《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8699)
日時:2018年01月11日 (木) 16時39分
名前:平賀玄米



            <第十章 道徳の頽廃時代>


          忠君の感情の根元を絶つために

終戦と同時に占領軍の日本弱体化政策として、「分割して支配せよ」という西欧的イデオロギーが露骨に用いられることになり、先ず、天皇と人民との結びつきを分割するために天皇に人間宣言≠フ詔勅を書かしめて人民からの天皇崇拝の念を遮断することにし、更に新聞及びラジオを占領して、戦場における日本軍の暴行を毎日連続的に放送せしめながら、その戦争責任が天皇にあるということを同時に強調して、人民をこの悲惨に追い込んだのは、天皇が悪いのだというような、天皇憎悪の感情を植えつけることにつとめ、忠君の感情の根元を絶つようにつとめたのであります。


        親孝行の感情の根元を絶つために

一方更に占領軍の日本弱体化の“分割して支配せよ≠フ政策は、家庭の親和精神の分割に振向けられ、家督相続を廃して財産相続のみとして、家族一体観による団結相愛の精神を骨抜きにし、民主主義の美名のもとに、結婚をただ男女間の性の牽引による自由勝手の行為であるのが正しいとして、両親の承諾を不要として、若い夫婦と、その親とのつながりを遮断することに成功した。

家督相続がなく、兄弟平等に財産が分配されるが故に、「家」という無形の連続的生命的流れの精神的把握が失われて、祖宗子孫一体の自覚はなくなり、「お前も財産を何分の一貰ったのだから、お前が親の世話をすればよいではないか」と、親孝行の譲り合いをするようになり、誰も実際は親孝行などするものがなくなったのである。

今では、日教組の教育方針に牛耳られて「親孝行」という語をきくだけで、フフン≠ニ軽蔑的薄笑いをする高校生や大学生が大部分だというようになっているのである。こうして占領軍の日本弱体化政策は、日本の家≠分断し、完全に親孝行≠フ道徳精神を抜き去ったのであります。

つづく

         <平成30年1月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。
   

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8713)
日時:2018年01月12日 (金) 17時10分
名前:平賀玄米

     貞操の観念を排除し家≠破壊するために

結婚を男女互いの性的牽引の自由行為と認めることは、家≠フ分断であると同時に性の頽廃による日本弱体化政策≠ニも通ずるものであって、所謂三S政策によって三方から推進せられたのです。

即ち、第一のSはSexの解放である。言論の自由、表現の自由と称して、猥褻記事をハンランせしめる為に一切の猥褻記事を解禁した。それによって性≠フ正しい抑制法を知らない少年少女が性≠濫用することになり、更に姦通罪を撤廃して、恋愛の自由と称して容易に姦通や離婚が出来る事になり、戦後の離婚件数は日本の歴史あって以来の最大数字を数えることになったのであります。

第二のSはScreen「映画」であって、痴情映画をハンランさせて性的誘惑と性的興奮の媒介として、今まで性の濫用の唯一の自然の支えであったところの羞恥の感情を一掃して、恥ずかしくもなく性戯というものを観客の前に全面的に押し出したのです。だから、この種の映画を見ての帰りに少女を強姦した少年等が出て来たことが頻々として新聞記事を賑わせるようなことになりました。

第三のSはSportsですが、スポーツには無論健全なものもありますが、ストリップやアクロバットやロカビリーなどは、芸術というよりも性興奮を誘導するための一種のスポーツと見るべきものである。その他のスポーツでは競輪、パチンコなどを流行させて、それに良人が熱中したために家庭を破壊した実例など無数にあるのである。

こうして性≠フ生ま≠フままの過度放出は、文化の根源であるリビドーの昇華≠不可能にして、文化の頽廃と人心の柔弱化と、性を原因とする幾多の犯罪を引き起こすに至るのである。既にそのことは実際に起こりつつある事実であります。
    *リビドーの昇華については拙著『人間性の解剖』及びフロイド選集『文化論』参照。

つづく

      <平成30年1月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8717)
日時:2018年01月13日 (土) 15時13分
名前:平賀玄米


        日本の産業の弱体化をはかるために

>「分割して支配せよ」という西欧的征服原理は、産業に対しても行われた。即ち独占禁止法によって大産業を分割して、一つの産業の廃棄物が次の産業の原料となる如き一貫作業による利点を奪い去って、人件費や原料費を高価ならしめ、日本の経済的興隆を困難とする方策が一方において行われると共に、産業を形成する要素として一体不可分であるべき「資本」と「労働」とを分割して敵対観念のもとに互いに対立抗争させることにし、労働者の団結と争議権を憲法に書き込んで、労働者をして「資本家」を「敵」と目させることにしたのです。

その後、定期的に闘争を繰返して資本家を「敵」として反目抗争しつつある労働者は実は、この日本弱体化の占領軍政策にのせられて踊っている傀儡(かいらい)にすぎないのであります。


        唯物論から見れば殺人は罪悪ではあり得ない

こうして国家と家庭も産業もいずれも、占領軍の「分割して支配せよ」の征服方法により、分断され寸断された。その奥にあるところのものは何であるかと言うと、それは唯物論である。「物質」をもって一切の根元とする世界観であり、共産主義理論も、資本主義理論も、共に唯物論であるから、マルクスも結局、唯物論的経済の進展するところ、そこに必ず矛盾を生じて自壊するという結論に達したのである。

だいたい物質というものは、その定義において、「一定の容積をもち分割さるべきもの」というのですから、若しその人が唯物論的世界観及び人間観をもっているならば、ものを分割し破壊する事を何とも思わなくなるのは当然のことであります。容易に自殺をしたり、殺人を何ら悪徳とも思わなくなるのは、肉体全体を統率する一人格としての「心」又は「霊」の存在を認めず、ただ分割さるべき「部分品」が集まっているのが「人間」であり、「心」は部分品が集まった結果あらわれた化学作用であるから、人間を殺して部分品をばらばらにしてやれば、これから幾十年も人生において苦しまねばならぬ「心」が消えてしまって、寧ろ彼の救済になるのであるというような考えが、その行為の背後にはあるのです。

実際、アメリカでハッキリこう考えて両親を銃殺した少年があらわれたことが『週刊読売』昭和三十三年十一月二日号に「邪魔なパパ・ママを殺せ。アメリカの恐るべき子供たち」と題して出ていた。これほどハッキリした殺人動機を持たないにせよ、現代のように人権を口にしながら人間生命の尊重が軽んぜられている時代が古今未曽有であるのは、単に「人間」を物質的肉体として捉えているからであります。

道徳の道を正すにはどうしても唯物論を清算して、「物」に先立って「心」又は「霊」があるとの哲学をもたねばならないのであります。

つづく

      <平成30年1月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8723)
日時:2018年01月14日 (日) 11時14分
名前:平賀玄米


         唯物論では道徳は成立たない

唯物論的人間観においては、人間は部分品が集まって出来た産物であるから、化学物質が一定の物質に対して、親和又は反発の物理化学反応を起こすがように、「物質なる人間」は快不快の原則によって、親和又は反発を起こすのは当然である。

性欲の快感に引きつけられ、憎いものが不快なものに反発したり抵抗したり殺したりすることは「物質なる人間」の物理化学的反応であるから、たといその反応から起こる行為が、強姦となってあらわれようとも、殺人となってあらわれようとも、それは「基本人権」と称せられる「物理化学的反応」であるから、善悪の批判を超えた問題となるのである。

