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松山東高等学校S44年卒・お便りコーナー

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[1225] 題名:熟田津物語RM6

投稿日:2021年10月15日 (金) 15時23分

名前:影浦秀人 MAIL

お待たせしました、大分ごちゃごちゃしていたので、再編集しました、お楽しみいただければ幸いです。

熟田津物語 2021                   三金会とその仲間たち

「石手の江仮説」見参!!                   
                 
プロローグ 
伊予ノ国人であれば、誰もが知る万葉歌に「熟田津の歌」がある。万葉集巻一の八・額田王の作とされるこの歌には注記があり、熟田津の所在地を「伊予石湯近く」としている。この「伊予の石湯」とは道後温泉であと、衆目の一致するところだが、その近郊にそれらしい湊は見当たらず、と言うか海岸線からは随分遠くなっており、現在比定地が未確定な状況にある。この候補地を巡る論争を、伊予ノ国では熟田津論争と呼び、江戸時代から延々と攻防が続いている。ところが近年、妄想史学界の雄「古田史学の会/九州」より北九州・遠賀川流域の新北ニキタ説が提起され、松山人を唖然とさせた。さりとて「松山は、ここに決めた」とも言えず、にらみ合いが続いている。(2007年頃の話)
松山をこよなく愛する三金会とその仲間たちは、この論争に決着を付けるべく轡を並べた。Web情報の海、妄想の丘を越え、眼下に広がる「まぼろしの湊/熟田津」を垣間見んと、メール議論を開始した。推理の展開は、多少マンガチックに傾いたが、到達した結論は「馬上扇的を射落とした気分」と記しておく。熟田津は古代と変わらずそこにある、ただし見えない。
そもそも「熟田津」とは何か、そこから話を起こすことにしよう。

〇三金会とは、松波君が単身赴任で大阪へやって来た(帰って来た?)ことから、旧知の仲間から「月に一回食事会をしよう」という話になり、第三金曜を開催日としたことに因む。その雑談の中で、「熟田津論争はもう終わったのかな」と話題になり、情報を集め始めたことから、「それなら決着を」という展開になった。主なメンバーは、松波・川原‣仙波・渡部修・矢木・宇佐美・影浦等です。その仲間たちとは、当然松山在住者の情報が必要で、中川・渡部健・渡部暁等の協力を得た。


1.古記録としての熟田津
@ 万葉集巻一の八
後岡本宮御宇天皇代
天豊財重日足姫天皇位後即位後岡本宮
額田王歌
熟田津爾 船乗世武登月待者 潮毛加奈比沼 今者許芸乞菜 
読み/熟田津に 舟乗りせんと月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな  

 万葉の秀歌として名高いこの歌、パノラマ的な場面設定と動的なモチーフ、勇壮な仕立て、そして詠み人が「あの人/紫の匂える妹」ということもあり、すべてが揃った歌と評されている。また、この歌は、大和の百済支援軍が、伊予の熟田津から筑紫へ向かう船出という歴史的事件を背景にしており、詠まれたのは斉明7年・661年3月22日(旧暦)頃とされている。

A 日本書紀巻二十六・斉明紀
斉七(661)正月甲辰8 御舩到于大伯海時 大田姫皇女産嫣。仍名是女曰大伯皇女。
斉七正月庚戌14 御舩泊于伊豫熟田津石湯行宮。熟田津此云 爾枳陀豆(ニキタツ)。
斉七三月庚申25 御舩還・至于娜大津、居于磐瀬行宮。天皇改此名、曰長津。

第2行目は「斉明7年1月14日、御船は伊予の熟田津(ニキタツ)にある石湯の行宮において泊まる」と読める。この「石湯」が、現在の道後温泉とするのが定説であり、温泉の西側には御幸(行宮の伝承地)の地名も残っている。
斉明天皇の御船は2ヶ月程度石湯行宮に滞在し、3月25日筑紫の娜大津(那の津)に到着している。行程を考えると3日程度の航海と推測されることから、3月22日夜半が出航の日として有力です。また、松山沖の潮の流れは、現代においても、朔から数えて22日目頃西行に変わる、とのことです。
日本書紀の編集作業をしていたと思われる7世紀末、この歌は既に人口に膾炙しており、知的エリートである史書編集者は、よく知っていた可能性が高い。詠み人があの人であり、かつこれほどの作であことを考えれば、歌のイメージが先にあり、それ故「伊豫ノ石湯」とせず「伊豫ノ熟田津ノ石湯」と表記した。そして歌詠み人のために、注記として「此云 爾枳陀豆(ニキタツ)」と音を載せたと考える。(松山ではニギタツと濁る)
 万葉集には、もう一首熟田津ノ歌が載せられている。

B 万葉集巻三の三二三
(長歌は省略)
山部宿祢赤人至伊豫温泉
百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為 年之不知久
読み/ももしきの 大宮人の 飽田津に 船乗りしけむ 年の知らなく

「ニギタツに船乗り」とくれば所謂本歌取りであり、額田王に対するオマージュとしてこの歌は詠まれている。赤人と言えば「田子の浦」が有名だが、この歌では晴れやかな表現はなく残念という気持ちを滲ませている。彼は前段の長歌で「射狭庭イサニワの岡に立ちて歌思い←八番歌はここからの眺めを詠んだものという伝承があった?」と書いており、熟田津はそこから見えたと考えられる。ところが「船出した年のことを、もう誰も知らない→残念」と繋がる。赤人がこの地を訪れたのは730年ころとされ、額田王の歌から70年後となる。確かに3世代も過ぎれば、月明りの船出を体験した人は残っていなかったでしょう。ちなみに射狭庭の岡とは、現在の道後公園湯築城址(14世紀初頭築城)です。また、「熟田津」とせず「飽田津」と表記を変えたのは、地元での発音に合わせたものと思われる。なお、古文献に登場する「熟田津」は上記の3例のみです。
九州勢は、この「もう一つあるニギタツの歌」を、失念していたのではないか。70年後の高名な歌詠みは、歌枕として伊豫温泉を訪ねている。8世紀の常識は、「ニギタツは、道後温泉の近く」であったことは、疑いようがない。「邪馬一国」と同じで、細部に拘った論理展開では、「ヤマイの国」へたどり着いてしまう。以て、他山の石とすべきか。


2.地名学的アプローチ
そもそも「ニギタツ」とは、どのような語源を持つのか探ってみよう。最後の「ツ」は、「湊の津」であることは明らかなので、「ニギタ」の解釈が問題となる。なぜ「ニキタ」を無視するかと云うと、google検索でも用例がなく、推理の進めようがないからです。「赤人はニキタツの読みを訂正した」と考えると、日本書紀の該当部分を編集したのは彼/赤人という解になるが、果たしてどうか。(赤人は歌号、歴史上は別名を持つ)
またこの地域の地名には、「石」の付くものが多い。石鎚・石手・石井・宮石・拓南(拓=石の手の意味らしい)などがサラッと出てくる。中でも石手寺・石手川に名を残す「石手」こそ、重要な手がかりと考えたい、少々強引だが。では、石手とは何か。よく似た言葉に岩手がある。岩手県の命名は岩手山に由来しているが、その岩手山の名は、その山容に由来している。左の手を握り、手のひらを下にして目の前に出す、右側は急峻な崖状となり、左側はなだらかな尾根状に見える、故に「岩手ノ山」なのだ。
話を元に戻すと、「石手」もまた「握った手」の可能性が高い。なぜなら、ニギタツと言葉が重なるからです。ニギタツとは、「握った手の津」の短縮形であり、それが「=石手」であったと考える。現在の地図から想像し難いが、古代においては、握った手の形をした大きな入江が松山市内にはあったのだ。先に回答を見せるなら、それは右手で石を作り、親指を立て少し左に傾け、手の平側を目の前に出す。それが幻の「石手の江」の形です。JR松山駅付近には、「宮」の付く地名が多い。鍼灸の世界では、手のひら中央のツボを表す言葉が宮です。参考までに。

