《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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『般若波羅蜜多心経』 講義  谷 口 雅 春 先生 (5917)
日時:2017年04月19日 (水) 21時35分
名前:童子

【現代語訳】


観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまう。


舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是色なり。


受・想・行・識も亦復是の如し。


舎利子よ、是の諸法は空相なり。 


不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。


是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・声・香・味・触・法も無く、限界も無く、乃至・意識界も無し。


無明も無く、亦無明の尽くることも無く、乃至、老死も無く、亦老死の尽くることも無し。 


苦・集・滅・道も無し。 智も無く、亦得も無し。


無所得を以ての故に、菩提薩●(た・土へんに垂)は般若波羅蜜多に依るが故に、心に●(けい)礙無きが故に、恐怖有ることなし。


一切の顛倒夢想を遠離して、究意涅槃す。


三世の諸仏も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。


故に知る、般若波羅蜜多は、是れ太神呪なり。 是れ大明呪なり。 是れ無等等呪なり。


能く一切の苦を除く。 真実にして虚しからず。 故に般若波羅蜜多の呪を説く。


即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提僧婆訶、般若心経。

                 (般若波羅蜜多心経)



【講義】

 観世音菩薩は生長の家大神が仏教面にあらわれた仏様であります。

 その観世音菩薩が 「般若波羅蜜多」 の行をなさいました時に、「五蘊(ごうん)は皆空(みなくう)なり」 と観ぜられたというのです。


 深般若波羅蜜多の行というのは、一体何かと言いますと、「深(じん)」 は深遠・幽玄な行だという意味です。


 「般若」 というのは 「智慧」 であります。 「波羅蜜多」 というのは 「到彼岸(とうひがん)」 と訳されている。 彼岸に到る行であります。


 「彼岸」 というのは 「実相の世界」 のことであります。

 吾々の住んでいる此の現象世界を 「此の岸」 と書いて 「此岸(しがん)」 と読んでいる。 「此岸」 に相対峙して 「彼岸」 というのであります。


つづく

2. (5918)
日時:2017年04月19日 (水) 22時25分
名前:童子

 さて、此の現象世界の一切の苦厄、色々の苦しみ、悩みですね、此の一切の苦厄のみちている苦しみの世界から逃れて、彼岸  ―  苦しみの無い処の彼方の世界  ―  キリスト教的に言うと、「天国」 とか 「エデンの楽園」 とか言う。 その 「実相の世界」 へ行くのには、どうしたら行けるのであるか。


 それは別に、飛行機に乗ったり、物質の船に乗ったりして、行くんじゃないのであって、吾々の心に依って行く訳です。


 で、心によって如何に観ずるか、という事に焦点がしぼられて来るんですね。 「観ずる」 というのは 「心で見る」 ことです。


 そこでですね、観世音菩薩は一切の苦厄を度すのに 「五蘊(ごうん)は皆空(かいくう)と照見(しょうけん)せられた」 と、斯う書かれています。


 「五蘊(ごうん)」 というのは 「色受想行識(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)」 い言われる処の五つのものであります。

 「蘊」 という字は、これは 「波」 という意味もあれば 「重なる」 という意味もある。 凡ての物は、現代の科学で言っても、「波動」 であって、その 「波動」 が色々に重なって、一切の物が現れている、という事になっているのであります。

 その波動的存在を 色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき) の五つに分けて、それを仏教では 「五蘊」 と斯う言っている訳です。



 で、その 「色受想行識」 のうち 「色(しき)」 という字は 「いろ」 という字が書いてありますが、現実世界で言うと物質の事であります。


 天界にも 「色(しき)」 がありますから、物質だけじゃありませんが、波動に依って 「物質的な象(かたち)を現わしているもの」、これを 「色(しき)」 と言うのであります。

 色界(しきかい)の天人の体なんかの事を、色(いろ)の身(からだ)と書いて 「色身(しきしん)」 と言うのも、そのためであります。

 波動を以て現わしている所の体(たい)のことを言うのであります。



 此の地上の、現実の人間でなくても、吾々の方から見ると、天人の姿などは見えませんから、体(たい)をあらわしていないようですけれども、天人同士で互いの体(からだ)を見ると、「物質的形態(かたち)」 を現わした体(からだ)と見えるのでして、これを 「色身(しきしん)」 と言うのです。

