《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7600)
日時:2017年09月14日 (木) 06時06分
名前:平賀玄米

 
         第八章(最終章) 苦難と恐怖の克服法


    一 先ず自己を自縄自縛から解放せよ

「現代、一般に知られている所に拠れば、人間は暗示感受性を有つ所の主体であります。吾々は角と尻尾を持つような怪物には騙されないで、却って暗示に依って誘惑(だま)されるのであります。又吾々が外界から受ける所の暗示は、吾々の一部になると云う事は誰も知る通りであります。

恐怖とは結局禍が来ると云う暗示であります。若し吾々がその暗示を受け容れるならば、禍は吾々の生活の一部を構成するものとなるのであります。だから吾々はその暗示の力を克服する方法を知らねばなりません。では如何にせばそれを克服し得るでしょうか。若し吾々が恐怖を破壊するならば、禍は吾々の生活に入り来ることは出来ないのであります。

恐怖心が完全に捨てられてしまう時、吾々が恐れていた所の事物が吾々に決してやって来ないで、祝福の姿と変じてやって来る」とハンブリン氏は言っているのであります。克服しなければならない所の最も大なるものは恐怖である。恐怖は魂を噛み砕く苦痛を伴うばかりでなく、それは全般的不健康や、特殊な病気や、事物の失敗や、精神の不快や、そして一切の消極的なる総ての禍の源泉であるからであります。

では恐怖と云うものは、その事物若しくは吾々が恐れている所の人生の出来事、又は吾々が好まない所の色々の人生の経験から逃げ出そうとすることに依っては克服されるものではないのであります。禍が来ると云う暗示は、吾々の心の中に恐怖心を惹起し、その挑みかかる事物を目の前にして、それを避け、その代わりにもっと快適な処へ逃げ出そうとすることに依っては破壊してしまう事は出来ないのです。

それならば如何にしてこの恐怖を克服し、人生に楽園を現実にすることが出来るでしょうか。人間が一切の恐怖を克服して、幸福に、繁栄に、そしてまた健康に生活し得る最初の鍵は何であるかと言えば、自分は「現実の自分」が今あるよりも、その實相に於いて、遥かに一層偉大なる力を有するものであると云う事を自覚することであります。

普通の人間は「現実の自分」のみを見ます。「物質的肉体の自分」のみを見ます。自分のもてる「現実の矮小なる自分」のみを見ます。時間・空間及び物質の制約に縛られている自分のみを見ます。そして、自らを物質で造られたる侏儒(こびと)として、自分の観念で自分自身の偉大性を縛ってしまうのであります。人が真に幸福になり、無限の能力と、健康力をもってこの世界に雄飛するにはこの「自縄自縛的な制約から自分を解放しなければなりません。

この解放は、どうして得られるかと言うと、「現実の自分」から「實相の自分」を解放しなければなりません。この解放は如何にして遂げられるか、この世界を「現実」に於いてではなく「實相」に於いて観なければなりません。

つづく

     <平成29年9月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7607)
日時:2017年09月15日 (金) 05時43分
名前:平賀玄米


    二 世界を霊的存在だと知ること

何よりも先ず吾々は、この世界を頑として崩壊せしめ難き障壁の観を呈している物質として見ないで、霊的法則によって支配されている霊的存在であると見なければなりません。そして人間をば、その法則を知る事によって宇宙の力を自己の欲する形に、欲する方向に流動せしめ、形成せしめ得るところの自主的存在者だと観なければなりません。


     三 世界を「一(ひとつ)」として観ること

ばらばらの世界観、二元的又は、多元的な世界観を持ってはなりません。霊なる神のみが実在であり、世界のあらゆる事物は、渾然として「一(ひとつ)」の神の愛と智慧とによって支配されているのであり、存在するすべては無機物たると有機物たると、微生物たると、昆虫たると、地に這う爬虫類たると、哺乳動物たるとを問わず、悉く、すべて「一」なる「善」なる神の生み給うた子であって、そこには何等「悪意ある対立」は存在しない。

悪魔と云う様なものも、悪霊と云う様なものも、病的寄生虫や病菌などと云うものも、如何にそれらが現象的には現れて見えようとも本当は存在しないのであって、一切の事物と、生物とは、渾然と「一」なる神の愛に結ばれているのであると云う「實相」を理解して、すべての事物とすべての生き物とに和解しなければならないのであります。即ちこれが、生長の家の根本神示「天地一切のものと和解せよ」に当たるのであります。


     四 神は善であると信ずること

世界の根源が神であり、神が善であるとわかりましたならば、そして神のみがすべての渾てであるとわかりましたならば、世の中に悪意ある対立等はあり様がないのであります。「敵がない」と云う人生観にならなければなりません。「敵がある」と云う人生観に立っている限り、自分の妄想によって、「敵」を描き、描くが故にその「敵」が現実にあらわれ、遂にその敵のために敗北せしめられると云うことになるのは、太平洋戦争の実例によって明らかなことであります。

「敵」だと思えば、敵でないものが敵として現れてまいります。すべての存在は「敵」ではない。「善意」と「愛」とをもって吾々に何かを互いに貢献し協力すべく与えられているところの存在であると信じ、現実に「敵」とあらわれていましても、それは敵ではないとして「實相」の善を信頼して厚遇していますと、味方となって現れて来るのであります。

敵があると信じ、不調和が存在すると信じ、それに対して身構えすることは、神の善とその無限力とを信じないところの神に対する不敬の罪だと言わなければならないのです。

つづく

     <平成29年9月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7609)
日時:2017年09月16日 (土) 06時03分
名前:平賀玄米

  
   五 總(あら)ゆる善は神より来たると知ること 

神が善であり、一切創造の本源であると云うことを知りますと、「敵」も「悪」も存在しないものであり、かく見えることは唯、仮相に過ぎないことが解るのであります。が、それと同時に、我々は「自分」と云う自我(自力、肉体我、分別我)の力によって「善」なるものを創造出来ると考えることは間違いなのであります。「自分」と云うものは本来無く、唯「神」のみ実在し給うのでありますから、皐月の鯉の吹き流しの様に、自分と云うものが空っぽになって、そこに大生命の生きる力を吹き流し入れますと、かの空中を翩翻としてひるがえる吹流しの鯉のように生命が生き生きとして来るのであります。

「自分」と云うものを、神に対する別物として対立せしめ、自分の力で何事かを成そうとすることは、「神」を信じているとは言いながら、いつの間にか二元論になっているのであります。
尤も「自分」と見えるものは本来無いのでありますから、その「自分」の力でやるものも結局、神の力でやることではないかと云うような議論も成立ち得るのでありますが、それは議論でありまして、実際上、自分の心の中では「自分」と云うものを立て、全体我(大生命)としての神を忘れて生活し、計画し、行動しているのであります。

だから、その様な「我」の行動、計画、生活によって、一見、「幸福」や「善」や「繁栄」が持ち来たされたように見えようとも、それはやがて果敢なく消ゆる陽炎のような「幸福」であり「善」であり繁栄に過ぎないのであります。

ハンブリン氏は言っています、「神が植えないところの凡ての植物は根のない植物であり、神の築かないところの凡ての建物は、礎なき建物である」と。まことに偉大なる業績は、イエスの所謂る「我れ自らにては成し得ず、天の父我れにいまして成さしめ給うのである」との自覚よりして得られるのであります。

つづく

     <平成29年9月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7614)
日時:2017年09月17日 (日) 13時10分
名前:平賀玄米


それでは我らは何事をも努力せずして、呆然として神に任せておいたら可いのであるかと言いますと決してそうではありません。神に祈るにしても、やはり一種の自己の意志的努力が要るのであります。ハンブリン氏は「併しこの意志的努力の最初の段階は必要なことである。そして事物の計画の中に、その最初の段階は是非なくてはならぬ段階でもある。しかしそれはやがて最後には捨てられなければならない段階であるのである。それは唯階梯的な、準備的なものである。何よりも先ず必要な事は『凡て善なるものは神より来たる』と云うことを心の底深く自覚することである」と言っています。

トロワード氏の『エディンバラに於けるメンタルサイエンス講義』の「意志」の項には自我が神に還るこの「最初の意識的努力」(意志の力)を次の如き比喩を以って説明しているのであります。
我々の求めるものを現実の形に創造して下さる全能の神の創造力を、万能ダライ盤に持って行ってそれに当てがいさえするならば宇宙の素材をそのダライ盤は欲する形に削り造って下さるのである。その創造って下さる力はどこまでも、自分の力ではない。万能ダライ盤の力である。

