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光明掲示板・伝統・第一

 

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信仰生活の浮き沈み (145)
日時:2015年01月31日 (土) 17時42分
名前:夕刻版

・・・

人生でも、日々の信仰生活でも、掲示板上でも、
人は、熱くなったり、冷めたりを繰り返しながら、魂を向上させていくようです。

そこで、このスレッドでは、自戒を込めて

『生活と人間の再建』第11章「信仰生活の種々相」を紹介してまいります。

・・・

《信仰の満潮期と干潮期》

吾々が真理にふれる時、そして神との接触が行われたと自覚された時、
凡ゆる方面に吾々の生活が輝いて来て、病は癒やされ、家庭は調和し、
事業は繁盛におもむき、「行く所可ならざるなし」というような状態になるのが普通である。

そういう時にその人は信仰に熱がのっていて、
所謂る「感激中」というような状態になるのである。

所がその感激中は、そう長くは続かないのであって
所謂信仰の「干潮期」がやってくるのである。

最初に自分を感激せしめたその同じ真理が、今では一向自分を感激せしめないし、
それに伴って自分をとり囲んでいる物質的環境も順調に行かなくなって色々の悩みや
いらいらしさが現れて来るのである。

ある場合には、自分自身又は家族の中に突然の病気が現れて来たり、
愛する者との間に何か紛争が捲き起って来て耐えがたいような状態を演出することもある。

暗黒が自分の周囲をとじこめて、迷宮はますます迷宮に入り、
再び真理の光を見る望みは失われ去ったようであり、ともすれば、自暴自棄になろうとする。

病気や周囲の不調和そのものの苦しみよりも、一度はあんなにも奇蹟を現して、
自分に輝く世界を見せてくれていた真理が、今は何の効果もなく、この悩みを
解決する力を失ったという事の打撃の方が、尚一そう痛切に感じられるのである。

もう拠り所がない、もう掴むべき一筋もないというような時が往々にして訪れる。
淋しい信仰の頽廃期である。

           <感謝合掌 平成27年1月31日 頓首再拝>

《真理の種子は暗黒の中にも生長する》 (155)
日時:2015年02月01日 (日) 19時21分
名前:伝統〜夕刻版



かかる時吾々の魂は叫ぶ。

真理は無力なのか? 
信仰は無駄なのか? 
祈りはきかれないのか? 

否、否、祈りはきかれているのである。
真理は有力に働いているのである。
吾々はそれに対して信仰をもたなければならない。

ただぐらつきかけているのは自分の信仰だけである。
暗闇の中でも心臓は鼓動し、肺臓は呼吸して吾々を生かしている。
かように、真理は吾々の暗黒期の中でも有力に働いていてくれるのである。

祈りはきかれてすべてが順調に進んでいるのである。
暗黒に見え、逆境に見えている時にさえも、真理の種子はそこに生長し、
祈りはそこに実現すべく働いているのである。

祈りによって蒔かれたる真理の種子は潜在意識の暗黒の大地の中に蒔かれていて、
そこには日光が射さないけれども、種子は次第にふくらみかけているのである。
そして、緑の小さい芽がその胚芽から生長し出でつつあるのである。

吾々は一旦自分の潜在意識に蒔かれたる真理の種子が、もう芽をふかないかと思って、
掘りかえしてみるような愚かな事をしてはならないのである。

吾々が種子を目に見えない地面の中に植えつけて、その発芽するのを
大地の力に任せてしまうかのように、吾々は祈りの結果を、
祈りによって蒔かれたる真理の種子の生長を、

神のみ手に完全に委ねて、神が神の方法によって
それを適当な時期に適当な形で、芽を出し茎をのばし、葉を広げ、
蕾をつけさせてくれるまで待たなければならないのである。