〇僕の姓「影浦」の第一集積地は松山市なので、この地に起源を持つと思われるが、それらしい伝承は伝わっていない。「浦」が付くので海岸地域の地名だと思うが、それらしい場所も確認できない。ニギタツとよく似た状況にある。この論考を進める中で、ひょっとすると同じものかも、と考えるようになった。実家の近くには「日浦」という姓があり、合わせると、細長い入江に向かい合って存在していた集落の可能性が出てくる。東岸に影浦、西岸を日浦とし、東岸の奥に30m程度の断崖があったとすれば、朝の陽光が西岸を照らす頃、東岸はまだ闇の中、海から見ると影ノ浦に見える。そしてこの両岸を含むエリアをニギタツと呼んだ、のかな。東側にある断崖、それは石手の土手、それ以外ない。
僕の御先祖さまは、ある事情により彼の地に住めなくなり、移住先として砥部を選んだ。着いた先で「どこから来たの」と問われ、影浦と答えた。「そう、じゃああんたは影浦さんだね」となった、のかな。


3.地形学的アプローチ
古代の津/湊の標準的なモデルを考えると、大きな川の河口付近、満潮潮位の到達点を少し遡った辺り、かつ入江状の地形により外海の波浪を遮断できる構造を持つ、といった要素が浮かぶ。熟田津の場合、倭国の軍事拠点、かつ海外遠征軍の兵站基地であったと考えられる(2ヵ月の滞在は軍装を整えるため)。そして、この湊の最大係留船数は千を超える(磐井ノ乱の倭軍は6万人規模、話半分でも3万)と想定されるが、残念ながらこのような規模の入江は松山エリアでは見出せず、論争が百年も続く要因となっている。
筆者は「熟田津は、倭国の軍事拠点、かつ海外遠征軍の兵站基地」と断定している。日本総鎮守を名乗る大山祇神社の創建者であり、この湊の運用者でもある越智氏/伊予津比古を考慮にいれ、推理を進めることにする。

[熟田津の予想される立地等]
@射狭庭の岡から見える→赤人の長歌
A内海である→引き潮に合わせた船出
B越智の本貫地「石井の郷(現松山市越智町)」から遠くない→越智氏のマザーポート
C大きな川が流れている(現在から見ると流れていた)
D現在は海に面していない→海岸を探した先人は発見出来なかった
E地名に痕跡を残す
F弥生の海水面は5・6m程度高かった→考古学的所見/思わぬ所が海
G遺跡は発見されているが、港湾としては認知されていない 等

いささか卑怯な展開であることは自認している。先に結論があり、それに合わせた条件を提示しているとも言えるからです。ただ、これらの条件の持つ合理性が、検証のポイントであることも事実であり、今後の議論の材料として設定している。「私はここだと確信している」だけでは後に続く議論にもならず、検証を試みる人も出ない。発掘も含め幾多の検証を重ねることにより、熟田津に至る道を発見できればと考える。
これから先は、地図を見ながらでないと理解が難しい。地名だけで推理をイメージ出来るのは、この地で育った人だけでしょう。まず、イメージし易いよう呼称を付ける。勝山(城山)以東、かつ現石手川の土手までのエリアを道後温泉にちなみ「湯の平」、土手以南の旧久米郡を石井の郷にちなみ「石の平」、そして勝山から西のエリアを「宮の平(宮田・宮西・宮前・内宮等の地名による)」と名付ける。標高は高い方から、石の平→湯の平→宮の平の順となる。そして、3つの平の真ん中に、丸い円で勝山/城山をイメージしてください。
究極の問題は「C大きな川の流路」です。上古における川の流れを合理的な解を以って説明できれば、その他の条件はさほどのものではない。
川の流路は、時代とともに変化するものだが、それは平野部でのこと、水系としては万年単位でも変わるものではない。この地を潤す主な水系は次の二つ、祝谷水系・石手水系です。両者とも暴れ者だったらしく、今日見る流路は人為的なものに置き換わっている。
まず祝谷水系から見てみよう。道後山系と御幸寺山系との間を流れ出た祝谷川は、「湯の平」に形成された扇状地へ至ると、すぐ斜面を横断し西行に流路を変える。そして御幸寺山の裾野を直進、山越ではほぼ直角に曲がり、堀江に至り海に注いでいる。自然の力では中々このような流路は生まれない。記録に残っているかどうかは別にして人為の成せる技と考える。
では、上古における流路はどうか。「湯の平」に入った祝谷川は大きな障害物が無ければ(現在も無いが)直進し、道後山系から半島状に突き出した射狭庭の岡に到達、そこで岡をなめるように南町電停付近へ、若干流路を変えたと考える。
次は石手水系、ご存知の通り、こちらは流路変更の記録が残されている。慶長5年(1600年)、賎ヶ岳七本槍の一人加藤嘉明が関ヶ原の武功により当地を拝領、松山城を築城することになる。このときの普請奉行となったのが足立重信、現在見る重信川(旧名・伊予川)、石手川(旧名・宝川)を改修し、松山市内に安寧をもたらしたとされている。改修以前の石手川は平野部へ出たところで久米側の山裾に当たり、ほぼ直角に流路を変え、「湯の平」へは北行(石手寺往古図/湯築城資料館)で入り、こちらも必然的に射狭庭の岡を目指すことになる。現在岩崎町と呼ばれる地名は「射狭庭の庭先ニワサキ」から変化したとされており、ほぼ陸地であったと考えられる。また、湯渡町の地名は旧久米郡側から温泉へ行く場合、この地から川を渡ったことを示しており、ちょうどこの二つ地名の間、持田町辺りが古石手川/宝川の本流ということになる。そのような目で見ると、松山商業高校と松山東高校の間に御宝町という地名が残っており、これを本流の痕跡とすれば、東高グランド南西隅にあった柳の巨木/青柳は、宝川右岸堤防の名残りとなる。
合理的に考えれば「射狭庭の岡の庭先の先(現在の愛媛銀行本店付近)」で両水系は合流していたことになる。そして、この合流した大河(仮称/古石手川)が、何所へ向うか、が問題となる。「湯の平」の水は、より低地の「宮の平」へ向うことになるが、考えられる選択肢は次の二つ。

A 勝山の北回廊(現文京地区経由)
B 勝山の南回廊(現中の川経由)

水は低きに流れる。筆者の解は「B」です。その判定理由を列記する。

@「湯の平」の地形は射狭庭の岡の尾根筋に合わせ南西に向って傾斜しており、古石手川がこの舌状地形をトラバースしながれ城北へ向うという設定は非合理。
A上古においては、勝山の裾野(仮称・東雲神社尾根)が上一万方向へ突き出ており、古石手川が城北へ向うとすれば障壁となる。
B勝山町交差点の海抜は上一万交差点よりも低い、と思う。(確認要)
   
◆ この記述に関し、松山在住のメンバーから、市役所の治水データが送られてきた
[勝山通り海抜データ]
@上一万交差点    32.175m
A勝山交差点      28.687m 
B永木交差点      27.75m
予想通り、水がAから@へ向かう可能性はない

C地学的に、勝山は御幸寺山系に属すると推測されることから、御幸寺山との間に馬の背状の鞍部が形成されていたはず。故に、このピークの向う側を「山越」という。→「湯の平」からは坂を登るイメージ →水は登らない
D城北・愛媛大学構内には文京遺跡があり、当地の弥生遺跡としては最古(2・3世紀の頃)とされているが、大河の押し寄せる危険なスペイスを最初の居住地に選ぶのは不合理。
E勝山と射狭庭の岡は別山系であり、祝谷構造線を延長した谷間を形成していたと考える。この谷間の流れが祝谷川、或いは古石手川として「永木の交差点(勝山通りと11号線が出合う場所)」へ向うのが合理。→現石手川の土手は、古石手川の河岸段丘
水は低きに流れる。祝谷・石手両水系の水を集めた古石手川の流れは南行し「石の平」の裾野にぶつかり、淵を形成する。それが永木交差点です。そしてここから湊町・千舟町の地名が始まる。そう我々の推理は、やっと熟田津の東端にたどり着いたことになる。
熟田津は、湊町一丁目から六丁目、即ち中の川の地下10〜15mに眠っている。湊町が岸であり、千舟町は入江或いは大河の淀みと推理する。@の条件「射狭庭の岡から見える」が正解ならば、この辺りまで船の航行が可能でなければならない。この解は@BCDEの条件を満足する。
城北には事実として西行する湯山川・大川があるではないか、という意見が聞こえて来そうだが、これら二つの川はいずれも運河であり海から船を直接「湯の平」へ運ぶため開削されたと推測する(そのため直線を多用している)。大川の流れを御幸寺山の裾野でトラバースさせたり、半島状になっていた射狭庭の岡を開削し環濠を巡らせたのは、流路を西行させるための高い水源が必要であったことによる(海抜は約40m)。なぜこのようなものが必要になったか、それは熟田津の埋没と考える。
「湊」「千舟」といった地名が何時からのものか判然としないが、素直に考えれば「そこに湊があり沢山の舟が浮かんでいた熟田津の頃」となる。これを覆す資料があれば、この仮説は成立しない。
古石手川が千舟町一丁目から淀みを形成し内海と繋がっていたと仮定すると、外海との出入り口は「宮の平」の最低位地となる。これは簡単に発見できる。現在の中の川と宮前川は南江戸四丁目で合流し、岩子山と弁天山の谷間を抜け三津へ向う。この谷間の海抜は5m程度と思われるが、上古からの海面降下(或いは大地の上昇)及び土砂の堆積を加味すれば、この地が海峡であったことは明白です。それを示すように、この地の地名は「入江の戸口」、すなわち「江戸」となっている。ちなみに、中ノ川の川筋が石ノ手の親指ラインに符号する。

