《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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現総裁が作った「四無量心を行ずる神想観」“新バージョン”の違和感の正体とは?! (7071)
日時:2017年07月20日 (木) 09時42分
名前:破邪顕正

「大日本神国観」を実修しない代わりに、教団内で今、幅をきかしているのが、表題の“新バージョン”であります。

《わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、虚空に広がり宇宙に満ち、一切の衆生をみそなわして、その苦しみを除き、悩みを和らげ、楽を与え、喜びを与えんと欲するのである。》

それが“新バージョン”では、こうなります。

《わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、さらに虚空に広がり宇宙に満ち、地球のすべての生命(せいめい)と鉱物の一切を見そなわして、その苦しみを除き、楽を与え、多様性を護り、喜びを与えんと欲するのである。》

つまり、一切の衆生をみそなわして≠フところを地球のすべての生命(せいめい)と鉱物の一切を見そなわして≠ノ替え、悩みを和らげ≠とり、その代わりに多様性を護り≠入れているのです。

前々から、この“新バージョン”には違和感があって、ずっと馴染めないでいたのですが、尊師のこのご文章を拝読させていただいて、ようやく、その違和感の正体がわかりました。

まずは、そのご文章をご紹介します。

出典は、『理想世界』誌・昭和37年12月号です。

《人間は神の最高実現として、宇宙の一切の要素−鉱物的なるもの、植物的なるもの、動物的なるもの−をことごとく内に内包しながら、それ以上に超出するところの一層高次なるものを発現せしめなければならないのである。…

それを発現せしめ得ず、発揮し得ない限りに於いて、彼は、たとい人間の形をしていても、まだ単に鉱物であるにとどまり、植物であるにとどまり、動物であるにとどまるのである。…

では、如何にして諸君は、鉱物や、植物や、動物の域を超えて、人間の高さまで高昇し得るであろうか。

それは自己の内に宿る「神」を発見しなければならない。

発見するだけでは足りないのである。

「神」を実践しなければならないのである。

「神」を実践したときにのみ、人間が動物の域を超えて「本当の人間」になるのである。》

つまり、私の違和感とは、“新バージョン”には、「鉱物や、植物や、動物の域を超えて、人間の高さまで高昇」して「一層高次なるものを発現せしめなければならない」という精神が実に希薄であるということにあったのです。

希薄どころか、現総裁は、「人間そのもの」をどこか“悪”と捉えている、現象人間のことばかりを書いている、そんな気配が実に濃厚なのです。

因みに、この“新バージョン”を発表した際のブログ記事を「唐松模様」から一部、引いておきます。

《2010年1月 1日

四無量心を現すために

(略)

人間が自然界に接する時の心に置き換えてみると、どうなるでしょうか?

それは「自然界を人間の意のままに利用しようとは思わない」ということです。

つまり、人間が自然界を征服して、自分だけが繁栄しようという心を捨てよということです。

これは、近代の産業革命以降の人間の考え方とは大いに異なるものです。

しかし反面、私たちはペットや家畜の飼育や農業を通して、そういう自然との自他一体の心を経験している。

だから、「できない」のではなく「しない」のです。

私たちのような宗教運動は、そういう“心の持ち方”を広めていくところに重要な意味があるのではないでしょうか。
 
そこで今日は、環境運動ではできない、宗教にしかできない方法で、この高度な自他一体感の醸成と拡大とを行うことを皆さんに提案したい。

それは「神想観」を行うということです。

ご存じのとおり、生長の家には「四無量心を行ずる神想観」というのがあります。

これの“新バージョン”を作りましたので、ここにご紹介いたします。》

つまり、総裁は、ここでも、「人間が自然界を征服して、自分だけが繁栄しようという心を捨てよ」との観点から、あくまでも“現象人間”にこだわり、「自然界を征服して」いる人間はいけないとの思いを露わにして、この“新バージョン”をつくっているのです。

しかし、そもそも、「神想観」とは、「実相観」であって、「五官の世界を去る」ところから始まるのではないでしょうか。

ところが、総裁は、その中に、現象人間≠想起させる文言を入れ込むのです。

これでは、人間は神の最高実現≠ナあるという自覚は生まれ得ないように私は思います。

違和感の正体とは、まさにそれだったのだと改めて思い知らされた次第です。
 

彼は元々共産主義者であり、100パーセント唯物論者ですから、神など認めておりません (7072)
日時:2017年07月20日 (木) 10時39分
名前:コスモス


 久しぶりに破邪顕正さまにご投稿いただき、有難く思っております。有難うございます。

 私は今まで、雅宜氏を生長の家総裁として観て来ましたが、総裁はご自分から、「共産党 を支援する」と、はっきり宣言された訳ですから、その時点で、もう生長の家とは縁のない方になられたので、これからは一人の共産主義者として観て行く事にしました。

