《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』        第四章〜第六章 (8215)
日時:2017年11月25日 (土) 09時50分
名前:平賀玄米


          <第四章 すべての人と物との實相を見よう>


      知性あるエネルギー

物理学が発達して来て、「物質」というものは決して容積をもった分割した塊が本物の相(すがた)ではなく、「知性を持ったエネルギー」が、その知性に従って色々の相を現じたものだということが判ってまいりましたが、その「知性を持ったエネルギー」を「霊」というのであります。

そこで吾々は、凡てのものを観るのに、それぞれの体又は形を観るだけではなく、霊の眼をもって實相又は本質を観なければならないのであります。体は顕現(あらわれ)としての仮の相でありますから、それだけを見て、それを事物の本体だと思ってはいけないのであります。

     
      現象は無常である

現象の事物は、丁度カメレオンの皮膚みたいなものであります。カメレオンという蛙みたいな小動物がありますね。虫を捕捉するのに舌の長いのを腸を吐き出すみたいにシュッと発射して、それで虫を取って食う動物でありますが、この動物の皮膚の色が保護色で始終変わる。黄色い色がカメレオンの色であるかと思っていると、そうじゃないので、すぐ周囲の色に応じて土色をしている。或る時には木の葉の緑の色をしているというふうに、始終色が変わる。これが現象であります。

現象というものは始終変わっている。現象はこのカメレオンの皮膚みたいに始終変わっているのですけれども、“カメレオンそのもの≠ヘ変わらない。それと同じ事です。始終変わっているのは本来無いからです。生長の家では「現象は無い」と教えています。“遷(うつ)り変わるもの≠ヘ「本来無い」のであります。

それは、カメレオンが黄色い色をしている時に天然色写真を撮ったら、黄色く写る。或は赤い色をしている時に撮ったら赤い色をして写るかも知れんけれども、その赤い色も黄色い色も、本来無いのです。無いからこそ、それは消えて又別の色になってしまうのです。カメレオンそのものはあるけれども、黄色い色のカメレオンは無い。そういう色を見せているだけの事です。

そのような訳でありまして、現れて見えるのは、只現れて見えているだけであって、無いのである。本当にあるのは「霊的實在」だけであるというのが眞理であります。

 
      事物の實相は霊である

>「霊的實在」が人間であり、カメレオンに限らず凡ての事物は悉く「霊的實在」ばかりであります。

「変化する」ということは一体何であるかというと「黄色」が「赤い色」に変わるとか、「赤い色」が「青い色」に変わるとかいう事は、前のものが消えて、次の別のものが出て来るという事であります。又その次の別のものも、やがては、消えて又別のものが出て来るという事であります。

在った如く見えたものが消えて、又別なものが出て来るという事は、一体如何なる事でありましょうか。「本当に在る」ものであったら、それは消える筈は無いのであります。本当に在るものは絶対に消えない。消えるものは初めから無いから消えるのであります。雪が日光に曝されて消えるのは、雪は一つの状態であって實在ではないから、その状態をあらわす因縁の変化によって消えるのであります。物質も、あれは本来無い、因縁の結合に過ぎないから消えるのであります。

つづく

       <平成29年11月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』      第四章〜第六章 (8219)
日時:2017年11月26日 (日) 10時08分
名前:平賀玄米

 
       物質は存在しない

物質というものは、それを細かく割れば分子となり、更に割れば原子となり、原始を更に割れば電子とか陽子とか中性子とかいうような素粒子となる。その素粒子も又消えてしまう。そして終いに眞空になってしまうのです。最近の物理学の研究によりますと、素粒子の中には一億分の二秒しか存在しないというような、極く僅かな時間だけパッと姿を現して消えてしまうようなものもある。

一秒間でも存在するというのだったら大したものだけれど、一秒の一億分の二しか存在しないというような、そんな素粒子は、パッと現れたかと思うと、もうすぐ消えて無くなっているのです。結局「無い」のです。その「無い」もの(素粒子)が集まって、色々の姿を現しているのが物質だというのですから、物質なんてものは實在しないということがわかるのです


       神のみが實在する

併し「無いもの」なら、その中から「素粒子」も生まれて来る筈がないという事になるわけであります。だから何らかが「無」の奥になければならない。そこで「物質はない」のだけれど、その「無いもの」を現しめるところの何らかの「不可思議な力」が宇宙にあると認めざるを得ないのです。物質は無いが、その無い物質をあるかの如く現わしめるところの「不思議な力」がある、それは非物質の不思議な力でありますから、「霊的力」であるというわけでありまして、それが宗教家の説く神にあたるのであります。神が一切の原因者で神一元であります。

私たちのようなこういう人間の姿が現われているのは以上述べました通り宇宙に充ち満ちているところの「不可思議な力」が、この様に現わしているのであって、この人体の内部に「生命」として働いているのは、その「不可思議な力」そのものであるのであります。その「不可思議な力」が人間そのものでありまして、肉体はその顕現(あらわれ)にすぎないのであります。


       實相を観る神秘的体験

今熊本にいらっしゃると思いますが、倉鉢峰子さんといわれる人があります。この人は幼い時名古屋で育てられた人でしたが、あの辺りは“真宗≠フ盛んな土地でありまして、家代々“浄土真宗≠信じておられて、彼女も幼い時からお経を読み、又『正信偈』を誦(ず)したりしまして、親鸞聖人の教えを非常に鑚仰(さんぎょう)しておられたのであります。

ところが真宗の或るお寺で説くところでは「罪悪深重の凡夫がそのままで救われる」と言います。その「そのまま」の意味がどうも判らないのであります。罪悪深重の凡夫がそのまま救われて浄土へ往くと教えられるのですけれども罪悪深重の凡夫が、罪深いそのままで極楽へ往きましても、場所が変わっただけで、やくざばかりが集まっていてはそこは決して極く楽しい世界になりようがないのであります。

極楽浄土という一区画へやって貰うだけで、性根が変わらないままで、幸福になれるかどうかは問題なのです。それは例えば泥の中で育った泥臭い鮒が、網で掬われて、清らかな水の中へ入れてもらっても、矢張り泥臭い鮒は泥臭いのと同じであります。だから人間が、罪のままで救われて極楽へ往ったところが、色々の貪欲や攻撃精神を持ち続けていたら、幸福になれるかどうかという事は問題であります。

つづく

       <平成29年11月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8225)
日時:2017年11月27日 (月) 09時31分
名前:平賀玄米

  
   境遇を変えてみても心が元の儘では不幸がつづく

境遇さえ変えれば、幸福になれると思う人は随分あります。何処か嫁入先を替えたら、人間は幸福になれるかと思って、今居る所が辛いとすぐ他家へ替ろうかと思う人がある。そんな人が、心が一変しないでいて他家へ替ったら矢張り同じような境遇が出て来るのであります。『生命の實相』の中にもそういう実話が何処かに書いてあります。

