朝日新聞が終戦引き揚げ女性の「中絶手術」に関する読者投稿 「ご主人の子であろうと見殺しに」 を訂正・おわび ― 【二日市保養所】 (7285) |
- 日時:2017年08月07日 (月) 18時47分
名前:童子
朝日新聞が訂正・おわび 終戦引き揚げ女性の 「中絶手術」 に関する読者投稿で
産経新聞 2017.8.1 12:12 http://www.sankei.com/west/news/170801/wst1708010051-n1.html
朝日新聞は1日付朝刊で、6月19日付 オピニオン面 「語りつぐ戦争」 の投稿 「引き揚げの女性に中絶手術」 の内容について、確認に不十分な点があったなどとして一部を削除、訂正し 「おわびします」 との記事を掲載した。
投稿は終戦後の引き揚げ女性の中絶手術のことを旧友から聞いた話として書かれた。
16歳以上の女性を集めて担当者が呼びかけたという内容で、
「旧友に聞くと、『今おめでたの方はいませんか。ご主人であろうと、またソ連兵、朝鮮人に犯されての子でも、今から育てるのは苦労です。 思い切って見殺しにすることです』 と女性たちに呼びかけたという」
のうち「ご主人であろうと」を削除。 「見殺しにすることです」 を「身を軽くすることです」に訂正した。
掲載後に読者から指摘があり、投稿者に確認したところ記憶違いの部分もあったとして削除・訂正の申し入れがあったとし、掲載前の確認も十分ではなかったとしている。
(引用ここまで)
★訂正して、おわびします 朝日新聞 2017年8月1日05時00分 http://www.asahi.com/articles/DA3S13065581.html
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投稿者は 「記憶違いの部分もあった」 と言うがどのような意図で、夫の子を妊娠中の女性にまで中絶を奨励するような、事実と全く異なる 投稿をしたのだろうか???
この投稿を採用した朝日新聞同様、恐ろしい悪意を感じる。
当時の二日市保養所などの悲劇を知る人なら例え朝日新聞の読者であってもこの投稿の嘘を指摘し抗議して当然だ。
そもそも、この投稿者というのは実在の人物なのだろうか?
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★闇に葬られる終戦後の日本女性の悲劇 ・・・ 二日市保養所など http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2455.html (引用開始)
1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが 開始されてから、博多港に上陸した日本人引き揚げ者は 約1年半で139万人に上った。
ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、 妊娠させられた多くの女性が存在した。
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性も 多かったそうだ。
妊娠した女性の中絶手術が厚生省博多引揚援護局 二日市保養所で行われた。
物資不足から、手術は麻酔を使わないで行われた。 「白い肌、赤い髪、長い指。 一目でソ連兵の子供とわかる水子もいた」 そうだ。 (略)
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★桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍 平 尾 弘 子 終戦の翌年、1946年の春、 日本に帰還していた京城(大韓民国の首都ソウル。 日本統治下、朝鮮総督府がおかれた)。 日赤の同期の看護師10名が、福岡市の近郊、 二日市へ集結した。
対馬に帰還していた当時、20歳の村石正子さんも 日赤の事務長から連絡を受け、用件も明確には伝えられないまま、 二日市に赴いた。 そして、桜の蕾が芽吹き、満開となり、 やがて葉桜となる3月から5月までの3ヶ月間、 二日市保養所でその勤務にあたった。
二日市保養所は、引揚者の救済活動をしていた 在外同胞援護会救療部によって、戦時中の愛国婦人会保養所の 建物を利用し、1946年3月に開設された。 引揚の混乱の中で暴行を受け、妊娠した女性の中絶や性病の 治療等に約1年半にわたって携った。 (中略)
保養所の2階に部屋をあてがわれ、そこでの生活が始まった。 建物は老朽化した2階家で、1階の1室が、手術室として 使用された。
そこは以前、風呂場であったのか、床がタイル張りで 手術台が1台置かれていたという。 棚には脱脂綿やガーゼ等、最小限の医療用具しか 準備されていなかった。
大陸からの引揚港博多からトラックに乗せられ、 運ばれてくる女性たちの姿を見て、 村石さんは、事の次第を理解した。
異形の者 … 彼女たちの様相を現わす言葉は、他に見出せなかった。
一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を 風呂敷で巻き、汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、 次々と保養所に運ばれてきた。
引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く 刈り込んでいたが、膨らんだおなかを見れば、 それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは、 いや増すばかりだった。
戦争の周縁では、どの時代、どの地域であっても例外なく 必ず性暴力の被害が生じる。 この世で最も忌むべき戦争と戦時性暴力は、お互いが癒着し、 蛇のように絡まりあい、切っても切り離すことなどできない。
更にこのような状況下でも生身の女性の体は受胎し、 加害男性の子を宿してしまう。 人間という個体の生殖の営みが、これ程、哀しく 不条理なものであると感じられることはない。
凄絶な体験を経て、一種の精神的な虚脱状態にあったためか、 女性たちは概して無言のままだったという。
迎えた人々も掛ける言葉も見当たらなかった。 まず、「お風呂に入りましょうか。」 と入浴をすすめ、 衣服の着替えを用意し、2〜3日休養してもらう手順だった。 旧厚生省から食料だけは、豊富に支給されていた。
手術は、医薬品不足のため、無麻酔で行なわれた。 精神と肉体に凄まじい傷を負い、言葉を半ば喪失していた 女性たちは、激痛にも一様に黙々と耐えたという。
(全文はリンク先で)
★戦後…博多港引き揚げ者らの体験
http://hogetest.exblog.jp/4979697/ (引用開始)
<2>医師らひそかに中絶手術
◆厚生省「超法規的措置」で保養所開設
二日市保養所。 入り口脇には 「厚生省博多引揚援護局保養所」 の看板がかかっていた。 (福岡市総合図書館所蔵「博多引揚援護局史」より)
「不幸なるご婦人方へ至急ご注意!」。
満州(現中国東北部)や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。
「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり …… そのため体に異常を感じつつある方は ……」
「診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」
全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連(当時)の兵隊などの暴行で妊娠していた女性には見当が付いた。
中絶手術。
優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。
■
ビラを配ったのは、現在の韓国の首都ソウルにあった京城帝大医学部の医師たちのグループ。
このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、ほとんどは45年12月ごろに帰国。 引き揚げ者の治療を続けるため、外務省の外郭団体 「在外同胞援護会」 に働きかけ、グループ全体を 「在外同胞援護会救療部」 に衣替え。
46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺 「聖福寺」 に、診療所「聖福病院」を開設した。
帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか——。
きっかけは、暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。
このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。 しかし、話しかけても泣くばかり。 両親から 「ソ連兵に暴行されて妊娠した」 と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。
すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。
外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。
医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。
■
医師らから提案を受けた厚生省(当時)博多引揚援護局は福岡県と交渉し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。
旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。 交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月、「二日市保養所」 を開設した。
厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、 当時、聖福病院に勤務していた元職員は
「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」 と推測する。
(全文はリンク先で)
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朝日新聞は、日本の加害を誇張し捏造してまで慰安婦問題を煽ったが、 戦後の引き上げ中の女性達がどのような目に遭ったか無視するのか?
フェミ団体も 「戦争と女性の被害」 と言いながら日本女性の被害には一切言及しない。
こうした姿勢が、彼らの運動への不信感と欺瞞を感じるのだ。
「語りつぐ戦争」というのであるならばこうした事実をしるべきだと思う。
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