それは例えば、酸素と水素とが結合して水になろうとも、酸素又は水素そのものは善徳を行じたのでも、犯罪を犯したのでもないようなものである。また炭素と硫黄と智利硝石とが結合して爆発して人を殺傷しようとも、炭素や硫黄や智利硝石は罪悪を犯したのでないようなものである。

このようにして唯物論的人間観が採用せられる限り、道徳とか倫理とかいうものの基となるべき根拠がなくなるのであります。道徳の頽廃、真に現代の如きは未曽有であるのは、精神力を強調して「一億一心」と称し「国民精神総動員」を力説して来たにも拘らず、敗戦という憂目を見たので、「心」よりも「物質」だという誤った考えになりつつあった戦後の日本人に、占領軍の民間情報教育局などに共産党員がおり、共産党的唯物論を「日本民主化」目的に利用して、これを大々的に宣布したのに対して、日本の節操なき進歩的文化人が、時局に便乗して、これから原稿かせぎ≠竅g放送料かせぎ≠するには「唯物論」に転向して民主主義的言論を振り廻すにしくわないと考えて、大学の教壇よりは無論のこと、雑誌や単行本やラジオなどに唯物論的言論を滔々として説き始めた結果なのである。

その結果、人体を唯の物質であると考え、貞操の観念などは絶無となり、快不快の原則によって、「好きな人間と性的結合するのが何が悪いか。汚れたら洗ったらしまいではないか」と考えるような恐ろしい貞操観念が生まれて来、高校の女性とであって、姦淫を唯単に「一寸遊んで来たのです。妊娠したら困るから、一寸先生にその直後に洗っておいて貰ったらと思ってまいりました」と産婦人科医を訪ねるものさえ生じて来たのであります。

以上のような現代の道徳観念の軽薄さを考えて見るとき、正しい倫理を確立し、道徳の基礎を定めるには、どうしても唯物論的教育を廃して、唯心的教育を施すようにしなければならぬということは火をみるよりも明らかなことであります。

つづく

      <平成30年1月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章 (8731)
日時:2018年01月15日 (月) 11時26分
名前:平賀玄米


国家も民主主義という美名に惑わされて、部分品の集まりであるところのものが国家であると考えられている国家観が横行する限り、「国家」なる全体の尊重よりも、テンデンバラバラに部分品の幸福を望むことになり、国家そのものが崩壊することになるのである。

それは『無門関』にある「奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)の公案」について考えて見れば明らかなことなのである。「奚仲(けいちゅう)が車をつくって、更にその車を毀(こわ)して、しきりに何か探しているというのである。一体何を探しているのであるかと訊くと車は何処へ行ったか≠ニ探しているのである。一体車≠ニいうものは何処にあるか」というのが公案である。

部分品をいくら探しても車≠ヘ見つからない。車≠ニいうものは本来理念≠フ世界にあって、その理念のすがたが基本になって、その理念の通りに部分品が集められたものが車≠ネのである。国家も主権と領土と人民とが部分品となって、部分品がただ集められたのが国家なのではない。理念は現象に先立つ。

或る特色をもった一つの国家が成立するには、国家の理念が天降って来て、その理念の相に各要素が集められて現象の国家が成立するのであります。日本国の現象的国家形態が万世一系の天皇を統一原理として二千年以上も存続して来たのは、その奥にかくの如くあるべき理念≠ェ存在したからであります。

国家を単に人民≠ニいう部分品の集り的存在だとして、部分品ばかりを探し廻っていたら、奚仲が車≠見失ってしまった如く国家≠も見失ってしまうのである。現代の日本の道徳は、まことに悲しいかな国家≠ニいうものを見失って、ただ人民≠フ集合体だけを見ているのである。

その根本は、唯物論であるから、ものの物質的面のみを見て、物質的なものを、かくの如き形態にあらしめているところの心的存在を知ることが出来ないのであります。道徳の根本はどうしても唯物論を克服して唯心論を逞しく打ち樹てるよりほかに道はないのであります。

今回にて第十章は完。次回から第十一章です。

<平成30年1月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。


 尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8736)
日時:2018年01月16日 (火) 13時56分
名前:平賀玄米

          
             <第十一章 中心帰一の原理>

       

         「車」は部分品の中にはない

この章は前章で述べた「奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)」の公案についてもう一度考えてみることから始めたいと思います。支那の古代の有名な聖人の王様であった舜の時代に、奚仲という人が生まれて、初めて車≠発明したというのであります。

彼は折角車≠組立てておいて、それを又破壊して、部分品をバラバラにして、一所懸命に何物かを探していたのであります。或る人が「何を探し廻っているのか」と訊いたら、「車≠ヘ何処に行ったのか」と言って探しているということでありました。

折角車≠拵えたのに部分品をバラバラに壊してしまって、「さて車≠ヘ何処に行ったか」と言って探し廻っているのです。皆さん、車≠ヘ何処にあると思いますか。「車」は部分品の中には無いのであります。部分品を一つ一つ幾ら調べってみても「車」は無いのであります。その部分品を組立てた時にはじめて、そこに「車」というものが現われてくるのであります。

それでは、何が部分品を「車」になるように組立てるのであるかといいますと、それは「心」が組立てるのであります。では「車」というものは一体何処にあるかというと、部分品の中には無くって、「心」の中に在るのです。

心の中に「車」の原型があり、その原型の形の通りに部分品が集められて「車」というものが出来たのであります。心の中に在る「車」の原型こそ本当の「車」なのであります。だから部分品を幾ら探し廻っても、そこには「車」が無い譯であります。「心」の中にある原型(精神的原型)を理念というのであります。

つづく

      <平成30年1月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8747)
日時:2018年01月17日 (水) 23時10分
名前:平賀玄米


      人体を解剖して部分品を点検してもそこに「人間」はいない

医学が進歩致しまして、吾々人間を色々に細かく壊(くだ)いて解剖分析して、その状態を調べ、一つ一つの肉体を拵えている細胞を研究して、それはどういう物質で出来ているのであるか、人体は炭素と窒素と燐とカルシウムその他のミネラルなどの集合体であるとか色々とその部分品たる成分を研究してみたところが、そこには「人間」というものは決して出てこないのであります。

だから幾ら医学が進歩して人間を細かく壊いて、分析して研究して科学的にその成分が判ったところが、「人間」というものは部分品そのものではない、部分品の奥に霊妙極まりなき存在がある――それこそが「人間」なのであります。

「人間とは何ぞや」という問題は、このように、その部分品を細かく分けても出て来ないのであって、「人間」というものは、そう云う部分品の集まりではないのであります。部分品を集めたところの不思議なもの、神秘なもの霊妙極まりなきもの、それが「人間」なのであります。

「車」も同じことであります。「車」という物の色々の ――車の輪であるとか、毅(こしき)という車の心棒を通す所であるとか、車の輻(や)とか、或は車を引張る轅(ながえ)であるとか、それを一々調べて、「此処に車≠ェあるか」と思って見ても、「車」は無いのであって、そういう部分品を一定のデザインに集合さす「心」の中にこそ、車があるのだということになります。

人間を単に物質的存在であると考える唯物論というものは、それは部分品を探せば、そこに車が出て来ると考えたり、人体を構成する部分品たる蛋白質を研究したらそこに人間が出て来るという考え方と同じ事なのであります。
「人間」は決して物質ではない。物質をこの形の如くならしめているところのその不可思議なる「生命」そのものこそ、「人間」であるということがこれによってお判りになったでしょう。

つづく

      <平成30年1月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8750)
日時:2018年01月18日 (木) 11時45分
名前:平賀玄米


