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タイトル:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜 アクション

――遂に志貴たちの前に姿を現した異変の根源。彼らの心を縛る恐怖の象徴が、実像となって襲いかかる。傷付き倒れる大切な人。その時、七夜の心に芽生える感情は、暗殺者のそれとはかけ離れたものだった。生まれて初めて体験する、殺意を越えた激しい怒り。それを力へと還元した時、彼は己の限界を凌駕する。三咲町を襲ったタタリとの最終決着! 最後に立っているのは果たしてどちらか!? 七夜は、自身を縛り付ける死の運命を切り裂くことが出来るのか!? 長編最終回は、最初にして最後の大激戦!

月夜 2010年07月05日 (月) 21時49分(85)
 
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第一章)

頭上に輝く、身を焦がすかのような太陽の下を、俺とシオンは連れ立って歩いていた。
さながら、世界の全てを照らすかの如き光。
人には目に眩いだけでも、人ならざる一部の人外には、文字通り全身を焼き尽くすような激痛を感じるという。
生半可な吸血鬼などでは、恐らく一分と持たず灰塵と化すことだろう。
正直、これほどの陽光に耐えられる吸血鬼など、あの真祖の姫君くらいのものか。
いや、あれは吸血鬼ではなく、吸血姫だったな。
「っ……く……」
不意に、微かだが呻き声が聞こえた気がして、俺はさりげなく背後を振り返った。
そこにあったのは、胸を押さえながら、うつ向きがちに後をついてくるシオンの姿だった。
伏せているせいで良くは伺い知れなかったが、顔色も余り良いようには見えない。
そういえば、こいつも吸血鬼化が進行している途中段階だったな。
「……」
そんなことを考え、俺は進める足の方向を、今まで向いていた方角から外し右手へと折れた。
「え? 七夜、そちらは……」
「……黙ってついてこい」
背後を一瞥し、にべもなくそう言い放つと、俺はそのまま歩みを進めた。
「あ、はい……」
そんな俺の後ろを、少し戸惑いながらも後に続くシオン。

――はぁ……。

その足音に耳を傾けながら、俺は内心密かに溜め息をついた。
全く……一体俺はどうしてしまったと言うのだ。
彼女の身を案じて、わざわざ遠回りになる路地裏を選ぶなど、昔の俺なら考えられなかったことだ。
それだけ、俺が甘くなったということか。
生粋の殺人鬼だったあの頃が、今ではまるで遠い昔のことだった気がする。
「っでよ〜。そいつったらさ〜……」
「ギャハハハ! マジで〜?」
「……ん?」
と、そんなことを思っていた折、耳に届いた下卑た笑い声と何者かの気配に、俺は足を止めた。
正確には、何者かたち数人分の気配。
視界に映るのは、典型的な街の不良グループといった輩のたむろす姿だ。
髪染め、ピアスなどは当たり前な、見るからに柄の悪い連中。
「そんでさ〜……ぁん?」
そんな中の一人、髪を金に染め、これでもかというくらいのピアスを耳に付けた奴と目が合った。
「っんだぁ? てめぇは」
ポケットに手を突っ込んだまま立ち上がりながら、その不良がこちらへとガンを飛ばしてきた。
「あん? 何だ、急によ」
「あいつだよ、あいつ。俺にメンチ切ってきやがってよ」
「あぁ? ただのガキじゃねぇか。しかも女連れとは、生意気じゃねぇか」
「おい。良くみたら、女の方かなりよくね?」
「お? 確かに良い女だな。なぁ、姉ちゃんよ。そんなシケた奴放っぽって、俺らと楽しいことしようよ」
各々が好き放題に低俗な言葉を放つ。
はて……?
以前にも、似たようなことがあった気がするんだが……。
「おい。てめぇ、何シカトしてんだよ!」
最初にガンを飛ばしてきた不良が、凄みながらこちらへと歩み寄ってくる。
あぁ、そうだ。
そういえば、3、4日前にも、似たような連中に、こんな風に絡まれたっけな。
……待てよ?
似たような連中?
本当に“似たような”か?
こいつら、見覚えが……。
「七夜、ここは私が……」
「いや、ちょっと待て……」
エーテライトを取りだそうとするシオンを制しながら、俺は脳内の記憶バンクを漁り、あの時の情報を蘇らせた。
……やはりそうだ。
こいつらは、あの時のあいつらに間違いない。
ついこの前、あれだけ痛い目に合わせてやったというのに、俺のことを忘れているというのか?
あり得ない。
どれだけ頭の弱い奴でも、恐怖に根付く記憶が、これほどの短期間で消えるはずがない。
つまり、こいつらは、あの時の輩では決してないということだ。
ならば、今目の前にいる奴らは一体何か?
「……成る程」
俺は口の端に微かな笑みを浮かべながら、呟いた。
こいつらの正体が何か、大体予想は付いていた。
「おい! シカトしてんじゃねえって言って……」
胸ぐらに伸ばされる手を、俺はあの時と同じように捻り上げると、間髪を置くことなく、そのみぞおちに膝蹴りを見舞った。

――ドスッ!

