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光明掲示板・伝統・第一

 

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イエス・キリスト (110)
日時:2015年01月27日 (火) 18時25分
名前:夕刻版

映画「サン・オブ・ゴッド」を先日、観てきました。

年のせいか、涙腺が緩みっぱなし。

イエス・キリストを題材にした映画は、過去にも観ておりましたが、
何ゆえか、今回は感動し、涙目での鑑賞になってしまいました。

イエス・キリストに関心のある方、波長が合う方には、お勧めです。

信仰心を深めるとはどういうことか、その難しさ、大切さを感じさせてくれます。

・・・

<参考Web>

映画『サン・オブ・ゴッド』
 → http://sonofgod.jp/

映画『サン・オブ・ゴッド』予告編
 → https://www.youtube.com/watch?v=qPBvpEMTvE4

・・・

       *産経新聞(2015.1.9 )のシネマレビューより

古代ローマ帝国治世下のベツレヘムで生まれたイエス(ディオゴ・モルガド)は、
さまざまな奇跡を起こし、次第に多くの信者を集めてゆく。
だが、イエスの教団勢力拡大を恐れたユダヤの最高法院に死刑を宣告されてしまう…。

イエス・キリストの生涯を描いた作品。

いろいろな神様、仏様を信じる(多神教)日本人には
一神教徒(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)の宗教観は分かりにくい。

本作を見れば、イエスを死に追いやったのは、治世者のローマ帝国(多神教)よりも、
むしろ同じ一神教徒のユダヤ人だったことが分かる。

http://www.sankei.com/entertainments/news/150109/ent1501090007-n1.html

・・・

      *カトリック新聞オンラインより

イエス・キリストの降誕から復活までを描いた歴史映画『サン・オブ・ゴッド』
(「神の独り子」の意味)は、キリストの生涯とその教え、また歴史的背景を、
聖書に忠実に描いた傑作と言えるだろう。

キリストの十二人の弟子の一人、ヨハネを語り手として“物語”は進行する。
イエスの降誕、洗礼、宣教、最後の晩餐、逮捕、十字架への道行、
そして死と復活…、聖書の名場面が次々と映像になって現れる。

パンと魚が増える場面や、ペトロが湖上を歩こうとする場面、ラザロの復活の場面など、
キリストの奇跡を織り交ぜながら、神と人間を徹底的に愛したキリストが、
なぜ殺されなければならなかったのかが、解き明かされていく。

映画の基になったのは、昨年放映され大ヒットした米国テレビ・ミニシリーズ
『ザ・バイブル』(「聖書」の意味)。
旧約聖書の天地創造から新約聖書の聖霊降臨までを描いた全10話だが、
この作品は、その集大成としてイエス・キリストの生涯に焦点を当て、映画にしたものである。

人間の弱さや欲望、権力者や国家による犯罪は、今も昔も変わることがない。
2000年を経た今も、キリストは私たちに呼び掛ける。

「私についてきなさい。世の中を、そして世界を変えるために」と。

http://www.cathoshin.com/2014/12/10/son-of-god/

           <感謝合掌 平成27年1月27日 頓首再拝>

無原罪の受胎 (122)
日時:2015年01月28日 (水) 17時40分
名前:伝統

《あなたの実相は”無原罪の受胎”である》

        *「神と偕に生きる真理365章」(P−343)より

今あなたは自己に宿る”神の子”を自覚したのである。
”神の子”は”既に贖(あがな)われたる者”であり、”無原罪の受胎”である。

土の塵によって造られたるアダムがあなたの祖先ではないのである。
エロヒムの神があなたの生みの親であり、”光の神”があなたの真の父なのである。

あなたは”光の子”であるから、あなたの住む処、行く処、向かう処、
悉く明るくして暗い影はないのである。

すべての過去の罪はあなたの心の中に描かれたる妄想の影であるから、心の中に真理の光が
射し来(きた)ると共に消えてしまったのである。

あなたは本来”神の子”であるから、実相に於いて未だ嘗て罪を犯したことは
なかったのであり、これからもまた罪を犯すことはないのである。

罪は”包み”であり、本来の”光の姿”に対して”心の瞼(まぶた)”を垂れ”包み”て、
光を見なかった状態である。

ひとたび”心の瞼”をひらいて、人間自身の実相を堂々と露呈するとき、
”包みの状態”即ち”罪”はもう何処(どこ)にもなく、
光ばかりの”神の子”の実相があらわれるのである。


・・・

         *「神と偕に生きる真理365章」(P23)より

私は『生命の實相』の中にその奇瑞の起る秘密の原点を解読して、
その原点は「無原罪の受胎」を自覚することにあると指摘したのだった。

そして『生命の實相』を読むことによって
ルールドの聖池に浸ると同様の奇蹟的治癒が起る人々があるのは

すべての人間の生命の実相は「無原罪の神の子」だとの思想に浴し、
本来無病の”神の子”をわが身に受胎していることを自覚するからだ
と解説しておいたのだった。

この本来罪なく、本来病い無き”無原罪の自己生命”を悟ることが
新たに生まれる原点である。

         <感謝合掌 平成27年1月28日 頓首再拝>

《私のために奇蹟を求むな》 (131)
日時:2015年01月29日 (木) 17時33分
名前:伝統


           *「光明法語<道の巻>」(P250〜251)より

キリストの奇蹟は預言や透視や治病のほかに
水を葡萄酒に変じた物理的心霊現象(「ヨハネ伝」第二章)さえも起したのである。

日本にも孝子が瀧の水を汲んで父に与えたとき、
それが酒に変じていたと云うごとき養老の瀧の奇蹟もある。

しかしこれらの奇蹟は、神を試みるための奇蹟でもなく、
自己を誇らんがための奇蹟でもなく、
神の栄光をあらわすところの奇蹟である。

それは私的な求めによる奇蹟ではなく、公なる内部要請に基づく奇蹟なのである。
真に公なる愛に基づく祈りが起こるならば更に一層大なる奇蹟を見るであろう。

           <感謝合掌 平成27年1月29日 頓首再拝>

イエス涙を流し給えり (138)
日時:2015年01月30日 (金) 19時10分
名前:伝統

         *「生活の知恵365章」(P105)より
 

誰に対しても、
その不完全さが目についたならば、病人に対するが如くせよ。

あなたは病人に対して攻撃を加えるでしょうか。
病人を悪しざまに酷評するでしょうか。
そんなことはないでしょう。

病人に対しては四無量心を起すべきである。
即ち慈悲喜捨の四つの無量に深き愛念を起すべきである。

慈とは苦しみを見て苦を除かんと欲する慈念である。
この場合、労苦を少しでも軽減してあげたいと、その手伝いをする心である。

悲とは人の苦しみを見て楽を与えてあげたいと思う悲念である。


苦しんでいる人、重荷を負える人はすべて病人である。

病人に対しては、イエスはどうしたか?