けれどもそのダライ盤(旋盤)に対して、しっかり素材を当てがうために、「把握する道具」は我らの意志の力である。と云うのであります。
最初意志の力をもって、自分の欲する形に素材を削ってもらうように万能旋盤(ダライ盤)のところへ当てがうと云う最初の階梯は必要なのであって、しかしあとは神に任せることが必要なのであります。

換言すれば欲する事物を心に描いて、それを「祈り」によって神のところへ持出すことは必要なのでありまして、後は神の自働に任せのです。と言っても、強いて自分が動かないように頑張るのではなく「外からの導き」と「内からの自然の衝動」とで導かれ、促されるままに、そのままに「自然法爾に動く」のであります。自然法爾に動くと云うのは「我」で動くのではなく、又「動かない」のでもなく、そのまま自然に、スラスラと動くのであります。

恰度、五月の鯉幟が、中に吹き入る風のままに自然に動いている、自分で努力しているのではない。動かないのでもない、自然にうごいているのと同じであります。それは実に安楽なる行であります。
しかし最初に鯉幟は、その自然の風の吹き入る高さまで意志の力で掲げなければならないのであります。自然に神の摂理に従順に任せて動いておれば、善い事ばかり、幸福ばかりが実現すると云うのは、神が本来善であるからであります。

つづく

     <平成29年9月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7621)
日時:2017年09月18日 (月) 14時59分
名前:平賀玄米


神が何故「善」であるかと云うことがわかるかと言う人がありますが、吾々は、「最高の善なるもの」を神と名称づけるのでありますから、神が何故善であるか――の疑問の存在の余地はないのであります。そして吾々は「善」なるものを求めずにいられない――それは事実であり、何故吾々が心に「善」を思い浮かべ、それを追求せずにいられないかと云うと、吾々の内に既に「善」が宿っているからであります。

「善」が吾々の内に宿っておらず、全然内的に体験したことがありませんでしたならば、「善」の何物たるかを吾々は知らず、それを思い浮かべる事もなくそれを追求する事もない筈であります。だから「善」は自己の内に既にあるのであります


イエスは「神の国は汝らの内にあり」と言いましたが、その内在の「善」こそ「神」であり、その内在の善なる世界こそ「神の国」であり――既にあるのであります。外在の不完全な国は、内在の神の国の不完全なる顕現に過ぎないのであります。ですから、内在の神の国は、外在の世界に、それを押し出そうと云う「内からなる衝動」を起こさずにはいられない。それが吾等の「善と幸福に対する希求」としてあらわれて来るのであります。

「善と幸福に対する希求」が必然的に吾々に起こるのは、既に内在の世界に神があり、善と幸福との世界が成就しているからであります。ここに「善と幸福への吾等の希求」は、同時に「神御自身の善と幸福とを実現せんとの御意(みこころ)」に一致することを知るのであります。だから吾々の、善と幸福への願いは、決して無駄に捨て去らるべきものではないのであって、吾々は全能の神の有ち給う「善と幸福の実現力」にお任せしておりさえすれば好いと云う事が出来るのであります。

つづく

     <平成29年9月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7623)
日時:2017年09月19日 (火) 06時39分
名前:平賀玄米


それでは何が吾々にとって「善」でなく「幸福」でないかと言えばそれは誰でも直感的に知っているのであります。利己主義や、不貞操や、殺人や、盗みや、憎悪や、無慈悲や、不誠実や、猜疑や、恐怖や、貪欲や、およそ佛教の十悪五逆と言わるるようなものは善でないのであり、病気、貧乏、天災、人災、家庭の不調和、心配、取越苦労、持越苦労などは幸福でないことは誰でも知っているのであります。

しかも現実には、かくの如きものが往々にしてあらわれております。吾々は現実に於いてかかるものを経験しますが、かかる経験を嫌悪し、それを避け、逃れようとする希求の奥に、転禍為福の、神のやさしき慈手がさしのべられているのであります。不善と不幸とは神御自身よりは来ないのでありますが、その奥に神の「転禍為福の慈手」が動いているので、悪と不幸とを契機として神を見い出し「善」と「幸福」への道を見出す人が出来てくるのであります。

そこで「病気に罹ったので却って神を見出した。病気に罹ったのもお陰だった」などと言う人も出て来るのであります。しかし、どこまでも、不善と不幸とは神がつくったものではない。だから、その奥にそれを排除しようとする神の慈手が動き出でるのであります。

つづく

     <平成29年9月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7637)
日時:2017年09月21日 (木) 12時05分
名前:平賀玄米


現象面にはまだ顕現していないでも、内在の世界(實相世界)には既に『神の国』はあるのだと云うことは前述した通りであります。我々が心の眼を開いてこの「内在の神の国」のみを見ますとき、そこには神聖なる神の御意が既に実現して、イザヤ書にあるような羊とライオンとは睦み合い、「一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、乏しきものなき」(『甘露の法雨』)状態が、既にあるのであります。

それが何故実現しないかと云うと、吾々の五官認識の世界に於いては、神と分離した意識の一形式を通して事物を見ているのでありますから、實相をそのまま見る事が出来ず神の国のそのままの完全さが、その認識のレンズを通して屈折し最高の完全さに現実世界が映し出されないのであります。先ず人間が「善と幸福の世界」を実現するには、「観」を変えることが必要なのであります。

この内在の神の国から、外在の現象世界へ一條の光が耿々(こうこう)とさして来るのであります。その光を吾々は、「神の祝福の流れ」と呼ぶのであります。それは神の国から射して来る光であるから、その光の流れに乗って眺むればそこに神の国が眺められ、神の国が実現するように導かれるのであります。

しかしながら、神は人間に完全な自由をゆるし給うている(完全な民主主義ともいえよう)から、人間が自由意志で勝手に暗黒の中をある期間さまようて頭を打ち当てることも自由に許し給うていられるのであります。しかしやがて人間は暗黒の中で頭を打ち、やがて自由意志をもって「光」を求めるようになるのであります。

これは、神が暗黒の中にいる人間の頭を殴ったのではないのであります。これを「神の鞭」だなどと考えると神を汚すことになります。頭を打って不幸に遭遇したのは何処何処までも人間自身であります。神はただ常に照らしていられるのであります。「光」に対して目を閉じているのは人間自身であります。既に「光」はあり、「光」の中に来れば、既にそこには調和があり、愛があり、智慧があり、供給があり、無限の善があり、病気や不幸などは存在しないのであります。

つづく

     <平成29年9月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7646)
日時:2017年09月22日 (金) 11時01分
名前:平賀玄米


「病気や、災厄や、不幸などは『生命』の自然の調和ある流れ、即ち『神の祝福の流れ』の外に吾々がさすろうているからおこるのである」とハンブリン氏はその著『摂理』(第14P)の中で言っております。神の祝福の流れの中にいますならば人間は決して生活が不調和になると云う事はないのであります。

先日ある生長の家誌友から「先生は地上の生活は魂向上の学校の様なものだと言われましたが、それならば不幸や病気や、災厄は、吾々を鍛錬する必要上、神から与えられる学科であって、それを卒業する過程が必要であるとするならば、地上には永久に病気や不幸は絶えないのではないのではないでしょうか」と云う質問を寄越した人がありましたが、吾々の生活に現れる不幸、病気、災禍等は神の流れの外に吾々がいるからおこるのであります。

ハンブリン氏は「神の祝福の流れの中に吾々がいるならば決して生活が不調和になると云う事はあり得ないのである。吾々に来たる災禍及び不調和の状態は、決して吾々を誘惑で試みる為に送られたものではない」と言っているのであります。

この点、吾々生長の家の哲学とよく似ているのでありますが、それにすぐ続けて「それは、寧ろ、眞の調和の道へ、または眞の祝福の流れに導かんが為に現れて来たものである」(同書14P)と言っているのは、眞の調和の道へ、眞の祝福の流れに導かんがためには、神がその人に不調和を課したとも誤解されそうでありますが、これは決してそういう意味ではなく、祝福の流れに乗って行かないと、それは眞の道ではない、眞の道でないところを歩いて行けば自然に行き詰まる。
その「自然に行き詰まる」――その奥に神の摂理の慈手があるという意味であります。

されば自然に行き詰まる事が出来て来た場合には、その「行き詰まり」の奥にあるところの摂理の意味を深く反省し、その奥に神のみ救いがある事を知り、神の御救いの計らいを、協調的精神をもってすべての人生体験を素直に受けて行くところに、「転禍為福」の運命転回の道がひらかれるのであります。

つづく

     <平成29年9月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7650)
日時:2017年09月23日 (土) 11時08分
名前:平賀玄米


