《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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総裁の今回のブログ記事の深層心理を読み解くと…清超先生の追善供養祭の場所まで間違うとは! (8032)
日時:2017年10月30日 (月) 18時14分
名前:破邪顕正


谷口雅宣総裁の、10月28日 (土)付けのブログ記事「自由で多様な運動を展開しよう」を読んでの私なりの感想を書いてみようと思います。

まず、唖然とするのは、総裁は清超先生を利用することはあっても心から尊敬してはいない、ただ尊敬をしているフリをしているだけであるというのが、はからずも明らかになったことです。

その何よりの証拠が、これです。

>この9年前に谷口清超大聖師追善供養祭というのが生長の家総本山の出龍宮顕齋殿でありましたが、その時、参列された皆さんに私が申し上げた言葉があります。<

えっ???

追善供養祭は総本山ではありません、飛田給で執り行われたのです!

だから、心ある信徒は、どうして総本山ではないのかと怒ったのです!

現に、総裁自身、こう書いていたではありませんか。

2008年12月17日付けの「谷口清超先生を偲んで」にはこうあります。

>今日は午後1時から、東京・調布市にある生長の家本部練成道場で「故 生長の家総裁谷口清超先生追善供養祭」が執り行われた。<

普通、自分の親の追善供養祭の場所を間違えますか?

それで、こういうことを恥ずかしげもなく総裁はいうのです。

>清超先生の記憶はまだ新しく、先生の教えは少しも古くなっていない。

つい1日前に説かれたように新鮮である、というような印象をもつ<

だったら、場所を間違えてはいけないのではありませんか?!

こういうことだから、総裁の言っていることが、実に嘘っぽく感じられてならないのです。

更に、言わせていただけば、

>その時、参列された皆さんに私が申し上げた言葉があります。<

これがまた、当時の信徒にどれだけの衝撃を与えたか?!

間違いの無いように「谷口清超先生を偲んで」から引きましょう。

>私と妻は、朝晩に神想観をしますが、その時に基本的神想観と如意宝珠観をよくします。

如意宝珠観では、ご存じのように、家族の名前を一人ずつ呼んで、「○○さんは、身健やかに、心美しく、姿形麗しく、和顔愛語讃嘆に満たされたり」と唱えます。

それと同時に、名前を呼んだ人の顔を心に思い描いて、その人がニコニコと笑っている姿をイメージします。…

ところがこの祈りの言葉をよく吟味してみると、「肉体が健やかであり」「姿形が麗しい」ということですから、霊界へ行かれて姿形がこの世にはない人に対しては、あまり適当ではないのです。

そこで私は、先生がお亡くなりになってから後、先生のお名前を呼ぶのを省略して、「谷口恵美子先生」から始めるように努めているのです。<

「あまり適当ではない」

えっ???

どうしてこんな解釈が出て来るのかと、当時、本当にビックリしました。

だって、「如意宝珠観」は龍宮城、つまり、実相世界のことを述べているのですからね。

死んだら唱えられないなんて、それは神想観ではない、現象観でしかない。

生き通しの命が、総裁は少しも分かってはいない。

心ある信徒はそう感じたのです。

(続く)



本当に「如意宝珠観」を実修していたら、谷口恵美子先生が高知に〝脱出〟なさることはなかったのでは! (8033)
日時:2017年10月30日 (月) 18時24分
名前:破邪顕正


「如意宝珠観」を実修していたら、「身健やかに、心美しく、姿形麗しく、和顔愛語讃嘆に満たされたり」

谷口恵美子先生が「和顔愛語讃嘆に満たされ」るような、そういう扱いをするのが当然でありましょう。

そして、そうなされていたら、高知へ〝脱出〟なさることはなかったと思うのです。

よし、谷口恵美子先生が高知に赴かれたとして、「如意宝珠観」を実修していれば、高知教区の講習会の際、最低限、合おうとするものではないでしょうか?

