《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第七章〜第九章 (8418)
日時:2017年12月17日 (日) 09時21分
名前:平賀玄米

 
       <第七章 イエスとオスカーワイルドの対比>


      幸福(さいわい)なるかな、悲しむ者

新約聖書のマタイ伝の山上の垂訓にはこう書いてあります。

「幸福なるかな、悲しむ者、その人は慰められん」

これは決して悲しがって悲観して暗い心を持っている者に幸福が来るという意味ではないのであります。あまり順調に物質的幸福や肉体的幸福が豊かに来て備わっている者は、物質の豊かさや肉体の快楽に心を奪われていて、心が霊の方に振り向くことが出来ず、本当の霊的慰めというものが得られないということであります。

前述しましたオスカーワイルドは物質的裕かさと、美貌とを兼ね備え、ありとあらゆる肉体的快楽の中に浸りながら眞の美的生活がなんであるか、その肉体的快感に溺れ浸っている間は分からなかったのであります。


       「美」は道徳を超えていると彼は考えた

彼は今で言えば太陽族の元祖みたいな人で、美的感覚を生きることは“聖„を生きることだという見地からアセティック・コスチューム(美的衣装)というのを着て往来を歩いて、当時の保守的な
英国人を驚かしたりしました。今なら銀座街頭でも映画の観客席にでも、この種の衣装をつけていゾロリと長いスカートのドッシリとした衣装を着ていたような時代に、そういう貴族でありながら、その時代の紳士の風習に反して東西屋が着ているようなきらびやかな、毒々しい目立つ色彩の衣装を着て街頭を歩いたりしました。

その耽美的な思想はその作品の『サロメ』や『ドリアングレーの肖像』などにあらわれていますが、彼は「美」というものを存在の最高の世界に置いたのであります。彼は「美」をあらゆる道徳を超えたところのものであると観ました。「美」には悪も無ければ善もない、例えば赤い色は美しいとしても、赤い色は善でも悪でもない。

だから「美」というものは道徳を超えたところの神聖なる存在であるとしました。そして「美」を生きる生活即ち美しき生活 ――美的生活を生きることは、道徳を更に超えたる高い価値を生きることになるのだと考えて、それを生活に実行して、凡ゆる美しい衣装を着、あらゆる美しい物語を人生に造ることを最高の生活とした。

彼は「美」を最高の存在だと考え、それ故に美的創造である「芸術」を最高の存在とし、「芸術は人生に先立つ」ということを唱えたのであります。彼の有名な語(ことば)に「ロンドンの霧は詩人がロンドンの霧を詩にうたった時に存在に入ったのであって、詩人がそれを詩に表現するまでは存在しなかった」というのがあります。

物理的に言うならば、ロンドンの霧は、それを詩に唱おうが唱うまいがあるのでありますが、「人生」という立場から言うと、人の心がそれを認めなければいくらあってもないのであります。

つづく

      <平成29年12月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8431)
日時:2017年12月18日 (月) 10時29分
名前:平賀玄米


       人間の心がなければ現在の地球の形はない

よくこういうことを言う人がある。まだ生物が発生せず、人間が全部いない時に、地球はどういう状態であったかというようなことを言う人があるけれども、それを認める人の心がなかったら、現在人が認めているような「地球」なんてものはないのであります。「そんな筈はない、人間がみんな死んだって地球はあるだろう。地球が先ず在ってその上に人間が発生したのだ」と普通思うでしょう。

常識ではそう考えるでしょうけれども、人間の心がなければ、こういう形の地球は無いのであります。大体地球を丸いとみたりするのは人間の心が見るのであって、蟻だけが住んでいて蟻の心でこの地球を見たら又、別の姿の世界がここにあるのであって、人間の見る地球の相(すがた)は無いのです。

科学者の見た地球は一つの物質の固まりであります。科学によって地球の質量が測られる。そしてこの球体の物質的固まりは、人間が死んだとてやっぱりあると思う。それはあると思ってもよろしい。けれども、それは、見る人の「心」がなく、観察する人の心がなければ、それは丸い事も四角い事も、どんな一定の形もないのです。

科学者は曰います。「地球は物質の塊であって、それは分子が集まっているのだ」と。そして分子は原子が集まって出来ています。それは集まるといいましても、ギュウと分子同士が密着して固く
くっついているのではない。分子と分子の距離は分子の直径の千五百倍も離れていてバラバラとあるんです。

分子の一つ一つを星に例えると、その隔(はな)れかたは、星と星との間の空間ほど空いている。皆さんの頭の大きさを一つの分子の大きさと譬えたら、この講堂に一つだけしか頭がなくて、他は全部からっぽなほど空いている比率になっているのであります。

そういうバラバラの空間の方が余程多い地球をこう固まった存在だと見ているというのは、人間の心がそう見ているだけのことであって、分子と分子とが密着して固まった存在なんて何処にもないのであります。それなのに、人の心がそれを見て、隙間もなく広がった固体としての地球のかたまりだと見ているのであります。これを見る心がなければ地球はそんなガッチリした塊でもなければ、丸くもなければ四角くもないのであります。

また見る心があっても、それを表現しなければ、それは消えてしまって意識に印象されないのです。だから、オスカーワイルドが、「ロンドンの霧は詩人が詩にこれを歌った時に始めて存在に入ったのである」と言った言葉は必ずしも奇矯な語(ことば)ではないのであります。

結局、見る心がそれを言葉に現わした時、存在に入るのであります。言葉というのは、その広い意味では想念をも含むのです。心にそれを見、それが「霧」である云う想いを起こして、それを言葉に表現した時、始めてその霧が確乎とした存在に入ったのであります。

つづく

      <平成29年12月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8452)
日時:2017年12月19日 (火) 10時38分
名前:平賀玄米


『生命の實相』の自伝篇にある通り、私は早稲田の文科にいたころ、オスカーワイルドのそういう芸術論、人生論を読んで非常に感動したのです。このオスカーワイルドの「言葉で表現したものが存在に入る」という思想が実は生長の家の根柢にあるのです。