〇この「石手の江」を見晴らす絶好のビューポイントがあるので紹介する。市内南江戸町にある松山市考古館、その駐車場に車を置き、裏山である岩子山へ向かう、中腹まで登ったところに小さな祠があり広場になっている。ここが古代の展望台で、眼下に麗しの石手の江・ニギタツが確認できる。目を閉じればね。

〇第1章で「ニギタツ」の用例は3件としたが、疑わしい案件がもう1例ある。物部氏の歴史を記したとされる先代旧事本紀には、彦饒田ヒコニギタという人物が登場する。ツは付いていないが、普通に読めば「ニギタ(ツ)を司る者」となる。物部氏は大和朝廷のNo2、軍事を統括する氏族(本貫地は河内国)ですから、偶然の一致だろうと思っていた。ただ上記のとおり「ニギタツは倭軍の兵站基地」が正解ならば、物部宗家とのホットラインは、当然構築されていたでしょう。このラインを統括していたのが彦饒田であるなら、妥当なネイミングとなる。そこでもう少し詳しく読み込むと、驚いたことに彼の母は「越智生胡桃オチノイクルミの女ムスメ」となっている。越智生胡桃とは生目/生久米のこと、歴史上は大久米命と呼ばれた人物、お椿さんのご祭神の一人です。彼は、伊予津彦の孫なのだ。
後年彦饒田は、祖父の地ニギタツに入り、大将軍として倭軍を率いた。なぜなら、松山に墓があるから。ここもかなり見晴らしがよく、戦勝の将軍らしい名前が付いている。伊予国での彼の呼び名は「味耳ウマシミミ/父方の姓」、西暦170年代のお話です。


4.「石手」は封印された言葉
内海の形は、すでに述べたとおり「石手」なのだが、その後の伝承において、この言葉は微妙に避けられた形跡を残している。ニギタツをニキタツと注記し、石手ノ湯を石ノ湯と表記したのは、日本書紀編集者の意思とするなら、「石手・ニギタツのことは忘れてくれ」と言ってることになる。なぜか。
これは、やはりニギタツが「倭軍の兵站基地」であったことが原因ではないか。白村江の敗戦により、倭軍は壊滅状態となり、外交の選択肢として軍事力は使えなくなった。もう二度と「ニギタツに船乗りする」ことはない、という平和主義への転換を意識しての事と想像する。
石手寺の寺号についても、紆余曲折があった。石手寺の社伝によれば、14世紀湯築城主河野氏の子息が「石を手に持って生まれた」ことを吉として、それまでの安養寺を改名したとある。どうも本来の意味を隠蔽するための、創作された言い訳に聞こえる。石・石手には上古に遡る由来がなければ、このような広がりを持つ展開とならない。
この寺を石手寺と呼ぶため、この説話は創作されたと考える。元々このエリアは石手と呼ばれており、何らかの理由により呼称を封印させられたが、13世紀末元寇の役の武功により、この地を再拝領した河野氏(越智氏の本流)が上古の地名を復活させたと考える。

◆ 衛門三郎の伝説
「石を手に持って生まれた」話は創作としたが、伊予国では有名な「衛門三郎の再生伝説」の一部として語られている。
伊予国の荏原郷(現在の久谷付近)に衛門三郎という強欲な長者がいた。ある日、旅の僧が托鉢に訪れるが、強欲な彼は「乞食坊主に与える物はない」と叩き出してしまう。その翌日から奇怪なことが起こり始め、八日間で八人の子供が死んでしまう。長者は泣き叫ぶが、その夜夢を見る。夢枕に立った旅の僧は「総ては悪行の報い、情け深き人になれ」と諭す。旅の僧が弘法大師であることを悟った長者は、大師の後を追い四国を巡る旅に出る。四国を巡る旅が21周目に入ったとき、彼は阿波国で行き倒れるが、その臨終の意識の中に大師が現れ、「罪は解かれた、この世に望みがあるなら申してみよ」と話かける。長者は喜び「次に生まれるときは国司の家に生まれたい」と言い残し落命する。大師は「衛門三郎再生」と書いた石を持たせ・・・・・

この話は、河野氏の子息が衛門三郎の生まれ変わりとして「この石を手に持って生まれた」と続くが、本来この説話は落命のところで終わっており、「何とマー強欲な、弘法大師が諭し修行を積だとしても、人間の本性は中々変わらん」という落ちの方が納まりがよい。伊予の知恵者が「国司の家に生まれたい」というプロットに着目し、再生の話を追加編集・流布することにより、「石手」の新しい由来を獲得したと考える。日本書紀の編集者がよく使った「上書き保存」作戦への意趣返しと深読みしたい。


5.熟田津の埋没
現代に生きる我々は熟田津を見ることはできない。この仮説が正しければ1300年前のある日、一瞬のうちに地中に没したと推測される。その事件は日本書紀に大地震の報告として記録されている。

[日本書紀第二十九巻 持統紀]
天武一三(684)十月壬辰(14)
逮于人定大地震。擧國男女叫唱、不知東西。則山崩河涌、諸國郡官舍 及 百姓倉屋 寺塔神社、破壊之類 不可勝數。由是人民 及 六畜多死傷之。
時 伊豫湯泉沒 而不出。土左國田苑五十餘萬頃沒、爲海。
読み/天武天皇13年10月14日(684年11月29日)人が体験したことがないほどの大地震の知らせが届いた。 <中略> この時、伊予の温泉は埋もれ、湯は出でず。土佐の国の田畑は五十余万ばかり傾き没し、海となる。

現代の地震学者が白鳳大地震と名付けたこの地震、土石流と思われる被災により伊 予の温泉が埋れてしまったと報告している。地形的に見れば、祝谷川上流で発生した土石流が原因と思われるが、石湯を埋めただけではなく、熟田津まで一気に駆け抜けたと想像する。また、この現象は祝谷水系だけでなく、石手水系でも起こったと見るべきでしよう 流域面積・土石流被害の規模を考えると、こちらの方が大規模でなければならない。松山市内の発掘調査では、しばしば河原石の堆積が報告されているが、その多くはこの時の土石流と思われ、「湯の平」にいたっては、ほぼ全面が河原化した(庭先が岩崎に変わった/松山人はこんな時でもヨモダが出る)と考えられる。熟田津は、大地震により発生した土石流に襲われ、幾多の犠牲者とともに、永遠の眠りについたことになる。(マザーポートを失った越智氏は、その後風早郡河野庄へ移る)
石手寺の創建は神亀5年/728年(伊台村誌では和銅5年/712年)、寺伝によれば伊予国の太守・越智玉純の建立としている。未曾有の大惨事から40年が経ち、復興事業の完了と、石手の江に眠る犠牲者の追悼施設として、この寺は計画された。だからこそ、彼らは「石手」寺を名乗りたかったのではないか。熟田津を見下ろす岡の上、そして万灯夜、石手寺は慰霊の場所としてふさわしい。 
      

