《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』       第一章〜第三章 (8131)
日時:2017年11月11日 (土) 18時13分
名前:平賀玄米


皆様、有難うございます。
先月22日にて『苦難と恐怖の克服法』(人間救いの原理)の謹写が完了致しました。
今回から、絶版になっている『第二青年の書』を謹写、投稿させて頂きます。
この書は、この「谷口雅春先生に帰りましょう」以前の掲示板でも掲示されたことがありますが、あれから三、四年経っていることと、今年の2月に『谷口雅春先生を学ぶ会』愛知小牧・名古屋支部大講演会が副代表前原幸博先生と青年対策部長の小野一先生をお招きして開催された時に、小野一先生が、長年の夢であったケーキ屋さんになる寸前に、前原先生に学ぶ会へ誘われて、どちらの道を選ぶべきかと思案している時にこの『第二青年の書』の中の 人間復興――何という素晴らしい諸君の使命であろう。(途中略)併し、気の毒にもその霊なる完全なる人間は、不幸にも、人類の長くそして執拗なる唯物論的迷妄によって蔽い隠されて、その殆んど全てがあらわれていないのである。青年よ、諸君が人類の先頭に立って、この蔽いを取除く役目をしないで、誰がそれを為し得るか。諸君は若いのだ。新鮮なのだ。まだ塵埃に蔽われていないのだ。古き執拗なる蔽いを取り除いて、人類の眞の實相をあらわし、眞の魂の悦びを知らしてやるのは、諸君を除いてはほかにはないのだ。この御文章に背中を押されてケーキ屋さんになる夢を捨てて、『谷口雅春先生を学ぶ会』で使命に邁進する事にお決めになったと云うお話をされました。

こんな素晴らしい御本が、絶版にされるなんて残念至極です。せめてこの掲示板で小生が謹写、投稿して復活させたいと思い立ちましたので、今回からスタートさせて頂きます。 平賀玄米 合掌。

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              『第二青年の書』

     はしがき

青年は人生の花である。落下しかけた花ではなく、まさに満開の直前にあるような新鮮な美しさと生気とをもった花である。私は人生が美しく、清く、住みよい世界になるためには、青年たちが、各々みずから、人生を美化する花であることを自覚し、その自覚のもとに新鮮に、清らかに生きてくれることによってのみ可能であることをしんずるのである。

青年は純粋なる理想を有つ。私はその純粋性を尊ばずにはいられない。人間は中年になってしまうと、概ね若いときの理想は社会の煤によって汚され、浮世の荒波に漂流する浮標(ブイ)のように色褪せたものとなってしまいがちである。

私たちが住んでいる此の人生が、今よりも一層よくなるであろうという希望を持ち得るのは、ただ青年の純粋な、浮世の汚れに染まない、ひたむきな理想と、その理想実現のためには一切の情実を超えて直進する勇往邁進の力に信頼するからである。この直情径行の純粋な理想性が常に社会改善の力となっているのである。

明治維新も青年の力によって行われたのである。今や昭和維新を待ち望む声は久しい。青年よ、理想をもって団結せよ。善人はもっと勇敢にならなければならない。私は『青年の書』に於いて青年たるものはいかに生きるべきかを書いたのであった。青年は勇敢であり純粋である点に於いて大人にまさっているのである。だから私は烏滸(おこ)がましくも青年に純粋であれ、勇敢であれと教えるつもりはないのである。

併し青年は、純粋であり、勇敢であるだけ、それだけ経験に乏しいのである。そして大人にだまされ易い。そして時とすると現象に執(とら)われ肉体的欲望に誘惑せられ易い傾向があり、肉体の皮層の美に引きつけられ、内在の魂の美を完成する事を忘れることが時にある。この書は青年の魂の美を完成するための資料として書いたのである。

『第二青年の書』という題名は最初の『青年の書』に引続いて再び青年のために書いた書という意味もあるが、それよりも本当の意味は次の如くである。

人間には「表面の自己」と「内在の自己」とがある。「表面の自己」を「第一の自己」だとするならば「内在の自己」は「第二の自己」である。それは「未見の自己」であるが、「表面の自己」が肉体的であるに反して、それは霊的である。そして「第一の自己」よりも奥深く沈潜していて、尚一層ホンモノの“自己”である。私は、さきの『青年の書』に於いて、青年はいかに生くべきかを私の経て来た生活体験に照らして書いたが、この『第二青年の書』に於いては、「青年の第二の自己」を発掘して、いまだ青年たちが気付かない「神聖なる自己」に対面させることを心掛けて書いたのである。

本書によって青年諸君が神聖なる「第二の自己」を見出し、今よりも一層深く生き甲斐と、生の歓喜とを感じ、唯物論による無目的無理想の味気なき生活から脱却して、「新しき自己」を生きる歓びを感じて生きられるならば、著者として幸いこれに過ぐるものはない。

  昭和三十四年四月十日
                                  著者識す

       <平成29年11月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。

 尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第一章 人間の矮小性を放逐せよ (8137)
日時:2017年11月12日 (日) 11時39分
名前:平賀玄米