併し何人にも必ずしも「行詰り」や苦難が必要ではないのであります。「行詰り」や苦難を通してのみ人間が幸福になれると考えることは却って、その人に「行詰り」や苦難を引寄せることになるのであります。潜在意識に深く、それが必要であると願い求めることは、遂にその事物を引寄せて実現せしむることになります。

「行詰り」や、苦難や、試練の火を通してのみ、魂の浄化が得られると云うような考え方は、人生に悲惨を喚び寄せることになるのであります。ハンブリン氏は「吾々は神と調和した生活をしないが為に艱難を我々自身に引寄せ、吾々の生活に試練の火が持ち来たされる」と言っており、「(A)若し吾々が総て完全にして全き智慧を備えているならば、(B)そして若し吾々が吾が内に宿る神の叡智より催し来たる衝動に従って、より高きレベルの生活を生かさんとするならば」かかる苦しみや、行詰りは必ずしも必要ではないと言っているのであります。

つづく

     <平成29年9月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7663)
日時:2017年09月25日 (月) 10時02分
名前:平賀玄米


すべての光明思想の中心思想は、「すべての善は神のみより来る」と云う事であります。ハンブリン氏は「すべての善きものは自分自身及び自力の努力を通して来るものではなくそれは唯一の本源者なる宇宙霊より来たるものであることを知ること」が、吾人の生活を神の聖なる祝福の流れに自分を置く方法の第一だと言っております。

更にまた、「もう一つは自分自身の努力、智慧、あるいは才覚に頼ることなしに、神なる本源に『頼る』ことによって、祝福の摂理の流れに身を置く」のだと言っております。先ず「知」ること、次に「頼る」ことだと二段階に分けているのが氏の解明の特色であります。氏にとっては、総ての善、総ての智慧,総ての解放等が神より来たると云う事を頭で知ること、即ち単に智的の追求に止まるのみでは効果がないと言うのであります。氏は「知」よりも「信」に重点を置いています。

「吾々は最初の出発に於いて信仰を以って始めなければならない。併しながらそれは更に進んで、『眞に知る』こと、即ち経験を通して悟ると云う状態にまで進んで行かなければならない。先ず最初は内より、而して外へ、即ち、最初は見えざる世界より、やがては見ゆる世界へ」と氏は言います。「知る」だけでは足りないが「知」が「信」にまで深まらねばならない。

しかしその「信」は体験によって深まらねばならないとするのです。氏は「単なる信仰状態に於いて留まる所の人々は、決して眞に自由の境地に入ることは出来ず、なお一層ひろく広大なる生活に生きる事も出来ない。」とし、眞に眞理を「知る」状態に進み入れるところの人々のみ、より広大なる心境に到達し、その境地に於いて、その達したる程度に於いて、今迄自分自身を束縛し、自分を憐れ儚き奴隷状態に置きつつ、苦難の生活経験に縛りつけていた所の制約から自由になるのであります。

つづく

     <平成29年9月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7669)
日時:2017年09月26日 (火) 07時01分
名前:平賀玄米


苦痛や不幸は必ずしも人生の幸福の一段階として必要であるとして認めないが、苦痛や不幸を克服した体験によって「信」が単なる安易なる幻影ではなく「体験知」にまで深まる契機を与えるものとハンブリン氏は認めています。氏は逆説的に「眞に吾らが自由を見出すことが出来るのは、却って困難なる道を選ぶ事を通してである。利己主義的な個人的幸福を希うならば、吾々は決して自由を見出す事は出来ないのである。
義務と高き人格完成の苦痛なる道を追求する時、吾々は魂に平和を見出し、恰も、平原の上に直立する山上の塔の如き単なる幸福以上の法悦を見出すことが出来るのだ。」と言っています。

氏はイエスの「狭き門より入る」ことによってそこに却って易き軛のあることを見出したのであります。多くの読者諸君は、如何にしたら苦痛なるものが人生から避ける事が出来るかを知りたく思っているでありましょう。

或る人々は理性と意志の力を通じて、或る程度までは、人生の苦痛なるものは、或は減じ、或は克服し得るものであることを見出したであろうと思う。経験が氏に教えた所に依れば、総ての人生経験はそれを拒絶することなく、協調の精神を以って受容することが賢き智慧である。

多く災厄が起って来るのは、姿を現したる所の事件と心の中で和解せずに、摩擦する結果である。
かくして吾らは此処にもまた他のパラドックスに到達するのである。即ち人生の経験を逆らわずに迎え入れ、起こって来るところの一切の事物を素直に受け容れさえするならば、恐怖すべきものを受け容れたるが故に却ってその恐怖を不幸を超越する事が出来、更に進んで反抗したが故にこそ摩擦と衝突とが惹起した筈の苦痛を避ける事が出来るのである。

総てこれらの事は稍々微妙な、理解するには困難な事である。併しながら吾々は経験を通じ、瞑想を通じて、霊的直感に助けられ教えられて、この大那る眞理の霊的理解に入ることが出来るのである。スウェーデンボルグは次の如く言っている、「霊的知覚ある人々にとっては、内部的方法に依って、善と眞理とを知る事を神より許されるのである」と。

つづく

     <平成29年9月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7672)
日時:2017年09月27日 (水) 15時06分
名前:平賀玄米


「人生の目的は」とハンブリン氏は言っています。「神へのより高き奉仕に対して吾々を用意せんが為であり、吾々を待っている荘厳なる神の啓示に対して吾々を準備せんが為であり、神が示し給うところの責任に耐え得るように吾々の人格を建設陶冶せんが為である。」ですから、この人格陶冶の過程として課せられるところの過程を「自己訓練」の心をもって、協調と喜びと感謝とをもって受ければ、速やかにその過程を卒業して、長く同様の苦難の体験を繰返さなくなると言うのであります。

だから与えられた経験を安易の方向に向かって避けよう避けようとすればするほど、逃れる事の出来ない苦難に取巻かれることになります。又氏は言う「人生の目的は『善』――即ち神の子としての吾らの本性――の発揮の為に準備するにある」と。そしてその善なる本性を発揮する為に「最も必要なる唯一の大道」として「眞理の瞑想」(生長の家の神想観に当たる)を勧めているのであります。その理由は「吾々は吾々が心に深く瞑想するところの相にまで変化する」からである。

「吾々が神に就いて瞑想するならば、そして吾々が想像し得る最高人格なる神に属する色々の美徳を常に心に描くならば、次第にこれらの同じ美徳は吾々の内に築き上げられる」とハンブリン氏は言っています。氏に於いては眞理の瞑想が第一であって、現実の美徳はその瞑想されたる美徳の反映として完成するのであります。「吾々が為さなければならないことの総ては眞理を瞑想する事である。」と氏は同じ書物の同じ頁に二度も繰返して述べているのであります。

つづく

     <平成29年9月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7677)
日時:2017年09月28日 (木) 16時05分
名前:平賀玄米


吾らの利己的性質は、利己的性質を克服しようとしてそれと戦う事によって克服し得られるよりも、「神を瞑想することによって神なる本性にまで吾々が変貌せしめられる事によってのみ克服せられるのである」としています。単に心に眞理を描き念ずる瞑想的な静的方法は、一寸考えれば消極的な方法だと考えられ易いのでありますけれども、「これこそ総ての罪と、弱さと、不完全さとを破壊すべき積極的方法である」とハンブリン氏は断言しているのであります。

何故それが積極的方法であるかと言えば、「それは吾々自身の自力なる」小さなる力のはからうところでなく、「それは私のはからいではなく聖霊の御業に身をゆだねることになるからである。」と言っています。氏に於いては、眞理の瞑想は、自力でする自己暗示ではなくむしろ他力仏教信者が「南無阿弥陀仏」と唱えて、その不可思議光の廻向に身を任せるのと同じなのであります。

神想観の如き方法に於いて眞理の瞑想を行う場合に就いてハンブリン氏は注意して言っています。「吾々が眞理に就いて瞑想する時、吾々は、吾々の魂の中には、ただ神を知ると云うこと及び、神の肖像(にすがた)に変貌せしめられると云う以外には何物も求むることはないのである。その時、吾々は人生諸タの経験や、人生色々の苦しみをば心に描いて、それを避け得る様にと念ずるのではない。」と言っているのであります。。

神はすべての善であり、神に任せ切ってしまえば一切の不幸苦難はないのであるから、別に「苦難」や「不幸」を心に描いて、それを去らしめ給えと念ずる必要はないのであります。若し吾々が、心に「不幸」や病気を現実にあるとして心にそれを描いて、それを「去らしめ給え」と念ずるならば神が愛であると云う想いと、神が吾々に不幸や病気を与え給い、それを去らしめ給えと念じなければ去らしめ給わない云う事の間に変な矛盾を感じて、ただ神のみ在す、ただ善のみ幸福のみ、実在であると云う眞理にピッタリ一つに成り切れない憾みがあるのであります。