それはどういう話かというと、富山県に或るお嬢さんがあって、或る家へお嫁に行ったのです。そしたら姑さんがまことに深切な姑さんで、ご飯を食べる時に、お給仕をお嫁さんにして下さる。二杯目までは気持ちよくお給仕して下さるけれども、三杯目になると、そのご飯を入れたお櫃の蓋の上に頬杖をついて、もうお給仕しようとなさらないのです。

それを無理に「済みませんが、もう三杯目を下さい」とは、とても嫁として遠慮して言えないというわけです。それなのに毎日毎日重労働に近い家事の仕事をしているのですから、もうもう腹が減って、腹が減って、堪らない。「もうこんな所はとても務まらないからやめよう」と思いまして、離婚してもらったのです。そして、今度はもう絶対姑なんかの居る所へは行かんと決心しておったのであります。

そのうち縁談がありまして、今度は又別のお婿さんの所へ行ったのです。「今度は姑の居ない所だから大丈夫だ」と思っていたら、そのお婿さんが深切なお婿さんで、またしてもお給仕をして下さる。そして二杯目までお給仕をしたら、三杯目は又お櫃に肘をついて、惚れ惚れとその奥さんの顔を見詰めていらっしゃるのです。それで、今度は姑さんでないから遠慮なしに「あなた、もう一杯よそって下さいよ」と言いますと、良人は「僕はね、痩せた女が好きなんだよ」とこう仰るのです。

そしてやっぱり三杯目のご飯は盛ってもらえなかったと言います。そういう実例があるように、姑がいじめると思って、今度は姑の居らん所へ行きましても、又同じ事を他の人が自分に仕向けるというようなわけであって、結局自分の心境が変わらなければ、場所を何処へ替わって行っても、同じような類のものが出て来るのであります。だから結局、自分の心の姿を身辺に映して、それを自分の環境としてみるという事になるのであります。だから罪あるままで、罪業深重の罪深い人間が、その悪い習慣精神を持ったままで、極楽浄土という所へやって貰ったところで、本当に幸福になれるかどうかという事は疑問なのであります。

その代りにもし自分が観世音菩薩みたいな素晴らしい心境になっておりましたら、たとい観世音菩薩を地獄へ放り込んでも、きっとその地獄がたちまち周囲が極楽浄土のように楽しくなるだろうと思うのであります。ですから罪がある儘で南無阿弥陀仏と唱えたら、極楽浄土へやって貰えるだろうなんていうような甘い事を考えていても、そうは問屋が卸さないわけです。罪あるままでは、どんないい所へやっていただいてもあまり極楽じゃないと考えていて差支えないのであります。

つづく

       <平成29年11月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8231)
日時:2017年11月28日 (火) 09時43分
名前:平賀玄米


        「宗教的に救われる」とは罪が消えること

ですから宗教的に救われるという事は、つまり、心がクラリっと変わって、罪がなくなることでなければならないのです。罪というものは、「罪業」と業を付け加えた熟語がありますが、過去世から何べんも生れ代って、その間に積み上げて来た罪、積み上げて来たところの業、業というのは、言葉の業、心の業、行いの業、口と心と行いとの三つの業に大別出来ますが、その業というのはある働きを起こした続きの、「運動慣性」をいうのであります。

あのソ連で打ち上げた人工衛星がもう何千回地球を廻ったか知らないけれども、地球の周囲をグルグルグルグル廻っているのは、ロケットから発射されたその動力が、新たに動力を加えないでも運動慣性で廻っているのです。兎も角新たに力を加えないでも廻っているのは、一ぺん業という業――即ち「エネルギーの動き」――が起ったら、その「習慣性」で何時迄でも同方向に廻るようになっているのを言うのです。これが「業」の好い見本であります。

あの三段式ロケットで発射した人工衛星は吾々が何べんも生まれ代る間に業の蓄積によって力を増し、その動く方向が決まってくる実例として面白いと思うのであります。一つ一つのロケットから抜け出すのが、人間なら一ぺんの生まれ更りと考えるとよろしい。今までのロケットを抜けて、次のロケットになると又別の新たなる力と方向とを与えられそれが三回繰返されるのが、三段ロケットでありまして、そのエネルギーが蓄積されて、そしてそれに方向附けられて人工衛星は運動を続けている。

吾々が此の世の中に出て来る性格や傾向をもって動いているのはこの人工衛星と同じように過去の業の運動慣性で動いているのです。それが悪い方へ廻転してゆくような業を持っておったら、幾ら極楽浄土という環境へ入れられても、やっぱり有ち続けている運動慣性の方へ性格が動いて幸福にはなれないのであります。それは環境は真空圏という業のない世界へ射上げて貰っても、人工衛星は矢張り同一の軌道を描いて廻転している人工衛星みたいなものであります。

     
        業の運動慣性を消すこと

そこで宗教的に救われるというのは、そういう過去から蓄積し来たった悪い「業」即ち悪い「精神的習慣」というものがなくなる、という事が必要な訳であります。それが本当に宗教によって救われるという事なのであります。だから「南無阿弥陀仏」と唱えたら極楽浄土へ救い取って貰えるといっても、たとい幾ら救い取って貰っても、罪深いままで救いとられるのでは本当の「救われ」にならんというわけで、倉鉢峰子さんはそこにどうも不合理なものを感じて、念仏往生の信仰に何かぴったりしないものがあったというのであります。

ところがこの倉鉢峰子さんが、戦争前、大連に居られまして、大連の図書館で、或る日の事、『生命の實相』をお読みになったのです。多分『生命の實相』の「實相篇」という処であったと思います。あの篇は一番素晴らしい処です。人間は肉体ではないから未だ嘗て女の子宮から生まれた事はないのである、というような、實相そのものの眞理の書いてある所でありますが、あそこを読んでおられたらこういう事が書いてあったのです。

「人間は、この身この儘如来である。本来罪がないのである。初めから救われているのである。初めから“佛の命≠ナある、初めから“神の子≠ナある、だから初めから罪も穢れも、業もそんなものは無いのである」という事が書かれておったのです。それを読んだ時に、峰子さんは、今まで御自分が“罪≠ニいうものを握っておって、念仏唱えて、たとい極楽へいっても罪の儘であったら、お浄土に生れてさえも幸福になれない ――と思って悩みを感じておられたのですが「罪なんていうものはないんだ」――という別の世界に入ったような感じがしたのです。

つまり現象の世界から一転して實相を直接把握出来たのです。譬えをもって言えば、カメレオンが黄色やら赤やら緑やらに色々変わる世界から、そのような変わることなき「カメレオンそのものの生命」へスポリと入ったような気持ちがしたのです。その時に峰子さんは歓喜勇躍と言いますか、もう嬉しゅうて嬉しゅうて堪らない。五体がぶるぶると震えた。ご婦人の事でありますから椅子に掛けておっても膝を内輪に密着させて、掛けておられたらしいのであります。

