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松山東高等学校S44年卒・お便りコーナー

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[1245] 題名:新年おめでとうございます

投稿日:2022年01月07日 (金) 01時16分

名前:宇佐美 悟 MAIL

今日(というか、もう日が変わって昨日になってしまいましたが)は、関西のインド旅行グループが集まって、話題の映画「ブータン 山の教室」の映写会を行いました。
以前書きましたが、数年前に矢木くん、影浦夫妻らと一緒にインドからネパール、そしてブータンに入り、首都ティンプーとその周辺のパロ、プナカのあたりを旅行してきました。それ以来、素朴で美しいブータンの風景が忘れられず、もう一度行ってみたいと思いながらも、コロナ禍もあってその機会が得られないまま今日までずるずると来てしまいました。
そんな折に、昨年2021年のアカデミー賞にブータン代表作として出展されたこの映画に出会い、久しぶりにブータンの自然に接することができました。映画を観ながら、元気なうちにもう一度ブータンへ、それも昔ながらの自然や文化が残っている東ブータンへ行ってみたい、という気持ちがますます強くなってきました。できれば来年にでも。
私の2022年の目標 ―― ブータン旅行を実現するための体力作りと貯金に励むこと!


[1244] 題名:松尾芳紀君、あの萬翠荘でシャンソンコンサート

投稿日:2021年12月29日 (水) 23時42分

名前:豊島吉博

「日野美子と共に 銀巴里のように」題名。
12月25日、萬翠荘で、東京で有名なシャンソン歌手
日野美子(東48年卒)とともに、出演。
コンサート告知チラシの顔写真付きの主役三人。
日野・松尾・栗田敬子(ピアノ:東52年卒)と、東トリオ。
この他にも出演者に東勢が多く、目だった。
松尾君、圧倒的女性ばかりの中で、
生き生きとシャンソンを歌い上げていた。


[1243] 題名:上田和勇君の古希記念論文集が発刊

投稿日:2021年12月29日 (水) 22時23分

名前:豊島吉博

サッカー部同期メンバーで唯一の学者になった俊英の上田。
専修大学教授(専門はリスク)を定年退職後、名誉教授。
今回、びっくりしたのはシャイで自分の業績を話さない上田が、
日本リスクマネジメント学会と日本ソーシャルマネジメント学会の
理事長という要職を務めていること。
現代社会で各リスク問題は大きく、管理や克服など対応が、
問われている分野だ。
わがサッカー部の同期が、その学術分野の元締めになっていた。
ご立派なものだ。率直にうれしい。
さらに今回の出版は、自己出版じゃなく、学会会員が集まって
上田の過去の論文をまとめ、古希を迎えた上田に
祝意として献呈出版したもの。
それだけ、人望があり研究の質も高かった証明でもあろう。
内容も、新型コロナへのリスクマネジメントなど旬の課題もある。素晴らしい物だと思うが、詳細ははぶく。
驚いたのは、なんと格調高い論文の中に、サッカー部時代の彼の
プレー写真が、講義写真と並んで冒頭に出てくる。
さらに、編集者代表あいさつ文には、松山東高でサッカーをし、
県優勝、インターハイ出場は、多くの学者の中で博士課程経験者
はそういない。スポーツマンで文武両道だと絶賛されてる。
また、数々の専大での要職や、学会での活躍は、
スポーツや実務経験と相まってリーダーとしての、
上田の人柄と振る舞いで、多くの研究者に慕われている—そうだ。
こういう本だから、のこともあるかもしれないが、絶賛ぶりに、
改めて、誇りに思った次第です。
上田、頑張ってきてよかったね!
彼だけじゃなく、他にもそれぞれに活躍されている同期諸君が、
いるのではないかと思います。
知っていたら、これを契機にこの欄で結構なので紹介ください。
さて、いよいよ年末になりました。
今年もコロナに振り回された年でしたが、
皆さん、体に気をつけて元気で来年も活躍ください。
よいお年を!


[1242] 題名:白内障手術

投稿日:2021年12月25日 (土) 12時37分

名前:漢勝

暮れもいよいよ押し迫って来ました.皆さん元気ですか?
私の仕事に関しては,28日まで大学病院で働き,29日は関連病院に出張です.30日から休みます.

病気の話しはこのHPにはふさわしくないかも知れませんが,皆さんにも関連があるかも知れないと思って書いてます.

2-3年前から物が霞んで見えて,さらに今年に入ってから急速に進行.近所の眼科に行くと,両眼とも視力が0.1でした.仕事に必須の顕微鏡を覗いたら,視野の中心部がぼーっとして,診断に難渋するようになってきました.2箇所の違った眼科医院を受診したら,「白内障だけどまだ手術は必要ない」との事.私としては,「今でもこの状態で,どこまで悪くなったら手術を勧めてくれるんだろう」と暗い気持ちになっていました.

毎水曜日に関連病院に出張していますが,そこには元某大学眼科教授をされていた先生がおられて,その先生に見てもらうと,即手術を勧められ,早速長崎大学眼科教授に照会状を書いてくれました.

12月10日に左眼,17日に右眼の白内障手術を長崎大学病院で受けました.術後の結果に驚きました.術前は電球レベルの明るさでぼーっと見えていたものが,術後には蛍光灯の明るさで鮮明になっていました.視力が両眼共に1.0でした.手術の力を実感しました.これでやっとくっきりした満月が見えます.