6.運河説から石手の江仮説へ
「湊町」が熟田津に由来するという説は新しいものではない。松山では運河説と呼ばれ、中の川 は元々大きな運河であり上古においては熟田津と呼ばれた、「湊町」の地名はこれに由来する、という説です。この説が決め手を欠いた要因は海抜にあった。歌にあるように引き潮で船出する湊として、海抜20m以上ある湊町は該当しないと判断されてきた。本稿では、運河ではなく石手の江に繋がる古石手川の淀みとし、海抜10m程度の熟田津を土石流が襲い、10m以上の土砂を堆積させ現在の海抜となった、と推理した。この説を石手の江仮説と命名し、諸学の検証を待つことにしたい。

   
7.結びとして
小学生時代の遠足で城山に登ったとき、「昔はお堀のとこまで全部海だった」と聞き、驚いた記憶がある。今思うに、先生ではなく伊予鉄バスガイドさんのご教授であったと推測されるが、伊予鉄バスガイド教本?には、「お堀まで海」の記述が在ったものと思われる。このような伝承の中には熟田津に関するモノも沢山あったと想像されるが、松山人の多くは、もう熟田津は見つからないと諦めぎみです。だが、しかし、それでも、知への好奇心が我々を駆り立てる。インターネットという新たな武器を手に入れた三金会とその仲間たちはメール議論を重ね、波乱の一石を投ずべく妄想力を磨いた。勝手な意見陳述が交差する中、妄想の霧は少しずつ薄らぎ、そして石手の江が見えたとき、記憶の底に沈んでいた城山の驚愕を思い出した。我々が垣間見た入江が、まぼろしではなく、叡智の海であることを願いつつ筆を置くことにする。
    
最後に、額田王への反歌を捧げたい
   
 熟田津に 千舟送りし いにし江の 我にとどくや 櫂の音玉                

―おしまい―

〇質問があればどうぞ
〇もう一つ書いておきたいことがあるので、リレーは別途
 海稲先生について書きます 記録の意味で


[1224] 題名:番外編 健康管理にご注意

投稿日:2021年10月15日 (金) 09時06分

名前:郷田一雄 MAIL

こんにちは東高同窓会幹事,兼44卒同期会幹事の郷田一雄です。
皆さんご無沙汰しています、お元気でしょうか。
コロナの影響で同窓会も学年同期会も2年連続延期しています。
同窓会事務局長井出さんが「12月に臨時役員会を開催」予定。
そう言っていました。役員の皆さん決定次第連絡致します。
少し前からリレーメッセージをしているようですが、
役員会のお知らせをさせて頂きました。
ついでに健康管理「高血圧にご用心」をお届けします。
9月4日小学校からの友人が職場で亡くなっていました。
早朝の清掃に入った方が発見し119番。死因は脳溢血でした。
前夜3日18時から56分ライン電話、その後ラインのやり取り。
最終は19時45分。自宅へ帰らなかった様子。
後日長男の方から「血圧の薬を服用してたが、下が高かった」。
私の長時間ラインが命を縮めたか?悔やまれます。
私も高血圧で降圧剤を服用、毎朝血圧測定。2週に一度医者へ。
3年前に妹が路上で脳卒中の発作、通行の方が119番。
早期治療ながら脳幹に血腫があり要介護5、私の妻が成年後見人。
高血圧の皆さん血圧管理を適正に行って下さい。


[1223] 題名:リレーメッセージの受託について

投稿日:2021年10月11日 (月) 17時09分

名前:影浦秀人 MAIL

ネパール帰りの影浦です、今日は清家さん夫妻とゴルフに行ったんだげど川原君が来ていて「指名したよ」と言われました。ぼくは緊張してしまい、続けて3パツ池に打ち込んでしまいました、意地になっては良いことなしですね、まー何か載せようと思うのでしばらくお待ちください。
以前関西グループでまとめた「饒田津物語」てのがあるのでファイルを探してみようと思う、でも10年前なので?



[1222] 題名:近況報告(リレーメッセージ番外編)鎌田正城と6人の仲間たち

投稿日:2021年10月11日 (月) 00時53分

名前:島田康一郎 MAIL

ご無沙汰しています。
宇佐美君から、宮石君の後に書いといてと依頼がありましたので・・
私は、60歳で住友生命を定年退職して、故郷の徳島で週1ゴルファーとして元気に過ごしております。
鎌田君が亡くなって、1年が過ぎました。鎌田君とは、東高1年4組で一緒になって以来、55年近く親しくしてもらいました。
私は、高松の中学からの受験だったので、クラスには知り合いがいませんでいた。(ちなみに、同じ中学から宇都宮孝宣君が一緒に受験して、彼が受験番号1番、私が2番でした)入学時から、人気者の鎌田君の周りには、いつも人が集まっていました。私もその一人でした。そのうちに、鎌田君を中心に、宇佐美君、清水勲君、私、関本安得君、藤田登志夫君、それにクラスは違っていたけど鎌田君の道後中学仲間の北岡孝夫君が集まって、地理の上甲先生の元で地理部を作り活動していました。活動と言っても、週末に農事試験場のテニスコートや鎌田君の家の前の広場に集合して、7人で三角ベースをしたり、藤田君の家の近くの卓球場で卓球をしたり、3か月に1度、奥道後温泉の無料チケットを集めて映画鑑賞と温泉三昧でした。
卒業後は、それぞれの下宿を泊まり歩いたり、帰省時はまた卓球。
関本君と万博に行った折り、京都の宇佐美君の下宿に泊めてもらいました。鎌田君と混浴湯原温泉に行ったけど、残念な結果になって帰ってきたこともありました。
大学3年の10月、就職試験のため上京した鎌田君は、私の下宿で寝泊まりしながら、試験に行っていました。私は、東京の地理に不案内な鎌田君に同行して数社を回りました。その一つが、私が就職をした住友生命でした。私はすでに、都銀と政府系金融機関の結果待ちの状態でしたが、ひょんなことから鎌田君と一緒に住友生命の入社試験を受けることになり、結果的に住友生命入社、鎌田君は興亜火災に入社しました。鎌田君が上京していなければ、私は別の一生を送っていたかもしれません。
就職してから、関本君と北岡君が亡くなられました。
松山であった鎌田君の結婚式に参列、徳島であった私の結婚式に鎌田君がきてくれました。
お互いが東京勤務の時期には、定期的に食事をしたり、私が大阪勤務の時には、鎌田君が出張で大阪に来た時には食事をしたりしていました。
定年前に東京勤務をしていた時に、東京での同期会に誘ってくれたのも鎌田君でした。
定年後は、私は徳島に戻り3か月に1回程度上京していました。
埼玉に住んでいた鎌田君に、上京の連絡をすると、藤田君と宮石君に連絡をしてくれて、さらに宇佐美君に東京に出張のタイミングを合わせるよう連絡してくれて、集まる機会を作ってくれたのも鎌田君でした。
この2年コロナの影響で上京できないでいるうちに、鎌田君が亡くなられました。
奥さんの話によると、亡くなることを覚悟した時から、残された家族が困らないように、きちんと準備して旅立たれたそうです。
鎌田君には、いろいろな局面でお世話になりました。
ご冥福をお祈りいたします。