「がっ……!?」
肉を打つ鈍い音と、耳障りなかすれた悲鳴が、薄暗い路地裏で跳ね回る。
膝から崩れ落ちる体躯。
瞬間、それを見た不良たちから薄ら笑いが消えた。
直ぐ様、七夜は前方へと大きく跳躍した。
余りのことに、動くことすらままならずにいた不良たちとの距離が、一気に詰まる。
次の瞬間には、既に彼らは必殺の間合いの中。
近くにいる二人の首筋に、俺は両手で同時に手刀を叩き込んだ。
声をあげる暇もなく、瞬時の内に昏倒する二人の不良には目もくれず、大地を踏み締める足に力を込め、傍らの男の顎目掛けて蹴りを放った。
その勢いのまま、最後に残った一人の頭上を飛び越え、壁を足場に再度跳躍。
その後頭部を力任せに蹴りつけ、俺は静かに下り立った。
改めて周囲を見渡す。
動く者は誰もいない。
かかった時間は……五秒弱か。
やはり長く殺しをしていないと、少なからず衰えるものだな。
まぁいい、とりあえず検証といくか。
俺は、一番最初に殴り倒した不良に近付くと、その傍にしゃがみ込み、懐から短刀を取り出した。
「なっ!?」
後ろから上がるシオンの驚きの声を無視して、俺は握った短刀で男の手首を軽く切り裂く。
「七夜! 貴方、一体何を……っ!?」
俺を止めにかかろうとしたシオンの動きが、不意に止まった。
背中越しにも、彼女の息を呑む気配が感じられる。
そう。
それくらい、今目の前で起きていることは異常だった。
傷口から漏れるのは、赤い血液ではなく、黒い霧。
驚愕に立ち尽くすシオンを尻目に、俺は次々と連中の皮膚を軽く裂いて回った。
立ち上るのは黒霧ばかり。
人間であれば当然流れるはずの血液は、どこからも溢れることはなかった。
「やはり、な」
俺は、自分の予測が当たっていたことを確信し、そう静かに呟いた。
当たっていたところで、嬉しくもなんともないが。
この事実が意味することは、ただ一つ。
俺の、いや、この街の誰にも知られることなく、既にタタリは動き出していたのだ。
そのことが分からぬ程、彼女も鈍感ではない。
「くっ……」
今目の前で起こっている状況に、シオンは苛立ちを露わにしていた。
歯軋りするギリギリという音が、背後から聞こえてくる。
……無理もない。
いつからかは分からないが、目に見えぬ形で進行していたとは言え、この街は既に異変に侵食されていた。
しかも、その異変が形となって目の前に現れたというのに、それに気づくことが出来なかったのだ。
これは、未来を予測するアトラスの錬金術士としての彼女にとって、この上ない屈辱だった。
「……行きましょう。七夜」
「あぁ」
胸に募る焦燥感からか、どちらからともなく進める足を徒歩から疾駆へと切り替えると、俺とシオンは黒霧立ち上る薄暗い路地裏を、目的地目指して脇目もふらずに駆け抜けた。

月夜 2010年07月05日 (月) 21時51分(86)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第二章)

天高く輝く太陽の下、その日射しを全身に浴びながら、俺――遠野志貴は前へと足を運んでいた。
一歩足を進める度、それは、片足を浮かせ、もう片方の足で全体重を支えている時と、そして浮かせた足を地に付ける時。
その度毎に、全身を痺れるような痛みが駆け抜けた。
健康な人間の足取りとは程遠い、お世辞にも速いとは言えないその動きで目指すのは、町外れにある古ぼけた教会。
その正確な位置は分からないが、確か駅付近で何気なく辺りを見渡した時、遠くの方にそれらしき建物が見えた気がする。
ここから駅まで、歩いて約10分。
どれくらいの距離だったかは覚えていないが、町外れ程度なのだから、多分一時間程度で着くだろう。
……いや、それはあくまでも健康な人間の話だ。満身創痍な今のこの体では、とてもじゃないが一般人と同じように歩けはしないだろう。
となれば、かかる時間は……少なめに見積もっても、30分くらいは多めに見ておくべきか。
「……ははっ」
不意に、笑いが漏れた。
自分でも分かるくらい、無気力的で絶望感に満ちたそれは、笑いと言うのさえおこがましい、自虐的な嘲笑だった。
何をやってるんだ、俺は……?
こんな体で……ろくに歩くことさえできない体で、一体何ができる?
七夜にも言われたことだが、これでは足手まといにしかならない。
そんな俺が行って、なんになるというのだ。

――目の前で死なれると、迷惑なんだよ。

脳裏に蘇るのは、七夜に吐きかけられた冷たい言葉。
あの時見せた、あいつの凍てついた刃のように冷たい眼差しは、今でも鮮明に思い出せる。
あいつのあんな目を見たのは、初めてだった。
だけど、その瞳の奥にあったのは、負の想念ではなかった気がする。
何故だか分からないけれど……冷たさの中にも何か……ある種の暖かさと言えばいいのだろうか。
それがあったような気がする。
多分、だから俺は今、ここにいるんだと思う。
もし、本当に七夜がどこまでも冷徹な瞳で俺を見下ろし、残酷な現実をただ突き付けていたとしたら、俺は恐らく……。

――やっぱり……志貴は殺せない。

次いで蘇ったのは、アルクェイドがいまわの際に残したという言葉だった。
実際に聞いた訳でもないというのに、こんなにもはっきりと脳内で再生されるのは、何故だ。
こんな言葉、聞きたくもない。
こんなの、アルクェイドが言う言葉じゃない。
あいつは……そう、いつも賑やかで垢抜けた奴で、そのくせ真祖の姫とかいって反則級に強くて……。
あいつが死ぬなんてこと、考えられない。
考えたくもない。

――志貴〜♪

聞こえてくる楽しそうな声は、ただの錯覚。

――しぃ〜きぃ〜?

聞こえてくる疑わしげな声は、ただの幻聴。

――志貴っ!

聞こえてくる切迫した声も、ただの――。

『志貴……』

「っ!?」
俺は、弾けたように背後を振り返った。
その視線の先に映ったのは……
「……」
……どこにでもある、人混みだけだった。
その人の群れの中に、求める姿を必死に探す。
……けれど、それが見つかることはなかった。
当然だ。
見つかるはずがないのだから。
「くそっ……!」
俺は左右へと激しく頭を振り、脳に張り付く亡霊を振り払った。
今は、過去に捕らわれている時ではない。
認めたくない現実に背を向けて、逃げている暇なんてないんだ。
顔を上げ、進むべき道を真っ直ぐに見据える。
もう、迷わない。
アルクェイドの為に……俺のせいで傷ついた皆の為に行くと、そう決めたんだ。
前へと足を踏み出す。
心なしか、さっきより痛みが薄らいだ気がした。
俺は疼く痛みを押し殺し、目的地へと歩みを少し速めた。

月夜 2010年07月05日 (月) 21時52分(87)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第三章)

