《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5347)
日時:2017年03月13日 (月) 16時44分
名前:平賀玄米


第五章 光明思想の先駆者たち

     (一)
米国の光明思想の根元を遡ればエマースン(Ralph Waldo Emerson 1803―82)に達します。
併し彼がかつてボストン市のユニテリアン第二教会の牧師をしていた事でも明らかな様に、彼の光明思想は非常にユニテリアン(Uniterian――唯一教派)の思想に影響されているのであります。
エマースンは勿論ユニテリアンの思想に対しては或る種の不満を感じていたのであって、後牧師の職を辞してヨーロッパに行き、所謂「超絶派」なるサロンを形造った。

そのユニテリアン派と異なる主な点は直覚を重視する事でありますが、エマースンの思想、否、全ての光明思想の源流を充分深く理解する為には、ユニテリアンの考え方を知らねばなりません。

ユニテリアンは始め1774年リンドセイによってロンドンに設立された教会をかく呼んだのでありますが、その民主主義的教義は米国に渡って以来、チャンニングにより大いに発展し、1815年にキリスト教の組合派及び清教派中の非三位一体論者が分離して、独立のユニテリアン教派を組織するに至ったのであります。
 
その主なる目標は、教会の独断的教義に拘泥せず自由に宗教的真理を探究しようとするのであり、そのユニテリアンなる名称は、万教のユニテイ即ち(唯一神より出でたる眞理への帰一和合)の意味から来ているのでありまして、唯一神教又は帰一教会派と訳されているのであります。

それが宗派に偏らないで眞理はどの宗教にもあるとして通宗派的な眞理を説く為に、世間では宗教哲学の一種だとか、単なる修養団体だとかと誤解されたこともあります。しかし実際、ユニテリアンは立派な宗教的体系を整えているのであり、現象の奥に超人的な偉大な或る力、つまり宇宙の意志―神―を認識するものであり、この点エマースンの超越霊派(オーヴァ―ソール)の信仰の先駆をなすのであります。

ユニテリアンは三位一体的な神を否定するが、人格的な眞理への欣求を行ずるのであって、単なる哲学や倫理学ではない。そこには限りない神への憧れ、神の御手を求める慟哭があるのであります。

つづく
 
     <平成29年3月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5386)
日時:2017年03月14日 (火) 14時17分
名前:平賀玄米


ユニテリアンの詩人、サー・ヘンリー・ウオットンはこう歌っています。

    さち深き星の下に生まれ育まれし者よ。
      幸いなるかな、
    その誰かがなせるにも非ず、
      みずからのまこと、
    ひたすらなる眞實もて、
      美わしき人生、まもり通したるなり。

「みずからのまこと」これを神として、内在の神を拝む、キリストのみが神の子ではない、吾々の内にも神は宿り給い眞理を啓示し給うと言うのであります。

宗教的な信仰というものは、人間の本性に根ざしているものであります。されば、人類の発祥と共に色々の信仰の形態が現れ、時代的に、又民族的に色々の要素に伝統されて数多くの変遷を遂げて行ったのであります。

はじめは眞に自分の個人の生命の核心(内部神性)から湧き上がって来た信仰であったものが、ただ単に伝統だとか習慣だとかによって、みんな他の人達が信じているから信じるとか、預言者の言った事だから、本当だろうとかそう云った盲信と常識の入り混じった不純の要素が入って来る様になります。

人々がイエスの教えを受け容れるのは、彼の教えそのものの価値を、人々の内部神性が受け容れてそれを信ずるのではなく、彼がユダヤの預言を成就する者であるが為に信ずる、或は彼の病気治しの奇跡の為に信ずる。かくしてイエスの言行録が発見されるや、教えの眞實性に重点を置かず、人々は奇跡や預言の成就に重点を置いて一つの「権威」としてしまったのです。こうして聖書は即ち神啓の「権威書」となってしまったのであります。

ところが次にはこの聖書について人々に解釈して聞かす人々が現れて来、信仰の中に多くの自ら正統と称する独断の見解が生まれて来ました。正統の信仰、正統の教義、正統の礼拝等々が教会の上層者によって強要されるようになり、人々は自分の神性に照らし合わせて考えたり信じたりすることが出来なくなってしまいました。

かくして各人の内在神性によって信ずる無教会時代のデモクラシー的眞宗教から離れて、教権者達の寡頭政治が始まり、それはローマ法王庁に於いて頂点に達したのであります。掛かる強権に反逆してあの宗教改革が行われたのでありますが、しかも改革者達には、やはり「権威」の魅力が忘れられなかったのです。

彼らは「人間の権威」を取除いた代わりに、「聖書の権威」をもち来たしました。ところが「聖書の権威」は一層人々を奴隷的に教義の文句に縛りつける様になったのです。何故なら、書物は生きた人間よりも一層融通がきかないからであります。

しかし人間はいつまでもかかる奴隷的状態に満足しているものではありません。やがて人々は、次第に自分自身の内奥に潜む「霊の囁き」――内在神性の囁きに耳を傾けるようになりました。それは「魂の黙示」であります。自分自身が他の預言者の如く預言者たり得るの自覚でありました。
自分自身の心の内にこそ、眞の宗教的眞實の拠り所があるのだという事に気が付いて来たのであります。

教権を握っている人達はこの「霊の囁き」をもみ消そうとしたが、人間の本性に根ざす、深く自らの信仰を求めてやまぬ強い憧憬の前には、如何ともする事は出来なかったのであります。これがユニテリアン出現の内在的契機だと言うことが出来るのであります。

つづく
 
     <平成29年3月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5422)
日時:2017年03月16日 (木) 16時33分
名前:平賀玄米


ユニテリアンの信仰の第一の特徴は、この「霊の囁き」に深く聞き入る事に始まります。彼らは常に、教義の主張する所が、我々の内応の魂に強く響いて来るものであるかどうか、魂の悩みを解決してくれるか否かを吟味するのであります。

若し人々が真に知的、精神的な高い性格の持ち主なら、既成教会の教義解釈にとらわれる事なく、自分自身で納得の行く解決をあくまで求める筈何なのであります。これが所謂「霊による裁可」であり、内在神性による受容であります。

ここに云う霊とは、吾に宿る眞理の黙示であり、外在の権威とは対蹠的なものなのであります。吾々は最初から、眞理を掴み、神を見出すことは出来ないかも知れない。最初はより進んだ心境の人々の教えを受けるのもよいでしょう。しかし結局は、我々は一人で、唯一人で「眞理の声」に耳を傾けなくてはならないのです。

ユニテリアンはかくして、一切の権威から脱し、ただひたすらなる眞實をもって、絶対的信仰を掴もうとするのであります。こういう信仰の態度は前編掲出のハードマンの神学と相似たるところがあるのであります。

ユニテリアンの信仰の第二の特徴は、彼らの信ずる宗教的眞理は、それが眞理である限り、他の如何なる正しき眞理とも矛盾すべきものではないという点であります。言うまでもなく宗教的真理は、数学の命題の様に証明されるものでもなく、自然科学の様に実験や観察で確かめられるものでもありません。また演繹法によって証明されるものでもありません。

しかしそうかと言って、これらの眞理に矛盾すべきものではない。二と二を加えて五になるという事は認めない。何故なら、それは「凡ゆる眞理は一致する」という見解に反するからと言うのであります。

つづく
 
     <平成29年3月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5431)
日時:2017年03月17日 (金) 15時04分
名前:平賀玄米


第三には、ユニテリアンは、信仰は必然的に胸の奥から湧き出して来る泉の様に、止むに止まれぬ魂の欲求に基ずくものでなくてはならないと考えます。信仰が各個人の心的地盤の上にうち建てられる以上、各人の希望や好悪の情と混淆しやすい危険はありますが、彼らは信仰の中にこのような好みや習性といった風な夾雑物が入って来ることを許さないのです。彼らにとっては、信仰はあくまで最も崇高な理性の所産でなければならぬと言うのです。

