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光明掲示板・伝統・第一

 

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無限の富を汲みだす (67)
日時:2015年01月23日 (金) 04時16分
名前:伝統

*光明掲示板・第三「無限の富を汲みだす (69)」からの継続です。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

・・・

《一人が富めば皆が富む》

         *『眞理第九巻生活篇』(P191〜192)より

富を得るには隣人を犠牲にしなければ得られない
と云う古い考えを捨てることが必要である。

人類を幸福にするものが「富」であり、富の本源は「神」であるから、
「富」が隣人を傷つけると云うことはあり得ないのである。

隣人が富むことによって自分は幸福を得、
自分が富むことによって隣人が幸福を得るのが本当の「富」である。

或る人が富んで商品を買うことによって、その商品のブームが生じ、商品を作る工場で
働く人たちの収入が殖え、それで工場で働く人が洋服を1枚ずつ余計にこしらえれば
その服を作る工場で働く人の収入が殖え、

その工場で働く人が映画館へ余計行けば、映画の製作者が熱心になり、
立派な作品をつくれば、映画のコンテンツを海外に輸出するだけでも国の富を殖やし、
国の富が殖えれば日本の産業界がそれだけ繁昌する・・・・・無限供給である。

(伝統・注:表現を少し現代的に変更させていただきました。
      原文については、『眞理第九巻生活篇』にて確認できます)

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56


             <感謝合掌 平成27年1月23日 頓首再拝>

人格の力が、人や富を引き寄せる (159)
日時:2015年02月02日 (月) 02時48分
名前:伝統

             *青年の書(P75〜77)より

諸君よ、決して人格以下の何物をも獲得しようと思う勿れ。
人格の中(うち)にこそすべての価値があるのである。

諸君の職業がいかなるものであろうとも、
真にそれを人格の価値の上に築くとき本当の成功をかち得るのである。

人格の力は一種の魔術的力を以て人々をひきよせ、
遂に諸君の事業を大成せしめるのである。

諸君の所へ富が集まって来ないのは、よき協力者が集まって来ないのは、
諸君に人格の魅力がないからである。

しからば人格の魅力はいかにして生ずるであろうか。

一見高潔なる人格の如くして清貧の生活を送り、孤高独(ひと)り寂しく、
訪れる人もなきさびれたる生活を送っているものもあるのである。

だから人格の高潔というようなことに世間的成功にはなんらの力もないものだと
考える人々がともすればなるのである。しかしこれは決して人格が高潔であるが故に
人が集まらないのでもなければ富が集まらないのでもないのである。

それは人格の清らかさのためにそうなっているのではなくして、
人格の狭隘さによって生じたところの、自己人格の小ささの反映にすぎないのである。

まず多くのよき友を集め、よき協力者を得るためには、人格の広さというものが必要である。

(中略)

自らの清きことのみを心がけて他の人々を愛することを心掛けないものは
人格が高潔の如く見ゆれども、実は自分の清きことのみを求めているのであるから、
それは結局利己主義にすぎないのである。

(中略)

真に偉大なる高き尊き人格者はすべての人の中に宿るところの「善さ」のみを見て
決して「悪」を見ないのである。

人がその人の所へ集まってくるのは、
その人が自分自身に対して好意をもっていると考えるからである。

吾々は愛され、自分に対して好意をもっている人々の所へ
集まって行こうという傾向があるのである。
そして愛される者に対しては愛したいのである。

好意をもってくれる者に対してはひきつけられて深切をつくさずにはおられないのである。
ここにも「与えれば与えられる」の黄金律は真実である。

・・・

<参考Web:同志を集めるための祈り
       → http://www.ssfk.or.jp/sni-oosaka/pdf/inori.pdf >

             <感謝合掌 平成27年2月2日 頓首再拝>

富は横取りをせず、縦取りをすべし (311)
日時:2015年02月14日 (土) 04時01分
名前:伝統


      *谷口雅春先生 昭和48年やまと新聞「新 一日一話」より
       (”道産子 さま”の記事より拝借致しました)

生長の家の教えでは、「縦取りはよろしいが横取りはいかぬ」と申します。

横取りというのは、有限の世界から物を取ってくることでありまして、
それは必ず誰かと衝突するのであります。
これには必ず奪い合いを生じ、戦いや争いが起こってまいります。

縦取りというのは、神の世界から無限の世界から頂いてくることであります。
これは頂いても、相手は減らない頂きようです。

そんな頂きようが本当にできるのでしょうか。

あなたが何をやっても儲ける方から考えていると「横取り」の力であります。

これを「お客を喜ばしたい」「人類に献げたい」という方から考えていると、
それは神へと縦に連なっているのであります。

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=79

             <感謝合掌 平成27年2月14日 頓首再拝>

本当の富は霊的実在である (440)
日時:2015年02月24日 (火) 03時30分
名前:伝統

         *『眞理』第九巻生活篇(P196〜197) より

本当の「富」は物質的な形にあえあわれた富ではないのである。
それは肉眼に見えぬ「富の雰囲気」(実は霊的実在としての富)として、
私たちが此の世に生まれて来たときに何人(なんぴと)も持って生まれて来るのである。

