場合は特殊性レベルの研鑽のことに対応します) 絶対真理に向かうという理解の仕方で間違いはありませんか?

 南郷学派が提出した一般論とは何を指しているのか不明なので何とも答えようがありませんが、どうも混同されているのではないかと言う気がします。滝村先生がよく使われていた<普遍ー特殊ー個別>の三項は個別科学の体系化のためのもので、学問全体の体系化のためのものではないような気がします。それゆえ、絶対的真理に向かうものではないと思います。学問全体の体系化のプロセスとしての三項は、以下の通りです。
基礎的契機:即自的悟性(個別科学の体系)
否定的契機:対自的否定的弁証法的理性(学問の冠石)
統体的契機:即自対自的肯定的弁証法的理性(学問の冠石の統括下に個別科学が組み込まれる、すなわち構造化される=絶対的真理の一部になる)

問題点3
>普遍(一般)―特殊―個別そしてまた個別が普遍(一般)になり 頭にもどって 同じ事が繰り返す循環をヘーゲルは無限性と言ったのではなかったですか?

 ヘーゲルの説く<普遍ー特殊ー個別>は静止体の弁証法すなわち形而上学の<普遍ー特殊ー個別>ではなく、運動体の弁証法の<普遍ー特殊ー個別>です。ですから、発展性を持っていて普遍も発展していくのです。たとえば、生命の普遍性は環境契機との相互浸透的量質転化によって様々な特殊性を創り上げて個別性としての生命体となりますが、環境が激変しますと、それまでの経験を自己化して発展した生命の普遍性はまた、その新たな環境契機との相互浸透的良質転化によってより高度な特殊性を創り上げてより複雑な構造を持つ生命体となって個別化していきます。このように発展していくのですが、これが人類の誕生の場合はどうなるのでしょう?

問題点4
>この無限性は カントとアリストテレスでは見られなかった。同じように南郷学派が思考停止したことと同じと考えてよいですか?

 カントとアリストテレスの場合は、静止体の弁証法(形而上学)でしたので、当然のことですが、南ク学派の場合は運動体の弁証法の流れを継ぐ喧嘩憲法的弁証法ですので、運動体的な側面と静止体的な側面とが混合している実態があります。事実と格闘している場面ではかなりの運動性・発展性が発揮されますが、今直面しているような全学問の体系化という場面で観念論を排除して唯物論を徹底しようとすればするほど、あれかこれかの形而上学性が前面にでて運動体的な弁証法が失われていって、停滞しているように現象してしまうのです。

問題点5
>天寿道さんは科学の袋小路に入ったために 進展しないとの見立てですが 私は逆に科学が中途半端なために概念化のレベルアップができず(歴史社会の哲学に関しては滝村先生の学的業績を否定していることが原因です。)一般性レベルのままに胡座をかいて いつまでたっても個別性レベルに向かえない状態 真の哲学に届かない もしくは現状に満足しているというのが私の見立てです。 

 私は南ク学派が、袋小路に入りこんだから出られないと思っているのではなく、飛躍のためにいったん科学から離れなければならないのに離れられない、離れたくない離れないでもできると自ら思い込ませようとしているから、飛躍できないのだ、と思っています。ですから、言ってみれば自分から袋小路に入って出たがらないからダメなんだと思っています。ところで、今度の「学城15号」の滝村先生批判をどう思いますか?

Pass

[2635] 小宇宙の哲学
tada - 2017年05月17日 (木) 23時37分

質問に答えていただき ありがとうございます。おかげで頭の中が整理されました。
問題点2の南郷学派の一般性とは生命史観を念頭に置いたものです。否定的契機:対自的否定的弁証法的理性(学問の冠石)これがやはり天寿道理論の重要な理解ポイントですね。学問の冠石は哲学 全体性の論理学のことである。ここからの カントの引用に対しては 違和感があったので理解しがたい部分でした。なぜなら 私にとってカント哲学とは機能主義と不可知論の生みの親との認識があるからです。実際 よく読み込んでみると 純粋理性批判から先験的な感性的認識を取り出し ゼノンの思考実験と組み合わせて 純粋論理という考え方を独立させたのですね。これは天寿道さんのオリジナルなのですね。ここから 弁証法の基本技につながるのですね。ヘーゲルの教育論を参考にすれば ヘーゲルの大論理学あたりをベースに抽象化法・弁証法・思弁法と純粋に論理学を学ぶということですね。これなら理解できます。南郷学派に技の崩れがみえるといことも よくわかります。 
私の場合の否定的契機は (個別科学ですが) あくまでも特殊性を念頭におき 体系性と実証性の両面を把持し 一般論と事実に両方に規定性を与えるものです。つまり世界史の方法=唯物史観です。この世界史の方法が 結局は 体系性と実証性の概念化につながるものなのです。この概念化が 歴史社会に対応する「全体性」の論理学になります。純粋な論理学で始まるものではないのですが 技化が進めば概念の結晶化として歴史社会という小宇宙の哲学になります。体系性と実証性に逆に規定もされていますので 自分の技の崩れもわかるのです。そういうことで 私にも南郷学派の国家論一般の不備がみえるのです。天寿道さんと私では入り口と出口が反対だけのようです。 

Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板