 天人の世界にある 「物」 も、全部この 「色(しき)」 でできている訳です。


つづく



3. (5933)
日時:2017年04月21日 (金) 20時09分
名前:童子



 その 「色(しき)」 を感覚によって受ける、その 「受ける」 働きが、これが 「受(じゅ)」 であって、“受取” の 「受ける」 という字であります。


 感覚で “受取る” というのは例えば、視覚で言えば、色々の物質の姿というものが斯う見えて来るでしょう。 丁度写真のカメラの暗箱(あんばこ)の後に、ピント・ガラスがある、そのピント・ガラスが光を受取って映るのですね。 あれが “受ける” 働きであります。 色(しき)・受(じゅ)の 「受(じゅ)」 の働きなんであります。



 併しただ 「受ける」 だけでは、何かわからぬ。 だから、写真機に対(むか)って 「あれ、何が写ってるか判るか」 って訊いたって、返事もしやしないし、わかりはしない。 あれは “受ける” はたらきだけであって、「想(そう)」〈思う〉 という働きがないから、何が写っているかということが判らんのであります。


 それで写真機械ではない “生きた人間” には想うという働きがおこって来るのです。


 それで 「色(しき)・受(じゅ)・想(そう)」 は解りましたが、次は 「行(ぎょう)」 であります。


 「行(ぎょう)」 というのは 「行(おこな)い」 であって、これは意志の働きです。 行動を起す処のその内部的力であります。


 色(しき)〈物質の花〉 があって、それを感覚器官が 「受(う)」けて、 「ああ、これは美しい花である」 と斯う 「想(おも)」 いますと、「ああ花を一枝取りたい」 という行動を起す 「内部的力」〈意欲〉 というものが出て来る、これが 「行(ぎょう)」 なのであります。



 それから最後に 「色受想行識」 の終りに 「識(しき)」 というのがあります。

 
 これは即ち 「全体を統一する心」  ―  統一意識であります。

 いろいろ赤い色、三角の形、木の葉の形、いろいろの筋や棒みたいに写っている枝、そんなものがバラバラに映っているだけでは、本当にそれが何物か、という事が判らない。  また 「それは花である」 と思っても、「花」 と、その 「想い」 とが別々にバラバラに離れていては認識は成立しない。


 そこでそれらを “全体に統一する処の心の働き” というものが必要となる。 その統一意識の働きを 「識(しき)」 と言ったのであります。


 それで 「色・受・想・行・識」 この五つがそろって認識 〈即ち、モノを“みとめる”〉 はたらきが成立します。 是の五つを 「五蘊(ごうん)」 と言うのであります。



 そうして、此の感覚でみとめ、意識でとらえたものが果して 「本当にある」 か、実在であるか、実相そのままであるかということが問題であります。


 吾々がいろいろ現世において苦しむのは、何故苦しむのかと言いますと、此の 「五蘊」 をそのまま 「アリ」 と考えて、それに依って惑わされるからであります。

 
 “ああ美しい女の人がいるな” と吾々の眼球(めだま)のピント・ガラスに写るのですね。 そうすると “ああ、美しいなあ” と斯う想う。 「想念」 が起るのです。 次に “ああ、あの人の手を握りたいなあ” と思う。 これが 「行」 の働き、意欲の働きが起って来るのです。 そしてその女の肉体の美しさがいつまでも 「ある」 ものだと思って執着する。 そういう意識の働きがある為に、吾々はいろいろの苦しみ、悩みというものを受けるのです。


 こういう一切の苦しみから救うのを 「一切の苦厄を度す」 と言うのです。 「度す」 というのは済度することです。 「済(さい)」 は 「すくうこと」 で 「度」 は 「渡すこと」 です。 苦しみの世界から 「実相常楽の世界」 へ渡すのです。


 こうして一切の苦厄を済度するために、観世音菩薩は 「五蘊皆空(ごうんかいくう」」 と観ぜられたのです。 すなわち色受想行識というものは 「皆空(みなくう)」 であって、あんなものは在りゃしないんだ。 「無い」 ものを 「在る」 と見ているんだ。 あれは 「映画」 みたいなもんだ、と観ずるのです。 「観ずる」 とは 「心で観る」 のです。


 皆さんが映画を見て、どんな美人が出て来ても “あの手を握りたいな、ああ、あの美人にキッスしたいな” と思って、舞台に上ってスクリーンにキッスする人はないでしょう。 それはちゃんと 「映画のシーンは皆空(かいくう)」 で、実在しないと知っているからなんであります。