つづく

     <平成29年9月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7688)
日時:2017年09月29日 (金) 17時47分
名前:平賀玄米


「眞理の瞑想」を行う時にはすべての対立的なもの ――悪と善との対立や、不幸と幸福との対立や ――そのような一切の対立を捨て、ただ一元の神に帰一し、神の大いなる御前に静かに座して、神が吾々に与えるところの総てのものを喜んで受けると云う心境に成り切ることが必要だとハンブリン氏は言っています。その様な心境になって、ただひたすら、「吾が行く道を示し給うところの霊的流れに任せ切り、祝福の流れにそのまま乗託する」時、吾らは最も高き理想的境涯に進み得るのだとしています。

この様な時の状態をエドワード・カーペンターは「すべての聖なる力が、吾らの永遠の法悦に奉仕すべく雲集し来たる」と形容しているのであります。ただ一元なる神にひたすら任せ切って、「われ善なる神と一体であり、その神の祝福の流れによって日常の生活が導かれている」と念ずる時、有限なる人間的自我の恐怖は消え去り、「祝福と愛と、神の優しき恵みとの光栄ある啓示は天降って来、吾々は、吾々に仕える天の使いに導かれて平和と、永遠の喜びの道に調和ある状態で祝福されたる境地に入ることが出来るのである。」とハンブリン氏は言う。まことにも、こうして神との一体感が深まる時、吾らの世界は、ただ最善なるもののみが実現する過程にあると云うことを知る事が出来るのであります。

つづく

     <平成29年9月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7698)
日時:2017年09月30日 (土) 10時49分
名前:平賀玄米


キリストは「小さき群れよ、恐るるなかれ。何となれば汝等に神国を与えんことは汝等の父の御心なればなり」(ルカ伝十二章31説)といわれました。「恐怖からの自由」こそ民主主義的生活の特長でなければならないのであります。しかし眞に恐怖なき生活は、神を知り、神の全知全能によって護られていると云う自覚があってのみ可能なのであります。

民主主義の人間生活は、何ものにも他者には支配されない自主的な、、「自分が自分の主人公である」生活でなければならないのであります。「相対的な自我」の主張だけでは、他者から対立と圧迫とを受けますから、それでは「自分が自分の主人公」となるためには不完全なのであります。

絶対者と一つになった時にのみ、人間は始めて自分が自分の主人公となり、他者の欲望と衝突せず、しかもすべての自己の欲するところを行いつつ、何ら摩擦なき自由自在の絶対境に出られるのであります。その為に吾々は、対立的自我を克服しなければなりません。自分(眞の)が自分(仮相の)に打克たねばならないのであります。自己に打克つ人のみ、眞に自分が自分の主人公であるはずであります。

世間往々、低劣なる欲望に支配され、低劣なる欲望の奴隷となる事を民主主義生活の様に思っている人がありますが、かくの如き生活は「奴隷」の生活であって、奴隷の生活は決して民主主義の生活ではないのであります。

つづく

     <平成29年9月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7712)
日時:2017年10月01日 (日) 11時59分
名前:平賀玄米


ハンブリン氏が、人生に来たるところの「凡ゆる経験を素直に拒絶することなく、協調の精神を以って受容せよ」と言いますと、何ら努力することもなく、人生に困難が出て来れば、ただその「困難を放置して、自然に晴れ行く雲のようにそれが消えてゆくのを待つ」ように、やがて最善のものが来るであろうと漠然と儚い希望を胸に描いて何等為すところなく呆然と生活しておればそれで好いのだろうなどと甘い考えを持つ人があるかも知れませぬが、かかる人に対してハンブリン氏は警告して次の如く言っています。

「宗教心ある人々は『より高き力に任せ切れ』と言うけれども・・・それは俗世界の見解よりも尚一層高き力の存在を認めているとは云え、単に人間の心を麻痺さす働きを持っているに過ぎないのである。それは決して人生の困難を自由に支配するのではない。・・・かくの如き助言を与える人々も、その助言に従う人々も人生の支配者だと云う訳には行かないのである。

単にそれは外界の影響又は人生の経験に対して盲目的に屈従し、成り行きに任せている奴隷状態に過ぎないのである。かくの如き外界の影響と人生経験とは、若し吾々がそれを本当に克服しないならば、吾々の前にのしかかって来て、やがて吾々を圧し潰すに到るであろう」と言っています。

ハンブリン氏に於いては、「恐怖を克服する」と云う事は、単に面白からぬものを、成るべく考えないようにし、一時、心の埒外へ放置することではないのであります。「不幸を心の外へしばらくの間投げ棄てて考えないようにしておくと云う事は、決してそれを克服することではないのである。それは勇者のことではない。それは懦者(だしゃ)のことである。それは単に禍の来る日を次に延ばしているに過ぎない、

やがて禍が吾々に直面し来たる時、その困難は巨人の如き大いさを以って吾々の前に現れて来るであろう。困難から吾々が尻込みすればするほど、吾々がそれから逃避しょうと試みれば試みるほど、
それは尚一層悪しき姿をもって現れて来るのである。・・・吾々が為さなければならぬ唯一の賢き道は、それを『今』迎え撃つことである。そして、それで支配的な圧倒的な巨人的力を揮うまでにそれを撃退することである。」とハンブリン氏は言っています。

ここに「成り行き任せ」の他力的な相は少しも見られない。むしろ勇敢なる精神努力の勇者的な俤(おもかげ)さえ見られるのであります。

つづく

     <平成29年10月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7724)
日時:2017年10月02日 (月) 10時50分
名前:平賀玄米


すべての人生経験を神から与えられたものとして素直に受け取ることと、その困難と取り組んでそれを克服すると云うこととの間には何等矛盾することはないのであります。すべての人生経験(困難と見えるものをも含む)を神から与えられた過程として素直に受取る者は、その過程から決して逃げ出そうとはしないのであります。それは自分に課せられたる過程ですから、それが、どんなに困難に見えましょうとも、それと取り組んでそれを解決しょうとします。

しかもその困難と見ゆるものは、自分が課せられたる「魂向上の糧」でありますから、究極に於いて吾らに決して害を与えるものではないと知るが故に、決して「恐怖」を伴わないのであります。「恐怖」とは畢竟「禍が来る」と云う暗示に感応したことであります。

若し吾々が、何ら抵抗するところなく、「恐怖」の暗示に感応しますならば、吾らは「恐怖」の虜となり、奴隷となり、その恐れていた災禍の犠牲になってしまうのであります。坊間八卦見や、街の占者や、姓名判断者や、家相占者が、何か災厄の起こることを予言する場合、一見それは深切な助言の様に見えようとも、往々それは恐怖の暗示の感応として現れることがあり、恐れなかったならば実現しないような事件が、恐れたために実現する事になり、いたずらにその予言者に名をなさしめるようになっていることが多いのでありますから注意しなければなりませぬ。

例えば何の不安もなしに谷川にかかっている橋を渡っている時に「落ちるから危ないぞ」と言われ、驚いて橋から下を見ると、下は千仞の谷である。「落ちたら死ぬ」と思うと急に恐怖心が起って足がガタガタ慄え出して墜落すると云うような実例も随分多いのであって、「恐怖心を唆(そそ)る深切な勧告」はかくの如く、人々を導いて恐怖すべき事実を現実化せしめるに到るのであります。

だから恐怖すべき事物から逃れるべき方法は、恐るべき事物を、恐れて逃げてわざと自分の念頭から放擲することではなく、その事物と勇敢に取組みながら、しかも無恐怖の状態になって悠々自分の成すべきことを滞りなく遂行することであります

つづく

     <平成29年10月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7733)
日時:2017年10月03日 (火) 10時54分
名前:平賀玄米


光明思想は、事物の暗黒面から光明面へと心を転ずることを教えるのでありますが、これに就いて往々、何でも不愉快なことは考えない様にすればよいと思う人がありますが、これは「油断のならぬ微妙な間違い」であるとハンブリン氏は指摘しています。曰く、「それは吾々が物事を思い煩う習慣よりも尚一層吾々の人格を弱めるところの破壊的な働きをなす狡猾なる「悪」である。」

