《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1489)
日時:2016年05月14日 (土) 08時49分
名前:平賀玄米

 
              第二十七章<表現と芸術美の世界>

  
     <實相世界と現象世界との関係>

 「實相世界」即ち実在の世界は、旧約聖書にアダムとイヴとが置かれていた「エデンの楽園」に
当たる世界であります。それは、或は天国であるとか、或は神の国であるとか、或は佛教では浄土であるとかいう名前に依って形容されているところの、實に楽しき世界なのであります。

 このような世界は何の為にあるかといいますと、この世界は観る為にそして観られる為にあるのであります。芸術と云うものは観る為と、そして観られる為とにあるのであります。そうすると、
此の世界は一個の芸術であると云うことも出来るのであります。

 そして人間も観られる世界を作る程度に於いて又芸術家であると云うことが出来ます。
神を「大生命」と申しますが、いのちというものは要するに表現者であります。神は「言(ことば)」
であると申しますが、「神」という字は「示す」偏に「申す」という字が書いてありますように、
神は「申す」即ち波動であります。「示す」と云うのは表現であります。

 神そのものの本質は要するに表現をするところの波動的生命であります。だから、表現のない所にいのちはいないのであります。神様が生命(いのち)であり生きていらっしゃる限りにおいて、
必ず表現ということを行っていらっしゃるのであります。この点に於いて、神様は芸術家である。

 その神から生まれた神の子である人間も結局芸術家である。所謂(いわゆる)芸術家と云う職業でなくとも、自分の欲する言葉を使い、自分特有の容貌をし、自分独特の動作をし、自分の趣味に合った服装をつけて自己を表現している。それは既に芸術であり、既に表現であるのであります。

つづく

      <平成28年5月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1496)
日時:2016年05月15日 (日) 06時05分
名前:平賀玄米

 さて、皆さんの本質は何であるかというと、皆さんは神の子でありますから、皆さんのいのち
の本質は神のいのちであります。神のいのちが表現されたものが皆さんの体(からだ)であって
その表現と云うのは、必ずしも肉体だけでなしに、衣裳も、家具調度も、持物も、住宅も、住宅の
中の色々の物の配置も、悉く自分のいのちが表現されているのであります。

 一例をあげれば、この一冊の本の装幀というようなものでも、矢張りその装幀者のいのちが表現
されているのであります。例えばこの絵は山根八春先生がお描きになったものですが、山根先生の
絵は何時お描きになっても、こんな感じのする絵であって、どんな絵をお描きになっても同じような感じがするのであります。何故こんな感じがするのであるかというと、是は山根先生のいのちの振動が、どういう絵を描いても、山水の絵を描こうが鳥の絵を描こうが、人物を描こうが、花を描こうが、こういう風な感じの絵になって来ます。

 一種の日本的な落着いた、「寂」の感じがあらわれている。これは山根先生のその人がこういう風な感じのいのちの性質を持った人だからであります。それは山根先生に交わってご覧になればよく分かりますが、そういう風な性質の方でありますから、どう云う絵を描いてもその気分が出る、要するに自分のいのちの振動とうものが、みんな自分の触れるひとつひとつのものに、又作る所の
一つ一つのものに現れて来るのであります。

 そこで山根先生の見たところの人生でも自然でも皆山根先生が感受して、それを客観的に移入したところの自然なのであります。牡丹の花はもっと色々の種類のいのちの振動を起こしているのですけれども、山根さんがキャッチしたら牡丹の花の振動はこういう風に感じられるのであります。

 学校の教室で一つの花を写生させても、生徒一人一人は全然異なる雰囲気の絵を描きます。
これと同じく、神の造り給える此の世界は一つであっても、すべての人間は皆異なる人生を観、皆異なる人生を生活するのであります。

つづく

      <平成28年5月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1524)
日時:2016年05月16日 (月) 13時27分
名前:平賀玄米