その時分は生長の家を拵えようとも何とも思っておらなかったが、青年の頃に読んだ思想はその人の全生涯を動かすことがあるものなのです。これがその実例であります。だから青年時代にはよい思想の本を読むことが大切であります。

それで、「ロンドンの霧は詩人がこれを詩に歌った時に始めて存在に入った」「芸術は人生に先立つのである」「人生は芸術を模倣するのである」というオスカーワイルドの人生論・芸術論を実践に移して人類光明化に応用したのが生長の家であります。生長の家で「人間は神の子である」「人間は病気にならない」という意味の言葉を芸術的文章でそれを現わしたら、人生がそれを模倣する事になったのであります。

それで「人間は神の子である、肉体ではない、霊であるから病気にならない」と言葉の力を極めて『生命の實相』に書いてある。それを読者が読むのですね。すると人生は『生命の實相』に書いてあることを模倣する、即ち、「人間は神の子であって、病気にならぬ」と書いてあるから、これを心読して心に深く印象すると病気にならぬということにもなるし、病気をしている人も治ることになるのです。

その代り、「病気になるぞ」という病理学や、通俗医学の本などを余り度々読んでおると、「人間は病気になる」という印象を潜在意識に受けて病気に罹りやすくなる。それは人生は言葉を模倣するのでありますから、そういうことになるのであります。だから言葉は創造者であるとも言えるのであります。現象界が現われてるよりも前に先ず、「始めに言葉あり」であります


つづく

      <平成29年12月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8480)
日時:2017年12月20日 (水) 10時10分
名前:平賀玄米


       言葉は創造者である

聖書に、「始めに言葉あり、言葉は神と偕にあり、言葉は神なりき、萬のものこれによりて成り、成りたるものこれによりて成らざるはなし」と書いてあります。このように、聖書も、「言葉が創造主(つくりぬし)である」ということを書いているのであります。それやこれやで、私は青年時代にオスカーワイルドを好きになって、オスカーワイルドの著書をすっかり集めまして、一所懸命読んだ事があるのであります。そして「僕もワイルドのように美的生活をやりたい」と思った事もあるのです。

その時分にはネオン燈みたいな色々の色彩の電燈はなかったのでありますから、僕は電燈に色々の色の風呂敷をかぶせて、部屋の色彩の雰囲気を換える工夫などをして楽しんだり、色々の感覚美の変化をもとめてやって見たこともあるのでありますが、オスカーワイルドの美的生活は単にただ色が美しい着物を着るというような生活ではないのであって、実人生に美しい物語を創作しようとしたのであります。

即ちありきたりの俗人の平凡な生活をしているようなことでは美しくないと思える。商売人見たいな生活や職工みたいな生活をしてみたとてそれは美的生活とは思えない。だから出来るだけ「美しい物語」を実際生活の上に創作しようというわけで、それで色々の「恋物語」を人生を舞台にして実際に実演することを始めたのであります。

ワイルドは非常に美貌で、名声のあがった芸術家ではあるし、金はあるし、貴族ですから、女を誘惑しようと思ったら、誰だって殆んどみんな引っかかってくる。そして色々の恋物語を人生の上に創作してみたけれども、感覚美の世界は繰返していると飽きて来ます。それでワイルドはもう女色には飽きてしまって、女性との接触では、もう「美しき生活」を送ろうと思っても送れなくなってしまったのです。

それで男色事件を起こして、それが法律に触れて、レーディングというところの刑務所に放り込まれたのでした。このことは前に述べましたが、彼がこのような過ちをその前半生に犯したのは、青年にありがちな性的興奮に導くところの、感覚的刺激≠美≠ニ解釈したところに間違いがあったのです。

つづく

      <平成29年12月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8491)
日時:2017年12月21日 (木) 11時34分
名前:平賀玄米


          愛こそ最大の美的存在である

ところがワイルドに感覚美以上に霊的な美があることを知るときが来たのでした。ある老人の、腰の曲がったひょろひょろの痩せ衰えた病人のような既決囚が、重い水桶を担いで、未決囚のところへ水を配達して来る痛々しいいかにも気の毒な姿を見たときに、ワイルドは「あぁ可哀想だ」と思って、「私がその水桶を代わりに担いであげましょう」といって老人の労苦の身代わりになってやった時に、その痩せさらぼうた老人が、実に嬉しそうな、何とも言えぬ、感謝と悦びにたえぬ表情をしたのであります。それを見た時に、ワイルドは始めて、本当に美しき生活というものは、愛の生活であると知ったのです。愛こそ世界最大の美的存在であると知ったのです。愛行こそ世界で最も次元の高い美的行為であるということを悟ったのです。

その愛は恋愛じゃないのです。美人を愛するのなら誰でも出来るのです。本当の愛はいと醜きものにすらなんら報いを求めることなき愛を注ぐことが出来なければならない。逆境に虐げられている憐れむべき人たちに同情の涙をかき垂れ、貧しき者や重荷を背負っているものの重荷を、代わりに背負ってあげるような愛でなければならない。或る色彩が美しいから愛するとか、その人の顔貌が美しいから愛するとか、肉体が若々しく美しいから愛する、とかいうようなそのような感覚を超えたところの無我の愛――これこそが、本当の「魂の美」であると感じたのです。そしてかかる愛こそ、本当に最高の「美」であるということを発見したのであります。

ここに於いてワイルドは「キリストこそ世界の最大の美的生活者であると知った」ということを、
彼の『獄中記』に書いているのであります。私はこのワイルドの『獄中記』を読んだ時に「ほかの人は美≠紙や布の上に描くであろうけれども、私は実の人生の上に愛の絵具をもって美≠描こう」と決心したのであります
。(『生命の實相』「自伝篇」参照)