「イエス涙を流し給えり」と『聖書』にある。

同慈、同悲の心が起ったのである。

次には神に祈って「神よ、あなたは常にわが願いを聴き給うことを知る」といって
自分の信念を増強し「死せる非ず、眠れるなり。起(た)てよ」と
断言しておられるのである。

その時ラザロは健康になって起(た)ったのである。


           <感謝合掌 平成27年1月30日 頓首再拝>

聖書に記せられた「奇跡」 (146)
日時:2015年01月31日 (土) 17時45分
名前:伝統〜夕刻版

         *「生命の實相」第35巻下化衆生篇功徳篇(上)(P83〜84)より

人間の能力は人間自身が物質的存在ではなく霊的存在である
ということを自覚すればするほど、無限に発現してくるのである。

四福音書に記されているイエスの奇跡や、
「使徒行伝」にあらわれているペテロ、ヨハネ、パウロの行なったような奇跡は、
ただの空想ではなく、またある一時代だけに限られたる奇跡ではなく

「生長の家」から出版されている書物を読んで真理を悟った人々には、
現代でも、またいつの時代でも起こる事実である。

神示によれば、「人間の病気が治るのが何が奇跡であるか」とある。

という意味は、人間は神の子であって、本来健康である。
本来健康であるものが健康になるのは奇跡でも不思議でもない。

かえって本来「神の子」である人間が病気になるのこそ
奇跡であり不思議であるという意味である

人間は本来「神の子」であるから、健康ばかりではなく、智慧においても、能力においても、
もしわれわれが「神の子」である事実を真に完全に理解すれば、
真に無限に湧き出でてくるべきである。

それが《真に無限に》湧き出でてこないのは、
自己自身が神の子であるという事実を真に完全に理解していないからである。

われらは自分で作った「制限」の眼をもって ―― 朦朧たる色眼鏡を透して
自己自身を眺めて、そこから通して洩れてくる生命、智慧、能力だけを認めて、
それを自分自身の力だと思っているからである。

           <感謝合掌 平成27年1月31日 頓首再拝>

「実相をあらわす好機会」 (156)
日時:2015年02月01日 (日) 19時24分
名前:伝統〜夕刻版

            *「幸福をひらく鍵」(P55)より

誰でも都合のよく往(ゆ)くときには感謝できるが、
都合が悪いときにも感謝できる者でないと本当に幸福な者になれないのである。

誰でも順潮に事が運ぶような時には勇気が出るが、
一つつまづくと勇気が無くなり勝(がち)である。

順潮に事が運ばず困難が重なる時にも勇気を失わず、正念(しょうねん)を失わず、
前進する者が最後の勝者となるのである。


「失敗」だと考える暇に、これが実相をあらわす「機会」だと考えよ。
「病気」だと考える暇に、これが実相をあらわす「機会」だと考えよ。

イエスはそのように教えたのである。

即ち盲目の少年がイエスに近づいて来たときに
「この少年が盲目にて生まれたのはこの少年の罪であるか、親の罪であるか」と
たづねたときに、

「本人の罪にもあらず、親の罪にも非ず、神の御業の顕れんがためである」
とイエスは答えているのである。

神の御業にて出来た世界が「実相」であるから、
「神の御業の顕れんがため」とは「実相をあらわす好機会だ」という意味である。

罪を見ないのがキリストの愛である。


あなたの心の奥底ふかく湧き上がってくるところの願いは、
既に「実相」に於て在るものが表現を求めて浮かび上がって来つつあるのである。

だから、それは必ず実現すると信じて努力すれば必ず実現する。

しかしその願いが実現した場合、他の人が不幸になったり、損害を受けたり、
他の人への愛に背くような願いは、「我」の願いであって「実相」の底深く
既に在るものではないのである。

このような我の願いは必ずしも実現するものではない。

           <感謝合掌 平成27年2月1日 頓首再拝>

光は影を見ない (167)
日時:2015年02月02日 (月) 17時56分
名前:伝統

         *「生活と人間の再建」(P144〜147)より

吾々が真に幸福になろうと思うならば、「悔い改め」が必要なのである。
「悔い改めよ、天国は実現せん」とキリストは教えているのである。

吾々はすべての罪の穢れから脱却して幸福になろうと思うなら、
人の罪を赦さなければならないのである。

如何なる人が、いつどこで、如何なる罪を犯しておろうとも、
そんなことは問う必要はないのである。

如何なる罪も、罪を見給わない神の前にひきだされた時、
「それは雪よりも白く」浄められてしまうのである。

光は影を見ず、神は、罪を見給わないからである。

吾々は自分勝手に人の罪に引っかかって、自分の心を苦しめる必要はないのである。
吾々が人の罪を赦した時自分の心の重荷はとりさられてしまうのである。

吾々に「悔い改め」は必要であるが、常に罪の記憶で悩んでいてはならないのである。
罪は光に反して立った時の影のようなものであるから、
「悔い改め」即ち光に面して立った時にはすでに過去の罪はないのである。

吾々は他の人を赦すと共に、自分自身も赦さなくてはならない。
過去の一切を投げ出して光の方に直面すればいいのである。

その時たちまち諸々の罪は消えて「雪よりも白く」吾々浄められるのである。


マグダラのマリアが過去の罪を悔いてただひたすらキリストの足の前に
全身を投げ出した時、その刹那、彼女は救われたのである。

多くの罪の為に「石にて打ち殺されんとする女」に対して
キリストは「吾も汝を罪せじ、行きて再び罪を犯すな」といっているのである。

しかし再び光の反対をふりむく時、暗(やみ)が現れるが如く罪も再び現れるのである。
だから「再び罪を犯すな」である。

この真理を知らなければならない。

人の罪に対して吾々が心を振り向けた時自分自身の心が罪でけがされてしまうのである。
だから吾々は、他の人の悪と不正に対して心をふりむけることをやめなければならない。

吾々が罪から解放される所の道は、吾も亦他(た)の罪を釈放するところにあるのである。

吾々がもし真に愛深きものであるならば、その人の善き所を探すのに忙しくて
「悪」を心に記憶して数えあげるような暇はない筈である。  

キリストは自分をとらえに来た者をも赦して、
ペテロがそれに対して剣を抜いて戦おうとしたのを押しとどめ、
ペテロに耳を斬られて倒れている兵隊を愛の心によって癒してさえいるのである。

キリストは形の世界で磔になったけれども、心の世界では世界を征服し給うのである。
愛と赦しとは最も大いなる力であって、それのみが全世界を救うのである。 


多くの人達は、人の罪に対して長くぐずぐず思い患(わずら)い、
赦さないために夜の目も眠れず、色々の肉体的故障を起こしている人も
随分沢山あるのである。

かかる原因で起こっている病気はただ赦すことによってのみ、
神の「癒す力」を自分の中(うち)に解放することができるのである。 

吾々はすべて、(特に病める人々は)眠りしなに神想観を行い、
昼の中(うち)に色々の問題に対して起こした所の怒り、憎み、争い嫉妬等の感情を
心から拭い去るようにしなければならないのである。

それは次のように心の中で思念するのがよいのである。

「吾は神の子である。神の霊が宿っているのである。
神の無限の愛が今すべての人の罪を赦し給うのである。
そして自分の罪をも赦し給うたのである。

自分は今神に赦されて全ての罪は消えたのである。
自分は自由である。ありがとうございます。」

かく念じて神の愛を深く自己の内に実感し他(た)をも赦すのである。
この習慣をつける時信仰の暗黒時代は速やかにすぎさって 
光明に面することができるのである。

              <感謝合掌 平成27年2月2日 頓首再拝>

ラザロの蘇生 (179)
日時:2015年02月03日 (火) 18時04分
名前:伝統

《ラザロの蘇生(同悲 → 堅信 → 実相直視)》

         *「『白鳩』誌 39年12月号」より

人の苦しみを救い、病いを癒すための祈りのよき見本を
イエスがラザロを復活せしめられた時に、
模範的に実例を示されていられるのであります。 

先ず、強き想念を起して相手の苦しみを 『可哀想』 であると同情して、
それを自己に摂取することです。 

これが 『イエス涙を流し給えり』 とある段階です。

 
次にイエスは 『神よ、あなたは常に私の祈りに応えたまうことを知る』 
と祈っておられます。 

この時イエスは神に対する堅信を告白し、
自己の内から『信ずる力』を喚び起されたのであります。


それから後は、イエスは、もうラザロの病気も死も一切の悪をも見ず、 
『死せるに非ず、眠れるなり、起きよ』 と断言しておられます。 

その時、ラザロは蘇生えったのです。


どんな状態が現象として目の前にあらわれていようとも、 
『悪しき現象は神が造らないから無いのである』 と観ずる。 
これがメタフィジカル・ヒーリング《超物質的神癒》です。 