そこで世間では往々ユニテリアニズムを冷たい理知主義だと言います。しかしユニテリアンはあくまで知性が、異常な出来事(例えば奇跡)に心を魅かれる事によって堕落せしめられる事を恐れます。ありのまま、そのままであること、天地の合理的法則に則っている信仰、それをこそ彼らは正しき信仰とするのです。

宗教は元来感情の産物でありました。情緒がその母胎でありました。情緒は我々の内部の理性的なものに働きかけ、そしてそれを揺り動かす。又理性の統御なくしては感情は止まるところを知らない――、感情の助けがなければ理性は円熟した果実を結ぶ事は出来ません。

然るに世の中の人々は、現実の生活感情とかけ離れた宗教が何か高級な、本当に宗教らしい宗教であるかの様に考え、現実の生活感情に即した宗教を何か価値の劣るものであるかの様に考え勝ちであり、そのため宗教は実生活から遊離し、本質的な人間性から遠ざかってしまうようになりがちなのです。

ユニテリアンは正しき信仰は研ぎ澄まされた理性と、優美に育まれた情緒とから生まれ来たる内奥の魂の呼び声――霊の囁き――に基ずくものでなければならないとするのですそれ故、彼らにとっての「眞」は、他の人にとって「眞」ではないかも知れません。

往々彼らは「神の御心」なる純粋眞理を直接見出し得ないかも知れません。しかし、ユニテリアンにとっては、その時のその心境に於いて彼らがその到達し得たる誠意をもって見出した「眞」で充分だとし、かくて内在神性の開発に従って各自の魂は断えざる無限の向上を続けて行くとするのであります。従ってユニテリアンにとっては奇跡は彼らの信仰を却って歪んだ方向へ導いてゆく誘惑だとするのであります。

つづく
 
     <平成29年3月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5450)
日時:2017年03月18日 (土) 14時39分
名前:平賀玄米


       (二)

かくてもはや吾が魂は
   奇しき御業を求めて漂白(さすら)わず、
修理(ことわり)と眞實の中にこそ
    おんみの顕われ給うを知ればなり。

ユニテリアンの詩人チャドウィックはこう歌いました。

奇跡の観念は、人間の外部に、何か神秘な権能者を仮定する考えから起こるのでありますが、この奇跡の正体に対して最初に攻撃を開始したのがスピノザであります。彼によれば、宇宙に於ける眞理の驚異は、法則や秩序に犯干する魔力にあるのではなく、法則や秩序そのものの中にある。

あの美しい自然の中に、生命の息吹の中に、天体のノルムの中にこそ、その法則や秩序の中にこそ真の奇跡を見るのであるとしました。外在力の奇跡を内在力の奇跡に置き換えたのであります。
エマースンがスピノザの影響を受けているように、ユニテリアンも又スピノザの考え方を伝承している。

かくて光明思想は、外在の神秘力による奇跡を否定し、神秘力を各人の内在者に置き換えた結果、各人から奇跡が起こるようになったのが、メンタルサイエンスやディヴァインサイエンスでありますが、ユニテリアンでは奇跡を否定し過ぎた結果、奇跡が起こる程度の信仰には到らなかったのであります。

つづく
 
     <平成29年3月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D、 (5474)
日時:2017年03月20日 (月) 12時14分
名前:平賀玄米


ユニテリアンにとっては、自然現象そのままの凡てが奇跡であるとするのであって、従って神の御業はすべて当り前であって凡ては奇跡ではないのであります。何故かといえば、人間は誰でもその心の内奥に霊の囁きを聞いて絶対の眞理に近づいて行くだけの可能性が隠されているのに、もし、奇跡によって、その心境に達し得ない人でも、突如として神を見、それにより神を信ずるという事になれば、それは却ってその人の進歩にとって邪魔となる。

神は、人間の中の最も叡智あるものに最も多くの教育の恵みを与え給うのであって、それ以外ではあり得ない。「神に奇跡を求めるのは邪な時代の象徴である。」と言った賢者があったが、イエスは奇跡と見えた事を行った。併しそれは彼の時代に奇跡と思われたものであって、今の時代、又は未来の或る時代には、奇跡でも何でもない単なる日常事に過ぎなくなるに違いないと云うのがユニテリアンの考え方であって、ハードマンのメンタルサイエンスや生長の家の出現によって、それは何人にも出来る「人間内在神性」の実現による日常茶飯事となりつつあるのは興味ある事実であります。

ユニテリアンはイエスのみを、神と聖霊とイエスの三位一体式な超人的な存在だとは信じないのであります。ユニテリアンは、自らキリスト教と称しながらも、イエスに対しては批判的であり、漠然とした基礎に立つイエスの言葉に対して権威を要求するのは寧ろ不名誉な事だと思っている如く見えるのです。

あの崇高なる『山上の垂訓』(マタイ伝5−7)と、五つのパンが五千人の人々の食を充たして尚裂いた余りが十二籃もあった(ルカ伝九、13−32)と云う、この恐るべき増殖率は何を意味するか。

ユニテリアンはこれらの驚くべき霊的示現が眞であるか否かは、それを受容れる者の心の中に起こっている感応の具合によって定まるとするのであります。

つづく
 
     <平成29年3月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D、 (5486)
日時:2017年03月21日 (火) 14時37分
名前:平賀玄米


そこに功利的な或いは何かの低い驚異の本能を満足させるドラマティックな要素としてそれを受取るならばそれは眞の信仰とは全く関係のない事であるとするのであります。

ユニテリアンは、山上の垂訓の如き実に素晴らしき、キリスト教義中の珠玉とも称すべき教えが他の神秘的な功利的な低い程度の驚異の的となる様な奇跡と混淆しているのは、實に珠玉の光を蔽い隠す塵埃のようなものであって、キリスト教の堕落を意味するのであるとするのであります。

ユニテリアンは言います。「奇跡は存在しない。何故なら、神は人間の心の中に、こんな風な外的小細工によって位置を占めようとする必要は全然ないからである。」と。

彼らは人間が各人自身に内在する眞實以外の何者にも、何らの権威を認めないことにデモクラティックな宗教に到達したのであります。それがデモクラシイのアメリカに於いてチャンニング等によって一つの頂点に達したことは興味があることであります。

ユニテリアンは「信仰は精神的な事柄であるのに、奇跡は物質的な現象である。物質的な事柄は物理的解明に任せておけばよい」と云う風に言います。この点は物質が精神の表現であると云う最近のメンタルサイエンスから観れば、物質と精神との相互関係をまだ知り得ない幼稚さが見られるのであります。

つづく
 
     <平成29年3月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D、 (5500)
日時:2017年03月22日 (水) 14時49分
名前:平賀玄米


       (三)

マリアの処女懐妊の問題は、キリスト教ではその事柄を「罪なきもの」の生誕と結び付けて説明するのが通常でありますが、[罪」は心的な事柄であり、人間肉体の誕生は物的なことがらであって、これを混淆してそれに神秘的尊厳を加えようとするのは肉体尊重の考え方であると攻撃しています。

キリストの復活の問題にも同じ様な物質と精神との混乱が見出されれるとしています。ユニテリアンがこれらの奇跡を軽視するのは、そこに歴史的科学的根拠がないという理由ばかりではなく、更にイエスの教えの最も高い内容の理解が、それによって妨げられる恐れがあるからだとしています。

ユニテリアンは「霊の世界」や「神の国」なる語を言葉通りの意味にとらないで一種の象徴的意義の世界としてとるのであります。キリストの教え給うた霊の世界というものは、他の世界に求められるのではなく、この世に於いてすぐそのまま現れるところの世界なのであり、死者が行く世界ではないとする。

キリストの求め給うた「神の国」は、心境の向上によって今、此処に、生きた人間の正しき世界にうちたてられる所の世界であり、キリストの復活とは、人間の魂を罪の束縛から解放し、正しき事の充ち満ちている国をつくる事に他ならない。

そしてキリストの約束したもうた昇天は、我々の手の届かぬ天国の中に昇る事ではなくして、天地に遍満している神の意志――秩序と調和の世界に、人々の魂を引き上げる事なのだと解釈しています。ここには現世尊重のアメリカ人的な明るい宗教があらわれているのであります。
 
