分裂するは師の罪に非ず、弟子の罪なり。 (9569) |
- 日時:2018年06月22日 (金) 09時39分
名前:中仙堂
イエス答えて言い給う。 「まことに誠に汝らに告ぐ、 子は父のなし給うことを見て行うほかは 自ら何事をも為し得ず、 父のなし給うことは子もまた同じく為すなり。 父は子を愛して、 その為す所をことごとく子に示したまう。 また更に大いなる業を示し給わん。 汝らをして怪しましめん為なり。 父の死にし者を起して活かし給うごとく、 子もまた己が欲する者を活かすなり、 父は誰をも審給わず、 審判をさえみな子に委ね給えり。 これ凡ての人の敬うごとくに 子を救わん為なり。 子を敬わぬ者は之を遣し給いし父をも 敬わぬなり」 第五章19−23節
自分の心の姿が形にあらわれるのは、 自分で自分を審判くことであると共に、 自己創造でもあります。 神は創造者であるが、 人間も自分の心によって 自分の世界を自己創造するのであります。(略)
そこで神を敬う者は、 神の子たる人間をも敬わねばならない。 人間を尊敬しないものは神を尊敬しないことになります。 『ヨハネ伝解釈』より
甚だ難しい所ですが、なかでも際立て感じ入った所をご紹介いたしました。 イエスが決して神のみを敬った訳では無く、 我(キリスト)を遣し給いし者(神)の 分身分霊である神の子人間の實相を拝む事の大切さをご紹介してあると解釈されてあります。 神の子である自分を自覚せず、卑下する事は本当の信仰の道に適わないという事でしょう。
凡庸と云う事は正に神の子である自分を自覚せず、卑下する事は本当の信仰の道に適わないという事でしょう。 ここで、道は一つですが、人為的に二つ、三つに分かれようと云うものでしょうか。
分裂するは師の罪に非ず、弟子の罪なり。 と、自分が目下(孫)であり、子弟の一人で有る事を既に見失っている様子。
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