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光明掲示板・伝統・第一

 

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『講孟箚記』〜吉田松陰 (104)
日時:2015年01月27日 (火) 04時46分
名前:伝統

*光明掲示板・第三「吉田松陰 (1324)」からの継続です。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=267

・・・

野山獄での『孟子』講義

         *『致知』2014年6月号 (人間環境大学教授・川口 雅昭)
          〜吉田松陰『講孟箚記』が教える長のあり方(P36〜37)より

《囚人をも感化した野山獄での『孟子』講義》

『講孟箚記』とは、吉田松陰が「下田事件」の後、幽囚の身となった山口県萩の野山獄で
同囚たちを相手に始めた『孟子』の講義内容を松蔭自身が記録したものです。

松蔭の講義はいたく人々の心を打つものでした。

穏やかな、しかも真摯な講義は獄中の囚人たちはもちろん、
獄外で講義を聴いていた獄吏たちをも感化しました。

松蔭はただ一方的に教えただけではありません。
松蔭もまた同囚を「先生」として、彼らが得意な俳句や書をともに学びました。

絶望や嘆きに満ちた牢獄はたちまちにして学びと希望の場と変わったのです。


松蔭が野山獄を出て実家の杉家に蟄居を命じられた時、このまま講義を終らせるのは
あまりにももったいないと考えた杉家の人々は、父親や兄たちが「生徒」役となって
講義を続けさせたと言われます。

『講孟箚記』が今日残っている背景には、杉家のよき家風があったのです。

安政2年6月13日に野山獄で始まった講義は、ちょうど1年後の同じ日に杉家で
終っています。始まりと終わりが同じ日であることもまた興味がつきないところです。

現存する松蔭関係のまとまった史料中では一番の大部です。
それだけに青年松蔭の思想や実像を知る何よりのてがかりになっています。


松蔭は幕府から見れば「反逆者」ですから、維新を迎えてもしばらくはその存在は
封印されたままでした。

しかし、松蔭の薫陶を受けた長州の顕官たちが政界で影響力を拡大するにつれて、
その師であった松蔭という人物が理解され、次第に注目されていきました。


また、すでに門人等により松下村塾蔵版としてまとめられていた『講孟箚記』も明治4年、
京都の文求堂から刊行され、少しずつ人々に読まれるようになりました。

以来、時代時代の志ある若者を啓発し、読み継がれてきたのです。

・・・

<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板

  @吉田松陰精神に学べ  (全文) (4729)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994   

  A松陰スピリッツ (4756)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=998  

(2)光明掲示板・第一「吉田松陰 (2876)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=581  

(3)「光明掲示板・第二」として

  @吉田松陰〜『留魂録』
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=507   

  A千代(松陰の妹)から見た吉田松陰 (4255)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=902   

  B成人式(元服)での吉田松陰の言葉 (4558)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=956   

  C花燃ゆ〜吉田松陰の末妹「文」の生涯 (11226)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2140   

           <感謝合掌 平成27年1月27日 頓首再拝>

《開巻第一義は国体人倫にあり》 (217)
日時:2015年02月07日 (土) 03時28分
名前:伝統

         *『致知』2014年6月号 (人間環境大学教授・川口 雅昭)
          〜吉田松陰『講孟箚記』が教える長のあり方(P37〜38)より

では、松蔭はなぜこの講義録を残そうとしたのでしょうか。
その理由については松蔭自身が「箚記の開巻第一義は国体人倫にあり」と
明確に書き記しています。

我が国の国体と人倫、つまり国や人としてのあり方が大きくぐらついている時に、
その道を正さんという一念だというのです。

松蔭が日本の独立・存続に危機感を抱くきっかけとなったのは、
西欧列強によるアヘン戦争(1840〜42)という清国侵略でした。

松蔭は4歳の時に山鹿龍兵学師範である吉田太助の養子となり、
いずれ長州藩の「兵学師範たらん」という志を立てて勉学に励みました。

松蔭はその後、清国がなぜ西欧列強国の植民地になったのかという分析を行なっています。
そして、仮に西欧列強の侵略を受けても、日本は大丈夫との確信を持つようになります。
清国と違って、日本には武士道精神を体現した侍がいるというのがその理由でした。

しかし、その肝心の侍がペリー艦隊来航の時、誰一人として立ち上がろうとしませんでした。
我が国がいまにも他国に呑み込まれようとしている時、この問題を真剣に受け止める侍が
いなかったのです。