漆黒の法衣を身に纏い、私は陽射しを浴びる昼の街を疾走していた。
正確には、その街中ではなく、街にそびえる数々の建造物の、その屋上から屋上へと。
吹き抜ける風が、闇色の法衣を進行方向と逆の方へたなびかせる。
バサバサという音が、風を切る掠れた音に混じって耳に届いた。
よし、体の調子は悪くない。
いや、むしろ良いくらいだ。
一度跳躍する度に、目的地までの距離が著しく縮まってゆくのが分かる。
それに従って、確かに近付きつつある悪しき気配。
不意に、あの時の記憶が蘇る。
もうどれくらい昔だったか……私が、まだエレイシアという名を名乗っていた、あの頃の……。
無限転生という形で、永久なる生命を得た、この世の理に背きし存在、ロア。
そいつは、私の中に潜み、その姿を表に現すことなく、ただじっと来るべき時が訪れるのを待っていた。
しかし、私は感じていた。
確かに在る、私の中の私ならざる何者かの存在を。
それが、徐々に私自身を侵食していくのも。
だけど、何も出来なかった。
最初の頃、私の意識がはっきりしていた間はまだ良かった。
私の人間としての理性が、自身の中のロアを押さえ込めていたから。
けれど、それも本当に最初だけだった。
深層心理からふつふつと沸き上がる、数々の残酷な衝動。
当初弱かったそれは、時を経るごとに巨大化の一途を辿った。
街中、学校、家、それらのどこを探しても、安らぎなんてものは欠片も見つからなかった。
最終的には、人を見るだけで激しい殺意を覚えるようになった私は、自室にとじ込もることによって、外界と己との間に隔壁を生むという結論に至った。
……今にして思えば、無力だった当時の私にとって、それは最後の抵抗だったんだろうな。
もちろん、それ以上のことも考えた。
試しもした。
でも、それすらも私には許されなかったのだ。
目につく全てが破壊し尽くされた室内。
どこをどう見渡しても、無事な家具などは一切見当たらなかった。
そんな折、不意に目に止まった、砕けた鏡の一欠片。
……それは、人間が命を絶つには十分な鋭さと長さだった。
無気力感、悲壮感、喪失感……それらの入り交じった深い絶望の中、気づいた時には既に、私の手はその鏡片を手に取っていた。
あてがう場所は、心臓ではなく喉元。
罪深き私に、楽な死に方など許されはしない。
せいぜい苦しみ、もがき、のたうち回りながら死を迎えるがいい。
そんな最期こそ、こんな私にふさわしい。
……そう思ったのに、私の腕は動かなかった。
喉に感じる冷たく鋭利な感触と、生暖かい何かの流れ落ちる感じ。
あと一押しで、これは致命傷になる。
そうわかっているのに、身体が動かない。
怯えている?
最初はそう思った。
けれど、実際はそうじゃなかった。
私が私でなくなっていた……ただそれだけのことだった。
結局のところ、あの時にはもう手遅れだったということだ。
自ら死を選ぶことさえできないほど、何もかもが。
私は私。
この身体は私のものだ。
得体の知れない他の誰かになんて、渡せるものか。
いくら叫べど、その悲痛な声は誰にも届かなかった徐々に私を蝕むドス黒い意思。
それは、いつの間にか私の理性を押さえ込むまでに肥大化していたのだった。
それからのことは……良く覚えていない。
当時のアルクェイドと対峙し、形式上の死を与えられるあの時まで、ロアとなった私は一体何をしてきたのか。
答えは一つ。
人を殺してきた。
父を、母を、友人を、師を、街の人々を。
数え切れない程、たくさんの人を殺して、殺して、殺して……。
未だに、あの時分に浴びた血の臭いが、体に染み付いているような気がする。
いや、実際そうなのだろう。
この身に転生したからといって、今までに犯してきた罪が消えるはずもない。
断罪と贖罪。
私が真に為すべき、もしくは為されるべきなのは、果たしてどちらなのか……。

――カツッ。

「っ!?」
突如として、私の意識が現へと舞い戻る。
にわかに感じる、一時の浮遊感と、次いで身を襲う墜落感。
私は反射的に腕を伸ばし、ビルの縁に指を掛けた。
片方の腕に、私の全体重が一気にかかる。
けれど、その程度の重量を片腕で支えきれないほど、私はヤワではない。
私はその体勢のまま、首だけを捻って周囲を見渡してみた。
高所からの眺めのよい景観が、視界に飛び込んでくる。
どうやら、ぼんやりとしたままビルからビルへと跳躍を進めていたら、着地時にうっかり足を滑らせてしまったようだ。
私としたことが、情けない。
これが戦闘中だったなら、間違いなく死んでいるところだ。
そんなことを思いながら、私はもう片方の腕もビルの縁に引っかけると、軽々とその上へ跳ね上がった。
向かうべき方向へ視線を向ける。
先端の尖った四角錘状のピラーが、視界を遮る建造物の隙間から覗けた。
目的地は既に近い。
「……」
私は、無言の内に己の闘志を高めると、その方へ大きく跳躍した。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時16分(88)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第四章)

ゴルゴダの丘にて磔となったキリストは、絶対的な死をすぐ眼前に迎え、果たしてその時何を思ったのか。
残して逝くこととなる弟子たちのことか、はたまた愛する者のことか。
それとも、自分を裏切ったユダのことか。
この荒廃とした世に救いをもたらす為、様々な行いをしてきた自分が、何故裏切られなければならなかったのか。
しかし、実際のところはその裏切りすらも、彼が神となるために必要不可欠な条件であったのだ。
ならば、ユダは裏切り者ではなく、誰よりも敬虔な彼の弟子ということになるのではないか。
そういう説を良く聞くが、私はそうではないと思う。
キリストは、死という名の、文字通り最期の試練を乗り越えて、神となったのだ。
それは、キリスト自身の力によるものであって、誰の助けを受けた訳でもない。
結論、ユダはただの裏切り者で、その裏切りをキリストが乗り越えた。
それだけのことなのだ。
ならば、もしそこで彼がキリストを裏切らなかったら?
答えは同じ。
ユダは、予言を実行しなかった裏切り者だ。
だが、ここで真に重要なのは、ユダが裏切り者であるかどうか等ではない。
キリストが神となるために、彼の裏切りが不可欠な要素であったということだ。
ならば、私が神となるためにも、何者かの裏切りが必要となるのもまた必定。
私の手によって、再びこの世に舞い戻ったその者は、私に死を運ぶ死神たちを引き連れて、今まさに私の元へと駆けている。
無論、私を殺すために。
神となるために必要な駒は、今ここに揃った。
私は、裏切りと死の運命の上に立ち、現存する神へと昇華してみせる。
さぁ、舞台は整った。
ユダよ、死神よ。
歪な幻影と共に、美しく妖艶たる死の輪舞を踊るがいい。
私に新たな神となり得るに値する資格が、けだし神的なる者たる器があるかどうか、淘汰しにくるがいい。
神へと昇華するか、それとも愚者へと成り果てるか。
鮮血吹き荒れし、紅き祝福の舞いが幕を下ろす時、全ての答えが出るだろう。
「真に消滅すべきは貴様か私か……決着を付けようか、志貴……」
自然と綻ぶ口元が、残酷な笑みへと引きつられていくのを、私は自分でも感じながら、それを抑えることができなかった。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時18分(89)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第五章)