それは神から其の人に賦(あた)えられたる天与の富である。

ただ私たちは、その「霊的雰囲気」である富を現実化するのに失敗することがあるのである。

或る人は、みずから「貧しい」と考えて、その「富の雰囲気」を汚してしまう。
或る人は、「与える念(こころ)」を忘れて「奪う念(こころ)」を起こすことによって、
天与の「富の雰囲気」を混濁せしめる。

その混濁の雰囲気が現象界に具体化して出て来るとき、
それは富の完全な姿となって顕れることができないで、
「貧しい姿」となってあらわれるのである。

先ず、神想観を充分修して「富」の雰囲気を完全にすることである。

             <感謝合掌 平成27年2月24日 頓首再拝>

富むために必要な心掛け (577)
日時:2015年03月07日 (土) 04時44分
名前:伝統

           *『 生長の家 』(昭和26年2月27日の法語)より

彼が栄えるのは 自分が栄えるのである。
彼が貧しくなるのは 自分が貧しくなることである。

人の栄えるのを喜ぶような心のものでないと、みずから栄えることは出来ないのである。

富める者を観て 「 搾取者 」 だとケチをつけるような心の者は、
「 富 」 を排斥する心があるのであるから、自分の方へ富が集って来ないのである。

人の幸福を見て羨(うらや)むような心の者は、
幸福を排斥する心があるのであるから 真に幸福になることは出来ないのである。

損したことをクヨクヨ思うな。
「 損 」 を心に抱いている限り 「 損」 を此次(このつぎ)も
引寄せることになるのである。

「 損 」 をしたときに、今迄(いままで)、自分が富む事を妨げていた
塵埃(ごもく)が消えて 富の道が開通したと思え。

      (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=60

             <感謝合掌 平成27年3月7日 頓首再拝>

無限供給の意義について (670)
日時:2015年03月16日 (月) 06時30分
名前:伝統

          *「眞理」第四巻青年篇(P127〜128)より

実相哲学は神からの無限供給を説くけれども、
これは「実相の人間」そのものが神の子であって、
既に、「無限」を内に包蔵するものであると云うことを説くのであります。

「貧乏」ですから「与えたまえ」と乞食根性を出すことではないのであります。

寧(むし)ろ、「無限」を内に包蔵することを自覚するが故に機会ある毎に
「自分自身」を他(ひと)に「与えん」と欲して与えるがゆえに、
其処に価値の創造が行われ、その「与えたこと」の反映として、

現象的にも自然に「豊かなる供給」がめぐりめぐって
自分自身の生活にあらわれて来て、名実共に富むことになるのであります。

併しながら、かかる現象が実現するに先立って、現象的には今なお
貧しくありながらも「内在の無限の富」を自分が既に有(も)って、
既に富んでいると云うことを自覚しなければならないのであります。

              ・・・

《先ず心の富者となるべし》

          *「眞理」第四巻青年篇(P128〜129)より

米国ニューソート界の老大家ウオルドー・トラインがかつて
自動車王、第一世ヘンリー・フォードに

「あなたは、25年前には無一物でありましたが、
今は巨億の富を持っていらっしゃいます。その致富の極意を教えて下さいませんか」

と言いますと

ヘンりー・フォードは

「わたしが無一物だったですって? そんなことはありません。
わたしは決して無一物だったことはありません。すべての人間は既に自分の内に
無限の富を有(も)っているんですからな」

と答えています。

このフォードの「無限の富の自覚」があってこそ、
やがて、現象世界に彼は「無限の富」を実現したのでありましょう。

この現象界に「無限の富」が現れるまでには
「金銭無き富者」と言い得る如き状態を経過するのであります。

即ち「心の富者」であって、現実に貧しくとも「与えてやまぬ」富める精神が
其処にあらわれて来るのであります。

諸君が本当に富もうと思ったならば、先ず金銭に眼をくれてはなららない。
先ず自分を「内在の富者」だと信じて「与える」ことから
始めなければならないのであります。

             <感謝合掌 平成27年3月16日 頓首再拝>

富の原則は 「 与える 」 にある (775)
日時:2015年03月27日 (金) 04時37分
名前:伝統

       *『 生長の家 』昭和二十五年一月二十三日の法語 より 


富の原則は、物質を追求することによって得られるのではない。
生命を捧(ささ)げることによって得られるのである。

捧げられたる生命の影が 富なのである。

「 正しく与えることが 豊かなる富を得る鍵(かぎ) 」であると
チャールス・フイルモアは いっているのである。

「 与えよ されば与えられん 」 というのが 無限供給の黄金律であるのである。

( 「 人間救いの原理 」 第二章参照 )


然し与えると云っても 正しく与えないものは 豊かに恵まれるということはないのである。

金でも労力でも 正しい与え方があるのである。

    (http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/168cd6b3063806e70be20617fd700587


             <感謝合掌 平成27年3月27日 頓首再拝>



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