寺田繁三先生 (7402) |
- 日時:2017年08月20日 (日) 10時46分
名前:コスモス
寺田繁三先生(続) (18125) 日時:2017年08月20日 (日) 07時23分 名前:源流 光明掲示板・第三「人を赦すことの「美徳」と「功徳」 (2066)」 日時:2014年12月01日 (月) 03時40分
《人を赦すことの功徳》
*「愛はかくして完成す」(はしがき)より抜粋
私がまだ関西に住んでいた時のことであった。 寺田繁三という生長の家の本部講師があった。 なかなか教化力のある講師であった。
その頃大阪に、ある金持ちの婦人があった(この夫人をH夫人と名づけておく)。
H夫人は胃癌にかかって胃部を触ってみると既に握りこぶし程の塊がある と言うのであったが、医師に相談して見ると、もう手おくれであって 切除し得ない末期の状態であるという診断なのであった。
それで叶わぬ時の神頼みという訳で、 これは大阪の出来事なので生長の家の大阪の四つ橋道場に使いを以って 病人を指導して頂きたいと頼みに来たのであった。
その頃四つ橋道場を布教のセンターにしていた寺田繁三講師が その胃癌の夫人を訪問して、患者に面会して患者に向かって、
「肉体は心の影と生長の家では教えられているが、胃部にそんなに塊があるのは、 あなたの胸に怺(こら)え切れない感情の塊があるのが肉体に具象化したのであるから、 その塊を癒すためには、その憎んでいる相手の人を宥(ゆる)しなさい。
聖書には、弟子がキリストに『人を宥(ゆる)すのには幾度宥すべきか、七たび宥すべきか』 とたずねた時、キリストは『七たびを七十倍たび宥せ』と教えている。
あなたも現在憎んでいる相手の人を七たびを七十倍たび宥(ゆる)さなければならない。 誠心を以って完全に宥(ゆる)さなければならない。
肉体は心の影であるから、結局、憎んでいる相手を宥さなければその肉体の塊は消えない。 そしてあなた自身がその憎んでいる自分の心の塊に殺されてしまうことになるのですよ。
あなたは一体誰を憎んでいるのですか」と尋ねました。
すると、その婦人は、 「私は良人を憎んでいるのです」と言う。
「何故、憎んでいるのですか?」
「良人は私のほかに、外に二人も女をこしらえているんですもの」
「二人もですか。良人が二人も女をこしらえているのは、その二人のどちらも本当には 愛していない証拠なのですよ。それは二人を愛しているんじゃないのですよ。 唯、気をまぎらすために遊んでおるんですよ。唯おもちゃにしているだけなんですよ。
本当に愛しているんだったら一人に夢中にならなければならない。 おもちゃと貴方とは比べものにならない! 」
「良人は堕落しているんです」
「だから貴方は腹が立つのでしょうが、貴方は本当に良人を愛しているのではない」
「いいえ、愛しているからこそ、腹が立つんです」
「だけど貴女は良人を愛していないで、唯執着しているんですよ。 執着すると愛するとは違うのです。 愛するとは放すことなんです。
あなたは愛鳥を籠の中に入れて、その愛鳥の可愛らしい姿、美しい声、 それらを観たり聴いたり直接できることが楽しいのと同じように 良人が常に自分の傍に居てくれると嬉しいのです。
それで貴女の心は常に良人を見詰めて心の綱で良人を縛っているのです。 心の縛りは肉眼には見えないが、始終側にいて見詰められると、 何となく窮屈で逃げ出したくなるものです。
愛するということは本当は放す事なんですよ。
小鳥を愛するならばその小鳥を籠の中に入れ 始終見詰めていることをしないで、籠の扉を開けて小鳥を自由に外に放ってやる。 これが本当に小鳥を愛することなんですよ。
貴女が本当に良人を愛するならば良人を縛る心を棄てて、 良人を信じて放すことなんですよ。
現代語では”愛する”という語を ”把(つか)んで放さない”意味にとられている嫌いがあります。
”真に愛する”という語の意味は、佛心を開顕するという意味なのです。
無量寿経に『佛心とは四無量心是なり』とある通り 慈悲喜捨の四無量心が”本当の愛”なのです。 あなたが本当に良人を愛しているのなら慈悲喜捨の四徳を以って 良人を愛しなければならないのです。
慈悲の二徳はあなたに説明しないでも誰でも意味を知っています。 しかし喜捨の二徳は大抵の人は忘れているのです。