 人間ひとりひとりには神のいのちが現れているのでありますけれども、神のいのちの振動の全部が現れているのではありません。自分がキャッチし得たところの人生が、そのいのちがそこに現れているのであって、皆さんが等しく神の子でありながら色々異なる姿をもって現れていらっしゃるのは、神様は無限相でありますから、その無限の姿を現象の人間ひとりに現すという事は出来ない。

 そこで皆さんの感受し、摂取し得ただけのいのちの振動が表情にも、言葉にも、態度にも、衣裳にも、生活にも現れているという事になり、その人の人生が其処に出来上がっているのであります。
その人が神の全相の中からキャッチする程度が広々としたものであったら、その人の人生が広々としたものとなり、その人の受取る程度が深くなるとその人の人生が深いものになって来るのであります。

 ラジオセットを例にとって申しますと、安物のラジオセットだったら放送される音波の全相を再現することが出来ない。あるラジオセットは低音部だけをキャッチして寝ぼけたような不明瞭な声を出しますが、或るラジオセットはより多く高音部だけをキャッチして耳に痛いようなキーキー声を出す。或いは放送の声には全然ないビリビリブーブーと云うような雑音を出したりします。

 此の世界は謂わば神様のいのちの波動の素晴らしいオーケストラの展開であります。それは悉くすべての善きものが整うており、光と幸福とが充ち満ちている天国浄土でありますけれども、その全相を再現する力がないためにみんな縮めて現しているのであります。各人の心の波の程度だけを再現しているのであります。

つづく

      <平成28年5月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1538)
日時:2016年05月17日 (火) 00時53分
名前:平賀玄米

    <しみじみ味わう生活を送らねばならぬ>

 自分と云う受信機の感受範囲が広くなり、深くなりするに従って吾々の人生が広くなり深くなるのですから、吾々はよく観るということ、味わうということを心掛けなければな≫りません。自然を鑑賞し、人生を味わうということは、非常に大切なことでありまして、鑑賞し、味わう心がなかったならば、どんな美しい自然も、どんな深い意味の人生もそう吾々に感銘深きものでないのであります。

 毎日美しい山野の景色を見ながら何とも感じないような人もありますし、或は路傍に生えている一本の可愛らしい、小さい、踏みにじられたら直ぐなくなるような、そういう一本の草の葉にも、そこに、言うに言われない美しさを感ずる人もあるのであります。

 どうしてそういう相違が起こるかといいますと、皆さんの心のラジオセットの感受し得る範囲が異なるからであります。大事件でも来なかったら人生は何事もなかったと思っている人もあれば、小さいことでも深く感じていらっしゃる人もあるのであります。

ですから、その人の住んでいる人生はその人の心の幅(はば)だけであり、心の深さだけであるということが云えるのであります。吾々は出来るだけ幅ひろき人生を生き、出来るだけ深さの深い人生を生きなければ値打ちがないのであります。

 下等動物のように、素晴らしい音楽が奏されておろうが、雷が鳴っておろうが、一向に蛙の面に水のように、何だか訳が分からないような感受性の乏しい生活を送っているようでは、本当に 人間としての生き甲斐がないわけであります。その人がどれだけ進歩しているかということは、その人の感じ得るいのちの振動の世界の深さがどれだけ深く、また広さがどれだけ広いかということに依って計られるということになるのであります。

つづく

     <平成28年5月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1561)
日時:2016年05月18日 (水) 07時27分
名前:平賀玄米

 
 多くの人たちは、ものをしみじみ味わうということの値打ちを知らない、そして争いや、金儲けや奪い合いに没頭していて、「有(も)つ」ことばかりに懸命になっていて、味わうことの価値を閑却しているのであります。現象的所有の詰らない表面の価値に生きることや、儲けることや奪うことのみに心を捉えられてしまって、本当の価値を看過しているのであります。

人は「所有する」ことよりも「味わう」ことに価値を見出したならば此の世界に本当の平和が訪れてまいりましょう。所有欲には限りがなく、所有したところのものを味わう時間も能力もないのに、次なるものを所有したがる。