[1221] 題名:近況報告(仕事とだんじり祭り)「リレーメッセージ5」

投稿日:2021年10月10日 (日) 23時35分

名前:川原研二 MAIL

ご無沙汰しています。
仕事の話と岸和田だんじり祭の事を紹介したいと思います。
71になっていますが、まだ働いています。市場調査の会社に定年の後、65まで嘱託契約でいて、その後別会社に移りましたが、同じ仕事をしています。アンケートを取って集計し、報告する仕事ですが、そう聞いて、皆さんがイメージするより、多分もう少し幅が広く、例えば大阪の某テーマパークの初年度の入場者数を予測したり、改装後の某百貨店の売り上げ予測などもしていました。私の予測値はいずれもかなりいい値でした。また数年前から、宇佐美さんと一緒に、能力はあるけれどパワハラなどで引きこもりになってしまった若者に、仕事を取ってきて、やってもらうという事業も始めています。こちらは宇佐美さんの会社に籍を置いて、やっています。当然儲かる訳ではないのですが、私や宇佐美さんが営業をして、実務は彼らがやるという分担です。上手くマッチングできる仕事は少ないのですが、賛同者もいて何とかやっています。引きこもりかそれに近い若者は実に多いです。彼らが働けないのは、社会的損失ですから、いったい日本はどうなるのだ?とよく思います。
 もう一つは、私は大学から大阪に出て、29歳から岸和田に住んでいますが、岸和田には、今や全国区かもしれないだんじり祭りがあります。私は親の仕事の関係で愛媛県内を転々としていたので、特定の愛着のある街というものがありません。松山で祭りをやっている人には、何をいまさらと言われるかと思いますが、岸和田で祭りが地域の人々の結びつきを強く形成することを実感しました。2018年の台風21号で大阪南部は大きな被害を受けたのですが、がれき撤去や後片付け、単身高齢者への見廻りなど、祭礼関係者が自発的に行った事は結構たくさんあります。祭礼関係者は見かけは結構強面ですが、気のいいおっちゃん、お兄ちゃんが多く、内側に入ると実は親切というケースが多くあります。それは田舎の特徴じゃないか!といえばその通りで、私にとっては、松山でない愛媛県内を転々としていると、岸和田は大阪といっても愛媛の田舎に通じるものがある街です。
 堅い話は、この位にして、愛媛県人で余所者の私が、荒っぽくて、排他的と大阪市内でも言われているだんじり祭りの構成員に、いかにして成り上がったかを紹介したいと思います。
 今から30年以上前に私の長男が、小学校2年か3年の時に、だんじりを曳きたい(だんじりとは4トンの山車で、木の車輪が四つ付いていて、それを大体200人以上が曳いて、四つ角を無理やり直角に猛スピードで曲がります)と言い出し、それは良いとして、子供が曳く時は親が横でついて走らないといけないというルールがあるのです(転倒したら大怪我をしますので)、一緒に走ったのですが、私は東高で陸上部だったので、肩に風を受けて走る感じが気持ちよくて、「あっ、いいかも!」と思ったのが、間違いのもとでした。そうこうする内に町内会で会計の役が回ってきて、まあいいか、と受けたら、町内会の会計は祭礼の会計もやるのだと言われて、えっ!と思ったのですが時すでに遅く、止む無く始めました。その頃、丁度企業にPCが入り始めて、エクセルもワードも勉強しないといけない時期で、まあそれなら会計をエクセルでやるか!と思って領収書の入力から始めました。後から考えると当たり前なのですが、会計とエクセルは相性がよく、費目別の集計も決算書もすっとできて、当然計算間違いもない。私の前の代までの会計さんは、ほぼ100%酒飲みで、祭りだからお酒はつきものですが、お酒を飲むと大体領収書を何枚かは無くす、そして決算書は電卓計算だから、大体どこか間違える。そいう状態で、祭礼会計は大変だ、と言われていたのです。私は、お酒がダメなので領収書は無くさないし、決算書はエクセルだから計算間違いはない。そして、祭りの有力者が、会計監査をやっているのですが、彼らが私の作った決算書を眺めている間、大丈夫とは思っていても、実は強面の彼らの顔をドキドキしながら見ていたのですが、「まあ、エエやろ」と聞いてホッとしたものです。後で聞くと、例年は、会計と会計監査は、領収書の無くなった費目をどう辻褄を合わせるかという点で共犯で、私の時はその作業がなく、拍子抜けしていたそうです。という経緯があったので、私に変に信用が付き、晴れて余所者ながら、町内会ではなく、だんじり祭りの運営組織の一つである世話人会のメンバーに入ることを許されました。そうは言っても、私にやり回しなどを担当させると死者が出ますから、現場ではなく、もっぱら事務方ですが、それでも祭りの時は法被を着たり、役が付くと浴衣を着てだんじりに乗ったりしています。
余所者の私も、だんじり祭りに係ると、祭りの何日かだけではなく、一年のかなりの期間で何らかの準備や催しをやっていきます。そうすることで町内や他の町の人たちと繋がりができていき、いつしか岸和田に根を下ろしたような気がしています。
 我が家には、だんじり祭りの時に、東高の同級生が何人か、松山からも、大阪からも、東京からも来てくれています。だんじりの組織の会合(寄合いと言います)に出ていると、「ああ!彼らは年中同窓会ができるのだ!」と羨ましかったのですが、私もだんじりをネタに東高の同窓会を開くようになっていました。(今まで来ていた頂いた方々、遠い所までありがとうございました)
この2年はだんじり祭りも中止や規模縮小で、何気ない日常が失われています。来年こそは、だんじり祭りをいつもの形で実施したいと思っています。祭りそのものというより、地域の繋がりや人の繋がりが希薄になる事を恐れます。
そして、お読みいただいた方々、長々とありがとうございました。
次は影浦君にお願いします。(まだお願いしていないのですが、明日にでも頼みます)


[1220] 題名:ご無沙汰しています、リレーメッセージ(4)

投稿日:2021年10月07日 (木) 18時29分

名前:宮石 修

リレー4番手のご指名をいただきました。本欄への投稿は初めてです。なので、近況を詳しく書きたいとも思いましたが、以下のとおり近況ともつかぬ感想でお茶を濁しますのでご容赦ください。何分にも、新型コロナの第5波の収束・緊急事態宣言の解除となり、次女夫婦が、3歳の孫を連れて、ほぼ2年ぶりに愛知から帰省(上京)予定、そのため、私が占拠していた娘の部屋から退避、家具の移動、その他家内外・車の清掃の掃除、買い出しなど、今週は少々取り込んでおります。

2013年に退職した時、まだ62歳でそれなりに元気でしたのでもう少し働きたい気持ちもありましたが、これからは好きな旅行・読書を満喫できる!という喜びもありました。それから8年が経ちましたが、2回の海外旅行(米国日食観測、ブータン地質巡検)ができたのが、せめてもの成果です。国内旅行は新型コロナ発生の前までに、北海道(釧路湿原)、青森(白神山地)、島根(出雲付近の古墳群)長野(飯田のサクラ)、富山(弥陀ヶ原)、京都(落語、花山天文台)・奈良(二上山)、三重(本居宣長記念館)、熊本(阿蘇)など年1回くらい出来て、それぞれ、自然・歴史・文化を満喫しました。

その間、2014年には岡安君たちがお世話してくれている東京・新橋での同窓会に参加できたほか、折に触れて、尹、Yy、鎌田、Sm、Fjt、八木、Fjw、Mt、宇佐美の諸君(本欄に投稿されていない方は念のためイニシャル)に会う機会がありました。また、Mt君にはコンサルタント契約の件で、Kg君には古代に関する著作の送付などお世話になりました。それから、Mr君には度々写真をメールで送っていただいていますが、一度も返信せずに、すみません。この機会を借りてお礼申し上げます。(鎌田君とは再会を約束しておきながら果たせぬまま、逝ってしまいました。残念です。)

今後は、まだ見ぬアフリカ(特に南ア)、インドへ何とか行きたいものだと思っていますが、新型コロナが地球すべての地域で収束するのが先か、自分の健康・寿命が尽きるのが先か、なかなか見極めがつきません。医者になられた方に聴いてみたいです。まあ、まだ行ったことのない徳島県に行くなどして、2〜3年は国内旅行に専念するしかないですね(甘いかな?)。

そんなことで、最後に蛇足=独り言です。今も現役の方、もし引退することを検討されているなら、可能な限り現役でいたほうがいいのになあと、私は、自分の8年を振り返り、うらやましく思ったりしています。その一方、「時に及んで当に勉励すべし」の漢文4句が、近くの中学校(!)の額に掲げられているのを思い出し、元気なうちに遊びましょうよ!とお誘いしたい気もします。
ともあれ、現役の方、リタイアされた方、皆様のご健康を心からお祈りしております。

それでは、次のバトンは川原君にお願いしてよろしいでしょうか?(もし、ボランタリリーに引き継いでいただける方がいらっしゃったら、ごめんなさい。)


[1219] 題名:ご無沙汰しております

投稿日:2021年10月07日 (木) 00時55分

名前:宇佐美 悟 MAIL

ご無沙汰しております。皆さまお元気ですか。

矢木くんからリレーメッセージの三番手のご指名をいただいたので、簡単に近況報告させていただきます。思い付くままに書いていきますので、とりとめもない話しになるかと思いますが、ご諒恕下さい。