この精神的臆病さはそれ自ら増殖して大いなる花を咲かすところの悪である。それは意志の力を骨抜きにし、性格を覆し、人々を無力の状態にまで突き落とすのである。吾々がこういうやり方を行えば行う程、吾々の人格は弱まって来、人生の戦いを遂行する力は愈々微弱となるばかりである。若し吾々がかようにして問題を心の中に回避するならば、断固たる決意をもって人生を迎えることは不可能となり、吾々の生の大いなる道徳的危機が襲いかかって来た時に、確実にして賢明なる判断をなす力を不能ならしめるに至るのである。」

吾々に挑みかかる所の禍についての色々の思考、これから吾々が逢わなければならない困難なる色々の義務に就いての不安、やがて来るべき前途に横たわっている不愉快なる行路の想起 ――これら総ては、それから逃げてはならないのである。却ってそれに直面し、挑みかかり、意志の力によって克服し、神想観の如き方法によって、眞理の実在を強く思念し肯定することに依ってそれを消滅せしめなければならないのであります。

この思念は吾々が避けようとしている困難の実在を自分の心の中で否定し去り、完全にそれを克服し得たと云う勝利の意識が起こるまでしっかり実修しなければならないのであります。心の中での内部的勝利が先ず第一に必要なのであります。然るに後に於いてのみ外部的勝利が可能となるのであります。

若し吾々の面した所の困難と、恐るるところの総ての事物を心の中で完全に克服して勝利を得る事が出来るならば、恐怖心がなくなり、心の中に平和が確立されますので、総ての事物に本当の賢明な判断が出来、応急の処置を得て常に誤ることなく、困難は克服されて、事件は無事に解決され平和と繁栄と安穏とを保ち得るのであります。

つづく

     <平成29年10月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7748)
日時:2017年10月04日 (水) 16時47分
名前:平賀玄米


人生の経験と吾々が取組む場合に、それを恐れずに受けようとするのではなく、それを恐れながら克服しようとする場合が往々あります。これは生悟りを開いた人が「祈りの力」と、「心の力」を如何に用うるかを充分知っていながら、しかもなお大いなる苦しみから逃れられないことがある所以であります。

彼は人生が彼を導いてゆくであろうように素直について行こうとは求めないで、彼の人生を自分自身に適するように我の力で変化しようと試みるのであります。彼はかくの如くして自ら造った摩擦によって一個の地獄を創造するのであります。それにも拘わらず、彼は、彼のその経験を通して、その地獄から逃れて調和があり、平和がある所の最高の境地にまで彼を導こうと熱望しているのであります。

まことに「大悲無倦常照我」であります。本当を言うと、吾々は自己の恐れる人生経験に対して抗らってもならないし、又それから逃げ出してもならないのであります。それは恐れず受けて克服しなければならないのであります。吾々が克服しなければならないものは単に人生の経験のみではないのです。第一に克服すべきは自己自身の弱さであります。

吾々は先ず吾々の恐怖心を克服しなければならないのです。人生の困難に直面することを嫌って避けるような弱さを克服しなければならないのであります。総ての人生の経験の底に貫穿し行きてその意義を悟るべく喜んで立向かい得る人格の強さを持たなければならないのであります。

「吾々は恐怖の原因を恐れ、それを除こうと欲する目的で、恐怖を克服しようと試みてはならないと云うことは詭弁のようであるが真実である。」とハンブリン氏は言っています。吾々が為さなければならないことは、単に勇敢にではなく、全然恐怖無しにそれを摂理の「お引き廻し」と信じて問題に直面し得るが為に恐怖が自然になくなることであります。そして摂理に協力する精神を以って人生の経験を歓迎し、摂理に感謝し、それを祝福して受け、神を讃える境地に達しなければならないのであります。

ハンブリン氏は「先ず心の憂鬱を克服せよ。然らば貴下の憂鬱の原因たる事件も又克服されるものではないのであります。」と書いています。若し諸君が必ず善い方に導き給うと云う摂理の慈手を信じ、常に感謝して為すべきを為して恐怖を克服するならば、諸君は諸君の恐怖の原因である所のものを克服することが出来るのであります。

つづく

     <平成29年10月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7794)
日時:2017年10月08日 (日) 14時55分
名前:平賀玄米


氏は恐怖を二種類に分けています。その一つは何か人生の実際経験の不愉快な、苦痛なものに脅かされて起こったところの恐怖であり、もう一つは、神経衰弱的心理で起こったところの名もない恐怖心であります。どちらの場合に於いてもそれを救治する方法は同じであるが、先ず前途に横たわる困難、恐るべき事件、状態、又は経験等によって惹き起こされる恐怖に就いてハンブリン氏の恐怖克服法を考察することにします。

世間に「蟲が知らせる」と云う諺があります。これは恐怖、不安、及びやがて来たらんとする事件の予知作用を意味するのであります。ある鋭敏な霊能を有する人々は、禍が近づいて来る時に何んとなき不安の感じによって危害をそれとなく知るのであります。

若し彼等がかかる事物に就いて如何に処置すべきかを知らなければ、彼等は唯心配し、苦しみ、不幸が将に近づこうとして経過する時間じゅう、それを待ち構えている心持ちで悩むでありましょう。ところがこの様な時、光明思想家は、直ちに、神に就いての眞理、神の造り給える世界の調和ある状態、及び神の子としての自分自身の完全な姿を心に念じて、心の中に、解放と平和との感じが深く湧き起こるまで思念を続けるのであります。

若し彼等が平和のこの精神状態を念じ続けるならば、禍がやがて近づき来たる時に、その禍に巻き込まれることなくして、勝利を以って通過することが出来るのであります。この点に就いて光明思想は「来たるべき事件は先ず想念の世界に於いて事件のフィルムが構成される」それはまだ肉眼に見えないけれども「心的波動の存在」であるから霊感によって予知し得るのである。しかし、それが現実化するまでに心的波動を打ち消せば克服し得るのだとしております。

ダンヌ氏は、その著『宇宙の新学説』と云う書物の中で次の様に言っているのであります。「過去、現在、及び未来は一つの線に於けるが如く延びているのである。そして未来は過去及び現在と同じ程度に真実である。しかも、それにもかかわらず、未来の或る事件はその出現を避ける事が出来るのである」と。ハンブリン氏はこれをこう説明しています。

「夢の中に於いて、第六感に依って、或は類似の霊感によって示されるが如き未来は、全然人生の真実なる完全なる本当の出来事ではないのである。それは単に根拠なき心的波動の存在に過ぎない。しかもこの根拠なき心的波動的存在も、若し具象化するならば、吾々の現在意識の中に於いては、他の出来事が眞實であるのと同じように真実として感じられるのである。

まことにも、それらの出来事は真実でないが故に避ける事が出来るのである。併しそれを避ける道は、それを避けようと逃げ出すことに依ってではなく、眞理を心に深く想念し自覚する事に依ってである。」

つづく

     <平成29年10月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7815)
日時:2017年10月10日 (火) 11時21分
名前:平賀玄米


既に述べたる如く、人生の体験は吾々の魂の向上に必要な過程でありますから、吾々は与えられたる如何なる経験からも避けようと思ってはならないのであります。併し注意しなければならないのは、神は人生の創造者であり、その愛護者であり給うて、決して消極的な禍の源泉であり給わない事であります。

若し吾々が人生の一つ一つの事件を、正しくしっかりと取扱い、意識の流れの一刻一瞬に「神常に我と偕にあり」と自覚して生きるならば神の摂理の慈手は吾々を危険や、病気や、災厄や、又は色々の不幸に導き給うことはないのであります。不幸や災厄が起こるのは自分が勝手に脱線して行詰るのであります。

「吾々が為さなければならない明かなる事柄は、眞理を心の中に深くさとると云うことである。」とハンブリン氏は言っています。眞理と云う言葉に依ってハンブリン氏は何を意味するのであるか?「私は眞理と云う言葉に依って神 ――愛に就いての眞理、及びそして吾々自身に就いての眞理 ――即ち吾々が神の子として光の中に住むと云うことを指すのである。

神は無限の愛であり給い、無限の智慧であり給い、尽くることなき源泉であり給い、全能の権能(ちから)であり給い、更に又それ以上であり給う、神は生命(いのち)そのものであり、健康であり、完全であり、調和であり、そして善なる所の凡ゆるものであり給うのである。

神は総てこれ等のものであり給い、唯一つの大いなる父なる神にましまし、全知全能の主として天地を総覧し給い、しかしてわが父にましますのである。而して吾等は彼の霊的なる子であり、また娘であるのである。吾々は神の子達であり、霊的実在であり、不滅であり、キリストと共に神の世継ぎなるものであり、神の友なるものである。」と言っています。


要するに氏が眞理と云うのは、この世界の本質と人間の實相の完全さを指すのであります。

つづく

     <平成29年10月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7826)
日時:2017年10月11日 (水) 18時26分
名前:平賀玄米