喜は他(ひと)の喜びを見て自分の喜びとする心です。 母親は自分の本当に愛する子供が玩具(おもちゃ)を持って喜んでいる姿を見たら 今度外出したら、また別の玩具を買って来て喜ばしてやりたいと思うでしょう。
それと同じく、貴女が本当に良人を愛するならば良人が外に二人も お妾という玩具(おもちゃ)をもって喜んでいるのを見たら、 あんなに玩具を好きな良人になら、もう一人位、適当な玩具を 見付けて買って来て喜ばしてやりたい。
こういう広々とした愛の心になって、 そういう良人の喜びを見て自分の喜びにしなければならない。
しかし、それはそれとして良人が外に妾をこしらえるということは、 良人が貴女の愛情が”本当に愛する愛情”になっていなかったので、
良人が”斯うしてほしい”と思って何か言いつけても、ハイと素直に返事しなかったり、 ハイと返事をするにはしたが直ぐ立ち上がって実行してくれなかったり、
良人は、もっと妻から柔らかな温かな心で慰めて欲しかったのに、 その時妻が知らぬ顔をしていて、優しい言葉が出なかったり、物を言いつけても ”打てば響く”の素直さがなかったり、素直に良人に柔(やさ)しい語調でものを 言わなかったり、数々の不足が繰り返される
―― そんな時に良人は淋しくなって、もっと柔(やさ)しく仕えてくれる 婦人はないか知らんと思いながら夕方の街を歩いていて、 ふと赤い電飾の酒場に入ってそこで淋しさを酒をもって誤魔化そうと思って中に入ると、
そこには柔(やさ)しい態度や言葉で客に仕えることを職業としている売笑婦がいて 自分の淋しさを笑顔を以って行き届いて慰めてくれる。
そしてその時出逢った売笑婦が忘れられないで、 度々そのバーに行く習慣がついているうちに、 両人(ふたり)の仲がただならぬ事になったりするんですよ。
一切万事われより出でて我に還るという諺がありますが。その通りですよ。・・・・・」
寺田繁三講師の熱心な情理を尽した説法に 病人の頑固(かたくな)に一方的に憎んでいる心も 次第に解(ほぐ)れて来た。
そしてついに妾を憎んだ心も消えて行った。
その結果、この婦人の胃癌の塊も消えて行ったのである・・・。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/koumyou3/&mode=res&log=41
伝統板・第二「放てば、自由@ 」 愛すると云ふことは放つこと 2015/05/12 (Tue) 04:18:16
*谷口恵美子先生・編著「こころの旅路」(P270〜271)より
〜昭和27年1月21日 尾道巡錫中の雅春先生からの手紙より
尾道教化部の奥座敷でこの手紙を認めます。 大阪では面白い体験談がありました。
浜口と云ふ老夫人がありましたが、 胃癌になってもう3日間生命は持つまいと医者から 宣告されました。
これは寺田繁三氏が指導したのです。
その夫人は自分の夫がお妾を3人もこしらえてゐるので、 それで心に塊をこしらへて癌になつてゐるのでした。
夫を赦すこと、夫を愛すると云ふことは、夫をつかんでゐると云ふことではない、 愛すると云ふことは放つことだ。夫の喜びを喜びとすることだ。夫がお妾を拵へて 喜んでおれば一緒に喜べば好いのだと云ふことを話したと云ふのです。
その夫人はそれを悟つたと云ふのです。 すると夫がかへつてお妾を解消してしまつたのです。
そしてその夫は息子にあやまつた。 その息子と云ふのはパチンコ屋を開業してゐて、親に見習つてお妾をもつてゐる。 その息子に父親が、おまへがこんなことになつてゐるのも、皆私が悪いのだ。
わしがお妾なんかこしらへてゐるから、 この心が映つておまへがお妾を持つやうなことになつた。 おまへが悪いのではない。皆私が悪いのだと云つて詫びた。
すると、息子も「お父さんが悪いのでない、私が悪いのです」と云つて その息子もお妾を解消した。
そしてパチンコ屋のやうな不健全な職業はやめたいとて、 今その店を改造してゐると云うことでした。
「一人出家すれば九族天に生る」と云ふのは本当です。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6464501
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