その時の心境をご自分で言われました、「あんまり嬉しいので五体がふるえて、膝頭の間がぶるぶると互いに衝突した位です。そうして歓喜して図書館から出て往来を見ますと、凡て見えるものの姿が変わって、今までは物質だと見えたものが、物質じゃない、「山川草木国土悉皆成仏」の世界に見えたのです。大連は街であるから山川といわれないが、家の土塀や、木の塀や、或は電信柱や、道端の石ころや、家の屋根や、凡てのものに霊光が輝いて陽炎(かげろう)の如くゆれて、生き生きとした霊的存在であって、ありと凡ゆるものが輝いているのであります。峰子さんの世界を観る心が変わったのです。今迄物質の世界と見えていたものが、物質の世界ではなくなったのです。霊によって新たに生まれたのであります。


         今此処が天国浄土の体験

その頃の倉鉢峰子さん宅のお庭には花壇がありまして、それに肥料を施す為に馬糞を拾いに行くのでありました。何でも大連の気象台へ行く街道が、急な坂道になっていました。そこに自動車が辷らぬように尖ったザラザラした砂利が敷いてあるのでした。その砂利の上を歩くと、靴を履いていてさえも足の裏が痛い位にその砂利の角が靴底を突くのでした。

その頃、峰子さんは裸足で馬糞を拾いに行ったのでしたのに、足の裏が少しも痛くない。花弁が敷いてあるかのように、ふうわりとしておって、実に世界が変わっているのであります。「今此処天国浄土」と悟って自分に尖がる心が無くなったら、石が尖がっていても、尖がっていないように感ぜられなくなってしまったのです。このように自分の心が変われば世界の姿が変わってしまうのであります。

つづく

       <平成29年11月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8234)
日時:2017年11月29日 (水) 09時48分
名前:平賀玄米


       神の恩寵として見せられる實相世界

こういう体験はまだ他の人にもあります。唯今本部講師になっていらっしゃる田中イサノさん。この人も満州に居られた時に『生命の實相』をお読みになられまして心がクラリと変りますと、倉鉢峰子のような、見ているものがみんな霊的存在として、光明が陽炎の如く輝いて後光を放っている――そういう世界を体験なさったことを話していらっしゃいました。

併しこういう神秘的体験は、悟ったからとて必ずしも凡ての人が得られるという訳ではありません。また全然心機一転しないでは得られるわけでもない。心機一転と、特殊の霊能とが伴うとき、そういう神秘的体験を神様から与えられるので、神の恵みによって、實相の世界を観せられるのであります。純粋に自分の能力だけで観たのではないのであります。

それは自分が観たというよりも、「観せられた」という状態であります。だからこうした状態は一日か或は長くて一ヶ月位で消えるのが普通であります。しかしこの体験を通して「實相即現象」「諸法即實相」の眞理を如実に体験し得るのであります。「諸法」というのは諸々の現象のことで、諸々の現象が、そのままに實相であるというのが「諸法實相」であります。電信柱が物質の電信柱ではなくて霊的電信柱であり、物質の石塊が物質ではなくて霊的石塊であり、それらが皆神の生命の体現として輝いている。これが「現象」と別にあるのではなくて、「現象」のそのままの肉体が、そのまま實は霊体であると分かるのです。

皆さんでも霊眼がひらいてみればこの身このままが輝いて後光が出ているのであります。それなのに自分を「物質の人間」だと思っているから、劣等感が起こって来るのであります。諸君は「物質の人間」じゃないのであって、「霊的存在の人間」なのであります。

自分自身を霊的存在であるとして観るだけではなく、すべての人間が、そして山川草木国土さえも霊的存在として観、それを礼拝し、それに感謝し、時と場合に応じてそれを生かして使わなければならないのです。

第四章は今回にて完、次回からは 第五章です。

       <平成29年11月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8238)
日時:2017年11月30日 (木) 10時11分
名前:平賀玄米


          <第五章 “新生≠ニ“涅槃≠ノ就いて>


        “新たに生まれる≠ニいうこと

或る晩、キリストの処へ、ユダヤの長老のニコデモという人が訪問して行きまして、その頃キリストが色々の奇跡を行っていることを感嘆して、「あなたのような素晴らしい奇跡が出来るのは、神様の子でなければとても出来る筈はないのです。どうぞ神の国へ到る道をお教え願いたい」と言ったのであります。

するとキリストは、
「人、新たに生まれずば、神の国を見る事能わず」と言って答えました。

そうするとニコデモが、
「私のように年が寄って、もう六十五歳にもなっているものが、今更もう一ぺん生まれ更って新たに生まれるなんて仰いましても、それは無理でございます。お母さんの子宮の中へ、再び這い込んで、もう一ぺん新たに出て来るなんてとても出来ませんことですよ」と言って答えたのであります。

キリストはその時こう仰った。
人、新たに生まれずば、神の国を、見る事能わず、風は好む所を吹いているが、その風はお前は何処から生まれて何処へ行くか知っているか。」
皆さん、この問いに答える事が出来ますか?例えば台風が吹いて来る、低気圧が突然マリアナ諸島辺りから出現して、それが次第に発達し、旋風となり、台風となって、本州を縦断するという事も度々ありますけれども、あの低気圧がマリアナ諸島に顔を出す前は何処におったか。何処から何時出て来るのか気象学者にも判らぬらしいのです。それが又、千島の方へ行って、何処かへ行って消えてしまう。まぁそういう風にわからぬのが風であります。

その風の譬えを持って来てイエスは、
「風は吹く時には判るけれども、消えてしまったら判らぬ。吹く前も何処にいるか判らぬ。何処から出て来て、何処へ行くのであるかは、物質の風でさえも、お前には判らぬじゃないか。わしが生まれ更ると言ったのは、霊のことを言っているのであって、そんな肉体の事じゃないんだよ。

子宮の中へもう一ぺん入って、オギャーともう一ぺん出て来るという事じゃない。霊によって生まれ更ることなんだ。霊は眼に見えないが、物質でも風のように眼に見えないものは、何処から生まれて何処へ行くかわからないから、霊のことは一層お前にはわからないが、霊によって生まれ更らなかったならば、人間は“神の国≠見る事は出来ないのだ。

物質の世界だけを見ておったのじゃ、どうしても神の国 ――天国浄土 ――というものを見る事は出来ない」という事を仰せられたのであります。
さて、その霊によって生まれ更る、というのは、一体どうしたら生まれ更る事が出来るのであるか、という事になる訳であります。


霊によって生まれ更るというのは、凡ての事物が、物質でないという事を知る事であります。肉眼で見ると、凡ゆるものは物質に見えているのであります。が、それは物質じゃないのであります。
凡てのものは、霊的実在である。無論、自分自身の肉体もひっくるめて霊的実在である。“物質的肉体≠サのものが「人間」であると、こういう風に思っている人も随分沢山あるけれども、そうじゃないのであります。