 
          第二青年の書   目 次

第一章 人間の矮小性を放逐せよ
第二章 哲学と科学の境
第三章 生と死と創造と進化に就いて
第四章 すべての人と物との實相を見よう
第五章“新生≠ニ“涅槃≠ノ就いて
第六章 眞善美の生活
第七章 イエスとオスカー・ワイルドの対比
第八章 愛の本質とその段階に就いて
第九章 愛の完成に就いて
第十章 道徳の頽廃時代
第十一章 中心帰一の原理
第十二章 「新しき愛国心」と「眞の愛国心」
第十三章 青年と眞理を語る
第十四章 日本の歴史はあなたの心の中に生きている
第十五章 日章旗及び十六菊の象徴するもの
第十六章 日本天皇の霊的系譜
第十七章 人間の自由と秩序との問題
第十八章 理想の結婚に就いて
第十九章 社会生活と宗教運動
第二十章 人類光明化運動の選士を讃えて
第二十一章 親不孝論から親孝行へ

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         <第一章 人間の矮小性を放逐せよ>

       青年を祝福する

青年よ、あなたは既に完全である、何処にも欠点はないのである。あなたは素晴らしいのである。なぜならあなたは神の子であり、神の最高実現としてこの世に出現した者であるからである。
「神の子」というのは、決してあなたの現在の有様が完全無欠だということではない。あなたが現在どのような相(すがた)であろうとも、それが、たとい、どんなに不完全な相であろうとも、そんな事は仮の相に過ぎないのである。そんなことに捉われるな。

仮の相はウソの相であり、ウソの相は本当の相ではない、本当の相でないものはニセモノで、そんなものはあるがように見えても無いのであるから、そんなものに捉われてはならないのである。
そんなものに引っかかるな。あなたの本当のすがたは、即ち實相は、霊なのだ。霊的實在なのである。神の子であるということは、神は「霊」であるから、あなたも霊であるということである。
あなたは物質ではなく、肉体ではなく霊なのである。まずこの事を知らねばならない。

あなたは「霊」であって肉体や、物質ではないということがわかると、「霊」は物質の如くには分割し得ないものであるから、あなたは肉体は個々別々に存在する「個人」であるが如くに見えても、それは仮の相(すがた)であって、あなたは本当は普遍的な存在であるのである。

「霊」は空間的には普遍的な存在であると同時に、時間的には永遠の存在なのである。決してあなたは、空間的にも時間的にも断片的な存在ではないのである。この事をあなたは先ず自覚しなければならない。>永遠者として生活せよ。永遠の理想をあなたは失ってはならないのである。

現代ほど「永遠」というような悠久にして雄大な直感の失われている時代は少ないのである。外見の「敗戦」という仮の相にとらわれて、国の理想を見失って、ただ断片的に感覚の世界を追って刹那刹那を生きている人のいかに多いことであろうか。諸君は、そんな矮小な人間になってはならないのである。

つづく

        <平成29年11月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第一章 人間の矮小性を放逐せよ (8145)
日時:2017年11月13日 (月) 09時49分
名前:平賀玄米

 
       悠久・雄大・永遠なる自己を自覚せよ

悠久にして雄大なる存在よ。それがあなたの實相だ。理想は上空にかかる雲ではない。理想はあなた自身の内部にある實相である。永遠なるもの、久遠なるもの、神なるものが、あなたの内部に宿っていて、それが、時々刻々無限の時間を通して顕現しょうとしているのであるから、現象的に見れば理想は無限の彼方にあり、徐々に達し得るところの希望に過ぎないと見えるであろうけれども、映画の画面が銀幕の上で徐々に展開するかのように見えながら、それが既に一巻の巻き収められたるフィルムの中に完成したものであるのと同じように、あなた自身のうちに、既に永遠なるもの、滅びざるもの、完全なるもの、既に完成せる理想が宿っているのである。

あなたは目標を間違えてはならない。外界に引きずり廻されてはならない。外界の現象はただ映画のように内界の影にすぎないのである。深く深く内を観よ。あなたは既に完全なのである。あなたは愛深いものである。あなたは利己的存在ではない。あなたは神の最高の自己実現である。

それがあなたの實相である。實相は現象の彼方に投影して考えるとき、それが「理想」として実現の目標として、遠くに懸っている雲のように見えるにすぎないが、それは、あなたの内に既に完成している ――それを先ず自覚しなければならない。


     人間復興の選士たれ

現代の多くの人々は、自分の内にやどる永遠なる存在、實相、理想――久遠なるもの、悠久なるもの、眞に美しきものを見失って、肉体的なるもの、物質的なるもの、須臾(しゅゆ)にして消えるものを追求している。彼等は本当の悦楽というものを知らないのだ。本当の幸福というものを知らないのだ。彼等は、たとえばヒロポンの注射による一時的興奮による快感類似のものを本当の快感だとしてそれをついきゅうしているうちに、ついに中毒症に陥って人格喪失者となってしまうように、實相の悦びを喪失してしまっている。