つづく
 
     <平成29年3月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D、 (5538)
日時:2017年03月25日 (土) 00時11分
名前:平賀玄米


         (四)

アンリ―・フレディリック・アミエルは、「キリスト教は、人間を外面と内面に分かち、世界を地と天とに分かち、かくして一つなるべき人間を、地獄と天国とに分属させた。」と言っていますが、
それはまことにユニテリアン出現以前の宗教だったのであります。

ユニテリアンは、この地獄と天国とに分属している人間を、一箇の神性を持つ独立せる自主的存在であるとしたのであります。ユニテリアンの宗教は人間性の宗教であり、デモクラシーの宗教であります。人間の本具に出発し、人間の自主的能力に依拠し、人間的の思考によって各人の内在神性を浄めるやり方で信仰を深めて行く宗教であります。

ユニテリアンによれば、人間は先ず一つの統一体である。オウガスチン等によって古くから考えられていた人間の三つの要素――肉体、生命、霊、を截然と区別する考え方を排し、ただこれ等の統一体としての肉体人間即神人のみを見るのであります。

世の中には善があると同時に悪が現れている。幸福と不幸が入り乱れて現れている。しかも不幸は常に我々の人生に於いて強力な地歩を占めており、幸福はそれに比ぶれば、穹窿の中に散布せられた星々の間を縫うて、時たまに流れ去り、果敢(はか)なく消えゆく帚星の様に数少なく、そして短い。何故であろうか。

何故人生にはかくの如く数多くの不幸が顕われ来たるのか。神の創造り給うた世界ならば、幸福と法悦の充ち満ちた天国そのままが、何故この地上の世界ではあり得ないのか――この古く、そして永遠に新しいこの人生の悩みの解決のために、或る者は無神論を唱え、或る者はヘブライ神話の神の恣意、神の間歇的な干渉を認め、キリスト教徒の中の或る者は神の力とは別に働く悪魔の存在を認め、或る人々は人間の内部の物的な要素と霊的な要素との相剋にその原因を求めたりしました。

つまり『創世記』第二章の「土の塵にて創造り、生命の息を吹き入れ給うた」という物語こそ、この人間の二元性を象徴する神話であります。

つづく
 
     <平成29年3月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5564)
日時:2017年03月26日 (日) 10時07分
名前:平賀玄米


しかし、ユニテリアンは人間の二元性を認めない。彼らは大胆に人間性の統一を宣言します。肉体はなんら嫌悪さるべきものではなく、又、魂は肉体と共存しても、それによって堕落させられる様な存在ではない。肉体は心の力により発展し、又その発展した肉体は心の基盤となり得ると云う。

この点では物質と精神との相互関係を認めています。人間性はかくの如く、肉と霊との相互互恵的関係に立っているとするのであります。ユニテリアンは、「凡ゆる立場に立つ知識の進歩は結局に於いて一つの眞理を目指すものである故に、吾らは科学を歓迎する。

科学は束縛とはならず、却って彼らの味方である。」とは言っていますが、また科学の限界を認めて「科学は實在の謎を解く事は出来ない。恐らく永遠に出来ないだろう。いくら科学で心臓や脳髄や神経系統の変化を調べてみても、魂は、心は依然として神秘の幕の彼方にある」とも言っています。

科学は宗教的信仰を修正するかも知れない、新しい表現を与えるかも知れない、恐らく多くの新しい証明を与え現象を説明するだろう。しかし決して眞理そのものを破壊する事は出来ない」と言うのであります。

つづく
 
     <平成29年3月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D、 (5576)
日時:2017年03月27日 (月) 10時58分
名前:平賀玄米


      (五)

人間と云うものは、神の御心そのままに、調和した本性をもって地上に生まれて来たものである。アダムがエデンの楽園を追放されたのは、それは彼の誤れる意志の決定によって彼自身が楽園から出て行ったのであり、それだからといって彼の子孫(即ち人類)は神の意志と調和した正しい行動をとる意力を欠いた者とはならなかった筈である。

生れたばかりの赤ん坊は、アダムがかつてそうだった様に、abula rasa(白牌(しろカード))の様に純にして無垢であり、その白牌(しろカード)の上には、彼が、彼のみが人生のロマンを、人生の成功不成功を、悦びと悩みとを自由にかき得るのである。しかし何人も全然は悪い物語を書く事が出来ないのと同様に、全く完全な善き物語も書く事は出来ない。ただ人々はよりよき傾向をのみ望み続ける事は出来る。良き傾向の習性は善を生み続け、悪き傾向の習性は不幸を生み続ける。

それ故善き者の子孫は善に傾きやすい傾向を持ち、悪しき者の子孫は悪に走りやすい傾きがある。この意味でのみ善悪は遺伝的傾向を持つが、しかしそれは決して絶対的ではない。何人と雖も善き行いを為す力を奪われはしないのである。」

以上は英国の僧侶ペリージアスの創めたペラギウス教の教義中より色々の夾雑物を取除き、偏見を拭い去って近代的な言葉で言い換えたのであるが、そうすると、その主張はまことにユニテリアンの思想と近いものとなるのであります。

ここに、「善を為す事の自由」と「悪を為す事の自由」なる人間の意志の自由が登場して参ります。我々は原罪なき白カードの上に自分自身の物語を書き得るのであります。ユニテリアンは次の如く言います。

「私の意志は自由である、私が私自身である故に。善悪と云う道徳価値批判があり得るのは、ただ意志の自由を通してのみ可能である。」と。これは全く生長の家的な考え方であります。

併し、人間は何か自分の意志の自由だけでは物足らないものを感じて来ます。彼は自分の意志よりももっと大きな外的な意志の力を感じます。行為する事は自由であるが、同時に人間はより大きな全体の中の一部に過ぎない事を感ずるのです。

彼の外には宇宙の星辰の運行があります。彼は宇宙の一部である。そこである神学者達は人間の意志が自由であるのは、ただ悪を為す時のみであり、自分の意志に従う時は悪に走り、自分以外の神の意志に従う時にのみ善を為す事が出来ると主張したりします。

又或る人は「人間の意志が自由なのは単に日常生活を為す時のみで、善き事を為すためには外からの神の力によって助けられ、時には自己の自由を妨げられねばならない」などと言います。併しかかる解釈はとりもなおさず「人間の意志は不自由だ」と言う事を言い換えたに過ぎないのであって、かかる宗教はデモクラシー米国で発達したユニテリアンの思想にはなり得なかったのであります。

ユニテリアンにとっては日常生活はそのまま求道生活なのであります。その間には何らの区別もないのです。人間の意志は絶対的に自由なのである。そして同時に、人間の意志は神の意志の一表現なのである。

それが一見、神の意志に反している様に見えるかも知れないが、又それは誤った方向を辿るように一時見えるかも知れないが、結局はそれらは神の目指された目標に向かって進んでいるのであります。

つづく
 
     <平成29年3月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5586)
日時:2017年03月28日 (火) 10時26分
名前:平賀玄米


人間の意志は宇宙を支配する同じ全能者によって与えられたものである故に、それ故に、本質的に善きものだとユニテリアンは宣言する。それはまことにデモクラシーの宗教である。しかし人間の意志の勝利は彼の自我の凡てにわたっての勝利ではない。彼の意志が自我を規定する時、その意志は本質的にはより一層大なる自我の一部分なのである。

そこには自らが自らを規定して行くところの自らの意志がある。それは宇宙の意志にまで永遠に流れ行く意志であり、しかも同時に宇宙の意志の具体的表現そのものなのである。かくて自ずからの意志をもって人生を棹さし向上し行く過程にこそ神が顕れているのであるとします。

喩(たと)えば、此処にある少女が盲目的愛執に引かされて或る青年のもとに走るとする。彼女の貧しい家には年老いた父母が我が子の身の上を案じて毎日嘆き悲しんでいる。やがて少女は捨てられる。少女は流れ流れて、淪落の生活を送る。そして最後に傷つき破れた心と身体を抱いて父母のもとに帰って来る。