「ん〜……っと」
燦々と輝く忌々しき陽光の下、私は大きく伸びをした。
体の至るところが、ギシギシと鈍く軋んでいるような感じがする。
例えるなら、長期間潤滑油を付け忘れた義体といったところか。
やはり、まださすがに本調子とまではいかないようだ。
だが、かといってそこまで酷く弱体化している感じもない。
数日前の晩に殺されたというのに、この2、3日程度でここまで回復するとは、私としても嬉しい誤算だった。
こんな短期間に2度も殺されたのだ。
死ぬということに、少しばかり体が慣れてしまったのだろうか。
前回と比べ、回復速度は格段と上がっていた。
これなら、並大抵の輩に遅れはとらないだろう。
「……」
無言のまま辺りを見渡す。
通りを行く人々は、皆一人一様。
せわしなく前後左右へと交差する、それらのどの姿も、決して他の誰かと相同ではあり得ない。
いや、同じであってはならないと言うべきか。
そして現に、どれもが皆、他人とは違う己の姿を持っていた。
……表面上だけは、の話だが。
他の誰かとは違う、各々が持つ自分だけの容姿。
しかし、それよりももっと奥深く。
存在の根源とでも言うべき部分は、完全に同一だった。
全員ではないが、こうやって見る限り……2〜3割といったところか。
この街を覆いつつある異変に気付いているのは、私を除いて一体何人いるだろう?
きっと、指折り数えても片手で事足りるな。
今日も、世界は上辺だけの平和を装い、回っていた。
偽造によって彩られた舞台の上にて、詐欺師の思惑通り踊る道化師たち。
だが、私はそんな愚かなピエロ共に混じって、奴の脚本通りの舞踏を踏む気は毛頭ない。
出来の悪い脚本は、私がこの手で破り捨ててくれる。
「さぁ、私を殺した責任、取ってもらいましょうか……?」
そう、誰に言うともなく冷ややかに呟くと、私は口の端に浮かぶ残虐な笑みを絶やすことなく、町外れの目的地目指して、ゆったりとした足取りで歩みを進ませた。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時18分(90)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第六章)

「……ここですか」
静かにそう呟き、私は視線を持ち上げた。
四角錘型にそびえる、二本の大きなピラーが特徴的な建造物が、そこにはあった。
古ぼけた教会。
そう言えばまだ聞こえはいいが、今私の目の前にあるそれは、もはや廃墟と言った方が正確だろう。
今どき珍しい、木材で作られた建造物であるせいか、その壁面はボロボロに朽ち果てていた。
今まで、倒壊せずに残っていたのが奇跡とさえ感じられるくらいだ。
側壁部分の至るところに設置された窓ガラスは、そのことごとくが一つ残らず砕け散っていた。
下に目線を落とす。
一切手入れのされていない土壌からは、夥しい量の雑草が繁りの限りを尽くしていた。
その緑の隙間に微かに見える、白い物体。
腰を曲げ、何気なくその球体に手を伸ばす。
一般的な白い野球ボール。
それは、確かに何の変哲もなかったが、やけに古いものであることだけは分かった。
そうでなければ、これほどまでに縫い目がほつれたりはしない。
つまり、この教会はかなり昔、まだこの近辺に大きな公園や広場のようなものが残っていた時から、ずっと建っていたということだ。
こんなにも不気味な場所だ。
例えボールを打ち込んでしまったことが分かっても、入りたくないと思って不思議はない。
まして、好き好んで入りたいと思う奴はまずいないだろう。
そうやって、無意識の内に人々から避けられていたこの教会。
最初、この街にきたときは見向きもしなかったが、よくよく考えてみれば、こんなにおかしな話もない。
見るからに廃墟なこんな教会、誰も訪れていないことは明確だ。
持ち主がいるかどうかさえ怪しい。
それが、取り壊しに合うこともなく今まで残っている。
そんなこと、常識的に考えてありえない。
つまり、この教会には常識的ではない何かがあるということだ。
誰にも関心を持たれることなく、ただそこに在り続ける。
それは、何者にも危害を加えず、何者の目にも止まらず、故に何者にも感知されないという、高度な虚無の結界だった。
私とて例外ではない。
こんなことでも起きなければ、一生見過ごしたままだったかも……いや、その可能性の方が高かったことだろう。
まぁ、そんなもしもの話はどうでもいい。
現実、私はこの建築物の存在とその異常性に気付いているのだ。
ここで立ち往生している場合ではない。
中に踏み込み、この異変の元凶を駆逐すること。
それが、今の私が為すべき唯一にして最優先事項だ。
扉の前に立ち、胸に手をあて一度だけ深呼吸。
来るべき時に備え、全身の神経を研ぎ澄ませる。
ここから先は、何が起きても不思議ではない。
目の前にどんな障害が立ちはだかろうと、その一切を排除してみせる。
例え、それが誰であろうとも、だ。
「……よし」
赤く錆びた仰々しい鉄製の扉に手を添え、ゆっくりと押し開く。
その向こうに広がる、外見と何ら変わらぬ内装。
砕けて朽ちた参拝者用と思われる椅子に、床に散らばるかつては窓ガラスを形成していたと思われるガラス片。
二階の両サイドに伸びる細い通路も、所々が欠け落ちており、元は手摺を形作っていたであろう木材は、腐ったボロボロの木片と成り果てている。
最奥に位置するステンドグラスも、本来それが持つはずの神々しい荘厳な雰囲気は微塵となく、その随所にひび割れが見られるそれは、もはや見るに耐えない。
そして、壇上に位置するのは首の取れた聖母像。
その腕に抱かれた幼きキリストは、心の臓に剣が突き立てられている。
やはり、どう見ても廃墟にしか見えなかった。
周囲への警戒を緩めることなく、私は一歩、その内部へと足を踏み出した。