 どんなに美しいものがあってもどんな立派なものを所有していましても、味わう事が出来なかったら、鳴らぬラジオセットを沢山積み上げているようなものであります。若し吾々が所有するとこが如何に少なかろうとも、心の眼を開いて、しみじみ味わうことの素晴らしさを知りますならば、空の雲にせよ、路傍の一草にせよ、到る処に宝の庫を見出すのであります。

 明治の文豪國木田独歩は『武蔵野』と云う小品を書いたが、それには櫟林(くぬぎばやし)の落葉がカサコソと音を立てるその自然の響きに無限に美しい音楽を見出しているのであります。『牛肉と馬鈴薯』の小説の主人公がどう言っているかというと、「私はびっくりしたいのです。びっくりしたいのが私の念願です」といっているのであります。びっくりするということは、事物を感受するのに新鮮な心を開いて驚異の眼をみはるということであります。

つづく

     <平成28年5月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。
 

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1578)
日時:2016年05月19日 (木) 07時02分
名前:平賀玄米


 吾々の心は幼い時には常に新鮮なる心を持つものですから、見る物、聴く物毎にびっくりしたものであります。空に星が輝いているのを見ると、「お星さんは何故光っているのか」「何故上から落ちないのか」と驚異の眼をみはらずにはいられなかった。何でも「何故?何故?」ときく子供がある。あれもびっくりする心であります。

 びっくりする心でびっくりして見るとき、この世界は何という素晴らしい世界でありましょう。
子供は空を所有せず、星を所有しないが、本当に所有するとは所有権を登記することではなく、それをしみじみ味わい取ることなのであります。ところが段々大人になってまいりますと、お星さんが光っているのは当り前だ、それは何の感銘も与えないし、落ちないのも当り前で、何の感銘も与えないのであります。味わう心がなくなるから少しも楽しいことが無くなるのであります。
 
 世界の一切のものを所有しても味わう心がなくなれば、所有しないで味わっている人より余程貧乏なのであります。そうなってしまったら、人間は大人になって進化したかというと、段々小児よりも感受性が劣って来、段々ナメクジの境地に近づいて来、ミミズのように鈍感になってしまって、生きているやら死んでいるやら訳の分からない存在になってしまうのであります。

人間も年をとるほど、その感受性が鈍って上等のラジオセットから下等のラジオセットにまでに墜落してしまうのだったら、人生の行路に吾々は何を一体体得したかと嘆かずにはいられないことになるでしょう。それでは吾々人間は人生に経験を積み重ねて行く生き甲斐がないということになるのであります。

つづく

      <平成28年5月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1594)
日時:2016年05月20日 (金) 06時57分
名前:平賀玄米

   
 
      <幼な児の心を失うな>
 
 ですから、吾々は常に幼な児の心を失わずに、自然をしみじみと鑑賞し、人生をしみじみと
味わうところの生活習慣をつけるようにしたいものであります。そういう意味から、吾々は、特に感受性の強い芸術人がしみじみと味わって、その味わいを強調して再表現したところの芸術というものに触れるということも必要であります。

 吾々が何の気なしに看過しておったところのものを芸術家は看過さずに、鋭敏な電波探知機のようにそれをキャッチして眼の前に突出すようにして見せてくれる、。それによって吾々はこんな美しい人生があったのか、人生にこんな深い味わいがあったのかと気がつくのです。

 普通人にとっては、人生というものは余りにひろくて漠然と広がっている。どこからどこまでということなしに、余り広々と広がっているものですから、どこに焦点を置いて眺むべきか見当がつかないために美しいものがあってもよく眼につかないのであります。ところが画家が大自然の間から四角な額縁の中に景色を裁り取って、「ここにこんな美しい景色がある」と見せてくれますと、「オヤ、何時も何の気なしに眺めておったあの自然の中に、此処にこんな素晴らしい美しい景色があったのだ」とこう解るのであります。