その『獄中記』の中に、オスカーワイルドは「悲しみの奥には聖地がある」と書いているのであります。彼は今迄感覚美の世界に有頂天になっていた。行くところ可ならざるなく、したいことといったら何一つ出来ないものはない、素晴らしい美貌で、素晴らしい金持ちで、貴族で、賞讃を集めた作家で、そこには悲しみなど一つもなかった。しかしそれは有頂天に浮上っただけの生活であった。そこには肉体的興奮とマンボやカリプソやロカビリーのような、魂の反省を誤魔化す陶酔はあっても、魂がその實相の聖浄さを見詰める種類の聖地はなかった。

だから本当の天国はなかった。それは噴火山上の舞踏であり、地獄の火の僅かに消えて間の逃避に過ぎなかった。そこにあるものは結局、「朽ちる世界」のものであり、どんなに快楽を追求していっても、それは瞬間的なものであり、その快楽の次には疲労と憔悴と限りなき憂鬱とが満ちている世界であったのであります。

つづく

      <平成29年12月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8502)
日時:2017年12月22日 (金) 10時26分
名前:平賀玄米

       
     快感は非実在の幻影である

いくら美しい肉体の女と遊んで五色の酒を飲んで肉体を楽しましても、その快楽のいや果てには限りなき憂鬱が来る。だからショーペンハウエルは、「快感というものは本来存在しない幻影であって苦痛のみが実在である」というような厭世哲学をつくり上げたのであります。ショーペンハウエルの厭世哲学は仏教の「諸行無常」の印度哲学から影響を受けたと言われていますが、仏教の無常観というものは、「現象は無い」「無いから、あるかの如く見えていつも移り変わる」ということですから、「快感」だけが非存在の幻であって、「苦痛」のみが実在であるように「快感」だけを否定するのは片手落ちなのであります。

快感も苦痛も、ともに現象に属する限り、それらは幻影にすぎないのです。私たちは、そのような幻影を幻影と知り、現象を超えて、實相の世界にある常住の歓喜を知らなければならないのです。
そのためには現象の快楽の幻を追求する夢から醒めるために、一度その浮上った生活から、悲しみの深い底に墜落しなければならない。

あまりに現象の幸福に酔い痴れているワイルドのような人は、一度は「快楽の世界」から墜落して煉獄で味わう様な悲しみのどん底に到達し、その底をもぶち抜いていった時に、本当に、「悲しみの奥には聖地がる」とわかるのであります。

そこに肉欲や恋愛の仮面をかぶった性欲の恋愛ではない「本当の愛」というものが如何なるものかがわかって来るのです。ワイルドは現象的に謂えば最高の歓喜と幸福の絶顛(ぜってん)から墜落して刑務所まで落ちていったのです。恋愛的には愛している人には別れなければならないし、もう過去の様なしびれるような爛れるような「感覚の世界」の美はない。併し彼はその悲しみの底に於いて本当の美しきものを見出したのです。

その美しさは清く美しいものであって汚く肉体の粘液の中で悪の華のように絢爛と爛れ咲いているものではないけれども、深い常恆(じょうこう)の永遠に魂の底から賞讃の声の聞こえるような落着いた歓びであります。だからキリストは「悲しむ者は幸福(さいわい)なるかな、その人は慰められん」と教えたのであります。

今回にて第七章は完、次回から第八章です。

      <平成29年12月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8524)
日時:2017年12月23日 (土) 16時25分
名前:平賀玄米


           <第八章 愛の本質と其の段階に就いて>


       戦後の言語の混乱と人生

愛する」という事は如何なる事であるか、是は人間として生まれて生きて行く上に重大な問題なのであります。終戦後、此の「愛」という言葉が愈々混乱して使われるようになりまして、言葉の混乱は直ちに生活の混乱を引き起こしているのであります

例えば、或る青年があるお嬢さんに、「私は貴女を愛する」と言う。それはその青年の気持ちによって色々の場合があるでしょうけれども、或る場合には「私は貴女に性欲を感ずる」という意味の事を婉曲(えんきょく)に言うのであります。それでその女性も言葉の雰囲気で矢張り、そうだという意味だと察するのですけれども、「私だって貴男を愛するわ」とこう言います。

性欲の性„の字も言わずに、互いにそれを諒解している。諒解しないような顔をして諒解しながら、言葉と感情の綾を楽しみながら、遂に意気投合して、温泉マーク„などへ行って何やらをして、それで妊娠して人工流産をするというような人たちもあるようであります。

そう云う場合でも若い男女は「愛する」という言葉を使います。では本当の愛する„って言う事は一体如何なる事でしょうか。是をはっきり決めなければ、言葉にもてあそばれて、人生が翻弄されたものになるのであります。言葉の錯誤に翻弄されて人生を駄目にしてしまった若い男女は随分多いのであります。

つづく

<平成29年12月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8540)
日時:2017年12月24日 (日) 14時48分
名前:平賀玄米

 
       煩悩又は喝欲としての愛

大体、仏教では男女互いに愛する„という場合の愛„という言葉を煩悩の中に入れて、寧ろそれから遠ざからなければならぬ喝欲だとしているのであります。キリスト教では「神は愛なり」と言いまして、愛„という事は神聖な、神様的なものであるという風に考えたのでありますけれども、仏教では愛する„という事は愛欲によって粘りつくところの執着であるとしておりますから、釈迦牟尼仏が悟りを開かれた時の心境を、阿含経にはどう書いてあるかと言いますと、「諸愛悉く解脱し」と書いてあります。「諸愛」即ちもろもろの愛„を悉く解脱された状態が悟りの状態でありまして、この状態が佛になった状態なのであります。

佛„というのは、ほどける„即ち一切の結縛からほどけてしまった境涯をいうのであります。今まで欲望や執着でガンジガラメに縛りつけられておった不自由な心の状態からホドケて、自由自在になったのが佛„であります。諸々のものを愛して、それを放ち難く思う渇愛 ――渇きの時に水を求める様に、この財産も惜しいな、この娘も嫁にやるのは惜しいな、税金や献金は出すのは惜しいな、などと色々なものを心に掴んで放ち難く思っておりますと、それが執着というものであります。