2nd pinionは大切と思いました.さらに歳を益々実感しています.


[1241] 題名:2年ぶりの同期会

投稿日:2021年12月17日 (金) 11時20分

名前:宇佐美 悟 MAIL

昨日、黒門市場で、てっちりをつつきながら関西同期会をやりました。2年ぶりです。参加者は7名、影浦、中山健呉夫妻、藤原、増田、矢木、そして私。影浦先生の「ミニスカ女子」と、次作「〇○○女子」の話で大いに盛り上がりました。
影浦くん、皆さんにも面白い話しを聞かせてあげてください。


[1240] 題名:句碑 石手寺

投稿日:2021年12月15日 (水) 15時29分

名前:桧垣

石手寺
知らない人はいないでしょう。子供のころは門前の焼きもちが好きでした。山門の前にあった三鈷の松、松葉が普通は二針葉のところ三針葉なのがめずらしく、財布に入れておくとお金がたまると祖母が言っていたのを思い出します。仲見世も何軒か残っています。

境内には
南無大師石手の寺よ稲の花  正岡子規
鎌倉のむかしを今に寺の鐘  前田伍健
石手寺の松を拝みて年迎ふ  宇田零雨
うれしい古ともかなしい古とも草しける  種田山頭火
御佛の瞳は慈悲に輝きて  重松俊章
悩みと罪の子等に微笑む  重松俊章
宇知与利氐波奈以礼佐久戻牟女津波几(打ち寄りて花入れ探れ梅椿)松尾芭蕉
身の上や御鬮を引けば秋の風  正岡子規
石据える手にきて蟻が喰ひさがる  尾崎 行信
花はいさ鐘つかりけり石手寺  関谷嘶風
伊予の秋石手の寺の香盤に海のいろして立つ煙かな  与謝野晶子
石手寺や平和観音おはします香の煙は御山め久りて  与謝野晶子
故郷の山に御霊よ帰りませ永久奈る平和を共に祈らむ  藤井徳二郎
葉櫻の中の無数の空さわぐ  篠原梵
一山の堂塔高き大夕焼  富田狸通
撞きす天し鐘の余韻乃桜可那(つきすてし鐘の余韻の桜かな)     
 有馬白陽
麗らかや平和の碑塚とこしへに  門屋春風
見遙かす松山城や寺の秋  原田則人
やま知古えて一人由希登主の手ニす加れる身ハ安介志 
(山路こえて、ひとりゆけど、主の手にすがれる身はやすけし) 
 西村清雄
さすがに松山有数のお寺であり、句碑歌碑も随分と多数に上ります、最後の西村清雄さんはクリスチャンで上記は日本人が作った讃美歌として有名です。松中・東校の先輩でもあり松山市の名誉市民3号です。高校の頃住んでいた永木町の家の前の城南高校(旧松山夜学校)の創始者です。お寺に讃美歌の石碑があることには驚かされますが石手寺さんの懐の深さでしょうか。
個人的には、尾崎行信さんと篠原梵さんの句が好きです。石手寺ではまだ皆さんにご披露するほどの句は作れていません。悪しからず。

さて景浦君(君付けは失礼かも知れませんが)饒田津の件ミニスカートの件面白く読ませていただきました。私は楽器をいじっていれば満足の視野の狭い男だったのでミニスカートの件は初耳でした。もっちゃんもバードで初めて知ったくらいです。女子には興味津々であったにもかかわらずです。
饒田津については、またの機会に少し書いてみたいと思っています。
先月腰を痛めましたが、何とかゴルフが出来るまで回復しました。階段の上り下りは手すりが頼りになりつつあります。元気なのはつもりだけのようです。


[1239] 題名:亡くなった人の電話番号を消せない

投稿日:2021年12月06日 (月) 16時28分

名前:豊島吉博

先月から喪中はがきが届く。
その他、知人やその肉親の訃報のたびに、
その都度、胸が痛む。特に知人の死亡は、こたえる。
そして、携帯に登録してある電話番号。
もう死んでいるのでつながらないので、
電話がかかるわけがない。
だけど、「元気してる?」と、
いつものようにかけてくるかもしれない。
だけど、消してしまうと、本当に縁が切れてしまう。
終わってしまうのではないかと、思いが募る。
なので、消せない電話番号が、年々、増えている。
寂しい限りだ。
皆さんは、いかが?


[1238] 題名:良く分かる。

投稿日:2021年12月02日 (木) 21時35分

名前:漢勝

「20gが重い」気持ち良く分かります。私は3階建ての官舎住まいで、その3階に居住してます。エレベーターがないから、20gポリ缶を抱えて、3階まで登るのが本当に大変。重くて腰が折れる。私は車を持たないので、昨年まで1.1km離れたGSに自転車で行って、給油後満タンのポリ缶を荷台に乗せて自宅まで持って帰っていました。勿論自転車は手押しです。これがきつい。万一倒れたら厄介。最近は、佐世保出張の折に、朝方カラのポリ缶を手下げてGSに持って行き、そこで給油を頼んで、夕方まで保管してもらいます。そして近くのバス停から高速バスで佐世保に行きます。仕事が終わって夕方に帰って来た時に、バス停でタクシーを拾って、GSに行き、ポリ缶を回収します。GSのお兄ちゃんがタクシーに入れてくれます。タクシーが官舎に着いたら、そこからは私が運びます。これも段々きつくなってきました。今年は去年の灯油の残りがあるから、まだ買っていません。なるべくエアコンで暖を取ろうと思っています。

