尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界> (1496) |
- 日時:2016年05月15日 (日) 06時05分
名前:平賀玄米
さて、皆さんの本質は何であるかというと、皆さんは神の子でありますから、皆さんのいのち の本質は神のいのちであります。神のいのちが表現されたものが皆さんの体(からだ)であって その表現と云うのは、必ずしも肉体だけでなしに、衣裳も、家具調度も、持物も、住宅も、住宅の 中の色々の物の配置も、悉く自分のいのちが表現されているのであります。
一例をあげれば、この一冊の本の装幀というようなものでも、矢張りその装幀者のいのちが表現 されているのであります。例えばこの絵は山根八春先生がお描きになったものですが、山根先生の 絵は何時お描きになっても、こんな感じのする絵であって、どんな絵をお描きになっても同じような感じがするのであります。何故こんな感じがするのであるかというと、是は山根先生のいのちの振動が、どういう絵を描いても、山水の絵を描こうが鳥の絵を描こうが、人物を描こうが、花を描こうが、こういう風な感じの絵になって来ます。
一種の日本的な落着いた、「寂」の感じがあらわれている。これは山根先生のその人がこういう風な感じのいのちの性質を持った人だからであります。それは山根先生に交わってご覧になればよく分かりますが、そういう風な性質の方でありますから、どう云う絵を描いてもその気分が出る、要するに自分のいのちの振動とうものが、みんな自分の触れるひとつひとつのものに、又作る所の 一つ一つのものに現れて来るのであります。
そこで山根先生の見たところの人生でも自然でも皆山根先生が感受して、それを客観的に移入したところの自然なのであります。牡丹の花はもっと色々の種類のいのちの振動を起こしているのですけれども、山根さんがキャッチしたら牡丹の花の振動はこういう風に感じられるのであります。
学校の教室で一つの花を写生させても、生徒一人一人は全然異なる雰囲気の絵を描きます。 これと同じく、神の造り給える此の世界は一つであっても、すべての人間は皆異なる人生を観、皆異なる人生を生活するのであります。
つづく
<平成28年5月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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