       青少年の自殺の原因は

近頃、多勢の若い人たちが盛んに自殺したり、又人殺しをすることを何とも思わない。この間も東京の小松川高校の太田芳江さんというお嬢さんを、何の理由もなしに殺したという事件がありましたが、ああいうような事件がどういう理由で発生して来るのであるかというと、戦後唯物論が蔓延(はびこ)って来て、総てのものは「物質」であって、「人間」も物質が偶然に或る機会に集まって「人間」という形に出来たものである、「人間」は、そういう部分品の集まりにすぎないのだから、「人間」を殺したところが、それは、物質の集合体の部分品を壊しただけのことだから、これは大した罪悪ではないというような考え方が何となしに人間全体に滲み透っているからなのであります。

部分品が集まった結果、脳髄なら脳髄というような精巧な姿になったので、その部分品の化学的反応として、そこから「心」というものが分泌され又は放射されて来たのである。だから、その部分品を解体して、砕いてしまったら、もう「心」も何も無い。「痛い」「苦しい」もない。それはある意味に於いて人間の苦痛からの解消である。そして後はOKだというわけです。

それなら、人殺しだって大して悪い事はない。これからあの人が何十年間か生きて苦しまねばならぬことを思ったら、今一寸痛いと思った瞬間に、今後もう六十年間も生きていて苦しまんならん
筈だったのが、それによって苦しみが止むとしたならば殺してやる方が慈善となるかも知れない
ということにもなる譯であります。

こうして「人間」が、ただの物質の部分品の集合体であると考える唯物論からは、道徳とか善悪とかいうものは成立たない。ここに於いて唯物論は道徳の根本を覆してしまうものであると言わねばなりません。こうして唯物論の盛んになるに従って、理由なき殺人とか、自動車強盗とか、そう云う人間性無視の犯罪が増えて来たのであります。

つづく

      <平成30年1月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8757)
日時:2018年01月19日 (金) 16時38分
名前:平賀玄米


       物質の結晶は物質の奥に知性があることを示す

さて、この部分品を、集めて「人間」の形に組合す為には、人間なる「設計」がいるのであります。その設計――精神的原型――の形に、吾々の食べた食物の分子の排列替えをして始めて、一定の人間の形になるのであります。その「設計」とは一体何かといいますと、「設計」というものは、「心」の中に作られた一種の構図またはデザインであります。心の中に作られた精神的原型であります。

簡単なもので実例を申しますと、空中の水蒸気が冷たい温度にふれると、忽ち凍って六角の雪の結晶になるのであります。根本のデザインは六稜形でありますが、この六角の骨組みをもとにして、実に複雑に色々と雪の結晶の模様が出来ているのであります。

これは偶然にこのような結晶になるかといいますと、精神的要素を抜きにしますと、それは偶然にそうなるというほかはないのでありますが、偶然だったら各分子が秩序整然とこのように列(なら)ぶということはあり得ない筈であります。雪なら雪の結晶が一定の六角のデザインに並ぶということは、水の分子というものが、何物か精神的働きによって一定の「設計」に従って列べられたものであるということを考えなければならないのであります。

そうすると、その一定の「設計」というものは、一体何処にあるのか。空中を見ても、何処にもそんな設計図は肉眼には見えないのであります。然し、空中に漂う水蒸気の水の分子に一定の排列をさせて、六角の形にこう並べるということは、何か設計する者があって、そうした六角の形に列べたのであると考えなければならないのであって、偶然にこんな美しい形が、幾つも揃って出来ると考える譯にはいかんのであります。

そしてこの一つ一つの部分品が、雪の結晶に於いては、(部分品というと、水の分子≠ナありますが、)その分子≠ヘ生きて知性がある。知性 ――即ち知る力、考える力、感ずる力というものがあると考えねばならないのであります。何故なら、各分子が互いにこうして一定の形に列ぶということは、その列ぶものが、心≠ェあって生きているということを現わしているのです


皆さんでも「この講堂の腰掛に、この椅子は、三人掛けですから三人ずつ列んで下さい」と言ったら、ちゃんと三人ずつ列んでいられる。私の言った通り、ちゃんと三人掛けに皆さんが列んでいられるということは、皆さんが生きておられて、心≠ェあるから列ぶのであって、もし皆さんが心≠フない死骸であって、そして入口に死骸として、横たわっておられたとしたら、私が幾ら「その椅子は三人掛けでございますから、ここに三人ずつ列んで下さい」と言っても、決してそのようには列んではくれないでしょう。

すると、それは「水の分子よ、雪になる時には六角の形に、並ぶんですよ」と誰かが設計して、列びなさいと言っても、もしその水の分子≠ェ生きていなかったら、こういうように列ぶことは出来ないのであるということが出来るのであります。

今迄、物質≠ニいうものは、意識もなく、知覚もなく、感覚もなく、只、大きさを持っている所の知性≠フない質量と容積とだけあるような存在であると考えられておったのが、物質≠燒張り或る知性≠持っているものであるということが、心≠持っているものであるということが、それによってお解りになったと思うのであります。

つづく

      <平成30年1月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章 (8766)
日時:2018年01月21日 (日) 11時53分
名前:平賀玄米

 
      統一知性≠フ存在について

さて、この一つ一つの水の分子≠ノ知性があっても、全体の水の分子に対して「この様に列びなさい」と設計≠示すものがなかったら、列びようがないのであります。もし全部を統(す)べる統一知性がなかったら滅多矢鱈に分子≠ェ列んでしまうのです。そこでこの会場の司会者が「この椅子は三人掛けでございますよ。二人掛けていらっしゃる所は、手をあげて下さい。そこに三人掛けて下さい」と言うと、そこにもう一人の聴講者が掛けて三人掛けになるように、司会者の設計通りに列ぶ。それは、ちゃんと司会者が心の中に、「この椅子は三人で掛けるものである」という一定の設計を心の中に持っておって、そして「その通りに列びなさい」と統一的指令を出す譯です。

それと同じく、雪の結晶を、六角の結晶になるように分子に指令したところのものはなんでしょうか。この雪を構成しているところの水の分子≠フまだその上に、こう六角の結晶をデザインしたところの不思議なる知性=Aそれが存在して六角の結晶の「原型」を心に描いて「この如く列びなさい」と、そう指令したものだということが出来るのであります。

しかもその六角には中心があります。中心のある六角の結晶を設計したところの不思議な力≠ニいうものは、それは肉眼で見ると見えないのであります。見えないけれども必ず分子の知性以上の一層高き統一知性≠ニいうものがなくてはならぬのであります。

もっとも心*狽ヘ知性≠ニいうののは肉眼で見ようとしたって見えないのであります。皆さんは心≠ェあるけれども、心≠肉眼で見ようとしたって見えはしない。然し見えない心≠フ中に或る形を描くことは出来るでしょう。六角なら六角というものを眼に見えない心≠ェ六角の形を描くということは出来る譯であります。それが或る「形」を或る「形」たらしめるところの統一知性≠ナあります。

つづく

      <平成30年1月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8778)
日時:2018年01月22日 (月) 11時52分
名前:平賀玄米


ところで、アメリカに降る雪も、日本に降る雪も、北極に降る雪も、南極に降る雪も、みんな六角の結晶をして同じ設計を持っているということになったら、この雪を六角ならしめるところの広大なる統一知性≠ヘ、それは単に日本のお空にだけあるのではなくて、アメリカにも、南極にも、北極にも、何処にでも満ちている広大無辺な知性ですから「普遍的知性」「普遍の心」「統一知性」と呼ぶことが出来る。この普遍の統一知性を「神」というのであります。

