尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』 第七章〜第九章 (8431) |
- 日時:2017年12月18日 (月) 10時29分
名前:平賀玄米
人間の心がなければ現在の地球の形はない
よくこういうことを言う人がある。まだ生物が発生せず、人間が全部いない時に、地球はどういう状態であったかというようなことを言う人があるけれども、それを認める人の心がなかったら、現在人が認めているような「地球」なんてものはないのであります。「そんな筈はない、人間がみんな死んだって地球はあるだろう。地球が先ず在ってその上に人間が発生したのだ」と普通思うでしょう。
常識ではそう考えるでしょうけれども、人間の心がなければ、こういう形の地球は無いのであります。大体地球を丸いとみたりするのは人間の心が見るのであって、蟻だけが住んでいて蟻の心でこの地球を見たら又、別の姿の世界がここにあるのであって、人間の見る地球の相(すがた)は無いのです。
科学者の見た地球は一つの物質の固まりであります。科学によって地球の質量が測られる。そしてこの球体の物質的固まりは、人間が死んだとてやっぱりあると思う。それはあると思ってもよろしい。けれども、それは、見る人の「心」がなく、観察する人の心がなければ、それは丸い事も四角い事も、どんな一定の形もないのです。
科学者は曰います。「地球は物質の塊であって、それは分子が集まっているのだ」と。そして分子は原子が集まって出来ています。それは集まるといいましても、ギュウと分子同士が密着して固く くっついているのではない。分子と分子の距離は分子の直径の千五百倍も離れていてバラバラとあるんです。
分子の一つ一つを星に例えると、その隔(はな)れかたは、星と星との間の空間ほど空いている。皆さんの頭の大きさを一つの分子の大きさと譬えたら、この講堂に一つだけしか頭がなくて、他は全部からっぽなほど空いている比率になっているのであります。
そういうバラバラの空間の方が余程多い地球をこう固まった存在だと見ているというのは、人間の心がそう見ているだけのことであって、分子と分子とが密着して固まった存在なんて何処にもないのであります。それなのに、人の心がそれを見て、隙間もなく広がった固体としての地球のかたまりだと見ているのであります。これを見る心がなければ地球はそんなガッチリした塊でもなければ、丸くもなければ四角くもないのであります。
また見る心があっても、それを表現しなければ、それは消えてしまって意識に印象されないのです。だから、オスカーワイルドが、「ロンドンの霧は詩人が詩にこれを歌った時に始めて存在に入ったのである」と言った言葉は必ずしも奇矯な語(ことば)ではないのであります。
結局、見る心がそれを言葉に現わした時、存在に入るのであります。言葉というのは、その広い意味では想念をも含むのです。心にそれを見、それが「霧」である云う想いを起こして、それを言葉に表現した時、始めてその霧が確乎とした存在に入ったのであります。
つづく
<平成29年12月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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