「忘れ得ぬ悲しいあの頃」 谷 口 輝 子 先生 (5865) |
- 日時:2017年04月15日 (土) 02時00分
名前:童子
私は目下海外旅行をした時のことを話しつづけているが、20年前の海外旅行中のことで、誰にも話したことはないが、忘れ得ぬ大きなことが有ったことを憶い浮べた。
私は嘘を言ったり書いたりしたことは無いつもりだが、隠していたことはあると思い出した。
それは海外旅行7ヶ月の間の或る期間の、悲しい辛いことであった。
何が悲しく辛かったか、そのことは、その当時としては、語らず書かずの方が誰にも迷惑をかけないと信じたから、夫婦とも黙しつづけ堪えつづけて旅行していたのであった。
日本を3月10日に発って、先ずハワイに向った。 ハワイの3週間が終るとアメリカ大陸に渡り、ロスアンゼルス空港に於ける1500人の大歓迎を受け、アメリカのニューヨークその他の町での講演を済して、ワシントンでの2回の講演会を経て、北隣りのカナダ国に渡り、カナダでは、トロントやバンクーバーなどで何回かの講演をされて、またアメリカへ戻って来てシカゴに着陸し、シカゴの日程も滞りなくすましてデンバーに行った。
デンバーの最初の日の夜は仏教会館で講演会があったが、翌日は 4月14日 の日曜日で、キリスト教の信者たちの大切な日であるイースター (復活祭) であった。
忘れることの出来ないその日は、夫の夜の講演会が、市のヒブス公会堂であることになっていた。
4月という春のその日は、晴れ渡った空であって、午前中時間が空いていたので、私たち一行は、ヒブス公会堂は広い美しい公園で在ると聞いたので、そこへ行って見ようということになり、ホテルの朝食後出かけて行った。
予想以上というほど、公園は広く美しかった。 出かける道々、歩いているアメリカの白人も黒人も、常に盛装をしていた。 母親も子供も、白靴をはいて、襞の多いスカートのために、お腹をブクブクふくらませて、楽しそうな顔をして話し合って行くし、男性は不断の背広でなく、黒服を着て悠々と歩いている。 いずれも晴着を着て教会へ集るのだそうであった。
ヒブス公会堂の裏の公園の丘で、私たち夫婦は芝の上に腰を下した。 夫は何故かしら、疲れたような表情をして両足を投げ出した。 随行の人たちは、公園のあちこちを散歩して居られた。
「母さん」
と夫は私に呼びかけられて、そのまま言葉が切れた。
「はーい、何ですか」
夫は返事をためらって居られたが、
「僕ね、出血したよ」
「えっ、どこから」
一瞬、私は信じかねながら夫の顔を見た。
「血尿が出たのだ。 今朝ホテルで」
血尿なんて言葉を身近の人から聞いたことは初めてであった。 私は言葉もなく、私の左側にいて、芝生に足を投げ出している人の横顔を見入っていた。
「母さん、心配しないでもいいよ。 大したことはないよ」
私はドキドキする胸のしずまる頃を見て立ち上った。 公園の向うから、私たちの動静に注意していたらしい随行の人たちは急ぎ足で近づいて来た。
デンバーの町の何処かで夕食をとってから、私たちはヒブス公会堂に行った。
夫の講演は常と変りなく元気に進行し、聴衆の大拍手のうちに終った。
その夜から、私の夫への祈りがはじまった。 夫は好きな入浴は一日も欠かすことなく行われた。 温まった体をベッドに横たえている夫の傍に坐って、腎臓のあたりに手をのせて、私は一心になって祈った。 夫の肉体は完全であることを祈った。 夫は最初、
「母さん有難う」
と言われたが、次第に私の存在を忘れて、安らかな鼾をして居られた。
翌日はまた次の町へ飛ばねばならなかった。 随行の人たちも、見送る人も、出迎える人々も、誰も気づかないほど夫は元気だった。
アメリカに重立った町々を講演してまわり、最後に滞在したところは、アメリカの西南部のロスアンゼルスの3週間であった。
安保さんといわれる深切な中年夫婦の御宅であった。 私たち夫婦は、安保御夫妻の並々ならぬ御献身に甘え切ってはいたが、夫の体の異常については口に出さなかった。
私の口から一言でも出そうものなら、随行者たちは心配して、夫の体を捨てては置かないだろうし、その他の信徒たちも、医者だ、入院だと騒いで、予定のスケジュールも崩されてしまうだろうし、以後のスケジュールも変更されるし、はるばるのヨーロッパ行も取り消されるかも知れない。 一番大変なことは、これから出かける約束の十何ヶ国に於ける、講習会場やホテルの取消しであり、伝道の中止である。