そうすると、雪がこのような結晶の形をしているということは神が雪をかくの如く六角の結晶たらしめたのだということが出来るのであります。この根本設計は神の心≠フ中にあるのであります。従って、また人間がこういう形をして、眼が横につき、鼻が縦につき、口が横につき、耳が左右両方についているという風に中心≠ェあり左右釣合い型になっている設計も宇宙普遍の統一知性¢ヲち神≠フ宇宙創造の設計の中にある根本構図がそうなっているのだということになるのであります。

つづく

      <平成30年1月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8782)
日時:2018年01月23日 (火) 16時29分
名前:平賀玄米


       唯物論的人間発生論を駁(ばく)す

唯物論者は、生物の発生を、偶然に地球がある一定の温度になって、そこに何らかの水分があり人体の成分になる適当な炭素や、水素、酸素、窒素、燐その他、色々のミネラルが偶然に集まって、偶然の機会に化学作用がおこり、三十六度か七度位の温度になって「人間」又は「人間にやがて進化すべき原生動物」が発生したのであると解釈するのであります。併し、偶然に出来た人体の形だったら、偶然というものはそんなに沢山、揃って一定の形が出来るということがあり得ないのであります。

これは皆さんが実験してご覧になると分かるのであります。例えば画用紙に、人間の顔を書いて、その顔の道具を一つ一つ鋏で切り抜くのです。耳は耳の形を切り抜き、眉は眉の形を切り抜き、眼は眼の形を切り抜き、鼻は鼻の形を切り抜いて、その切り抜いた顔の道具を手で掴んで、それを机の上にでも、畳の上にでも、パラパラと落として御覧なさい。

その切り抜かれた紙は偶然にパラパラと落ちて、眉、鼻、口等が列ぶのです。その列び方は、決して常には正確に、眼が左右について、鼻が真中に縦について、口がその下についているというようには列ばないのであります。或る時は、眉が顎の所についたり、鼻が顔の横についたり、耳が頭の上についたりして変な形になる。而もその形は、実験する回数毎に配列が変わって、何遍やっても同じ目鼻立ちの形にはならないのであります。

このように、偶然に列ぶという形は、同じ形がそんなに度重ならないものだということがこれによって分かるのであります。ところが皆さんの顔を見ると、みんな眼が横について、鼻が縦について、鼻の下に二つの鼻孔があって、鼻孔が三つあいている人はない。そしてその下に口がついて、同じ設計になっている。そして、中心線に沿って、それが左右釣合型に配列されています。

これは偶然にそうなったのでではない。この形は日本人に於いて、そうであるだけではなく、支那大陸の人間も、アメリカ人も、印度人も、アフリカ人も、北極に住むエスキモーという珍しい人種も、総べての人類がそういう形になっているとすると、それを設計したところの知性≠ヘ地球上何処にも彼処にも普遍的に普(あまね)く充ち満ちているところの普遍的知性≠セと考えることが出来るのであります。

こうして全ての人間を設計し創造したところの広大無辺の普遍的知性≠称して、吾々は神≠ニいうのでありますが、そういう広大無辺な普遍的知性なる神様の設計によって皆さんは生み出されたのでありまして、あなた≠ェあなた≠ナあるという個性的な形(精神的及び有形的)は神様の“心≠フ中にあるのであって、決して部分品が勝手に集ってあなた≠ニいう“人間≠ェ出来たのではないのであります。

つづく

      <平成30年1月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8798)
日時:2018年01月24日 (水) 23時16分
名前:平賀玄米


       神の創造を貫く根本構図は“中心≠ェ一つあること

神に設計せられた形は、小は簡単な原子から、大は太陽系統に至るまで色々の形がありますが、その中で最も複雑で、神の如く、自主的に“想念≠起こして事物を創造し得るのは人間のみでありますから、「人間」は神のさいこうの自己実現であると、「生長の家」ではいっているのであります。

神の最高実現であるからこそ、宇宙の万物を見て神様の設計を知り、神様の御心を推し量ることが出来るのであります。前述の六角の雪の結晶も神様に設計せられたものであるが、原始的な簡単なものでありますが、それでも兎も角、神様の御心を知る事ことは出来るのであります。

その御心の最も根本的なものは、何かというと、神様が創造したすべてのものには“中心≠ェあるという事なのであります。そしてその中心は一つなんです。水素の原子核がヘリウム原子核になるように融合したら二つが矢張り一つになってしまうのだから、やはり“中心≠ヘ一つだといえます。

それが唯物論的に偶然に或る物体に“中心≠ェあるというのでは何の意義もないのでありますけれども、是は宇宙の万物を創造した「普遍的知性」の設計の中にある根本構図であるというところに深い意義があるのであります。既に中心があって、左右陰陽釣合型になっている根本構図は雪の結晶にも見られるし、植物の幹や葉脈にも見られるし、そしてそれらの生理作用を統一している意識は無形の中心であり「一つ」であります。

“中心≠ェ二つあったら、それは分裂病であり、病的であります。世界にも「一つ」の“中心≠ェなければならない。ところが今世界の国々は、残念ながら“中心≠ェ一つになっていない、分裂病の様相を呈していまして、国々互いに分立して、相争い、どの国が、“中心≠ゥ判らない。だいたい今は米国とソ連とが二大陣営の中心になっておるのでありますが、“中心≠ェ二つあるから喧嘩するのであります。

それだから、吾々は戦争が何時起こるか判らんというので常におびやかされていなければならないのであります。結局争いは、やがて争いのない安定のところへ落着く為の動揺であることは明らかでありまして、やがて“中心≠ェ一つになるという時代が来るということを吾々は察する事ができるのであります。

ところが、世界のどの国でも建国以来、連綿として一系統の“中心≠ヘ変わらないという神の「根本構図」を持続している国家は神武天皇が建国された日本国のみであり、これは、神の「根本構図」即ち「眞理」を如実に体現している唯一の国家でありますから、私たちは日本の国を「眞理国家」と称するのであって、私たちは是非ともこの世界に冠絶せる「中心帰一国家」「眞理国家」を護持しなければならぬのであります。

私は『我ら日本人として』という本に、仏教で曰う「蓮華蔵世界」の説明をしておいたのでありますが、「蓮華蔵」というのは蓮華の花の形を、理念(精神的原型)として、内に蔵するところの世界であるという意味であります。その蓮華蔵世界を国家として体現したのが日本国家であります。

つづく

      <平成30年1月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8804)
日時:2018年01月25日 (木) 12時23分
名前:平賀玄米

  
        『佛教の極意』というもの

佛教の極意というものは、宇宙の本当の姿 ――本当の姿というと實相です。宇宙の實相は、内部に金波羅華の花の相を理念として蔵しているのであります。内部に「理念」即ち神の造り給える「精神的原型」として蔵されている金波羅華の花の相というものは、どういう相になっているかというと、真中に蜂の「巣」みたいな子房があります。(『我ら日本人として』106P参照)そこから花弁が出ているのであります。

上から見たら、花弁が八方にこう出ているわけで、八方に展開した現象のすべてのものが一つの“中心≠ノ帰一している ――この姿が宇宙の實相(精神的原型)であります。これが即ち「ハイ」の姿であります。「ハイ」の相というものは、一切の存在には一つの“中心≠ェあって、その中心者にハイと帰一する姿であります。宇宙の一切のものには、この“中心≠ノ随う“ハイ≠フ姿が総(あら)ゆるところに現われているのであります。

