尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6739) |
- 日時:2017年06月21日 (水) 22時39分
名前:平賀玄米
それでは「生命の運動」とは何であるかと言うと「それは秩序の智慧(intelligence)の活動である」と言うのであります。秩序の智慧のないところには生命はない。どんな低い生命体に吾々が降りて行こうとも、たとえば生命の最も低い顕現である鉱物の結晶体の形成に於いてすらも、秩序の智慧と云うものが認められるのであります。
病気とは吾々に言わせれば生命の一部秩序の崩壊であります。(死は生命の全部秩序の崩壊であるとも言えるでもありましょう)その一部秩序の崩壊は、肉体的感覚に於いては、最初は見ることが出来ないのであります。しかし肉体内部の生命力は既にそれを感知していまして、それが如何に微小な「一部秩序の崩壊」でありましょうとも、それを癒そうという反動作用(自然療能作用)を起こすのであります。発熱であるとか、白血球、赤血球を局部に集中するために起こる発毒、腫脹であるとか。
毒素を発散、吐出、又は汚出する為に生ずる発疹、嘔吐、下痢の如きはすべてそれであります。又疼痛は秩序破壊の部位を全組織に通告する信号であり、この信号によって人体の全組織がその対応の準備をするのであります。これらの疼痛、発熱、腫脹、発赤、発疹、嘔吐、下痢等は人体の一部「秩序破壊」を回復する為の生命力の作用のあらわれでありますから、これを「病気」そのものと名称づける事は、正しい意味に於いては、不合理だと言わなければならないのであります。
こういう自然療能の諸現象を「病気」と名称づけるが故に「病気は無い」と云う事を不合理だと考えるに至るのでありますけれども、それらの疼痛、腫脹、発赤、発疹、嘔吐、下痢等は「病気ではない」のですから、それは自然療能作用でありますから、いくらこれらの諸現象があらわれても、「病気は無い」と云うことは不合理ではないのであります。
それでは、「病気は何処にあるか」と言いますと、最初の肉体的感覚に見えない「病気」は、その文字の如く「気を病む」(Dis-ease安心のないこと、精神的不安)にあるのであります。この点は日本語の構成も、英語の構成も同様であります。先ず心に不安(平かならざるもの)が生じて、それが具象化して、それが潜在的病気となります。だから病気は先ず「心」にあり、既に前記発熱等の「症状」となってあらわれたものは、それを治すハタラキであります。
凡そ生命と云うものは、無形の知性あるエネルギー(即ち心的叡智的存在)であって、それは常に精神的なる要素を積み上げて愈々巨大なる精神的巨塊を形成して行こうとしつつあるものであります。それをなずのは記憶及び印象の集成、その重複による生命運動傾向の指導性の増大によりまして、生命体は或る一定の方向に自発的又は惰力的に運動し行こうとします。
人類の生命は、個人個人は別々の存在の様でありますが、各人が一様に眼が横に二つあり、耳が両側に二つあり、鼻梁が縦に一本通り、口が横に一つあいているのが共通である様に、人類生命が全体として獲得したる「生命の自発的又は惰力的運動傾向」には共通なるものがあるのであります。これを、ホルムス博士は「人類共通の意識」と呼んでいるのであります。
つづく
<平成29年6月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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