あとで解ったことであったが、ホテルだけではなく、ホテルらしいもののない田舎の町では、誌友の家に泊ることに何ヶ所も決って居り、私たち一行のために、畳の部屋を作ったり、湯殿を日本式に建てた家々もあり、私たちの行くためにとて、行かなければ不必要な出費をしている家が多かった。
ロスアンゼルスの安保さんの家で、新築されて誰もまだ住まない部屋に入れられ、講習会場から帰って来た私たち夫婦は、ひっそりと暮していた。
湯上りの夫と夕食を済したら、私も入浴する習慣だったが、夫はすぐベッドに横になられた。 そのベッドに私ものって、夫のお腹に手を当てて祈っていた。
完全円満の肉体で、一切のスケジュールを、予定通り立派に遂行できると一心に祈りつづけた。 夫が安らかな眠りに入られると、私も入浴するつもりだったが、それから、その日の肌着や足袋の洗濯をして、その日一日の生活状態を原稿用紙に書き終ると、私は疲れ果てて入浴の意欲を失ってしまう日もあった。
明くれば、毎日毎日が朝5時前の起床である。 夫婦は、一日も欠かさないで神想観を向い合って行じ、朝食後は何かと準備をして、毎日毎日、一日の休みもなく出かけるのであった。
6月1日にアメリカに別れを告げて、ロスアンゼルス空港よりメキシコに向って飛び立った。 メキシコに於ける講演会が終ると、すぐペルーへ飛んだ。
ペルーの宿所であるカントリー・クラブへ到着して、そこの門から広い庭を通って玄関に向った。 玄関の両側の庭には、驚くばかり大きい蘇鉄が3階に届くばかりに立っていた。
蘇鉄の大木に圧倒されるような思いをしながら玄関からはいると、蘇鉄の大木に調和した大きなホテルであった。
決められた部屋までボーイに案内されて歩いていると、突き当りの広い部屋のドアが開いていたので中が見えた。
黒服を着た金持ちらしい風貌をした太った中年男が5,6人、私たち足音に気づき、あわてた顔をして振りむいていた。 彼等のやっている遊び (賭博) は、私などの知らないことであった。
部屋にはいると、夫はすぐベッドに横になられた。 そばに寄り添って見つめている私に、
「母さん、僕はもうあかん。 ブラジルへ行かないで日本に帰ろうか」
「とんでもないことです。 ブラジルどころかヨーロッパへいらっしゃるんですわ。 神様がお申しつけになって、ちゃんと護って下さるんですもの」
「そうだったね。 大丈夫だった」
私は強い言葉をかけながら夫を見つめた。 すっかり疲れ切った様子だった。 私は早足で洗面所へはいって行った。 涙が溢れて止めどがなかった。 こんな顔を夫に見せてはならないと唇を噛んだ。
「庭の眺められる場所にテーブルを置かせました。 先生、奥様いらっしゃいませんか」
と誰かが呼びに来た。 夫は行かれそうもないので私だけ出かけて行った。
庭の樹木の葉が、日本では見られない面白い形をしていた。 雨の余り降らないペルーの国では、薄っぺらい葉では水分が保てないので、一枚一枚の葉が部厚くふくらんでいるのであった。
「奥様、アイスクリームが参りました。 召し上りませんか」
徳久さんの声に、私は庭から室内にはいってテーブルに着いた。 見ると、驚いたことに、アイスクリームのコップは日本のそれの3倍ぐらいの大きさで、盛り上げて入れてある。
「こんなに沢山」
と言いながら、咽がかわいていた私は、ついつい食べてしまった。 その後何時間たったか、私は食べたアイスクリームを皆出してしまった。
その1週間後ブラジルへ行ったが、ブラジルへ行ってもしばらくは私のお腹の調子が悪かった。 毎日の外出に粗相をしては恥ずかしいと心を使ったが、一度も見苦しく思われる状態の日は無かった。 神様のお護りの中にあったことを、しみじみと感謝したものであった。
ブラジル滞在の3ヶ月、夫は毎日定刻に出かけ定刻に帰宅され、一日として休まれる日は無かった。
ブラジルの幹部たちが、先生に休息の日をもたせて上げねば、毎日毎日働きつづけて頂いて申訳けないと考えて下さり、海辺の風景のよいサントス市で3日間、どこへも行かないで休養して下さいと連れて行かれたが、3日間どころか一日だってサントスでは遊んで居られなかった。 サントス市での講演会場も準備してあったし、ホテルへ帰って来ると、伯人たちが押しかけて来て、朝も昼も、救いを求めたり、祝福を乞うたりする人が続いた。 そしてヨーロッパへ行かないうちに出血は止んでいた。 夫は神様の御用をして居られたのであった。 神様は御用をしている者はちゃんとお護り下さっていたのだ。 海外旅行の日から20年たった。 91歳で生きて居ると言うことは、まだ御用があるからである。
(了)
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