《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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いま憲法改正運動に取り組む私  ― 教員時代の 「国旗国歌問題」 をふり返りつつ  ― (7388)
日時:2017年08月17日 (木) 00時14分
名前:童子

国民同胞 670号 
     国民文化研究会 ○○ ○○



私は、いま福岡で憲法改正のための活動に取り組んでゐます。 2年半前に教職を退き、念願の憲法の問題に真正面から取り組んでいけることに喜びを感じてゐます。 講演会を開催したり、憲法についての学習会を開いたりしてゐます。 5日月には、北九州市小倉南区の自治連合会の女性部の皆様40名程の方々に憲法改正の必要性を訴へるDVD (百田尚樹監修) を見て頂きました。



 かうした活動に取り組んでゐる私ですが、振り返ってみますと学生時代に原点があったやうに思ひます。


 ■ 高校時代に遭遇した三島事件


 高校一年生の時、昭和45年11月、私はテレビで三島由紀夫氏が市ヶ谷の自衛隊の駐屯地で憲法改正を訴へて自決した事件を見ました。 氏の行動は、当時の日本では受け入れられないもので、報道も批判的でした。


 私にはそれを見た時、何か自分の知らないことが世の中にあると感じたことが、憲法に関心を抱いた始点だったやうに思はれます。


 現在でこそ 「戦後の護憲運動が唱へる平和主義は偽善である」 と多くの方が気づき、さうした出版物も多く刊行されてはゐますが、当時は氏の訴へはほとんどの国民には奇異なものに映ってゐたと思ひます。 私は、三島氏の行動は何を意味してゐたのだらうか知りたいと思ひました。


 私が中学生の頃、多くの大学が暴力 (ゲバルト) 肯定の左翼過激派によって占拠され授業不能の状態に陥ってゐました。 そして浅間山荘事件 (昭和47年2月) などで、過激派内部での仲間同士の殺戮が明らかになったこともあって、徐々に大学での騒ぎは沈静化していきました。

   
 ■ 『占領憲法下の日本』 との出会ひ


 昭和48年4月、鹿児島大学に入学した私は、サークルの先輩が薦める本を読み進めていく中で、自分自身がどういふ存在であるのかが少しづつ分るやうになって来ました。


 さうした中で、谷口雅春先生の 『占領憲法下の日本』 『続占領憲法下の日本』 といふ書物に出会ひました。 三島由紀夫氏が 『占領憲法下の日本』 の 「はしがき」 を書いてをられました。 当時40万部も普及されてゐたさうです。


 憲法についてですが、GHQ (連合国軍総司令部) が占領期間中に作ったものであるといふやうなことは、学校では誰も教へてくれず、逆に現憲法は 「平和憲法」 ですばらしいものだといふことを徹底的に教へられてゐましたから、『占領憲法下の日本』 といふタイトルを見ただけで気が退(ひ)けてしまひさうでした。 表紙がゲバ棒をもってデモをしてゐる学生たちの写真でした。 この本は、自分自身の問ひに答へてくれる本だと直感しました。


 実際読んでいくと、「日本国憲法」 は日本が昭和20年9月から27年4月まで占領されてゐた時期 (国家主権喪失期) に、GHQが起草したものであることが書かれてゐて、驚愕すべき内容でした。 そして、憲法の根底には唯物的な考へがあって、権利のみを主張して国家をないがしろにする精神を育むやうになってゐると述べられてゐました。 「平和憲法」 といふのも、自分の国の安全を外国に委ね、交戦権を否定し自衛のための軍隊も保持しないといふことを指して言ふのですから、三島氏が自決前に 「国防否定の憲法でいいのか」 と訴へことの意味がこの時、理解できたのでした。



 国文研の夏の合宿教室で山田輝彦先生が説かれた 「内なる国家」 といふことも、谷口雅春先生の言はれる 「生命体なる国家」 といふことも、占領憲法下の教育を受けた戦後の世代には教へられてこなかったことに気づきました。 いまでは 「憲法改正」 を首相が言ひ出すまでになりましたが、当時は 「平和憲法」 万歳! が政界でまかり通ってゐたのですから、谷口先生の本には心が震へました。 あの大学紛争も三島事件も現憲法に由来することを知ったからです。


 
 ■ 大学での学び ― 合宿・読書・サークル活動 ―


 大学に入学するまでの私は人間や人生、日本そのものに絶望しかかってゐました。 さうした中で、時間だけはたっぷりありましたので、先生方や教育問題研究会の先輩が薦めてくれた本を読み耽りました。 それらの本を読んでいくと、人間を肉体的ではなく霊的に観る考へがあることを知り感動しました。 周りの世界が一変した感じでした。 自分の心に思ひ描いたものが現実に映し出されてくることを知りました。