神に任せてこの待つ心のないものは遂に美しき花を見ずに終るかも知れないのである。

           <感謝合掌 平成27年2月1日 頓首再拝>

《「現象の善さ」よりも「魂の善さ」を》 (166)
日時:2015年02月02日 (月) 17時52分
名前:伝統

一たん蒔かれたる真理の種子は、吾々阿が信念の欠乏から、
掘り返してみない限りは必ず膨脹し、必ず根を拡げ、必ず芽を出し、
頭をもたげ、土を破るのである。

その結果は破壊と振動とがその周囲に起るのである。
それが起らないようでは、その祈りが効果があったというに足りないのである。

新しい大きな芽が頭をもたげる時には大地の周囲が破壊するのである。
かくて古きものは破壊し新しきものが現れるのである。

周囲に起る不調和と見えたものは吾々が祈りを求めた新しき状態に移るために
古き状態が真理によって爆撃されつつある光景にすぎないのである。

これを吾々は「迷いの自壊作用」といって来たのである。
この自壊作用そのものの中に神が吾々の祈りに応じ給うた解答があるのである。

吾々はその変化の中に、擾乱の中に、不調和の中に、病気の中に、周囲の反抗の中に、
祈りの実現しつつある過程を見て、感謝し得るだけの智慧をもたなければならない。

吾々に必要なのは形の世界がすぐに調和してしまうということではないのである。
神の求め給うのは吾々の生命の進化であり、魂の発達である。

そんな擾乱の中に於いてすらも、その奥に神の智慧と愛との導きのあることを
見得る所の魂の発達こそ、神が吾らに課し給うた所のものであるのである。

吾々は直に小さな「現象の善さ」を求める。
然し、神はもっと立派な「魂の善さ」を与えようと欲していられるのである。

吾々が神の前にさし出す盃が余りにも小さいのである。
吾々はもっと大きな盃をださなければ神の愛と恵みを完全に受けることはできないのである。

神は吾々が形ある小さきものの成就を求めたのを契機に、
形なき宇宙に拡がる魂の喜びを与えようとしておられるのであるということに
気がつかなければならないのである。

           <感謝合掌 平成27年2月2日 頓首再拝>

《解決を神の方法に委せ切れ》 (178)
日時:2015年02月03日 (火) 18時02分
名前:伝統



もし吾々が凡(あら)ゆる方面に行きつまって何事も思うように行かないというような
状態が信仰を得た後(のち)に、毎日祈っているにも拘らず現れたとしたならば、
吾々は喜ばなければならないのである。

それは大地がわれる程の大きなものが下から芽をふきつつあるのである。
地面が動きだしたからといって、その地面の動きを征服しようと戦ってはならないのである。
またその地面を平かにしようと鍬や鋤を加えてはならない。

吾々は驚いたり騒いだりしてはならないのである。
吾々は神に全托しなければならない。
神は「《神の方法によって》」吾が祈りにこたえ給うのである。

自分の我の心で「《神の方法》」を批判してはならない。

かかる時に於いて我らの祈るべき言葉は、

「神よ、あなたの無限の智慧を以って吾を導き給え。
神よ、この解決を貴方の方法にお任せ致します。

今起っている事件の意義を知り得る智慧を与え給え、
そしてこの試みに耐えてわが魂の発達致しますように」

というようでなければならないのである。


もし吾々が、祈りにも拘らずそこに現れた不完全な状態と見えるものに対して、
恐れ戦(おのの)き、或は周章狼狽し、我(が)の心でその状態を変化しようと
努力するならば、折角「神よあなたの方法にお任せ致します」と祈ったその祈りを、

取消してしまうことになり、神の智慧に逆(そむ)いて我(われ)の智慧を行使すること
になり、結局、祈った事物の実現をおくらしてしまうことになるのである。

祈りは我々が神のみ心に対して完全に任せきり、
「神の方法」に逆(さから)わなくなった時に、もっともなめらかに実現するのである。

然しこれは時としては甚だ難しいことがあるかも知れない。

ある場合には、今迄かくも愛し、かくも恩恵を与えてきた相手が自分に反抗して立ち、
自分に矛を向けて、小さな欠点を鵜の目鷹の目で探しだし、恩を仇で返すような
仕打(しうち)をしてくることがあるかも知れない。

そのような時に、普通ならば吾々は彼を憎み、自己を弁護するために、
彼と同じように彼の欠点を数えあげて相手を傷つけたくなるであろう。

然しそれでは決して神のみ心にかなうやり方ではないのである。
かかる状態が自分の目の前に現れたということは、自分の魂がそれによって磨かれて、
かかる敵をすらも愛する力を、わが魂に実現せんがための、神の摂理であるのである。

           <感謝合掌 平成27年2月3日 頓首再拝>

《彼の反抗は業の自壊作用》 (190)
日時:2015年02月04日 (水) 21時14分
名前:伝統


更にそれはあなた自身の魂を磨かんがための課題として現れた状態であるばかりでなく、
恩を仇で返そうとしているようなその人の誤れる「精神傾向」が自壊せんがために
一遍に爆発しつつあるのである。