 絵ばかりでなく、小説でも、音楽でも同じことであります。そうするとそのように自然を味あわせてくれる芸術家という者は、人生や自然の無数の振動の中から特に、味わう値打ちのあるものと、その美しさの精髄というようなものを裁り取って眼の前に出してくれて、外のものと区別してくれたのであります。

 そこで全体の景色では何処が美しいか分からなかった大自然の景観からある一部分を裁り取って見せてくれると、それが美しいと分かるように、その美しさが初めて眼につくのです。
 写真を写すのでも同じことであります。小説を読むのでも、芝居を観るのでも、皆そういう風に雑然といろんなものが無茶苦茶に広がっている為に見えないのを、此処にこんな人生がある、よく味わえといったようにいってくれた、味わいの感受性の鋭敏な作者が感じ取ってくれたところの自然及び人生の味わいを味わいよいようにして見せてくれるのであります。

つづく

      <平成28年5月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1604)
日時:2016年05月21日 (土) 10時29分
名前:平賀玄米


 そういう意味に於いて、吾々はどんな忙しい生活を送っていましても、芸術を鑑賞するという
ことを捨ててはならないのであります。生活が苦しいからといって、しみじみ味わうという心を
捨てるということは、人生の生き甲斐を捨ててしまうということになるのであります。

その人の生きているところの人生は、その人の味わい得ただけの人生であって、若しその人が何物をも味あわなかったら、その人は人生を少しも生きなかったのと同じであります。人生の価値は富の大きさでもなければ、仕事の表面的量の大きさによって計られるものでもないのであります。

 その人の人生は、その人の愛の実践の分量と、その人の味わい得たところのいのちの深さ及び広さに依って計られるのであります。だから人は愛を実践すると同時に、自分よりももっと鋭敏な感受性を持った芸術家が味わったものの表現であるところの作品を読んだり、観たり、聴いたりして自分が感受し得る人生の値打ちを豊富にすることが必要なのであります。

つづく

      <平成28年5月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1609)
日時:2016年05月22日 (日) 06時28分
名前:平賀玄米

 芸術と科学とは手を携えて人生を豊富にしてくれるのであります。芸術は大自然又は人生を全体としてその生命を捉え美を捉えます。科学はこれに反して、全体を細かく分析して行くのであります。
花なら花があると、芸術家はその花を一個の「全体」として捉えてそこに美を見出すのでありますが、科学は花を花弁や雌蕊や雄蕊に分割し、更に分子原子に分割して、吾々に取扱い易いところの単位に変化してしまうものであります。

 人間を例にとってみれば、人間は細胞というものが集まって出来ている、内臓がどういう組織になっている、脳髄の目方は何グラムあるという風にであります。尤もそのような分析的研究によって、人間というものが一つの類型的な単位となって、そこに取扱い易い面が出てくる。それによって人間を幸福にする科学的方法も案出されて来るのでありまして、科学の研究は「愛の実践」に貢献してくれることになるのでありますが、科学ばかりに偏りますと、人間はその為に、単なる分子や細胞の集まりになってしまって「全体としての人間」の生命や霊魂や価値をともすれば失い勝ちになるのであります。ここに芸術や哲学や宗教の必要が生じて来るのであります。

つづく

      <平成28年5月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1620)
日時:2016年05月23日 (月) 06時17分
名前:平賀玄米


          <生命の全機的把握>

 哲学で人生を把(つか)むとか、芸術で人生を把(つか)むとか、或は宗教で把(つか)むとか
いうのは、人生をそのまま全体をキャッチするのであります。これを生命の全機的把握といいます。
これは科学のように人類を切解し、分析してわかるものではない。人間は神のいのちであるといっても、神のいのちは顕微鏡で覗いても分るものではないのであります。

 それでは、どうしたら分るかといいますと、いのちといのちとの直接的な触れ合いによって、自分のいのちなるものを自ら自証するのであります。自分で証(さと)るのであります。そこが宗教家の悟りであり、哲学者の直感であり、芸術家の観照であります。

