カウンター 「学城」14号を読んで - 談論サロン天珠道
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[2502] 「学城」14号を読んで
愚按亭主 - 2016年12月25日 (日) 14時57分

 「学城」14号を読みました。南ク学派の発展を感じさせるとても充実した内容でした。やはり、学問は南郷学派によって完成させられる必然性を実感させられました。それだけに、いつも言っているように私が主張する点を取り入れてくれたならば、鬼に金棒なのに、どうして分かってもらえないのか、とても残念に思います。今回の「学城」14号も、やはり、いつも感じるのと同じ感想を痛感させられました。しかし、着実に近づきつつあるようにも思えます。そこで、その点について、論じてみようと思います。

1、南ク先生が説く「霊」「背後霊」とは何か?
 まず、南ク先生の巻頭言ー「アリストテレスの弁証法」の起源を解くーの中にある言葉に耳を傾けてみましょう。

「当時のアリストテレスの頭脳は事実レベルの反映像の並列的・経過的形成から、ようやくにしてそれらを一体化し始めるべき表象レベルの像形成へと二重化しかかる途上にあり、・・(中略)・・論理的な像へとしての出発点としての像を、描き始めていく途上であるがゆえの必然的な言語表現、すなわち、言語なき言語を探し求めての途上の表現としての言語であった、ということである。」
「だがここで、まもなくアリストテレスは大きな難関に逢着することになる。その難関とは、頭脳の中の像の群れの蠢動し始めたものを、いかなる言葉にすべきか、いかんる文字で表現すれば可能なのか、等々である。
 諸君、これが学的弁証法の歴史的原基形態なのである。・・(中略)・・以上を一言では、これがソクラテスの弁証法、プラトンの弁証法の統一体としての言語表現たる彼アリストテレスの弁証法の実態なのである。
 ここを捉えて、アリストテレスとヘーゲルの弁証法は文言の裏、文章の背後に存在する霊、すなわち背後霊と私は表現しているのである。」

 以上の南ク先生の論理と、日ごろ私が説いているものとはとても近いものを感じます。しかし、まだ残念な点も存在します。それは、パルメニデス・ゼノン・ヘラクレイトスが全く出てこないことです。南ク先生にあっては、それらは現れてはすぐ消えた泡のような存在なのかもしれません。しかし、南ク先生が説く「霊」「背後霊」を解くためには、とりわけパルメニデスとゼノンは、どうしても欠かせないものだと私は思います。

 南ク先生が説く「霊」「背後霊」とは何かを明らかにする前に、そもそもアリストテレスがどう表現したらよいか思いめぐらしている像とは一体何か、を明らかにする必要があると思います。端的に言えば、それは事実の論理像、すなわち即自的悟性レベルの、つまり相対的真理レベルの論理的な像のことです。それがどうして学的弁証法の歴史的原基形態と言えるのかと言いますと、それは単なる相対的真理レベルの論理像ではないからです。つまり、南ク先生流に言えば、その背後に「霊」を伴った論理像だということです。ではその「背後霊」とは一体何かと言いますと、この世界の本質レベルの絶対的真理の像なのです。だから、弁証法の原基形態と呼べるのです。

 ところが、南ク先生は、絶対的真理を熱病病みの観念論者の妄想と否定してしまったエンゲルスの呪いから完全に自由になっていらっしゃらないので、「霊」と呼ぶしかなかったのです。観念論を否定した結果、むしろ観念論的な概念を使わざるを得なくなってしまう、という何とも皮肉なことになってしまったわけです。それだったら、絶対的真理と言った方がよほどすっきりすると思うのですが、こればっかりはどうしようもありません。

 では何故そうなるのかを、解説していきましょう。まず前提として、ヘーゲルの弁証法の三項の定式について確認しておきたいと思います。

基礎的契機:即自的悟性(相対的真理の論理)ヘラクレイトス(万物流転)、ソクラテス
否定的契機:対自的否定的理性(絶対的真理の論理)パルメニデス(世界は一にして不動)・ゼノン
統体的契機:即自対自的肯定的理性(弁証法の原基形態)プラトン、アリストテレス