その場合の親の膝下を飛び出す意志も彼女の意志であり、親の許に帰ってくる意志も彼女の意志である。しかも同時に両方の意志は神の意志でもある。家出をする時の意志(煩悩)も、家に帰って来る意志(菩提)も神の意志であり、神の「お手廻し」なのであります。
かくてユニテリアンは佛教の最も荘厳なる眞理――煩悩即菩提の眞理に到達したのであります。

かくてユニテリアンは放蕩息子を不道徳者として咎めることもない。神の意志が具体的に顕現する為に、各個人には完全なる意志の自由が与えられており、その結果は善くなる方向にのみ進んでいると云うのです。ここに一切皆善の光明思想の濫觴があります。

「神は調和であり至福であり完全であるから、我らの意志が如何なる紆余曲折を辿ろうとも結局に於いては神の大調和の世界に我々を導いてくれる」とユニテリアンは言うのであります。

つづく
 
     <平成29年3月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5591)
日時:2017年03月29日 (水) 10時12分
名前:平賀玄米


ユニテリアン以前の神学では善と悪とは対立した存在であると考えられて来ました。これは神と悪魔との二元的な考え方に基ずくものであって、かのオウガスチンなども、ギリシャ・ローマ神からマニ教を通りキリスト正教へと進んで来ながら、一生を通じて個の二元的解釈に苦しんで来、しかもそこから脱却する事が出来なかったのであります。

悪を実在せるものとして掴み、悪魔の幻影に怯えていたのであります。カソリック教会も又同様であり、プロテスタント(新教徒)も罪の考えに固執した点に変わりはありません。しかしユニテリアンは明らかに悪の存在を否定します。この点に於いてもこの教えは光明思想の先駆者です。

彼らは悪の実在を認めないのです。實在するとは、それ自身独立して他に関係なく存在する事でなければならない。然るに「悪」は「善」の反対のものであって、それは恰も「光」に対する「陰」同様のものであって、光線の達しないところの単なる現れに過ぎない。光が来れば陰は消えて無くなる。悪の濃さは、喩えば陰の濃さと同じく、善なる神の光の達しない程度によって定められる。

神なる光が人間経験の奥底に色々の傾いた角度で到達する。その到達する角度の如何によって善と悪との光の綾が交錯する。或る人々の魂は光に満ち満ちた原野の様に明るいが、或る人々の魂は鬱蒼たる森の様に暗い影に閉ざされている。しかし光は全然は無いことはないのであると彼らは言います。

ユニテリアンは素直に悪の事実(実在ではない)を認めるが、悪の定義を定めるには、ただ善の定義を通してのみそれを定めます。彼らにとっては、善とは「調和」であります。しかし彼らは卒然と、はじめから「絶対的な善」を規定し定義する事を諦めています。それは哲学者にとって必要かも知れないが、宗教的実践にはあまり役に立たないものだとするのであります。

そして我々の進歩、我々の向上の過程である人間生活の努力そのものの中に善の動き、善の発展して行く姿、光が暗を照らし始める過程を見、光と暗との交錯に「摂理」を見出し、「美しさ」を見出すのであります。

つづく
 
     <平成29年3月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5612)
日時:2017年03月30日 (木) 15時24分
名前:平賀玄米


ユニテリアンに言わせれば、善とは要するに神の意志との調和であります。宇宙を支配している法則との調和であります。その法則に順応する時、すべての事は順調にゆき、その法則に反する時、敵があらわれ、不幸が生ずると云うのです。「天地一切のものと和解するとき一切の祥福が顕れる」とする生長の家によく似ているのです。

その法則に従うか否かは我々自身の問題であります。我々自身が我々のまわりに幸福を作り出すか不幸を作り出すかするのであって、何によらず我々がすべての主人公であり、我々が宇宙の中心なのであると云う点もよく似ています。

しからば神の意志に調和し、宇宙の法則に和解し順応するにはどうすればよいかの問題が生じます。我々が善を善と認め、悪を悪とみとめるものは、我々の個々の良心の指示以外にはないのです。ところが我々の個々の善についての判断は必ずしも完全とは云い得ません。

低き程度の意識に於いては、個々の人々は他とは別々の存在であると考えられ、個人の幸福というものは他の者の幸福とは関係なく、利己主義を以て自己の欲望を追い求め、他人がそれによって蒙る犠牲などは省みない、そのような極端な個人主義をデモクラシーだと考えたり致します。

しかしながら、より高き個人主義では決して自分を他との関係から引離して自分の我欲のみに従う事に満足するものではありません。かかる個人主義に於いては「自己」とは「良心」に他ならない。そして良心とは我々の内心の霊の囁きである。

この良心は社会の法則規約に従うかも知れないが、又時には従わないかも知れえうない。しかしとにかく人々はこの良心の命令に従わなくてはならないのである。だが幸いなことに、人間の良心は大抵の場合、この判りやすい社会規約なるものに従う事を命ずるのである。

ただ必要な事は、人間は常に論理的に考え、隣人とよく話し合い、他の人の意志を尊重し、規約の文句の外形よりも、それが定められた精神を尊重し、常に良心を最も尖鋭な状態に保っておくことであります。

つづく
 
     <平成29年3月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5632)
日時:2017年04月01日 (土) 15時06分
名前:平賀玄米


しかしこの様にして高き程度に高められた良心――良識――にしても、必ずやその命ずる所が100%確かに善でありましょうか。良識は外的な規約によって得られる啓発ではない。良識は自らが自分自身を深く掘り下げる事によってのみ得られるのである。

その掘り下げ方の足らない時には、或は外面的には悪と認められる行為をするかもしれない。しかしそれはそれで可いのである。それは「生命」自身の試行錯誤である。その試行錯誤を通して、やがて自然に彼は目覚めて来、生命はその進むべき道を見出し、彼自身で道を切り開いて進んで行く。

そして結局人間は互いに調和し、宇宙の法則に順応し、無限の能力が啓発され、内在無限の善の可能性が現出して来るに違いないのであるとします。ここに悪と罪とを憎まないデモクラシーの寛容精神があらわれているのです。眞理への道は唯一つ「試みる」と云う事であるとユニテリアンは言います。

「試みる」事なくして何の進歩があり向上があろう。彼は彼自身なるが故に、彼自身の意志に従う他はないのである。ユニテリアンは、宇宙の意志が今我によって仕事をなしているのだと云う意識に到達する事が、良識の究極の目標であるとしています。ユニテリアンの一詩人は歌って言う――

       どうして手に入ったのか知らないけれど、
       私の意志は私のものだ。
       私の意志は私のもので、
       お前さんに差上げるわけには行かない。

つづく
 
     <平成29年4月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。




尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5688)
日時:2017年04月06日 (木) 17時27分
名前:平賀玄米


       (七)

ユニテリアンによれば聖書は人間の作品であり、それは一種の歴史文学であるというのであります。
この考え方はユニテリアンの人間の本性に関する考察から当然予想され得る結論である。
人間というものは最も良い文学も作り得るし、又最も悪いものも作り得る可能性があります。

そしてその作品の良否は、そこに「眞」が現れているか否かで定るのであります。このことは聖書のみならず、凡ゆる作品について言い得ることであります。では如何にして「眞」を把握するか。
或は、ただ「神の啓示」と「霊感」によってのみ「眞」は把握されるのだと言います。
また他の人々はそれとは反対に、人間の撓まざる努力によってのみ可能であると主張します。

ユニテリアンによれば「神の啓示」の具体的現れが「霊感」であります。「霊感」とは「神の啓示」の具体化の作用であります。従って「神の啓示」は「霊感を受けた人」を通して認識されるのである。しからば一体「神の啓示」とは何でありましょうか。

それは人間の外部から何か強力な力でもって「霊感」という形式を通してふりかかって来る超人間的な黙示でありましょうか。人間が単なる容器(うつわ)であって、その容器の中に霊が入り込んで来て神の御旨をひそひそと囁いたり、或は又、人間が無我夢中になって厳めしい言葉をわめき立てると云う風なものでありましょうか。