青年よ、せめて諸君は、眞の人間復興の選士として、人間の内にやどる理想であり「實相」であるものを傷つけることなく、勇敢に、たくましく、肉体や物質の誘惑に対して闘い勝って、「人類よ本当の幸福は此処にあるぞ」と、迷える人類に対して、眞の幸福への道を、眞の歓喜への道を指し示してくれなければならないのである。

人間復興――何という素晴らしい諸君の使命であろう。いかに堕落しているように見えても眞の人間は傷つけられてはいないのだ。なぜなら眞の人間は霊であるからだ。眞の人間は霊であるから傷つけられはしない。併し気の毒にもその霊なる完全なる人間は、不幸にも、人類の長くそして執拗なる唯物論的迷妄によって蔽い隠されて、その殆んど全てがあらわれていないのである。青年よ、諸君が人類の先頭に立って、この蔽いを取除く役目をしないで、誰がそれを為し得るか。諸君は若いのだ。新鮮なのだ。まだ塵埃に蔽われていないのだ。古き執拗なる蔽いを取り除いて、人類の眞の實相をあらわし、眞の魂の悦びを知らしてやるのは、諸君を除いてほかにはないのだ。

人間の實相は完全なるかな。魂の蔽いを除(と)れ。そして人間の實相を直視するのだ。まず自分の完全さを凝視するのだ。その凝視からあなたの完全な實相があらわれる。これが神想観である。神想観によって自己内在の完全な實相をあらわすことがまず第一だ。「観る」ことは「つくる」ことであり、「あらわす」ことである。

常に神想観によって自己の霊なる悠久にして雄大、完全にして円満なる實相を見よ、併してそれを顕現せよ。同時にすべての隣人に対して、その眞理を教えよ。それが眞の愛行である。観と愛行と、車の両輪の如く、それが打ち揃って覚行円満なる菩薩となることを得るのである。青年よ、あなたは菩薩中の菩薩である。

つづく

        <平成29年11月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第二章 哲学と科学の境 (8157)
日時:2017年11月14日 (火) 10時10分
名前:平賀玄米

 
          <第二章 哲学と科学の境>

      天体をつくった不思議な力

この世界には何処にも充ち満ちている「心」があるのであります。唯物論者はこの世界が「物質」で出来ているというのでありますけれども、しかし「物」自身が勝手に集まって天体が出来、太陽が出来、地球が出来たとこう考える事はとても出来ないのであります。

大体この「物質」といいますものは如何なるものかといいますと、物質というものは現代の人間の概念からいいますと、一定の分割し得べき体積を持っているものであって、細かく分割し得るものである。そして物質自身は知性のないもので、目的意志を持たず、みずから進んで勝手に動くことは出来ないものである。その運動は結局何か他の者からエネルギーを与えられて、与えられた方向に惰力をもって動いているものである ――こういうようなものが大体「物質」の定義であります。

ところで物質というものが「知性」がなく、みずから目的意志を持たないで自分で勝手に動くことが出来ない、ただ与えられたエネルギーによって動かされて動いている。例えば汽車が動くというのは、蒸気の膨張力というエネルギーによって動かされている。蒸気の膨張力が留まってもしばらくは惰力で動いている。若し摩擦が無ければ惰力によって、与えられた方向に永久に動いているのであって、他の力を与えられなかったならば、自分勝手には方向転換は出来ないのであります。だから自分で自由意志による勝手な集まりや排列をすることは無いのであります。

ところが、物質の物理的法則、力学的法則或は化合の法則というようなものを見ますと、それは凡て数学的な秩序によって動いているという事が判るのであります。なぜそういう秩序によって動いているかといいますと、それは矢張り、「知性」があるからであると言わねばならないのであります。秩序性というものは知性のあらわれであって、知性がない事物は混沌雑然となるのでありますが、天体運行の秩序性とか、物質分子の組織の秩序性とかいうものが厳存しているのは、つまり智慧があるからです。

吾々の頭で考えるよりももっと素晴らしい智慧をもっているのです。吾々人間の頭脳は学校で習わないと、高等数学を知る事が出来ないという位の知性しか持っていないのでありますけれども、物質が「化合」したり「運動」するところの「法則」は小学校の生徒が学校で習った位の数学では判らないところの複雑な「知性」によってその秩序性が保たれているということが、判る訳なのであります。そうすると「物質」の中にもすぐれたる「知性」があるのだといい得るのであります。

つづく

        <平成29年11月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第二章 哲学と科学の境 (8163)
日時:2017年11月15日 (水) 10時14分
名前:平賀玄米

 
星と星との間の空間は、これは全然真空であると考えられていたのでありますけれども、最近の発見によりますと、そこには一番簡単な元素即ち水素が極く微量ではありますけれども発生しつつあるというのであります。その水素の原子が集まりましてそして天体となった、現に太陽という天体は水素ガスの塊であると言われているのであります。その水素ガスというものは散ってしまう働きを持っている。ガス体というものは「拡散」といって拡がって散ってしまうものなのです。