 合宿教室にも参加しました。 左翼の学生たちが信奉する階級史観は、結局は暴力革命に依らなければ平等の世界は実現しないといふもので、考へが合はなくなれば仲間であっても糾弾し粛清して命を奪ふものだといふことを知りました。 心の裡に平和を想念して、すべてのものに感謝することで環境も自分の人生も変ってくることを知りました。



 また、日本の神話の世界では、日子 (ひこ)・日女 (ひめ) と呼び合ひ、人間を天照大御神の子孫としてとらへてゐたことを知り、その直感力のすばらしさに感動させられました。 そして、世界の人々がみな 「同じ屋根の下(もと)の兄弟」 のやうに睦み合ふ世界を作り出さうとの理念とともに、皇室が太古から現代まで続いてゐるといふことの有り難さが分って、いつしか感謝できる自分になってゐました。



 ■ 「志は風化させない」


 学生時代に 「志の風化」 といふ言葉を耳にしました。 私はこの言葉を 「志を立てたとしても、@ 就職して A 結婚して B 子供が生まれて …と、相手や環境、生活の変る中で、つい志を忘れて日常に埋没してしまふ」 といふ意味に捉へました。 物質的に豊かになった日本では、波風を立てずに周囲の雰囲気に合せて生きていく方が楽かもしれないと思はれました。 卒業後、教職に就くことを望んでゐた私は、日教組が牛耳ってゐる教育現場では、学生時代のやうに心の通じ合ふ仲間は傍(そば)にゐないわけですから、相当覚悟しなければならないと思ひました。



 しかし、自分の心の奥底に日本の国を愛し国の現状を憂へる悲しみを湛へてゐる限りは、これに蓋をして生きることはできないと思って、自分の魂が一番喜ぶ生き方をして行かうと秘かに決意しました 。私は 「自分の志は風化させない」 と、自分自身に誓ひました。 この言葉は、その後挫(くじ)けさうになる自分を幾度も奮ひ立たせて学生時代の初心に戻してくれました。


 
 ■ 志の原点としての国旗国歌問題


 昭和53年4月、新米教員として赴任したのは福岡県下の学校でした。 初めての学校では 「国旗国歌」 が入学式の次第に入ってゐませんでした。 着任早々でしたが、ここで質問をしなかったら今後、国旗国歌について発言できなくなると思って、入学式前の職員会議で 「入学式で国旗を掲げ国歌を斉唱しないのは、どうしてですか」 と質問しました。 管理職も日教組の先生方も着任間もない若輩者が何を言ふのかと驚いた表情をしてゐました。 「今までしてゐないから」 との答へでしたから、自分の育った鹿児島県の学校では国旗が掲げられ国歌が斉唱されてゐたと発言して、公教育であるから国旗を掲げた上で国歌の斉唱を行ふべきではないかと意見を述べさせてもらひました。



 組合の先生方も明確な反論を準備してゐなかったやうでしたし、管理職も混乱を避けたい様子でした。 私も入学式が差し迫った中での議論は学校の運営上も好ましくないと思って、「例年通り」 といふ校長の言葉に従って入学式は行はれました。 私としては、初めての職員会議で自分の考へをはっきりさせておくことが志の原点であると思って発言したのでした。


  ■ 自らを鼓舞して会議に臨んだ


 それ以降、運動会、卒業式と学校行事ごとに発言していくと、さすがに組合の先生方も順番を決めて私に反論してくるやうになりました。「日の丸は戦争をイメージする」 「君が代の君は天皇ではないか」 「今の日本にはふさはしくない」 等々お定まりの理由でした。


 職員会議の前日は、日教組の先生方からどんな質問がくるだらう、どんなふうに話をしたら分ってもらへるだらうかと眠れないほど悩み、考へたことがありました。 ただ、私の心の中には、国文研の合宿での 「真心で話すと相手も心を開いてくれる」 といふ体験や、谷口雅春先生から学んだ 「だれもが神の子である」 といふ徹底して他者の命を尊ぶといふことで、組合の先生であらうとも 「神の子、仏の子である」 といふ人間観がありました。 それでどんなことを言はれようとも、自分が学んで知り得たことは、正面から話さうと決意して臨みました。



 職員会議に臨む折は、机の下で、握ったこぶしが震へてゐました。 しかし、日本の国のために命をかけて戦ってくださった先人の方々のことを思ふと、20数名の先生方を相手に話をすることなど何でもないと自分で自分を鼓舞し、同じ日本人なのだから、誠意をこめて話せば聞いてもらへるはずだと思ひました。 会議の中で、先生方は次々にいろいろと反論されました。


 その中で、「天皇を賛美するやうな歌を教へるわけに行かない」 といふのがありました。 そこで天皇陛下について話させていただきました。 陛下のこととなると私自身厳粛な気持ちになります。