それすらしないというのでは、本当に「如意宝珠観」を実修しているのだろうかと、どうしても訝しく思ってしまうのです。

総裁の言葉に、どうしても信がおけない…。

というのは、そういう事情があればこそなのです。

(続く)


「自由で多様な運動を展開しよう」の背景には何があるのか? (8035)
日時:2017年10月30日 (月) 19時00分
名前:破邪顕正


総裁の今回の記事のタイトルは、「自由で多様な運動を展開しよう」となっているわけですが、それでは具体的にそれは何を意味しているのでしょうか?

こう書いてあります。

>この“森の中のオフィス”では「自然の恵みフェスタ」が開催されました。

そこで行なわれた「森の日だまり音楽祭」を聴きにこられた人も多いでしょう。…

音楽以外の分野でも、SNIクラフト倶楽部の活動として、このフェスタに作品を出す人の数は、確実に増えています。…

さらに、自転車競技の天女山ヒルクライムでは、参加者が前年より11人(16.4%)増え、参加地域の数は、ヨーロッパを含めて12教区と1地域(21.9%)増えました。

ますます多様化しています。<

何のことはない、「多様化」とは、こういうことを指しているのです。

つまり、総裁がいいたいことは、こういうことなのです。

>昨今の狭いナショナリズムの台頭や「〇〇ファースト」の潮流に迷わされることなく<

ここに象徴的に表現せられているように、かつての愛国運動を志向した、所謂、〝スリーパー・セル〟はすべて教団から放逐した。

もはや、そういう人は、教団にはいない。

谷口雅春先生時代の「生長の家」に戻そうにも、もはやその芽は完全に摘み取ったから、何の心配もいらない。

「自由で多様な運動を展開しよう」と言ったからといって、だったら多様性の一環として、愛国運動に取り組むのもいいのではないのか、そういうことを提言するような雰囲気は、今の教団には一切ない。

教団に乗り込んできて30年余、ようやく、生長の家教団をして〝自分の好き放題〟にできる、まさに掌に乗せることができた。

総裁の、その自信の表れこそが、この記事なのです。
ザックリ言わせてもらえば、「自由で多様な運動を展開しよう」とは、総裁が願うことは何でもできる、好き放題にできる、その別名に他ならないということです。

果たして、この「自由で多様な運動を展開しよう」の路線が成功するのでしょうか?

私は、見事に失敗すると確信しています。

なぜといって、そこには、信仰の香りが微塵も感じられはしないからです。

環境団体として存続するのならばまだしも、〝宗教団体〟を冠している以上は、それは致命傷であるというのが私の見方です。

案外、総裁は、名称変更を念頭においているのでないのか。

宗教団体としての「生長の家」を解散し、環境保護団体として再出発する…。

その方が「自由で多様な運動」を志向しやすい。

そんなことすら考えているのではないのか?

そう思ってしまうほど、宗教団体としての生長の家の変質ぶりは目を覆うばかりであると思うものであります。



中途半端に悟った人は厄介ですね。 (8036)
日時:2017年10月30日 (月) 21時22分
名前:そーれ!!

そう、それが、雅宣さんです。

ご自身はすっかり悟ったつもりで、珍論を展開する。誌友会などでも、たまにそういう
人がおられて、周りは迷惑します。

でも誌友会では、ベテランの講師達がそれを建て直し、ちんぷんかんぷんのその人を、
真理の道へとお導きしますので、それはそれで問題ないのですが・・・。

仮にも生長の家総裁(自称)が、御祭神を変え、お経を変え、反日を先導するのですから
今の教団は、誠に気の毒です。

そして今回は、神想観の解釈捏造です・・・・・。

中途半端に悟った人は、厄介ですが、雅宣さんは、それ以下なので、
更に厄介です。

自由で多様的な運動を展開するのであれば、自民党に投票するのも自由なのでは
ありませんか?

と、私は考えます。


追加です。 (8037)
日時:2017年10月30日 (月) 22時34分
名前:そーれ!!