實相を悟ったところの人々は、彼自身は霊的存在であり、霊なる宇宙の中に住んでおり、その霊なる宇宙は霊的法則によって支配せられており、而して彼らは霊的力に依って支配せられているのであると云う事を知っているのであります。まことにも、かかる人にとっては総ての神の力と、實相宇宙の総ての資源は彼等の背後に既にあるのであります。何の恐れることがありましょう。

この眞理をただ悟ることの出来る所の人々は、如何なる混乱、又は不調和が一時周囲に起こって来たように見えようとも、實相は完全であると云うことを知って動揺することはないのであります。この様な人は現象に於いて不調和の世界に取り囲まれていましても、而も尚不調和の世界に属するものではありません。かかる人の人生の一歩一歩には深き神の守りがあるのであります。

必要に従ってなくてならぬものは供給せられ、総ての時を通じてそこに調和が現れるのであります。「神の国の正しきのみが實在の世界なのであります。その調和の中に、神の子達は、何れもその処を得、その時を得て正しき生活を営み、それを完全に為し遂げている」と故ラウンス氏がいみじくも言った如き状態が、實在の世界であります。それは實在の世界の實相を瞑想によって深く思念することによって得られるのであります。

つづく

     <平成29年10月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7858)
日時:2017年10月13日 (金) 17時46分
名前:平賀玄米


若し吾々が神に就いての眞理であり、吾々自身に就いての眞理であり、この宇宙に就いての眞理である所のこの大いなる眞理を、意識の中に深く悟って一瞬一瞬を生きさえするならば、吾々は詩篇第九十一篇に於けるが如き生活が、吾々の実際生活に真実となってくる筈であるとして、ハンブリン氏は、ダニエルがライオンの檻の中に入れられて何ら被害を受けなかった事実を言葉通りに信ずる事が出来ると言っています。

「彼は神なる人であった。そして敢えて勇敢にライオンの檻の中に進み行き、神の栄光をあらわすために大いなる御業を為したのである。彼は総ての恐怖から全く解放されていたから、如何なる動物も彼に爪を触れることが出来なかったのである。若し吾々が同じ信仰と同じ信念を持ち、そして神が吾と共にましますこと、その全能の力のあること、及び実在の世界に悪は存在しないと云うことを悟ることに依って、恐怖心の一切をダニエルのように消滅する事が出来るならば、吾々も又如何なる災禍にも傷つけられると云うことはないであろう。」(『摂理』27P)

読者のうちにはダニエルと同じような驚愕すべき、恐らくはもっと苦しく、もっと断腸の思いをするような人生上の経験を通過しつつある人が多いかも知れません。不幸との永き闘争、愛する家族達の永き患い、失業、また社会の人々からの誤解、真相を誤る舞文曲筆、その他色々の艱難 ――これらを諸君はダニエルが檻の中で経験した鋭く併し短時間の経験よりももっと耐え忍び難きものと思われるかも知れません。

併しながらそれらの不幸より救われる道も亦同様なのであります。それは「神に自分自身を全く完全に投げ出して恐怖を完全になくしてしまうことである」とハンブリン氏は言っています。神の力は常に吾らの実際生活上の力となるのであります。神の御力が働けば、常にそこに調和が回復するのであります。病気の時には、健康が回復しますが、病気のみならず、如何なる形の人生の不調和にも、調和と平和とが回復するのであります。

「神は病気の神に非ず、悩みの神に非ず、不調和の神に非ず、健康の神、完全の神、調和の神、秩序の神である」とハンブリン氏は言っています。

つづく

     <平成29年10月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7869)
日時:2017年10月14日 (土) 13時56分
名前:平賀玄米


人生の悩み、不調和、災難等を心に思えば恐怖心が起こるのであります。吾々はこれらの恐怖を「不幸への誘惑」として拒絶しなければなりません。やがて来るべき禍についての恐怖的暗示は、総て誘惑であるのです。その誘惑に引きずられ行くとき、吾らはジリジリとその恐れた災禍の落とし穴に墜落するのであります。

吾等はその誘惑をして唯誘惑たるのみに留めしめなければならないのであります。若し吾々が神を見出し、それにより頼ることによって、そして永遠の眞理の中にしっかりと立つことに依って、恐怖を除去してしまうことが出来ますならば、これらの誘惑は克服され、そうして吾々は、陥るべき不幸災禍から解放されるのであります。

「逃げようとすれば、却って恐怖は増大する」と云う事は心の法則なのであります。だからハンブリン氏は、「恐怖の想念、禍の暗示を吾々は避けようと思ってはならない。避けようと思えば却ってそれらは吾々の潜在意識の中に入り込み、根を蔓らし茎を伸ばして、その恐怖する心の姿と同じ形を外部的生活にあらわして果を結ぶことになる。」と度々注意しております。

恐怖の暗示、災禍のそれとなく近づく不安は、「災禍なし」という、眞理の自覚に依ってのみ眞に克服し得るのであります。如何なる災禍も眞理に抗してその存在を主張することは出来ないからであります。若し吾々の近き縁者達の一人が、油断のならないいかがわしい病気で死んだとしたならば、吾々も又その病気に感染して犠牲となるかも知れぬと云う恐怖の思いが起って来ることがあるかも知れませぬ。

この様な時、吾々は、何事もないことを希望しながら、一方に何となく不安であるとしたならば、その不安の様な暗示を決して受け容れてはならないが、その恐怖を軽く胡麻化して打ち消そうと思ったり、考える事を避けて一時逃れをしようと思ってはならないのであります。

吾々が為さなければならないところのことは、恐怖や不幸や病気の暗示を、勇敢に迎え受けて誤魔化すことなく、眞理の光に照らし出して、その暗き心的活動を消滅せしめる事が必要であります。
『甘露の法雨』の「暗に対しては光をもって相対せよ。仮相に対しては實相を以って相対せよ」であります。

その方法としては「神が生命(いのち)であり給い、完全であり給い、又吾々自身が神の子であり、神と共に神の生命と神の完全さとを分ち有つものである」と云う眞理を心に深く思念し、それによって恐怖を完全に打ち砕き、恐怖の背後にあって現実化さそうとしていた、如何なる小さき暗き心的波動さえも、打ち砕いてしまうのであります。

唯、神様に任せておこうと、誤魔化して逃げてしまって、心中の恐怖心を打ち砕かずにそっと触れないでおくのではいけないのであります。他の種類の如何なる恐怖も同じようにして撃滅すべきであります。

つづく

     <平成29年10月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7881)
日時:2017年10月15日 (日) 18時00分
名前:平賀玄米


次に神経衰弱症に伴う諸種の恐怖は、神経衰弱症の結果であって原因ではないと考えられております。併しそれにも拘わらずこの病気を癒す道は恐怖を克服する事に依って殆んどあらゆる場合目的が遂げられるのであります。ハンブリン氏は、「汝の恐怖を克服せよ、然らば汝の神経衰弱症は克服せらるべし」と言っております。

神経衰弱症の患者は、注意の集中力の欠乏と、事物に適応する力の欠乏から苦しむのであり、又往々、名もない小さな恐怖心から心を悩ますのであります。併し原因は一つであり救治法も一つであります。本人以外の何人も神経衰弱症患者を導くことはは出来ても癒すことは出来ないのであります。彼は彼自身癒さなければならないのであります。

ハンブリン氏は、「自分の言わんと欲するところは、唯自身の恐怖を克服しさえしたならば、神経衰弱症は健康と幸福とに立ち戻ることが出来ると云う事で充分である」と言っています。併しながら如何にして彼はその恐怖を克服する事が出来るでありましょうか。

現に彼の生活は恐怖心に満たされているのであり、彼は彼を支配する所の恐怖の波に巻き込まれてしまっているのであります。恐怖の感情は間歇的に彼の上に波の様に襲いかかり彼にのしかかって彼は将に溺れ死のうとしているのであります。「如何にして彼はそれに打ち勝つことが出来るであろうか?彼は眞理の中にしっかりと立つ事によってのみ打ち勝つことが出来るのだ」とハンブリン氏は言っております。

光明思想によって眞理に目覚めた所の人は、尚目覚めない人よりもこの点に於いて大いなる利益を持っているのであり、恐らく光明思想の本を多く繰返し読み、且つ神想観することによって救われるのであります。眞理に目覚めない後者に属する人々は、神経専門医の助言に従い、自己の恐怖を否定し、自分は強き者であり、恐れない者であると云う事を自己肯定するように努力する外はないが、「これは自分自身を自分の締めているズボン吊りを締め上げて身体を宙に浮かせる努力によく似ている」とハンブリン氏は言っている。