 芸術家の観照、哲学者の直感、宗教家の悟りなど、皆同じ種類のものであっても分析するのではなく、全体のいのちを直接的に掴むのでありますが、だから、宗教と哲学と芸術とはみんな極致のところへ行けば一致するのであります。ところが、まだ吾々の感受する心のラジオセットが不完全な為に、各々の感受機関に色々の癖があって、製作所の異なるラジオセットで聞くと同一の放送の音楽が異なる音色で聴こえるという式に、吾々各々の人生の観方や解釈が異なってくることになるのであります。

つづく

      <平成28年5月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1624)
日時:2016年05月24日 (火) 06時52分
名前:平賀玄米


 動いている生命が動いている生命と触れ合って感ずるのが宗教であり、芸術であります。科学は動いているものでも静止して捉える。だから捉えた様だけれどもその時には流動しているいのちが固定化されて異なったものになっているのです。それは例えば、走っている馬を写真に撮るようなものです。馬が走っておっても、千分の一秒という早いャッターで撮ると少しも動かない馬の様に撮れるのです。走っている馬を走っているままには捉え得ないのです。

 それならもっと遅いシャッターで撮れば好いかというと、遅いシャッターでは少しも馬がハッキリ写らないでボケてしまう。結局動いている馬は撮ることが出来ない。これが科学の限界なのです。
『無門關』の公案に書いてありますが、風が吹いて幡(はた)が動いている。一人の坊さんが「幡が動いている」と、いうと、「いやそうじゃない、あれは風が動いているのだ」と、もう一人が言った。
「いや、幡が動いているのだ」「いや、風が動いているのだ」互いにこう言って喧嘩していると、
趙州和尚(じょうしゅうおしょう)が出て来て、「そうじゃない、お前の心が動いているのだ」こう言ったということが書いてあるのであります。

 では果して何が動いているのでしょうか。これが『無門關』の公案なのであります。幡が動くのか、風が動くのか、人間の心が動くのかという問題であります。科学者であったら、幡の運動を写真機械で撮って見て、動くか動かないかを調べる、すると、動かない幡が写るのであります。この瞬間には動いていないが、その次の瞬間には動いているかも知れないと思って、次に写真を撮ってもやはり動いていないのであります。何遍やっても同じであります。すると、「動かないもの」をいくら接ぎ合わしても動くはずがない。だから幡は動いていないのであります。

すると古代ギリシアのエレア学派の哲学者ツェノンの唱えたように、物質の運動というものはないということになるのであります。結局物質は動いているのではない。物質の運動は存在しないのであります。

つづく

      <平成28年5月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1628)
日時:2016年05月25日 (水) 06時26分
名前:平賀玄米


 動かない物質が何故動いて見えるかというと心が動いているのであります。物質の相(すがた)
と云うものは結局、自分の心の動きを投影して、或は風が動くように見え、或は幡が動いているように見えるのであります。「動いていない」ということには、もっと深い意味があるのであります。

 「動く」と云うことの中には、次の時間に異なる空間的位置を占めると云うことがありまして、動くように見えていても実は動いていないと云うことは、現れは時間空間のひろがりの中にあるように現れて見えているけれども、実は事物は時間空間の中にはないのであって、時空は単に認識の形式に過ぎないと云うことであります。

 ここに象徴的図解を致しますと、時間を縦の線であらわし、空間を横の線であらわします。それを十字に組合わせますと、横と縦との両者の中心の一点に無時間の世界、無空間の世界がある。無時間、無空間の世界に心が動いている、動くと云うのは想念を起こしているのです。

 その想念の動きが外に広がったように見えているのですから本当は動いていないのです。動いていないものが、それが動いていると見えている。空間的には動いてはいないのが、心が動いているので、空間的に動いているように見えるわけです。

 そういうことがわかると、肉体も「無い」のにあるように見えていることもわかり、黴菌(ばいきん)も吾々に寄生していないのに寄生しているように見える。これはすべて「心」が動いているからそのように見えるのであります。

今回にて第二十七章は完、次回から最終章、第二十八章<「老い」を超える>です。

      <平成28年5月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。



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