執着していると、自分が自由を失ってしまうのであります。何でも掴んでおればもうこの手は自由を失います。マイクロホーンでもこうして私が掴むと、私の手はマイクロホーンに掴まれて自由にならない。放したら自由ですけれど、掴んだらもう自由を失う。「愛する」と言う事は、そういう「欲してつかむ」という意味からいうと、是は確かに煩悩であって、解脱しなければならないところの、あまり良くない心の状態であるという事が出来るのであります。

併し、パウロが言ったような「神は愛也」という場合の愛„という語(ことば)は、一体どういう意味を持っているのでありましょうか。神聖なる神の愛は、神様が人間のように何か欲しがるということはないのですから愛欲„というような欲ではないことは明らかです。仏教にも愛と云う字を使ったお経もあるにはあります。涅槃経には法愛„という字が使ってあります。

是は又神聖なる仏様の愛であります。併し何故、神聖なる法愛や神愛と、我々の執着の愛や煩悩の愛というものを、同じ愛という語(ことば)で表現するようになったのでありましょうか。それは、必ずや「神は愛也」という場合の愛„と喝欲の愛„というものを、同じ愛„という語で吾々が表現するのは、何処かに本質的に共通的なものがあるに相違ないのであります。そうでなければ、同じ愛„という言葉でそれを表現する筈がないと考えられるのであります。

つづく

          <平成29年12月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8552)
日時:2017年12月25日 (月) 11時55分
名前:平賀玄米

 
       神愛と渇愛とにある共通的な本質

それでは、神愛にも渇愛にも共通しているところの愛する„という事の本質は如何なる事であるかといいますと、それは「彼と吾とは一つである」というところの自覚、即ち「自と他とは、単に肉体で見るならば、互いに別々に分かれているように見えているけれども、本来一つのものである」というところの自覚が背後にあるのが愛„であります。その自他一体・彼我一体の本質から、それが或る場合には煩悩として働き、或る場合には捨身供養となるのであります

ここで「私は此の書物を愛する」と言う場合を考えてみます。書店に売っている本を「あの本欲しいなぁ」と思って、此の書物に愛著し、それを買い求めて持って帰って、丁寧に読んで、わが身体を大切にするが如く汚さないようにして又書棚に丁寧に立てかけて置いておく。

こういう場合にも、私たちは「書物を愛する」といいます。この場合愛„するというのは、この書物„と私„とは別れたくない、放したくない、吾が身体自身のように思う。即ち本来一つのものであるから、「もとの一つになりたい」という願いで、それを求めて、その本„と自分„とが一つ„になった感情であります。

つづく

<平成29年12月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。

      

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8561)
日時:2017年12月26日 (火) 11時27分
名前:平賀玄米

         「好き」と「愛する」との言葉の混同はどうして起こるか

「私は林檎(りんご)を愛する」というような場合を考えてみますと、この場合の愛する„という言葉は「好き」という言葉で置き換えられるものであります。「愛する」と「好き」とは往々混同せられるのであります。だから男が或る女に対して「僕は君を愛する」という代りに、「僕は君、好きだよ」というのであります。併し此の好き„という言葉には「愛する」という語程には深い意味がないのであります。好き„とか嫌い„とかいうのは、感覚に快い感じ又は不快な感じを与えるという場合に多く使われる語であります。

林檎を食べたら味覚に対して美味しいと感ずる。この場合「私は林檎は好きだ」と言う。それと同じ意味で、或る男の人が女の人に「僕は君、好きだよ」という場合を考えてみますと、それは「君は僕が食べたら美味しいよ」というような意味になるのであります。だからこそ「僕は君、好きだよ」といって、頬っぺたに喰らいついたり、肌にさわったりして、感覚からの快感をむさぼろうとするのであります。

女の人には、そうして肌にさわられたり、頬っぺたに喰らいつかれたりするのがまた感覚に快いので、その男の人を「好き」だというのであって、食べたら美味しいとか、触れられたら快いとかいう意味での好き„という言葉には多分にセックス的な意味があって凡そ「神愛」とは異なるものがあります。

「僕はどんな女でも好きだ」という人があります。それは或る特定の婦人を愛しているのではなく女体に共通なものがある、それに触れると快いから、「どんな女でも好き」というのであります。
こういう男は「好き」という代りに「可愛い」とか「愛する」とか言いますから、混同してはなりません。

“本当に愛する„ということは触れないでも愛するのでなければなりません。絵画でも美術工芸品でも愛する場合、それは目に触れるのですけれども、触覚的には触れないで、視覚器官に光が触れる、そして「あぁこの絵は美しいな。此の絵は僕好きだ」というのであります。こんな場合には皮膚に直接に触れておらないですけれども、光の波が来て眼に触れて感覚に快いという感じを与えるので、それを好き„という言葉で表現するのであります。

そして感覚に快い時、そのものを私たちは可愛がりたくなります。だから、可愛がる„という意味で愛する„という言葉が又そこに使われて来ます。そして好き„という言葉と愛する„という言葉との混同がそこに行われるという事になるのであります。

だからご婦人が或る男の人から「僕、君好きだよ」と言われた場合には、余程警戒しなければならないのです>。「君は僕が性的に触れたら快いよ」と言われているのかも知れないのであります。それは触覚的快感の対象としてその女を弄びたいという意味があるかも知れないのです。

つづく

<平成29年12月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8571)
日時:2017年12月27日 (水) 10時29分
名前:平賀玄米


       恋愛と性欲との混同

或る時、生長の家の飛田給練成道場へ二十歳位のお嬢さんが練成に来ていましたが、人生相談の時間に、道場責任者の徳久克己博士の処へ個人指導を求めに来たのであります。
「先生、私は恋愛したいんですけれども、恋愛しちゃいけませんか。生長の家じゃ恋愛することはいけないのですか」となかなか勇敢にハキハキと尋ねるのでした。