――リィン――

「……えっ?」
不意に、耳に届いた何かの鳴る音。
この場にそぐわない、甲高くも澄み切った、それでいてどこか不気味なこれは……鈴の音?
「……っ!?」
気が付いた時、既に周囲の世界はその姿を変貌させていた。
幾本もの亀裂の走ったステンドグラスは、まるで新品のような輝きを放ち、砕け散った無数の窓ガラスも、粉々の木片と化していた参拝用の椅子も、その全てがキレイに修復されていた。
壇上にあったはずの聖母像に至っては、いつの間にかゴルゴダの丘に磔られたキリストの姿となっている。
これは一体……。
「最初の客人は君か」
「っ!?」
突如、降って湧いた様に現れた気配と声に、私はその方向へと向きを直した。
そこに佇む、一人の人型をした何者か。
それの正体が不明瞭な今、それ以外に表現する方法などないだろう。
淡い緑色のロングスカートに散りばめられた数多の装飾品が、光を乱反射してきらびやかに輝いている。
背丈は高いが、体躯はどちらかと言えば痩せ型で、見るからに弱々しい感じを受けた。
だが、その鋭い眼光には一塵の油断もなく、全身を包む静かな殺気も、その上辺を覆う静穏さの内に、勁烈たる猛々しさを湛えているかのようだった。
……あれ?
どこでだったか……私は、このような眼差しを見た気がする。
一体、どこで、誰が……?
「本来なら、君がここを訪れることはなかったはずなのだがな」
そいつの呆れたようなその呟きに、私は無駄な思考を止め、意識をそちらへと集中させた。
「……どういうことです?」
「君はここへやって来るまでに、二度は死んでいるということだよ……あいつが余計なことをしなければ、な」
「……」
私は無言のまま、そいつの言わんとしたことを瞬時の内に理解した。
七夜志貴。
彼がいなければ、確かに私はあのとき、遠野君の姿を偽った幻影に殺されていたことだろう。
二度ということは、私が瀕死となってから回復するまで、彼が私を守っていてくれていたということか。
全く……本来守るべき立場にいる私が、逆に守られていたなんて。
これでは、この街を任されている代行者としての面目が立たないではないか。
思わず苦笑いが溢れる。
「まぁ、君如きがいくら足掻こうと、私にとっては何ら障害にすらならんのだがね」
薄ら笑いを浮かべ、嘲るように吐かれる蔑みの言葉。
だが、そんなものにいちいち腹を立て、冷静さを欠いてしまうような私ではない。
私に課せられた役目はただ一つ。
教会第七位の代行者として、こいつの存在を滅することのみ。
「……試してみますか?」
売り言葉に買い言葉とは良く言ったものだ。
私は無表情のまま、懐から数本の黒鍵を取り出した。
「残念だが、君と遊んでる暇は無い。大事な客人が、ここに向かっている途中なのでね」
「余裕ですね。今から消え去る者の態度とは思えません」
冷たく吐き捨て、黒鍵の投擲体勢に入る。
相手はまだ立ち尽くしたまま、何の構えも取っていない。
なんと無防備なことか。
その気になれば、数瞬を待たずして微塵に切り刻めてしまいそうだ。

――……殺れますね。

そう思った次の瞬間だった。
「やれやれ……君はこれとでも遊んでいるんだな」
その言葉を最後に、周囲の世界を異変が包んだ。
歪む景色、滲む色彩、消失する音響、そして爆ぜる空間。
「っ!?」
思わず息を呑む。
この身に迫るであろう危機に備え、全神経を崩壊しゆく周囲の空間に巡らせる。
……だが、私の目の前で原型を止めないまでに崩れた世界は、秒を待たずして再び元の景観を取り戻した。
「……」
無言のまま、瞳だけを動かして辺りを見回す。
これといって変わった様子はない。
何もかもが元通りだ。
……ただ一つ、奴の姿がどこにも見当たらないこと以外は。
どこから奇襲を仕掛けてくるつもりかは知らないが、なんと愚かな。
私に対して、この程度の小細工が通用すると思っているのか。
次に私の前に姿を見せたその時が、奴の最期だ。
黒鍵を握る両手に力が込もる。
と、私の予想に反して、それは何の動作も起こすことなく、私の前に姿を現した。
キリストの像の背後から、緩慢な動きで全身を露わにする。
その姿がはっきりと視界に入った時、
「……えっ」
私は何をすることもできず、その場にただ立ち尽くしていた。
ある意味、誰よりも見慣れたその容姿。
無意識下に思い起こされる、あの日の闇色の記憶。
「初めまして……いえ、久しぶり、と言うべきかしらね?」
それは、私に向かって口を開いた。
……私と同じ声で。
「あ、貴女は……」
「ふふっ……」
それは、私に向かって醜く微笑んだ。
……私と同じ顔で。
そう。
それは、今となっては遥か昔、私がまだ私でなかった頃の……私だった。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時19分(91)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第七章)