我々の祈りが彼の誤れる「精神傾向」の火薬庫に焼夷弾を投げ込んだのである。
焼夷弾は小さくとも、彼の潜在意識の蔵の中に貯えられている業の爆弾は
大量であるのである。

だから彼は自分に対してはげしく反抗して立つかのごとく見えるのである。
それをただの「反抗」であると思ったり、「状態の悪化」であると思っては
ならないのである。

それはただ真理の焼夷弾が彼の「精神傾向」の悪さを爆破せしめつつあるのである。
彼自身も何故そんなに反抗したくなるのか。
意地悪をしたくなるのかその意味がわからないのである。

ただ内部から大きな力で揺り動かせるような感じである。
とめようと思っても内部から起こってくるその力がとまらない。

もしあなたが、彼のその内部的な業の自壊作用を理解することができるならば、
あなたは彼の反抗や、意地悪に対して同情することができるのである。

そしてその彼の感情の爆発の奥に目覚めつつある実相の善さを拝むことができるのである。
そうして一層彼を愛し、平和の心を以て彼に対し「祈りはきかれつつある」と自覚して
感謝することができるのである。

           <感謝合掌 平成27年2月4日 頓首再拝>

《祈りの反応としての不調和》 (204)
日時:2015年02月05日 (木) 17時57分
名前:伝統

祈りの反応として現れて来る不調和な状態の中には、時として自分自身が病気になり、
時として自分の愛する家族が病気に罹ることがあるのである。

そんな時に祈りの効果を疑ってはならないのである。
それはむしろ祈りの効果が現れつつあるのである。

すべて古きものの破壊は新しきものの実現の場所を造りつつあるのである。
発熱の中に、発疹の中に、下痢の中に、古きものが燃焼しつくされ、排泄され、
新しき組織ができつつあるのである。

これは祈りの応答として、神があなたに病気を課しつつあるのではないのである。

肉体は魂の「機関」であり、精神の「座」であるから、
発達せる魂が、尚一そう自由なる精神をその機関を使って働かせんがために、
必要なる所の改造が行われつつあるのである。

それは肉体の不調和の状態の如く見えているかも知れぬけれども、
それは病気でもなければ不調和でもないのである。

魂の機関が、精神の座が、それによって浄められつつあるのである。

祈りの応答としてのかくの如き肉体の状態の意味を吾々が本当に知ることができるならば、
吾々はその肉体の状態に対して、否、その奥に動いている所の浄化作用に対して
「ありがとうございます」と感謝しなければならないのである。

           <感謝合掌 平成27年2月5日 頓首再拝>

《「無抵抗」の有(も)つ不可思議力》 (216)
日時:2015年02月06日 (金) 17時49分
名前:伝統

環境や周囲の擾乱に対して、それと戦うことを止め、
それを「迷いの自壊作用」と認めて尚一そう相手を赦し愛する気持ちになった時に、
速かに周囲に光明輝く状態が現れて来ると同じように、

かくの如くにして起こった病気に対して、その病気の意味を理解し、
それに感謝するようになった時、自分の病気が、或いは自分の家族の病気が
奇跡的な迅速さを以て回復することがあるものである。 

「悪に抗すること勿れ」「汝をなやめ責むるところの敵の為に祈れ」と
キリストがいった言葉の真理が又ここにも当てはまるのである。

吾々は他(ひと)を赦すことによってのみ自分が赦されるのである。

旧約の救いは「目にては目をつぐない、歯にて歯をつぐなう」
自力の行にによって行われたのであるが、
新約の救いは、キリストの愛と恵みによって行われるのである。

吾々は「キリスト」を通じて、過去に如何に多くの罪業があろうとも救われるのである。

私のいう「キリスト」とは2千年前に生まれた肉体イエスのことではないのである。
キリストとは「《自己の内にやどる無限の赦す心》」であるのである。

キリストは「七度(たび)を七十倍度(たび)赦せ」といったのである。
「赦す心」がキリストである。

我々が「赦す心」を自分の内に起こした時に、
キリストは自分の内に宿っているのである。

キリストは「我は道なり、真理なり、生命(いのち)なり」といい、
又「我は扉(とびら)なり、もし誰にてもあれ吾より入(い)るものは救われるべし」
といったのである。

吾々が人を《赦す》時我が内に真理が生き、生命(いのち)が生き、
キリストが生き、そのキリストの扉(とびら)を通して、
常楽の世界なる天国に入(い)ることができるのである。