 この定式に、これまで私はソクラテスを入れてきませんでしたが、南ク先生に敬意を表して、相対的真理の論理化の端緒についたということで、入れてもよいかなと思いました。プラトンは現象的世界はイデア(絶対的真理)の投影にすぎないとして相対的真理を否定しておりますが、一応両者を統一的にとらえているという意味で、統体的契機にいれましたが、南ク先生の論に従えば、相対的真理の論理化の端緒としてのソクラテスと、相対的真理を否定して絶対的真理を確立したプラトンとの、両者を肯定的に統一したアリストテレスが、絶対的真理を媒介として(背後霊として)事実の論理の論理化を一定程度推し進めたことが、歴史的な弁証法の原基形態となった、ということだと思います。

2、瀬江千文先生の人間の遺伝子の重層構造に関する論文を絶対的真理の観点から説く
 この論文は、南ク先生の画期的な遺伝子論について解説したものですが、とても参考になりました。とくにこの文中に指摘されているように、私も遺伝子とDNAとを一緒にしてしまっていましたので、これからは意識的に遺伝子の方を使うことにしました。

 南ク学派の遺伝子に体系的重層構造に関する新たな発見は、まことに目覚ましいものがありますが、そちらの方は「学城」14号の方を読んで頂くとして、ここでは特に、問題となった「思うから考えるへと認識が変化することによって、遺伝子の構造が変化する」について取り上げてみたいと思います。これについて瀬江先生は、はじめは、これでは観念論ではないかと驚いたようですが、よく考えてみると「脳の一つの機能である認識の変化が、実態である脳細胞の遺伝子をも変えるのは、理論的には当然といえよう」と自分を納得させたようでした。そして、認識論的に思うと考えるの違いについて検討していくことになります。

〔思うと考えるの違い〕
 瀬江先生は、南ク先生の講義録から思うから考えるについての説明を抜粋して次のように紹介しています。

「『思う』という像は、優しく説けばただただアタマの中に存在したものをそのレベルで描いているだけである。加えてその像は、当然ながら感情像としてのものであるだけに『楽しかったな』とか『悲しかったな』とか『こん畜生』とかいう姿や形で、である。」
「思いの像は、考え続けなければ考える像としては動かない。思うことと考えることとは違うとはいえ、思うことを一生懸命思うことを考えるレベルのことに最低論理レベルで、筋道を立てながら変えていかなければならない。
 これによって〔考える〕という遺伝子の中身たる重層構造が少しずつながら創出されて、形成されてくる。具体的には実体としての遺伝子の中身〔構造〕が重層化してくる。これが思うから考えるへの遺伝子の変化の過程的構造である。」

 そして、瀬江先生は、この論理をかつて南郷先生が説いた構造の進化形態だと捉えてその文章を引用しています。

「これは認識を創出する、つまり像の元たる頭脳の働き・脳細胞の働きの元たる頭脳そのものの実態として頭脳の構造を、否応なしに弁証法的に働く構造体として再措定することであり、このような構造体として生まれ変わった頭脳の像の形成としての働きは、ほうっておいても弁証法的に形成されるということであり、これに関しては私の著書で何回も書いてある通りである。」(「南ク継正 武道哲学 著作・講義全集」第十二巻 現代社)

 この論理は、事実を起点とするすなわち唯物論の立場からする即自的悟性(相対的真理)において到達した論理としては、瀬江先生が観念論かと驚いたほどの驚異的な発見です。しかし、これはあくまでも唯物論の相対的真理の立場での話であって、観念論的な絶対的真理においては、すでにその大本のおおまかな設計図は、100年以上前に存在していたのです。