それが 『死せるにあらず、眠れるなり。起きよ』 であります。 

『悪は存在するに非ず、それは善が眠れるなり、善よ、起きよ』 です。 

(”童子 さま”のブログより抜粋し転写しました。
   → http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24668015.html

                <感謝合掌 平成27年2月3日 頓首再拝>

《商売主義を排す》 (189)
日時:2015年02月04日 (水) 21時12分
名前:伝統

           *「光明法語<道の巻>」(P251〜252)より

イエスはユダヤ人の過越(すぎこし)の祭りのちかづいたとき、
イエルサレムの宮の境内に、牛、羊、鳩を売るもの、

両替する者などが坐っているのを見て縄の鞭をつくり、
羊をも牛をもみな宮より逐(お)い出し両替する者の金を散らし、
その台を倒し、鳩を売る者に

「これらの物を此処より取去れ、わが父の家を商売の家とすな」
と言った事が聖書に書かれている。

イエスは神を利用して儲けるところの商売主義に反対したのである。

神に対して商売的な功利主義で相対することは間違いである。

           <感謝合掌 平成27年2月4日 頓首再拝>

《形式主義を排す》 (203)
日時:2015年02月05日 (木) 17時55分
名前:伝統


           *「光明法語<道の巻>」(P252)より

イエスは暴力を用いなかったか、絶対に無抵抗主義であったかどうか
と云う問題についての議論の際引用せられるのが此の『縄の鞭』である。

イエスは形式主義者ではなかった。
『つるぎを執る者は剣に滅ぶ』といったイエスも剣のほかに
『縄の鞭』は使ったのである。

イエスは『審判(さば)く勿れ』と教えたが、
彼は激して形式主義のパリサイ人を審判いている。

また『審判(さばき)は子にゆだね給えり』とも言っているイエスは
生命主義者であり、生命の動く儘に自由に振舞ったのである。

           <感謝合掌 平成27年2月5日 頓首再拝>

審判(さば)かず、赦す (214)
日時:2015年02月06日 (金) 17時43分
名前:伝統

《みずから作る運命》

           *「光明法語<道の巻>」(P252〜253)より

イエスは審判いたから、とうとうその反対論者や審判かれた祭司や
パリサイ人などの謀略にかかって磔刑(はりつけ)にせられたのである。

イエスは「モーゼ蛇を挙げしが如く人の子も挙げらるべし」とみずから預言して
其の預言の通りになるように行動したのである。

イエスには磔(はりつけ)に架(かか)かることが
自己の切なる魂の奥底の願いだったのである。
魂の奥底の切なる願いは必ず成就する。

彼の生涯は若し彼があんなに神経的に他を審判かなかったならば十字架に
かからなかっただろう点が多々ある。

   ・・・

《人を赦して眠ること》

           *「光明法語<道の巻>」(P253)より

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

           <感謝合掌 平成27年2月6日 頓首再拝>

「悔改めよ、天国は手の届くところにある」 (227)
日時:2015年02月07日 (土) 17時52分
名前:伝統

           *「光明法語<道の巻>」(P255〜257)より

《汝は何者であるか》

汝は汝の自己が「汝自身が何者であるか」と信じている通りになるのである。

汝は弱小であると信じている限り弱小になる。
汝はすでに偉大であると信じておればその信ずるとおり偉大となるのである。

信念は山をも動かす。

信とは人偏に言(コトバ)であり、コトバは本質である。

人間の本質に対する自覚が信である。
人間の本質が神の子であることを信じたときに、その神の子の完全さが現われる。
自己の本質を自覚するまでに、ニセモノの自覚を捨てなければならなぬ。

それが悔改(くいあらた)めである。


《ニセモノの自覚を捨てよ》

「悔改めよ、天国は手の届くところにある」とキリストは言った。

ニセモノの自覚を捨てなければ、ニセモノのままで、
自分は神の子だと頑張ったとて何にもならぬ。

鍍金(メッキ)は本物だと頑張っても本物にはならぬ。
鍍金を剥がして本物を出してこそ「わしは本物だ」と主張する資格があるのだ。

鍍金(メッキ)を剥がす方法が『悔改(くいあらた)め』であり、懺悔である。
懺悔なしに自覚の転回は不可能である。

洗濯することなしに、垢(あか)を流し捨てることなしに
「私は清潔です」と頑張って見ても駄目だ。


《自己を死に切る》

『悔改め』を佛教では『懺悔』と言い、自己放棄と言い、
パウロは『自己を死に切る』と言った。
一遍、肉体としての自分を死に切ったとき、霊の自分に復活(よみがえる)るのである。

自分を肉体だと思っている限りに於いて、
人間はエデンの楽園から追放せられなければならない。

自分を肉体だと思う知恵は、地(物質)に執した蛇の知恵である。
蛇は地を這う動物であり、地は物質を表徴し、

物質ありとして執着する五官を『蛇』をもってあらわし、
その蛇に教えられたる知恵を『知恵の樹の果』をもって表徴する。



《新たに生まれる》 

知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。

人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。

『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。

だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。

物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。

これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。

           <感謝合掌 平成27年2月7日 頓首再拝>

「天より降りし者」(すなわち神聖降誕なる人間)の自覚 (242)
日時:2015年02月08日 (日) 17時44分
名前:伝統

      *「生命の實相」第39巻仏教篇(P98〜99)より

(八)
 
   幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり。
   (「マタイ伝」第5章3)

   茲(ここ)にパリサイ人にて名をニコデモという人あり、
   ユダヤ人の宰(つかさ)なり。

   夜イエスの許(もと)に来たりて言う、
   「ラビ、我らは汝の神より来たる師なるを知る、
   神もし偕(とも)に在(いま)さずば、
   汝が行なうこれらの徴(しるし)は誰もなし能わぬなり。」

   イエス答えて言い給う、
   「まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生まれずば、神の国を見ること能わず。」

   ニコデモ言う、
   「人はや老いぬれば、争(いか)で生まるる事を得んや、
   再び母の胎に入りて生まるることを得んや。」

   イエス答え給う。

   「まことに誠に汝に告ぐ、……肉によりて生まるる者は肉なり、
   霊によりて生まるる者は霊なり。
   なんじら新たに生まるべしと我が汝に言いしを怪しむな。
   風は己が好むところに吹く、汝その声を聞けども、
   何処より来たり何処へ往くを知らず。
   すべて霊によりて生まるる者も斯くの如し。」

   ニコデモ答えて言う、
   「いかで斯かる事どものあり得べき」

   イエス答えて言い給う、
   「なんじはイスラエルの師にして猶かかる事どもを知らぬか。
   誠にまことに汝に告ぐ、我ら知ることを語り、また見しことを証(あかし)す、
   然るに汝らその証を受けず。

   われ地のことを言うに汝ら信ぜずば、天のことを言わんに争(いか)で信ぜんや。
   天より降りし者、即ち人の子の他には、天に昇りし者なし。」
                     (「ヨハネ伝)第3章1〜13)


「肉」によりて生まるる者は肉なり」とイエスは言い給うているのであります。

この肉体を「人間」そのものだと思っていて、
それを新たに生まれ更わらせようと思っても、
依然として肉によりて生まるる者は肉なのであります。

われわれが神の国に入るためには、
(神の国に病人などはない)自己自身が肉でないという
自覚に立ち復(かえ)ることが必要なのであります。

「知恵の樹の果」すなわち五官知にまどわされて「汝は塵なれば塵に帰るべきなり」と
宣告せられた原罪後の人間から脱却して、

イエスのいわゆる「天より降りし者」(すなわち神聖降誕なる人間)
たる自覚に立ち帰るにはどうしても「肉なる存在」としての人間の自覚
(「肉より生まれし者は肉なり」)から
脱却しなければならないのであります。