霊体も、ある意味 身 だと思います。

霊界も、ある意味現象界ですから・・・。

雅宣さんに聞いてみたいなあ。

浄心行で、霊界に移行した父母のにこにこ顔を思い出し、

背中を流すのもマズイのだろうか・・・。

雅宣さんは、純子さんに言うのだろうか?

オレが死んだら、如意宝珠観で、オレの名前を唱えるな!!

何だか気の毒な夫婦に見えるのは、

私だけでしょうか・・・・・?


「総裁先生ここは間違っています」と注意する側近がいなくて何が〝自由〟でありましょうか? (8040)
日時:2017年10月31日 (火) 08時44分
名前:破邪顕正


総裁は、今回の記事の冒頭、こう書いています。

>今日は午前10時から、生長の家国際本部“森の中のオフィス”で谷口清超大聖師九年祭が行われ、私は概略、以下のような挨拶の言葉を述べた:<

ということは、この話を教団幹部は挙って聞いていたということになります。

だったら、清超先生の追善供養祭の場所が間違っている、ということに、いち早く、その場で気づいた幹部はいたはずだと思うのです。

もし、気づいていないとしたら、もう何をかいわんや。

〝幹部〟失格というほかはありません。

私ですら、すぐに気づいたぐらいなのですから!

で、私が問題だと思うのは、それを、誰一人、総裁に進言しなかったのかということなのです。

少なくとも、ブログの記事になった段階で、その間違いについては指摘すべきであったと思うのです。

だって、総裁に赤っ恥をかかすことになるのですから!

「本流」サイドが、総裁のブログ記事にどれだけ注視しているか。

教団幹部はよーく知っているはずでしょう。

だったら、すぐに訂正すべく働きかけなくてはいけなかったのです。

ところが、今に到るもそう働きかけたというような形跡が見当たらない。

何を申し上げたいか。

総裁にモノ申すという雰囲気が教団にはナイのではないのか。

巷間、よく言われるように、総裁は、まさに〝裸の王様〟状態になっているのではないのか、ということなのです。

それでなおかつ、こういうことを言うから、またまた言っていることと実態が余りにも違い過ぎるのではないのかと言いたいのです。

>意思決定や運動の方法にもっと自由性をもたせ、一度決まったことでも、現状に合わないものは再検討し、廃止すべきものは廃止し、修正すべきものは修正し、逆にまた強調すべきことは強調して、時代応現の正しい運動を遂行していこう<

本当に、そのようにしたいのならば、今すぐに、簡単にできる方法がたった一つだけあります。

そうです、総裁が、人事権、決裁権を手放せばいいのです!

人も金も握っていて、それで「自由」なんて、言語矛盾も甚だしいのです!

総裁、それができますか?

できないでしょう?!

だから、総裁がこんなことをいくら言ってもそれは絵空事に終わると言うのです。

それとともに、今の教団に向かって、こうすべき、ああすべきといくら〝べき論〟を言い募っても「言うだけ無駄に終わる」と私が言い続けているのもそういう理由からです。

総裁が人も金も握ってしまった以上、教団を正す道は、外に受け皿をつくって、それを大きくするしかない。

私はそこに賭けたいと思っています。


総裁は、何故、総選挙の結果に対しての自らの所感を述べなかったのでしょうか? (8047)
日時:2017年11月01日 (水) 08時32分
名前:破邪顕正


ご存じのように、総裁並びに教団は、今回の総選挙に対して強い関心を寄せ、次のような「声明」を出したわけです。

>――第48回衆議院選挙に対する生長の家の方針――

「再び、与党とその候補者を支持しない」<

「声明」を出した以上は、総選挙の結果に対して、教団の更なる「声明」を出すのが当然のことではないでしょうか?!