「ここですね」
「あぁ」
シオンの言葉に頷きながら、俺は目の前にそびえる教会と思しき建造物を見つめた。
思しきと表現したのは、それだけ老朽化が進んでいたということだ。
確かに元はそこそこ立派な教会だったのだろうが、今となってはもう見る影もない。
誰の目にも、ただの廃墟としか映らないことだろう。
だが、これが前述したように無害な廃墟であるはずがないことを、俺たちは知っている。
目の前に立ちはだかるかのような仰々しき鉄製の扉は、そのほぼ全面を赤茶色に錆びさせていた。
そんな扉の前に立ち、両の手のひらをざらついた酸化鉄の表面に添える。
「……開くぞ」
「……えぇ」
俺は押し当てた両手に力を込め、一気に扉を押し開いた。
扉の奥に覗ける景色。
それも、外観と変わらず、何年も放置され続けた廃屋といったところだった。
首の無い聖母と、その胸に抱かれたキリストの心臓に突き刺さる剣が、より一層不気味な雰囲気を醸し出している。
だが、こうしている限り、人の気配は一切感じられなかった。
見渡す限り、隠れられそうな場所も見当たらない。
だが、ここになにかがいるのは間違いない。
扉のすぐ手前で足を止めたまま、感覚を鋭く研ぎ澄ます。
……だが、やはり何も感じられなかった。
不用意に足を踏み入れたくないのは山々だったが……どうやらそういう訳にもいかないようだ。
どちらからともなく、シオンと互いに顔を見合わす。
両者共に、考えていることは同じということか。
「俺が先に行こう」
「わかりました」
短いやり取り。
だが、それだけでも十分な意思疏通を図ることができた。
無駄な力みは極力無くし、意識は極めて鋭敏に、俺は一歩足を踏み入れた。

――リィン――

唐突に鼓膜を揺るがした、甲高く不気味な音……鈴の音か?
「今のは……っ!?」
脳が何かを意識する前に、俺はほとんど本能的に身を屈ませた。
すぐ頭上を、風を裂いて通り過ぎる何か。
それは、ガッという鈍い音を立てて壁に突き刺さった。
視線をそれの飛来源へと向けてみる。
すると、そこに一人の人物の存在が認められた。
「シエル……?」
それは、黒鍵を両手に携えた、シエルの姿だった。
だが、明らかに様子がおかしい。
険しい表情で、呼吸を乱しながらある一点のみを凝視している。
「黙りなさい!」
と、唐突に大声を張り上げたと思ったら、その瞳の睨み付ける先へと、握った黒鍵を一気に投擲した。
もちろん、そこに何者かが立っている訳ではない。
何かと接触するはずもなく、空気中を当然のように透過し、向こう側の壁に突き刺さる……そのはずだった。

――ギィン!

だが、それは急に鈍い衝突音を上げ、とある点で突如その進行方向を激変させた。
その方角は、ちょうど俺の立つこの位置。
「……チッ」
俺は軽く横に跳躍し、その軌道上から身をかわした。
風を切るヒュッという掠れた音を残し、壁面に突き立てられる数本の黒鍵。
「な、七夜!?」
それと時を同じくして上がる驚愕の声。
ようやく俺の存在に気付いたらしいシエルが、こちらを見ながら驚きに目を見開いていた。
「何を驚くことがある。俺がここにくるのはわかっていたことだろう」
「え、えぇ……それは、そうなのですが……」
シエルがしどろもどろに答える。
良く見てみれば、どことなく表情に赤みがかかっているようにも見える。
先ほどの、眼光だけで相手を睨み殺さんばかりの鋭い眼差しなどどこ吹く風か。
全く……戦闘中になにを考えているのやら。
心の中で小さく嘆息。
だが、今はそんな余裕すらも許さない状況だ。
一刻も早く、事の詳細と現状を把握する必要がある。
まぁ、大方の予想はついているがな。
俺は厳しい表情で問いかけた。
「お前が今戦っているのは、一体誰だ?」
「あれは……今は詳しく説明できませんが、過去の私です」
予想が確信に変わった瞬間だった。
やはりそうか。
彼女は、何者かと戦っている。
だが、その姿は彼女にしか見えないと、つまりはそういうことか。
「俺には、お前の戦っている相手の姿が見えん」
「えっ!? 貴方にはあれが見えないのですか!?」
「あぁ。恐らく、それはお前にしか見えていない」
「私にしか……なるほど。そういうことですか」
「果たして、本当に理解しているのかな?」
「っ!?」
突如聞こえてきた第三者の低い声に、俺はそちらへと視線を向けた。
教会の中心部、先ほどまで首無しの聖母像があった場所には、いつの間にか磔にされたキリストの像が立っていた。
そのすぐ目の前に、そいつは悠然と佇んでいた。
顔立ちはキレイに整っており、見た目にはなかなか映りが良さそうだが、それは逆に独特的な特徴に薄く、印象には残りにくそうに見えた。
か細い手足は弱々しくも見えるが、それはまた余分な筋肉や脂肪が無いとも取れる。
速さを求めるなら、理想的な体つきと言えるだろう。
鋭いその眼差しにも微塵と隙はなく、表面上は静謐さを湛えながらも、その奥に覗ける明確なまでの殺気は、さながら極寒の氷匱に包まれた煉獄の焔と言ったところか。
淡い緑のロングスカートには、いくつものきらびやかな装飾品が散りばめられており、その一つ一つが光の乱反射により眩しく輝いている。
一見ただ目立つだけのようにも見えるが、装飾品として使われている宝石は、光の反射率がかなり高く、またある一定の法則性を持って並べられているのが一目で分かった。
恐らくは、光の乱反射を利用し、相手の目を眩ませる役目でもあるのだろう。
ロングスカートというだけで動きにくそうなイメージがあるが、特注で裾の部分を短くしているのか、それとも奴の足が長いだけなのかはわからないが、一般的なロングスカートよりも若干丈が短いように見える。
思うに、それほど戦闘の支障にはならないことだろう。
いや、むしろ光の乱反射を利用できる点も考慮すれば、戦闘には有利に働くかもしれない。
直感が告げていた。
間違いない。
こいつは、俺と同じ人種だ。
暗殺を生業とし、殺人に特化した根っからの暗殺者だと。
「本当に分かっているのか、とはどういうことです?」
そんなことを考えていた俺の隣から上がる、シエルの無感情な声。
「言葉の通りだ。君は、今自分の目の前にいるモノが何か、その本質を理解しているのか?」
「何を下らないことを……私に見えて、彼に見えない。そんなもの、典型的な幻術でしかあり得ない」
シエルは断定するように、そう言い放った。
「……ふっ」
だが、そいつは肯定することも否定することも、また動揺を見せることもなく、含み笑いを溢しながら言った。
「そう思うなら、そのままそこに立っているがいい。ただの幻術なら、君が心身の瞳をしばらく閉じるだけで、無効化できるだろう」
「……言われずともそうします」
微かな苛立ちを見せながらも、その場に立ち尽くしたまま、シエルは両手をダラリと下げてみせた。
……何かがおかしい。
これもまた、直感的にそう感じた。
確かに、これがただの幻術なら問題は無い。
だが、何か納得がいかない。
これは、本当に幻術なのか?
そのまま、ゆっくりと目を閉じるシエル。
……待て。
あのとき、俺が見ている目の前で、シエルはその幻影に対して何をした?