この性質は物理的な、機械的な無意志的働きであります。水素ガスというのは、皆さんがご存知の通りゴム風船の中に入れると風船がフーと浮き上がって、子供の玩具になる軽いガスであります。
あんなにゴムで密封しておいても水素ガスの分子は小さいからゴムの分子と分子の間から抜けて行く、そして段々ゴム風船が小さくなって、ゴムが縮小して縮(ちじ)れたようになって空中へ浮き上がらなくなるのであります。

そういう風に密封してあってさえ拡散して散って行こうとするのが水素ガスなのであります。それなのに、その容れ物も、密封する装置も何もないのに、その水素ガスをギューッと一箇所に集めて一つの太陽という「天体」の形にしたところのその不思議な力は一体何でありましょうか。

その力は単なる機械的な物理的な力以上の「神秘な力」だと謂わねばなりません。この「神秘な力」を私は仮に「神」と呼ぶのであります。ガス体は散ってしまう物理的性質を持っているのに、それを散らせないためには密閉した容れ物がなければならないし、ガスを圧縮して太陽のように熱を発生せしめるには、圧縮機のような密閉した圧縮装置がなければならないのに、容れ物も何もなしに、その水素ガスを固めて、固めるといっても、単にそれを雲のようにフーワリと集めているのじゃなくって、実に強大なる力で圧縮したために、圧縮によって驚くべき熱を発生し、あの高熱の太陽になったのです。

ガスは圧縮すると熱を生ずるのです。太陽の内部にはその圧縮熱によって、摂氏推定二千五百万度と謂われるような高熱を発生していて、その為に熱核融合反応を起こして、水素ガスの原子核が融合してヘリウムの原子核に転換しつつある。即ち水素爆弾と同じ原理がこの太陽の中で行われているのであります。

そうすると天体を造ったところの力というものは、単なる物理的な機械的な力以上の力である。物理的な、機械的な、そのままであればガスは散ってしまうのだけれども、それ以上の有目的な力が働いているといわねばなりません。その有目的な力は、即ち「生命」であって、時には自然の物理的性質を利用しつつ、時には物理的法則を超えて、目的ある秩序に、素材を配列し直すのであります。

つづく

        <平成29年11月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第二章 哲学と科学の境 (8167)
日時:2017年11月16日 (木) 10時26分
名前:平賀玄米


       「生命」と物理的法則との関係

大凡(おおよそ)この「生命」というものは自己の目的達成に物理的法則を利用しているけれども、更にそれ以上の力をもっていて、時には物理的法則を超えた働きをするものであります。この物理的法則を超えた働きというのは、ひとつの目的意志によって、(例えば天体をつくるとか、人体をつくるとかいう目的によって)物理的法則というものを或る場合にはそれを抑制し、或る場合にはそれを、尚一層強めるような働きをして、目的意志の方向に物理化学的運動を歪めて、或る目的あるものを実現する力があるということが出来る訳であります。

それで、この世界の天体を拵(こしら)えたという「力」は一体如何なるものかというと、単なる物質が物理的法則のみによって結合したものではなくて物理的現象を超えて、或る生命がその目的意志に従って、ガスなら散ってしまう物理的法則でも、それを散らせないようにし、そして圧縮熱を起こして核融合反応による原子力を地球に送って、吾々が生活出来るようにそれを光と熱との現象に変化しているということになっているのであります。

尤も、この最初の簡単な元素であるところの水素というものは、真空の中から産まれて来るのでありまして、何にもない処から出て来るのであります。今でも天体と天体の間の真空(無)の空間から、水素の原子が微量ではあるがつくられつつあるのであります。

これを造る不思議な力を「生命」とか「神」とか言うのでありますが、この「生命」というものは、結局、「無」からして「一切のもの」を造り出して、それを目的意志に従って色々に配列して色々の姿を実現するところの力である、ということが出来るのです。

その「生命」が吾々に宿っているのであります。そしてその「生命」が持っている目的意思を、吾々は承け継いでおり、その「生命」の持っている知性を吾々は承け継いでいるのであります。

吾々が色々の研究をやって天体を研究したり、或は物理・化学的現象を研究したりしてそれを理解することが出来るのは、この物理・化学的現象であるとか、天体の現象であるとかいうものを支配しているところの知性と同じ「知性」が吾々のうちに宿っていることによって、宇宙に充ち満ちているところの現象を支配するその「知性」と、その知性のあらわれであるところの法則を理解することが出来るのであります。そしてその法則を使って又自分の目的意志に従って色々のものを造り出しているのであるということが出来るのであります。

つづく

        <平成29年11月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第二章 哲学と科学の境 (8171)
日時:2017年11月17日 (金) 07時06分
名前:平賀玄米

 
     普遍的知性と人類に宿る知性との関係

以上の説明によりまして、結局この宇宙には普遍的に「知性」が充満しているということがおわかりになったと思います。皆さんに宿っている「知性」と、遍く宇宙に満ちている「知性」とは同じ「知性」である。ですから、皆さんを人間として顕わしているところの「知性」――日本人を日本人として顕わしている「知性」は、アメリカ人をアメリカ人の姿に顕わしている「知性」と同じ「知性」である。