ところで私の住んでいる官舎は、昔は田舎だったのでしょうが、今は中心部ではないにしろ、かなり民家が密集した所にあります。道路の斜め前に窓のない4階建てのビルがあり、これが長崎拘置所です。時々未決囚を乗せた中の見えない大型バンが出入りしています。恐らく裁判所に未決囚を運搬しているんでしょう。私が自宅にタクシーで帰る時に、長崎大学の官舎と言う前に、必ず「拘置所の前の」と言う枕詞を言います。それで運ちゃんは即理解。ところで今この拘置所に例の長崎住吉郵便局の元局長で12億円超の詐欺をした人が入ってます。時効の古い余罪を入れたら実際は15億円と言われています。特定郵便局ではしばしば不祥事が起こってますね。

来週は白内障の手術を受ける予定です。年齢を実感しています。


[1237] 題名:20gが、重い。

投稿日:2021年11月29日 (月) 21時24分

名前:豊島吉博

寒くなった。
この間から、灯油ストーブを出して使っていた。
灯油が無くなり、車で店に買いに出かけた。
そこまでは、よかった。
20g入りの灯油ポリタンク満タンで、容器含め重さ約20`越え。
車を、店の灯油スタンドに横付けしたものの、
ほんの数bが、重くてヨタヨタ。おまけに、4本あり大変だった。
つくづく体力が落ちたのを痛感した。
歳だ。こうして、老いていくのか・・・
皆さんはいかが?


[1236] 題名:ラグビー、松山東0-144新田と大敗。

投稿日:2021年11月23日 (火) 17時49分

名前:豊島吉博

全国高校ラグビー県大会準決勝(11月15日)で、
松山東0-144新田と、記録的大敗だった。
ラグビー部OBはショックが大きいと思うが、個人的にも驚いた。
昨今、少子化もあり、ラグビー人口が減り、
チーム数の減や、合同チームが増えている。
にしても、名門東に、何があったのか?
心配です。


[1235] 題名:現職総理大臣が東高訪問、模擬授業する

投稿日:2021年11月21日 (日) 23時15分

名前:豊島吉博

情報通信技術を活用した教育視察のため20日、
岸田総理大臣が我が母校を訪問、
生徒と一緒にパソコン端末を使った模擬授業を体験した。
全国的にも珍しい画期的な出来事。
母校は、以前に書いたかと思うが、全国でもわずか2校のみの
ノーベル賞受賞者と甲子園優勝校。(うちと湘南高校)
今回の現職総理訪問、生徒との模擬授業は、それにプラスの栄誉。
また、一歩リードしたかと誇りに思う。
和田校長は、昭和56年卒(県教委高校指導部長を経て)の同窓。
校長も、生徒も後輩たちは頑張っています。
ご立派なものです。


[1234] 題名:これにて完結です

投稿日:2021年11月13日 (土) 17時33分

名前:影浦秀人 MAIL

川原君からリレーメッセージの話が来たとき、是非この物語を書きたいと思った。長年心に刺さったままになっているトゲのようなもので、気になるが抜くすべがない状態だった。そこへ同級生掲示板への投稿という願ってもない機会を得、記憶の泥の中から、宝物を探すようにして書いたのが「ミニスカ女子と海稲先生」です。思いの外たくさんの賛辞を頂き、新人文豪としては、トゲが抜けた快感と共に喜んでおります。正直言えば、書いてる途中で、この物語が先生の霊前に届くことを願っていた。松山は狭い町なので、同級生の中に個人的に先生を知っている人がいれば、そのようなことも可能ではないかと考えていた。それが宇佐美君だったとは、「何だそれ」と思ってしまった/二人は京都在住。今度会ったら一献差し上げたいのだが、アイツは飲まないので・・・・。それにしても先生に同級生の御子息がいたとは意外でした。彼からのメールがエンドロールとして付され、僕の物語は完結しました。


[1233] 題名:海稲良光さんからのメール

投稿日:2021年11月12日 (金) 00時11分

名前:宇佐美 悟 MAIL

海稲良光さんと連絡をとることができ、影浦くんの「ミニスカートと海稲先生」の話しをお伝えしたところ、
読んで下さって次のようなメールをいただきました。
海稲良光さんの了解を得て紹介します。

***
松山東高の同窓生の間で50年以上前の事柄に母が登場するなんて!
私も読ませていただく中で目頭が熱くなりました。
文中に登場するA子さんの人生に母の言葉がどのように影響したかを
想像するに、母は教師冥利につきるなと思いました。
またこの文章を書かれた景浦秀人さんの記述・記憶能力のすごさに脱帽です。
内容がかなり美化された部分もあるのではと感じますが、母は松山東高のような
進学高では、家庭科は重要科目に比べ、女子の中にはあまり力を注がない人も存在すると申していました。
そのような環境下でも、母は「女性は最低でも裁縫は自分でやれないと駄目」と言っていた
記憶があります。
昨晩、ご送付いただいた「ミニスカと海稲先生」の記事内容を母の遺影に報告しておきました。
あの世できっと喜んでいるものと確信しています。
***

