《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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《特報!》いよいよ『凡庸の唄』が出版!この日を心待ちにしていました!これで「人間・神の子」の真理までもが否定されることになりました! (9098)
日時:2018年03月16日 (金) 09時27分
名前:破邪顕正


来る「全国幹部研鑽会」において、『凡庸の唄』が出版されます。

表題に掲げましたように、私は、この日の来るのを、今か、今かと心待ちにしていました。

発表から既に1年を経過しています。

余りの評判の悪さに、出版を断念したのかなと、正直、思ったこともありました。

しかし、谷口雅宣総裁は、こちらの期待通りの人であります。

ちゃんと出版してくれました。

そこで、1年前にしたためた私の拙稿をここに改めて紹介させていただくことにいたします。

これが出版されることで、信徒は否が応でもこれに関心をもたざるをえなくなります。

その際、この『凡庸の唄』のどこがどのように尊師の教え=真理に背反しているのか。

それをお知らせすることは、1年前よりも、はるかに大きな意義をもつと思うからです。


○《拡散希望!》「凡庸の唄」は新たな「七つの“神の子無限力”否定宣言」なり! (5165)
日時:2017年03月03日 (金) 18時31分
名前:破邪顕正

予想した通りと言うべきか、案の定というべきか、有り難いことに〝背教総裁〟は機関誌『生長の家』3月号に「凡庸の唄」を掲載してくれました。

今回は前半だけの掲載で、その続きが4月号に掲載されるようです。

ぜひ、今後は、これを、こちらの期待通りに、聖経「凡庸の唄」にして、信徒に読誦するよう強要してほしいと願うばかりです。

如何に何でも、これを読めば、〝背教総裁〟が、完全に谷口雅春先生の「人間神の子・無限力」を否定しているということを痛感せずにはいられないでしょう。

ということで、改めて、この「凡庸の唄」を徹底批判していくことにいたします。

〝背教総裁〟は、これを七つに分けています。

それに従い、こちらも、わかりやすく、七つ毎に批判することにいたします。


①凡庸の唄 (1)は「無限生長の否定」(競争者によって「生命」が生長させられることをも否定)宣言 (5166)
日時:2017年03月03日 (金) 18時38分
名前:破邪顕正

「凡庸の唄 (1)」にはこうあります。

《凡庸は他を蹴落として
 世に先んじようと思わない。
 なぜなら凡庸は
 自分の技量と
 器量を心得ているからだ。
 凡庸は諦めているのではない。
 凡庸は知っているのだ。》

結局、〝背教総裁〟が言っている「凡庸」とは、何のことはない、今のままの自分でいいのだ、ただ現象の自分を追認しているだけのことなのです。

これは明らかに、谷口雅春先生の人間観とは真逆です。

自分の知らない自分を知ること、そのために自らを陶冶していくこと、それが谷口雅春先生の御教えではなかったでしょうか。

『人生を前進する』の「第六章 毎日何らかの前進をせよ」にはかくあります。

はっきりと“凡庸”の否定が、ここには、記されていますから、しっかりとご確認ください。

《諸君よ、今後「出来るだけの事はやったのですが、旨く出来ませんでした」などという言譯(いいわけ)は一切しないようにしようではないか。

「出来るだけの事をやる」のなら、どんな凡庸(凡人)でも出来るのである。

そんな言譯(いいわけ)をするようでは「私は単なる凡庸兒に過ぎません」と告白しているようなものである。

諸君は、常に「出来るだけ」以上の事を為す事を目標とし、理想として、毎日精進努力を続けなげればならないのである。

「人間・神の子」の自覚は「神の子」なる無限の高き理想と能力とが自己の内に内在するという自覚であるから、どんなに現在の進歩が高度であり優秀をきわめても、常に現状に満足することなく、優秀者は、その優秀の上に、更に進歩を遂げるべき決意をもって、前進また前進の努力を続けるべきである。

そのような努力を続ける者のみが本当に「神の子」の自覚を有する者なのである。》

如何ですか。

教えが完全に真逆になっているというのが、はっきりとわかりますでしょう。

更に、「競争者」の捉え方もまた、谷口雅春先生のそれとは違います。

《競争者の見る世界は
 味方と敵に二分される。
 争う心は他を傷つけ
 自分を不快にする。》

『新編 生命の實相』第1巻7頁以降にかくあります。

《二、吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

…進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのはいずれもこの現象(ことがら)をいいあらわしたものなのであります。

生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩に打ちまかされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にも打負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長するという厳とした法則によって各々の「生命」は宣告されているのであります。