たとい「霊感」と云い、「神の啓示」と云うものがそのようなものであるにしましても、その結果の神託たる言葉そのものに何故価値があるのかと云うその価値判断の基準は何であるか。そこに何ものかの権威を認め、価値を認めるのは、実は人間そのものではないか。

大衆が良かれ悪しかれその神託を信ずるゆえに、それに価値を認めるのであって、大衆は選定の自由を握っているのであります。神徠の出る形式に価値があるのではなく、その内容に価値があるのであり、その価値を認めるのはある特定の一人の預言者の心ではなく、時代の大衆の心であります。

ただ、神啓なり、霊感なり、神徠の出る形式が異常であると、大衆はその形に幻惑されて内容の価値なきものを価値ある如く誤認してつまらないお筆先を、意味深長に解釈してかつぎ廻ることがあるので注意せねばなりません。

つづく
 
     <平成29年4月6日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5703)
日時:2017年04月07日 (金) 14時36分
名前:平賀玄米


ユニテリアンに言わせれば、一体一人の預言者の心と云うものがその時代の大衆から孤立して存在し得るものであるか。如何なる天才といえども、彼は砂漠の中にただ一人立ち、ただ一人大声で神の御旨を叫んだところで、それは一体何だ。喜劇を通り越した悲劇に過ぎないではないか。
彼の声はいたずらに、茫漠たる熱砂の中に吸収されてしまうだけである。預言者が預言者たり得るのは、實に彼の下に、民族的環境という地盤が控えているからである。

人々は預言者の言葉の美しい果実や、華麗なる花を見て讃嘆する前に、地を這う太き逞しき根や、茎や、枝や葉の無言の力を見失ってはならない。フィディアス、ブラクスィテレス、ミケランジェロ、ティティアン等の素晴らしい傑作は、ただ彼等個人の天賦の才によってのみ出来たのではない。

我々はその果実を見て、「霊感を受けている!」と讃嘆するが、それはただ、同時代の同民族の、生活に苦しみ、何も為すところなく、はかなく消え去った大衆の無言の力の結実に過ぎないのだと言っています。一人のみの英雄を認めないデモクラシー精神が鮮やかに表れているのです。

つまり如何なる預言者も天才も、同時代の大衆のバックなくしては存在し得ないのです。従って作品には、それが聖書たると芸術品たるとを問わず、その時代のその民族の恣意や、偏見や、信念や、願望や、欲望が混淆しているのは当然であるのであります。

その偏見は民族的偏見もありましょうし、個人的偏見もありましょう。如何なる宗教の聖書もお筆先も、この見地から批判されなければならないが、それは決して単なるその教祖の罪ではなく、神の表現過程は常にかくの如く「人間」を通して、時代を通して顕現するのであり、其処に批判精神が要求され、人間的な努力が要求されるのであるとしております。

「神を求める真摯な人間の努力なくして、どうしてそこに『より完全に近き神の啓示』が現れ得よう。座ったままでいくら神の声を求めて祈ったとて何になるか。人間的な努力を欠いて神の美しき果実をのみ奪い取ろうと考えたって、それは駄目だ。『神の啓示』はただ真摯なる人間的努力を通してのみ展開し続ける。

個人や民族の苦しみ求めたる眞は、更に次の時代に於いて開発され修正され、更に次の時代により一層本統の『眞』に近づけられる。ここに神の意志の展開があり、これこそ『神の啓示』そのものに他ならないのである。それは山深く発して海に流れ入る河の様なものである。

時には岩に堰かれて逆のコースを辿り、或は滝となり、泉となり、砂中に姿を没するだろう。それを称して退歩と云い滅亡と云う者の愚かさよ。我々は発展しているのだ。永遠の進歩がそこにあるのである。」こういう立場から聖書のみならず、一切の宗教経典を見て行こうと云うのがユニテリアンであります。

つづく
 
     <平成29年4月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D (5717)
日時:2017年04月08日 (土) 13時32分
名前:平賀玄米


         (八)

ユニテリアンはナザレのイエスを、我々と同じ様な一個の人間だと信じて特殊な人間とはしません。彼イエスはユダヤ人の生活環境の中で、生まれ、考え、生活し、そして突如として若き指導者となりました。彼はヘブライ人達の心にひしひしと迫り来る一つの生活態度を持った男であったのです。

彼はヘブライ人の心を掴む力があった。しかも常に彼は、国民的伝統や因習の低いレベルを超えたより高い普遍的人間体験への共感を求め続けたのであります。民族とその民族神との間の特殊な誓約では満足せず、普遍的唯一神と凡ゆる人間との永遠の関係――その法則を求め続けたのです。

彼の伝えた道は決して全く新しい道ではありませんでした。それは昔から述べ伝えられ、試練を経て来た道であったのです。イエスの道徳観の特徴となったものは、「宇宙の統一者」との関係に於いて道徳を考える考え方でありました。

正しきものが正しいとせられるのは、ただ創造者と被造者(父と子)との間の本質的調和の上に立ったものだけであるとして、外在の道徳の基準などと云う問題は皆、それから後の付随的事柄であるとしました。

人間の内部の「眞實をつげる魂」こそ、善悪を判別する唯一のものであるとしました。凡ての人々にこの内在の神の御声に随う道を示すことこそ、イエスの使命であったと観ております。

旧約のユダヤ人の神に対する考え方は単純で、人間的で、民族的で、闘争的でありました。この民族的な相対神から絶対神を認める境地にまで高め上げたのが、イエスであります。当時、一方注目すべきは、ギリシャ人の哲学的思考の中にロゴスなる観念がありました。

ロゴスは神の表現であり、純粋に内在せる實在の外面への投射であり、絶対的沈黙の発言であり、我々が絶対神と呼ぶものの「表出(あらわれ)」である。そしてこれが絶対神と宇宙の万物(人間の心を含めて)との間の間隙に橋を架けてくれるものなのだと言うのです。

このロゴスをイエスに結びつけ、「ロゴスがイエスだ!」と云う断案が下された時、哲学者にとってもキリスト教徒にとっても神と人間とを結びつける架け橋の発見としてとても大きな一つの発見であった。それによって直ちに哲学者の思索であるところのロゴスを人間の実践的宗教的要求の喝仰の中心に置くと云う形式が与えられたのであります。

最初は理性の思索的産物であり単に道徳的希求とであったものが、今や断定的な権威ある宗教的礼拝の対象となってしまったのです。こうしてついにナザレの人間イエスは、同時に神性のあらわれなるキリスト(救世主)となったのです。

かくしてその時より今日に至るまで、人間イエスとギリシャ哲学キリストなる二つのものが混淆し、時が経つにつれて益々収拾がつかなくなってしまったのです。そうして人間イエスは、華麗なる哲学的創作――それは純神学的には有用な形式ではありますが――の進行につれて、人間の合理的観方から離れてまいりました。

つづく
 
     <平成29年4月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (5751)
日時:2017年04月09日 (日) 23時39分
名前:平賀玄米

 
ユニテリアンは、かかる教会末期の誤びょう的イエス観から脱けなければならぬとした。歴史的人間と思索的産物とには何らの機能的な関係もないとしました。「両者ははじめから別なものである。」
ユニテリアンにとっては「ロゴスはイエスにのみ降り注ぐ慈雨ではない。ロゴスはすべての人に一様に遍在する。そして各人は自分の開発された能力に応じてそれを受け容れるのである。」と、
ユニテリアンは宣言したのであります。

ユニテリアンに言わせれば、ナザレのイエスは神性を完全に表現した唯一人の男ではない、彼は一人の先覚者であった。彼の行為は必ずしも凡ゆる点では完全ではなかった。「彼も我々と同じ誘惑に悩み、神の意志を何とかして求めようとした求道者である。それ故にこそ、彼の教えが尊いのであり、我々人間の心を打つ。

彼の道徳的勝利は、凡て劣等な自我との痛ましい闘争の結果勝ち得たものなのである。イエスに与えられた神性は同時に我々凡ての人間に与えられているのである。その可能性は未熟であり、はっきりした形態を整えていないかも知れない。しかしそれは既にあるのであり、咲き出さんとして春の来るのを待つ蕾なのである。」と。