蓋し自分自身を自覚の高所に導くには、弛んでいる自分のズボン吊りで締め上げても仕方がないと云う意味である。そこには別に人間が神の子であると云う眞理を以って飛行機で天空に上るように上昇する以外に、真に自分を高揚せしめる方法はないと言わねばなりません。

ある人は言うかも知れません、「如何にせば自分は神の子であると云うことを知る事が出来るのであるか」と。又「如何にせば自分は霊的存在であると云う自覚に到達する事が出来るのであるか」と。ハンブリン氏は次の如き意味で答えております。兎も角も貴方が霊的な事物(美術でも音楽でも文学でも)に対して、何等かの愛を持っており、霊的なる事物に就いて少しの程度にもせよ理解することが出来るならば、神の霊があなたに宿っている証拠である。

霊が宿っているからこそ霊的なる事物への愛と理解が可能なのである。更に進んで言えば、それは、ただにあなたの内に神の霊が宿っているばかりではなく、あなたを通じて神が顕現しつつあるのであります。「霊的事物への憧憬こそは現実のあなたの生命を『神の生命』にまで変貌せしめつつある證であるのである。

何人も彼の中に霊が宿っていないならば、霊的なる事物を愛し又は理解する事は出来ない筈である。何故なら霊的なる事物は、唯霊的にのみ理解出来るからである」(『摂理』29P)と。

つづく

     <平成29年10月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7892)
日時:2017年10月16日 (月) 18時04分
名前:平賀玄米


すべての病める者にとって、「汝の内に神の力は宿る」と云う言葉の現す眞理を聴く機会を与えられる時こそ、実にその人にとっては素晴らしい新生の秋であります。一度この眞理を聴き眞理に目覚める時、彼の全存在は「神なる人」に変貌するのであります。

彼は自分の内に宿るところの力が、彼の普段の自己自身の力ではなくして、神なる「無限者」の力であると云うことを知ると共に新生し復活するのであります。

ここに鑑別(みわ)けなければならないことは彼自身の有限なる力と、彼の内に宿れる無限者(神)の力との区別であります。若し彼が彼自身の有限力を無限力と思い誤り、それに頼るならば彼はついに仆れるか、増上慢に陥って、未だ得ざるを得たりとするようになるのであります。

併し真に彼が無限者の力に依り頼るならば彼は打ち勝つのであります。聖パウロは「我は吾を強め給うキリストを通して総てのことを為し得る」と言っています。又「最早わが為すに非ずキリストが為し給うのである」と言っています。またイエス自身も「われ自らには何事をも成し得ず、天の父われにいまして成さしめ給うなり」と言っています。

これらの言葉こそ完全に自己の否定であると共に、新しき神人(ゴッドマン)の獲得なのであります。有限者の否定と共に如何なる事物も、無限者の力 ――吾に宿る久遠ロゴスの力 ――に依って可能なのであります。(言葉は肉体となりて吾等の中に宿り給えり ――ヨハネ伝第一章)

吾々はみな神の子逹なのであります。キリストと同じくこの同じロゴスが吾等の内に宿り給うてましますのであります。肉体を見るな。生命を見よ、汝は神の子であると云うのが、すべての光明思想家の主張であります。

つづく

     <平成29年10月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7896)
日時:2017年10月17日 (火) 12時00分
名前:平賀玄米


ハンブリン氏も「わが内に宿る所の『神の力』を疑うことは罪である」と言っています。生長の家で、「罪」とは實相をツツミ隠すことであると言っているのに一致するのであります。

氏は自己に宿る神の無限力を自覚するために、神想観中において次の如く念ずることを勧めているのであります。
「吾は神の子である。吾が内に宇宙の総ての力が宿っているのである。如何なる人生の体験が来ようとも、自分は喜んで莞爾として立ち対(むか)う事が出来るのである。何故なら自分はその体験の中に神を見出し、その背後に神の愛を見出すことを知るからである。人生の体験が如何なるものであるにせよ、それは結局私を最善にのみ導く事が出来るのである。

自分はそれを歓迎する、そして神に対して感謝するのである。吾が内に宿る所の力は諸々の恐怖心を哄笑と笑いの中に吹き飛ばしてしまうのである。吾は光の中を歩む。吾は光の中に住むのである。吾はキリストの軛(くびき)に結ばれているのである。而して総ては善であるのである。」

つづく

     <平成29年10月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7910)
日時:2017年10月18日 (水) 21時24分
名前:平賀玄米


或る日、ハンブリン氏のところへ、その読者から次の様な意味の手紙が来たのであります。この手紙に対する氏の解答は、氏の光明思想の特長をハッキリ浮かび上がらせるものであるから次に紹介しようと思う。
「ハンブリン先生。私の友人は数名集まって詩篇第九十一篇の研究から引出されて来る色々の教えに就いて議論しておったのであります。ところで詩篇第九十一篇に書かれていることは、実に明らかに地上の一時的幸福 ――即ち病気から護られると云うこと、病気にも感染せぬと云うこと及び凡そ総ての悩みから守られている環境の中に生活出来ると云う様な地上の一時的利益に就いて書かれているのであります。

ところが、イエス・キリストは明らかに彼の弟子達に迫害と艱難とが来ると云う事を説いているのであります。イエスは詩篇第九十一篇を知っておったに違いないのであります。而もイエスはその驚くべき教えの生きた実例であるようには見えないのであります。

真にも初期のキリスト教の殉教者達は、かかる艱難の悲しき時期を有ったのであります。そして彼らによって、この詩篇第九十一篇は、肉体的幸福、健康、或は人生の悩み等を克服する上に何等意義がなかったのではないでしょうか。貴方は詩篇第九十一篇に書かれている病気や災難の克服は霊的に解釈しなければならないのだとお考えになりませんか。

しかも、それは古も今も等しく、人生に於いて遭遇する色々の危険についてはっきり述べているのであります。恐らく若しキリストがもっと彼自身の現実の幸福に執着して生活したならば、彼は自己の肉体を護るために神の守りをもっと要請したかも知れません。併し、そうしたならば彼は十字架にかからなかったのであって、彼の使命を果たすことも出来なかったでありましょう。

多くの人々は詩篇の言葉の意味を文字通りに解釈し、日常の生活の幸福にそれを当て嵌めたいと考えております。私は実はそうしたいと思う者であります。併しその様に若し吾々がしょうと思う事が総て何の艱難もなく思い通りになるならば、余りにも人生は安易であって、吾々の訓練になる所の必要な部分の総ての生活体験を、人生から取り去ってしまうことになりませんか。

若し吾々が神の子であるならば、吾々は凡ゆる禍の力の上に超出する神的意識をわが魂の上に発達せしむべきではあります。併しそういう魂の高揚が、同時に世間的な成功のより高き段階に生活することであり、総ての人生の小さき煩いの達し得ない世界に生活することができることであるかどうかに就いては、私は疑いを持つものであります。若しあなたが近き未来に於いて、以上の問題に就いてあなたのご意見を発表して下さいますならば、多くの人達の非常に興味を曳く問題であると信ずるものであります。」右の様な質問は時々、吾々も受取るところのものであります。

ハンブリン氏はこれに答えて、「詩篇第九十一篇はキリストの弟子が受くべき迫害に就いて述べているのではなく、ある信仰の段階に到達した人々が消極的な病気や不調和を克服し得る境地に就いて述べていると云うことを私は指摘したい」と言っています。

又曰く、「これは眞理を悟れる者の或る段階である。併し完全なる最高の段階ではないのである。イエスキリストの教えは聖ヨハネに依って記録せられたる如き人間の到達し得る最高の、最後の或る段階にまで導くのである。詩篇の第九十一篇はそれよりも低き信仰段階に就いて書かれているのである」(『摂理』33P)と。

かくてハンブリン氏は信仰によって現世利益を追求する境地は最高の段階ではないと云うことを述べたのち、「かく言えばとて、詩篇第九十一篇に従って生きると云うことは、そんな生やさしいことだと考えれば間違いである。が易しいと考える所の人々は先ずその境地が易しいかどうかを試みるがよい。

詩篇第九十一篇の教えの如き高き生活に生きることは多くの人々の理解を超え、想像をすら全く絶する高い信仰と霊的修行の状態を必要とするのである。議論は無用である。この教えを実際生活にテストしてみて、霊的生活一大冒険生活の首途(かどで)とせられるならば真に甚だ幸いである。」(『摂理』34P)

つづく

     <平成29年10月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7918)
日時:2017年10月19日 (木) 13時50分
名前:平賀玄米