競争者があるために滅びるような「生命」は競争者がなくては生長しないで退歩またはせいぜい現状維持ぐらいのところでお茶を濁す退嬰的な「生命(たましい)」であるに相違ないのであります。

結局、かかる「生命」はその生長を「鞭撻」して促進するために競争者があらわれたり、苦痛や不幸があらわれたりするのでありまして、競争者や苦痛や不幸は、その人の「生命」の生長には是非なくてはならぬ迷妄(まよい)の自壊課程であります。

この刺激や反省資料があるために吾々の「生命」は反省の機会を与えられ、浄化(きよめ)の機会を与えられ、いろいろの経験を積んで生長することができるのであります。》

これを読めば、誰しも、これは明らかに谷口雅春先生の教えとは違うと断じた私の思いをご理解いただけると思うものであります。


②「凡庸の唄 (2)」は「本当の達人・天分の否定」宣言 (5167)
日時:2017年03月03日 (金) 19時03分
名前:破邪顕正

「凡庸の唄 (2)」にはこうあります。

《凡庸は人生の達人である。
 一芸に長ずることで失われる
 時間と
 視野の広さと
 細かい気配りを
 自分のものとすることができる。
 凡庸は時間を大切にする。
 何かをするための時間ではない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。》

『新編 生命の實相』第12巻「生長の家」の生き方(上)の第1章「朝の時間を生かせ」にはかくあります。

《人間は天才を伸ばさねばならぬ。

又職業として独立するだけの知識は必要である。

だから是非とも一芸に通達することは必要である。

しかしそれは早朝の一、二時間を巧みに利用すればできるのである。》

更に、この「凡庸の唄 (2)」の問題は、〝背教総裁〟の自然礼賛が実に歪であるということです。

《凡庸は、
 ミツバチの視覚を自分のものとし、
 モンシロチョウになって
 民家の屋根より
 ずっと、ずっと高くへ昇り、
 トンボの複眼をもつ自分を想像する。
 空に上れば
 視野は広がり、
 自分が世界の一部だと感じる。》

谷口雅春先生が神経衰弱になるまでに悩まれたものは何でしたか。

頭注版『生命の實相』第20巻(3頁)にかくあります。

《自分はある日殿様蛙が一匹の小さなる蛇に呑まれる光景を自宅の庭で目撃したことがある。

蛙は蛇に呑まれるべくあまりに大きすぎるためにそれを呑み尽くすのに一時間以上もかかった。

その長い間大いなる蛙はその四肢を苦しそうに打ち踠かせながらビリビリと痙攣的に全身を顫わしていた。》

この弱肉強食の自然観は、「凡庸の唄」では一切、捨象されているのです。

はっきり言って〝背教総裁〟の自然観は偏頗に過ぎます。

谷口雅春先生の厳しい自然観を凝視される中から、本当の創造主を求め抜かれた求道精神を少しはツメの垢でも煎じて飲んだらいかがか、とすら思ってしまうのは、果たして私だけでしょうか。


③「凡庸の唄 (3)」は「永遠の今の否定」宣言 (5168)
日時:2017年03月03日 (金) 19時20分
名前:破邪顕正

「凡庸の唄 (3)」は“今”をこう捉えています。

《Aの地点にせっかく来ても、
 彼はその先
 Bのことを考える。
 Bに到達すれば、
 彼はCの様子が気になり、
 電話して担当者を呼び出す。
 担当者に仕事を頼んだあとは、
 今いるBを楽しめばいい。》

何と言う浅い「今」の捉え方でしょうか?

『光明道中記』「四月八日 釈迦新生の日」のご文章と比べてみてください。

《「お前は何を求めているのだ?」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「この私が永遠か?」

「そうだ、そのお前が永遠者なのだ。

併しそのお前と云うのは肉体を指しているのではない。

その肉体をあらわしている其のお前のいのちそのものだ。

『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶に歩んでいるのだ」》

格調の違いが歴然としています!


④「凡庸の唄 (4)」は「縦の深みのある世界の否定」宣言 (5170)
日時:2017年03月03日 (金) 19時55分
名前:破邪顕正

「凡庸の唄 (4)」はこう言います。

《凡庸の好きな言葉――
 下手の横好き。
 何事にも興味をもって当たること。
 関心を横に拡げることで
 世界の広さ、
 物事の豊かさ、
 人々の多様性、
 社会の許容量が実感できる。
 縦方向にだけ進んでいては、
 孤高の山は見えても
 牛馬が草食む草原、
 銀鱗ひらめく緑の湖(うみ)を
 見ることはできない。》