又曰く、「今迄キリスト教の諸派は、それ自身どうしても規定する事の出来ない『神なるもの』――神それ自身を、何とかして規定しようとして来たので、いたずらに苦しみ悩んだのである。だから処女懐妊だとか云う愚にもつかない事を考え出して、神性を具体化しようとしたのである。

かかる事は『神なるもの』と何の関係があるのか。処女懐妊とは人間性の侮辱である。正当なる父性の無視であると同時に、婦人の地位を男子と共同して生命活動を営む神聖なるものとして認めず。只単なる生産の道具の地位に蹴落とす思想である。」と、婦人の地位の向上をその教義の中に加えているのであります。

しかしユニテリアンはイエスを批判しながらイエスを唯一人の人間自由への指導者として仰ぎ、凡ゆる機会を把えてイエスを通じて眞理の探求を求めています。この点ユニテリアンは完全にキリスト教であると言い得るのでありますが、凡ゆる宗教の聖典を批判や研究の対象として、仏陀やソロアスタや、モハメッドも捨てません。しかし彼らは指導者としてはイエス一人で満足しているのです。

つづく
 
     <平成29年4月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (5762)
日時:2017年04月10日 (月) 12時04分
名前:平賀玄米


     (九)

ユニテリアンによれば、この世の中には神の怒りなどというものはない。神は人間を創り給うた父であり、人間は神の子である。従って、何か人間の償いによってはじめて神の怒りがとけるなどと云う馬鹿馬鹿しい事はあり得ないとしております。

またこの思想は神から見て正しい行いをする事が人間には可能であると明白に主張します。また同時に、神と人間との一体なる事を維持する力があると主張します。神と一体となる事が即ち「贖い」であって別に地獄に堕ちることが贖いではないとするのです。

神と離れるという過程は、人間が肉体人間である以上は永久に続くのである。しかし又神に帰る。人間は自由であり、常に誤り、常に贖い、立ち直りつつある。これを「内在せる人格による贖罪」という言葉で言い表すのです。

神の意志に沿って自分の意志を正す事が、それがキリストに従う事であり、かくして獲得され把持された高き自我の優越による低き自我の克服こそ贖罪なのだと言っています。それは精神の肉体に対する勝利であり、凡ゆる人間に内在する神性の動物性に対する優越であります。これが人格による贖罪なのであります。

より高き人格に至るには高価な勝利の代価を支払わねばならない。魂の優越を得るには高き値を支払わなければならない。魂は不断の注意、たえざる希望、不撓の勇気、揺るがざる信念の値を支払わねばならぬとするのです。

つづく
 
     <平成29年4月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (5790)
日時:2017年04月11日 (火) 11時54分
名前:平賀玄米


         (十)

更に個人的な人格の贖いから、民族的全体の贖いの観念を考えてみましょう。ユニテリアンはあくまで個人が全体に先んじています。どこまでも民主主義的宗教であります。全体は、それを構成している個人の人格の価値によって確固たらしめられる時にのみ価値があるとしています。


したがって民族的な贖いと云うものは、宿命的な或る贖いの為にある犠牲が払われるというものではなく、進化の不可思議なる輪廻を通過した後には、民族は元来はじめから完全であった様に、調和に満ちた完成された条件の中に立ちかえり進化を続けると考えるのです。

民族の贖いは個人の人格の贖いによってのみ得られる。人間性の黄金時代は、正しきがよこしまにうちかち、光が闇を征服し、眞理が虚偽を克服し、愛が憎しみに打ち勝つところに見出されるとするのです。

凡ての人は、彼が自分の魂の闘争に於いて勝利者となる時、直ちに民族的贖いに貢献し、責任を分け持つ事が出来る。贖いは同時に向上であり進歩であり、より多き神の具現化の過程なのです。
それはあくまで内面的な人格による贖いでなければならないとするのです。

つづく
 
     <平成29年4月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。


  此処は特等席

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (5891)
日時:2017年04月16日 (日) 12時05分
名前:平賀玄米

 
         (十一)

教会の歴史的発展の跡を辿ってみると、大体三つの主なる過程が考えられます。即ち、秘教派、カソリック派、個人主義派がそれであります。
 
第一の秘教派(エソテリシズム)では、その構成人員の中に、普通の信者と、特に選ばれた少数者の内部団体との区別を設けるのであって、この少数者により高級な天賦の才とか訓練とかが、与えられていると考え、特に神秘的な密教的な問題が委ねられたのである。

この派の人々の中にも二の傾向があり、哲学的態度と欲求とを示した一派をノスチック教徒、又眞理を求めるのに直感的神示、「預言」による一派をモンタニズムと呼ぶのです。彼等に共通の特
徴は、秘伝を受けた人と受けない人との二つに区別する考え方があって、知的或は霊的な意味での貴族階級と、一般信徒との二階級を設定するのであります。

第二のカソリック派はこの二階級区分に対抗して生じたもので、原始カソリックでは明かに人々は一様の権利と責任とが与えられていました。教会のつとめ、は常に人々を低き精神生活から高き精神生活へと高めることでありました。しかるに後期に於いては次第に普遍的な教義が教会の権力者の専制的なものと変り、かくて人々は固い教則の殻の中に閉じ込められてしまったのでありす。

第三の個人主義派はかかる専制的教義に対抗して生じ、個人の人間意識の目覚めは次第に勢力をまし、遂に宗教改革にまで発展したのです。宗教改革はかくして教会の固定的形式主義を打ち破りましたけれども、それは同時に秘教派的考えと原始カソリック的考え方への復帰でもありました。

しかしとにかく宗教改革は、教会などというものは、個人の信仰にとって何ら決定的要素ではなく、個人の信仰は各個人の自由であるへきだという事を発見したのであります。

つづく
 
     <平成29年4月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (5900)
日時:2017年04月17日 (月) 17時31分
名前:平賀玄米

 
ところで、教会に対するユニテリアンの考え方は勿論個人の意識の目覚めに立脚するものであり、考え方を同じくする者同士が自由に結合し、かくして作られた団体での教義は、各個人の真摯な確信の表明であるわけです。そこにこそ眞の「教会」が生まれるのであり、かかる教会の集合が「教派」を構成するのです。

かかる教会に於いては個人は自分の信仰を自由の形で表現出来るのであり、かくしてこそその信仰は世界で最も優れた思想と常に肩を並べて進んで行く事が出来るのであります。かかる見地からユニテリアンは組合教会主義を支持します。団体員は各自の選定した代表者の意見にしたがいます。

そこで定められたる決定事項は教義であるが、しかしそれは外部から与えられるものでなく、内部から盛り上がって来る力によって代表されるものでありますから、その教義は個人の自由を束縛せず、しかも各個人の強い支持を受けるのであります。組合主義の下では凡ゆる事項は議論と裁決によって定められます。どこまでもデモクラティックであります。

それは常に生き生きとして発展して行く議決であり、たえざる向上が約束されている。彼らは最も、形式的に固定した教会規約万能主義を嫌います。彼らは「教会」なる組織や建立物に対しては何らの権威もみとめません。ただ教会が神聖であり得るのは、その構成員が聖なる生活を送っている限りに於いてのみであり、これこそ眞の意味でのカソリック的なものなのであります。

眞のカソリック的なものはプロテスタント的行方によってのみ得られるとするのです。その意味に於いてはユニテリアンはプロテスタントであるとも言えます。彼らの信ずる所によれば、サミュエル・ロングフェローの歌ったように眞の「教会」は各個人の胸の奥深く建てられたものであり、星霜と共に毀(こぼ)たるることなく、それは何の処にも、何の時にも、何の民族にも現れ、そして永劫に毀(こぼ)たるるところのない聖なる殿堂なのであります。

つづく
 
     <平成29年4月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


    < レンゲとミツバチ>


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (5919)
日時:2017年04月20日 (木) 00時14分
名前:平賀玄米