それが国家として最もハッキリ現われているのが日本国家であります。それはさっき説明しました「雪」の結晶にも中心≠ェあって、そこから六稜形に設計の形が展開しています。どうしてこんなに美しい形が出来たかといいますと、「宇宙の知性」が、水の分子≠ノ「六角の結晶に列べ」と仰せられると、素直に“ハイ≠ニ一瞬のうちに、水の分子≠ェ六角の結晶に整列してしまったからです。それが釈尊の示された金波羅華の花の相にちゃんと現われているのであります。

この金波羅華を日本では蓮(ハチス)と言いますが、「ハチス」の華の形は「巣」が真中にあることを象徴したのであります。「ス」という語は、「統べる」の「ス」「統べて」の「ス」「枢機を握る」の「ス」であって、全てを一つに統べる所の“中心≠表現したコトバであります。

蜘蛛の「巣」でも、雀の「巣」でも、「巣」というものは一切の物がそこから生まれて、そこに帰るところの「もと」なのであります。巣のないものは浮浪者であります。すべてのものは、そこから生まれて、そこに帰るところの本元が中心≠ナあり、「ス」であって、その命令に素直に従って一切が統一されるとき、そこに秩序整然たる世界秩序があらわれ、国家秩序が完成し、そこに生きた生命現象が出て来るのであります。

つづく

      <平成30年1月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章 (8824)
日時:2018年01月28日 (日) 11時45分
名前:平賀玄米


       本当の自由は秩序ある統制で得られる

近頃、自由ということが非常に叫ばれておりますが、本当に物事が自由にスラスラと運ぶということは、中心≠ノハイと従う秩序があって始めて可能なのでありまして、したい放題をすることではないのであります。したい放題の教育をさせてくれなかったら、自由の侵害≠ナあると近頃に思う人が随分出て来ましたが、昨今問題になっている日教組の勤務評定反対運動の中にも、こうした考え違いがあるのであります。

彼らは「教育は自由である。どんな教育を施しても教育者は自由でなければならないのに、国家に統制されるということは怪しからんことである。それは国家権力によるところの自由の侵害である。」といって、中には天皇排撃、現在の社会秩序破壊の先兵として青少年を日本赤化運動に巻き込むための教育を施している日教組の先生もあるのです。

ところが、自由とは、したい放題をするというところに本当の自由があるのではないのであります。例えば東京の様な大都会で、皇居前とか、銀座通りとか、日本橋附近のような所に行きますと、もう自動車が無数に列で走っておって、その自動車が四つ角を通る時には必ず“ゴー・ストップ≠フ信号に従わなければならぬ。青い信号が出たら通ってもよろしい、赤い信号が出たら停まらなければいけない。

どんなに急用があり、「今、親が危篤であるから、どうしても一秒間でも早く行かねばならんのである。それなのに“ゴー・ストップ≠フ信号で、私の自働車をとめるのは自由の侵害である」といっても、全体の秩序ある自由のためには、そこに赤い信号が出たら必ず停車せんならんのであります。停車することによって衝突をさけ、全体の交通がスラスラと自由に行けるようになるのであって、あれは「自由の侵害」のように見えましても、全体の自由を確保し、安全を維持するためには個人の仕たい三昧は、統制しなければならんのであります。

つづく

      <平成30年1月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。


 尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第十章〜第十二章  (8839)
日時:2018年01月29日 (月) 13時53分
名前:平賀玄米

 
       「国家」は部分品の集りではない

勤評闘争の問題では、「教育が国家の権力の支配に入るということは、個人の自由と権利の侵害である」といって反対するのでありますが、日本国家には、日本国家を天皇中心の国家たらしめているところの“理念≠ェあるのであります。歴代変わらざる天皇中心の国家理念を覆し天皇排撃を教壇から教える教師がある以上、これを取締る必要は必ずあるのです。

前述の雪の結晶を考えてみましても、或は最初に引用した「奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)の公案」のあの“車≠フ部分品の譬えを考えてみましても、“車≠ノせよ、“国家≠ノせよ、一つの有機的な集りが出来るのは、決して部分品が思い思いに勝手に集って出来たのじゃないのであります。部分品を強調し部分品だけに、自由運動を許したら、“車≠烽ネければ、“国家≠ニいう物も何処にもない。ついに国家を破壊するに至ります。

人間一人一人をバラバラにして何らの統制もなく放置したら、「何処に国家があるか」と、奚仲が“車≠探したように探し廻らなければならなくなります。もうその時は国家はないのであります。それは恰も“車≠フ部分品を探しても何処にも“車≠ヘない。或は水素の“分子≠一つ一つ探しても“雪≠フ“六角の結晶≠ヘ何処にもないと同じであります。

一人一人の個人が国家を形成するということは、単に個人が集まったと云うことではないのであって、「国家の理念」というものが、先ず天降って、それが根本設計になって、個人個人という部分がおのずから集められて、そこに特殊の民族国家を形成することになったのであります。そうすると、国家の理念とか意志とかいうものに全体の国民が統制されることによって「日本」と日本国としての特殊の有機的国家が成立ち全体の国民もそれによって幸福を受け、自由を享受することが出来るのであります。

それなのに、現在の物情騒然たる日本国内の状態を見ますと、吾々国民の代表者が国会で議決して法案として定まったことでも、自由に都合が悪ければ集団の圧力によってそれを破壊しょうというような間違った自由主張の行き過ぎから、全体の国民が迷惑をするところの混乱状態を引起しているのは誠に自由の穿き違えであって、労働組合にゆるされている「資本家に対する団体交渉の権利」やストライキを、国家に対し、国民に対して行い、授業を放棄してしまったり、国民の交通を停止してしまったりして、彼らは自由を求めながらかえって国民に不自由を与えているのは、全体を統制する“一層大いなる知性≠ニいうものを認めないで、それに従うことを「屈従の倫理」と称して従わないからであります。

まことに本当の自由というものは“より大いなる知性≠ノ、中心帰一して行動することによってのみ得られるのであって、諸君は、秩序は中心帰一によって得られ、自由は秩序によって得られるということを知っていただきたいのであります。

今回にて第十一章は完、次回からは第十二章です。

      <平成30年1月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』     第十章〜第十二章 (8874)
日時:2018年02月04日 (日) 20時25分
名前:平賀玄米(マリーゴールド継いで謹写)

   
 合掌 有難うございます。

 平賀玄米様のご冥福をお祈り致しますと共に、平賀玄米様の意志を継がせて頂き、「第二青年の書」第十二章より、謹んで写させて頂きます。


          マリーゴールド 拝


        *************

    


    <第十二章 「新しき愛国心」と「眞の愛国心」>

         「赤い色」のついた愛国心

 愛国心というものが、近頃の復古調の波に乗って、大部盛んに叫ばれるようになっています。砂川基地や立川基地からアメリカさん立退いて下さいというような運動や、それらの基地拡張反対運動などもその一つのあらわれであると見ることができるのであります。沖縄に於ける反米運動などもやはり愛国心のあらわれであると考えられます。

 しかしこのような反米的な愛国心というものは無色の愛国心ではないのであって、「赤い色」のついた愛国心と謂うべきか、背後に「赤い色」の煽動があって、愛国心を巧みに煽ることによってソ連と反対側の勢力を駆逐して、ソ連支配の領域及び分量を殖やして行こうとする深慮遠謀によって操られている匂いが多分にするのであります。