「下手の横好き」がいいように言われて、それで本当にいいのかと思ってしまいます。

これでは「生長の家」の宗教そのものが実に、平べったい、薄っぺらいものになってしまいかねません。

もっと、高みのある、深みのある、高尚な教えこそが谷口雅春先生の教えではなかったのでしょうか。

因みに、『生命の實相』第39巻(133頁~)にあるご文章を紹介しますので、どちらに心打たれるか、比べてみてください。

《…神を「今ここ」すなわち“Eternal Now”に把握するとき今ここに神の生活が実現するのである。

今が神の時であり、此処が神の処であり、この我が神の人である。

この把握によって、在来の世界観、人間観が三百六十度転回する。

(百八十度転回では、「平常心是道」--このままの生活に道を行ずるようにはならない。

肉を否定して山へ籠る程度の小乗的悟りに堕する。

肉体あるがままにそのままに空を観じて、そのままに金剛不壊身を自覚するのが大乗的悟りであり、人間観の三百六十度転回である)物質あるがままにそのままに空と観じて、そのままに霊的生命の世界、叡智充満せる「神の国」(浄土)を今ここに自覚するのが大乗的悟りであります。

釈迦もこの大乗的悟りに到達したのである。

そこから奇跡を生じたのです。

生長の家誌友中にも奇跡的治病や無限供給が起こる事実があるのもこの人間観・世界観の三百六十度転回によって、神の国(浄土)が今ここに実現するからであります。》


⑤「凡庸の唄 (5)」は「文明進歩発展の否定」宣言 (5171)
日時:2017年03月03日 (金) 20時05分
名前:破邪顕正

「凡庸の唄 (5)」はこう言います。

《凡庸は、
 こんな機械の専制支配を
 笑いながら拒否するのだ。》

〝背教総裁〟が、自ら、アーミッシュの如き生活をしているのであれば、私だって、それに難癖をつけようとは思いません。

しかし、〝背教総裁〟は、どうみても、その文明の利器に依存しているわけです。

それでいて、こういうことを言われても、少しも説得力をもちはしないと思うものであります。


⑥「凡庸の唄 (6)」は、「総裁先生にハイ、イエスマンになれ」宣言 (5172)
日時:2017年03月03日 (金) 20時18分
名前:破邪顕正

「凡庸の唄 (6)」が暗に何を求めているか、それを知らなければなりません。

《自分が彼だったら、
 何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。
 それが心に染み込んでいくのを
 時間をかけて快く感じる。
 こうなれば、
 自分と他人との壁は消える。》

都合のいいように「翻訳」という言葉が使われています。

こう「翻訳」してみよ、ということなのです。

《自分が総裁だったら、
 何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。
 それが心に染み込んでいくのを
 時間をかけて快く感じる。
 こうなれば、
 自分と総裁との壁は消える。》

〝背教総裁〟に対しては、どんどん「ついていけない」という信徒が今、生まれています。

〝背教総裁〟と信徒の間に、いわば「壁」ができてきているわけです。

それは、みんな、総裁先生が

《何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。》

そういうことをやっていないからだと言うのです。

今、教団幹部が信徒に言っている言葉があります。

「総裁先生が何を言わんとされているか、それをまずは虚心になって考えてみて。

総裁先生のご本を無心で3回、読めば、総裁先生のお心がわかるから」

結局、こうして、〝背教総裁〟に刃向かってはならない、「総裁先生に中心帰一」「総裁先生万歳!」のイエスマンばかりを生みだそうとしているのです。


⑦「凡庸の唄 (7)」は「優秀・凡庸二元論、凡庸推奨」宣言 (5173)
日時:2017年03月03日 (金) 20時38分
名前:破邪顕正

「凡庸の唄 (7)」はこう言います。

《優秀な彼らに
 凡庸の視点を与えよ。
 凡庸な我らに
 秀逸なる彼らの業績を与えよ。
 秀逸な才能の開花、
 秀逸な業績の実現は、
 実は
 凡庸の希望でもある。
 だから、大勢の凡庸は
 静かに彼らに協力し、
 応援している。
 凡庸は秀逸の母でありたいと願う。
 凡庸は秀逸を、
 人間社会だけでなく、
 地球世界の誇りにまで飛翔させたいと願う。》

結局、〝背教総裁〟が言いたいことは、地球環境を破壊してきたのは「優秀」なひとたちだ。

その環境破壊から自然を守るのは凡庸の人達である、ということなのです。

「二元論は悉くあやまれり」

こういう分け方そのものに、違和感を禁じ得ないではいられません。

最後に、申し上げますが、谷口雅春先生にとって「凡庸」とは決して推奨されることとしては取り上げられていません。

『人生を前進する』「第十一章 天才を引き出す道」にはかくあります。

《すべての人間は神の子として素晴らしい天才と天分とを与えられているのである。

天才とは何か、人間は神の子であるという実相が天才なのである。

天賦の無限力が天分なのである。》

この人間観こそが谷口雅春先生の教えであります。

心ある信徒の皆さん!