           <感謝合掌 平成27年2月8日 頓首再拝>

天より下りしもののみ天へ上(のぼ)る (257)
日時:2015年02月09日 (月) 17時58分
名前:伝統

            *『静思集』(P216〜218)より

ヨハネ伝にはニコデモと云うユダヤの長老がイエスの所へやって来て、
イエスと問答をした所が書いてあります。

イエスはどう言ったかと云うと
『お前は生れ更(かわ)らなければ天国へ行くことは出来ないんだ』
と斯う言ったと聖書に出ています。

ニコデモはユダヤの長老で幾分年がいっている老人であるのに、
生れ更(かわ)らなければ、天国へ行けないと言ったとて、そんなことは出来ないと
思いまして『今更母親の胎内へもぐり込む訳には行かないじゃありませぬか』と

こう云うように言いましたらキリストは

『生れ更(かわ)ると云うのは、そんなことではないのだ。肉より生まれるものは肉である。
何遍生れ更(かわ)っても女の子宮から生まれ出て来るようなものは矢張り之は肉であって、
そんなものは本当の生れ更(かわ)りではないのだ。

本当の生れ更(かわ)りと云うのは何であるかと云うと自分はこんな物質的な肉体ではない。
霊なる実在であると云うことを自覚すること、之が本当の生れ更(かわ)りである。

ここに風が吹いているけれども、お前には、何処(どこ)から吹いて何処へ行くのか判らない。
お前には、地上の風のことを云っても、何処から何処へ行くのか判らない。
どうしてお前に《わし》の言っている天のことが判るものか。
《天より降りしもののみ天へ上(のぼ)るのである》』

と斯うイエスが言っていられますが、

「天より降りしもの」だけが天国即ち神の国に入ることが出来るのです。
神より降りしもののみが神の国へ入ることが出来るのです。

肉から生まれた者はいつまで経っても肉である。
罪ある所の肉体がいくら後悔して今日からよき行いに悔い改めよう、斯う思いましても
決して天国へも、神の国へも行くことが出来ないのです。

ではその天国と云うのは何処にあるかと云うと、
『ここに見よかしこに見よと云うのではないのである、汝の中(うち)にある』
と斯う云うようにイエスは又別の処で言って居られます。

天国は此処に見よかしこに見よと云う具合に、物質的世界にはないのであって、神の御霊(みたま)が
自分の内に宿って来て自己の生命(せいめい)となって居るのであると云う事実に目覚めたとき、
そこに自己の内に新しき生命(せいめい)の自覚としての天国があるのです。

だから天国とは斯う云う形だと、恰好を見せる訳には行かない。
汝の内にある、心の内にある、自覚のカラリと転換した所に、
其処に天国があり、神の国があるのであります。


今迄吾々は人間をばあまりにも罪深きものである、因縁に縛られて居るものであると考え過ぎて
自分自身を自縄自縛してしまっていたのであります。

その自縄自縛された苦しき状態から解放されること、今まで此の罪深き自分であると
斯う嘆いて居った此の罪深きものから脱却し去って本当に天より降(くだ)りし所の
神の霊が自分の内に生きて居るのである、

此の肉体は人間の本物ではない、そんな不自由不完全なものが自分でない、
神のいのちがここに生きて居るのが本当の自分であると云うことを本当に自覚した時に、
吾々は初めて悔い改めたと云うことになるのであります。


その時に吾々はパウロの言ったように『キリスト吾にありて生くるなり』
と云う自覚を得るのであります。

キリストと云うものは必ずしも
二千年前に肉体を以て出現した所の一個の人間だけではないのであります。

あれもキリストでありますがキリスト自身が『吾は道なり真理なり生命(いのち)なり』と
言われましたように、あれは久遠の真理が、久遠の道が、ユダヤに出現した所の一つの神聖なる
表現であります。

併しそれは一つの表現であって、久遠の神性は誰の身にも宿っているものであります。

イエスは、ヨハネ伝の中で『吾れ往きて《汝等に帰るなり》・・・今日(きょう)より後(のち)
汝らを僕と呼ばず、友と呼ぼう』と言っておられます。

イエスの神は万人に宿っているから、吾らはそれを悟った時、もう僕ではなく、
神の子の兄弟であり友であるのであります。


           <感謝合掌 平成27年2月9日 頓首再拝>

人あらたに生まれずば、神の國を見ることあたわず (267)
日時:2015年02月10日 (火) 17時45分
名前:伝統

           *Web:「光の進軍」より
                             
人あらたに生まれずば、神の國を見ることあたわず〜 仙頭 泰 先生
      

谷口雅春先生の「ヨハネ伝講義」をテキストに学習します。
ヨハネ伝の第三章、二節のところを開いてください。

ここにはニコデモがイエスに質問しているところがあります。

「先生、私達はあなたが神からこられた教師であることを知っています。
神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、誰にも出来はしません」。

そこでイエスは答えられました。
「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の國を見ることは出来ない」。

ニコデモは、イエスがいろいろと現象的に御利益ある奇跡が出来るのであれば
神から遣わされた先生だとこう思ったわけです。
そこでイエスは、そんなことでは本当のことは分かっていないのでここで教えられたのであります。

 
それは神の國と云うものは、そんな形の世界にあるものではないこと、
肉体の五官を通して見える奇跡や、人間の肉体を見てそしてそれに感心をしているようでは、
まだ本当の事は分かっていないと云うことです。

ですからイエスは、人間は新たに生まれなければ神の國を見ることは出来ないと言われたのです。

イエスは

「神の國はここに見よ、かしこに見よと云うが如くにはないのであって、神の國は汝の内にあり」

と言っておられるのであります。

イエスは、人間は新たに生まれなければ神の國を見ることは出来ないと言われたわけでが、
ニコデモはここでますます見当違いをするのです。

つまり「もう私のような年寄りで、生まれかわる事がどうして出来ますか。
もう一遍お母さんの腹の中に入って出直して来ることなど、そんなことは出来る筈はありません」
と言うのであります。

ここで五節から八節まで、読んでみましょう。

イエスは答えられた、
「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊から生まれなければ、神の國に入ることは出来ない。
肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければ
ならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。

風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それが何処から来て、何処へ行くかは知らない。
霊から生まれる者もみな、それとおなじである。

 
谷口雅春先生は、次の様に説明しておられます。

水と霊とによりて生まれなければ神の國に入れないと云うのは、
水に大変重点を置いたようでありますが、イエス時代の洗礼は、現代の教会でしている様な
簡単な形式ではないのでありまして、ヨルダン河に頭から全身を悉く沈めて、
肉体を全没せしめて肉の無を実証し、霊に依って蘇生(よみがえ)らせたのであります。

それだから「水と霊とにより生まれずば神の國に入ることあたわず」と
イエスは言われたのであります。

肉体の否定を通してのみ本当に「霊によって復活する」ことが出来るのであります。

この真意をしらずして、形式だけで頭から水滴を振りかける様な洗礼をしても
なんの効果もないのであります。尤も、形式も、それに内在の意識を伴う時、
重大な効果を現すことになるのであります。

華道でも、茶道でも、その他の芸術でも、先人の造った形式から入っていく、
この形式を貴ぶと云うことは、先人の「道を習う」と云うことです。

先人はその道によって、自己内在の奥儀を最も完全に表現したのです。 
その「道を習う」と云うことによって、私達は「自己内在の奥儀」
(宗教的には神性、佛性。芸術的にはコツとも云うべきもの)を
最も容易に導き出して来ることが出来るのであります。