 つづく


         <平成30年2月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』     第十章〜第十二章 (8875)
日時:2018年02月04日 (日) 21時05分
名前:平賀玄米(マリーゴールド継いで謹写)


       “前門の虎”と“後門の狼”

 このようなソ連的勢力の深慮遠謀は今に始まったことではないのであります。第二次世界大戦の末期に於て東欧諸国に於て結成せられた“民主民族戦線”の如きはその好適例なのであります。

 ナチス・ドイツの占領下にあった東欧諸国では共産党が中心となり、「ドイツの侵略から民族を解放せよ」というスローガンの下に「民主民族戦線」が結成せられ、ソ連軍の後援によってその目的を達することが出来たのでありました。

 しかしその目的が達せられた後がどうなっているかということを現実に照らし考えてみますと、まことに“前門の虎”をのがれて“後門の狼”の餌食になっているのであります。“前門の虎”というのは、いうまでも無く、ナチスでありますが、“後門の狼”はソ連であります。“後門の狼”は“前門の虎”のように、一ぺんに咬みついてズタズタに引き裂いてしまわない代りに、じっくり東欧諸国の美味しいお臀の筋肉にくらいついて血を啜って離さないのであります。

 つまり、東欧諸国を、永久にその生き血を啜るための生ま殺しの状態にしておいて、所謂る「衛星国」というものにして、ソ連本国の武備拡張の費用を飽くなき貧欲によって吸いとるため家畜の如き状態で飼いならしてあるのであります。

 そして今まで「愛国心」を煽り、民族精神を煽ってナチスを駆逐したところのその方策は、完全にかなぐり捨てられてしまって、民族精神を抑圧し、愛国心を圧迫して、ひたすらソ連の家畜となり奴隷となるように訓練しているのであって、この事は、ハンガリア国民がソ連の苛歛誅求に耐えかねて反革命運動を起こしたときに、ソ連が直ちに戦車隊をハンガリアに侵入させ、良民をふくめて数万名を立ちどころに虐殺して、ソ連の軍政下においてしまった事実を見ても、「赤い色」がバックに居て煽っている「愛国心」や「民族精神」や「アメリカさん帰ってくれ」の叫びには、その裏の裏があることをまず承知していなければならぬのであります。

 つづく

            <平成30年2月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』     第十章〜第十二章  (8896)
日時:2018年02月07日 (水) 16時50分
名前:平賀玄米(マリーゴールド継いで謹写)

       
          
何の目的に依って煽られている愛国心か注意すべし


 こうしてソ連的な陰謀によって煽られている民族精神や愛国心は、結局、日本そのものを愛するための愛国心ではなく、ソ連に対立するアメリカ勢力を駆逐するための手段として利用されている「愛国心」であり「民族精神」でありますから、「愛国心」そのものは貴いものであるけれども、いかなる場に於て、いかなる人によって、何を目的として、その「愛国心」があふられているかということを明かにみて、その時、その場、その人、その事に応じて善処しなければならないことを真に国を愛する人は豫め知っていなければなりません。

 赤い勢力は一方に於てアメリカ勢力の駆逐によるソ連の支配権拡大のために民族精神や愛国心を、或る「場所」又は地点に於て煽ってはいますけれども、アメリカ勢力が衰退して退却した場合に、ソ連が日本に支配権を及ぼそうとするならば、忽ち日本人の民族精神や愛国心というものは、ソ連駆逐の方向に反撃して来るおそれがありますから、そういう方向に向くおそれのある愛国心というものは絶滅しておく必要があります。

 それですから、局地的には立川や砂川基地に於ては基地拡張反対、民族精神復興、愛国心昂揚と煽っておきながら、他方に於て、愛国心というものは、「国を愛する」ために戦争を惹きおこしたのである。

 だから「国を愛する」という精神は西欧的な「個人を愛する」という精神と、個人の集団であるところの人類を愛するところの“人類愛”の精神に置き換えなければならないという点を強調するように、所謂る進歩的文化人の言論を通して指導しているのであります。

 つづく

             
<平成30年2月7日 謹写>  ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』     第十章〜第十二章 (8897)
日時:2018年02月07日 (水) 17時12分
名前:平賀玄米(マリーゴールド継いで謹写)

              
             「個」と種族だけを愛するのは「蟲」の道徳である


 併しながら、既に私は指導したことがありますように、「個」を愛するということと、その生物の種族を愛するということだけではそれは人間の進歩ではなく、「蟲」の本能に還ることなのであります。

 一個の蟲も、自分の個体の安全を愛し、自分の個体が幸福であり、その肉体が快感を得ることを望んでおり快不快による牽引反発の本能によって動いており、そして一方では種族を保護し保存するための性本能によって動いているのであります。

 即ち、「蟲」というような低級な生物は「個体」と「種族」との幸福だけのみに動いているのでありますが、人間が「個人」と「人類」(人間の種族)との幸福だけを目標として生活するのが正しい理想だと主張する如きは「個体」と「種族」の幸福だけを目標にして生活している“「蟲」の本能に還れ”というだけのことであって、何処にも「進歩」的だとみとめる点はないのであります。

 このような個人主義と人類主義を一種のすぐれたるヒューマニズムとして進歩的文化人と称せられる人達が説くのは、全く「進歩」という字義に反しているのであって笑止千萬な退歩なのであります。

 つづく

              
<平成30年2月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』     第十章〜第十二章  (8958)
日時:2018年02月19日 (月) 20時38分
名前:平賀玄米(マリーゴールド継いで謹写)

                 
 「新しき愛国心」の主張するところ

 ところがこの笑止千万なことが容易に受け入れられやすい状態に日本国民が置かれているのは過去の大東亜戦争に於て「愛国」という名のもとに国民の多くが駆り出され、しかも其の結果が敗戦であって国家的にも個人的にも非常に大損害を受けた。

 若し日本国民に愛国心というものがなくて、戦争に駆り出されても、全国民が戦争に反対して、検束されても投獄されても、断じて戦争に出ることを拒んだならば、このような惨めな結果には立至らなかったであろう。そう考えると愛国心というものはない方がましのものである。

今まで愛国心というものは、或る特権階級の権力欲や所有欲を充たすために、帝国主義戦争を遂行するために利用されたのである。だから愛国心を持つことは、又しても帝国主義戦争に捲き込まれるおそれがある。そのような愛国心は、それを精算して、人類全体を愛する心によって、取ってかわられなければならない。

 古来、幾億の人間が「自国を愛する」という執着と迷妄とのために、戦争に捲き込まれ自己の生命を失ったと同時に、他国人の生命をも奪ったことであろう。愛国心は人類進化の一道程として、集団する人間が他の集団からの危害をまぬがれるために必要なる団体精神の発露として必要な時代もあったのであるけれども、今では愛国心というものは必要ではなくなったのである。

 今は一国一民族を愛するのではなく、人類を全体を平等に愛する広々とした人類愛の精神を持たなければならない。その人類愛の精神を実践することを妨礙しているのがブルジョア階級である。飽くなき貪欲遂行のために戦争を計画し、軍需産業に投資して、戦争を煽ることによってその投資による利潤の拡大を希望し計画しているのが彼らブルジョア階級である。

 それだから人類全体を愛し、世界の平和を確保するためには、ブルジョア階級の戦争計画に対して、軍需品及び武器の生産から利潤を得ようとする彼等の計画に対して、ブルジョア以外の階級が団結して反対しなければならない。結局、日本国家をして人類全体の幸福に奉仕する国家たらしめることが、新しき日本国を形成するための「愛国心」でなければならない。