人間というものは、物質じゃない、肉体じゃない、霊的實在こそ人間であるんだということを悟り、凡てのものを「霊的實在」として観る時に、その時に人間は生れ更ったのであります。つまり物質の世界から、霊の世界に生れ更ったという事になるのであります。

今肉眼で見て“物質≠セと思っている世界に住んでいる人は、今“物質の世界≠ノ住んでいる譯でありますが、その自覚がクラリと転じて、今迄物質だと思っておったこの世界が、物質じゃあなかった、霊的實在であったと判りましたら、もうその人は“物質の世界≠ゥら“霊の世界≠ノ生れ更った、という事になるのであります。つまり自分の住んでいる世界が、悉く“霊の世界≠ノなってしまったのであります。

つづく

       <平成29年11月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8239)
日時:2017年12月01日 (金) 09時43分
名前:平賀玄米

 
       釈尊の“涅槃(ねはん)≠ノ入るということ

お釈迦さんが悟りを開かれた時に、「有情非情同時成道、山川草木国土悉皆成佛」と悟られたいう事が佛典に書かれてありますが、“有情非情≠フ“情≠ニは“情=iこころ)のことで、“有情≠ニは即ち心のあるもののことです。“非情≠ニは“情(こころ)に非ざる≠ニ書いてあって、“心のないもの$カきていないものですね。まぁ有機物・無機物、生物・無生物、悉く(有情非情)同時に成道していると謂うのであります。“同時に≠ニは、“今此処に≠ニいうことであります。

現象的時間の流水を超えて超越的全包容的な「今」であります。“成道≠ニは道と成る≠ニありますが“道≠ニいうのは、宇宙の“法≠サのもの、“眞理≠サのもの、“實相≠サのものであって、言い換えると、佛≠ナあるという事であります。

無機物も有機物も、生物も無生物も森羅万象悉くみんな、佛の生命が今此処に生き生きと現れているのである、とそういう風に見えるようになられた時が、所謂(いわゆる)お釈迦さんが悟りを開かれた時であります。即ち涅槃に入られたという事であります。涅槃というのは、何にも引掛らない所の、絶対自由の常楽の境涯を「涅槃」というので、死ぬことではないのであります

お釈迦さんが亡くなられた時に、普通“涅槃に入られた≠ニ言いますけれども、肉体が亡くなる事を、「涅槃に入る」と言う場合もありますけれども、肉体がある儘で“涅槃に入る≠ニ言うのは、即ちこの肉体がありながら、その儘、「この自分は肉体でない、物質でない、霊的実在である」という事を悟る事が「涅槃に入る」という譯であって、この場合の“涅槃に入る≠ヘ絶対自由の境涯にお釈迦さんがお入りになったことを指してゆうのであります。

その時に釈尊は「山川草木国土悉皆成佛 ――悉く皆成れる佛である」とお悟りになったのであります。この場合の「成佛」とは、何時も私が言います通り、「佛に成る」のではないのです。山も川も草も木も国土も、これから五十六億七千万年後に佛様になるぞ、と言うのではないのであって、もう既に「成れる佛」であるのです。

既にありと凡ゆるものが、山も川も草も木も国土も悉く皆佛である。況や人間をやで、一切の生物、無生物悉く佛の命そのものがそこに鳴り響いていることが如実に感じられたのであります。「成る」と「鳴る」とは語源が同じでありまして、“鳴り響く≠ニいう事は、すべてのものはエネルギーの振動であって、生き生きと生気溌剌としてそこに生命の自己実現をしているという事です。

つづく

       <平成29年12月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8242)
日時:2017年12月02日 (土) 08時59分
名前:平賀玄米


         諸君も亦、観を新たにして

これが新たに生まれられた釈迦牟尼世尊の境涯であったのであります。皆さんも矢張り、そういう境涯になられないといけないですね。諸君は、もう第五章まで読んでこられたのであるからもう多分そういう境涯にお成りになったと思うけれども、どうですか。そういう境涯になったら、もう何ものにも縛られなくなるのであります。

生長の家ではそういう境涯に成らしめる為の一喝として、「物質は無い」「肉体は無い」と言う「喝」を用いるのであります。物質が無い、と言いますと、「先生は“物質は無い≠ニ言うくせに、物質の飯を喰っているじゃないか、物質の空気を吸い、物質の水を飲んで、それで物質は無いと言うのは矛盾している。

物質は無いと偉そうに言うのなら、もう今日から飯を食うな。おかずも食うな。空気も吸うな。水も飲むな」というような人があるのであります。併し乍ら、「物質が無い」ということは、「凡ゆるものは物質でない」という事であります。物質でないのです。凡ゆるものが物質でないということになると、どうなるか。すべてのものが皆んな物質でなかったらですね、もう何処にも「物質は無い」譯であります。

飯を食っても、飯も物質でなかったから、決して物質を食べているのではないでしょう。すべてのものは、これを物質だと思っている間は物質だけれども、“物質でない≠ニ気がついたら、もうどんなものを見ても、何処にも「物質」は無い譯です。まことに悟りを開いてみれば、何処にも物質はないのです。「物質は無い」のにそこにアリアリと存在が見える。そうすると、そこに在るのは、「物質」ではなくて、「山川草木国土悉皆成佛」――悉く皆成れる佛だというわけです。

見渡す限りの山も川も草木も、又色々の作物も、お米も、野菜も、みんなこれは佛の生命であるという譯であります。だから私たちが、お食事の時に、合掌して食物を拝んで戴くのは、食物の「實相」たる佛の生命を拝んで「有難うございます」と戴くわけであって、吾々も佛であり、食物も佛であり、「佛」が「佛」を拝んで戴くという譯であります。

つづく

       <平成29年12月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8259)
日時:2017年12月03日 (日) 08時44分
名前:平賀玄米

 

       蛋白質やアミノ酸は「部分品」であって「人間」ではない

大体人間の“命≠ニいうものが、野菜やお米を食べて栄養を得てそれを適当に配列して、生物なる“人体≠造るという事は実に不思議な事であります。つまり、“物質≠ェ、いのちのある“生物になるという事は実に神秘な事なのであります。

最近、生化学が非常に発達いたしまして、蛋白質の一種であるアミノ酸が化学的に合成されるという所まで行きまして、窒素・水素・酸素というものを混合して適当な温度で或る放射線を照射すると、アミノ酸が出来るとか、蛋白質の一種が出来るとかいう事が判って来て、生物の体を構成している蛋白質が、こうして合成されることにより、何か生体の出現の経路にヒントが得られて来たから、そういう偶然の結合で生物が生まれて来たのであろうというのでありますけれども、蛋白質とかアミノ酸とかいうものは、決して生物ではないのであります。