此の恋愛という言葉も、漠然とした言葉で、どういうことが本当の恋愛だか判らないのであります。
恋愛„と性欲„とを間違えている場合が随分あるのであります。
だから、その時徳久博士は、「君、その恋愛したいっていうのは、漠然とした言葉だが、一体君はどうしたいて事なんだね?具体的に言って見給え」とたずねました。

すると流石にその勇敢なお嬢さんも黙って俯向いていたそうであります。そこで徳久博士は、
「そんなら君の代わりに言ってやろうか。そうね、男の人と内緒で握手したり、キッスしたり、抱擁したりしたいっていう事だね」と言いましたら、
「まァまァそんな事なんですけれども、いけませんか?」とそのお嬢さんは言うのです。
そこで徳久博士が、
「それは君、恋愛じゃないよ、性欲だよ」と言ったという話があるのです。

つづく

<平成29年12月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8580)
日時:2017年12月28日 (木) 16時44分
名前:平賀玄米


       観相学上、性器の象徴としての唇

これは徳久博士の『愛情の分析』か『心の解剖刀』か、どちらかの本にある話ですが、大体人相の上から言いますと、唇というものは一体何を象徴するかといいますと、誰でも上唇の上に観想家の所謂人中≠ニいう溝が出来ていますが、是の人中≠ェ女の人の場合には“子宮≠表わしているのです。是の事は『生命の實相』新修版第二十巻に人相を観る方法≠ェ書いてありますから、これを読んで頂くと、人を指導する場合にも役に立つのでありますが、

兎も角人中≠ヘ女性の場合には子宮≠表わします。だから子宮の健全な人、そして血統の正しい由緒正しい生まれの女性というような人の顔を見ますと、人中≠ェ非常にくっきりと諸刃の剣みたいな形に彫刻したように深く美しく刻まれているのであります。

そういう人は、先祖に性的な乱れがなかったから、その正しき業のあらわれとして、子宮の発育が完全であるという事を表わしているのであります。ところが子供を一人も産まないような奥さんの人中≠見て御覧なさい。大抵あんまりくっきりと人中≠ェ刻まれていないで人中≠ェあるやら無いやら判らない程漠然として平坦な状態であります。こういう人は、子宮の発育が不完全である。だから子供が出来ていない場合が多いのでありますが、

そこで徳久博士が言われたのです。
「君、この唇は一体何を表わすか知っとるか。観相学では人中≠ヘ子宮を表わす。人中≠ェ子宮だったら、子宮の下の口のあいとるこの唇の処は一体何の象徴だね。そこを君、キッスするといって内緒でくっつけたいなんていうのは、それは恋愛≠ニいうものじゃなくて性欲≠ニいうもんだ」と言われたというのであります。

そういうように私は恋愛しています≠ニいうけれども、恋愛≠ニいうものが、非常に間違えられて、見る眼に美貌が快いから好き≠セとか肌がなめらかで触れて気持ちが好い≠ニか、兎も角感覚に触れて快いので欲しくてかなわぬというのを恋愛だと思っているが、実は、それは「愛」ではなくて、「性欲」なのであります。

色情帯にあるところの「唇」というものに触れて、間接的に性欲の満足を得たいっていう欲望を恋愛する≠ニいうのですから、大抵の「恋愛」の正体などというものは、もっと想像するよりも低いものが多いのであります。

「恋愛」と日本ではいうけれども、英語では「神様の愛」もラヴ(love)であるし、男女の愛≠焜宴煤ilove)であって、どちらもラヴであるから、西洋では一層混乱しやすいが、日本では単に「愛」という語と、それに恋という字をつけて「恋愛」という熟語をつくって区別しておりますが、どうも実際生活では混同されて非常に複雑になっているのであります。

つづく

<平成29年12月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8584)
日時:2017年12月29日 (金) 15時49分
名前:平賀玄米

    
  人間関係≠ヨの目覚め即ち社会性≠フ発達

聖書のなかでは「凡そ天国に入るものはこの幼児の如きものなり」とキリストが言っていますから、一寸考えると、子供というものは、非常に愛深く、神様の如く素直であり、柔和であると思えるのでありますが、子供によく接してみると必ずしもそうじゃないらしいのです。

石川達三氏が朝日新聞に連載していた『人間の壁』という小説の一節を読んでみると、「子供っていうものは大人の悪いところを色々沢山持っているものである」という事を書いているのであります。私は子供≠ニいうものは大人よりも非常に利己主義なものだと思うのです。

子供が聖書にある「幼児」の如く素直に動いているのは、生まれてからまだ半年位の赤ちゃん時代だけであるのです。この時代には子供は何処へ転がしておいてもその儘いう事をきいて素直に親のする通りに任せているのですけれども、もう物心がついて来て、二歳、三歳、四、五歳にでもなって来ると、所謂「憎まれ盛り」みたいになって来るのであります。

そして、ただ自分の欲望の満足だけを考えておって、自分の行動というものが、他の人にどういう影響を与えるかということなどはちっとも考えに入れないのです。つまり社会性が欠如しているのです。まるっきり自分というものが中心である。それは何故であるかというと、子供の意識は先ず触覚からはじまって自己の肉体の存在を知り、周囲のものは自分の肉体をよろこばすために奉仕するためにあるのだと思っている。つまりヒューマンリレーション(人間関係)ということが子供の心の視野の中には発達していないのです。だから子供は、自分の行動というものが、大人に対してどういう影響を与えるかという事は知らないのです。

大人が一所懸命に原稿を書いておっても傍らでドンドンと暴れまわったり、大きな金切声を挙げて叫びますし、周囲に対する遠慮なんて無い。ひとりだけが生きているのです。そういうように自分の行動というものが他に対してどういう影響を及ぼすかということが判って来るのは、もう少し年齢が生長して、子供の精神に社会性が発達して来てからであると思うのであります。