――黒鍵を投げた。

そう、黒鍵を投げた。
そしてどうなった?

――弾かれた。

違う、もっと後だ。

――壁に突き刺さった。

違う、行き過ぎだ。
もう少し前……

――ヒュッ――

……そう、この風を切る掠れた……音だ!
「シエル! 目を開け!」
「えっ?」
驚きの声を上げつつも、シエルが閉じていた瞼を持ち上げた。
「くっ……!」
敵は既に直ぐ眼前に迫っていたのか、その身を捻りながら黒鍵を取りだすと、後ろ手に斜めに構えてその攻撃を受け流す。
その一連の動きを確認しながら、俺は一気に身を屈めた。
地を踏む足に力を込める。
と同時に、懐から己が銘の刻まれた短刀を手に取った。
目標は、部屋の中央、未だ構えることもなく立ち尽くすのみのそいつ。
全力で床を蹴り、前方へ思い切り跳躍。
距離を詰めると同時に、手に持った短刀を横方向に薙いだ。
だが、手応えはない。
それもそのはず、そいつの姿は既に空中。
宙にて一度身を返した後、音もなく俺の背後に下り立った。
この身のこなし、やはり間違いない。
「七夜、一体どういうことですか?」
目の前の幻影と対峙しながら、シエルは落ち着いた声音で尋ねてきた。
不測の事態にも動揺をすぐに鎮められる辺りは、流石といったところか。
「音だ」
「音?」
「もしあれがただの幻術なら、弾かれた黒鍵がこちらに飛んでくる幻が見えたとしても、その風を切る音まで聞こえることはない」
「では、これは……」
「あぁ、どんなトリックかは知らんが、俺の目には見えない不可視の実体を持った幻ということだ」
「惜しいな、志貴」
そいつは、どことなく嬉しそうにも聞こえる声でそう呟いた。
「正確には、ソレだけではなくここそのものが幻なのだよ」
「ここそのものが、だと?」
「……固有結界」
「その通り」
シエルの苦々しげな呟きに、そいつは口の端を歪めながら答えた。
「ようこそ、我が固有結界“歪曲幻影―Phantom Distortion―”へ」

月夜 2010年07月05日 (月) 23時20分(92)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第八章)

「……やはりダメですか」
閉ざされた扉の前で、私は小さな溜め息と共に肩を落とした。
扉を押し開き、先に乗り込んだ七夜の姿は、もうここにはない。
彼は今、この扉の向こう……いや、正確に言うなら、この扉を挟んだ次元の向こう側とでも言うべきか。
教会内へ足を踏み入れると同時に消えたその姿と、まるで隔離するかのように、自然と閉じた扉。
押せば開くが、その奥に感じられる気配は皆無。
瓦礫以外何も無い空間が、ただただ横たわるのみ。
もはや、疑いの余地など欠片とない。
これは、今回のタタリが生み出した固有結界だ。
完全に空間を隔離した上に、足を踏み入れぬ者には虚像にしか映らないとは、なかなか高度な結界と言えよう。
破壊する術はないかと模索してみたが、私の今の武装では、何の案も思い浮かばなかった。
当然か。
容易く外部から干渉、破壊できるようなものを、人は結界とは呼ばない。
見た目には古ぼけた教会だが、恐らくはこの結界の影響で、尋常ならざる強度を誇っていることだろう。
もし、破壊できたとしても、その行為が結界の破壊に繋がるわけでもない。
それどころか、結界と外界との境い目を消失させてしまうことにより、両界の狭間が融解してしまったら、七夜がこちらの世界に戻ってこれなくなる危険性も孕んでいる。
さて、どうしたものか……。