一週間ほど前、私の大学時代の友人T氏とスカイプ会議した折に、彼から『むかしのくらし館』へ行って来たという報告がありました。彼は、もともと愛媛とは縁もゆかりもない人間ですが、三十歳の頃に愛媛大学にポストを得て愛媛に移住。定年まで勤め上げ、そのまま砥部に住みつきました。その彼が、2、3ヶ月前だったでしょうか、「近所の『かかりつけ医』でワクチン接種して来たよ」と言うので、「何という病院だ」と訊くと、「豊島医院」という返事。実は、彼の自宅へは過去に何度か訪れたことがありますが、国道から彼の住まいのある地区の方に曲がる辺りに豊島医院があることに、前から気付いていました。なので、あるいはと思って訊いたのですが、まさに大正解。「そこの院長さんの兄貴はボクの高校時代の同期生だ」と教えると、「へえ、そうなの、じゃあ今度行く機会があったら院長さんに話してみるわ」――というような塩梅で、今回の『むかしのくらし館』訪問にも繋がっていったようです。
彼の報告では、「お兄さんにも会えてね、気さくで、話していて楽しい人やね」というのが豊島くんに対する評価でした。折角関係が出来たので、豊島くんにお願いですが、T氏は『日印友好協会(JAIFA)』というNPOの理事長で、日本とインドとの交流を図るための様々なツアーやイベントを企画・開催しています。この年末にはインド総領事を愛媛に招いてセミナーや地元企業訪問などを計画しているようなので、企業紹介や集客など、力を貸せるようなら貸してやってください。よろしくお願いします。

さて、そのJAIFAというNPOが主催するツアーで、私は5、6回インドへ行きました。私の他に、矢木くんや影浦くんも何度かインドを旅しています。中でも私が印象に残っている旅のひとつが、2017年にインドからネパール、そしてブータンを回った旅です。矢木くんと影浦夫妻と私の4人が参加しました。
ブータンには「虎の巣」と呼ばれる、標高三千メートル以上もある断崖絶壁にまるでフジツボのようにへばり付いている仏教寺院があって、そこは仏教聖地であるとともに、有名な観光スポットにもなっています。日本であれば、そういう場所には大抵ロープウェイやリフト設備が整っていて、下界の景色を楽しみながらのんびりとお寺詣でができるようになっているものですが、「虎の巣」にはそういうものは一切ありません。麓までバスで乗り付けると、そこから先、頼れるものは麓の売店でレンタルできる登山杖と、山の途中まで行けるという馬タクシーだけ。なので、観光ガイドさんは「自信のない方はバスに残って下さい」と警告を発しますが、遥々ブータンまでやって来て、登らずに帰るという選択肢は考えられません。
私たち4人は躊躇なく登ることに決めました。ただ私は、少しでも楽をしようとの魂胆から、馬タクシーを選びました。しかし、それが失敗でした。背の低い、太短い脚の馬に跨って、それを中学生くらいの馬子が引いて登るのですが、道幅が狭く、上から降りてきた人馬と擦れ違う度に斜面にはみ出すくらい馬が道端に寄るので、転落するのではという緊張から身体がガチガチに固まって、中腹の降馬場に着いた時には山道を何キロも歩いた以上に疲れ切っていました。それでも、降馬場のすぐ先にある休憩所から、深い谷を挟んで向かい側の急斜面に見える「虎の巣」の姿の美しさに元気を取り戻して、その後は、登山杖を頼りに無事「虎の巣」まで辿り着きました。登りだけで2時間近くかかったのではなかったかと思います。機会があれば、もう一度行ってみたい場所です。

遅くなりましたが、ここで近況を簡単に報告しておくと、仕事はまだ現役です。コロナ禍をものともせず、ほぼ毎日電車に乗って、自宅のある京都の宇治から大阪の事務所へ出勤して、一日中パソコンに向かっています。今日も8時過ぎに家を出て、私鉄、JR、地下鉄と乗り継いで神戸へ行って打合せを済ませた後、大阪の事務所に戻って20時近くまでパソコンに向かっていました。パソコンに向かって何をしているんだ?と訊かれると、なかなか説明し辛いのですが、一応、プログラムを書いています。今書いているプログラムが間もなく出来上がりますので、出来上がったらご紹介します。

最後に、ひとつ宣伝させて下さい。
私が10年以上前から企画運営している『京大宇宙落語会』というイベントがあります。宇宙をテーマにした創作落語+宇宙研究者のトークショーという構成ですが、その第11回目の会をこの11月14日(日)に開催します。テーマはずばり「コロナ」。リアル会場とオンライン配信のハイブリッド形式で開催しますので、世界中どこからでも楽しんでいただくことができます。興味があれば覗いてみてください。詳しくは、https://uchu-rakugo.jimdofree.com/ をご覧ください。

次のリレーメッセージは宮石くんにお願いしました。よろしく。


[1218] 題名:間違いがありましたので、訂正します

投稿日:2021年10月05日 (火) 21時30分

名前:矢木 眞 MAIL

下から5行目、

×松永長慶 --> ○ 三好長慶


[1217] 題名:近況について「

投稿日:2021年10月05日 (火) 20時46分

名前:矢木 眞 MAIL

近況について
ご無沙汰しています。皆様いかがお過ごしでしょうか。
豊島君よりリレ−メッセージの依頼がありましたので、少し近況報告をしたいと思います。
私は65歳までサラリ−マン生活をして、リタイヤ後は年金生活で仕事はしていません。
大阪府堺市南区の泉北ニュ−タウンにあるマンションを終の住処に一人住いをしています。
ここは世界遺産となった百舌鳥古墳群から近く、古墳時代に日本最古の須恵器を生産した窯跡がニュ−タウン建設時に泉北丘陵より沢山発掘されており、陶邑(スエムラ)窯跡群と呼ばれています。私のマンションの隣にも、窯跡が1基復元して保存されています。
そして公園が地区毎にあり公園をつなぐ歩行者用の緑道が作られているので、ウオーキングに便利でよくしています。
私の生活ですが、今年はコロナ禍なので自宅近辺で過ごしています。平凡な日々で人に報告するようなものではありませんが、それでも退屈せず毎日楽しく過ごしています。
毎朝近くの公園でラジオ体操が行われるので参加し、公園を野草の写真を撮りながら散歩します。そのあと大蓮池で野鳥の観察をします。今夏はカイツブリの子育てを毎日見ました。
ハイライトは9月に大蓮池に初めて来たミサゴです。猛禽類で魚を食べる鷹の仲間です。
体調60p、羽を広げると160-180pと大きくてとてもカッコ良かったです。感激しました。
又今夏は近くの商店街の天井に巣を作ったつばめの観察もしました。6月に5羽の雛を育てていたのですが、6/22に急にいなくなりました。他の鳥に襲われたようです。つばめの夫婦は巣の側で呆然としていました。それを見て私もショックでした。6/24に行くと前の巣の5m程離れた場所に新しい巣をもう作っていました。夫婦仲良く一生懸命巣作りをしていて、ショックで落ち込んでいたのは私だけでした。つばめの夫婦はすぐに切り替えて新しい雛を作る準備をしていて、生命力の強さを感じました。7/17-19雛が5羽かえり、8/8雛が今度は無事5羽巣立ちました。巣立ちは半日に1羽ずつ順番に巣立ちました。これは母親が雛に飛び方や生活の仕方等を1羽ずつ教えているのではないかと思いました。又つばめ夫婦はしっかり会話をしていると思いました。巣作りの時、雛へのえさやりの時、交互に連携を取って上手く行っていました。偉い、素晴らしいと思いました。
 旅行は昨年3回に分けて熊野古道を歩きました。Go to キャンペ−ンを利用して、1回目は中辺路の滝尻王子から本宮大社まで、2回目は新宮大社から那智大社まで、3回目は伊勢路の熊野市から尾鷲市までです。自然は美しく、中世からの歴史も豊富で、食べ物も美味しくて素晴らしいところでした。
 昨年の大河ドラマ「麒麟が来る」の史跡も、昨年から今年にかけて日帰りでよく行きました。松永長慶の居城高槻市の芥川山城、松永久秀の居城信貴山城、奈良市の多聞山城、筒井順慶の筒井城跡などです。史跡歩きも楽しみの一つです。
 いつまでもあちこち歩き回りたいし、また病気で苦しむのはイヤなので健康には気をつけています。皆様も健康に気をつけられて、又お会い出来ることを楽しみにしています。
リレ−メッセ−ジなので、次は宇佐美君にお願いしたいと思います。宜しくお願いします。
                                    矢木 眞