 目の前にいる女性の美しい肉体でも、あんなものは、眼球の奥の網膜に映っている影に過ぎない、映画のようなものであって、実際そんなものは無いのである  ―  と斯う思うと、そんなものに食いつきたいと思わなくなってしまうのであります。


 それで執着がなくなって、「一切の苦厄を度す」 ということになるのであります。


 それで、「色即是空、空即是色」 という有名な語句が、その次に出て来るのであります。

4. (5948)
日時:2017年04月24日 (月) 19時51分
名前:童子


 「即」 とは 「そのまま」 ということです。 「色(しき)その侭に是空(これくう)なり」 という訳でありまして、色(しき)即ち物質“そのまま”にですね、それは 「空(くう)」 であって、空(むな)しきもものである。 空(くう)そのままに、それが物質としてあらわれているものであると観ずるのです。


 その 「空(くう)」 でありますが、物理的に言うと一切処(しょ)にある原質みたいなエーテルみたいなものと思えばよろしい。 


 アインシュタイン博士が相対性原理を発見しましてから、物理学上の「エーテル」 も無いという理論を唱え出して、エーテルというものは 「無(む)」 ということになっているのでありますが、その 「無(む)」 の振動が、光りとしてあらわれ 「色(しき)」 として、「物質」 として現われているのであります。


 謂わば 「物質」 は 「空(くう)」 の変形であり、「無(む)」 の変形であります。 そんなものはありゃしないのです。 「無い」 のに 「有る」 と思ってそれを捉まえる。 捉まえるから、そこに苦しみというものが現われて来るのであります。


 その苦しみの因(もと)を断つには、物質や肉体が実在するという念(こころ)を断ち切ることが必要であります。


 
 それで 「観自在菩薩」 が 「深般若波羅蜜多の行」 をされたときに、「五蘊は皆空(みなくう)」 と心を智慧の光によって 「照見」 されたのです。


 「色」 もなければ、それを感ずる 「受・想・行・識」 もない。 即ち神想観をして精神統一状態で、「一切の物質はない、物質を感ずる処の心もない」 という境地に入られたのです。


 「生長の家」 で言うと 「神想観」 して、「吾れ今五感の世界を去って」 と念ずるというのがそれです。


 その 「五感」 の世界というのが、「受想行識の世界」 であります。 この 「五感の世界」 を去って、即ち、「そんな世界は‘無い’」 と心を其処から放ち去って、今此処にあるのは只仏の世界、神世界、無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の調和の充ち満ちている処の、神の創造(つく)りたまうた実相の世界であるという事を観ずるのであります。



 生長の家では 《物質は無い》 なんて言いますと、大抵の人は 「そんなことがあるものか」 と吃驚しています。 《肉体は無い》 と言いますと、益々吃驚しますけれども、此の般若心経には 「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんに)も無く、無明も無く」 と書いてあります。


 「眼(げん)」 というのは目ですね、「耳(に)」 は耳、「鼻(び)」 は鼻、「舌(ぜつ)」 は舌、「身(しん)」 は身体(からだ) です。

 そんなものはないと宣言されているのです。 更に「意(に)」 もないとある。 「意(こころ)も無い」 と言うのであって、物質も肉体も心も無い、何にもない。 そんなものを‘ある’と思っている間は、それにひっかかるから、苦厄が絶えないのです。


 「物」 も無ければ 「意(こころ)」さえも “無い” と観じなければならん。 「意(こころ)」 も無いから 「無明」 も無く、と書いてあるのです。

 「無明」 というと 「迷い」 であります。 「迷う」 が故に 「病気」 が起る  ―  と言いますと、その迷いを如何にして取去ろうかと思って、その 「迷い」 を掴んで、悩んでどうしても放せない人があるんですね。 


 そこで 「般若心経」 にはその 「迷い」 をとる極意が説いてある。


 それは何かと言うと、「迷いもない」 と知ることです。 「迷い」 をアルと思って、「迷い」 を捨てようと思って、「この迷い」 「この迷い」 と掴んで放さなかったら、余計それが消えない事になります。 


 そういう人が随分ある。 病気でも、「此の病気、先生どうしたら治りますか、どういう風に思念したらよろしいか、教えて下さい」 なんて言われるのですね。 「無い病気」 を治すのにどういう具合にして思念したら宜敷いですか、なんて思っている。  


 そもそも、それが 「迷い」 をつかまえているのです。 「迷い」 もないとサトルのでないと本当に悟ったとは言えないのです。



つづく



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