[1825] 千島学説は何故間違いなのか? |
- 愚案亭主 - 2014年04月02日 (水) 19時35分
神戸だいすきさんのブログに、千島学説は正しいという記事が書かれた。この神戸だいすきさんとは神戸で講習会や治療をさせて頂くという相棒関係になったばかりである。その相棒である神戸だいすきさんが「千島学説は正しい」と主張しているのを黙って見過ごしてしまったのでは、私までも正しいと思っていると思われてしまうことは必定である。そこで、意見が違うことだけは主張しておかないとと思い、異論をコメントしておいた次第である。案の定神戸だいすきさんの方から、正しいと思う根拠となる主張が満載されている新生命科学のHP(http://www.chishima.ac/photo/photo1.html)を紹介された。これをみると、なるほど膨大な研究の様子がよく分かる。千島学説が研究に研究を重ね、吟味に吟味を重ねて千島学説が創られたことがよく分かる。その志・研究の情熱には敬意を表するものである。
ただそれはそれとして、誤りであるところは誤っていると指摘することは必要であろうと思う。千島先生の誤りの原因は次の二つの点に帰因するようである。一つは、千島先生ご自身が批判しているウィルヒョウと同じく、細胞が集まって個体が形成されると考えていることである。それは千島先生の次の言葉の中ではっきりと述べられている。曰く 「生物、殊に私たち人類は長い系統発生的歴史を背負っている。その一つは細菌その他の微生物との共生、又は有機的統一によって細胞を形成し、その細胞が集まって統一的全体、即ち生物体に進化したものだ」
もう一つは、個体発生は系統発生を繰り返すというヘッケルの名言を、機械的に当てはめてしまっていることである。それが「微生物の起源と、細胞の起源とが歴史的には不可分な関係にあり、細胞は微生物を母体とするものである」という系統観から赤血球から細胞が生まれる説へと結びついていくことになったのである。
では、これらがどうして間違いなのか?まず、細胞が集まって個体が形成される説は、結果的現象に囚われて過程を忘却した誤りである。生命体の個体は、一個の細胞から分裂・分化して一個の生命体へと成長するものである。したがって、現象的には60億個の細胞の集まりに見えてもその実質は一個の細胞であり一体であり、一個に統括された全体であって、単なる細胞の集まりではない。だから、構造が複雑になればなるほどそれを一個体として統括する統括器官の重要性が増して高度な統括が為されるように発展していくのである。
だから、コメント欄に私が書いたように、たとえ原始的な細胞であってもその役割は、その個体の個性を保証し守るという大事な働きをになっているが故に、一旦肝臓で自己化の処理を経た身元が保証された材料を使って、頑丈な骨のよって保護されている骨髄組織で創られるのである。千島先生はおそらく、原始細胞だから異物だらけのカオスのような小腸で造られると考えたのだろうと思うが、それは一体的統括下にない独立した細胞が集まって個体ができたという立場だからできる考え方である。しかし、この様なところで造られた血球がどうして異物を感知できるようになるのであろうか?自分自身が異物臭プンプンであるのに・・・。
現代医学もウィルヒョウのバラバラな細胞が集まって個体ができるという細胞論を基礎にしているから簡単に取り替えればよいと考えるのである。千島先生も同じ土俵の上に立っているので、事実に誤魔化されてありえないすじの通らないことが平気で考えられるのである。
次に二番目の核のない微生物から核のある細胞が生まれたという系統的な考え方であるが、これ自体は事実として間違いではない。というよりも、地球全体を覆っていた生命現象が地球の冷えによって自らを守り維持するために膜を造って地球から相対的に独立化した。これが生命体の誕生であるから、生命は最初単細胞生命体として誕生した。勿論、その当初は当然核は存在しなかった。だから、核のない微生物から細胞へという順序は形の上ではその通りであると言えなくもない。
しかし、千島先生はその発展の過程を事実としてのみ把えてしまって、論理的な意味が分かっていないようである。つまり、何故核が生まれたのかを深くその意味を考えてはいないようである。細胞としての営みの結果として得た情報が、ある一定量を超えた時にその情報を専門的に管理する器官として核が生まれたとその意味を把えれば、以後の細胞は核が必要不可欠なものとなり、その核の情報を受け継ぐことなしには細胞が細胞たり得ず、したがって、その総体としての生命体も発展はおろか生存すらありえないことになるほど重要なものとなる。
したがって、核のない細胞から核のある細胞への発展は、生命の歴史におけるごく初期のある時期に微生物の先祖から有核細胞の先祖への発展にのみ見られた現象であり、もし今そういう現象が現在も見られるとすれば、その過渡的発展形態そのものを固定的に完成形態化した生命体のみである、ということが言えると思う。したがって、現在、核のない赤血球から有核細胞が生ずると言うことはありえないことであり、むしろ反対に核のある細胞から核のない赤血球が生まれるということは当然にもあり得ることなのである。それは何故かと言えば、核の中のDNAに書き込まれた設計図の情報の中にそれが書き込まれてあるからである。
つまり、核による細胞の質的継続の必要のない使い捨ての細胞として造られる核のない細胞も、高等生命体のある箇所ある任務には必要となるということである。たとえば、敵と戦い命を落とすことが運命づけられている兵隊細胞は使い捨てにされるのが合理的であり、それ故に無核細胞として造られるのである。したがって、生命の歴史では無核細胞から有核細胞への発展があるから、この高等生命体内の無核細胞は全ての有核細胞の源基形態であるとするのは、笑止と言うほかない。このようなおかしなことを千島学説は大真面目に説いているのである。そしてそれに見合うような写真を探し出して、これが証拠だと言っている訳である。
同じ事実も視点を変えれば違った事実になってしまう。現にまだ骨が充分に発達していない段階では、赤血球は肝臓や脾臓などの他の臓器でも造られるという事実がある。これも千島学説的に見方を変えれば、赤血球が造られるのではなく、赤血球から肝臓や脾臓の細胞が造られているところだ、と全く反対の事実になってしまう。事ほどさように事実は如何様にも解釈できてしまう。だから、論理的に見ることが必要なのである。事実に誤魔化されないためにもである。事実は多様であり見方によって如何様にも解釈可能な面があるからこそ、論理的な眼力が必須なのである。論理こそ筋が通らなければとたんに破綻する厳しさがあり、その厳しさ故に真理を見抜く力があり、威力を発揮するのである。
残念ながら、千島先生はその論理的な力がなかったために、膨大な事実にあたっても正しい論理を見つけることができずに、事実に誤魔化されて筋の通らない結論を出してしまったのである。このことから、事実より論理が如何に大事であるか分かろうというものである。生命の発展の本質的必然性の下に体系化された論理を持つことが如何に大事であるか、私は千島先生ほど勉強していないのに、千島先生の誤りを一発で見抜けるのは論理の力のおかげである。
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