それは吾々の養分にはなるであろうし、肉体を構成する部分品にはなるでありましょうけれども、「養分」や「部分品」は決して人間ではないのであります。人間というものは実に素晴らしいものであって、「養分」や「部分品」が人間ではなく、「養分」や「部分品」を一定の構図又は設計に随って人体の形に寄せ集めて構成する「眼に見えない能作者(はたらきもの)」が人間なのであります。

豚を喰っても人体になるし、牛を喰っても人体になるのは何故であるか。野菜を喰っても筍を喰っても人体になるのは何故であるか。蛋白質にも色々な蛋白質がありますがありますけれども、人間の蛋白質と牛の蛋白質と兎の蛋白質と鶏の蛋白質とは皆分子構造が異なる。それが人間の中に入ると、皆その人特有の人体の分子構造に変化してしまうのであります。

兎も角、単に物質という「死んでいるもの」が、「生きている人間」にどうしてなるかという事は、是は実に神秘な事であります。物質が、本来単に物質であったら、「物質」というものと「霊的な生命」というものとは、全然波長の違う世界にあるものであるから、それらが互いに同化し吸収されて、人体を構成するという相互作用は起こる筈はないのであります。

「物質」という知性なき低い程度の波長の存在と、霊妙な知性ある高級なる霊的生命というものとは、波長の世界に於いて非常に格段の差があるのですから、それが同化吸収されて一つになるということは、全然物質と霊的生命とか異質のものであったならば起こり得る筈がないのであります。

処が物質と見えているものも、実は物質ではない。霊的存在でありますから、吾々がそれを吸収して霊的生命の糧として、霊のハタラキによって物質分子の構成状態を変化して自分に適する道具である人体を造ることが出来るのであります。こういう譯ですから、「物質は物質と見ゆれども、実は物質ではない」ということがわかるのであります。

つづく

       <平成29年12月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8273)
日時:2017年12月04日 (月) 12時50分
名前:平賀玄米

   
      「物質の世界」は一種の牢獄である

さて、話は元に帰りまして、私たちが新たに生まれるという事は、今迄物質と見ておったとことの世界から、霊的存在の世界に移り住むことのようになるのであります。場所を変えずしてその儘生まれ更るのです。物質というものは、実に窮屈なものでありまして、物質の壁があるとそれを突き破って外へ出るのは中々困難である。物質の牢獄の中へ入れられたら、その物質の壁を打ち破ったり、或は物質の鉄柵をへし曲げて外へ出るという事は中々出来ないのです。

「物質の牢獄」と言ったのは、物質の不自由性を譬えに言ったのでありますけれども、吾々の住んでいるこの世界は、まことに一つの「物質の牢獄」みたいな世界であります。それを突き破ってロケットで人工衛星を射ち上げて真空圏に飛ばし、人工衛星に乗って地球の圏外へ出る事が出来ましても、それでもまだ物質の外へは出る事は出来ないのであって、地球は一つの牢獄である。
結局この物質の世界というものは、吾々の自由を縛っているところの存在であるわけです。

つづく

       <平成29年12月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8294)
日時:2017年12月05日 (火) 09時56分
名前:平賀玄米


        人間はみな肉体を憎んでいる

多くの人々が病気になるのは、何故病気になるのかといいますと、凡ての人は肉体を愛しているかのように見えているけれども実は肉体を憎んでいるからであります。何故かと言うと、「生命」なる本来自由自在なるものが、「肉体」という縦・横・厚みの三次元のこういう牢獄の中へ ――肉体はまことに一つの牢獄である。――その牢獄の時間空間の制約の中に霊的生命が入れられているのですから窮屈で仕方がない譯です。

霊は若し「肉体」という牢獄に入れらていなかったら、一瞬間にでもシューッと月世界へでも火星の世界へでも、或はワシントンへでもロンドンへでも、自由自在に行ける筈なのに、こんな肉体という牢獄をぶら下げているものだから月世界へ行くにはロケットに乗って、窮屈な窮屈な宇宙服をつけて行かなければならない。それでもまだ中々自由に行けない。

ですから、吾々に宿っているところの霊魂というものは、自由を求めて、常にこの肉体を、愛しているかの如く見えていながら、その実は常に憎んでいるのである。肉体が邪魔になるから、出来るだけ肉体を殺そう殺そうとして試みている譯です。

ですから吾々の生命の中には矛盾がある譯です。肉体を道具として自己を表現しようとするところの願望と、それから肉体を脱却して自由自在になろうという願望と、その二つが肉体の中で始終戦っているのであります。それで一方に於いては私たちは長生きしたいと思う。これは肉体は霊魂の乗物として、自己表現を遂げるところの道具でありますから、その道具がなくなったら困るから、私たちは肉体をなるべく長生きさせたいと思っている。

ところがその道具たるや、一つの束縛であり、牢獄である。例えば吾々が東京から下関へでも行こうと思いますと、金まで払って切符を買って汽車に乗る。汽車は私たちの乗物であり道具である。汽車は脱線したら困るし、ちゃんと行って欲しい。これは乗物を成るべく長生きさせたい願いであり、健康であらせたいと思う願いである。

ところが、もう大阪辺りまで行くと、うんざりしていまって、もうこんな同じ列車の椅子に腰掛けているのは辛いから汽車から降りたいという願いも起こって来る譯であって、早くこの汽車という乗物の約束から逃れたい。しかし無暗に途中下車も出来ないで、そこに矛盾がありながらその汽車に乗っている。

この乗物である「汽車」を、私は霊魂の乗物である「肉体」に喩えたのであります。吾々の「生命」も、この肉体という牢獄的な窮屈な乗物の中に居って、この肉体を使って自己表現をし、目的を達するのだから、一方においてこの肉体を長く健康で長生きさせたいと思い乍ら、もう途中まで来ると、うんざりしてしまって、“こんな肉体に長く乗っているのは嫌だと物質の束縛から脱したくなってくる。そこに矛盾があって、たましいは内部からこの肉体を虐めるのであります。

それで色々の仕方で肉体に面白からざる事を仕掛ける。肉体がなるべく長持ちせぬようなことをわざとやる――酒を飲んでみたり、煙草を吸ってみたり、或は夜更かしをして性的乱痴気をやってみたり、色々不健全な事をして、内部から肉体を早く壊すように、壊すように努力をしている。そうやっていながら、また同時に肉体を長生きさせたいと大切にしたりしている実に自己矛盾的存在が人間なのであります。

つづく

       <平成29年12月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8298)
日時:2017年12月06日 (水) 10時32分
名前:平賀玄米


         矛盾的存在を一元的に克服して

>そういう自己矛盾的存在がこの肉体の中にいる人間であるのであります。私たちがこの人生を楽しく幸福に生きるには、この“矛盾„というものを克服して二元的な矛盾のない一元的なスッキリした存在にしなければならない。そうしてしまった時に、人間は初めて完全な絶対自由というものを得ることが出来るのであります。

