三車火宅とは例えれば、国家の危機的状況をも大きく意味しています。 のんびり構えている場合じゃ有りません。 (9551) |
- 日時:2018年06月20日 (水) 09時47分
名前:中仙堂
大聖師谷口雅春先生ご講話
三車火宅の譬を引用
法華経の比喩品と云う所に三車火宅の譬えと云うのが有ります。 三車と云うのは三つの車、三つの車と云うのは「羊の車」と「鹿の 車」と「牛の車」で あります。それから火宅と云うのは火の燃えて居る家であります。 三界は火宅の如しと云って現象世界は火の燃えている家の様なもの で有る。と 煩悩の火が燃えて居る世界と云うので火宅と例えるので有ります が、「羊の車」「鹿の車」それから「牛の車」三つの車と火宅に譬 えた其の三車火宅の譬えと云うのを釈迦牟尼如来がお説きに成られ て居るので有ります。 其れはこう言う話しで有ります。 或る金持ちの人が旅に出まして、そして子供に土産を持って帰った のが、此れが「羊の車」「鹿の車」「牛の車」三つの車でありま す。 今、家に帰って見ると自分の家が火事で燃えているので有ります。 火事で自分の家が燃えて居るので、見ると自分の子供が燃えて居る 家の中で玩具を以て遊んで居るので、 「さあ、大変だ焼け死んでしまう、そんな事をしていたら。」 それで大急ぎで 「おい、家が焼けて居るから早く出なければ危ない危ない。」 と言いましたけれども子供は玩具を以て、そして遊ぶのに一生懸命 なんですね。 それでちらりとお父さんの方を向いたんですけれども、また遊びに 熱中して、そんな事では屋根が今正に焼け落ちてしまいそうに成っ て居るのに、その下敷きに成ったら死んでしまう。 こう思いましてね。 其れでその時お土産に持って帰った「羊の車」「鹿の車」「牛の 車」の玩具。 其れが宝を積んだ様な宝。 素晴らしい玩具ですね、その玩具をこう出して、 「それ、それ。此処にこんな良い玩具。 こんな良い玩具を持って来たから、 此れを上げるから、こっち来なさい。」 と云いますと、子供は玩具が好きであります。 それで、其のお父さんの方へ走り出て来て
其の玩具を貰った。 と見る間に其の火宅は、燃えてる家は焼き尽きて、そしてがらがら っと屋根棟が 崩れて落ちたんです。
それで結局生長の家に来て病気が治ると云って病気が治る玩具を貰 ったり、 或いは事業が旨く行くと云う玩具を貰ったり、あるいは家庭が調和 すると云う玩具を貰って、其れも有る期間楽しんで、其れを死ぬぎ わまで死んでからまで持って行く訳にはいかん、健康な身体を。 或いは偉大なる事業を、財産を死んでから握って行くと云う訳には いかん。
そんな物は何も無いもんですね。 ですから、そう云う物を与えるんじゃ無いんです。 もっと素晴らしいものを与えるの此れが宗教と云うものなんです ね。
生長の家だけじゃ無いんです。 多くの宗教は色々の方便を以てそして人を導く訳でありまして、方 便が自在でない様なものは駄目ですね。方便が自在になるのは矢張 り実相の智恵と云う物が宿ったら、そして方便が自在になって人を 救う事が出来る訳なんです。 ま、そう云う訳で色々の玩具を貰って、で玩具を貰うけれども玩具 が目的で無いと玩具を持って遊んで居る内に、段々と玩具が目的で 無かった。 「嗚呼、そうだ私の生命は永遠滅びざる処の生命で有った。」と云 う事が其の時に段々段々判って来る様に導かれる。
三車火宅とは例えれば、国家の危機的状況をも大きく意味しています。 のんびり構えている場合じゃ有りません。
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