〔ヘーゲルの絶対理念の学問論とその敷衍としての私の学問論〕
 ヘーゲルの学問論は
基礎的契機:生命
否定的契機:認識
統体的契機:学問
というものです。

 これはどういうことかと言いますと、生命はその内在的契機として、概念的な契機として遺伝子を持ち、形相的・事実的契機としての生命体の実存形態があります。この概念的な契機としての遺伝子は、地球と生命との相互浸透の総体を概念化しますので、それ自体として学問的要素を持っております。
 次に、人間の認識は、それ自体として形相的な感性的な要素と、概念的な要素とを兼ね備えております。この認識は、生命のもつ即自的な自らの立ち位置に限界づけられた相対的真理をこえて、全体的な絶対的真理へと到達しうる自由さを持っておりますので、その対自的な概念が学問形成の直接的な原動力となります。したがって、生命と認識との統体止揚として学問すなわち絶対理念が形成されることになるのです。

 このことに関して私は〔2482〕において次のように記述しておきました。(この時点ではまだ「学情」14号の論文は読んでおりませんでした)
「ヘーゲルは、この世界の本質である絶対精神が、その本性にしたがって物質と化し、物質として発展していく中で、生命という非常に特殊な運動性を帯びた物質が誕生し、その生命の内在的な概念性と形相性との二重構造的な発展運動によって進化し続け、ついに人間に至って、その内在的な、形相性の一部であった形相の認識(動物的認識)が人間の感性的認識へと発展し、内在的な概念性すなわちDNAが、概念(理性的認識)として外化して学問へと発展していくことになります。そして、ヘーゲルは人間になって、もともとあった概念性が外化して概念となって絶対理念へと発展して、学問が体系化されて、それまでと違う形での発展、すなわち新たな世界創造がはじまるという設計図を描いたのです。ですから、人類の本流とはすなわち、学問の担い手ということです。」

 つまり、人間の理性的認識は遺伝子の外化であって、同じ構造を持っているということです。だから、思う方ではなく考える方が遺伝子と共鳴して遺伝子を大きく動かす力があるのです。ヘーゲルの弁証法と南郷学派の弁証法とが着実に近づいてきていることは、大変喜ばしいことです。           つづく



Pass

[2503] その2
愚按亭主 - 2016年12月27日 (火) 21時24分

 南ク先生の説く「背後霊」とは何かについての前の私の論考を、もし南ク先生がお読みになったとしたら、おそらく「違う」とおっしゃると思います。また、その一方で南ク先生が「これが学的弁証法の原基形態だ」と規定した、アリストテレスの認識の構造を見て、これは認識論的な論理像の形成過程の問題ではないのか?それがどうして弁証法なのか?という疑問を抱かれた方もいるのではないかと思います。今回はそのあたりの絡み合った糸を解きほぐして整理していきたいと思います。

3、悠季真理先生の説くアリストテレスの学的認識の形成とは
〔南郷先生が「背後霊」で言いたかったことは何か〕
 私は前の段の1において、アリストテレスの事実から論理像を導き出す苦しみ、ある程度それが形となってきた時にそれを言語化することの難しさについて南ク先生が取り上げて、これが学的弁証法の原基形態だと断じられたことに対して、絶対的真理の弁証法の立場からするとこうなるということを説明しておきました。しかし、南ク先生は、絶対的真理は認めていらっしゃらないので、当然そんなことは言っていない、となると思います。南郷先生の立場に立ってみれば、南郷先生がこれが学的弁証法の原基形態だとされた、アリストテレスの萌芽的論理像に過程性・運動性が含まれていることを指して、動かない論理像に運動性が「背後霊」のように憑いていることから、そのようにおっしゃってのであろうということは容易に想像できることです。そして、その直接の根拠となったのが、これから検討する悠季真理先生の論稿であろうと思います。ではさっそくその悠季真理先生の論稿を見ていきましょう。

 その論稿で問題となったのは、日本語で「本質」と訳されているところのアリストテレスの古代ギリシャ語の原語(ト・ティ・エーン・エイナイ)の解読です。悠季真理先生は、日本語の訳者および出隆などの哲学界の先生方のそれに対する解読は正しくないと批判されて、自らの新しい解読を次のように提起しております。曰く

