生長の家は普遍の宇宙の真理を説いているのに、どうして日本だけを特別扱いするのですか? 宇宙の真理と日本を愛する関係を示してください (5992) |
- 日時:2017年04月26日 (水) 20時50分
名前:童子
山 口 悌 治 先生
「人間は神の子である」 申すまでもなく、これは生長の家立教第一の宣言です。
私共信徒はこれを確信して疑いません。 しかし固く信じて疑わないということは、必ずしも、その宣言の理解把握が正しいということの説明にはなりません。
人間は神の子である。 ―― 私どもは普通この宣言から、神と神の子としての人間と、この二つの命題とその直接的関係だけを生命の根本的な在り方として把握するのであります。
確かにこの把握は絶対なものでありますけれども、生長の家の教義の全体から照らした場合、この把握の仕方で完璧であるといえるのでしょうか。
神と神の子としての人間と、この二つのもののみがこの宣言の根本命題であるから、他に論議の余地はないのでしょうか。
それでは、私どもが先祖代々その中に生き、その構成員の一人であり、その現在及び将来の運命になっているところの、祖国日本なるものの国家として権威はどのようなことになるのでしょうか。
私どもが、アメリカ人でも中国人でも印度人でもなく、日本人であるということは、この宣言の前には何等の意味もないものなのでしょうか。
私どもが日本人として日本に生れて来たのは単なるほんの偶然であって、アメリカへ国籍を移そうと、ソ連へ移そうと、印度へ移そうと、「人間神の子」 の真理は絶対なものであるから、この真理の前には、そんなことは当人の自由であってどうでもよいことなのでしょうか。
昨年、福岡の教修会の折に、ある高校の先生が質問なさいました。
「生長の家は宇宙の真理を説いていると信じていますが、真理というものは普遍性をもったものです。 それなのに、どうして一方では限りなく日本を愛する ― と、日本だけを特別扱いにするのですか。 宇宙の真理と、日本を愛するということの関係を示して下さい」 と。
在るものは神と神の子だけで、その人間の多数たる人類だけがあるのだ ― とすれば、それ以外の国家であろうと民族であろうと、それは特殊な存在であるから、真理である神の前にはすべて無意味で無価値なのだということなのでしょうか。
私どもが日本人として日本の文化を云々したり、日本の運命を痛心したり、日本の再建に協力したりすることは全く馬鹿げた事柄なのでしょうか。
人間神の子の生命の自由とは、日本とかあるいは日本人であることとは全く関係もない自由というのでしょうか。
もしそうであれば、「人間神の子」 の自覚を第一原理として宣言する 「生長の家」 は、日本人をバラバラにし、祖国日本を否定し解体する為に出現して来たのだと結論しなければならぬ結果となります。
これは重大問題です。
人間は神の子である ― という宇宙を貫く真理も、一面的な把握に止るならば、このような悪毒無残な結論をも可能ならしむるのであって、これでは神の子と日本なるものとの関係は全く断ち切られ、日本国家の理念というものの根拠は何処からも導かれようがないことになります。
日教組や総評が全力を挙げてねらっているのがこの点なのですから。
もちろん、「人間神の子」 の真理の把握にあたって、このような結論を予想した方は信徒の中には一人もいないと思いますが、だからといってその把握が一面的でなかったという証拠にはなりません。
実際また、私どもは 「なるほど人間は神の子だ ―― 」 という何等かの自己の体験から、逆に、神の真理性を無限の生命を愛を智慧を類推している場合が多いということです。
この場合、その自覚の中心を占めているものは神でもなく真理でもなく案外に自己の体験なのです。
自覚の中心が自己の体験に置かれているということは、全く本末転倒であって、それがまた無意識であればある程これくらい危険なことはありません。
確かに神は体験されます。 しかし体験は神の無限生命が顕現するに際して残した足跡にすぎないことを深く深く知るべきであります。
体験は特殊です。 宇宙の普遍原理たる神は自己を顕現するに当って必ず特殊な相をとって具体化します。
具体化しない真理、体験されない神、そのような真理や神であるならそれは架空の観念にすぎません。
しかし、だからといって単純に特殊がそのまま普遍だということにはなりません。 特殊は普遍を体現するすることによって普遍性を獲得し、普遍は特殊化することによって具体的に普遍性を充足するのであります。
普遍と特殊、この両方を満足せしめてはじめて真理が真理としての権威をもつのです。
ここに真理の根本的性格があります。 単に普遍性だけでは抽象観念にすぎません。
谷口雅春先生は、『新生の書』 の中で、
「
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