 何故共産党 あるいは共産主義がいけないかと申しますと、「それが唯物論であるから」と、谷口雅春先生はおっしゃっています。

 唯物論者は神を認めません。
 そこにどうして宗教が介入できるのでしょうか。不可能です。だから彼は、内心、神など認めていないのです。

 口だけ「神よ、神よ」と述べながら、100パーセント物質に染まっているお方です。せいぜい、環境問題に取り組むしか出来ないのですから、環境団体として生きて行けばよいものを、金銭欲と、権力欲と、名誉欲にしがみ付いているために、

 それを手放す事が出来ない哀れな人なのです。彼を単なる共産主義者として観る時に、彼の正体がはっきりと現われて、神様だの、祈りだのと言うものが空々しいものになり、共産党 の小池さんと何等変わらない人なのだとよく解ります。

 ですから現在、生長の家には宗教者としての総裁は不在なのです。


悔しき哉、 (7073)
日時:2017年07月20日 (木) 10時44分
名前:中仙堂

現総裁(自称)は
折角の大聖師が 導き出された
神想観が お嫌いで、
実相の大地に立ちたいとも
根っから 思わない

のではないでしょうか。
でも 自ら 総裁職を手に入れ

生命の実相を廃刊にして

聖経を補強し

新想観を 思いついても

更には バーションアップしても、

心の底は満たされ無い。

今ごろ 嘆息 状態なのでしょう。

心から光明化されずに 人を救い得る筈もない。

人類救済も 異次元の事に思えるのでは

ないでしょうか。

五官の世界を去れない 

爾に伊邪那美命の答曰したまわく、悔しき哉速く來まさずて。吾は黄泉の戸喫為つ。
「まことに残念なことでありますが、わたくしは闇の國、黄泉の國の食物を食べましたから、
光の國へ還ることはできません」とイザナミの神はお答えになったというのであります。
(古事記と現代の預言引用)

悔しき哉、現総裁(自称)は、一番大切なご年齢のころ
すっぽりと赤き龍に呑み込まれ、左翼思想を喰べてしまされたのです。
今更 光の國には戻れないと思われます。

“人間は、神の被造物ではない” (7254)
日時:2017年08月02日 (水) 02時10分
名前:あめのうずめ

雅宣総裁のお考えを、私なりに推察してみますと、こうなります。

“私達人間は、宇宙船地球号の乗組員のひとりである。他にも、乗組員として、植物君や鉱物君や動物君達がいる。

みんなそれぞれに、宇宙船地球号を担っている大切な仲間である。

それなのに、人間君だけが、他の乗組員達から搾取して、豊かさを独り占めにしているのは、悪い事である。

しかも、人間君のせいで、宇宙船地球号が温暖化しているではないか。

このままでは、地球号は破滅するかもしれない。そしたら元も子もない。

人間君は、地球号の一員であるという自覚をもって、もっと欲望を抑え、他の乗組員達(自然)と、豊かさを分け合うべきである。”

如何でしょうか?

なんだか、マルクスの思想と繋がっているような印象を受けないでしょうか?

人間を資本家、自然を労働者と読み替えると、雅宣総裁の思想が、より明らかになるかもしれません。

よく、環境左翼という言葉を耳にしますが、やはり人間と自然という対立的な構図が、そこにあるように思えてなりません。



そもそも人間は、神の被造物である動植物や鉱物と、同格、同列ではありません。

したがって、人間を、宇宙船地球号の一員として観るのは、おかしな事です。

なぜなら、人間は、神の被造物ではないからです。(“神 真理を告げ給う”に詳しく書いてあります。)

谷口雅春先生は、人間は、神から産み出された神の子と教えて下さっていました。

ここに人間の尊厳があるのに、雅宣総裁の人間観は、極めて低いと思われます。

谷口雅春先生のお言葉・・“それまでに創造ったすべてのものを美しき妙なる一大体系に組織する主導者として“わたし”は人間を地上に生み出したのである”(P134)



>私の違和感とは、“新バージョン”には、「鉱物や、植物や、動物の域を超えて、人間の高さまで高昇」して「一層高次なるものを発現せしめなければならない」という精神が実に希薄であるということにあったのです。<

凡庸を良しとするのも、人間がなまじな知恵を働かせて自然から搾取するよりは、凡庸な人間の方がまだましだ、といったところでしょうか‥。

雅宣総裁のお考えは、出発点からすでに違っているので、いくら宗教的な言葉を入れて飾ってみたところで、

如何せんそれが読む者に、得も言えぬ不快感を生じさせてしまうのではないでしょうか。

谷口雅春先生は、人間の尊厳をお説きになりましたが、

残念ながら“今の教え”なるものには、人間の尊厳など微塵も感じられない様に思います。



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