その矛盾を無くするにはどうしたら可(よ)いかと言うと、この「肉体」を“物質„であると思っいている限りは、霊と肉体との間に今申しましたような自己撞着、自己矛盾というものがある。即ち「肉体」は“物質として自由自在なフレキシブルなものでないから、吾々を縛る。この縛りを解くには肉体を否定しなければならない。

だから私たちは「物質は無い」「肉体は無い」という大宣言によって肉体を否定するのです。「肉体は無いんだ」「物質は無いんだ」と。それではこの肉体と見えているものは一体何であるか。これは物質的肉体ではなく、「霊の自己表現」であるんだという事を自覚したならば、「霊」と「肉」との二元的対立というものが、消えて無くなる。

「霊」と「肉」との対立がなくなると、自分を縛っているところの不自由なものが解消して「霊」の欲するままに「肉体」が支配されるという事になるのであります。そこに私たちは霊のみの一元的自由自在を得る事になるのであります。

もうこの肉体は物質ではなく、「霊」そのものですから、それを壊さないでも、霊肉一致の自由自在を得るという事になるのであります。この悟りによって自由自在を得ることが所謂生きている儘で涅槃に入ったという事なのであります。

つづく

       <平成29年12月6日 謹写> ありがとうございます 合掌。

     

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8310)
日時:2017年12月07日 (木) 10時53分
名前:平賀玄米


         ついに神一元の自由自在の自覚に到達する      

そこでまず第一に吾々が為さなければならない事は、自分の「肉体」というものは、「肉体」ではないのであって「霊的實在」そのものであるという事を自覚するという事であります。是が即ち弘法大師が仰せられた「即身成仏」――即(このまま)の身(からだ)が“成れる佛„である――ということの自覚であります。

この肉体を脱して初めて霊魂が自由を得るというのではなくして、この儘の体(からだ)が、この身このまま“成れる佛„であるという自覚を得るのであって、全身がこの儘「佛」の生命(いのち)そのものであって、光明燦然と輝いている自分である。――という自覚であります。

今迄は「肉体」というものは是は“仮の相„であって、「仮相(かそう)」又は「仮相(けそう)だと言っていたのでありまして「眞物(ほんもの)」ではない。「實相」だけが眞物である。今まで「仮相」なる肉体と、「實相」なる霊とを分けて、自覚の上で互いに対立させておったのでありますけれども、「仮相」というものは無いのである。「實相」だけが實在するのである。

「仮相」と見えたものは実は「この身此の儘“成れる佛„であって此処に顕れているのは「佛の生命の現成」である。こういう事を自覚することこそが、「新たに生まれる」という事であります。
今迄は「肉体」という人間が生きておったと思っていたのが、クラリと「自分自身」を見る眼が一転して、「肉体という人間が生きているのではなかった。佛の生命(いのち)が今此処に生きているのである、神の生命(いのち)が今此処に生きているのである。

仮の相(すがた)なんていうところの、實相に対立するところの、“偽物„などは、本来無かったのだ。自分は實相そのものだ、實相である自分のほかには何もないのだ」という自覚に到達するのです。そこで初めて神一元の人生観に到達し、自由自在が得られるのであります。

今回にて第五章は完、次回からは第六章です。

       <平成29年12月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8327)
日時:2017年12月08日 (金) 09時56分
名前:平賀玄米

 
              <第六章 眞善美の生活>

        価値観の本質について

青年諸君は眞剣であり、真面目であり、生き甲斐ある生活を求めております。それでは“生き甲斐„の本質というものは何であるかといいますと、それは価値観であります。価値観というと値打ちの感じてあります。「私は値打ちある生活をした」と考えると、生きた悦びを感ずる、即ち“生き甲斐„を感ずるのであります。

それでは“生き甲斐„の感じ、値打ちの感じというものは何処から出て来るかというと、値打ちというものは「存在しないもの」には値打ちはないから、それは「存在するもの」から出て来るのであります。存在するように見えても、それは仮の存在であり、ニセモノの存在から出て来るものは、“生き甲斐„を感じたように見えても、その悦びが長続きしない。

例えば肉体的快感でありますが、肉体は「本来無い」から、肉体に於いて味わえる快感、生き甲斐の感じというものは須臾(しばらく)にして消えてしまう。どんなに美食をしてもそれを引き続き食べていると飽きて来て、美味しくなくなって来ます。それでも尚食べていますと、苦痛に変わって来ます。食欲でも性欲でも所有欲でも同じ事であります。

本来価値が實在としてあるものなら、その価値は重なれば重なる程その価値が増大して来、価値観が増えて来、生き甲斐が感じられて来る筈のものでありますけれども、それが引き続き積み重ねるほど快感が快感でなくなり、価値観が更に薄れて来、悦びが無くなり、生き甲斐が無くなるというのは肉体についた快感というものの本質は、「本当にあるもの」即ち「眞」でないからであります。
それでは「本当にあるもの」「眞」であるものとは如何なるものでありましょうか。

つづく

       <平成29年12月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8352)
日時:2017年12月09日 (土) 10時14分
名前:平賀玄米

 
        眞とは何であるか

「眞善美の生活」という場合の、「眞」というのは「まこと」ということであります。「まこと」というのは語源から言いますと、「まること」ということであります。「まる」は〇であって、八方円満に欠けることがないその儘の完全さということであります。「こと」というのは、聖書のヨハネ伝第一章に「はじめにコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき、よろずのもの是によりて成り、成りたるものに一つとして是によらで成りたるはなし。是に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」とありますが、このコトバの完全な欠けることなき表現がコトバの「マルコと表現」即ち「まること」であります。

コトバは神でありますから、私たちの生命(いのち)に内在する神が完全にあらわれたのが“マコト„即ち「眞」であります。神は久遠不滅の存在でありますから、神の完全表現である「眞」を生きることは、不滅の価値を生きることになるのでありますから、マコトを生きた時には、その価値観は不滅であります。

だから本当にマコトを生きたら、瞬間のうちにも久遠の価値を体験するのであります。すなわち、本当にマコトを生きた時、“今、即久遠„の自覚を体験するのであります。「朝(あした)に道をきかば、夕に死すとも可なり」というような価値観は永遠に尽きない實在の悦び、「眞」のよろこび、「まこと」を生きた時の悦びの自覚であります。

つづく

       <平成29年12月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8366)
日時:2017年12月10日 (日) 10時21分
名前:平賀玄米

 
        “善を生きる„ということ

『甘露の法雨』を読むと、神があらわるれば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのづから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく・・・」と示されておりますが、善を生きるということは、神の智慧に従って“時„と“処„と“人„との三相応を得た時にそれが善となるのであります。

この世界の一切のものは、神がお創造りになったものでありますから、本来悪なるものはありません。それが「悪」とあらわれているのは、“処„を得ない、“時„に相応しくない、“人„に相応しくないからであります。即ち、“人時所„の三相応を得ないからであります。