即ち皆さんにも目が横につき、鼻が縦につき、口が横につき、同じタイプに造られているのであります。これが一つの知性でなしに、沢山色々な別々な知性があって、各大陸で別々に人間というものを拵えたのでありましたならば、日本で拵えた人間は目が三つ位あって、或は口が二つ位ついておっても構わんのでありますけれども、人間の発生した大陸が異なっておりましても、同じ知性が造ったものですから、日本で生まれた人も、アメリカで生まれた人も、印度に生まれた人も、アフリカに生まれた人も、その構造が矢張り同じになっているのであります。

尤も、それは人類が最初に出来た発生場所が一ヶ所であって、その子種が諸方に振り撒かれて子孫が繁殖しているのだから一つの構造を遺伝しているのだと言う人があるかも知れませんけれども、アメリカの新大陸が発見される迄には、恐らく旧大陸との間には交通が無かったらしいのであります。

例えば、アメリカにだけある植物で、アジアやヨーロッパには無かった植物もあります。煙草なんかでもコロンブスがアメリカ大陸を発見して、煙草をアメリカインディアンがのんでいるのを見るまでは、こちらの国の人達は煙草というものを知らなかった。

ところがコロンブスがアメリカ大陸を発見してみると、矢張りそこに人間が住んでおって、ヨーロッパ人の知らない煙草というものを吸っていたのであって、目が横につき鼻が縦につき口が横についていた。口だけじゃないんです。彼等の内臓も、ヨーロッパ人と同じ位置にチャンと位置している。だからこそ医学という者も、生理学というものも世界共通に成り立っているのであります。その知性を吾々が分かち与えられて、そして吾々の「生命」となり「知性」となって此処にある訳であります。

つづく

        <平成29年11月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第二章 哲学と科学の境 (8178)
日時:2017年11月18日 (土) 10時48分
名前:平賀玄米


私たちの「知性」のうち、五官の感覚的知性というものは対外的知性であって、外にあるところのものを感受して、それに対して如何なる処置を執るべきか、というような事を考えるよう出来ている訳であります。知性が発達して来ますと、内に向かって内観するという種類の対内的知性が生まれて来るのでありますが、この内観の知性は、高級な人間でないと備えていないのでありますが、

生物が単細胞の生物であった時代――即ちアミーバの様なものであった時代には、それは水の一滴みたいなものであって、内臓も脳髄も何もないけれども、こんな物にも矢張り「知性」が宿っていて、食物が近くへやって来ると触手を伸ばしてこれを挟んで取り、自分の中へ抱き込んでしまう。

その抱き込んだ内部が胃袋のハタラキをしてその食物を消化する。此の食物は直接に触れないでも、或る距離まで来ると、目も鼻もないのにちゃんとそれを感知するのです。生命の知性というもんは実に不思議なものであります。この点に就いてはアレキシスカレル博士著『生命の知恵』及び私の『生命の謎』という本を読んで頂きたいのであります。

こんな単細胞の動物でも何処かに食物となるべきプランクトンが近づいて来たら、離れておってもそれを知ることが出来、目も耳も何もないんだけれども之を知ることが出来るというのは、「生命の知恵」というものは物質的組織を超えた神秘力であるということをあらわしております。

これら単細胞生物の皮膚は一種の眼であると同時に、腕でもあり、その触手で食物を自分の中に取り込んでいくと、それが胃袋にもなる。内臓でもあれば皮膚でもあり、眼でもあれば、耳でもあるというような多種多様のハタラキが出来るのは、その組織の複雑さによるのではないから、これを物質の機械的オートメーション作用だとは言うことが出来ない。

これは、このアメーバに宿る宇宙の知性の働きが分化していないで宿っているのです。分化以前の「宇宙の知性」には何でも知るハタラキが内在していることがこれによって分かるのであります。
ところが、段々高級な生物にまで生理機構が発達して来ますと、「見たい」という意志即ち「心の動き」が、今まで単純な構造であったところの細胞の構造や、その集合配列の状態を組織的に変化して、「眼」の組織構造に造りかえるということになるのであります。心のはたらきによって肉体の構造が変わって来るのであります。

つづく

        <平成29年11月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』 <第三章 生と死と創造と進化について> (8182)
日時:2017年11月19日 (日) 06時47分
名前:平賀玄米


            <第三章 生と死と創造と進化について>


        人間の肉体は何が造ったか

肉体の構造は一種の建築であります。仮に此処に豊島区の公会堂を建てる場合を考えてみますと、先ず設計図というものを設計者の心の中に描くということに始まるのであります。心に描かれた通りに設計図が出来、その設計図の通りに物質の材料がそこに運び来られて、それが組立てられて、豊島の公会堂になったのだというわけであります。

ですから豊島の公会堂という建物は、実は設計者の心の中にあったのであって、心の中にある姿の通りに物質が置き列べられたのでありますから、これは心の姿の“写し≠ナあって、本物は心の世界にあるのであります。

