つづきです。 (6055) |
- 日時:2017年04月29日 (土) 14時37分
名前:童子
しかし私は天皇さまを、実相を直視して全知全能の神の御現われであるというように今も考えているのです。
私の考え方は、前述のような日本精神者の方便的言説とは断然違うんです。 弁護のための方便的言説と、実相を直視して真理を説く言説とは異うんです。
白狐は稲荷大神であり白蛇は弁天神であるというような意味での神だったら、「人間神の子」 という真理を知っても人間に内在する無限力を解放することにはならないのです。
「人間、神の子」 という場合に、“全知全能、無限力の神”の子であるという、そういう自覚から出発しなかったら本源に“無限力”がないから、何も大したことにはならないのであります。
平田篤胤式に神というのは、不思議なる働きをするものは、何もみな神であるというので白狐みたいな獣類でも、蛇のような爬虫類でも皆神であるとして日本人はそれらの動物を神さまとして祭っているのだというような考え方で神さまを想像して、「人間は神の子である」 と教えられたのでは、“神の子”というのは爬虫類や獣の子と同類に資格下げされたことになると私は思うのであります。
それですから、この種の神殿で、天皇を神として尊敬するという事もそれに類して、白狐や白蛇大明神と同様に尊敬するということに成りかねないのです。
それと違って私が天皇陛下を尊敬するのは、天照大御神の御いのちの現われとして尊敬するということであります。
・・ 日本的思惟の中にも、西洋的な宇宙の創造主としての絶対的な神観が含まれていることを忘れてはならない。
今や日本神国とは 『人の中の優れたるものをカミと云う』 と云うが如き徳川時代の復興国学たる本居宣長式な神観を去って、堂々 『古事記』 の冒頭の神観に復元せしめねばならぬ時代なのではあるまいか。
こう云うような神観が徳川時代に主として国学の復興と共に行われるようになったのは、当時、朱子学や陽明学が支那から輸入せられて来たのに対して、日本の道を鮮明にせんとする反動精神によって、日本の道を外国の教と強いて明確に甄別せんとするために、日本の道そのままを述べずして、強いて外国の教と異るように説こうとして包容力を失ってしまった弊と観ることが出来るである。
『國體の本義』 に書かれてあるような天照大御神を狭義に於ける日本特殊の神と理解出来るような表現の仕方はこの際改めなければならない。
天皇の霊的祖先は日本民族の精神歴史的伝承に於いては天照大御神である。 天皇が日本国の象徴として、国民統合の象徴 〈国家の中心的代表〉 として、日本国の生みの親たる天照大御神の御魂をいつき祀りて礼拝するのは当然のことである。
国家の代表象徴であらせられる天皇が、国家の生みの親たる天照大御神を礼拝し、国家の大事を御報告になるのは決して私事ではない。 瞭然たる国事である。
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