 
キリスト自ら、神の子であるのにヨハネの洗礼を受けられたと云うことは、
これは如何にキリストが先人の型を尊重し、如何に優しい心を持って、
そしてその時代時代に大調和の心をもって臨み給うたかが分かるのであります。

水によって肉体を沈没せしめて肉体の無を現しても、霊の洗礼によって、
自己を「肉」より「霊」に置き換えなければ神の國に入ることは出来ないのであります。

「肉により生るるものは肉なり」、
この肉体をそのままで「神の子」などと考えたら見当違いなのであります。

「生まれかわり」と云うことを肉体的なことと考えては無論いけないばかりか、
それを精神(頭脳精神)の問題だと考えても無駄であります。

肉についた本能の心や、知性や潜在意識や、そんなもので、
「神と一体」だなどと考えただけで「神の子の自覚を得た」などと考えると増冗漫であります。

 
神の子の自覚は「霊によって更生する」、唯佛と佛の霊交によってのみ得られるのであります。
一遍、母の胎内に入って生まれ更わって来たとて、そんなことは肉体的なことであって
霊的自覚でもなんでもない。

物質の肉体の全否定のところからのみ神の國(実相世界)が直観されるのであります。

生まれかわりを物質的にのみ考えていたならば、とても「霊による更生」は分からない。
それはあたかも風があそこに吹いたり、こちらに吹いたり、好き気ままに吹いているけれども、
そして響きは聞こえるけれども、何処から生まれて何処に行くのだか、それは分からない。

物質界のものでも眼に見えないものは、そんなものであります
。況や幽の幽、玄の玄なる「実相生命」と云うことが分かるのは、霊的自覚による他はない。

ニコデモは自分自身を肉の人間だと思っているのだから、
ニコデモにはさっぱり訳が分からなかったのであります。

 
ここで「至上者の神示」から、抜粋します。この神示の始めのところに次ぎのように示されています。

「人即ち神であると云う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。
『生長の家』が此の世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。

 自己を神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、
自己の本性が神だと悟ったものを謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。

かくの如く想像する者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。
自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるものである。」


「本当の謙遜とは『自己は神よりいでた神の子である、従って神そのもののほか何者出もない』
と言う真理を何らのさからいもなしに承認することである。
この真理を承認するものを謙遜と言い柔和という」

 
この神示には、釈迦にしろ、イエスにしろ、自己内在の無限性を掘り下げてついに
仏性に達し、神性に達したから、霊界の諸霊来たってこの二聖につかえたと示されています。

イエスは「自分は神の子である。実相そのものである。霊そのものである」と云うことは、
直接認識によって直接知ることなのであることを、ニコデモに言っているのであります。

 
「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない」
と十三節に述べています。

ここに天と云うのは、この現象界に対する実相界のことであります。
実相の生命がそこに現れているものだけが、実相の天国へ入ることが出来ると云うのです。
つまり凡夫が修行して佛になるのではない。

始めから佛であるところの佛が、佛になるのである。
佛の世界から出て来た者だけが、佛になるのである。

つまり、天より下りし者、即ち「人の子」(即ち「神の子」)の他には天に昇った者はない
 ―― 佛の世界から出て来たものの他には佛になる者はない。
佛が佛になる、神が神になる、そして人間は始めから神の子であり、始めから佛であるのであります。

 
これが大切な真理なのですから、その真理をイエス・キリストは自己の直接体験の真理として
しっかりつかんで、

「我ら知ることを語り、また見しことを語るのだ。理屈を述べるのではないのだ。
人間は神の子であると云う自分の直接認識の真理を語るのだ」

と強い語調でもって語っておられるのであります。

                                (終わり)
http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/38hito-aratani.htm


           <感謝合掌 平成27年2月10日 頓首再拝>

神の業(わざ)のあらわれんがためなり (282)
日時:2015年02月11日 (水) 17時44分
名前:伝統

【苦痛を 「 罪 」 と思うな、栄光発現の好機と観ぜよ】

            *「生長の家」(昭和26年2月11日の法語)より

ヨハネ伝第九章に 「この人の盲目(めしい)にて生れしは、誰(たれ)の罪によるぞ、
己のか、親のか 」 と弟子がたずねたのに対して

「 神の業(わざ)のあらわれんがためなり 」 とイエスは 注目すべき答をなしている。

吾々の苦痛は、内在無限の神力を発揮せんがための重圧であるのである。

偉(おお)いなる病苦に悩む人が、その内在の力を発揮していることは
同じような病苦に悩む人にとっても 偉大なる励ましとなり慰めとなるのである。

両手両脚なくして 炊事も 洗濯も 裁縫も なし得る中村久子女子や、
盲聾唖(めくらおしつんぼ)の三重苦のヘレン・ケラーが

普通よりも一層 魂の眼(め)がひらいて 人々を指導し得る事実を見るとき
多くの人は 希望を持つのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=60

           <感謝合掌 平成27年2月11日 頓首再拝>

「われに従え」 (295)
日時:2015年02月12日 (木) 17時34分
名前:伝統

             *「信仰の活人剣」(P70〜73)より

こうして食事が終った後、イエスはシモン・ベテロに対(むか)って言われました。

「ヨハネの子シモンよ、汝この者どもに勝りて我を愛するか。」

「主よ、仰せの通りでございます。わたしがあなた様を愛している事は、
御存知の通りでございます。」
シモン・ペテロの心の中には恐懼(きょうく)の心が起こったにちがいない。

彼は、「この者どもに勝りてあなたを愛します」とハッキリ言うだけの勇気がなかった。

何故なら、イエスが捉えられて行く直前、彼は他の弟子たちよりも優りてイエスを
愛するのであって「仮令(たとい)みなの者が躓(つまず)くとも、私だけは躓かない」
(『マルコ伝』第十四章二九節)と断言したにもかかわらず、

いざイエスが捕えられたとなると、それに連坐することを恐れて、
鶏が鳴くまでに三度も「イエスを知らず」と言った彼であった。
彼は自責の念で一杯になっている。

しかし、今でも彼はイエスを愛することに於て人後に堕つるものではないと思っている。
それなのに、捕えられることを恐れてイエスを知らずと思わず言ったのはこの
「肉体のニセ物の自分」の弱さであったのだ。

彼はつくづくとそう思うのだった。

「わが羔羊(こひつじ)を養え」とイエスは言うかと思うと、再び
「ヨハネの子、シモンよ、我を愛するか」と問われるのであった。

ペテロは、そう繰返して言われることが身にしみて有りがたくまた辛いのである。
「主よ。仰せの通りでございます。私があなたを愛しておりますことは、
あなたが御存知の通りでございます。」

「では、わが羊を牧(か)え」とイエスは言って、やがて、
「ヨハネの子シモンよ。お前はわしを愛するか。」と三度同じことを言い給うた。

ペテロは、もうたまらなくなったのである。

「あなたは一切のことが見透しでございます。わたしがあなたを愛しているということは、
既に識りたまう通りでございます。」

切実に、切実に、切実に、イエスはペテロに後事を托さんがために、
「イエスを愛する」とはいかなることであるかを知らさんが為に同じことを三度も
繰返されたのであります。