           <感謝合掌 平成27年2月6日 頓首再拝>

《祈りを一層効果あらしめるには》 (228)
日時:2015年02月07日 (土) 17時54分
名前:伝統

吾々が、もし祈りを効果あらしめんと欲するならば、
人を赦さなければならないのである。

もし吾々が一つの罪に対して必ず一つの報いを受けるという法則の世界に於いて
生活するならば、吾々は決して赦される時は来(こ)ないのである。

吾々は今迄自分が生活する為に無数の生き物を殺して来たのである。
もし一つの殺生を以て一つの殺生に報いるというのであるならば、
吾々は幾度死刑の執行を受けても赦されようがないのである。

かくの如く現象面から見るならば罪の深い深い人間なのである。
それが赦されるためには神の無限の大慈悲の中にとびこまなければならないのである。

然し神の無限の大慈悲の中に飛び込んだ所が自分自身が「赦さない」固い心を
持っている限りに於いて神の大慈悲の波長と、波長が合わないのであるから
依然として赦されないでいる外(ほか)はないのである。  

吾々が心の中に「赦し」の念を起こす時「赦し」の法則が自分の心の中に行われ、
そこに自分が宿っている「《赦し》」(《キリストの救い》)が実現するのである。

我々が深い信仰を以て赦しの言葉を心の中で唱える時、
一切の罪の報いは消えてしまうのである。

原因結果の法則を超えて救いの世界へ超入する道は、
自分自身が「赦し」の心を起こして、
「赦し」なる神の愛と一体になる必要があるのである。

もし吾々が如何なる罪を犯しておろうとも、
真に自分が凡(あら)ゆるものを赦すことができる心境に達すれば、

神の赦しの波長はそこに実現し来(きた)って自分自身が赦される事になり、
自分自身が完全なる自由を獲得することがきるのである。

           <感謝合掌 平成27年2月7日 頓首再拝>

《他(ひと)の悪を認めてはならない》 (243)
日時:2015年02月08日 (日) 17時46分
名前:伝統

吾々が神の救いにあずかろうと思うならば、神と同じ心境にならなければならない。
神は完全なる善であるから、神は悪を感ずることができないのである。
それは丁度光は暗を感ずることができないのと同じことである。

吾々が悪を感じ得るのは、少なくとも吾が心の中に悪の波動が起こるからである。

我々が、「赤い色」を感じ得るのは自分の心の中に「赤い色」の波動が起こるからである。
赤色(せきしょく)色盲に於いては、心の中に「赤色」の波動が起こらないが故に、
「赤色(せきしょく)」を見る事ができないのである。

神に於ては一瞬間といえども、「悪」の波動が起こらないが故に、
神は吾々の「悪」を認め給うこと決してなく、従って吾々の悪を罰し給う
こともないのである。

吾々が神の救いと完全に波長を合わせようとするならば、吾々自身が神と等しく、
一切の悪を認めない心境にならなければならないのである。

神は吾々の愛深き父であり、神の子たる人間のただ「善」のみを見給うのである。
その如く吾々人間も、すべての人間の内に在る「神なるもの」「完全なるもの」
「人間の実相」「内に宿るキリスト」を見て礼拝しなければならないのである。