人格の向上というものは一つにかかってその人がどの程度までに社会性が発達しているかにあるのであります。社会性というものはその人の心の視野にどれだけ多くの他の人を包容するかをあらわすのであって、その発達はその人の愛≠フ発達だということが出来ます。

つづく

         <平成29年12月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8593)
日時:2017年12月30日 (土) 20時33分
名前:平賀玄米


       思春期に於ける愛の目覚め

幼児はまだ自分≠ニいうものだけに目覚めているだけであって、自≠ニ他≠ニの一体感というものがあまりハッキリ目覚めておらないのです。ところが、あまり幼い時に仕度い三昧をさせ、何でも求めることを叶えてやりますと、自己中心の性格が養われて、成人してからも、我儘の暴君みたいな人間になり勝ちです。人格の生長は「社会性」の目覚めの生長であると謂えるのであります。

子供が段々生長して所謂る思春期という時期になって来ますと、所謂る恋愛感情というものが目覚めて来ます。そして「僕あの人すきだなぁ」「あの人と常に一緒にいたい」「私、とてもあの人を愛するわ」というような気持が湧いて来るのであります。それは単なる個人的存在では理解出来ない感情です。一人は「一人」だけの存在ではない。一人では存在し得ない。「あの人の傍に居るだけでも、何となしに嬉しくってたまらない」「とてもあの人と別れては生きられない」というような感じが湧いて来るのであります。

そしてその愛する相手が嬉しそうな顔をしていると、こちらも嬉しい。愛する相手が悲しそうな顔をしているとこちらも悲しい。「彼女」と「私」とは別に電気のコードで繋がっている訳でもない。肉眼で見れば、肉体は別々に離れていて、全然別々の存在であるのに、それなのに「彼」と「吾」とは一体≠セという感じがして来るのであります。是が愛の目覚めであります。

つづく

     <平成29年12月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8621)
日時:2018年01月02日 (火) 20時10分
名前:平賀玄米

        愛≠フ種々の段階について

愛」にも色々の段階がありまして、恋愛は愛の目覚め≠フ最初の段階でありますから、唯二人きりの愛を主張します。「恋愛」というものは、愛の目覚め≠フ入門みたいなものですから、まだ著しく自己中心的なものが残っております。今迄は殆んど純粋に自己中心的であったところの子供が、思春期になるともう自己中心的でなくなって、「あの人の為ならどんな事でもしてあげたい」というような愛他的な考えが起こって来まして、それは愛他的といっても唯二人同士の愛他的関係でありますけれども、愛するという事を身≠もって、心≠もって体験するという事になって来るのであります。

けれども恋愛というものには多くの自己中心的な要素があって、二人同士は非常に愛するが、他人に対してはかえって排他的になって来て、嫉妬心というのが起こって来ます。恋愛し出すと、非常に排他的になるのは、他の人が二人切り≠フ生活に邪魔になる。「干渉されたり、覗かれたりするのはいやだ」という気持ちになって来るからであります。

その上、私の愛している人を他の人が可愛がるとすぐ腹が立って来ます。人間を独占したくなって来るのです。「この女(又は男)は自分のものであるから、他の人に一指もふれさせてなるものか」と思う。非常に排他的なのです。

これは恋愛感情というものが、所有欲や執着と絡み合っていて、まだ少年少女時代の自己中心が少し延長しただけのものだからです。「彼」と「吾」との二つだけに「自己中心」的興味が集中します。幼児期及び少年期の子供の愛は、殆んど純粋に「自己愛」でありますが、思春期には恋する男女二人だけがひとつだという自覚を得ます。しかし是以外には愛が拡大しないところの初歩の愛の段階が恋愛なのであります。

だからこの段階に於ける愛する≠ニいうことは煩悩≠ナあるというように釈尊が仰せられたのは無理がないのであります。この段階の愛≠ヘ執着であるから非常に他を縛り自分自身をも縛るから、恋する人は、大抵、心の自由がなくて非常に悩むのであります。そこから、心中したり、嫉妬心で殺人をしたり、色々社会の迷惑をかける問題を起こすのであります。

それは結局「縛る愛」だからであります。「縛る愛」は愛≠フ極く初歩であって愛≠フ高き段階にまで進んでいないが、人間は、或る時期に於いてそれを体験して、その最初の愛の段階を真の愛≠フ出発点として、そこから個人を超えて存在する「大いなる生命」との一体感を自覚するようになれるのです。肉体だけ見れば、全然他人であり、別個の存在である者を、自分の如く愛する≠ニいうところの、身をもってする体験が、はじめて恋愛に於いて味わえるのであります


そこから「人間は唯の物質的存在ではない」のだということが、体験を通して実感として味わわれて来るのであります。その実感から人間は既に肉体ではないから、本当に愛すると、肉体は死んでも死なないものを味わうのです。本当に愛したり、その愛した瞬間に「もう死んでしまいたい」と言う。「殺して、殺して、このまま死ねたら、うれしい」などと喘ぎ喘ぎながら嘆息するというような感情が湧いて来る事もあるのであります。

つづく

          <平成30年1月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8632)
日時:2018年01月03日 (水) 14時24分
名前:平賀玄米

       愛の拡大について

ところが愛≠ニいうものがその人の人格の生長とともに段々拡大して来ます。そうすると、その愛というものが単なる「二人だけの愛」だけではなく、単なる「家族だけの愛」でもなく、段々広くなって来ますと、更にその社会化が進んで参りまして、自分の属するグループを愛し、社会を愛し、階級を愛し、国家を愛し、更に進んで人類を愛するようになります。

マルキシストが労働階級を愛するというのも、人類の一部分を愛するのであって、全部を愛するのではない。彼らは同志愛≠ニいうことを言いますが、自分と志を同じうするものを愛するのであります。但しその愛は、グループに限られておるんであって、公平ではなく、偏りがあって、その包容力が広くないのであります。