 
このようにユニテリアンは、組織体としての教会の凡ての価値は、それを構成する個々人の性質の如何に依るものとしました。同様の事が礼拝の形式についても言えるのです。彼らは礼拝の形式が
それを行っている人々の正しい人間的思考や感情を代表するものであるなら、別に之を排斥しないのです。しかし彼らの恐れる点は、礼拝の形式化が礼拝する人々の思考を曇らし誤らしめる傾向にあるのです。

どんな礼拝の形式でも、それが永久には正しい独自な人間のたえざる進歩の放棄であり、退歩への転向であります。この意味に於いてユニテリアンは凡ての固定した聖餐主義や儀礼主義を排撃しています。「教会という有機的団体が、個人の礼拝の形式やその感情の表明の仕方などを規定する権利が何処にあるか。何故ある特定の礼拝形式が正しいとするのか。正しいとする根拠が一体どこにあるのか。」と言っています。

人間は各自自由な形式で自分の悩み、感謝、嘆願、後悔、悲嘆などを、自分自身で絶対者の降臨の光の前に告白しそして礼拝すればいいのだとしています。何故なら、ユニテリアンは、神を、彼らの感情が最も高揚した状態に於いて自然に顕現して来る一つのパラダイスであると考えるからであります。

神は凡ての生活を内包する。人間の弱さも実は強さであり、暗黒面も実は光明面である。礼拝の形式が人間を規定する時、それはかかる凡ての生活の源泉たる神への道交を妨げる事になると云うのです。何故なら、自由こそ神であり、自由を通してのみ神に到達し得るのであり、それ以外は如何に近道に見えても実は遠道となるからであるという。

「人間と神との間には何物も介在すべきではない。人間が神と一致したなら、各自は独立して自らの魂の解決を図らなければならない。イエスも明らかに、凡ゆる妨礙物を投げ捨てて、霊なる神を
礼拝せよと宣うた。完全に自由に個々の魂が普遍者の魂と道交する事こそ、宗教的悟道の最高理念ではないか。」と言っています。

ユニテリアンによれば、「説教」こそ眞の団体礼拝であると云うのです。世評ではユニテリアンの「説教」はまるで学校の「講義」の様だと言います。彼らはどんな教材でも取上げて説明します。
教理的、政治的、道徳的、歴史的、科学的、芸術的、文学的、凡ゆる教材は彼の「講義」の材料になっています。

彼らは聞き手の心の中に直に触れる様な問題を取上げて話します。説教者は常に「人間性」を持たねばならない。それのみが人々を魅きつけるのだとしています。ユニテリアンの公的礼拝の中心は実に説教にあります。

つづく
 
     <平成29年4月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (5988)
日時:2017年04月26日 (水) 13時55分
名前:平賀玄米

 
            (十二)

祈祷についても同様の事が言えるのです。ユニテリアンは祈りの本質は魂の敬虔にあるとするのです。そして普通に「いのり」という形で語られる言葉は当人は「神に聞かれんがための言葉」であると思って言っているかも知れないが、実はその言葉は「祈る者それ自身に与える言葉」なのだと言っている。

神は「祈る者」も「祈らぬ者」にもあらわれ給う普遍者、遍在者なのであります。本当の祈りとは、かかる形式の祈りのことばや思いではなく、モントゴメリーの詩にある様に、「祈祷は切なる魂の願い」なのであります。魂の切なる願い、希望がそのまま祈りなのであって、祈りとは、その場限りの自分に都合のよくなる様に神にお願することではなく、常に、不断に心から求めている事が、眞實の祈祷(いのり)だと言っています。

「我々の性格を決定するのも、運命を決定するのもかかる意味に於ける祈祷(いのり)なのである。我々が今ある状態は、我々が過去に於いて願い祈りし結果なのであり、又我々の未来を創造(つく)り上げるのもこの意味に於ける祈りなのである。」と言っているのは一切が唯心所現だと云う生長の家に似ています。

人々が眞に望み願う事柄、常に心に浮かべている内容は、その人が意識しよがすまいが祈っているのであり、それが、その人の運命を決定するのであります。

つづく
 
     <平成29年4月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。

      <リンゴの花>



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (6056)
日時:2017年04月29日 (土) 16時02分
名前:平賀玄米


では祈りは「神の法則」を変更出来るかどうかの問題に入る。旱魃の時に雨の降る事を祈れば雨が降るか。肉体が虚弱な男が祈る事によって急に強健になるか。この問題は先ず「祈り」なるものの本質から解決しなくてはならないのです。「祈り」なるものが前述の意味に於けるたえざる願望又は「心の内在傾向」を意味するならば、旱魃とか虚弱という事は、実はその人が過去に於いて祈った事が現れたのであります。

それ故、その結果である旱魃を急に都合が悪いからとて、所謂言葉だけで祈っても、それが消えて雨が降るわけのものではない。それを期待するのは明らかに迷信であります。肉体の虚弱者が強健になる様に急に言葉だけで祈りはじめる事も邪道であります。

天の法則は我々のたえざる「願望」又は心の「内在傾向」であるところの祈りの程度に応じて、我々の上にある環境を形造るのであるから、我々がその天地の法則に順応した祈りを持つならば自然
にその心の様態に適応した形となってあらわれる、即ち祈りはきかれる事は真実であるとしています。

そして祈りの結果は、物質的法則を打ち破った形式で出て来るのではなくして、物質的法則に順応した形式で表れて来るのです。その表現的功徳は魂の発展と共に進むのです。若し魂の進歩なくして法則を破った奇跡的改善が肉体や環境上にもたらされたとしても、それが一体如何なる意味があろう。それは魂の進歩とは無関係である。否、むしろ、神の自由なる表現過程とは逆行し、その人個人にとっての不幸でさえある。

その人は奇跡に目をくらまされ、奇跡にとらわれ、かかる祈りの形態に束縛され、かくしてその人は魂の進歩の過程から踏み外してしまう事になるでしょう。かかるものこそ迷信というのであるとしています。

ユニテリアンは人間が幸福になるには、言葉巧みに祈ることではなく、先ず個人が自分自身を創造者の意志と調和させねばならないとするのであります。常に心に思う事はそれは切なる「祈り」であって、善き祈りによってのみ、神の国が地上の国々に打ち立てられるのであります。こう云う意味で祈りがすべてを規定すると言うのであります。

つづく
 
     <平成29年4月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。



  <ツグミ>

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (6086)
日時:2017年05月01日 (月) 13時03分
名前:平賀玄米

 
         (十三)

従来から多くの人々によって考えられてきた来世なるものには大別して三つの考え方があると思われます。
第一の考え方は「連続的」と言われるもので、死後の世界も現世の延長であって、苦しみと楽しみとの混淆したものであると考えるのであります。

第二は「対立的」な考え方であって、来世は現世とは全く隔絶した存在であり、そこは概ね天国と地獄とに分けられ、現世で善いことをしたら天国に行き、悪い事をしたら地獄へ行くと云う考え方であります。

第三は「代償的」と言われるもので、現世で苦しみ悩んだ者は来世ではその代償として天国へ行き、現世で楽をしたら地獄へ行くと云う考え方であります。

かかる三つの考え方ははっきりと区別出来るものではなく、これ等がお互いに混じり合って色々の来世に対する子供らしい憶測が行われてきたのであります。

ユニテリアンは言います。
イエスは常に天国のみを強調しつづけてきた。天国――神の国とは、精霊の天国の事であった。それ故、それは一つの場所を指すものではなく、一つの条件を規定したのであると考えるのが、一番正しくイエスの教えを理解する事になると考えられる。

イエスの言葉は色々な意味に於いて唯物論的に解釈されやすい危険にあるが、彼の言葉を本当に理解しょうと思えば、深い精神的な生命観の光に照らし出して悟読しなければならない。「天国とは
此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにはなく、汝の内にある」と言ったイエスの言葉に根拠をおいているようなのです。

「来世」と云う意味での「天国」についてはユニテリアンはあまりはっきりした態度はとっていません。事実ユニテリアンにとっては、来世の問題は未解決な問題になっています。彼らは来世よりも現世に興味を持っているからなのです。来世の問題について考えるより前に、現世を如何に立派に生きて行くかが問題だと言っています。