海稲博文くん、山内久則くん、それから何よりも
東校時代に海稲先生と一緒の時間を過ごした女性の方々に宜しくお伝え下さいとのことでしたので、ここに書いておきます。


[1232] 題名:皆さん、ありがとう

投稿日:2021年11月10日 (水) 10時10分

名前:豊島吉博

せっかくの同期コミュケーションツールのこのコーナーが、
昨今、あまりにも投稿がなく寂しいなと思い、
岡安君を始め皆さんに呼び掛けたところ、一気に活性化し、
うれしいかぎりです。よかったです。
なかでも、影浦君の「ミニスカートと海稲先生」は、
当時、東高どころか松山高校界を揺るがす大事件だったこと。
そんなことがあったこと自体知らず、教えてくれてありがとう。
さりげなく、僕まで登場させていただき恐縮でした。
50年以上前のことを詳細に覚えていることにも感心しました。
亡き光田さんは主人公だし、恩師海稲先生の立派な姿。
二人の素晴らしい行動、考えに改めて感動した。
二人とも鬼籍に入って話すこともできないが、改めて尊敬します。
これほどのエピソードでなく、日常生活を書いたのでいいので、
気楽に投稿ください。
それが、またつながりをもって、同期の絆が深まります。
ちなみに、僕は今日午後に宇和にある愛媛県歴史文化博物館で、
愛媛県博物館協会の勉強会に行きます。
うちの「砥部むかしのくらし館」が加盟している組織です。
今日のテーマは、東高の先輩伊丹万作(十三の親)らが作った
同人誌「朱欒(しゅらん)」の翻刻プロジェクト始め、
クラウドファンティングなどの展開。
美術館・博物館は、企画展に悩む一方、
経営的に厳しい所が多く、悩みの種となっています。
今回は、その打開策の一つとしての勉強会です。
寒くなりました。皆さん体に気をつけて活躍ください。
皆さんの投稿、楽しみにしてるぞなもし。


[1231] 題名:若干追加です

投稿日:2021年11月09日 (火) 14時23分

名前:影浦秀人 MAIL

投稿が終わると一安心でストレスから解放されるのだが、そこから反省が始まるのも事実です。ああ書けばよかった、これを書き洩らしたと、悔やむことも多い。記憶が曖昧で書けなかった部分を、若干追加したい。

女商の先生の話で、生徒たちの発言を載せた部分に挿入
「ファッションはミッションじゃろ、何で東高なん、あの子らは勉強だけでエエンよ」
少々辛辣な言葉が並びますが、当時の東高評価をよく表していると思う。「カッコイイ=ミッション/勉強だけ=東高」という構図です。おそらく松山市民の評価も、同じようなものだったと思う。そこで現れたのがミニスカ女子で、東高評価は「ミニスカート+勉強も=東高」に変わったのだ。それもプラスイメージで。市内の女子高生は、皆憧れを持ってミニスカートを迎えたことになる。僕のところは2件だったが、モッチャンの場合はバスケ人脈があるので、数多くの問い合わせがあったと想像する。彼女の場合は、「海稲先生の判断」を知っていたと思うので、より具体的な回答になったでしょう。その回答を聞いた女子高生は、「ほんとう、スゴイね、羨ましい」と言ったはずだ。モッチャンが、男子が大多数を占める東高で、好奇の目に晒されることを厭わず、あえてミニを履いた背景には、この「他校からの羨ましい」があったのだと思う。ミニスカートという新しい看板を掲げたにも拘わらず、翌年に喪失したのでは、先輩の努力は無駄になり、元の「勉強だけ」の評価に戻ってしまう、それでは悲しい、東高にはミニスカートが必要なのだ、ここは自分が前に出て・・・、と考えたのでしょう。

今日、東高へ行けば、ミニスカ女子がたくさんいると想像する。でも、自分たちの学校が、日本で初めて、或いは世界で初めて、ミニスカートでの登校を許された学校であることを知らないのではないか。楽しい学び舎とは、先生と生徒の信頼関係により醸成されることを知ってほしいね。それが、東高の伝統であることも。


宇佐美君は二年生の時のクラスメイト、一学期の委員長だった。「あれどう思う」と、相談を持ち掛けてもよかったのだが、そうしていないてことは、この話題に似合わないと感じたためだろう。賢明な判断だった、ように思う。


[1230] 題名:今回は、山内久則くんの代筆です

投稿日:2021年11月06日 (土) 12時21分

名前:宇佐美 悟 MAIL

海稲博文くんの投稿に触発され、山内久則くんに連絡をとって電話で話しをしました。というのも、山内くんはトヨタに勤務し、愛知県のトヨタ城とその周辺でずっと仕事をしていたからです。今は定年退職して、岡崎市で奥さんと二人、のんびりと暮らしています。
案の定、山内くんは海稲良光さんを知っていました。良光さんが入社して最初に配属されたのが、山内くんと同じ情報系の部署で、1年くらいはそこで一緒に仕事をしていたとのこと。しかし、その後は部署が変わって、良光さんが海外勤務になったり、グループのコンサル会社に行ったり、というのは耳にしているが、個人的な交流はないとのことでした。
それにしても――と山内くんが言っていました――影浦くんは素晴らしい文才の持主だ。「ミニスカ女子と海稲先生」は、まるで小説を読んでいるようで面白かった、と。
そこでまたまた豊島前同窓会長!一昨年に「ソローキンの見た桜」が官民一体で制作されましたが、その第2弾で「ミニスカ女子と海稲先生」をドラマ化or映画化できないでしょうか。