生長の家本部で、初めて赤坂道場に於いて指導者講習会を開いたことがありました。その時、家内が一階の便所へ行きますと多勢の修行者が詰めかけていて便所が満員でありましたので、家内がしばらく待っておりますと、便所へ入っている人たちの声が聞こえてまいりました。私の家内がいるとは気がつかないので、大声で遠慮なしに喋っているのです。

「こんなにキン隠しに引っかけては汚くて仕方がない。ちっと気をつけてすればよいのに!」「なぁに、汚いと思うから汚いんだ。物質は本来無いと思えば、汚い事もありゃしない。神の造り給うたものは何でも綺麗なのじゃ。」併し、これは処を得ないから汚いのであります。糞便でも、それが肥料として地下に埋められ、それが適当に植物に吸収されて、分子配列が変わり、野菜となったり、お米となったりして、食膳に盛られると、舌鼓を打って美味しく食べて少しも汚くない。

それが汚いのは“処„を得ないでキン隠しの縁にかけたり、お茶碗にそれを盛って出したりするから汚いのであります。糞便でもその分子組織を適当に処理し、各々分子に処を得せしめて、化学的に精製し、純粋なアンモニア液にでもしますと私たちはそれで着物の衿垢などをふくために使った
りいたします。

馬の小便でもそのままでは汚いけれども、その尿から純粋に女性ホルモンを抽出して、その成分をあるべきところにあらしめると、それは決して汚いことはない、注射に使ったり、錠剤にして飲んだりするのであります。このように綺麗とか、汚いとかいうのは、すべてそのものが処を得ているか、処を得ていないかで決まるのであります。処を得なければどんな善に見えるものも悪に変わります。

つづく

       <平成29年12月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8378)
日時:2017年12月11日 (月) 10時32分
名前:平賀玄米


性欲というようなものでも、それは本来善である。それは種族の肉体を永遠に持続するために神が与えたものでありますから、本来善なのであります。しかし、それも、“処„を得ず、“時„に適せず、“人„に相応しくない場合には、それは「悪」になるのであります。

先ず如何なる“人„に対して性欲を遂行するかということであります。人に相応しくなければ、それは悪になるのであります。他人の奥様に対して性欲を起こしたり、恋愛もしていない南洋の黒ん坊の土人に対して性欲を遂行したりしますと、その性欲は悪になります。

性欲は自分の正しい配偶に対して起こすのだったら、それは善であります。もし性欲をそれ自体が誰に対してでも悪であるとしましたならば、神前結婚など出来る事ではありません。「二人は互いに性交の儀式を行って、分ち難き一つの生命にならせて頂きます」なんて鹿爪らしい儀式をあげて神様に申上げることは出来ません。

神前結婚を行っても神様の前に恥じることがないのは、正しい相手に対する“性„の要求は、善であるからであります。それなら、自分の妻に対してならば、いつ何処で“性„の要求を満たしてもよろしいかというと、決してそうではありません。白昼、往来や観衆の前で“性„の要求を満たしたりしては「悪」となります。

即ち何時、如何なる“処„で、如何なる“人≠ノという、“時≠ニ“処≠ニ“人≠ニの三相応が得られて、それは「善」なる實相があらわれるのであります。麦を播くのでも、十日早く蒔くのと十日遅く蒔くのとでは非常にその収穫量が変わって来るのであります。

つづく

       <平成29年12月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8381)
日時:2017年12月12日 (火) 10時13分
名前:平賀玄米


或る人が停車場へ行く道を教えてくれというので、「この踏切を越えて今行きなさい、もう直ぐに発車の時間ですから」と教えてあげたとします。ところがそこへチンドン屋が来たというので、その人は直ぐに踏切を越えずにチンドン屋に見とれていて、十分間のちにその踏切を渡ろうとしたら、そこへ汽車が来て、汽車に跳ね飛ばされて大怪我をしたとします。

「先生が踏切を渡れというから、私は踏切を渡ったのですが、そのために私はこんなに怪我をしたのです」と訴えるかも知れません。しかし踏切は渡るべきものであるから、「踏切を渡る」ということは、本来「善」でありますけれども、その行為が「時」を誤れば「悪」になるのであります。
こういうように何でも物事、時を誤れば悪に変わるのであります。

また会館を建てたり工場を建てたりするなら立地条件ということも考えなければならない。会館の種類や目的によって、付近の人口数や住民の階層や、その嗜好趣味などもよくよく調査してかからねばならない。工場などを建てるには、原料や製品を運搬するのに最も便利な立地条件のところへ建てなければならない。即ち“時≠ニ“場所≠ニの相応が必要なのであります。

それから建物や工場が適当な“時≠ノ適当な“場所≠ノ建ちましても、それを経営するのに適当な「人」を得なければ、折角の施設の経営も不結果に終わるのであります。「人」が得られな ければ、時と場所がよくっても、それは「空き家」同然で何の役にも立たないのであります。

現象界の一切は實在ではなく、影であるから、一切の行為も材料も「無自性」であって、その「無自性」の中からその奥にある「善なる實相」を引き出すのは、“時≠ニ“場所≠ニ“人≠ニの三相応によるのであります。

皆さんは行動をとるときには、この行動は“時≠フ宜しきに適い、“場所≠フ宜しきに適い、“人≠フ宜しきに適っているかということを考えた上で、慎重に行動して頂きたいのであります。“時≠フ宜しきに適い、“処„の宜しきに適い“人≠フ宜しきに適うということは、正しき秩序を得たということであります。

つづく

       <平成29年12月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8392)
日時:2017年12月13日 (水) 10時17分
名前:平賀玄米


         調和ある秩序が美である

次には「美」ということであります。『甘露の法雨』には「神があらわるれば、乃ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのづから備わり・・・」とありますが「美となり」と書いてありませんから、生長の家では「美」ということは説かないのですか ――と北海道の講習会でお尋ねになった方がありましたが、この「調和」ある秩序が備わるということが「美」なのであります。

写真一つ写して、それを引伸ばしましても、その引伸ばす時に何処を、どうトリミングして、明暗のバランスや、形のバランスをどうとるかということによって、その写真の表現する「美」の程度が変わって来るのであります。

これは、美というものは存在の奥に何処にでも、その實相として内在するのであります。それをジッと心で見詰めていると、その美が浮き上がって来る。その浮かび上がって来た部分だけを残して、他を切り取ってしまうのであります。彫刻家は、大理石とか樟とかいう彫刻の材料になるものをジッと見詰めていると、そこから美の象(かたち)が浮かび上って来る、その象を残して、ほかを削り落とすと美しい彫刻が出来上がる。

美は事物のその奥に「實相」としてあるもの、それをジッと見詰めて見出し、それを表現するのが美術家又は芸術家であります。

つづく

       <平成29年12月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8400)
日時:2017年12月14日 (木) 11時14分
名前:平賀玄米