そこに如何なる悪と見えるものの前にも、
それも見えないところの無限の赦しが生ずるのである。

法華経に於ける常不軽経菩薩はすべての人間を、
「仏(ほとけ)なるもの」として礼拝し、
石で打たれてさえも、更に相手を仏なるものとして礼拝したのである。

キリストは十字架につけられながら、
一緒に磔(はりつけ)にかかっている盗賊に対して
「次の日汝らは我と共に天国にてあらん」といって

悪を見ないで天国にいる神の子人間を見たのである。

           <感謝合掌 平成27年2月8日 頓首再拝>

《光に対して眼をひらけ》 (268)
日時:2015年02月10日 (火) 17時48分
名前:伝統

人は罪を犯したが故にとて、
神に跪(ひざまず)いてその赦しを求めるのであるが、
罪とは果たして何であるか。

罪とは実相に対して目をつぶっていることであって、
それは眼をつぶった目に光が存在しないということにすぎないのである。

それは罪と云う実物が存在するのではなくして、
光りに対して目をとじていることだけの消極的状態にすぎないのである。

吾々は唯目を開ければ好いのである。

余りに赦す心なく、心のレンズを絞るから光が入らないのである。
自分自身の心を小さく絞ることをやめよ。 

祈りは、結局心の思いであって、
心の中に想い浮かべた相(すがた)の通りが形に現れてくるのである。

人に対して憎みながら、「幸福が来ますように」と祈ることは
雑草を蒔きながら「米を刈り取らせてください」と祈ると同じことである。

我々が人を憎めばその憎みが自分に戻って来て刈り取られるのである。

吾々が肉体を大切にしないならば、肉体は吾々を大切にしないであろう。
吾々が金銭を大切にしないならば、金銭は吾々を大切にしないであろう。
吾々が人間を大切にしないならば、人間は吾々を大切にしないであろう。

吾々は、与えた所のものが与え返されるのであるということを知らねばならない。
吾々がある人を傷つけるならば、その報いはその人から返ってこないことがあるかも
知れないが、他(た)の人から同じような害を自分に与えるように返ってくるのである。

吾々が甲に対して出し惜しみをするならば、乙は私に対して出し惜しみをするであろう。

           <感謝合掌 平成27年2月10日 頓首再拝>

《原因結果の法則の世界》 (293)
日時:2015年02月12日 (木) 17時29分
名前:伝統

このようにこの世界は原因結果の世界に支配されているのである。
憎みや、怒りや、復讐のパイプを造って置いて、
そこから平和や喜びや、幸福が流れ込んでくると考えてはならないのである。

他(ひと)から奪うような方法によって、富んでみても、
その富は又他人から奪われるか、そうでなければ他の方法で
その人の幸福は奪われるのである。

多くの富める人の生活につきまとうものが、家族の病気や、家庭の不調和や、
団体と団体との面白くない葛藤等によって起こる不幸であるということは、
その富が他(ひと)から幸福を奪った結果得られたような部分があるからである。

人の幸福を奪うものは、又自分の幸福が奪われるのである。

           <感謝合掌 平成27年2月12日 頓首再拝>

《光は影を見ない》 (308)
日時:2015年02月13日 (金) 21時24分
名前:伝統

吾々が真に幸福になろうと思うならば、「悔い改め」が必要なのである。
「悔い改めよ、天国は実現せん」とキリストは教えているのである。

吾々はすべての罪の穢れから脱却して幸福になろうと思うなら、
人の罪を赦さなければならないのである。

如何なる人が、いつどこで、如何なる罪を犯しておろうとも、
そんなことは問う必要はないのである。

如何なる罪も、罪を見給わない神の前にひきだされた時、
「それは雪よりも白く」浄められてしまうのである。

光は影を見ず、神は、罪を見給わないからである。

吾々は自分勝手に人の罪に引っかかって、自分の心を苦しめる必要はないのである。
吾々が人の罪を赦した時自分の心の重荷はとりさられてしまうのである。

吾々に「悔い改め」は必要であるが、常に罪の記憶で悩んでいてはならないのである。
罪は光に反して立った時の影のようなものであるから、
「悔い改め」即ち光に面して立った時にはすでに過去の罪はないのである。

吾々は他の人を赦すと共に、自分自身も赦さなくてはならない。
過去の一切を投げ出して光の方に直面すればいいのである。

その時たちまち諸々の罪は消えて「雪よりも白く」吾々は浄められるのである。


マグダラのマリアが過去の罪を悔いてただひたすらキリストの足の前に
全身を投げ出した時、その刹那、彼女は救われたのである。

多くの罪の為に「石にて打ち殺されんとする女」に対して
キリストは「吾も汝を罪せじ、行きて再び罪を犯すな」といっているのである。

しかし再び光の反対をふりむく時、暗(やみ)が現れるが如く罪も再び現れるのである。
だから「再び罪を犯すな」である。

この真理を知らなければならない。

人の罪に対して吾々が心を振り向けた時自分自身の心が罪でけがされてしまうのである。
だから吾々は、他の人の悪と不正に対して心をふりむけることをやめなければならない。

吾々が罪から解放される所の道は、吾も亦他(た)の罪を釈放するところにあるのである。

吾々がもし真に愛深きものであるならば、その人の善き所を探すのに忙しくて
「悪」を心に記憶して数えあげるような暇はない筈である。  

キリストは自分をとらえに来た者をも赦して、
ペテロがそれに対して剣を抜いて戦おうとしたのを押しとどめ、
ペテロに耳を斬られて倒れている兵隊を愛の心によって癒してさえいるのである。

