占領憲法下の日本 (5970) |
- 日時:2017年04月25日 (火) 19時20分
名前:Saint Michael
合掌 ありがとうございます。
スレッド No.5956に貼った上段の外部リンクの動画で菅野完(すがの たもつ)氏が紹介している雅春先生の御著書【占領憲法下の日本】ですが実家に在ったはずですが今はどうなっている事やら …
同書の『本書に寄せる』で三島由紀夫氏が書いた分を長いですが以下に引用させて頂きたいと思います。
----------------------------------------------------------- 谷口雅春師の著書『生命の實相』は私の幼時、つねに病める祖母の枕元に並んでいた。燦然たる光明の下に生命の芽の芽生えるその象徴的デザインは、幼い私の脳裏に刻まれてゐた。
それから四十年、俄かに身近に、谷口師に私淑してゐる人たちをみいだすやうになつたのである。つい先頃も、「生長の家」の信仰を抱く二三の学生が、私の自衛隊体験入隊の群に加はつたので、親しく接する機会を得た。かれらは皆、明るく、真摯で、正直で、人柄がよく、しかも闘志にみちみちた、現代稀に見る好青年ばかりであつた。そして、「もし日本に共産革命が起きたら、君らはどうする?」といふ私の問いに、「そのときは僕らは生きてゐません」といふ、最もいさぎよい、もつともさわやかな言葉が帰つてきた。これだけの覚悟を持ち、しかもかういふ明るさを持つた青年たちはどうして生まれたのだろうか、と私は愕いた。現代の汚れた常識人は、そんな青年は物語の中にしかゐる筈がないと笑ふであろう。又、敗戦後に生まれた現代青年が、無視し、あるひは避けてとほる天皇の問題についても、この人たちは、素直な、実に自然な受容の態度を示してゐた。天皇は日本民族の存立と自立の自明の前提として理解されてゐた。
私は再び問うた。こんな青年がどうして生まれたのだらう?彼らは谷口雅春師に対する絶対の随順と尊崇を抱いてゐた。私にはどうしても、師のおどろくべき影響力と感化力、世代の壁をのりこえた思想と精神の力を認めざるをえなかつた。私どもがいかに理論をもつて青年を説いても空しいのである。
私も亦、言葉により文字によつて世を渡る人間の一人である。もし谷口師の著書だけによつて師に近づけば、当然疑ひも生じたであろう。しかし現実に、その信仰と思想の生きた結実を見せられると、もはや疑ふ余地を失つた。
なぜなら信仰とは、個人の魂の内部に起る「全体」との融和感合一感であるから、その個人の魂の個的自覚を経過しない人間には、信仰者の外側にあらはれた行動の形でしか、判断しやうがないからであり、キリストの殉教は、そのやうな意味を担ってゐたのである。
このたび谷口雅春師の『占領憲法下の日本』といふ、憂國概世の書を読むに当たり、私は殊に、その「生命体としての日本国家」の章に深く感動した。これこそは久しく私の求めてゐた国家像であり、生命体としての個的自覚と、生ける全体をつなぐ唯一の橋が、ここに語られてゐると思はれた。
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によって世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、情報を蒐集し、これを理論体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の上つ面を撫でるだけの、究極的ニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に堕するのは何故であろうか。このごろ特に私の痛感するところであるが、この複雑多岐な、矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな不毛の現代世界に於て、真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか?日本もそこまで来てゐるやうに思われる。
『占領憲法下の日本』には、幾多の政治的事象がとらへられ分析されてゐるけれども、それらは決して現象論でもなければ情勢論でもない。すべては烈々たる精神の顕現である「生命体としての日本国家」に集中してゐるのである。私はこの書によつて自信と力を与へられたと感じ、この書がただ「生長の家」の信仰者ばかりでなく、ひろく江湖に迎へられることを望む者である。
(原文のまま)
昭和四十四年四月 ------------------------------------------------------------
*間違いがあったらご指摘くださいませ。訂正させて頂きます。
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