ところが、今回のブログ記事には、総選挙なんか、まるでなかったかのように、一切、それについて触れてはいません。

ただ、一箇所、こう述べただけです。

>昨今の狭いナショナリズムの台頭や「〇〇ファースト」の潮流に迷わされることなく<

暗に、この表現で、今回の自民党の圧勝、改憲勢力の伸長が〝面白くない〟と仄めかしているのかもしれません。

つまり、総裁としては、総選挙の結果には触れたくない、気に入らない!

そういうことなのだろうと思う次第です。

で、ここからは私の予測です。

教団が、「サヨク=護憲」の主張を露わにすれば露わにするほど、信徒の教団離れは食い止められないと私は思います。

現に、第一線の信徒は、まだまだ自民党に投票しているからです。

まかり間違っても、共産党なんか絶対に嫌だ!

生長の家信徒の中には、そういう心理が未だに牢固として残っています。

そういう信徒が総裁にはついていけないと、五月雨の如く退会していくでしょう。

結局、教団に残るのは、今回のブログ記事にコメントを寄せたような人だけとなるでしょう。

それにしても、こういう文章を読むと、本当に教団は〝カルト化〟しているなとつくづくと感じてしまいます。

>今回会議の名称をご変更になられたことは生長の家が新しい文明を築き上げるための大きな飛躍に向け重要な決定打になること間違いなしと心の底から信じて総裁先生のお考えに一生ついてまいります!<

この人には、現実が全然、見えていない。

まさに、井の中の蛙。

しかし、ある意味で、こういう人がいるからこそ、教団はまだもっているとも言えるのかもしれません。

教団は今後、何の社会的影響力をもたない、単なるカルチャー化した小集団として生き残ることはあっても、今の現状を打破して「大きな飛躍」を遂げるようになるとは、私にはとても思えません。

谷口雅春先生という根っこから切り離された今の教団は、根無し草であり、切り花みたいなものでしかないと思うからです。

問題は、何度も言って恐縮ですが、教団に愛想をつかして、つまり私に言わせれば教団に〝裏切られた〟という思いを抱いて退会せざるをえなくなった信徒の受け皿をどうするのか、という一点につきます。

「谷口雅春先生を学ぶ会」に対して、いろいろと仰る方があるようですが、そういう方に言いたいことはただ一つ。

所謂「本流」は一つではありません。

谷口雅春先生の教えを護り、お伝えすべく、尽力されている組織は他にもあるわけです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」が嫌だという方は、どうぞ、そういう「本流」の他の組織の門を叩いていただきたい。

そして、そこの場で、いい働きをなされたらいいのであって、ぜひ、そうしてほしいと心から念願する次第です。

「谷口雅春先生を学ぶ会」だけですべての信徒の〝受け皿〟になって、皆さんにご満足いただけるような行き届いたお世話ができるなどとは思ってはいません。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は総裁批判、教団批判をするから嫌だ、だから「谷口雅春先生を学ぶ会」には行かない!

そういう声は今でもよく耳にします。

しかし、「谷口雅春先生を学ぶ会」は、今の総裁、教団では谷口雅春先生の教えは後世に残らないとの危機感から起ち上がったのです。

それが謂わば創立の精神でもあるのです。

である以上は、どこがどのように違っているのか、間違っているのか、それを言い続けなくてはならないのです。

だから、裁判でもやるのです。

それが嫌だという、信徒の皆さんの心情がわからないわけではありません。

ですから、そういう方は、他の組織に入って、ぜひ頑張ってほしい、そう思うのです。

今の段階で「本流」は一つにならない方がいいと私が言い続けているのもその理由からです。

「本流」は他にも選択肢があるところが素晴らしいのです。

「本流」でありながら、「谷口雅春先生を学ぶ会」を恰も目の仇のようにして〝口撃〟するのは本当に残念です。

それで一番、よろこぶのは誰ですか?

他でもない、教団です。

結局は、利敵行為にしかならないということ、とくと考えて投稿してほしいと思います。

「本流」が相手すべきは、あくまでも総裁であり教団です。

それが「本流」の「本流」たるゆえんだと私は思っています。




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