ハンブリン氏によれば、まことに信仰によって詩篇第九十一篇にあやかるような神の豊かなる恵みと、霊の守護とを得、神秘の鍵を自由に開け得るようになった時にこそ、又吾々が祈りに於いて偉大なる神通力を得たる時にこそ、而して又、吾々が意志のまにまに、例えば全宇宙を飴のようにへし曲げることが出来るようになった時にこそ、吾々は信仰の一段階をパスしてそれを悉く放棄するように求められるのだと言っております。

かくして大なる信仰冒険の第二のそして最後の段階に対して、吾々は用意しなければならないと云うのであります。詩篇第九十一篇はこの第一段階を教えるものであり、イエスのゲッセマネの祈りは第二の段階を教えるのであり、天候さえも支配し、波を叱咤して静め、万軍の天の使いを呼んで護らせる力がありながら、尚自らそれをなさずして十字架にかかったイエスの魂の段階こそ最高のものであるとしております。

つづく

     <平成29年10月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7925)
日時:2017年10月20日 (金) 15時15分
名前:平賀玄米


信仰の偉大なる使徒、ジョージミューラー師は環境を祈りに依って支配するばかりでなく、天候さえも支配する力を得たと言われています。彼は七十歳の高齢に達した後、数回大講演会に全世界を経へめぐったのでありますが、ある時、彼の航海中、彼の乗っている船は狭い海峡を通っていたが、濃霧の為に殆んど進行を停止しなければならなくなりました。

航海が遅延すればミューラー師は、彼が出演を約束してあった講演会に出演することが出来ないような状態に立到ったのです。彼は船長を下へ連れて来、船長がそこで祈るように跪かしめました。
そして一緒に霧が消えてしまうように祈ったのでした。船長はこの不思議な旅客を気狂いになったものだと思って、ただ逆らわずに跪いていました。

併し祈り終るとミューラー師は船長に言いました、「私と一緒にデッキへ上がって見ましょう。霧はもうすっかり晴れていますよ」と。本当にその通りになったのです。彼がデッキに着いた時あの一吋先も見えなかった濃霧は既に殆んど晴れていました。そして間もなく完全に晴れてしまいました。そして師は予定の講演時間に出演することが出来たのです。

ミューラー師はある目的の為に五十年以上も祈り続けていたのであるが、彼が祈った時にその求むるものは既に成就していたと云うことを知ったと云うことです。まことにミューラー師はラザロの墓に於いてキリストが祈ったように「祈るとき既に成就せり」と信じて祈ることが出来たのでした。

「父よ、あなたがわが願いに聴き給えることを感謝致します。そしてあなたは常にわが求めを聴き給うことを知るのであります。」彼はかくの如き祈りの力を所有していたのでありますが、彼は自分の生活の安易の為には祈りませんでした。それはわが意をなさん為でなく、彼の身の幸福の為でも、彼自身の便宜の為でもなく、唯主の御業が為さるべき為にのみ祈ったのでした。

つづく

     <平成29年10月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7931)
日時:2017年10月21日 (土) 14時18分
名前:平賀玄米


併し時は来ました。ミューラー師さえも、総てこれ等のことを、これ等の力を、更に言えば彼自身をさえも自己放棄しなければならない時がきたのだとハンブリン氏は指摘しています。ジョージミューラーはこう言っています。「その日に私は死んだのです。全く死んだのです。私はジョージミューラーを死に切りました。私の意志を、私の好き嫌いを、私の趣味を、私の意志を死に切ったのです。

この世なる全てのものを、その賞讃と非難とを死に切りました。それどころか、わが兄弟、親しい友の毀誉褒貶をさえも死に切ったのでした。私は唯神に私自身を喜ばれる為にのみ精進努力したのでした。」と。

ハンブリン氏はジョージミューラー氏の信仰段階を注釈して、「師は、主イエス・キリストに依って示され、教えられた眞理に到達する道の入り口を求むる所の総ての人の体験しなければならない最後の段階を体験したのである。彼は自らが獲得した所の総てのものを、神に無条件に引き渡さなければならなかったのである。

彼は大ミューラー博士なるもの ――即ち信仰と祈りに依って世界に知れ渡った栄誉をも神にまで悦んで放棄したのである。彼は彼の生活を支配し、環境を支配し、自然力及び天地の異変をさえも支配した所の力を悦んで放棄したのである。而して彼は唯子供になった。唯陶器師の手にある単なる粘土になったのである。

その時だ、尚一層偉大なるミューラーが、否更に私に言わしむればミューラーより尚一層偉大なる者が復活(よみがえ)ったのであった。それ以来彼は、神によって神自身の肖像として造られ装われたところの、全然『新たなる存在』となったのである。ここに於いてジョージミューラー師は第二の、そして最後の信仰段階にまで入ったのである」と。

摂理への随順の素直さがここまで達すれば大したものであります。併し信仰の第一段階も第二段階と等しく重要でありまして、自己の運命を自己の思うように支配出来ないで悩み苦しむ様な状態は、詩篇第九十一篇の信仰段階にも達しない者だと言わなければならないのであります。

つづく

     <平成29年10月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)G (7944)
日時:2017年10月22日 (日) 12時25分
名前:平賀玄米


ハンブリン氏の挙げている祈りと信仰の力にこんな話があります。
ジョン・ウェスレイが或る時、グリン村へ説教に行ったことがありました。彼はその時その地方で恐れられている浮浪者(さすらいもの) ――その暴力の強さと激しい狂暴さとで知られている悪漢である者に出くわしたのでした。彼は両手に石を持っていた。そして言った。「若しウェスレイが祈ろうとするならば、この石をお前に投げるぞ。」

勿論そうされればウェスレイは死ななければならないか、重傷を受けて永遠に悩まなければならないか、どちらかでありました。その時ジョン・ウェスレイは単にその兇漢の肩を軽く手で叩いて言いました。「ネェ君、神の許しがなければ一つの石さえも投げる事は出来ないんだよ。」突然、その暴漢は石を手から落としました。そしてジョン・ウェスレイの前に跪いて、その崇拝者となり、却って彼の身辺の護り手となったのでした。

ジョンウェスレイは詩篇第九十一篇の眞理を具象化したのでした。若し彼がかくの如き眞理を知らず、眞理を具象化する事が出来なかったならば彼の生命は危なかったに違いありません。併し乍らウェスレイは神に対して唯一人の幼き子供の如く、神の力を信じていたからこの奇跡が出来たのであります。

すべての光明思想家がそうであるように、ハンブリン氏もイエスの生活に最高の模範を見出します。曰く、「イエスが第一段階の信仰の偉人であったと云うことは明らかである。彼は自然力の凡ゆるものを支配したのである。何人も彼に襲いかかることが出来なかったし、彼を傷つけることは出来なかったのである。

彼の生活は積極的に自らが自らの主人公である生活であった。そしてある人が考えるような消極的存在ではないのである。あるひとはイエスの生活はただ無抵抗の甚だ消極的なものであると考えているらしいのであるが、それは間違いである。或る人はイエス及びイエスの弟子達が貧乏であり、食べ物も碌々食べず、襤褸(ぼろ)を着ており、如何にも消極的な生活を送っていたと、想像しているかの如くである。併し実はその反対である。

イエス及びイエスの弟子は、何等の所有物をも持つ事を拒んでいたとは言え、彼等は決して貧乏ではなかったのである。総て彼等の生活になくてならぬものは充分供給されていた。それどころか、彼は貧乏人に金を恵んだりしていた。」とて、五つのパンを五千人に頒って尚余りあるの例を挙げています。「自ら進んで富を放棄し、全ての所有を拒絶することと、貧乏に縛られた消極的犠牲者であると云うこととは全く別なことなのである。」とハンブリン氏は言っています。

イエスの生活は完全なる自主的生活であり、積極的力の生活であり、消極的な一切の悩みは彼の上に何等の力も揮(ふる)うことは出来なかったのです。そして自ら愛の化身として、最後に自我の解放の最高段階として、自ら進んで、当時の人類の「罪の意識」の代贖者とならんが為に十字架についたのでありました。それはわれ自らの無力の為ではなしに、人類を生かす為に最高最後の方法だったのであります。

  苦難と恐怖の克服法(完)

今回にて第八章(最終章)完了。

      <平成29年10月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


     今回にて<人間救いの原理>の謹写を終了する事が出来ました。
     これも偏に最後までご愛念を送り続けて下さった伝統様のお陰と
     心から感謝致しております。有難うございました。
     これからも伝統様のご愛念に報いるべく、謹写投稿を続けさせて頂きます。 
                          平賀玄米 合掌再拝。




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