《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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今回の教育勅語朗唱禁止の「通達」は『生命の實相』をも否定するものです! (8762)
日時:2018年01月20日 (土) 16時38分
名前:破邪顕正


今回の「通達」は、どんな背景で送付されたのか。

その背景を「通達」はこう述べています。

>全国の生命学園にアンケート調査を行いましたが、僅かですが、未だに「教育勅語」を朗唱している生命学園が見受けられました。<

未だに、こんなことをやっているところもあるのか!

呆れ返ったと言わんばかりの言いようであります。

その意味で、今回の「通達」は、そんな身勝手は許さない、これまでの古き慣習に縛られた生命学園を一喝し、一掃し、一新するとの、総裁、並びに教団の確固たる意志の表明とも受け止められるのです。

件の「三者会合」において、今の総裁は、あんな古臭い皇国史観ではだめだ≠ニ言ったということですが、まさしく、今回の「通達」は、その延長線上にあるものと考えるのが至当でありましょう。

つまり、今回の「通達」において、更に「三者会合」の信憑性が高まったと思うのです。

そして、それは、そのまま『生命の實相』をも否定するものだと言わなければなりません。

「教育勅語」は何も、実質上、絶版となっている『愛国聖典』にだけ出てくるわけではありません。

例えば『生命の實相』第36巻には、次のように記されています。

《…心があたりまえになったら、行ないは自然どうなるかと申しますと、かつて教育勅語に、明治天皇が示し給うた人の道が実行できて親に孝に、兄弟仲良く、友達に深切に、夫婦相和すようになるのであります。

明治天皇が示したまうた道は、少しもむつかしくない、少しも異常なところのない、あたりまえの天地の大道なのであります。

だから親に孝行がそのままが守れますと、肉体もあたりまえになって健康になるのであります。

だから親孝行を教義にして信者の健康を増進していた治病宗教もかつてありました。

これは恩に報い調和する心が自然に人間を天地の道に復帰せしめて健全ならしめるのであります。

どうも人間は青年期においてはあたりまえでないことがいいようなことを考える時代があるようであります。

わたしなども何か変わったことでないと生き甲斐が感じられなかった時代がありました。

そして陳(ふる)いものは皆悪いように思って、「新しい」という言葉に捉われていたのであります。

近代の青年男女にもそういうふうに弊がありますようで、「ああいうイズムは古い」とか、「ああいうことは古い思想だ」とか内容を調べないで、一言で片づけてしまって、何でも古いことは値打がないように思っている人がだいぶあるようであります。

ところがあたりまえほど古いものはない。

古くても「あたりまえ」には流行(はや)りすたりはない。

流行物はまた廃ることもありますが、「あたりまえ」には流行りすたりはないから一番古くて新しいのであります。(40〜41頁)》

長々と引用したのは、他でもありません。

尊師は、「教育勅語」をあたりまえの天地の大道≠ェ説かれている…。

そして、ここが大事なのですが、それは明治天皇が示し給うた人の道≠ナあるとも仰っておられるのです。

つまり、「教育勅語」を否定することは、そのまま明治天皇様の大御心に背くことにもなりはしないでしょうか。

許せないのは、国旗掲揚、国歌斉唱について、

(入卒園式等では行ってもよい)

( )書きにしているところです。

( )書きにするということは、それは取りも直さず、本当は行わない方がいいのだが、そこまで言うといろいろと反発、批判もあろうから、取り敢えず、やりたいんだったらやってもいいよ。

そういう意味合いが込められているように思うのです。

少なくとも、積極的に行うべし、ということではないというのが、普通の解釈ではないでしょうか。

つまり、今の教団は、国旗掲揚、国歌斉唱に少しも積極的な価値を認めてはいない。

ましてや、その意義を、明日を担う青少年に伝えていこうという気概などさらさらもちあわせてはいない。

そう言い切っていいのではないでしょうか。

果たして、そういうところに、大事な子どもや孫を預けられるでしょうか?

自分は我慢して教団に残るけれども、かといって、子どもや孫は、そんな教団には行かせない!

そういう信徒が、今後、ますます増えてくるのではないでしょうか。

今回の「通達」は、その流れに、ますます拍車をかけることになると私は見ています。


危急の時は、全国民一団となって、國を守る。 (8763)
日時:2018年01月20日 (土) 17時54分
名前:そーれ!!

その事が、お嫌いな雅宣総裁。

であれば・・・・・

雅宣さんが危急な時、一体誰が雅宣さんを守るのでしょうか?

誠に失礼ではありますが、高級待遇で契約した職員達。

誠に失礼ではありますが、そこに魂と魂の結びつきが
あるのでしょうか?

