尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』 第四章~第六章 (8219) |
- 日時:2017年11月26日 (日) 10時08分
名前:平賀玄米
物質は存在しない
物質というものは、それを細かく割れば分子となり、更に割れば原子となり、原始を更に割れば電子とか陽子とか中性子とかいうような素粒子となる。その素粒子も又消えてしまう。そして終いに眞空になってしまうのです。最近の物理学の研究によりますと、素粒子の中には一億分の二秒しか存在しないというような、極く僅かな時間だけパッと姿を現して消えてしまうようなものもある。
一秒間でも存在するというのだったら大したものだけれど、一秒の一億分の二しか存在しないというような、そんな素粒子は、パッと現れたかと思うと、もうすぐ消えて無くなっているのです。結局「無い」のです。その「無い」もの(素粒子)が集まって、色々の姿を現しているのが物質だというのですから、物質なんてものは實在しないということがわかるのです。
神のみが實在する
併し「無いもの」なら、その中から「素粒子」も生まれて来る筈がないという事になるわけであります。だから何らかが「無」の奥になければならない。そこで「物質はない」のだけれど、その「無いもの」を現しめるところの何らかの「不可思議な力」が宇宙にあると認めざるを得ないのです。物質は無いが、その無い物質をあるかの如く現わしめるところの「不思議な力」がある、それは非物質の不思議な力でありますから、「霊的力」であるというわけでありまして、それが宗教家の説く神にあたるのであります。神が一切の原因者で神一元であります。
私たちのようなこういう人間の姿が現われているのは以上述べました通り宇宙に充ち満ちているところの「不可思議な力」が、この様に現わしているのであって、この人体の内部に「生命」として働いているのは、その「不可思議な力」そのものであるのであります。その「不可思議な力」が人間そのものでありまして、肉体はその顕現(あらわれ)にすぎないのであります。
實相を観る神秘的体験
今熊本にいらっしゃると思いますが、倉鉢峰子さんといわれる人があります。この人は幼い時名古屋で育てられた人でしたが、あの辺りは“真宗〟の盛んな土地でありまして、家代々“浄土真宗〟を信じておられて、彼女も幼い時からお経を読み、又『正信偈』を誦(ず)したりしまして、親鸞聖人の教えを非常に鑚仰(さんぎょう)しておられたのであります。
ところが真宗の或るお寺で説くところでは「罪悪深重の凡夫がそのままで救われる」と言います。その「そのまま」の意味がどうも判らないのであります。罪悪深重の凡夫がそのまま救われて浄土へ往くと教えられるのですけれども罪悪深重の凡夫が、罪深いそのままで極楽へ往きましても、場所が変わっただけで、やくざばかりが集まっていてはそこは決して極く楽しい世界になりようがないのであります。
極楽浄土という一区画へやって貰うだけで、性根が変わらないままで、幸福になれるかどうかは問題なのです。それは例えば泥の中で育った泥臭い鮒が、網で掬われて、清らかな水の中へ入れてもらっても、矢張り泥臭い鮒は泥臭いのと同じであります。だから人間が、罪のままで救われて極楽へ往ったところが、色々の貪欲や攻撃精神を持ち続けていたら、幸福になれるかどうかという事は問題であります。
つづく
<平成29年11月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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