イエスを愛するとは、抽象的にただ「イエスを愛している」と思い、
又信ずることではないのであります。

それは「わが羔羊(こひつじ)を養う」ということであり、
「わが羊を牧(か)う」ということである。

「羊」というのは牧者がなかったら、散り散りバラバラになって
永遠の生命(いのち)を失ってしまう人類にたとえられたのであります。

イエスを愛するとは「人類を愛する」ことであり、
「人類を愛する」とは具体的目前の人間を愛することであり、
そのためには生命をも捨てるということであります。

「では、まことに、まことにお前を信じて本当のことを言うが、お前が若い間は自分で
自分の帯を結んで自分の欲する処をあゆむことが出来るが、やがて老いては、手を伸べて
他の人から帯して貰い、自分の欲しない処へ連れて行かれる事になる。」

こうイエスは謎のような言葉で、言われたのは、手を伸べて他の者から縛られ、
己が欲せぬ刑場へ曳かれて行く時が来るという意味であって、やがてペテロが
「如何なる死にて神の栄光を顕す」かということを暗示したもうたのであると
筆者のヨハネは言っているのであります。

ペテロもイエスが何を意味してそう言い給うかを察したにちがいないのである。
この福音書の中にはペテロのその時の心境は書かれていませんが、イエスが捕えられたとき
連座することを恐れて、「イエスを知らず」と三たびまで言った彼であるから、

人類を愛するためには、やがて刑場に曳かれて行きて死を以って神の栄光を顕さなければ
ならないということをきいたときに、いくぶんギクリと胸に来て、退(たじろ)ぐ思いが
一瞬心に浮かんだにちがいないのである。

その「退(たじろ)ぐ思い」を起こさせないために、あらかじめイエスは三たび
「汝、われを愛するや」と切り返し駄目を押されたのあって、「愛する」ということは
ただ「好きだ」というような生ま易しい事ではない。

愛する者のためには無条件に従う、
そして生命(いのち)までも献(ささ)げる事だということを教え給うたのであります。
無条件に従わない者は本当に愛しているのではない。

その無条件に従うことを教えたまうために、「われに従え」 と言われたのであります。
この時の 「われに従え」 という語には無限の権威が感じられるのであります。

           <感謝合掌 平成27年2月12日 頓首再拝>

兄弟よ、仲良くせよ!  (307)
日時:2015年02月13日 (金) 21時21分
名前:伝統

         *「生命の實相(第31巻・宗教戯曲篇上巻)」イエスの言葉より

   わたしがいなくとも皆仲よくしてほしい。
   わたしがいなくなっても仲よくしてほしい。

   わたしがしばらくいないうちに相争いなぐり合っているのが
   わたしの仲間であるかと思うと、わたしは情けなくなる。

   皆さん、どうぞ、これはわたしの遺言だ。
   
   わたしがいなくなっても互いに兄弟たち仲よくして道を弘めて往ってほしい。

                           (P135〜P136)

            <感謝合掌 平成27年2月13日 頓首再拝>

どんなことでもハイハイと受ける心 (320)
日時:2015年02月14日 (土) 20時22分
名前:伝統

        *「生命の實相(第31巻・宗教戯曲篇上巻)」イエスの言葉より

   すべては時の力だ。
   どんなことでもハイハイと受ける心にならねばならぬ。

   麦は地に蒔かれることを拒んでいては多くの実を結ばぬ。
   地に蒔く農夫を呪ってはならぬのだ。

   一粒の麦の実が地に落ちて死ななかったらいつまでもただの一つだ。
   もし地に蒔かれてみずからの姿が崩れたとき麦は伸びて、多くの実を結ぶのだ。

   生命(いのち)を愛する者は生命(いのち)を失い、
   生命(いのち)を憎むものはかえって永遠の生命(いのち)を得るのだ。

                           (P136〜P137)

            <感謝合掌 平成27年2月14日 頓首再拝>

【 イエスは斯(こ)うして病気を癒した 】 (332)
日時:2015年02月15日 (日) 19時53分
名前:伝統

         *『 生長の家 』(昭和26年2月15日法語)より
          (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐”明鏡 さま”掲載) 

キリストも 単に言葉によって病いを癒しただけでなく、
或る場合には 手を按(あん)じて祈り、
或る場合には、唾液を患部に指にて塗っているのである。

手を按じ、手を触れ、指にて唾液をつけて行うことが
時として治病に効果をあげるのは、その動作が暗示となって
患者に信頼感と安心感とを与えることになると同時に、

手掌からはプラナ(生命磁気)が放射されるために、
プラナの欠乏から起っているところの病気には 著しく効果を奏することがある。

それは 恰度(ちょうど)、ビタミン欠乏症にビタミンを注射するような
対症療法的効果を生ずるのである。

一種の動作によって病気が治る場合にも 色々の要素が含まれている。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=60

            <感謝合掌 平成27年2月15日 頓首再拝>

真理は汝を自由ならしめん (344)
日時:2015年02月16日 (月) 18時28分
名前:伝統

           *「人生の秘訣365章」(P2)より

人生にはいろいろな問題が山積している。
それは迷路のように錯綜していて、どこから手をつけて解決したらよいか
判らないような観を呈しているのである。

ある人は行き詰ってその迷路から出ることが出来ないで仆れて(たおれて)しまう。
迷路の中を行きつ戻りつして途方に暮れて自殺したり、
ノイローゼになったりする人もいる。

しかし、すべての人間が皆、迷路の中で行く先を見失ってしまうのではないのである。

人生の迷路は、その衝き当ったと見えるところに“秘密の扉”があるのであり、
その扉を或る“秘密の鍵”をもってひらけば、そこから希望の光が射し込んで来て、
人間は「自由」になれるのである。

イエスはこの「自由」を人間に得させる鍵を教えた。その鍵とは「真理」である。
そして「汝は真理を知らざるべからず。真理は汝を自由ならしめん」と言ったのである。
しかし聖書を読んでも、その真理を捉え得ない人が多くあるのである。

ローマ総督ピラトは「真理とは何ぞや」とイエスにたづねたが、
それに対してイエスは黙然として答えてくれないのである、
ピラトは続いて「汝は王なるか」とイエスにたづねる。

イエスは「汝の言えるが如し」と答えている。

ここに“真理”とはすべての人間が
“王者”になる鍵をもつ者であることを示しているのである。

民主主義の世界ではすべての人間に主権があるのであるから、
すべての人間は“王”である訳である。

しかし、“王”にも色いろの王がある。自動車王もあれば、金貨王もあり、借金王もある。
そのいづれにも人間は成り得る自由があるのである。

            <感謝合掌 平成27年2月16日 頓首再拝>

《キリストの復活》 (358)
日時:2015年02月17日 (火) 20時17分
名前:伝統


           *「光明法語<道の巻>」(P258)より

ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━

『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。

彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。

キリストの十字架の真の意意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。

かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。

           <感謝合掌 平成27年2月17日 頓首再拝>

肉体無し (370)
日時:2015年02月18日 (水) 18時20分
名前:伝統

         *「生命の實相(第31巻・宗教戯曲篇上巻)」イエスの言葉より


(1)わたしの肉体がこの世から去る去るのは、
   去って「本当のわたし」がみなさんの前に来たらんがためなのだ。

                           (P144)


(2)肉体の苦しみでも、魂の苦しみでもどんな罪でもことごとく摂取して
   その本来の「無」に帰せしむるのが私の役目だ。
   重荷を負える者よ我に来れ。

                           (P145)


(3)神の子は、名前を言い当てたり、八卦身の真似事をするために来たのではない。
   肉体が本来無いものだということを現わさんがために来たのだ。

                           (P166)


            <感謝合掌 平成27年2月18日 頓首再拝>

”天の父”について (382)
日時:2015年02月19日 (木) 19時48分
名前:夕刻版

           *「神と偕に生きる365章」(P326〜327)より

キリストとは一人の人間の固有名詞ではないである。

それは”宇宙本源の救世主”であり、イエスに宿っていたところの”天の父”であり、
イエスが「我れみずからにて何事をも為し得ず、天の父われに宿(いま)して
御業(みわざ)を成さしめ給うなり」といったところの”天の父”である。