この様な愛はまだ崇高な愛ではない。その愛が更に高まって来ますと、「人類愛」と呼ぶべき大いなる愛になって来ます。更にもう一つ大いなる愛になりますと、人類を超えて「生類愛」というものになって来ます。即ち生きとし生けるもの≠キべてを愛するところの、そういう宏大なな愛にまでなって来るのであります。一匹の虫といえども無駄には殺したくないという慈悲の感情などはそれであります。

今回にて第八章は完、次回から第九章です。

        <平成30年1月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8672)
日時:2018年01月08日 (月) 14時57分
名前:平賀玄米

 
           <第九章 愛の完成について>


        グレン・クラーク教授の実例

愛の完成ということは、「放す」ところにあるのです。グレン・クラーク教授の体験にこういう話があります。
或る日、グレン・クラーク教授の処へ電話がかかって来ました。
グレン・クラーク教授という人は、三十年間もイリノイ大学等の文学の教授をしておった人ですけれども、後に生長の家みたいな人類光明化運動 ――ニューソートの一派の運動 ――を興されまして、『クリヤー・ホラインズ』という『生長の家』のような機関雑誌を出して人類救済につとめていられます。そして、人の病気とか不幸とかが癒されるように祈って上げる仕事をしていられるのですが、非常にその祈りがきかれるので有名なのであります。

さてそのグレン・クラーク教授の処へ掛ってきた電話の声は若い奥さんの悲しそうな声なんです。
「先生・・・」と、半ば泣き声で「私の幼い坊やが病気なんです。そして唯今、百何度の熱が出てるんです」と言うのです。もっとも、体温はアメリカでは華氏で計るのです。摂氏では四十一、二度にあたるのですが、「唯今百何度の熱が出てるんです。五人の医者が立会っているんですけれども、みんな駄目だって言うんです。その子供は一分間に六回も引きつけるんです。

そして今、死んだように昏睡状態なっているのです。医者はもうこれは時間の問題で、死ぬって言っているんですけれども、先生、人に承りますと先生に祈って貰ったら治るそうですから、どうぞ祈って下さい。」
電話をきいているクラーク教授は、「よしよし、祈って上げます」なんて簡単には答えないのです。
「あんたね、祈って上げるけれど、あんた自身も祈らなくちゃいかん。」
「どう言って祈るんですか。」
「それはね、神様、御心ならば此の子供を天国にお引取り下さいませ≠ニ言って祈りなさい。」

クラーク教授がこう言いますと、若い奥さんの興奮した声が聞こえて来ました。
「先生、それは無理です。そんな無茶な冗談を言わないでおいて下さい。子供を天国へ位なら先生に祈ってくれと言いません。放っといても天国へ行きそうなんです。私は、その子供を天国へやりたくないんです。愛してるんです。治るように祈って下さい。」

「あんたはね、その子供を愛するって言ってるけれども、あんたは、その子供を愛してやしないんだ。それは執着だ。ラブじゃない、アタッチメントだ」とグレン・クラーク教授は言いました。アタッチメントというと、「ねばりつき」ですね。執着です。クラーク教授の冷厳な言葉が続きました。

「愛するということは、掴むという事じゃないんだ、放す事なんだ。例えば、あんたは小鳥を愛する≠ニ言って野原を自由に飛び廻っている小鳥を掴まえて来て、私は愛しているんだから、此の小鳥を私の傍へ置いときたいのだ。私は、その小鳥が目の前におって可愛らしい姿をして、ピイチクピイチクと鳴く姿を見ておりたいんだ、私は此の小鳥を愛しているから放したくないんです、と言うかも知れぬけれども、これは小鳥にとって迷惑な話です。愛するという事は、その生き物そのもののいのちが行きたい処へ行かしてあげる事が愛する事なんだ。

若し祈りがかなって、あんたの坊やが病気が治って段々出世をして上院議員(セネター)になったとすると、その時にホワイトハウスから招待状が来て、何月何日、大統領官邸にて上院議員たちの歓迎の晩餐会を催すから来てくれ≠ニいう光栄ある招待状が来たら、お母さん、あんたはどうするか?私はね、うちの息子を愛してるんだから、ワシントンの大統領官邸のような遠い処へやってなるものか、イリノイの田舎に、私の傍に置いときたいんです≠ネんて思いますか。本当に愛しとったら、そういう光栄ある処へ自由に行かしてあげるのが、本当の愛ではないか」こう言われたんです。

「・・・だけども先生。」
「だけどもではない。神様に今御心ならば私の息子を天国へどうぞお引取り下さい≠ニ言って祈るところの天国というところは、ワシントンの大統領官邸の何十万倍素晴らしいか知れない位立派な処なんですよ。そういう処へ引取ってやろうと神様が言っておられるのに、それなのに自分の息子は可愛いから自分の傍へ置いときたい≠ネんて言うのは、それは愛しているんじゃないんだ、ねばりつきだアタッチメント≠セ、執着にすぎないんだ。だからね、あんたの執着を放しなさい。御心ならば神様、此の子供を天国にお引取り下さい≠ニ言って祈りなさい」クラーク教授は、こう言われました。

そうしたら、その婦人は悲しそうな声で、「ハイ、判りました。有難うございました」と言って電話が切れたのです。それから五日ばかり経ちました。すると、又その奥さんから電話がかかって来ました。
「先生、有難うございます。」
「あんたの坊やどうしたんですか。」
「先生の仰るような気持ちになりました、そして祈りました。どうぞ神様、御心ならば此の子供を天国にお引取り下さいませ≠ニ祈りました。すると、その時から急に脈拍が変わったと医者が驚きました。そしてもうこの子供は峠を越した。もう治るしか仕方がない≠ニ言いまして、今では、もう大丈夫健康になるという保証附きになりました。有難うございます。先生のお導きのお陰でございます」と、その婦人の声は、明るい感謝と悦びの声で満たされていました。