[1216] 題名:八ヶ岳から近況報告

投稿日:2021年10月04日 (月) 16時45分

名前:岡安利春

関東同期会開催見合わせの通知を上げて以来久々に訪れてみて吃驚しました。既に何日も経っていますが豊島君からの指名があったので近況を記してみます。

さて、コロナ禍で色々自粛が求められ、人との触れ合いが希薄となっています。同期会もしかり、飲み会もカラオケも遠ざかりコロナの感染リスクは下がっても誤嚥性肺炎になるリスクは上がる一方です。田舎暮らしの身としては野菜作りなどの農作業に勤しめば良いのでしょうが、家庭菜園は荒れ放題です。今日はエピソードを二つ。
一つ目はゴルフです。地元の年寄り仲間に誘われ同好会の会員が約30名、清里にある県営コースで月に3回例会を行っており常時12〜16名は参加しています。感染防止に気を遣うのは移動中のカート内とレストランでの食事の時のみ。田舎で地元コースと言う事もあり、プレーが終わった組からそれぞれ車で帰途につくのでソーシャルディスタンスもバッチリ。我が家の周りは元の地主さんの土地に囲まれており、地主さんは東京在住で田舎の土地はほっぽりっ放しで草茫々です。鹿とか^、蛇もいたりで家内が気色悪がるので、頼まれてもいないのに私がエンジン刈払機で草刈りしています。距離的に長手方向が40ヤード位あるので、四年前にチャッカリと芝を植えて2m四方のティーエリアを作りアプローチの練習が出来るようにしました。先ほどもそのコースの草刈りをしてきたばかりでした。お陰でスコアも徐々に良くなってきたかな??
二つ目、7月の半ば山梨全県に雷注意報が発令されていたのに、大丈夫だろうと高を括ってPCで作業を続けていたら徐々に雷鳴が近づいてきて、慌ててPCを閉じようとしていたのだけれど、地響きと共に至近に落雷がありパチッという音と共にPCが昇天してしまいました。Microsoft Flight Simulator 2020というゲームソフトを楽しむために高性能なCPUとグラフィックボードを積んでいた高価なデスクトップでしたが、一瞬でただの都市鉱山と化してしまいました。幸いSATA系のパーツは生き残っていたため、ディスクに残っていたドキュメント類、ミュージック、動画や写真などは新規に購入したPCに取り込む事が出来ましたが、メールの履歴、老後資金管理のために退職以来の収支を入れていた家計簿ソフトの履歴、年賀状作成ソフトの住所録などはどこのフォルダーにどういった形で残されているか、ネットで調べ、旧ディスクのディレクトリーを追って見つけ出し、引っ張り出したり、変換したり、インポートしたり、と結構手間暇が掛かりました。パソコンが死んだ原因は落雷により電灯線に高電圧が誘導され、PCの電源回路を抜けてマザーボードを壊したものです。雷サージプロテクタがついているコンセントを使っていても近接雷の場合は抜けて来易いので、雷が鳴ったら直ぐにやめてコンセントを抜く方が良いですよ。

気遣いの豊島君ゆえコロナ禍でも皆が活性化できるように、とリレー方式の近況報告会を提案されたのだろうと理解はしていますが、ネットで指名されると衆人環視の中お断りするのも勇気がいるよね。見ない人を指名しても繋がらないし、繋がる人を指名しようとしたら結局いつもの人達になるし、難しいね。そんなこんなを考えて私は次の人を指名する事が出来ないです。ゴメン。


[1215] 題名:関東同期会も中止は残念。で、ご提案。

投稿日:2021年09月28日 (火) 23時36分

名前:豊島吉博

コロナ感染回避で、中止の苦渋判断とのこと。
夏の全体同期会に続いての中止は、誠に残念です。
既に71歳の人、これからの人もいるけど、
一緒に集まり語れる時は、これからもう何回持てるのだろうか。
ひたむきに働き、否応なく高齢者となった。
親の介護や自身の体など、其々に抱えている課題もある。
とはいえ、お互いここまで生きてきた。
共に、東高で多感な青春の時を過ごした。
昨今、知人・親戚などに年下が亡くなり始めた。
老いも忍び寄ってる。
いろんな不安を抱えながらの日々。
そんな中のコロナ禍。
社会の在り方すら変えてしまいつつある。
これから、どう生きていくか。
皆さんはいかがか?
同期会相次いでの中止で、この欄を活用して
同期交歓に「リレーメール」をご提案をしたい。
まず、言いだしの僕が、関東事務局・岡安君を指名します。
岡安君が近況など何でも書いて、また次の人を指名。
そうして、次々と繋いでいく形です。
岡安君,勝手に指名しましたが、口火を切ってください。
よろしくお願いします。


[1214] 題名:令和3年度関東同期会開催見合わせの件

投稿日:2021年09月23日 (木) 11時21分

名前:関東同期会事務局

一年中新型コロナに関わるニュースばかりでウンザリしていますが、皆様それぞれの健康法でコロナを回避されご健康でいらっしゃると存じます。
毎年黄金色の田圃に赤とんぼが舞うこの時期になりますと新橋での同期会のご案内を差し上げておりますが、昨年に引き続き今年も残念ですが開催は見合わせる事と致しましたのでご通知申し上げます。
この所、全国的に第五波の感染者が減少傾向にあり、かつ我ら同期の年齢ですと多くの方がワクチン2回接種を済まされているとは思いますが、中には「ワクチン打てない」人、「ワクチン打たない」人がおられ、また一定比率ワクチンの効果が出ない人がおられたり、接種時期が早かった方では抗体量の低減などによる所謂ブレークスルー感染となる可能性がある事を考えますと、もう1年リスク回避を優先で考えようと役員の意見が揃いました。若い方たちへのワクチン接種も進んできており、来年には感染対策をしっかりとしていれば普通にイベントを開催する事が出来るようになると期待しております。更に一年後となりますが、再びお目に掛かる事が出来る日まで、どうぞ皆さんお健やかにお過ごし下さいますようお願い致します。

S44関東同期会事務局


[1213] 題名:句碑

投稿日:2021年09月19日 (日) 14時45分

名前:桧垣

まだ出歩くことに神経を使いますが引っ込んでばかりでは気が滅入りますので一人吟行を続けています。もう少し落ち着けば砥部へ行き冬の季語掻巻を見せていただきたいと思っています。では句碑のことを。

松山市句碑探訪
宝厳寺
年に何回かお訪ねしているお寺です。
宝厳寺は道後湯月町にある時宗のお寺です。一遍上人生誕の地と言われています。有名な一遍上人象(教科書にも出ていたと)があったのですが、火災にため焼失し山門以外の建物も焼失しました。今は立派に再建されていますが仏像は新作のものです。以前は年に一度句会が催されていたのですが昨年からは中止となっています。場所は旧松ヶ枝町の坂の上、別名ネオン坂の上です。今は遊郭の名残も少なくなり、唯々厳しい上り坂を昇り切った場所です。子規がこのお寺の前の石段に腰を掛けて作句したとも言われています。ちなみに現住職は妙齢の女性です。ご挨拶が出来ると得したような気分になります。

境内には
色里や十歩はなれて秋の風  子規
子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋 黙禅
あかゝゝと一本の道通りたり霊剋るわが命なりけり 茂吉
旅衣木のねかやのねいづくにか身のすてられぬところあるべき 一遍
稲光一遍上人徒跣 杏子
茂吉は当然斎藤茂吉さんで、霊剋る(たまきはる)は命に掛かる枕言葉です。杏子は黒田杏子さんで、夏井いつきさんの師匠、徒跣はかちはだしと読むものと。ここの子規の句は数多い子規の句の中でお気に入りの一つです。ここで詠んだ拙句は
蒼天に墨打つやうに春烏 南亭 骨太 
南亭 骨太 は私のいつき組及びジャズ句会用の俳号です。このお寺のすぐ前に、夏井いつき組長の句会場 伊月庵(いげつあん)があります。
次回は石手寺を予定しています。少し事態が好転しているようですがまだまだ油断は出来ません、皆様の御健勝を。