松蔭は強い義憤と危機感を覚え、人心の不正を嘆くのです。



   深憂(しんゆう)すべきは人心の正しからざるなり。
   苟(いやし)くも人心だに正しければ、百死を以て國を守る。
 
   其の間勝敗利鈍ありと云へども、
   未だ遽(には)かに國家を失ふに至らず。


   「深く憂うべきは、人々の心が正しくないことである。
   心さえ正しければ、全ての人々が命をなげうってでも国を守るだろう。

   その間に勝ち負け、また出来不出来があったとしても、
   急速に国家が滅亡することは決してない」
                        (『講孟剳記』滕文公下第九)


松蔭が獄中にあって『孟子』講義を始めたのは、侍のこのような体たらくを修正するためであった
ことは言うまでもありません。しかし、私はこのほかに大きく3つの動機が挙げられます。

一つは「下田事件」に失敗した後、同志である肥後勤王党との間に再起を図るという約束があり、
同志を一人でも多く獲得する必要があったことです。


二つ目には野山獄という過酷な環境で自ら奮い立たせようとしたためです。
松蔭はいかなる環境でも決してへこたれなかったと言う人がいます。

しかし、私はこれまでの松蔭研究の中で、
野山獄入獄後の松蔭の文章はそれ以前と明らかに変わっていることに気づきました。
冴えた文章から伝わってくるのは、日々死と直面する者の抱く恐怖心です。

松蔭は幕府から「在所蟄居(自宅謹慎)」という判決を受けましたが、
幕府を恐れる長州藩からの指示で、牢獄を借りる借牢(しゃくろう)という形で
幽囚されました。

しかし、藩の罪を犯したわけではありませんから取り調べは行なわれず、
加えて刑期もありません。そこでは外部との一切の接触は断たれ、
一度入れば出られる保証はなかったのです。

松蔭の抱いた恐怖感はどれほどのものだったでしょうか。


そして三点目は松蔭の武士観によるものです。
彼は十代の頃から「エリートである侍は学問をずっと行なうべきである。
また、同時に、同僚や後進を教育すべきである」という信念を持っていました。

そして学問で私心を去り、人として必要な真心を取り戻すべきである。
つまり、孔子のような聖人を目指さなくてはならないと考えていたのです。

研究者の中には野山獄での講義は松蔭の教育者的性格からくる自然発生的なものと
捉える人たちもいます。

しかし、以上の4点から判断すると、松蔭の講義に明確な目的があったことは確かです。

日本の危機が目前に迫っている。
しかも誰も気づかない。

しかも自分は全く自由のきかない身である。
いつ死ぬか分からない。

だとしたら、極めて限られた条件でも、自分にできる最善のことをやって
時代を切り開きたいという強烈な思いが『孟子』の講義に繋がっていったんのです。

松蔭の講義が囚人たちの心を打ったのも、
その溢れんばかりの思いの強さによるものだと思います。

           <感謝合掌 平成27年2月7日 頓首再拝>

《自らが孟子になろうと誓った松陰》 (347)
日時:2015年02月17日 (火) 04時43分
名前:伝統

         *『致知』2014年6月号 (人間環境大学教授・川口 雅昭)
          〜吉田松陰『講孟箚記』が教える長のあり方(P38〜39)より


次に松陰がなぜ教本として『孟子』を取り上げたのか、そのことを考えてみます。

素人による勝手な解釈をお許しいただければ、
『論語』と『孟子』は同じ思想的な流れにありながら、
本質的な違いがあるように思います。

これには、春秋と戦国という時代の違いもあったことは間違いありません。

顕著な相違点は『論語』が「仁」を重視するのに対して
『孟子』は「仁」だけでなく「義」の精神を大切にしていることです。

『孟子』の冒頭「梁恵王上主章」にある

「王何ぞ必ずしも利と曰はん、亦義あるのみ」
(王様、どうして利益利益とばかりおっしゃるのですか。大事なのはただ仁義だけです)