それと同じように人間の肉体というものが、現在の此の姿になったということは、肉眼には見えないところの“魂≠ニいうべきか、“霊≠ニいうべきか、兎も角、吾々の眼に見えざる実体が、心の中にこういう姿を描きまして、その姿の模型の通りに、適当な養分を寄せ集め排列して造っているのであります。だから指先の指先の皮膚を擦り剝きまして指紋が消えてしまいましても、再び指先の皮膚が再生するときには、その再生材料が元の通りに排列しまして前々通りの指紋が再生するのであります。

指紋は既に生きている人間の一部分でありますっが、人間がまだ一人も生まれ出ていない時に、地球の或る部分を、何者がこのように人体の形にまで置き列べて、こういう複雑な人間の肉体が出来たんだろうということになりますと、どうしても肉体以前に、人体の形を設計したところの「霊」とか「心」とかいうものがなければならないのであります。

もっとも始めからこんな複雑な人体が、ポッコリと生まれ出て来たのではないのであって、もっと簡単な生物から段々と複雑な生物が生れて来たことになっているのであります。

つづく

        <平成29年11月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』 <第三章 生と死と創造と進化について> (8188)
日時:2017年11月20日 (月) 09時29分
名前:平賀玄米

  
      ダーウィンの進化論と生長の家の進化論

それはダーウィンの進化論がその眞理を幾分解明しているのであります。そう申しますと人間は猿から進化したのかと、早合点する人もあるかも知れぬけれども、人間は決して猿の子じゃないのであります。人間が猿から進化したというのではないのであって、大生命は「猿」を造り、更に一層すぐれた「人間」を造るというふうに、大生命が一層高級のものを設計していったのであります。例えば、この豊島区公会堂というものは、或る設計家の心の中に出来て、その心の中の設計が具体化してこういう建物が出来たのであります。

これはもっと古い時代の建物と較べると、確かに非常に立派な建物になっているのであります。そうしましたら、その古い時代の建物からこの豊島区公会堂は進化したのであると言えるわけであります。併し古い時代の建物の子孫が豊島区公会堂ではないのであります。設計家の「心」が古い建物よりも一層いいものを進歩的に考えて、こういう新しい建物が出来たのであります。


        進化は徐々変化ではなく突然変異である

ところが此の豊島の公会堂の建物は、終戦直後出来たもので、もう大分古いから、もっと新しい会場に行きますと、又更に設計が高級になっております。先日大田区の公会堂に行って生長の家の講習会をやったら、もっと装置が新しく優秀に出来ておりました。そうすると前に出来た豊島の公会堂よりも、後に出来た大田区の公会堂の方はもっと進化したものであると言えます。

確かにそれは、「進化したのである」と言えますけれども、そんなら、豊島区公会堂が段々形が変わって、大田区公会堂になったのかというとそうではない、又豊島区公会堂が。一層進化した公会堂をオギャーと産んで、子孫が段々高級になったのかというとそうでもない。神かと言っても、それは、別の高級な設計(理念)を設計家が考えついてそれを形にあらわしたのであります。理念が別なのであります。

それと同じく、生命は猿から人間に進化したのであると言っても、猿の子々孫々の形が変わって人間の形になったという意味ではないのであります。それは恰度、大田区公会堂は、豊島区公会堂が産み出したところの一層進化した子孫ではないのと同じ事であります。あれは別の「設計」即ち、別の「理念」が天降って来たのであります。即ち設計家の心に別の優秀なる建築の形が、天降って来てその通りに形が造られて出来たのであります。

猿から人間への進化もその通りで、決して「猿」が産み出したその子孫が段々とすぐれた形になって「人間」になったというのではなくて、「生命」が別の一層優れたる設計をしてそれを形にあらわしたということなのであります。

近頃の進化論では、一代に於いて獲得した所の性質というものは、次の時代には遺伝しないものであり、進化というものは「突然変異」で、別の理念が天降って突然別の形態のものがあらわれるのだということになっているのであります。

つづく

        <平成29年11月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』 第三章 生と死と創造と進化に就いて (8190)
日時:2017年11月21日 (火) 10時05分
名前:平賀玄米


       環境に適応するための肉体の変化は遺伝しない

実例をあげますと、吾々が手に非常に固いものを握るというような労働をすると、その環境に適するように掌(てのひら)の皮は段々に厚くなるのであります。これは適者生存の原理でありますが、そうしたら、労働をして掌の皮の厚くなっている人が赤ん坊を生むと、その赤ん坊の掌の皮は厚くなって生まれ、その子が又、掌を厚くするような仕事をして手にタコが出来て、更に子孫を生んで行くと、その子孫は生まれながらに掌が厚くなるかというと、決して厚くなっていないのです。

これは赤ん坊の掌を調べてみればわかります。そういうように、一代で環境に適応するために得た肉体の変化は遺伝しないのであって、遺伝ではなく、その時その場に適合するように、一時的に変化するだけであって、又もとのそういう固い物を握らない環境に置かれたならば、再び柔らかくなってしまうのです。