        「美」は物質そのもにあるのではない

だから「美」は物質そのもににあるのではなく、物質の、その奥にあるのであります。即ち「實相」が美なのであります。その「美」があらわれて来るためには、調和ある秩序が必要なのであります。
秩序がなければ混沌であります。「生命」とは混沌に対して秩序を与える活力であります。「無」の世界を征服して、そこに原子を造り、それを集合せしめて天体を造り、その天体に色々の鉱物の結晶や植物や動物をおつくりになったのが、「神」即ち「生命」の本体なのであります。

活花の美というようなものでも所伝によれば、天・地・人とか眞・副・体の三段階に秩序がある。新しい活花の流儀もありますけれども、何らかの秩序を与えなければ、内部にある美が表現されないのであります。単に新しければよいというので、箒を逆さまに立てて頬かぶりさせた側に、薪や枯木をただ雑然と並べて見て、今迄になかった新規な排列だと、ひとり自慢で前衛派の華道だなどと言ってみてもそれは「美」というものではありません。

兎も角、たとい前衛派でもそれが「美」というものを表現しているとするならば、必ずそこになんらかの“秩序≠ェ創作されていなければならないのです。もっとも、前時代の人たちが「美」を表現するために造った「形の秩序」というものは、生きた精神を伝承することを怠って、その形だけを弟子が真似て行きますとそれは形の模倣だけになってしまって、生きた生命の表現としての「秩序」ではなく、「形骸だけの秩序」になってしまいます。

「形骸」だけになると、形は整っていいるようでも「生命感から来る美」というものがあらわれていなくなります。人間でも若くて生命感が溢れている者だったら、多少、形はそれほど美人というほどでなくとも、形を超えた「美」というものがあらわれております。これが「美」は「物質」そのものにない証拠であります。

それで芸術家は先人の「形」を学んで、先人は如何に大自然又は人間から「美」を見出したかを勉強し、「美」を見る眼を養い、しばらくはその「形」を踏襲することによって、先人の発見した美に近づいて行くのでありますが、「形」ばかりを真似ているのでは生命感があふれ出て来ないのですから、形の踏襲が幾時代も続いてそれが形骸だけになって来ますと「形」を破壊しようとする運動が起こって来るのが常であります。

しかし「形」を破壊したばかりで、そこに「新しき秩序」というものが創造されてなかったらそこには雑然があるばかりであり、混沌があるばかりであり、生命も美も表現されていない、それは「新しかる」ばかりであって、かえって退歩しているということになるのであります。

つづく

       <平成29年12月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8405)
日時:2017年12月15日 (金) 10時14分
名前:平賀玄米

 
「形」ばかり真似ていては生命も美もあらわれないという実例ではこんな話があります。私が諸方へ旅行しますと、講演の控室で薄茶を出されることがります。その茶碗を私の前に置く前に茶碗を一、二回廻して置かれるのですが、あれは何遍廻すのが礼儀作法か、出す時には何遍廻すのか、受けて飲むときには何遍廻せばよいのだろうか ――そう考えると、お茶の作法を正式に習ったことのない私には窮屈で、下手に茶碗を廻して笑われやしないかと思うと堅苦しくて仕方がない。

これはまるでお客様を苦しめるようなものだと思っていたのであります。ところが或る日、或る場所で、生長の家の花嫁学校の卒業生が、私にお茶を淹れてくれたのであります。その時そのお嬢さんが茶碗をこう廻して私の前へ差出した。その態度、全身の動き、手つき、表情などが、「この茶を先生に差上げるのだから、茶碗の表を先生の方へ向けましょう」と尊敬と親和との感じが、その清らかな手に寂(しず)かにあらわれていたのです。

その時私は、茶碗は「何度廻す」というような「形」のことではない。「形」は心から自然に出て来る、これこそ茶の湯の極意の「和敬清寂」だとわかったのです。「形」ばかり教わって、「形」ばかり真似ている人には、同じように茶碗を廻しても、その親和と、尊敬と、清らかさと、寂かさとがあらわれていないから、お客様を窮屈がらせるだけだったのですけれども、「形」の奥から生命と精神とがあらわれている、そこに動作に完全な生命或る秩序があらわれていたのであります。

ダンスや歌謡にしましても、マンボ、カリプソ、ロカビリー等、色々新しい踊りや歌の形式が出て来ますけれども、これらも古い形骸としての秩序に飽き足りないで形を破ろうとする努力のあらわれでしょうけれども、これらの現状は、古い形の秩序が破られているだけでまだ新しい秩序が完成していないのです。芸術と見世物(ショー)とは違うのです。“ショー≠ヘクスグリや奇抜や滑稽やオドケを性的刺激に混入して調剤すれば出来ますけれども、「美」というものは“ショー≠ナはないということを知らなければならないのであります。

それは秩序を通してあらわれる「實相の表現」であるということでありまして、“性的興奮≠ノ導くものを「美」だと考えたり、“性的興奮≠「美感」だと間違えてはならないのであります。

つづく

       <平成29年12月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第四章〜第六章 (8411)
日時:2017年12月16日 (土) 11時21分
名前:平賀玄米


        美的生活について

私は早稲田の文科に在学中、オスカーワイルドに傾倒したものであります。オスカーワイルドは貴族であり、有名な作家であり、美貌であり、金持ちであるので、感覚的に自分の欲するあらゆる快楽を貪った。そして肉体的感覚に対して快美の感じを与えるものを「美」だと称したのであります。

彼の論文の中には、「色彩の感覚する道徳を超えている」と言って、「美」は「道徳以上のもの」という耽美主義的人生観をもっていて、保守的な服装を好む英国人の中にあって、色彩の絢爛を競う様な“美的衣装≠ニいうのを着て街を歩いたりしたものです。女出入りも無数にあり、感覚的に快感として感じられるあらゆる行為を「美的行為」として行ったのでありますが、感覚に感じられる快美の感じは、刺激が同じものが繰返されると快美でなくなる。

ついに女生徒の交渉には何ら美的感覚というようなものを感じられなくなり、新鮮の感覚を求めてついに男色事件を起こし、法に触れてレーディングという所の獄舎に未決囚として拘置所につながれる事になったのであります。

愛の低い段階は、物質や肉体の美にあらわれる。そしてそれに引きつけられます。併し愛が段々深まって来るにつれて、物質を超え、肉体を超えて、人類を救うことに喜びを感ずるようになってあらわれて来るのであります。

そこに深い魂の美は愛と一致し、愛は「善」と一致することになるのです。何故なら愛は神より出でるものであり、實相より出でるものであるからです。實相はマコトであり、實相を生きることは「眞」を生きることになります。そして「眞」を生きることは、「愛」を生きることになり、「愛」を生きることは生命の眞を生きることになり、それが同時に美を生きることになります。ここに眞・善・美の生活が一致することになるのであります。

今回にて第六章は完、次回から第七章です。

       <平成29年12月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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