《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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喝  『馬鹿になれ!!』  小 田 村 寅 二 郎 師 (6751)
日時:2017年06月22日 (木) 22時58分
名前:童子

  小田村寅二郎先生18年祭、改めて先生を仰ぐ


 @ 思索と思考における 「素朴さの重要性」 に活眼を見ひらき、同時に A 「思索と思考における固定化―概念化」 に堕落することのないやうに、B 国民生活の公・私におけるすべての面に、人間的な内的秩序の確立をはかること。 C それには国民生活の指標をスローガンでないところに、改めて求めなほさなければならないし、同時に D 国民生活の中に、同信協力の道を樹立するやうに、全国民が互ひに大いに発奮しなければなるまい。



―― この表題は、私が私自身にいひきかせたい年頭の辞でもある。 ――


 いまから30年も昔、私が一高に学んでゐた頃のことであるが、当時の一高には、伝統的な一つの貴重な 「合ひ言葉」 があった。 それが表題に書いた 「馬鹿になれ!!」 である。



 天下の一高といはれた学校であったが、私のやうに、もともと馬鹿の一族に近くて、いまさら 「馬鹿になれ‼」 と怒鳴られても、馬鹿になりようのない本質的馬鹿族も少数ながらゐることはゐた。 だが、多くは頭のいい連中であったし、よく勉強もしてゐた。 一世に先んじて東西の思想を学び取らうとする意慾も旺盛であったし、人生の歓喜を正しく追求しようとする気風が満ちてゐた。



 「友の憂ひにわれは泣き、わが喜びに友は舞ふ。 人生意気に感じては‥‥」 といふ寮歌の調べは、その言葉そままに素直な共感をすべての学生にわかち与へてゐた。 それといふのも、「真剣な人生」 がそこにあったがゆゑであらうと回顧される。


 真剣な人生といふものを、ひとりの個の生活で生み出すことは、おそらく稀れなことではなからうか。 鉄人、聖人にはそれが可能であっても、凡人にはできさうにもない。 凡人は、人間同士がお互ひの心の中に、共鳴し合ひ共感し合ふ精神世界を建設しなければ、「真剣な人生」 のニュアンスを体得し得ないのではなからうか。



 私は往時を、いまそのやうに回顧する。 さう考へなければ、「馬鹿になれ!!」 といふ、およそ非文明的な 「合ひ言葉」 が、長い一高の伝統の中で、あれほどまでに大切に伝承されてゐた意味が解けないからである。 なぜ、そんな言葉が伝承され、ある意味では愛されさへしたのだらうか。



 それは、簡単にいへば、こんなことではなからうか。


 馬鹿にならなければ、「友の心の中味が 「ありのままに」 「正確」 に感じとれないぞ=@といふこと。 そこにいふ 「友」 とは、身近な学友との交りを出発点として、同年輩の全日本、全世界の青年に及び、また同時代の人間のすべてを包み、さらに古人とつらなり、未来の生きとし生ける 「人」 の 「心」 に通ふ、その道しるべ、を意味してゐたやうにも思はれる。 そこでいふ 「友」 とは、実はそのやうな広汎な人間社会、歴史的立体的な人間社会の正しい理解への、貴重な橋渡しとして把へられてゐたやうにも思ふ。



 また、思索と思考に熱中する若人たちが、自ら迷ひを求め、無際限の思考に走りながら、その思索と思考を、観念化から避けさせるために、抽象性から具体性に立ち戻るために、いひかへれば、きびしい思索と思考に健全性を保持させるために、いつしか暗黙の合意の了解が生れてきて、それが、時折りお互ひの覚醒の一喝として、この言葉を生み出してゐたのかも知れない。 それは、いはば向学と思考と、真理の探求への厳しさが生んだものであらうし、分裂を綜合に立てなほすための、また個が全から遊離してしまふことを防ぐための、いはば人間生命の自己防衛策の一線としての役目を持ってゐたものであったかも知れない。



 「馬鹿になれ‼」 といふ言葉は当時たしかに、「迷ひを断(た)て」 といふ響きを持ってゐた。 断たうとしても断ちきれない悩み、迷ひ ― それは公と私と、また全と個との背反に連なってゐることであらうが ― それを忘れてしまふ自奮的勇断と勇猛心を呼び目ざます意味をも含んでゐた。 「思考の混迷」 が、人間生活に必然に発生するものであってみれば、当然の若人たちがかうした言葉を生み出して、それを大切なものとしてゐた心情も、いまの若い人々にとっても、あながち理解できぬこともなからうと思ふ。 「真剣な人生」 に生き抜かうとして模索する現代の青年諸君にも、この言葉の意味をよく味はっていただきたいと思ふものである。

      
        ◇


 さて、今年われわれ日本人が 「馬鹿にならなければならない理由」 は? ここには書きつらねる余裕がない。 しかし一つの例だけ記しておかう。



 憲法は一国の最高の基本法である。 世界中のどこの国でも、すべてその国の国是がある。 それは〇〇主義といふやうなスローガンとはちがって内容についての意志統一があることを意味する。 いまの日本にはそれが三つある。 それを一つにしなければ憲法論議そのものが成り立たない。 成り立たないことを、いかにも成り立つかのやうな錯覚で取り組んできたのが、昨年までの日本ではなかったか。



 愛国心についても同じ、この頃ではアカハタ (編註・共産党機関紙) 紙上でも、さかんに愛国心の昂揚を叫んでゐる。 日本には三つの愛国心が叫ばれてゐる。 それを一つにしなければ愛国心論争もなにもあり得はしない。



 教育についても同じ、どういふ人間が立派な人間と考へるか。 その人間内容への指向を不問にしておいて、教育改革もクソもあったものではなからう。 ここにも三つの見解が放置されたままである。



 その三つとは何か。



 日本の建国精神―それは国是ともなり、愛国心の内容をととのへ、教育の基本を構成するものでもある ― その大切な建国精神の理解について、国民の間に三立し得ない三つの見解が放置されたままであるといふことである。 @ 古事記をはじめとする古典と伝統の中に解明されてきたもの、 A 8月15日の敗戦によって占領軍によって提示されたもの、 B 近い将来にその実現を目ざさうとしてゐる共産革命のテーゼ、この三つを平和裡に三つとも持ち続けようとしてゐるいまの日本国民は、やがて全世界から 「馬鹿者扱ひ」 にされさうである。 馬鹿者扱ひにされるまへに、自分から馬鹿になった方が悧巧 (?) ではないのか、その時期が来てゐるやうに思ふ。

(もと現代かな。適宜改行)

『国民同胞』 昭和38年1月号所載)






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