私の母親は九十六歳である。そして最近非常に視力が衰えて仕事をしなくなった。視力が衰えなくとも九十六歳になると余り仕事をしませんけれども、私が数ヶ月前に、神戸にいる老母に会いに行って、そして握手をしてみましたら、その母親の手が実に柔かいのです。オギャーと産まれた時の赤ちゃんの手そのままに柔かい手をしているのに私は感心したのであります。

私の母は若い時には非常な働き者であって、その頃の掌は実に男の人よりも硬いような手をしておられたのですけれども、環境が変わるとチャンとこういう風に柔かい本来の相に戻ってしまうのです。そういうように、環境に適応するために、一代で得た肉体の形状の変化は環境を元へ戻すと、肉体の形状も元へ戻って次の時代には遺伝しないということになっているのであります。

 
        どうして変種ができるか

それなら、どうして変種が出て来るのかと言いますと、それは環境に適応する為の変化が累積したのではなく、突然変異又は突発変異と言われているところのものであります。それは例えば豊島区公会堂の姿が徐々に変わって、大田区公会堂の姿に進化したというのではなくて、豊島区公会堂とは別の設計が設計者の心に天降って、大田区公会堂が出来たと同じように、突然異なる設計(理念)がそこに天降って来て、前よりも優秀なものが出来てくる――これが進化であります。

つづく

        <平成29年11月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第三章 生と死と創造と進化について (8196)
日時:2017年11月22日 (水) 10時08分
名前:平賀玄米


        最高理念の天降りとしての人間

このようにして、まだこの世の中には人間が生まれていないで、ワニや蛇や蛙のような爬虫類や両棲類がいた時代から段々進化して皮膚に毛の生えた哺乳類動物が生まれた、その哺乳類動物中の最も優れた猿から、その次に人間が生れて来たのも決して爬虫類が哺乳動物に進化したのでも、哺乳動物が人間に進化したのでもなく、突然変異によって全然異う設計理念が天降って来たのであって、最後に「人間」なる最高理念が天降って来て突然今までと異なる「新種」が出現したのであります。理念というものは精神的模型だと考えたらよろしい。

「人間の姿」の精神的模型が天降って来て、その精神的模型の相に心の牽引力によって色々の物質が集められ、秩序立てられ、排列せられて、煉瓦建築物が構築せられるように、肉体というものが構築せられたのであります。煉瓦建築物の製作者は煉瓦自体ではなく、煉瓦を一定の秩序に積み上げた設計者の「心」であります。

それと同じく、人体をつくった主人公は、その材料である物質ではなくその人体を拵えた「無形の魂」であり、このこの魂こそ「本当の人間」であると言わなければならないのです。だから、この肉体は死んでも、吾々のこの肉体を造ったところの主人公なる、「本当の人間」は死なないのであります。


        「肉体」は毎日死んでいるが「人間」そのものは死なない

肉体の面から言いますと、吾々は、毎日毎日死んでいるのであります。これはもう誰しも知っていることです。人体を構成する細胞は毎日毎日死んで行って、新しい栄養で、又別の細胞が造られて補填されている。私たちの肉体は時々刻々燃えているのであります。謂わば火宅であり、火事が起こっているのです。

火事が起こっていなかったら体温がないのであります。肉体は火事によって終始燃え、燃え尽きて行くに随って又新たに薪をくべるように口から飯を入れたり、パンを入れたりしてその燃えるのを補ってゆきつつあるのであります。だから肉体の方から言えば、吾々は常に火事に遭って燃えて死につつあるのであります。今更肉体が死んだからとて悲しいということはないのであります。

しかし肉体は人間ではない。肉体をつくった主人公たる「本当の人間は」、肉体が死んでも死なないのであります。ラジをの機械に故障が起こって、突然アナウンサーの声が聞こえなくなっても、それは機械の故障であって、アナウンサーが死んだのではない。それと同じく、肉体に故障が起こって物を言わなくなっても「人間」は死んだのではない。死んでも死なない人間というものを発見することが、宗教の一つの目的であります。

つづく

        <平成29年11月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第三章 生と死と創造と進化について (8206)
日時:2017年11月23日 (木) 08時56分
名前:平賀玄米

        
       此の臨終の荘厳を見よ

昭和三十三年三月号の『生長の家』誌に和佐田邦臣という人が、自分の妹さんである静代さんの臨終記を書いています。和佐田氏は、本部で講習があった時に体験談として言われた話を更に詳しくご自分で書いて送って来られたものであります。

昭和三十二年四月十日の晩のことです。もう十時も過ぎたので、母は寝ようと思って静代(私の妹)の寝ている部屋に入って行きました。母が静代の枕許に座ると、静代はしんみりした調子でこう言いました。 『お母さん、私、明日の十一時に霊界に生れ更ることになったのよ』まことに素晴らしいことであります。

自分で肉体の死期を自覚し、しかも“人間≠ヘ死ぬのではないことをハッキリ知り、死ぬなんてことは一言も言わないで、“霊界に生れ更る≠ニ言っていて、悲しみの表情も苦しみの表情もないのは、禅宗の老師の入寂のときのような荘厳さがあるではありませんか。