キリストは形の世界で磔になったけれども、心の世界では世界を征服し給うのである。
愛と赦しとは最も大いなる力であって、それのみが全世界を救うのである。 


多くの人達は、人の罪に対して長くぐずぐず思い患(わずら)い、
赦さないために夜の目も眠れず、色々の肉体的故障を起こしている人も
随分沢山あるのである。

かかる原因で起こっている病気はただ赦すことによってのみ、
神の「癒す力」を自分の中(うち)に解放することができるのである。 

吾々はすべて、(特に病める人々は)眠りしなに神想観を行い、
昼の中(うち)に色々の問題に対して起こした所の怒り、憎み、争い嫉妬等の感情を
心から拭い去るようにしなければならないのである。

それは次のように心の中で思念するのがよいのである。

「吾は神の子である。神の霊が宿っているのである。
神の無限の愛が今すべての人の罪を赦し給うのである。
そして自分の罪をも赦し給うたのである。

自分は今神に赦されて全ての罪は消えたのである。
自分は自由である。ありがとうございます。」

かく念じて神の愛を深く自己の内に実感し他(た)をも赦すのである。
この習慣をつける時信仰の暗黒時代は速やかにすぎさって 
光明に面することができるのである。

<完了>

以上で、『生活と人間の再建』第11章「信仰生活の種々相」の謹写を終了いたします。

           <感謝合掌 平成27年2月13日 頓首再拝>

関連として要約いたしました。 (333)
日時:2015年02月15日 (日) 19時58分
名前:伝統

関連として、谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱にて、”童子 さま”が、
「信仰生活の暗黒時代を通過する道」という記事を掲載しております。

その要点を紹介させていただこうと作業に取り掛かり、言葉を追っていくうちに、
《信仰の満潮期と干潮期》〜《原因結果の法則の世界》 に該当することに気づきました。

ということは、《信仰の満潮期と干潮期》〜《原因結果の法則の世界》の
初出は、『生長の家』誌 24年6月号のようです。

 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=57



・・・以下は、その要約した資料です。

(1)吾々が真理にふれる時、そして神との接触が行われたと自覚された時、
   その人は信仰に熱がのっていて、所謂る「感激中」というような状態になるのである。

(2)(「感激」の後に)所謂信仰の「干潮期」がやってくるのである。
   感激せしめたその同じ真理が、今では一向自分を感激せしめないし、
   それに伴って、色々の悩みやいらいらしさが現れて来るのである。

   一度はあんなにも奇蹟を現わして、自分に輝く世界を見せてくれた真理が、
   今は何の効果もなく、この悩みを解決する力を失ったという事の打撃の方が、
   尚一そう痛切に感じられるのである。 

   もう拠り所がない。 
   もう掴むべき藁一筋もないというような、淋しい信仰の頽廃期である。

(3)かかる時吾々の魂は叫ぶ。 真理は無力なのか? 
   信仰は無駄なのか? 祈りはきかれないのか?  

   吾々はそれに対して信仰をもたなければならない。 
   ただぐらつきかけているのは自分の信仰だけである。 

(4)暗黒に見え、逆境に見えている時にさえも、真理の種子はそこに成長し、
   祈りはそこに実現すべく働いているのである。

   一たん蒔かれたる真理の種子は、吾々が信念の欠乏から、
   掘り返してみない限りは必ず根を膨張し、必ず根を拡げ、必ず芽を出し、
   頭をもたげ、土を破るのである。 

(5)その結果は破壊と振動とがその周囲に起るのである。 
   それが起らないようでは、その祈りが効果があったというには足りないのである。 
   新しい大きな芽が頭をもたげる時には大地の周囲が破壊するのである。 

   かくて古きものは破壊し新しきものが現われるのである。 
   周囲に起る不調和と見えたものは吾々が祈り求めた新しき状態に移るために
   古き状態が真理によって爆撃されつつある光景にすぎないのである。

(6)これを吾々は 「迷いの自壊作用」 といって来たのである。 
   この自壊作用そのものの中に神が吾々の祈りに応じ給うた解答があるのである。

   吾々に必要なのは形の世界がすぐに調和してしまうということではないのである。
   神の求め給うのは吾々の生命の進化であり、魂の発達である。 

(7)吾々は直ちに小さな 「現象の善さ」 を求める。 
   然し神はもっと立派な 「魂の善さ」 を与えようと欲していられるのである。 

   神は吾々が形ある小さきものの成就を求めたのを契機に、
   形なき宇宙に拡がる魂の喜びを与えようとしておられるのであるということに
   気がつかねければならないのである。