「鎮護国家」を捨てた〝背教総裁〟は、今度は「凡庸の唄」をつくり、「人間神の子」の真理まで否定しようとしているのです。

谷口雅春先生の「神の子の教え」についていくのか、それとも〝背教総裁〟の「凡庸の唄」についていくのか。

その選択が、これから、信徒ひとりひとりに問われていくことになるのだと私は思っております。

皆さまが賢明なるご判断を下さることを心から念じて、擱筆することにいたします。


確かにこれはひどすぎる、「凡庸の唄」 (9099)
日時:2018年03月16日 (金) 10時04分
名前:そーれ!!

谷口雅春先生は、子供は皆天才を持って生まれて来る。と、
教えて下さいました。各自各方面に、天分を持って・・・。

でも、雅宣総裁は、一芸に秀でることを勧めていませんね。
良いところを伸ばせ、の否定でもあります。

努力することも、お嫌いの様ですね。

信徒は今後、洞窟や、山に穴を掘って寝泊りするのだろうか。
自然とも共生できるし・・・。

それにしても、通勤中に仕事などしない、には驚きです。

時間は有効に使いたいものです。通勤途中のバス、電車の中で、
「聖経・聖典」の拝読も禁止なのでしょうか?

凡庸生活の推進では、神癒からも遠ざかる様で・・・・・

どうなのでしょうかね・・・・・。



〝背教総裁〟と人を見下す人へ (9100)
日時:2018年03月16日 (金) 19時45分
名前:転載

慢心し、自分自身のことを自慢しながら、

他人を見下して罵倒するような人。

このような人こそが、最低の人間である。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.132)

転載さまへ (9101)
日時:2018年03月16日 (金) 22時15分
名前:コスモス

 合掌 有難うございます。


 「慢心し、自分自身のことを自慢しながら、

 他人を見下して罵倒するような人。

 このような人こそが、最低の人間である。」 


 おっしゃる通り、この様な人は最低かどうかは知りませんが、
人々の眉を顰めさせる人でありましょう。

 けれど、書かれた文章は、まずもって、何を言わんとしているか、「正確に理解する」ことが大切ですね。

 私なりに理解してみましたところ、どうもあなたが非難されている方は、あなたの前に文章を書かれている「破邪顕正」さまの事と理解しました。

 私の理解によれば、彼は自分自身を自慢しているのではなく、あくまでも、雅宜総裁の書かれた「凡庸の歌」なる文章と、谷口雅春先生の説かれた御教えとを比較しているにすぎないと思いますが、違いますでしょうか?

 谷口雅春先生が説かれた生長の家の御教えは、それを人生の芯柱として生きて来た人間にとっては、「凡庸の歌」を読むことは、それ自体が一種の苦しみとなるのです。

 何故なら、余りにも谷口雅春先生の御教えとかけ離れているから。それを一つずつ検証された文章が、破邪顕正さまの文章なんですね。

 私は改めて「凡庸の歌」を読んで、雅宜総裁は「凡庸の人」その人なのだなと思いました。だって凡庸の人が彼の理想であり、

 《Aの地点にせっかく来ても、
 彼はその先
 Bのことを考える。
 Bに到達すれば、
 彼はCの様子が気になり、
 電話して担当者を呼び出す。
 担当者に仕事を頼んだあとは、
 今いるBを楽しめばいい。》

 ここを読めば、彼の仕事の仕方がよく解るからです。何故か、新潟長岡の地震の時が思い出されました。

 あるいは一芸に秀でると視野が狭くなると書かれていますが、先日行われた冬季オリンピックで活躍した「一芸に秀でた人」達は、物凄い努力を続けてそこへ到達された方々であり、

 その視野は決して狭くないどころか、本物の一流選手は、人としても立派だと改めて感動したのです。そのように「視野が狭い」と決め付けること自体、視野が狭いのではないでしょうか。

 とにかく、個人対個人で相手を貶めているのではなく、先に書きましたように、あくまでも本来の生長の家の真理に照らして書かれたものなので、そこの所はよろしくお願いします。

 もしもあなたの書かれたことが誤解に基づくものであるならば、


 他人を見下して罵倒するような人。
 このような人こそが、最低の人間である。

 と、人を罵倒する文字を書かねばならなくなり、それこそが最低の人間だとなってしまうので、それはとても悲しいことですから、もうこういう書き方は止めましょうよ。よろしくお願い致します。再拝




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