つづく

    <平成30年1月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8678)
日時:2018年01月09日 (火) 11時07分
名前:平賀玄米

 
          放つものは生きる

そういうように、掴んでいたものを「放す」と本当に生命は生きて来るのであります。「愛するという事は「放す」ことであります
これと全く同じ話が日本にもあるのです。それはまだ赤坂に生長の家の花嫁学校がありまして、私が午後一時から一時間講義をして、その次の三十分間演壇の横に座ると、聴衆の中から相談したい事のある人が広間の花道みたいな処から来て私の前に座って尋ねる、それに私が返事しておった時分のことです。岡田たき子さんと言われる人がやって来られて、
「先生、私の娘は女学校の三年生ですけれども、それが腸結核に罹りまして毎日毎日下痢をして、ほんのちょっとしか食べないのに、沢山下痢をして、腕なんかこんなに細くなっているんです。
それで医者はもう駄目だと言ってるんですけれども、どういう心持になったら治るでしょうか、教えて下さい」こう言われました。

「あんたね、子供の事、心に心配し過ぎとる」と私は言いました。「だからその心配の心で子供を縛っているから、子供の生命が縛られて健康になれないのだ。心配をやめなさい。その子供の病気を心から放しなさい。なおります。」

そしたら岡田たき子さんは、「先生、私は『生命の實相』二十巻を六回繰返して読みました。だから先生の仰る意味はよく判ります。意味はよく判りますけれど、目の前に愛している子供が日毎に病気が重くなって、段々死んで行きそうなのに心配せずにおりなさい、心配して心で縛るからいかんから心配せずにおりなさいと仰っても、目の前に段々衰弱して益々悪くなって死んでゆく子供を見ながら、母親として心配せずにおれますか。だから心配して悪いんだったら、心配せずにおられる方法を教えて下さい」とこう言われました。

「そんなら教えてあげよう」と私は言いました。「あんた、そのお嬢さん今死んだと思いなさい。」
岡田たき子の顔色がサッと変わりました。
「もう死んだと思ったら、これ以上悪くなるかも知れんという心配はいらん」と私はキッパリ言いました。ちょっと冷淡のようですけれども、これが愛深き冷淡≠ニいうものです。
その時、岡田たき子さんは目を瞑って、恰も自分自身を強いて納得せしめるかのように三度頷かれた。

そしたら目頭と目尻とから、大粒の涙が三粒程出て頬の辺に引っかかりました。そうして目を開いてその涙の溢れる眼で私の顔をじっと見て、
「先生、判りました。有難うございます」こうお礼を言って静かに帰って行かれました。母としてどんな気持ちだろう。私はその後姿をみて、拝みました。

つづく

    <平成30年1月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。


 尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第七章〜第九章 (8692)
日時:2018年01月10日 (水) 22時56分
名前:平賀玄米

 
        終に愛は完成した

それから一週間程した時、岡田たき子さんがやって来られて、
「先生、御蔭で娘が救(たす)かりました」
「どっちへ救(たす)かったですか」と私は言いました。「生きる方ですか、死ぬる方ですか、どちらへ救(たす)かったのですか。」
「生きる方へ救(たす)かりました」こう言われたので、私もホッと胸を撫でおろしました。
「あれからどうしたですか」と私はたずねました。
「先生にああ言われましたので、私はもう娘を自分の心から放そうと決心いたしました。そして帰りにあの新宿の中村屋で、子供がいつも好きだと言っていたお菓子を、うんと山盛り買いました。

そして隣の二幸≠ニいう食料品店で果物を沢山買いました。そして、私の娘はもう死んだのだから、野辺送りの葬式(おとむらい)の供え物であると、いうつもりでそれを持って帰りました。

いつもなら腸結核で何を食べても毎日下痢するから、なるべく下痢しない様にと思ってあれ食べたらいかん∞これ食べたらいかん≠ニ言って警戒しておったのですけれども、もう私の娘は死んだのだから、何食べてもいいというような放つ気持ちで、あんたもう死んだんだから≠ニ娘に言うと娘がショックを受けるでしょうから、そうは言わんけれど、その意(つも)りで

あんたはね、もう何食べてもいいんですよ。お母さんはね、あんたの好きなものをこんなに沢山買って帰ったから、どうぞ好きなだけおあがり≠ニ言って出したのです。その時は、食欲がなくて食べませんでした。けれどもその翌朝から俄然として食欲が増して、それ以来、もう普通の大人みたいに食事をとりまして、もうあれから一週間足らずですけれども、寝床をあげて、家の中だけではもう元気に動いておりますから、この分なら、もう一ヶ月もしたら学校へ行けるようになると思います。有難うございます」と言われましたが、本当にその通りになったのです。

それからそのお嬢さんは体格も非常に立派になられまして、共立講堂で何時か生長の家の講演会がありまして、あんまり一杯満員で折角来た聴衆を五百人ばかり帰って貰った事がありますが、その時に、私の講話の前座にそのお嬢さんが体験談を仰って下さいました。

よく肥えて、少女にしては肥え過ぎて、肩なんかの肉が隆々としてるほどでした。このお嬢さんは今尾道市の近くの松永という処に住んでおられて、三人ばかりの子供のお母さんとなり、健康で良い家庭を持っていらっしゃいます。こういうように、愛の完成は「放つ」ということによって成就するのであります。

親が子供を愛する≠ニいって子供を掴んでいると、本当に子供の生命を生かす事にならない。本当に愛するという事は、掴まないで、そして、その相手の内にあるところの「神なる、完全なる本性」を伸びるようにしてあげるのが、本当に「愛する」という事であります。

これは親子関係だけではなく、青年男女の恋愛関係でも同じことです。ある異性を愛しても、相手を強いて心で掴み過ぎると、却って反発してその人から逃げ出したくなります。愛する相手を、相手そのものの幸福になるように、放す気持ちでいるとかえって自分のところへ帰って来るものであります。

今回にて第九章は完。次回から第十章です。

    <平成30年1月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。



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