それは”天の父”であるから、イエスのような若い姿ではなく、また瘠(や)せさらぼうた
繊弱な姿でもない。それは白髪の老翁なる”父”の姿であり、永遠に強健なる体躯のイメージ
をもって顕現せられるのである。

使徒ヨハネは小亜細亜のオアトモス島に流謫(りゅうたく)せられているとき、
祈りのうちにその姿を見て、黙示録の第一章にその姿を描いたのである。

この永遠のキリスト(永遠の救いの根源者)は常にあなたの内にあって、
あなたを護り導いておられるのであるが、ある特殊の問題についてお伺いするならば、
特にそれについての導きがあるのである。

            <感謝合掌 平成27年2月19日 頓首再拝>

【 愛のみが天国である 】 (393)
日時:2015年02月20日 (金) 17時22分
名前:伝統

          *『 生長の家 』(昭和26年2月20日の法語)より

憎みと愛とは一つの心の中で同居することは出来ないのである。
憎みは地獄であり、愛は天国である。
憎みは鬼であり、愛は神である。


憎んでいる心の中に 「 神 」 を 招(よ)び迎えようと思っても、
それは地獄の中に 「 神 」 に 住んで貰(もら)おうと思うのと同じような愚かさである。


「 近くにいる隣人を愛することが出来ないで、
どうして眼(め)に見えない神を愛することが出来よう 」 とイエスは云っているが、

家族や、同僚や、知人などを愛することが出来ないで、
神の愛の癒す力を、自分の内に流れ入らしめることは出来ないのである。


先ず隣人に対する憎みと怨みとを解き、自分の心の塵埃(じんあい)を除き去って、

神の愛を流入させるべきである。

      (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=60

            <感謝合掌 平成27年2月20日 頓首再拝>

神にゆるされるとは (408)
日時:2015年02月21日 (土) 17時43分
名前:伝統

        *『生命の實相』第四巻・生命篇下(P5〜9)より


『ルカ伝』第七章にこんな話があります。
ある日イエスがシモンという清教徒(パリサイびと)のところへ招かれていった。

この町に一人の堕落した婦人があった。名はマグダレーナ。
おそらく娼婦かなんかで、この町で皆が指騨している女でありましたでしょうが、

この女がイエスがパリサイ人の家に饗宴に招かれて来ていられることを知って、
香(にお)いの高い白檀油のはいっている石膏製(せっこう)の壷をもって来て、

繊悔(ざんげ)の心に泣き濡れながら、イエスの足下に来ってひれ伏し、
涙でイエスのみ足をうるおし、頭の髪でみ足を拭き、
接吻してその香油をみ足に注いだのであります。


清教徒のシモンはこれを見て

「汚れたる娼婦よ、なにをするか、神はそのような汚れた女の献(ささ)ぐるものを
受け給うものではない。また、イエスも真に神から遣わされた人ならば、
足に触った女がどんな素性の婦人であるかぐらいは霊感でわかりそうなものだのに、
そんな汚れた女に甘い態度を示すとはなんであるか」

と心の中で思ったのであります。

そこでイエスはシモンの心中を見抜いて、

「シモンよ、お前に尋ねてみたいことがある。返事をせよ。
ある貸主に借金をした2人の人があって、一人は五十円を借りている。
一人は五百円を借りている。

この2人の借金をゆるしてやるとしたならば、
どちらの借主の方が貸主をよけいにありがたく思うだろうか」

と反問せられた。

そこでシモンは答えて

「それはたくさんの借金をしている者の方が貸主の慈悲深い心を
ありがたく思うにちがいありません」

と答えた。

「そうだ、よけい借金をしている者の方が、それをゆるされたことをありがたく思って
貸主を愛するが、自分の借金は少ないと思っている者の方は、ゆるされたことを
あまりありがたく思わず貸主を愛しないのだ。

お前はわしがお前の家へはいって来たとき、足に漑(そそ)ぐ水をくれなかったけれども、
この女はわしの足を涙で洗い、髪毛で拭いてくれた。

お前はわしの足に接吻をしてくれなかったけれどもこの女はわしの足に接吻してくれた。

お前はわしの頭に香油を漑いでくれなかったけれども、
この女はわしの足に香油を漑いで赦されんことを願ったのだ。

このように罪の多いと自覚するものほど感謝の念も深く、神を愛することも深いのだ」


こういって女の方を振り向き

「なんじの罪は赦された」

と厳かにいわれたのであります。


この話について知るべきことは、

清教徒のシモンは救世主に対してぜいたくなご馳走を提供して、
自分は本来そんなに罪深いものではない、これだけ救世主を饗応すれば、

その価として自分の小さな罪ぐらいは当然赦さるべきものであるというような、
安価な、多寡(たか)を括(くく)った、神の赦しを見くびったような、
虫のよい傲慢な気持があることであります。


真宗でいえば雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅう)といって嫌っているところの
小善に誇る心があるのであります。

この傲慢な気持がある間は赦されない ―― 赦されないといいましても、
神ご自身の方から人間の態度が悪いから赦すとか赦さないとかいうような、
ケチな考えをもっていられるわけではないのでありまして、

人間自身の方から罪の正体を見きわめず、自分の「神の子」なる生命の実相を見きわめず、
よい加減に、小善に誇って自分の実相はこんなものだ、小善ぐらいのことで実相の全体が
開顕(あらわ)れたというふうに考えて、自己のうちにある立派な神性の全体を認め顕わそうと
しない。

だから餓悔の心のないものは、本当の「神性」という無限の尺度を自分の中に握っていない、
換言すれば自分のうちにある、立派な本然の神性(かみのすがた)があらわれていない、
この、本然の神性が顕われることが「赦された」という状態であります。


まことに「赦された」と申すことは罪の消えた状態を言うのでありまして、
たんに「勘弁してあげる」と口先でいってもらっただけで、本然の神性が顕われておらず、
したがって罪が消えてはおらないで、再び罪を犯したくなるような状態を指すのではないので
あります。

自己本然の神性があらわれた状態こそ罪が赦され消去された状態でありまして、
たんに口先で「あんたの罪を勘弁してあげる」といってもらうことを、
罪が赦されたなどと考えては大まちがいであります。

本当に罪が赦され消去したならば、罪の顕われである病は消えてしまう。

それで神癒治療者は罪を消す人ともいえれば、
相手の神性を開顕する人ともいえるのでありまして、

施念者ばかりがいくら力んでみましても、
相手に餓悔の心をもって真理を受け入れてくれる心が
なければ効果が少ないのであります。


遊女マリア・マグダレーナは自分の罪を悔いた。
悔いたというのは、自分の「神性」という尺度で計ってみて、
今までの行ないはその尺度に足りないものである、

今までは本当の尺よりは短いニセ尺ではかって「これでふつうの人間の寸法だけあります」
といって世間に売り出していたけれどもそれは自他を欺瞞(ぎまん)していた、
本当の「自分の神性」という尺度で測ってみれば実に、足りない足りない自分であった、
どうもニセ尺で測って足らぬ寸法のものを世間に売り出してすまなかったとわかる

―― この「すまなかった」とわかるときには、自分の心のうちにチャンと
「本当の神性の尺度」が握られている
 ――言い換えると自己の本当の神性が開顕している ――

これすなわち罪が消えた状態、罪が赦された状態でありまして、一たび本当に今までの自分が
悪かったとわかった以上は、もう罪は消えたのでありますから、心を過去の罪にとらえしめず、
神らしい自覚で神らしい行ないにズンズン突進してゆけばよいのであります。