(8)もし吾々が凡ゆる方面に行きつまって何事も思うように行かないというような
   状態が信仰を得た後に、毎日祈っているにも拘らず現われたとしたならば、
   吾々は喜ばなければならないのである。 

   それは大地がわれる程の大きなものが下から芽をふきつつあるのである。 

   かかる時に於いて我らの祈るべき言葉は、

   『神よ、あなたの無限の智慧を以って導き給え。 
   神よ、この解決を貴方の方法にお任せ致します。 
   今起っている事件の意義を知り得る智慧を与え給え、そしてこの試みに耐えて、
   わが魂の発達致しますように』  というようでなければならないのである。

(9)祈りは我々が神のみ心に対して完全に任せきり、
   『神の方法』 に逆わなくなった時に、もっともなめらかに実現するのである。

   しかし、ある場合には、今迄かくも愛し、かくも恩恵を与えて来た相手が
   自分に反抗して立ち、自分に矛を向けて、小さな欠点を鵜の目鷹の目で探しだし、
   恩を仇で返すような仕打をしてくることがあるかも知れない。

   かかる状態が自分の目の前に現われたということは、
   自分の魂がそれによって磨かれて、かかる敵をすらも愛する力を、
   わが魂に実現せんがための、神の摂理であるのである。

   更にそれはあなた自身の魂を磨かんがための課題として現われた状態である
   ばかりでなく、恩を仇で返そうとしているようなその人の誤れる 『精神傾向』
   が自滅せんがために一遍に爆発しつつあるのである。

   もしあなたが、彼のその内部的な業の自壊作用を理解することができるならば、
   あなたは彼の反抗や、意地悪に対して同情することができるのである。 

   そしてその彼の感情の爆発の奥にある実相の善さを見て拝むことができるのである。 
   そして一そう彼を愛し、平和の心を以て彼に対し 『祈りはきかれつつある』 
   と自覚して感謝することができるのである。

(10)祈りの反応として現われて来る不調和な状態は、これは祈りの応答として、
   神があなたに病気を課しつつあるのではないのである。 

   肉体は魂の 『機関』 であり、精神の 『座』 であるから、
   発達せる魂が、尚一そう自由なる精神をその機関を使って働かせんがために、
   必要なる所の改造が行われつつあるのである。

   祈りの応答としてのかくの如き肉体の状態の意味を吾々が本当に知ることが
   できるならば、吾々はその肉体の状態に対して、否、その奥に動いている所の
   浄化作用に対して 『ありがとうございます』 と感謝しなければならないのである。

(11)吾々は他を赦すことによってのみ自分が赦されるのである。
   吾々が人を赦す時吾が内に真理が生き、生命が生き、キリストが生き、
   そのキリストの扉を通して、常楽の世界なる天国に入ることができるのである。

   吾々が心の中に 『赦し』 の念を起す時 『赦し』 の法則が
   自分の心の中に行われ、そこに自分に宿っている 
   『‘赦し’』(‘キリストの救い’) が実現するのである。 


(12)吾々が神の救いと完全に波長を合せようと欲するならば、吾々自身が神と等しく、
   一切の悪を認めない心境にならなければならないのである。 

   神は吾々の愛深き父であり、神の子たる人間の唯 『善』 のみを見給うのである。 
   その如く吾々人間も、すべての人間の内にある 『神なるもの』 『完全なるもの』
   『人間の実相』 『内に宿るキリスト』 を見て礼拝しなければならないのである。 

   そこに如何なる悪と見えるものの前にも、それを見ない所の無限の赦しが生ずるのである。

(13)罪とは実相に対して目をつぶっていることであって、
   それは眼をつぶった目に光の存在しないと云うことにすぎないのである。 

   吾々は唯目を開けば好いのである。 ただ赦せばいいのである。 

(14)この世界は原因結果の法則に支配されているのである。 
   憎みや、怒りや、復讐のパイプを造って置いて、そこから平和や喜びや、
   幸福が流れこんでくると考えてはならないのである。 

   人から奪うような方法によって、富んで見ても、その富は又人から奪われるか、
   そうでなければ他の方法でその人の幸福は奪われるのである。

           <感謝合掌 平成27年2月15日 頓首再拝>



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