 ■ 拙いながらも精一杯、話した



 昭和天皇のご聖断の話をさせていただきました。

 開戦時は複雑な国際情勢があり、ABCD包囲網が作られ日本の資源は底をつきどうしようもなく戦争に追ひ込まれていったこと、アメリカは日本から攻撃を仕掛けてくることを待ち望んでゐたことなどを拙い言葉ながら精一杯説明しました。 平和を願はれる皇室の伝統はずっと昔からあり、それは歴代天皇の御製に現れてゐること、明治天皇の御製に


  よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ


 といふものがあり、今上陛下 (昭和天皇) はこの御製を御前会議 (昭和16年9月) で読み上げられ、和平の道はないものかとのお気持ちを表明されてゐたことなども話させていただきました。



 このやうに世界の平和、国民の幸福を願はれる皇室を慕って仰いできたのが国民なのではないか、「君が代」 には、そのやうな国柄の永続を願ふ思ひがこめられてゐるとも話させていただきました。


 終戦時は、ポツダム宣言を受諾するか否かで内閣の意見がまとまらなくなった際、時の総理大臣が陛下のお考へをぜひお聞かせ下さいとお願ひした際、「自分はどうなってもよい。国民を助けたい。 ポツダム宣言を受け入れるとの外相の意見に同意である」 旨を言はれたことも話しました。 陛下のお歌も紹介しました。


  爆撃にたふれゆく民のうへをおもひいくさとめけり身はいかならむとも

  国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり



 先生方もシーンとして聞いてくださいました。

 私自身が戦後教育の中で育って、天皇陛下について教へられずきたのですが、合宿教室や勉強会で初めて耳にして感動した話でしたので、先生方も驚きと感動をもって聞いてくださったのだらうと思ひました。


「天皇は利用されたのではないか」 といふ質問があり、天皇陛下への認識を変へていただいたやうに感じました。 若き自分には言葉が見つからなかったのですが、「利用することがないやうに国民が努力していかなければならないのではないでせうか?」 と答へたやうに思ひます。


  ■ 同憂の人たちが全国にゐる…


 このやうなやり取りをその後、卒業式や入学式の前の会議で繰り返し行ひました。 職員室では一人ですが、全国各地で同じやうに現状を憂へてがんばってゐる人がゐるはずだと思ふと力が湧いて元気になりました。 その後、教育委員会等の指導もあって、校長先生から国旗を掲げ、国歌斉唱を行ふことを式次第に入れた案を提示されるやうになり、二年目の卒業式から国旗が掲げられ、国歌斉唱が行はれるやうになりました。


 他の学校に転勤する度に、また似たやうな会議がなされました。 その頃、教育委員会の指導とそれに反対する組合員教師との板挟みで校長先生が自殺するといふ他の国ではあり得ない痛ましい事件が発生しました。 その後平成11年8月、国旗国歌法が成立して、さうした学校現場での混乱は収束に向ひました。 法を変へるといふことがいかに正常化に繋がるものであるか感じさせられました。 それまで日の丸君が代は国旗国歌として広く国民の間に定着してゐたはずですが、日教組は表向きでは成文法に明記されてゐないといふことで、国旗掲揚国歌斉唱に異を唱へてきたのでした。 良き 「慣習」 は成文法にも勝る拠り所であるといふことが分らないといふことは残念なことだとも思ひました。



 天皇陛下の話は、受け持った子どもたちにもしてきました。 すると、いつもは授業中落ちついて話を聞かない児童が、陛下の話の時は全身を耳にして真剣に聞いてくれました。 中にはポロポロと涙を流す児童がゐました。 これは、組合に入ってゐる先生方にしても、児童にしても、日本人としての共通の魂が真実の皇室や先人の生き方を知って共鳴してくれるのではないかと思ひます。



 振り返ると、初めて赴任した学校での闘ひが 「志の風化」 を乗り越えた原点であったと思ひます。


 これからも日本人の魂を信じて、憲法改正運動に取り組みたいと思ひます。


  (元福岡県公立小学校教諭)


 ―――― ・・・ ――――









管理人から童子様へ。 (7418)
日時:2017年08月22日 (火) 12時28分
名前:管理人

童子様

いつも有意義かつ熱烈なる文章を紹介してくださり、ありがとうございます。

上の7388記事も大変教えられる内容で、さすがに国民文化研究会の人の生き方は着実で足が地についていると感心しました。

管理人は昔から国文研叢書をたくさん読んで勉強させてもらい、『日本思想の系譜文献資料集』全巻は『生命の實相』とともに管理人の座右の書になっていますが、国文研のほうが今の教団よりもはるかに本物の生長の家だと思わざるをえません。

ところで、7388には「国民同胞第670号」をお書きになった元公立小学校教諭の名前がそのまま出ていました。

インターネット上に本人がみずから自分の名前をだした場合は別として、印刷物に記された著者の名前をインターネット上に公開するときは著者本人の承諾が必要です。

童子様が著者の承諾を得たという確認が取れませんので、管理人が元公立小学校教諭の名前を伏せ字にいたしました。

ご了解を願います。また、今後のご参考にしてくださることを願います。


管理人 拝





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