[1229] 題名:散髪の思い出

投稿日:2021年10月30日 (土) 14時11分

名前:松波康二 MAIL

私の本籍は、松山市湊町5丁目です。昔から 海に面していないのになぜ湊町なのか また隣の千舟町という町名も同様に不思議でした。湊町5丁目は小学校の校区でいえば番町、隣の湊町6丁目は新玉、東西に流れる中の川を挟んで南側に北藤原町があって、ここは雄郡で 私の自宅があった場所です。中の川には支流があって、永代町に住んでいた中川俊二君の家のそばを流れていました。幼いころ、中の川のそばに家があるので、中川という姓であると信じていました。湊町6丁目に理髪店があって、高校を出るまで そこで散髪していました。店主が理髪コンクールで全国3位になったという愛媛新聞の記事が、額縁に入って飾られていました。その理髪店には 冬になると待合の場所に石炭ストーブが焚かれ、ストーブの周りをかこっている金網に 『まがってはいけません』と注意書きがあり、大阪からきた親戚の子供が、どういう意味か私に尋ねましたが、どのように説明したかは覚えていません。松山にいたころは 髪の毛が伸びると散髪に行きました。今は 大阪のQBハウスへ2か月に1回散髪にいっておりますが、これはたまたま2か月であって、このくらいたつと眉毛が伸びて鬱陶しいからです。このペースでは、あと10年散髪に行くとして 散髪する機会も60回しかありません。そう考えると、少し寂しい気がします。今まで何回くらい散髪したのか分かりませんが、回数で順位をつけると、1番は間違いなく 湊町6丁目のM理髪店、2番は大阪のQBハウス、3番は女房になります。4番目以降はよくわかりませんが3回以上の理髪店は思い出せず、おそらく 堺東で 影浦君にカットしてもらったのが4番目ではないかと思います。ところで、一度だけ、海外で散髪したことがあります。1980年代後半に、ソビエト連邦とよばれた時代の旧レニングラードのホテルです。レニングラードで2軒しかない西側の人間が宿泊できるホテルの一つに、2か月ほど滞在しました。ある土曜日の朝、ホテルの1階にある理髪店にいきました。西側の高級ホテルに理髪店があるとすると、こんな感じかと思うような立派な内装でした。6席くらいあり、先客が1名いて 若い女性が5,6人おしゃべりをしておりました。私がはいると、いったんお喋りを止め、全員が私を見ていました。私は空いている席にすわり待っていると おしゃべりをしていた女性の一人がきて予約しているかと尋ねました。していないと答えると、予約がないと散髪できないといわれました。今から予約するので すぐ散髪してほしいというと、今からだと15:00になるといわれました。どうせやることもないのでノートに名前と部屋番号を書いて部屋に戻りました。15:00になって理髪店にいくと、おなじように予約をきかれたので、予約していると述べると、彼女は持ってきたノートをみて確認しました。ノートをみると予約者は2名しかいませんでした。


[1228] 題名:愛光の海稲君

投稿日:2021年10月30日 (土) 12時54分

名前:海稲博文 MAIL

宇佐美悟君の続きの文章を書ける人は東高44 では私しかいないと思うので書きます。その名は 海稲良光 海稲先生の2男です。慶應義塾大学法学部卒業後トヨタに入り主に北米地区を担当、役員あるいは責任者として勤められました。長年アメリカに住み英語にも堪能です。定年退職後は関連会社に入り各地で人事労務、英語など講演されています。なお私と良光氏との関係は、私の曾祖父と良光氏の祖父が兄弟ということです。


[1227] 題名:海稲くん

投稿日:2021年10月27日 (水) 12時35分

名前:宇佐美 悟 MAIL

小学校(素鵞小学校)時代、同じ学年に海稲くんが居た。家は立花橋のすぐ近くの石手川沿いで、一緒に家まで行って近くの石手川公園で遊んだ朧気な記憶がある。海稲先生の息子さんだったと思う。小学校を卒業して愛光に行ったので、その後の消息は知らない。


[1226] 題名:ミニスカ女子と海稲先生RM6−2

投稿日:2021年10月26日 (火) 14時26分

名前:影浦秀人 MAIL

ミニスカ女子と海稲先生


思い出し出し文章を書くのは難しい、コアになる部分は覚えていても、その前後が判然としない。でも、素敵な物語なので、何処かに書き残しておきたいと思い筆を取った。それが「東高ミニスカート事件」です。諸君は覚えていないかも知れないが、この事件は1967.4(僕らは新二年生の時)一人の女生徒(三年生/仮称A子さん)が、ミニの制服で登校したことに始まる。

第1場面 発見
新学期が始まり一週間程度経ったころ、僕は本館前の廊下をトボトボと歩いていた。すると正面から3〜4人の女生徒が、談笑しながら歩いてくる。僕は端に寄りすれ違ったのだが、何となく違和感を覚えて振り返った。ウワー、スカートが短い。真ん中を行く女生徒のスカートが明らかに短く、周りの人より10cm程度短く見えた。あんなんええんじゃろか、と思った。
その後も朝礼の時とか何度か見かけ、4月下旬には学校側の対応が気になり始めた。そこで誰かとこの話題を話したいと思ったのだが、クラス替えでこの手の話題を扱える友人が見当たらない。そこで一年の時のクラスメイトで女生徒問題に詳しい神野君を探した。ちょうど卓君と立ち話をしていた。