のように、真っ先に「仁義」を取り上げます。

私なりに「仁」は「真心」、
「義」は「内なる心から生まれる一人の人間・国民としてのあるべき行動規範」
と捉えています。

個人の生き方を超えて、国家や社会の中で自分はいかに生きていけばよいのか、
という「義」の精神が松陰に火を付けたのは間違いありません。

松陰が「孟子」に魅了された、これが第一の理由です。


ところで、松陰と孟子の性格や人生を考えた時、
いくつかの共通点を指摘することができます。

一つにはともに大変な熱血漢である点。
もう一つは不遇の人生を送らざるを得なかったという点です。

松陰は脱藩騒動で侍の資格を失って一介の浪人になり、
「下田事件」では罪人として捕らえられました。

軍事学の第一人者として藩政に貢献したいという若い頃からの志はついに果たせず、
幕府に対する反逆者の汚名を拭えないまま二十九歳の若さで刑に処せられたのです。

孟子もまた仕官の道を目指したものの、ほとんど定職に就くことなく
市井の一教育者として人生を終えています。

松陰は孟子の人生に自らを重ね合わせ、強く共感するようになりました。

松陰は最初から教育者になろうと思っていたわけではありません。
侍の子として生まれた以上、侍としての天分を全うしたいというのが本意だったはずです。

しかし、主君に仕え、藩政に身を捧げるという道が閉ざされ、
国家の長たる武士の「人心が不正」であると自覚した時、
教育者としての道を選ばざるを得ませんでした。

同じように市井の教育者として生きざるを得なかった孟子の姿が
自分の運命と重なって見えたのです。


松陰は次のように言っています。

「古来、いかに才徳のある聖人・賢人でも、よい主君に見い出されなかったならば、
功績を挙げることはできなかったであろう。舜・禹(う)らは皆明王に逢うことができたから、
その功績を挙げることができたのである。

反対に、孔子や孟子は仕えることもできず、人を教えてその生涯を終えた人物であり、
将に不遇の魁(さきがけ)である。とはいえ、人を教えて、天下後世の正義を維持している
点を見れば、その功績は、明王に逢って登用された人物等より遥かに上である」と。

松陰の孟子に対する思いはこの一文に凝縮されています。

また、こうも述べています。

「然(しか)り而(しか)して爾(しか)あることなければ、
則(すなわ)ち亦爾あることなからん」

(生きた時代も場所もこれほど近いのに、いま孔子の道を見て知って伝える者が
ないとすれば、今後はついに伝え聞いて知る者もなくなってしまう)。

これは『孟子』尽心下三十八章の一節です。


松陰はこの一文を読んで、心を奮い立たせました。

「此の語(ご)(中略)又千万世(せんまんせい)に向ひて吾が輩を呼び醒(さま)す
の語なり。(中略)唯(た)だ是れ人々七十年中の重任なり」

(この言葉は<中略>千万世に向かって、私ども後輩を呼び醒まそうとするものである。
<中略>これは私どもが生涯をかけて当たらなければならない重任である)


自らが孟子たらんと誓い、残された人生を教育者として捧げ切ろうとする
松陰の覚悟をそこから汲み取ることができます。

           <感謝合掌 平成27年2月17日 頓首再拝>

《吉田松陰『講孟箚記』が教える長のあり方》 (463)
日時:2015年02月26日 (木) 04時38分
名前:伝統

         *『致知』2014年6月号 (人間環境大学教授・川口 雅昭)
          特集「長の一念」(P39)より


『講孟箚記』は現在に生きる私たちに様々な人生や仕事の示唆を与えてくれますが、
その一つが組織の長たる者の姿勢です。

その中でも特に大切なものを2つ挙げれば、
「私心を去る」こと、そして「善を好む」ことです。

松陰は『武教全書講録』の中で、国家の長たる武士がなすべきこととして、
公私の来客に対応すること以外には、

「武芸を習ひ、武義を論じ、武器を閲するの三事に過ぎず」
(武芸習練、武士のあるべき様の学問、武器の手入れの三つに過ぎない)と述べ、

「武士誠に此の三事を以て日々の常識とせば、武士たらざらんと欲すと雖も得べからず」
(武士が本当にこの三つのことを日々の当然とし実践すれば、立派な武士たらんと
思わなくても、必ず心ある武士になるであろう)と結んでいます。

ここで松陰のいう「武義を論ず」とは、侍としてのあり方について学び続けることです。
『講孟箚記』では具体的に次のように言っています。

武士たる所は国の為めに命を惜しまぬことなり。弓馬刀槍銃砲の技芸に非ず。
国の為めに命さへ惜しまねば、技芸なしと云へども武士なり。
技芸ありと云へども、国の為めに命を惜しむは武士に非ず。

(武士の武士たる価値は、国家のために命を惜しまないところにある。
弓馬・刀槍・鉄砲などの技芸にあるのではない。
国家のために命までも惜しまないというのであれば、技芸などなくても立派な武士である。
いくら技芸があったとしても、国家のために命を惜しむようであれば武士ではない)
(『講孟箚記』告子下第二)