ムスビ、ムスビと空念仏を唱えてみても・・・・・

いずれ、身をもって体験されるでしょう。

毎度毎度の辛口投稿ではありますが、

時々、本当に悲しくなってしまいます。

決起とは (8765)
日時:2018年01月20日 (土) 22時33分
名前:反憲

命がけの信仰。
その意味を示さずして、何が信仰者だろう。

この現象世界に、この天体に、神の子の生命を投影して生きているとは何なのか。信仰の証を、物理的に示すということではないか。
祈りとは、信仰とは、命がけのものだ。

私は、他者に一切の期待をしない。
期待はしないが、共に起ちあがり、共に闘う者があれば同志として確認しよう。
深く沈潜して、敵の深奥を撃とう。

今回の「通達」を見て、心底、『生命の實相』の著作権が教団になくて本当に助かった! (8768)
日時:2018年01月21日 (日) 17時16分
名前:破邪顕正


今回の「通達」で、総裁の考え、思想というものは、『生命の實相』とも根本的に相容れないということが明らかになったのではないでしょうか。

それを象徴する用語が、ズバリ今の教え≠ニいう表現なのだと私は思います。

この今の教え≠ニいう際の今は、決して永遠の今≠ニいうような意味合いではありません。

相対的な今、古い、新しいの今。

つまり、総裁が今の教え≠持ち出したのは、谷口雅春先生の教えは古い教え、昔の思想、今の時代には合わない≠サういう考えがあったればこそなのだと思うのです。

で、それを端なくも露呈したのが、あの「三者会合」でのあんな古臭い皇国史観ではだめだ≠ニいう総裁の発言だったのではないでしょうか。

だからこそ、私は「三者会合」でのやりとりに一貫して注目し、今の教団の変質の淵源はそこにあると主張し続けてもきたのです。

そう考えると、総裁は、どこかで『生命の實相』も自分の考えとは合わない…いずれは『愛国聖典』同様、『生命の實相』の絶版をも視野に入れていたのではないのか。

総裁が『生命の實相』等の著作権裁判に血道を上げて争ったのも、それを手中に出来たら、絶版する権利を有することができるから…。

今回、長々と『生命の實相』のご文章を引用させていただいたのは、その中にあったこの箇所にご注目いただきたかったからでもあります。

《「ああいうイズムは古い」とか、「ああいうことは古い思想だ」とか内容を調べないで、一言で片づけてしまって、何でも古いことは値打がないように思っている人がだいぶあるようであります。

ところがあたりまえほど古いものはない。

古くても「あたりまえ」には流行(はや)りすたりはない。》

まさしく、ここなどは今の教え≠ニは全く相容れない考えではありませんか。

だから、総裁は『生命の實相』の著作権を握ったら、早晩、その絶版に着手しただろうと私は思うのです。

それは、著作権裁判に直接関わった方々の、なべての共通せる思いでもあったのです。

ともあれ、最高裁判決によって、『生命の實相』等の著作権が教団にはないということが法的に決着を見たわけで、これで『生命の實相』が教団の手で絶版に処せられることはなくなった、寸でのところで『生命の實相』は護られた、助かった、本当に良かった!

総裁に、いつまでも勝手なマネはさせない!

一矢報いたという思いがあるのです。

今の総裁や、教団にとって、「谷口雅春先生を学ぶ会」は邪魔で邪魔でしようがない、本当に目障りな存在なのでしょうが、谷口雅春先生の教えをここまで歪め、貶め、否定しているのですから、それは当然のことではないのかと、私などは却って、それを誇りにすら思っております。

谷口雅春先生に救われ、生きる使命、希望を与えられた者として、尊師を否定するような人達の好き勝手を決して見過ごさない。

それを決して拱手傍観することはしない。

見て見ぬふりはしない。

それが私たち、心ある信徒の行動指針の第一でなければならないと思うものであります。


新編『生命の實相』第28巻の脚注に「教育勅語」が出ています。 (8775)
日時:2018年01月22日 (月) 08時22分
名前:破邪顕正


新編『生命の實相』は今、第28巻まで発刊されています。

発刊される度に、『生命の實相』を新たな気持ちで学ばせていただき、大変有り難く思っております。

早速、第28巻を拝読させていただいていて、表題のことに気づかせていただきました。

92頁に「博愛衆に及ぼし」という言葉が出てきます。

頭注版『生命の實相』第17巻では64頁に当たります。

その頭注版では、「博愛衆に及ぼし」について、頭注は付されていません。

ところが、新編『生命の實相』にはこういう脚注があるのです。

《「博愛衆に及ぼし」

明治二十三年に明治天皇より下賜された「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)の一節。

人々をひろく平等に愛すること》

新編『生命の實相』に関して、いろんな批判が出ているようですが、私は、このように脚注が新しくなり、増えていること。

更には、巻末に索引があること等、そういうところにも着目していただけると有り難いと思うものであります。





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