「それをそうあり続けさせてきているそのものの何たるか、とは一体何者であるのか」と解読して、その解説を次のようにしています。曰く

「アリストテレスは、自らの扱っている諸々の物事が変化しているさま、移ろいゆくさまを、過去から現在に至るまでの研究者の成果をずらりと頭脳の中に取り入れて、それらをいわばずっと見続けてきているのであって、それらのすべての物事が発達・発展しながらもその中にも、変わらないでいる何か、があるのではないか、ということに気づかされていき、それを何事か、何者かと見てとろうとして、このような言語表現になるしかなかったのだと考えっれる。」

 つまり、このような弁証法的な過程を辿って結論にたどり着いたことを示す言語表現になっているから、これはまさしく唯物論的な学的弁証法の原基形態だ、となったのであろうと想像されます。

 この解説の中で、一番肝心な点は「過去から現在に至るまでの研究者の成果をずらりと頭脳の中に取り入れて」の部分ですが、どういうわけかその中身は説かれていません。つまり一番肝心な点がないのです。これでは、「あり続けるところの変化しないもの」をどうして追究するようになったのかが、分かりません。アリストテレスが何の影響も受けずに独力で自然成長的にそういう認識にたどり着いたのか、それとも先人の認識を受け継ぐ形でそういう認識を持つに至ったのかがはっきりしません。

 そこをはっきりとさせないということは、そういう点を書いてはいてもあまり重要視していないということを意味します。実際、文章全体のニュアンスから言えば、変化しないものよりも、変化そのものである過程性の方に力点を置いて解説されているので、変化しない本質の中に変化する過程性が含まれていることを強調しているということを言いたいのだと思います。じつはこのことを、南郷先生は「霊」「背後霊」と言ったのだと思います。つまり、静止の中に「背後霊」のように運動性が隠れているから、弁証法の原基形態なのだということを南ク先生は言いたいのだと思います。

〔技の使い方としての相対的真理の弁証法の限界〕
 ここには二つ大きな問題があります。一つは、南ク先生が〈学的弁証法の原基形態〉だとしているものは、私からすれば、学的弁証法そのものではなく、その構造の一部に過ぎないものです。これについては、すでに前の論稿の1のところで説いておいた通りです。

 これは、相対的真理の弁証法(唯物弁証法)の宿命と言えるもので、必然的にそうなってしまうものなのです。どうしてそうなるのかと言いますと、南ク先生の弁証法は、事実に合わせる使い方の弁証法なので、事実から弁証法性を浮かび上がらせるという性質をもった弁証法だから、事実から導き出した論理像に運動性があると、これはやがて弁証法に発展するのだから弁証法の原基形態だ、となるのです。

 しかし、学的弁証法と言った場合、弁証法の基本技からその使い方のすべてを体系的にとらえたものになるはずですから、技の使い方レベルを学的弁証法といってしまうと、正確ではなくなってしまいます。そして、実際にヘーゲルが措定した学的弁証法の構造に比べてみますと、その弁証法性が貧弱であることが一目瞭然となることは、前稿の1で説いておいた通りです。これがすなわち、相対的真理の弁証法の限界であり、宿命であって、それだけでは弁証法の歴史も説(解)けなければ、学問の体系化もできない代物だ、ということを物語るものです。

 二つ目は、本来の弁証法・弁証法の基本技は、物質・世界の本質・本流の発展構造を解き明かすものであって、単なる運動の法則レベルのものではありません。技の使い方ばかりやっていると、ここがスッポリと抜け落ちてしまって技が崩れてしまっても誰も気づかずに、論理像が運動性を帯びただけで、弁証法だと勘違いしてしまうことになるのです。結果として、弁証法と認識論との区別がなくなってしまって、論理像の形成過程を認識論的に解いていることが、弁証法だということになってしまうのです。