リーダーに必要なのは技芸ではない。
いざという時に国のために命を捧げる腹さえあれば、それでいいのだ
―― 松蔭のリーダー論は極めてシンプルです。

まさに私心を去ることの極みともいうべき言葉ではないでしょうか。


2番目の善を好むこと(好善)は『孟子』の思想の真髄で、
松蔭もとても大切にしていました。

「『善を好む』ということは、政治を執る人が座右の銘とすべき教えである。
政治を行なうことは難しいことではない。
善を好むことと他者を受け入れること、これができる人は国に利益を与える。

優れた人材を登用する時には国家は安泰で、
そのような人を退ける時には国家は危険になる」

「私心を除去する」
「善を好む」

この2つは、口にするのは簡単ですが、実行となると至難の業です。

しかし、事を為すにこれほど大切なことはありません。
その目標に向かって突き進み、その如く生きたのが、まさに松蔭だったのです。



自分を見失っている若者たち、己れの安穏と幸せだけを追い求める大人たち、
そういう日本を再生させるには、「国体人倫にあり」という『講孟箚記』の精神に
いま一度立ち戻らなくてはいけません。

いまリーダーたちが心掛けるべき一念もまた、そこに尽きるように思います。

            <感謝合掌 平成27年1月26日 頓首再拝>

【教育は治療と似ている】 (704)
日時:2015年03月20日 (金) 04時51分
名前:伝統


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2011年09月04日)」より

   (曽野綾子氏の心に響く言葉より…)

   自分をとり巻く周囲の状況が、悪かったからこそこれまでになったのだ、
   という人は世間にかなり多い。

   これは嫌味ではない。
   実感である。

   多くの人は、自分に与えられていた幸福にも感謝するが、
   同時に不幸にも感謝できるのである。

   教育は治療と似ている。

   医者は薬を与え、手術をして、患者を「癒(いや)す」という。

   しかし、医者の中でも謙虚な人々は
   「病人が自らを癒す力に、手を貸しただけだ」という。
   その証拠に、どんなに人間の力を注いでも、
   人間の一生に一回だけは癒(なお)らないのである。


   教育もそうである。

   教育とは或る人間が(多くの場合、年齢の上のものが)
   他の人に(年若いものに)与えるもののように考えられている。

   これは一面その通りなのだが、半面そうでもない。

   人間は自らを教育するだけである。

   他人は(親や教師といえども)それに少し力を貸すだけという言い方もできる。

    <『魂を養う教育 悪から学ぶ教育』“絶望からの出発”PHP研究所>

             ・・・

多くの心理学では、「相手の行動を変えることはできない」、
「変えることができるのは自分の行動だけ」、と言われる。

脅そうが、暴力を使おうが、怒鳴ろうが、説教しようが、
相手が自分の行動を変える意思がないときは、表面では変わったように見えても、
本当の気持ちは全く変わらない。


どんな名医であろうと、自ら治ろうとしない患者を治すことは難しい。

同様に、世に有名な名教師であっても、本人に学ぶ意思が全くなければ、
言葉一つも教えることはできない。


名医とは、治すのが上手な人のことだが、
治ろうとする意欲を高めることの上手な人、と言い換えることもできる。

希望を与え、元気づけることができる人だ。

名教師は、生徒に学ぶ意欲をかき立て、燃え上がらせるのが上手な人。



行徳哲男師の吉田松陰を評する言葉に…

「ボルテージとは波動である。
波動を出す人物は元気を生み出す。

その代表的人物が吉田松陰である。

松陰の一挙一動は波動となって伝わり、若者たちを奮起させ、煽起(せんき)させ、
幕末を揺り動かすエネルギーを生み出した。

松陰は時に涙を含み、声震わして弁じ、甚だしきは熱涙点々と書をしたため、
また、時に目が裂けるほど大きく見開き、髪の毛が逆立つほどの怒りを示したという。
その一方で、和んだときには花に蝶にと戯れたともいう」


吉田松陰ほど、短期間に多くの若者を感化し、感奮興起させた人物は古今、他にいない


不幸の底にあっても、ないものを嘆くのではなく、あるものに感謝できる人は幸せだ。

言葉一つで、人は冷やされもし、温かくもなる。


人に、希望や元気の種をまき、感奮興起させる人でありたい。

            <感謝合掌 平成27年3月20日 頓首再拝>



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