彼らは問題の解決を焦っていません。何でも神秘的に考えないで合理的に考えて行こうと云うのが彼らの態度なのです。彼らの考えによると、如何なる人も完全に善き人である事も、完全に悪しき人である事も出来ない。だから、若し来世があるとすれば、天国と地獄といった判然たる区別のついた世界に入って行く事は出来ない筈で、そこには何らかの形の連続性がなくてはならないとしています。

そこには人間性の複雑なる混淆がなくてはらない。それが少なくとも来世の生活と呼ばれる以上は動的な進歩の流れ、即ち光が闇の中を進軍して行く過程がなくてはらない。そこには決して飛躍はあり得ない。それは必然的に闘争と対立と進歩とを包含するのである。人間の魂を一定の型にはまった進歩なき円満状態でいる事で満足して、常にそれに止まり発展しない様な天国があるならば、もはやそんな天国は、神の意志から離れた存在である。

そしてかかる神の意志から離れた存在などはあり得ない、かかる世界は「生」の世界ではなく、むしろ「死」の世界である。肉体的な死よりも尚悪い、「魂の死」なのである。こういう意味で、静的円満完全な天国が来世にあると云う考えを否定しているのです。

つづく
 
     <平成29年5月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (6101)
日時:2017年05月02日 (火) 10時12分
名前:平賀玄米

 
又もし来世があるとすれば、それは或る意味に於いて社会的存在でなくてはならないとしています。そこでは、個人はこじんとしてのみ享楽したり苦しんだりするのではなく、地上に於けると同じく社会的生活の内に於いて或は苦しみ、或は喜ぶ世界でなければならない。

そこでは人と人との間の愛のない天国は考えられない。どうせ我々がこの世で考え得る概念は、凡て現世の生活体験を基準にしての考え方であって、もし来世が現世の観念と全然別な、全くかけ離れた想像を絶したものであったなら、我々はそれに就いていくら考えても無駄であるし、第一考える事すら出来ないし考え得ても、我々はそれを表現する言葉を持たないだろうと言っています。

或る人々は、生命の不死を説明して、物質は永久に原素的には不滅であり、又生命も、それが後に続く生命に影響を与え続けて行くという点で不滅であると言いますが、それでは我々の認める個体生命、生命の人格的継続と云うものがなくなります。個々の生命は、それが生命である以上、それが個々である点に何ら彼の意義がなくてはならない。ユニテリアンはそれ故かかる解釈には満足しないのです。

また一方、心霊科学の問題があるが、ユニテリアンは霊界通信なるものの科学性を信用していません。「心霊科学は自分では一個の科学であると思っているかも知れないが、科学とは左様に甘い条件のものではない。科学的操作はもっと厳密な装置と説明と客観性を要求する。又心霊科学は霊界人の存在を科学的に立証するまでには至っていない。」と言っています。

しかしとにかく人間の心の底には、誰もが生命の不死、永遠の生命を求める声がある。ここに何らかの意味がなくてはならないとしています。単に一時的の生命の現れが地上から消えると同時に我々が無機物となるという事は、人間生命の不死の内的要求から考えられない事である。

もし魂の尚次第に向上する来世がないならば、それでは何のための人生であるか。何のため我々は悩み苦しみつつ、より高い魂の発展を求め続けるのかが意義をなさぬことになります。しかも人生というものが完全でない以上、来世があるとすればそれは完全なる天国ではあり得ない筈である。

完全さがもたらされた時、そこには既にゴールがなくなり、生と動との目標が消える。それは完全なるものの否定である。その意味で来世があるとすれば、現世との関連に於ける生命の動的発展過程でなくてはならないとしています。

つづく
 
     <平成29年5月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (6125)
日時:2017年05月03日 (水) 17時01分
名前:平賀玄米

 
       (十四)

最後にユニテリアンの神についての概念をまとめて言えば次のようであります。先ず神は唯一つなる絶対的存在である。キリストの教えそのものがそうであったし、またこの世界が統一ある調和ある法則にのっとって行くためには、必ず唯一神でなくてはならないとするのであります。そしてその絶対者なる神を人間の「考える心」の外にある存在として理解するのです。

つまり、神は「我々自身ではないある存在」であって、宇宙を秩序だて、その秩序の宇宙に於ける我々の眞の位置を明らかにするには、何が必要であるかという我々の最高理念を形成し、まとめてくれるものだとするのであります。

即ちユニテリアンの神は超絶神であり、實在であり、決して人間が作った仮説ではないのである。ところが次に、かく考えると同時に、我々の外にあり、宇宙の外に立つ神が、同時に我々の内部に潜み、宇宙の内部に存在するということは厳たる事実であります。かかる神の二重性が認められなくてはならない。この二つの観念は普通の現象的言葉によれば同時に承認する事は出来ない観念である。

そこでユニテリアンは、イエスが言ったあの原始的言葉「神は霊なり」の考えに帰るのです。霊であるから現象界を超越しながら、吾々の内奥に宿っていることが出来る。かくして神は超絶神であると同時に内在的(普遍的)な存在として理解されるのであります。この神の唯一性と、神の超越的内在性とがユニテリアンの神についての根本概念でありまkす。

更に彼らによれば、思考は言葉の上にその基礎を置き、人間の言葉は又現象に即した存在であり、それは人間観念のカテゴリーを超える事は出来ない。従って、人間観念の衣を着せられて述べられる神なる概念は、決して真に神についての正しい表現を伝える事は出来ないのです。

そこで、ユニテリアンが、神についての伝統的表現として力とか智慧とか愛とかと云う表現を用いるのは、かかるカテゴリー以上の表現がないからなのであって、必ずしもかかる三つの要素をもって、神そのものを定義しているのではないのです。

つづく
 
     <平成29年5月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)D  (6158)
日時:2017年05月06日 (土) 15時05分
名前:平賀玄米


またユニテリアンは神を「父」なる言葉で称呼ぶ事を好みます。それによって人間と神との、関係が最も端的に表現されると考えるからであります。愛の問題についても、又礼拝の問題についても、我々の神との関係は、父子の関係の如くに、直接的で自由なのであり、これ以上適切な表現は見出せない。父と子なる関係の間には如何なる権威者も、犠牲も命令も、宗規も入り込む事の出来ない程の密接なる関係なのであります。

又一方ユニテリアンは神を創造者と呼んでいますが、彼らの云う創造者とは創世記第二章にある様な外的創造者とは認めません。実際の創造活動は宇宙の凡てにわたって永遠の今、遂行されつつあるものであり、又実際の創造活動はロゴスによって営まれるものであり、そのロゴスは万物の内に内在して今も現に創造活動を続けているのであります。

かかる意味に於いて、凡て神の創作り給うたものであり如何なる微小なる存在も、その神の発展過程たる完全性と規則正しき永遠の創造性のためには必要欠くべからざるものとして顕れて来たのだとするのです。

ユニテリアンは又神の観念の中に「法則」の観念を内在せしめます。、神の意志と神の法則とは矛盾しないものとしています。凡ての人間の闘争の彼方に、何か他のより高い法則、我々が地上の体系の中に求めようとして求め得られない、凡てを包含する最高の法則のあることを想望して、この最高の法則をば、「神の意志」と呼ぶのです。かく呼ぶ事によって彼らは神を限定しているのではない。人間は、自分の意志を神の法則に一致させよとする時にのみ、人間は自分の生活を神の意志に随順せしめ得るとしているのです。

かくてユニテリアンの信ずる「神」は、超越的実在であり、――また唯一者であり、力、智慧、愛、法則等の種々の言葉で仮にあらわしたところのものの本体であり、しかもそれが吾らの内に、凡てのものの内に内在して吾らを導き給うところの最高の統一者たる實在なのであります。

奇跡を否定したところと、来世及び天国について明確なる観念を持っていないところとを除いて、殆んど全く吾ら生長の家の光明思想と一致していると云うことが出来るのであります。

今回にて第五章「光明思想の先駆者たち」完。
 
     <平成29年5月6日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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