僕/おまい、校内にミニスカートの子がおるのお、知っとるか
神/そんなもん最初から知っとる、今頃知ったんか、とろいのう
卓/それなんぞう、わしは知らん
神/あれは三年生、道後の子じゃ、中学のときから知とるけどまじめな人、不良じゃない
僕/先生は怒らんのじゃろか
神/許すわけなかろが、退学はないにしても謹慎はある、ただ生徒手帳には書いてないので、どうするか検討中じゃないかな とのことでした。
この間も、校内は全く何も無いかのように過ぎていった。

第2場面 話題沸騰
5月ころだったと思う、僕のところに二件の問い合わせがあった。
@ バス停で帰りのバスを待っていると、北高女子(同じ中学)が話しかけてきた。
北/あんた、東高にはミニスカートの子がおると聞いたけどホント
僕/ああ 一人おる
北/うちは反対じゃ、学校は勉強の場所じゃろ、ファッションはプライベートでエエ、そうじゃろ
僕/わしに言われてものお
北/とにかく北高は反対、そう言っといて と捨て台詞を残し去っていった

A 僕の家の隣に女商の先生(一回り上)が住んでいた。僕にとっては隣の兄ちゃん、日曜日の夕方、チョット顔貸せと呼び出された。
隣/東高にはミニスカートの子がおる、と内の生徒が騒ぎよるんじゃが、本当か。
僕/はい、一人ですけどいます
隣/わしは今、生徒指導を担当していて、生徒にヤンヤヤンヤ言われて困っとる。東高でもエエのに、なんで内がいかんの、と言いよる。先生の指導はどうなっとんじゃ
僕/わかりません、対応を検討中じゃないかと噂してます
隣/こういうのを端迷惑と言うだよ、自分の学校は良くっても、市内の学校は皆大問題になっている。ホント止めてほしいわ。
僕/僕に言われても
隣/そうだな、生徒指導担当の連絡会があるので、そこで言うことにするわ、新しい動きあったら教えてくれ と僕をスパイに任命し帰っていった。 
校内は静かでも、市内はこの話題で沸騰していたのだ。


第3場面 助っ人登場
6月1日は衣替えの日、女子は灰色の吊りスカートに替わるのだが、5〜6人の三年生がミニで登校してきた。彼女たちが、A子さんの助っ人に入ったことは明らかで、毅然とした表情で歩いており、「やれるものならやってみろ」という男気を見せていた。僕は、「勝負あり」と思った。東高女子は賢くて強い、今更指導を入れたとしても従うことはないだろう。強力に推し進めれば、三年女子との全面戦争に発展する可能性がある。教室封鎖・授業放棄・ロックアウト、これでは先生の方がもたない。元はと言えば、スカートが少々短いだけの話なのだ。
校内は、何もなかったかのように、静かに過ぎていった。

第4場面 海稲先生登場
年が明けても、この状況は変わらなかった。卒業式の2・3日前だったと思うが、帰りのバス停で1年先輩のS女子 (同じ中学)に出会った。軽く黙礼すると笑顔を返してくれたので、話しかけてみた。時間は8時頃で、人は少なかった。
僕/先輩、随分遅いですね、不良ですか (話をするのはこの時が始めて)
S/そうね―不良です、もうすぐ卒業だから友達とプランタンでダベッていた、楽しくてこんな時間になってしまったのよ
僕/制服で喫茶店ですか
S/そうよ、何となくスリルがあって、気合が入る、そういう君は何してた
僕/クラブ活動です
S/そうか。少年は元気がよくていいね
僕/少年ですか 僕は
S/女の子は先に大人になるのよ、だから学校の男子は皆少年に見える
あまりの発言に言葉を失くしているとバスが入って来た。バスはガラ空きでどこでも座れたが、横に座ってもいいですかと聞くと、怪訝な表情を浮かべながらも席を空けてくれた。この一年に起こったミニスカ事件について、同級生女子はどう見ていたのか聞いてみようと思ったからだ。席に座ると、さっそく質問をぶつけてみた。
僕/三年生にミニスカートを履いた人がいましたよね、あれはあのままで良かったのですか
S/なんで知ってるの
僕/そりゃー見たらわかるじゃないですか
S/君は一年間、三年生のスカートばかり見ていたことになるが、中々のスケベだね
僕/そういうことじゃなくて、スゴイ人だなと思ってました。テレビのニュースを見ただけで、前人未踏のミニスカートなるものを実践した姿は、英雄のようでした。松山のような片田舎に住みながら、意識は世界と繋がっている、アンテナが高いなーと。
先輩は、僕の質問に悪意がないことを感じとり、事の顛末を語ってくれた。
S/最初はね、ワーカコイイ、よく似合ってると拍手していたけど、先生から怒られるという不安が日に日に増してきた。案の定、ゴールデンウイークが終わったころ、女子の生活指導担当の海稲先生から、「放課後、職員室(家庭科控室)に来なさい」と呼び出しがかかった。敵側の攻撃が始まったと感じた三年生女子は、有志10人ほどがA子さんの教室に集まり、その対応を検討した。学校の服装規定には制服着用とあるだけで、スカート丈についての規定はない、絶対謝っちゃダメという方針で送り出した。先生の面談は結構長かった、30分が過ぎると待ってる方がいらだち、「A子は先生に泣かされているに違いない、今から私が取り戻しに行く」と騒ぎ出す猛者もいた。1時間ほどしてA子は帰ってきた。上気して顔を赤めてはいたが泣いてはいなかった。A子は、面談の様子を次のように語った。職員室に入り、先生の側に立つと、しばらく私の服装を確認していた。これが噂のミニスカートね、まーそこに座ってと、横の椅子を指さした。私が座ると、スカートのすそを裏返し、「結構きれいに縫ってある、これあなたが縫ったの」と聞かれ、「はい私が縫いました」と答えた。続けて、
海/どうして、これをやってみようと思ったの
S/実は、上着の方も仕立て直してあるんです。よくある話で、内の母は私がもっと大きく成るだろうと入学の時大きな制服を選びました。ですから、私は一年・二年とダブついた制服で過ごしました。春休みになって、最終学年になってもダブついた制服では嫌だと思い、母に仕立て直しを頼んだら、もう子供じゃないんだから、自分でしなさいと言われました。少々迷いましいたが手芸には自信もあったので、挑戦してみることにした。袖口・着丈をツメ、ボタンの位置を直し、自分のサイズに合った上着を完成させた。さっそく姿見に写してみたが、少々違和感がある、スカートが長すぎるのだ。そこでロールアップ(ウエストで巻き込む)でタケを調整すると、膝頭あたりが上下のバランスの最良点であることが判った。でも、これってどうなの、と手が止まった。思案を巡らしていると、去年の暮テレビニュースで、新しいファッションとしてミニスカートが紹介されていたことを思い出した。ソーダ、短いスカートもアリなのだ。そこでヒダスカートの裾をほどき、このような丈に仕立て直しました。
海/エッ 上着もなの チョット見せて。マー良く頑張ったわね。
S/はい、一週間かかりました。
最終的な海稲先生の判断は、「当面はそのまま通学してよい」となった。
海/女性が針を持つことを否定したのでは、家庭科の授業そのものが成り立たない。あなたの行為を家庭科の自習と捉えれば、その制服は立派な作品と言えます。買ってもらった、やってもらったでは、作品になりません、判りますね。東高は、自分で縫う限り、ミニスカートを許容します、公序良俗の範囲でね。ただし、市内の学校からイロイロ苦情が届いているのも事実、このまま頑張れるかどうかは分かりません。私がダメと言ったときは、従ってくれますね。それから、他の先生から注意されたときは、「海稲先生に話してある」と答えなさい。
結局のところ、A子さんのミニスカートを咎める者は、現れなかったらしい。