 それゆえに、真の「愛国心」とはブルジョア階級の戦争遂行計画に反対して、プロレタリアの“民主人民政府”の国家を形成するものでなければならない――斯ういう「新しき愛国心」を鼓舞することによって、そのブルジョア階級の戦争遂行計画の一部であるところの立川や砂川の基地、更に沖縄に於ける基地からの米軍の撤退、そして日本国自体の自衛軍の廃止を唱導計画しているので、赤色方面から指導されている現代の「平和運動」と結びついている「新しき愛国心」なのであります。

 つづく

              
<平成30年2月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』     第十章〜第十二章 (8963)
日時:2018年02月20日 (火) 21時04分
名前:平賀玄米(マリーゴールド継いで謹写)

「愛国心」と称しながら国家抹殺の陰謀である


 以上のような「新しき愛国心」は、表面なかなか反撃の余地のないほど堂々として立派なものでありますが、その根本は、西欧的な「個人」の幸福主義に立脚しているものであります。換言すれば個人の自由と幸福ほど尊いものはない。人類といえども、実は個人の集団であるという考えを基礎としています。

 彼らが人類愛というのは、個々の人間が自由と幸福とを確保することを得せしめる社会をつくるように行動し股は意志することであって、個人の幸福と自由とを縛るような国家というものは不要であるという考えを内部に有っているのでありあす。

 新しい愛国心とは「愛国心」といいますものの、実は「国家というものは不要である」という国家抹殺の考えにリードされていながら「愛国心」という美名によって、愛国者を既存国家の破壊の方向に導いて行こうとするのであります。

 すなわち既存の国家は「愛するに足りない国家」であるから、そのような既存国家を破壊して、すべての日本人の自由と幸福とを約束できるような新しい日本国家を造ろうとする運動精神が「新しい愛国心」と称せられているところのものであります。



      
理論よりもソ連側の実際行動を見よ


 こうして新しい愛国運動と平和運動とを唱導しているのが、ソ連側に指導せられている「新しい愛国心」であります。しかし理論はどのように合理的に唱導せられましょうとも、ソ連側の吾ら日本人に対してやっているところの実際行動というものを観察しますと、彼らは、決して日本人の個人個人の自由と幸福とを確保してやろうというような人類愛の精神で、このような「新しい愛国心」を唱導しているのではないのであります。

 それはハボマイ、シコタン、エトロフ、クナシリ等の日本古来の伝統的な領土を実力によって占拠して返還しようとせず、その近海に於ける北洋漁業の漁獲量を制限して、貧しき日本漁民の生活を益々貧弱に追い込むことによって、日本の領土を奪取したまま平和条約を結ぼうとするソ連の狡猾な「漁民人質外交」をやろうとしているソ連が、その世界征服運動の一環として、「アメリカさん立退け」「基地拡張反対」等の運動を、「新しい愛国心」に結びつけて煽動しているところに、言葉巧みに合理的に宣伝して、アメリカ軍の退陣の後に、日本をソ連の衛星国にしたい下心がうかがわれるのであります。

 だから彼らの言うところを本当に信じて、正直に伝統の日本的愛国心を打ち棄てて「新しい愛国心」などという甘言に乗ることはできないのであります。

 つづく

 
<平成30年2月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』     第十章〜第十二章 (8964)
日時:2018年02月20日 (火) 21時48分
名前:平賀玄米(マリーゴールド継いで謹写)

「新しい愛国心」の仮面を剥げば


 すべて此の種の個人が幸福で自由である国家をつくるという「新しい愛国心」への誘惑に乗り易いのは、その誘惑に乗る人間自身が「個人主義」であり、個体の自由と幸福とのみを願っている「蟲」に類似しているからなのであります。

 彼らは「国」というものを単に「個人が幸福を享受するための機関」であると考え、若し「国」というものが人民という個人個人の幸福や自由の享受を妨げるならば、そんな「国家」というものは解体しても差支ないと考えているのであります。

 従って彼らは「新しい愛国心」などと言って「愛国心」という語を使いますけれども、実は「愛国心」でも何でもなく、「今の国家を転覆して個人が幸福と自由を享受し得る新しい国を建てよう」という、国家破壊の革命思想を、人情の自然である「愛国心」という語に結びつけてカムフラージュしているにすぎないのであります。

 彼らは本当は二千六百年の伝統を持つ私達の「日本国家」の存続を希っているのではなく、個人の幸福と利益とを主張するために神武建国の国家を無視して、個人主義者の階級人の同志のみが横につながる連合をつくって階級闘争を劇化することによって、プロレタリアが国際的に連絡した人民政府を樹立するのが目的なのであります。

 その証拠は二千六百年の神武紀元を抹殺して二千年に短縮することに熱を上げたり、更に紀元節の制立にすら反対して、「紀元節をつくるならば、民主人民憲法の記念日である五月三日とせよ」などと提唱するので明らかなのであります。

 社会党なども、斯ういう主張をしている限りに於て私は彼らを反国家的だと見て信用できないのであります。彼らは神武天皇が建国して今に至るまで存続している「此の現実的な日本民族国家」を愛して、それを育成し改善し更にその意志をついで高度の人類愛に燃えている理想国家に到達せしめようとするような愛国心をもっているのではなく、階級闘争による「新国家の誕生」を愛する意味での愛国心なのであります。

 而も、彼らが二言目には必ずとなえる人類愛とかヒューマニズムとか称するものも、実は個々の人間全体を愛するのではなく、自己の階級的同志だと思われる一部の階級人士だけの利潤増加のためには、私鉄争議や国鉄争議を行って、一千万人の国民の脚を奪って迷惑をかけても顧みないところの似而非人類愛なのであります。

 これらの脚を奪われた一千万人は彼らの階級に属しないから「人類」の中には入らないとでも思っているのでしょうか。看板に偽りのあることを知らずして、「新しき愛国心」などという美名につられて、その運動に参加するならば、何時の日にか必ず背負投をくらわされる時が来るのであります。

 つづく

<平成30年2月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』     第十章〜第十二章 (9007)
日時:2018年02月26日 (月) 22時07分
名前:平賀玄米(マリーゴールド継いで謹写)

 
あらゆる人倫関係を包容調和する有機体国家

 
 それにしても、ソ連的な階級国家建設の陰謀のためという背景さえなければ、「個体の幸福と自由」のみを目的とする個人主義的人類主義が人間教育の理想でありましょうか。私は「否」と答えたいのであります。

 何故なら、それは前述した通り、「個体」と「種族」のみの幸福と繁栄を願う「蟲」の生活に退歩することだからであります。

 人間の生活が「蟲」よりもすぐれている所以のものは、「個体」と「種族」との幸福繁栄以外に、「個体」と「種族」との中間に大小さまざまの色々のグループ関係があり、その人間関係を調和した姿に於てすべて生かし切るところにあるのであります。

 親子関係という人倫関係、夫婦関係という人倫関係、生産及び交易団体としての人倫関係・・・・・・等、それ等様々のグループの人倫関係を調和した姿で包容しながら、それを民族的な愛のつながりに於て、結合している「国家」というグループの人倫関係・・・・・・これらの人倫関係は、たとえば下等生物が単なる単細胞生物として、単細胞なる個体と其の種族の保存とだけを目的としているに反して、かの高等生物が諸種の細胞グループを結合して色々の内臓をつくり、その内臓を統合する中枢脳髄をつくり、その相互間を一つの生命的統一状態で結合しているように、人間も次第に高級に進歩するに従って単に「個体」と「人類」以外に、色々のグループがつくられ、それを統合する「国家」という人倫関係が出来たことは、これは人類が「蟲」以上に進歩した証拠であります。