[1212] 題名:またまた「砥部むかしのくらし館」の紹介

投稿日:2021年08月26日 (木) 21時35分

名前:TAKEDA

松山市もコロナウイルス感染の蔓延防止の措置が適用され、日々、戦
いの自粛生活が続いています。何か趣味や体力向上を図りたいのですが、
おっくうになって、マスクを着けたまま引きこもり状態にあります。勇
気もなく残念です。

コンサートやシャンソン、俳句作りや史跡めぐり、園芸や栽培、地域で
の社会貢献、医療での社会貢献などいろいろと同期の皆さんの情報を拝見
するたびに、それぞれの個性や思いを活かして活躍していることに感銘を
受けています。

 桧垣さんの句碑探訪で、浄土寺 森白象さんの「お遍路や杖を大師とた
のみつゝ」の紹介があり大変興味を持ちました。散歩コースに入れて挑戦し
たいと思います。お遍路さんは、常に、「同行二人」で、弘法大師様は、見
えないお姿で、そばに寄添ってくれているという意味ですが、苦しみ悩むと
きは、杖がお大師様です。杖を具体的に握る感触で、自分の命を感じ、
お大師様を感じるものです。巡礼の途次、涅槃に召されるときは、その杖が
卒塔婆として立てられます。四国遍路の旅には、勇気を与えてくれる句です。

森白象さんは、昭和55年、高野山金剛峰寺第406世座主(ざす)に就任
した森寛紹(かんしょう)さんです。重信町牛渕生まれです。同期で幹事を
してくれている山岡憲子(旧姓:山内)さんの出身地です。昭和55年、私
が砥部中学校の教師をしていた時、松山市コミユニティーセンターで森寛紹
さんの高野山金剛峰寺座主就任の祝賀会が行われ参加しました。頂いた色紙
「仏心」を大切にしています。昭和55年は、砥部の県運動公園で55高校
総体インターハイの年でした。

●「砥部むかしのくらし館」(豊島吉博館長)が、またまた、テレビで紹介が
ありました。
8月18日(水)あいテレビ:Nスタえひめ「砥部むかしのくらし館をア
ナサーチ」
あいテレビの企画は、クイズ形式で興味関心を喚起するものでした。鈴木
アナウンサーが、「夜着」(冬の寒冷地の服型の布団)を着て座敷に寝たり、
豊島さんが横から突如出て来て解答したり、四角い砥部焼の用途をたずねた
りと、子どもたちが見学したくなる内容でした。その前週には、NHK「ス
ペシャルインタビュー:ずっと四国」の再放送で「砥部むかしのくらし館」
がありました。
豊島吉博さんのインタビュー「実用されて愛されて使われてきたものが、
私たちの周りから、なくなっているんです。時代の役目を経てなくなってい
る。」「いま日本、愛媛、四国。いろんなところでなくなっていったものが確
実にあります。」
時代の流れで無くなっていくものを「砥部むかしのくらし館」が留めてくれ
ています。豊島さんの文化遺産の継承と地域貢献には敬服しています。

●いろいろな放送局のテレビ放送や新聞での報道が続き、見学希望者が増え
ていますが、残念なことに、コロナ感染防止のため9月12日(日)まで休
館になりました。
●今後の開館の予定は、9月18日(土)です。(入場無料)
毎週土曜日と日曜日10:00〜16:00開館です。ホームページを見てください。
●画像掲示板に、NHK「スペシャルインタビュー」の写真あり


[1211] 題名:ピアノコンクールの事など

投稿日:2021年08月20日 (金) 18時16分

名前:漢勝

デルタ株が蔓延している。長崎でも昨日114人の新規感染者でした。近くに住んでいたら、中山君のコンサート是非行きたいところだが。Onlineでコンサートを見れないのでしょうか?あるいはYouTube配信とか。少ない観客ではもったいないよね。

先日来、PTNAコンペティションをYouTube配信で見ている。昨日Finalがあって、なんと若干15歳の野村友里愛さんがチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏して、諸先輩を超えてグランプリを獲得した。7人のセミファイナリストの中に、村上 智則さんが居て、履歴を見ると松山東出身。今は東京芸術大学のピアノ科4年生らしい。彼はセミファイナルではメシアンの超難曲を披露した。残念ながらファイナルには進めなかったが、今後の飛躍を期待したい。これまで、村上君の事を知らなかったが、東高や松山ではどうなんでしょうか?

これとは別に先日ショパンコンクールの予備予選があり、31人の日本人が参加して、うち13人が通過した。全てYouTubeで視聴できた。その中には反田恭平、小林愛実、角野隼人さん達がいて、10月2日から始まる本選が楽しみ。この他に予備予選免除の牛田君がいる。彼は浜松で2位になった。ちなみに本選参加者では中国人が最も多い。この他に地元のポーランド、韓国など世界各国から80数人が競う。

最近は、猛暑とコロナで、仕事面では出来るだけ自宅でテレワークしてる。毎週佐世保の病院に出張していたが、これもinternetを介して診断している。そのほか再試試験問題を作成したり、いくつかの県内、県外の病院の病理組織診断など。10月初にはWebで山形県の病理医に病理診断の講演を依頼されました。

仕事の辞め時を真剣にか考えてるこの頃です。


[1210] 題名:中山健吾がピンチ

投稿日:2021年08月17日 (火) 21時17分

名前:豊島吉博

先日案内した9月3日(金)、中山君の生涯最後のコンサート。
入場無料(整理券必要)だが、「全く反応がない」とSOS!
場所は、河内長野市ラブリーホール。
関西勢、誰か聴きに行ってあげてくださいな。


[1209] 題名:句碑 鷹ノ子町 浄土寺

投稿日:2021年07月14日 (水) 13時52分

名前:桧垣

句碑の紹介第二弾は私の住んでいる久米地区からです

松山市句碑探訪
松山市鷹ノ子町 浄土寺 四国八十八ケ所 四十九番札所

私が現在住んでいる久米地区、鷹ノ子町の浄土寺さん。家から歩いて十五分ほどでしょうか。時々散歩がてらお参りしています。春が主ですが理由は後程。

本堂の横に正岡子規の句碑    霜月の空也は骨に生きにける
中門横に森白象の句碑     vお遍路や杖を大師とたのみつゝ
があります。本堂横から山の方へ向うと奥の院が有り、ミニ八十八ケ所も有りますがその
地蔵堂の奥に同じく森白象の句碑 
子遍路の人なつかしきことあはれ 

と境内に三つの句碑が建っております。

さて、何故ここが春の散歩のコースになるかという事ですが、ここに御衣黄桜というちょっと変わった桜が有り、ここ数年観察に出向いている次第です。鷹ノ子温泉に近く、観察をしてから温泉に入って帰ることもあります。この御衣黄桜は京都知恩院のものが有名です。実は花が咲いてもほとんどの人が気が付かない、緑色の花が咲くのです。咲いて日がたつと濃いピンク色に変色して落花します。二週間ほどでしょうかほぼ毎日見に行って飽きません。その間だけは本堂に詣で賽銭も僅かながら払っております。地域の俳句友達に教えてもらったのですが春の楽しみが一つ増えました。ちなみに浄土寺さんの駐車場北西にあったのが、夏井組長いわく「下手俳人の聖地」まるやす食堂です。今はもうありませんが私も常連の一人、俳号で呼び合うメンバーでありました。今は残ったメンバーで二週間に一度飲み会と情報交換を行っています。一句一遊を聴いている方はもしかしたら名前くらいは知っているかもです。   


[1208] 題名:すまん

投稿日:2021年07月06日 (火) 14時36分

名前:豊島吉博

同じ内容のがダブってしまった。申し訳なし。
言い訳。「不備があります。やり直ししてください」と、パソコン。
で、もう一度。同様。って調子で3回もやってしまった。
機械ものに弱いので、お許しください。


[1207] 題名:NHK総合テレビで「砥部むかしのくらし館」放送

投稿日:2021年07月06日 (火) 11時25分

名前:豊島吉博

7月10日(土)12時40分〜45分放送です。
四国4県エリア内放送。
一応ミュージアムといえるものになりました。
見てやってください。
また、ホームページも作りましたので、表記名で検索ください。


[1206] 題名:NHK総合テレビで「砥部むかしのくらし館」放送

投稿日:2021年07月06日 (火) 11時21分

名前:豊島吉博

7月10日(土)12時40分〜45分放送です。
四国4県エリア内放送。
一応ミュージアムといえるものになりました。
見てやってください。




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