夏になり、一学期の最終日、大きな事件が起こった。各教室では、先生から成績表が手渡されていた。A子さんも名前を呼ばれ、成績表を受け取り着席したが、異変はその直後に起こった。アオーワオー、彼女は正面を見据えたまま号泣を始めた。周りの者は訳が分からず気でも狂ったかと思った。隣の人が、「どうしたの大丈夫」と肩に手をかけると、少し覚めたらしく、成績表を指さした。覗き込むとそれは家庭科の欄で、評価は「5」となっていた。海稲先生は、A子の家庭科に「5」を与えていた、事情を知る周りの者は、皆もらい泣きをしたそうな。先生には、負けたと思った。日頃は「海稲のババァ」と呼び、キューリの切り方なんてどうでもいいじゃないと、尊敬の念など持ったことなかったが、実際は先生に守られていると実感した。先生は、本物の先生なんよ。Sさんは涙を浮かべていた。
「少年は、勉強もチャントしなさい」そう言い残して、バスを降りて行った。


第5場面 保健室の軍曹
今までに出会ったどの先生とも違う海稲先生、Sさんは「本物の先生」と評した。先生の判断力の源泉がどこにあるのか。興味が引かれた。
5月頃だったと思うが、一度だけ先生と話す機会が訪れた。グランドでは各クラブの練習が始まり、野球部はフリーバッチングに入った。最初のバッター桑原が放った打球は、遥かにレフトの守備位置を越え飛んで行った。そこはサッカー部のフィールド、ドリブルの練習をしていた部員の頭上を襲った。野球部の「危ない」の声に反応し、頭を上げた一人の部員のおでこを直撃してしまった。この運の悪い部員の名は豊島、「豊島硬球ヘデング事件」として今も語り継がれている。実際の現場は悲惨で、豊島は出血し、眼鏡は飛び散っていた。うずくまる豊島を抱き起し、何人かで保健室へ運んだ。「誰かいますか、けが人です」保健室のドアを開け、そう叫んだ。奥のカーテンが開き現れたのが海稲先生でした。僕はエッと思ったが、慌てて事故の様子をまくしたてた。先生は濡れタオルでけが人の顔をぬぐいながら、2・3質問をしていた。「ハイ、君たちはもいい、グランドに帰りなさい」と追い出されてしまった。
グランドに帰ると野球部長の片岡先生/生物が出てきており、事故のあらましを報告した。先生は、「そうかそうか」と慌てた様子がない。そこで
僕/海稲先生は家庭科の先生ですよね、大丈夫なんですか
片/先生の本職は看護婦なんだ、それも戦場に行ってた人なので、頭のケガ程度ではビクともしない、先生に任せておけば大丈夫だよ
何と、海稲先生の本職は看護婦だという、これはもう少年レベルの理解力では、想像絶する人物と位置づけざるを得ない、まいりました。
夏の大会が終わり、片岡先生とゆっくり話す機会があったので、もう一度海稲先生について聞いてみた。
片/おまえは前にも、海稲先生について聞いたな、家庭科でもやりたいのか
僕/そんなことはないんですけど・・・ (ミニスカートがとは言えなかった)
片/マーいい 海稲先生は私の最も尊敬する先生の一人だ、おまえの興味には尊敬の念も含んでいるだろうから、少し話してやろう。先生は、元々日赤の看護婦さんなんだ、松山の連隊が南方へ出征したとき、戦場看護婦として従軍された。3・4年じゃないかな。戦後は日赤に戻り、高等看護学院の先生をされていた。戦後の学制改革により、松山中学は松山東高となり、男女共学に替わった。そこで困ったのは、全く経験のない女子教育だ。中学の時代から女性教師はいたが、全校を導くほどの器ではなかった。そこで校長は、女子高の校長に紹介を依頼したが、よい返事は得られず、最後の手段として県の教育委員会に推薦を依頼した。そこで紹介されたのが海稲先生で、さっそく校長は面談すべく松山赤十字病院へ向かった。校長は先生の人物に惚れ込み、是非とも東高にと懇願したが、「私は普通高校で教える免許を持っていない」と固辞された。そこで校長は、免許の必要のない家庭科教師の席を用意し、再度懇願した。しかし先生の返事は「考えさせてほしい」というもので、了解とはならなかった。三度目の面談を申し入れたとき、「分かりました、殿方に三度も頭を下げさせたのでは、私の女が下がりましょう」と言ったとか。先生の条件は「校内における女子指導は私に一任されること、それは校長であっても例外としない」というもの、どうだスゴイだろう。
どうやら海稲先生の判断力は、軍隊生活で磨かれたもののようです。命令系統を単純化し、即応性を高める。敵の実態を見るまでは、判断を保留する。最悪の展開となった場合に備え、あらかじめ退路を確保しておく。先生は、古参の軍曹のような方だったようです。