しかし母は突然こう言われたので全く驚いてしまいました。そして『お前、気を確かに持たなくては駄目ですよ。五年十年寝たって治る人は治っているのですよ。貴女は寝てからまだ一年経っていませんよ』と言ったのです。

実際、静代は長いこと寝ていましたが、少しも病人らしい苦悩を顔に表していませんでした。勿論、元気にしていた頃より顔は細くなりましたが、いい血色をしてニコニコしていました。家中の者が静代が死ぬとは夢にも思っていませんでした。けれど、静代はこの母の励ましの言葉に対して静かに首を振りました。『いいえ、もう肉体の堪えられる限界が来ていることが判っています。もう皆さんとお別れの時期が来たのです。どうぞ私を霊界にやって下さい。』

こう言ってから、父母を初め私達肉親にお礼を述べて、『皆さん、さようなら。』と言って、こういう言葉を残すと急に顔色が変わった。(中略)『静代、静代、静代、』と魂を揺さ振るようなこの呼び声はとうとう天にまで通じたのか、息もしない、脈拍もない静代から声が出て来たのです。――
『静代は實相の世界に居るのよ。』そしてまた、『實相の国は光明燦然として光輝いているから暑いの。私はまだ馴れていないから暑いの。馴れれば何でもないのよ。』(和佐田氏手記)

このように静代さんが、もう息を引き取ったような状態において、霊魂が亡骸の肉体を使って、ものを言っているのです。詳しい事は『生長の家』誌の昭和三十三年三月号をお読み下さると分かるのでありますが、こういう体験談を通して、私たち人間は死なないものであるということがハッキリ解るわけであります。これは静代さんだけではない。生長の家の人には、往々こういう大往生をする人が随分沢山あるのであります。

つづく

        <平成29年11月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生著『第二青年の書』第三章 生と死と創造と進化について (8209)
日時:2017年11月24日 (金) 10時06分
名前:平賀玄米


大体この「死」ぬということは、「人間」そのものが死ぬのではないのであって、人間の魂の乗馬であり、道具であるところの肉体に、もう年期が来て修繕するに耐えなくなって、その道具を捨て、他の新しい道具に乗り換える為に肉体を去ることなのであります。肉体は「魂」という眼に見えない本体が、この地上に、或る仕事をし、或る使命を果たす為にこの地上に「魂」の「乗物」として拵えられたところの道具であるのです。だからその肉体を使う必要のある間は、肉体の内部から始終、修繕をしているのであります。

肉体を修繕するのは外から補布(つぎ)を当てるのじゃないのであります。内から修繕をするのであります。私たちは靴を履いて、靴下をはいていますが、靴は踵が段々古びて来る。前の方の半革も古びて来る。それを打ち換えたり縫い変えたりしなければならぬし、靴下は孔があいて来ます。けれども足の裏は一向に孔があいてこないのであります。そしてかえって部が厚くなって来ます。これは物理的自然の法則とは異なるのです。  

生命は自然界の物理的法則も利用しますけれども、物理的法則以上のこともして自分の目的を達するのであります。摩擦しても、摩擦しても、孔があかないでかえって足の裏の皮が段々分厚くなって来るのは、生命が内から補布を当てているからであります。

足の裏の皮は一つの実例として言ったのでありまして、身体中どこでも内から始終修繕しているのが此の人体なのであります。肉体というものは「人間」が地上において仕事をする為の道具で、内なる生命が中から始終修繕しているのです。そのかわりに、もう修繕する必要がなくなってしまったら、もう修繕しなくなります。

その人の「霊」が、「私はもう霊界に往くんだ。今更修繕をしてみたところで仕方がない」ということになりますと、もう摩擦して禿びても修繕しませんから、柔かい布団の上に寝ておってさえも、少しづつ摩擦して、ちびて来るのに修繕しなくなりますから、“床ずれ≠ニいうのができます。或は体の何処かが禿びたり、欠損したりしても修繕しなくなりますから、そこに病気の相が出て来るのであります。

これはその人の霊魂が「もう私の地上の寿命も終わりに近づいた。もうこの肉体を使っても仕方がない。他の肉体に生まれ更ろう」ということに気がつく時期が来まして、もう内部から修繕しませんから、誰でも皆多少病気みたいな姿になって、死ぬのであります。「人間」そのものは死なないけれども、「肉体」が死ぬのであります。そしてそれは、もう使い禿びた古靴を脱ぎ捨てるようなものであります。穿き捨てた靴を見て「この靴が人間か」と言ったとて、それはもう人間ではありません。

それと同じように、私たちの「肉体」はもう既に「人間」ではないのであります。その眞實が判ったら私たちは死の恐怖を越えることが出来るのであります。そして朽ち果つべき肉体の快楽などよりも、永遠に続く魂に徳を積んでおくべきものだとわかるのであります。

今回にて第三章までは終了。次回から第四章〜第六章です。引き続きご愛読下さい。

        <平成29年11月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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