 それなのに、親子関係、夫婦関係、親族関係、生産交易関係・・・・・・等の人倫的関係を包容する「国家」を否定してしまって、単に「人類」「人類」と叫ぶことは人類の退歩だといわなければなりません。更に働く階級の一部分だけの利益を叫んで他の人間の交通の脚を奪って、恬として恥じざるがごときは、蟲類中でも蟻や働き蜂の種族にも劣るところの「人倫無視」行為だといわなければならないのであります。

 もっとも、私とても自己の属する国家のみを愛するあまり、国家の利益擁護のために、国際戦争が度々行われた歴史的事実を無視して、自己の属する国家のみを愛するのが人類の教育道徳だと言おうとするのではありません。全世界に平和が持ち来されるためには、自己の国家のみを愛する「愛国心」のほかに、自民族の国家を愛する如く、他民族の国家をも愛するところの超越的な、そして全包容的な愛国心が生まれて来なければならぬということを認めるものであります。そういう精神は現代では国連憲章の中に多少あらわれております。

 ところが日本民族国家の建国精神というものは、決して自国のみを愛して、他国の衰亡を希うというような侵略精神ではないのであります。日本国は既に二千六百年前に於て此の国連憲章に優るとも劣らない「世界総国家の大調和」の理想をもって建国せられたのであります。それは神武天皇の八紘為宇の建国の宣言によっても明らかであります。

 神武天皇の「八紘を掩いて宇と為さん」という神勅は、世界の各国がすべて家族として家庭の一員として仲好く繁栄するところの国家群となるための礎石として此の日本国を建てるという意味の宣言であります。その意味に於てこそ国号を「大和」と附けられたのであります。

 或る人の言う如く、神武天皇は九州から大和奠都に至るまでの道程に於て、或いは地方の豪族や酋長を帰順せしめ、或いは長髄彦の如き反抗する地方軍閥に対しては征戦の已むなきに到ったことは事実であります。併しそれだからといって神武天皇を「侵略者だ」と日教組に属する学校教員が生徒に教えた如きは、殊更に神武天皇の世界一家族主義の建国精神を傷つけんがために悪意をもって誹謗するものだといわなければならないのであります。

 神武建国以来日本の歴代の殆どすべての天皇は私心なく其の国民を自分の家族として、主師親の三徳をもって其の家族の福祉のために無我献身されたのであります。

 「朕が身体はどうなっても良い、国民をこれ以上苦しめたくない」という意味の大東亜戦争の終戦の勅語には天皇の無私に国民を愛される精神があらわれているのであります。古代に於ても支那、朝鮮方面から日本人を慕って帰化した人間が多かったのも天皇が国民をいかに家族として愛されたかの証左とすることができるのであります。

 こうして日本民族は多少は他民族の血が混っているにしましても、幾百星霜を経るうちに、その混血は、完全に一体となり現在の日本民族という「一つの血」の民族が形成されたのであります。

 国家を西欧諸国に見るような単なる利害関係による集団と見ないで、日本国家のような家族的に血のつながりに於て一体である民族の国家であると見る場合には、そこに行われる人倫関係というものは、決して階級闘争的なものであり得ないし、又あってはならないので在ります。

 国民は互いに血のつながる家族でありますから、其処に成り立つ倫理は、「闘争によって戦い取る」というような実力主義や、権利一点張のものではなく、「朕の身はどうなってもよいから国民を救けたい」というような自己否定的な「愛の原理」でなければならないのであります。私の尊敬する難波田春夫博士は其の著『祖国愛』に於て次の如く述べておられます。

 「自己否定的な人倫的愛の原理は、家において最も純粋に現われる。そこで、他の一層広い人倫はしばしばこの家を原型とし、家の拡充として考えられて来た。たとえば、まず第一に国家がそうである。一つの家が成り立つためには、家族全体の幸福を考えて行動する“あるじ”がなければならない。と同様に一つの国家が統一的な国家として存在するためには、私心のない、公的な、人民の利益のみを考え、それの実現だけを念願する主柱がなければならない。国家に於けるこのような“あるじ”が天皇である。日本民族は大和島根に二千年もの間、外敵の侵略を受けることなく混血した為、他の国に見られないほど純粋な血の統一を形成しているが、このような血の統一における中心が同時に以上の如き意味における精神的統一の中心でもある。日本の国はこのようにして天皇を“あるじ”とする家族国家ともいうべき形をとり、人民は赤子であると観念せられ、天皇と人民との関係は父子の間柄に比喩せられた。・・・・・・人民の間には利益の衝突がある。従って、もし天皇が私心のある存在であらせられるとしたならばその存在は、対立している人民のいずれかの側に有利であることとなり、利害の衝突はますます激化する。日本民族がその内部に於ける多くの変革を通じてなお一つの統一を保って来たのは、このようにして全然“私”を持たれぬ天皇が血縁的精神的帰一の中心となって来たからであった。日本の国家的統一を可能ならしめたものは、かくして天皇であった。」

 私が「国を愛する」という場合、その愛国心の対象となるべき伝統的な日本国家と称するものは、私が先に指摘した如く全世界の総国家を一つの家族たらしめる平和国家の礎石となるべき理想をもって神武天皇によって建国せられ、そして難波田博士が言われる如き歴代の天皇の私心なき聖徳によって国家的統一が完成されたところの「日本国」を指すのであって、マッカーサー元帥のサーベル圧力によって新憲法というものを新たに押しつけられた憲法記念日を建国祭又は紀元節とするようなそんな国家ではないのであります。

 日本の国の成立ちと其の建国の理想と、歴代天皇の無私の仁慈深き治世とが他の諸外国の成立や他国の王政のあり方にくらべると、ひときわ、あざやかに異ってすぐれていて、「八紘為宇」の御詔勅のその時から、既に「我が国こそ世界連邦の礎石とならん」という尊き理想をまず宣言して建国されたわが国の成立の如き素晴らしい建国のあり方は、他の何処の国家の成立にもないことなのであります。

 私たちは此の特殊にして大いなる使命と理想とをもって建国された二千六百年伝来の日本国家を愛し、その建国の理想を愈々吾々の努力によって発揮することこそ、日本人としての真の愛国心だと信ずるのであります。この真の愛国心さえしっかりと私たちが把握していますならば、日本をソ連の衛星国にするための「新しい愛国心」などと唱える誘惑や、階級的国家を新造するための「新しい愛国心」にあざむかれて、よろめく惧れなど全くないのであります。

 なぜならそのような階級的国家よりも、「愛の原意」によって私心なき天皇により世界平和一家族の礎石たるべく建国せられたこの伝統的日本国家は幾層倍すぐれていることを知るからであります。

 無論、武家政治時代や、軍閥専制政治時代に人民の自由と幸福とが剥奪されていたことはありえますが、それは決って天皇が武家や軍閥に押し込まれて単なる床の間の飾りとせられていた時代でありまして、真に天皇が表面に出られ、天皇国家としての日本国の実相が顕現された時代には、天皇は私心なく常に「朕が一身はどうなっても人民を幸福にしたい」という家族愛の原理によって統治せられていたのであります。

 私はこのような本来の伝統的歴史を担う日本国を限りなく愛せずにはいられないのでありまして、そのような愛国心のみが「真の愛国心」だと信ずるのであります。


今回にて第十二章は完、次回からは第十三章です。
(次回は3月下旬より、謹写予定です)

<平成30年2月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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