〇豊島君は大変だったが、その後の人生の大活躍を見れば、潮目が変わった事件とも言える。きっとあの硬球には、幸運が付いてたのだと思う。野球部は一回戦で敗退し、サッカー部は県大会を制したのだから。


第6場面 新伝統の誕生
90年続いた学校にも、新しい伝統は生まれる。そのために必要なのは、後継者ということになるが、ミニスカートの場合はどうだったか紹介しよう。簡単に言えば、我々の同級生に、ミニスカ女子はいたかどうか、という話になる。
1968.4.新学期を迎えた東高には、ミニスカ女子はいなかった。事の経緯を知る僕は、残念でたまらなかった。東高の校風「自由自尊」の表象として、ミニスカートは継承されるべきものと感じていた。俺が女の子なら絶対にと思うのだが、側に神野君もいなかったので、話すこともなかった。
6月になり、今年も衣替えの日かやって来た。すると一人の女生徒が、ミニスカートで登校してきた。光田素子/バスケのモッチャンだった。男子の間では、彼女の噂話を聞くことも多く、都会的な雰囲気を持っており、平たく言えばアイドル的存在の一人だった。当然僕など、何の接点もなく遠い存在だったが、その志は理解できた。ミニスカートを新しい伝統とすべく、彼女は勇気を振り絞ったのだと。素敵な人だなと思った。
二人目はどうかなと思い眺めていたが、結局のところ追従者は現れなかった。一人だけではさみしかろうと思ったが、さりとて僕が短パンで登校しても絵にならない、そこで賞賛の言葉を送ることにした。彼女を探すと、体育館前の廊下で悦チャンと立ち話をしていた。僕は、清水の舞台から飛び降りる気持ちで話しかけた。
僕/光田さん、かっこいいね、よく似合っている
モ/エッ 何のこと
僕/スカートだよ ミニスカート (悦チャンは面白いものが始まったと笑いながら見ていた)
モ/これねー 結構大変だった 私のふくらはぎ筋肉だから、靴を履くとニョキと出る、思ったほど可愛くないのよね
と言って、スカートから足を出し、ふくらはぎの筋肉を見せてくれた。僕はごく自然に覗き込む形になったが、まじめな高校生としては何ともなシーンになった。
僕/でも光田さんの勇気はスゴイよ 三年生が卒業してミニがいなくなり、誰も後を継がないのかと残念に思っていた やっと君が現れたので、男子にも応援している者がいることを伝えたかった。
モ/先輩が頑張って残してくれた伝統だもの 誰かが継がないと・・ ありがとう影浦君
僕/エッ 僕の事知ってるの
モ/野球部でしょ グランドにいる子は大体知てるわよ
僕は、知らないことを前提に話ていたので、慌ててその場から逃げ出した。
後年、二番町の店で悦チャンと同席したことがあり、この時の話になったが、僕は全く覚えていなかった。ただ二人が「あった」というので、記憶の隅々を探ったが、その場では思い出せなかった。ところがある切欠で、すべてを思い出した。最初に浮かび上がって来たのは、「モッチャンのふくらはぎ」だった。生涯良き友であったことを誇りに思う。

〇ミニスカートの歴史を紐解くと、1966.12.イギリス・ロンドンで発表されたとなっている。日本への上陸は1967.9、NHKアナウンサー野際陽子さんが留学先のパリから帰国に際し着用し、羽田のタラップに降り立ったとき、と記録されている。A子さんの試みは、これに5か月先行しており、それを許容した海稲先生の判断力は、東高の歴史として記録する価値があると思う。

〇昔々のこと、少々盛ってるところもあるが話の形を整える程度、ウソは書いていない。

〇リレーメッセージの次は松波君、励ましのメールがあったので指名しておいた




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