今回の「通達」を見て、心底、『生命の實相』の著作権が教団になくて本当に助かった! (8768) |
- 日時:2018年01月21日 (日) 17時16分
名前:破邪顕正
今回の「通達」で、総裁の考え、思想というものは、『生命の實相』とも根本的に相容れないということが明らかになったのではないでしょうか。
それを象徴する用語が、ズバリ今の教え≠ニいう表現なのだと私は思います。
この今の教え≠ニいう際の今は、決して永遠の今≠ニいうような意味合いではありません。
相対的な今、古い、新しいの今。
つまり、総裁が今の教え≠持ち出したのは、谷口雅春先生の教えは古い教え、昔の思想、今の時代には合わない≠サういう考えがあったればこそなのだと思うのです。
で、それを端なくも露呈したのが、あの「三者会合」でのあんな古臭い皇国史観ではだめだ≠ニいう総裁の発言だったのではないでしょうか。
だからこそ、私は「三者会合」でのやりとりに一貫して注目し、今の教団の変質の淵源はそこにあると主張し続けてもきたのです。
そう考えると、総裁は、どこかで『生命の實相』も自分の考えとは合わない…いずれは『愛国聖典』同様、『生命の實相』の絶版をも視野に入れていたのではないのか。
総裁が『生命の實相』等の著作権裁判に血道を上げて争ったのも、それを手中に出来たら、絶版する権利を有することができるから…。
今回、長々と『生命の實相』のご文章を引用させていただいたのは、その中にあったこの箇所にご注目いただきたかったからでもあります。
《「ああいうイズムは古い」とか、「ああいうことは古い思想だ」とか内容を調べないで、一言で片づけてしまって、何でも古いことは値打がないように思っている人がだいぶあるようであります。
ところがあたりまえほど古いものはない。
古くても「あたりまえ」には流行(はや)りすたりはない。》
まさしく、ここなどは今の教え≠ニは全く相容れない考えではありませんか。
だから、総裁は『生命の實相』の著作権を握ったら、早晩、その絶版に着手しただろうと私は思うのです。
それは、著作権裁判に直接関わった方々の、なべての共通せる思いでもあったのです。
ともあれ、最高裁判決によって、『生命の實相』等の著作権が教団にはないということが法的に決着を見たわけで、これで『生命の實相』が教団の手で絶版に処せられることはなくなった、寸でのところで『生命の實相』は護られた、助かった、本当に良かった!
総裁に、いつまでも勝手なマネはさせない!
一矢報いたという思いがあるのです。
今の総裁や、教団にとって、「谷口雅春先生を学ぶ会」は邪魔で邪魔でしようがない、本当に目障りな存在なのでしょうが、谷口雅春先生の教えをここまで歪め、貶め、否定しているのですから、それは当然のことではないのかと、私などは却って、それを誇りにすら思っております。
谷口雅春先生に救われ、生きる使命、希望を与えられた者として、尊師を否定するような人達の好き勝手を決して見過ごさない。
それを決して拱手傍観することはしない。
見て見ぬふりはしない。
それが私たち、心ある信徒の行動指針の第一でなければならないと思うものであります。
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