これが餓悔した遊女マグダレーナがキリストから
「なんじの罪は赦された」といわれたゆえんであります。

        <感謝合掌 平成27年2月21日 頓首再拝>

奇跡を生ずる原動力 (434)
日時:2015年02月23日 (月) 18時10分
名前:伝統

         *「叡智の断片」(P52〜54)より

「ただ有り難い」と念ずることが生長の家の坐禅であり、念仏であるのである。
坐禅しておるだけが坐禅ではない。神想観するときだけ神想観ではない。

仏の自分であり、仏の世界であると、わからせて頂いて、ただ有り難くなって、
「ただ有り難い」と感謝しているとき、行住坐臥其処に仏が動いているのである。

坐禅する時だけが仏であって、坐禅を止めたら仏でなくなってしまうのだったら、
我々は仕事をしていることも出来ず、坐ってばかりいなければならない。

「祗管打坐」というのは坐っていても立っていても寝ていても、
仏のいのちが坐っていると知ることが坐禅である。

我々の全ての生活は、物質の生活にあらず、肉体の生活にあらず、
「我常に此処にありて説法す」と言われた釈迦牟尼仏の生活が坐禅である。

「久遠の我」が此処に生きているのである。
何という有り難いことであろうと知って、念々「有り難とうございます」と感謝出来るのが、
新たなる自己の発見であり、キリストの復活であるのである。

十字架とは「今此処」にある。
旧我の磔殺と、新我の肯定とである。
それが×(クロス)と+(プラス)との同時存在であるところの十字架であるのである。

この「十字架」を背負って我らはキリストとともに歩めば、これが本当の洗礼であるのである。
ヨハネの洗礼は「水のバプテスマを施す」のであったが、
キリストの洗礼は「我は霊にて洗礼を施す」と仰せられたのである。

それにも拘らず、水ばかりの洗礼を受けてクリスチャンになったと思っている人もあるが、
それでは真の復活はないのである。
だから、今までの教会キリスト教では奇跡が余り出てこないのである。

霊によって、自覚によって洗礼を受けなければならない。
自分と「生命」との結びが出来なければならない。

ところが生長の家では何故奇跡が起きるかと言うと、
霊によって洗礼を受け、自分の内にキリストが蘇りたまうことを知り
「我往きて汝等に来たるなり」とヨハネ伝でイエスがいいたまうた
「内在のキリスト」を自己の内に自覚し、

その「内在のキリスト」こそ真の自分であると知り、罪の自分が解放されるのであるから、
ただ、「有りがたい」と称名するだけで奇跡的な功徳があらわれて来るのである。

        <感謝合掌 平成27年2月23日 頓首再拝>

神を金融業者と間違えてはならない (508)
日時:2015年03月01日 (日) 19時19分
名前:伝統

        *『 生長の家 』誌 昭和40年3月1日の法語より

誤った信仰に向っている人たちのうちには、神の方向に振り向いて
「祈り」という形の説得法によって、神を説き服(ふ)せれば、神が動かされて
神が何らかの功徳を与えて下さるかの如く錯覚している人があるけれども、

神は高利貸でも、銀行屋でもないから、上手に説き服せたら
金を貸して下さるというような方ではないのである。


キリストが説いたように「 人は二人の主(しゅ)につかえることはできない 」のである。


私たちは「 物質の幸福 」を求めている限りに於いて、
霊的な主につかえることはできないのである。

物質を愛していながら、神を愛することはできないのである。

肉体の幸福に重点を置きながら、霊的に高まろうと思っても、それは出来ないのである。


キリストは 「 わが国はこの世の国に非ず 」 と訓(おし)えておられ、

悪魔サタンがあらわれて、「 世のもろもろの国と、栄華とを示して
『 なんじ、若(も)し平伏して我を拝せば、此等を皆なんじに与えん 』 といって

誘惑したとき、イエスは

『 サタンよ退け“ 主なる汝の神を拝し、ただ之(これ)にのみ
事(つか)え奉るべし ” と録(しる)されたるなり』」(『マタイ伝』第四章八節)

と答えているのである。

        <感謝合掌 平成27年3月1日 頓首再拝>

常住今此処が神の国 (534)
日時:2015年03月03日 (火) 18時34分
名前:伝統

         *「叡智の断片」(P47〜48)より

イエスは言ひたまふ『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきかを知らぬか。』
                          (ルカ伝第二章一〇九節)

いつでも人間は父の家に居るのである。
無限の平和と、無限の供給と、無限の生命と、無限の愛と、無限の智慧との満ちている父の家
―― 神の国 ―― 實相の世界 ―― 實在界 ―― に住んでいるのである。

十二歳の時イエスが祭の慣習に随って父母と共にイエルサレムに上った帰るさい、
父母は道伴れのうちにイエスもいると思って他の人達と話しながら途中の町まで来ると
イエスがいないのである。

親族縁者のうちにいるかと思って、一日たずね廻ったがいないので、再びイエルサレムに
舞い戻って見ると、宮の境内で教法師たちの中で神の教をきいているイエスを見出したので、

そこで母マリアが『何故、かかる事を我らに為せしぞ。視よ、汝の父と我と憂いて尋ねたり』
と云ったときに答えた言葉が、これであった。

『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきかを知らぬか』

常に今此処にいる永遠の世界が、神の世界なのである。
何処にも、危険の世界はない。
何処にも乏しき世界はない。

『我は父の家にいるべきかを知らぬか。』―― これはイエスだけのことではない。
吾々すべてが、各人が『我は父の家にいるべきかを知らぬか』と言い得べきであるのである。

此の言葉を、瞑目して十篇黙念せよ、百篇黙念せよ、千篇黙念せよ。

              <感謝合掌 平成27年3月3日 頓首再拝>

懺悔によって赦されよ  (558)
日時:2015年03月05日 (木) 20時26分
名前:伝統

          *「光明法語」(P148〜149)より

「赦された」と云う実感は、神と自分とを隔てていた堤を取り去る事になり、
其処からして神の癒力が流れ入るのである。

キリストの「汝の罪はゆるされたり」の言葉が、
よく難治の病者をいやしたのも此の理によるのである。

悪は悪と気がついたとき、その罪は消えたのである。
何故なら、悪が悪と気がつくとき、
もう自分は上の境涯に立って過去の自分を見ているからである。

かかるとき、キリストは言った。
「汝の罪ゆるされたり、去って再び罪を犯す勿れ」。


              <感謝合掌 平成27年3月5日 頓首再拝>

天より降りし者のほか天に昇りし者なし (638)
日時:2015年03月12日 (木) 17時35分
名前:伝統

              *「生命の實相」第39巻仏教篇(P128)より

この身このまま金剛不壊の久遠法身と悟れば、これが即身成仏である。
この身このまま大日如来の法身である。

物質的に肉体と見える姿がどうあろうとも、それを超える、
そしてこのまま法身、霊身、金剛不壊身、久遠人間と解る。
物質身から法身への吾の置換えである。

キリストの言った「天より降りし者のほか天に昇りし者なし」という意味の
天より降りし「神の子」が自分自身であると悟るのである。

「神の子」をただある特定の人のみだと思ってはならない。
人間は皆このままに神の子なのである。

蛇の智恵(知恵の樹の果の知恵―五官知)で見たときには
人間は物質身(「汝は塵なれば塵に帰るべきなり」)であるが、
般若の智恵(五蘊皆空、無眼耳鼻舌身意の智恵)で見れば、
人間はこのまま金剛不壊法身である。

このまま如来である、このまま仏である。
このまま神の子であるのであります。
ここに病老死憂悲悩苦の世界を超えてわれわれはエデンの楽園を奪還しうるのであります。


              <感謝合掌 平成27年3月12日 頓首再拝>



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