〔論理像形成における二重構造と、弁証法の正しい歴史との密接不可分の関係〕
 しかし、人類の論理像の形成過程を認識論的に解く場合も、弁証法の歴史を正しくとらえることができないと、認識論としても歪なものになってしまいます。その典型が今度の悠季真理先生の論稿です。では悠季真理先生の論稿のどこが歪なのかと言いますと、絶対的真理を否定して認めないために、それに相当する全体像の論理像の形成過程がすっぽりと抜け落ちてしまっていることです。しかし、これをやらなければ弁証法も解けないし、認識論も歪になり不完全なものとなってしまいます。

 かつての南郷学派は、認識の発展過程における二重構造は、常識として存在していました。それは、人間の認識はまず全体像の認識形成から始まって、部分像の認識形成にすすんでいくということです。これは論理像形成にも当てはまる論理です。だから学問はギリシャ哲学から始まったのです。哲学とは、世界全体の真理すなわち絶対的真理を追究するものです。なぜそれが可能だったのかと言えば、世界全体を対象とする全体像の論理像の方が、論理像として形成しやすいからです。細かな事実から導き出す相対的真理の論理像の方がその形成はとても大変なのです。ところが、不思議なことに悠季真理先生の論稿にはこの二種類の論理像の形成が全くなくなってしまっているのです。その原因は、先にも触れたように、絶対的真理を否定しているために論理強制としてそうなる必然性があることと、唯物論を徹底しようとした結果に他なりません。

 上のところで、私は、「『過去から現在に至るまでの研究者の成果をずらりと頭脳の中に取り入れて』の部分ですが、どういうわけかその中身は説かれていません。つまり一番肝心な点がないのです。」と指摘しておきましたが、それは、ここにこそ、アリストテレスが多様性・運動性の中の変化しないものを追究した理由が存在するからです。それは、世界全体の論理像の端緒を切り開いたパルメニデスの「世界は一にして不動」です。これが絶対的真理の起点になって絶対的真理の系譜の発展がはじまったのです。アリストテレスはこのパルメニデスの論理を受け継いで、それを発展させたのです。これは精神・論理を起点としますので観念論です。しかし、観念論を否定する立場ではそれを説くことができないので、悠季先生も、さっと触れるだけで、その中身には触れずに逃げてしまっているのです。その結果として、観念論的な全体像の論理像と、唯物論的な部分的・事実的論理像との、相互浸透的発展の構造も説くことができずに、中途半端なままで終わってしまったのです。

〔やはりヘーゲルの弁証法の三項の論理でなければアリストテレスの認識は解けない〕
 ここで、再度ヘーゲルの弁証法の三項の論理にご登場を願いましょう。悠季先生が解こうとしても解けなかった、アリストテレスの認識の実態は、おおよそ以下のようになります。

基礎的契機:即自的悟性ー事実から直接に論理性を浮かび上がらせる
否定的契機:対自的否定的理性(絶対的真理の論理)パルメニデス(世界は不動)
統体的契機:即自対自的肯定的理性アリストテレスの運動する形相を超越する動かざるものこそが本質=形而上学(弁証法の原基形態)

 これはまだ静止体の弁証法の段階であり、それを支えている論理学は、形式論理学であります。この形式論理学が運動性を獲得するのには、まだ二千年近くもの時を要します。19世紀のドイツ哲学のヘーゲルによって、それまでの形式論理学の形式が壊されて、真矛盾の運動体の弁証法の論理学が確立されて、運動体の弁証法が完成することになります。ですから、アリストテレスの形式論理学は、運動体の弁証法の真矛盾の論理学の原基形態として位置づけられるのです。

 この程度のことは、自由な立部に立てば、私でも解けるのですから、私よりもずっと頭の良い、お三方に説けないはずがありません。ただし、手かせ足かせとなっているエンゲルスの呪いから脱皮して、唯物論から自由になる必要があることだけは確かです。




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