――カッ。

「っ!?」
背後からにわかに聞こえてきた乾いた靴音に、私は弾けたように背面方向を振り返った。
フェンス越しに感じる、何者かの気配。
動く様子もなければ、特に殺気も感じられなかった。
だが、今、この時、このタイミングで、この場に居合わせた以上、今回の騒動と無関係とは到底思えない。
「……そこにいるのはわかっています。隠れていないで、出てきたらどうですか?」
微かに空気が動く。
姿形は見えなくとも、その動揺の程が手に取るようにわかった。
それからも、しばしの間は黙したまま動こうとしなかったが、
「……」
やがてその何者かは、諦めたように物陰から姿を現した。
「なっ……」
その人物に、私は思わず目を見開いた。
それは、今ここにいてはならない人物……満身創痍でベッドの中にいなければならないはずの、志貴の姿だった。
「や、やぁ、シオン……」
苦笑いを浮かべながら、軽く手を上げる志貴。
「やぁ、ではありません! 何をやっているんですか、貴方は!」
私は本気で怒鳴った。
昼の穏やかな空気中に、私の怒号が荒々しく響き渡る。
「ご、ごめん……」
「謝って済む問題ではありません! 今、貴方の身体がどのような状況下に置かれているか、わかっているのですか!? 身体中に走る夥しい数の深い裂傷! 己の限界を超えた動作による筋肉の損傷及び極度の疲弊! 更には長期の昏睡から目覚めて間もないことによる全身の虚脱感! 到底まともに動ける体ではないはずです!」
「わかってるさ……」
私の激しい剣幕の前に、縮こまったかのように弱々しい志貴。
うつ向きがちなせいで、その表情は読み取れないが、落ち込んでいるのだろうか。
「わかっていません! 理解しているなら、こんな……」
「でもっ!」
その勢いのまま、更にまくしたてようと口を開いた私の言葉を遮るように、志貴が突然大きな声を上げる。
「っ……!」
「じっとなんて、していられないんだ……!」
弱々しくも儚い、それでいて悲壮感に満ちた強い声で、彼ははっきりとそう告げた。
その言葉に含まれる様々な思いが、この胸に痛々しく響く。
志貴の気持ちはもちろんわかる。
私だって、もし彼と同じ立場にあったなら、きっと同じ行動を取っていただろう。
「……」
だけど、私はそれを許す訳にはいかない。
彼が、もし私の立場だったなら、その行為を許すはずがないからだ。
「……死ぬつもりですか?」
私は、静かに呟いた。
出来る限りの無感情を装って。
可能な限りの冷たい声音を偽って。
しかし、そんな私の冷徹な言葉にも、彼は微塵と心を揺れ動かすことはなかった。
「死なないさ」
ただ一言、そう言って彼は微笑んだ。
「俺は死なない。まだ、俺は死ぬべきじゃないから」
それは、私に向けられたものと言うより、己自身に言い聞かせるかのような、ある種の決意のを含んだ言葉に聞こえた。
「そういうことだから、今度ばかりは引く気はない」
私を真っ直ぐに見つめる瞳。
その強い眼差しが、彼の意志がいかに頑強であるかを裏付けていた。
あぁ、この眼差しだ。
私の計算を狂わすもの。
私の思考を掻き乱すもの。
そして、私の心を捕らえて離さないもの。
そんな瞳で見つめられては……私にはもうどうすることもできないではないか。
折れる羽目になったのは、またしても私の方らしい。
「……分かりました」
私は小さく頷いた。
こうなってしまった以上、私にできることはただひとつ。
「貴方は、私が守ってみせます」
「逆だろう? 俺がシオンを守ってみせるよ」
そう言って互いに笑い合う。
わかっている。
いざ殺し合いとなったとき、他者を守ることは疎か、その動きを把握することすら満足にできないであろうことくらい、私も彼も、あえて口にせずともわかっていた。
それでも、そう言わずにはおれなかった。
事実はどうあれ、この気持ちだけは、嘘ではなかったから。
「それじゃ、行こうか」
「えぇ」
私は、扉を開きその先へと臆することなく進む彼の後について、タタリが支配しているであろう固有結界の中へと足を踏み入れた。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時21分(93)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第九章)

――ギィン!

刃と刃が打ち鳴らす鈍い金属音。
屋内を跳ね回るそれが消える頃には、もう既に新しい音が生まれていた。
誰よりも近くで発生しているからだろうか、絶えず鼓膜を刺激するその音が、酷く耳障りだった。
「……」
足を止めることなく、横目でシエルの姿を探す。
決して広いとは言えない教会だったが、壁や天井すらをも足場としている彼女の姿を捕らえるのは、そんなに容易なことではなかった。
瞳だけを動かし、視界の端には常に殺すべき対象の姿を留めながら、望む姿を求める。
「志貴、随分と余裕だな?」
怒りとも蔑みとも取れるその言葉に、俺は意識をそちらへと傾けた。
逆袈裟型に切り上げられる斬撃。
軽く身を反らしてそれを避ける。
次いで、腕を振り上げたその姿勢から、勢いをつけて叩き下ろされる短刀。
それがこちらを捕らえるその前に、俺は軽く身を屈め、両足に力を込めた。
そのまま、大きく前方に跳躍。
手に持った短刀で、奴の胴体を真一文字に薙ぎ払いながら、その後方に着地する。

――殺った……。

確信を抱く。
間違いなく切った。
今頃、奴の胴は両断されている。
……そのはずなのだが。
「チッ……」
すぐ背後に生じた気配に、思わず舌打ちが漏れる。
こちら目掛けて降り下ろされる白刃を、振り返りざま手に持った短刀で受けた。
瞬間、刃の向きを斜めに傾け、その勢いを別方向へと受け流す。
すぐさま、手の中で短刀を回し逆手に持ち換え、下から上へと重力に反した斬撃を放った。
無防備なその体を縦に断つ。
だが、その切り口から溢れるのは、赤い鮮血ではなく黒い霧だった。
「ふっ……」
黒い霧を吹き出しながら、そいつは嘲笑で口元を歪めた。
その手元で翻った短刀が、鈍い輝きを放つ。
それがこの身を捕らえる前に、俺は再度前方へ跳躍し、奴の体を文字通り切り抜ける。
確かに切ったというのに、全く手応えがない。
まるであの時の……志貴の幻影を切った時と同じように。
「退屈だな、志貴よ」
明らかな失望の色を表情に浮かべながら、そいつは溜め息混じりに呟いた。
その身から立ち上る黒霧。
それは徐々に薄らんでゆき、直ぐ後には完全に消え去る。
その跡に現れるのは、俺が切り裂く前の元あった様相。
「あぁ、俺もだよ。こんなに手応えのない殺し合いは初めてだ」
「本気も出さずに言うことか?」
嘲るような笑み。
なんとも目障りだ。
だが、殺す手段が判らない現状、どうすることもできない。
「本気、ねぇ。残念ながら、あんた程度に見せる必要はなさそうだ」
嘲笑には冷笑で。
俺は口の端を歪めながら、そう答えた。
その言葉は、半分真実の半分嘘といったところだ。
殺す手段がない以上、俺に奴を消すことはできない。
だが、数回切り合って直ぐにわかった。
こいつの戦闘技術は恐れるに足らない。
志貴の方が数段上だ。
そんな奴を相手に、俺が不覚を取るなどあり得ない。
これは、過信などではなく、奴と自身の力量を客観的に分析した結果だ。
「ふっ、私を殺す手法すら思い付かない奴のものとは思えない、強気な発言だな」
「だが事実だ。あんたじゃ、俺の相手は務まらない。もしあんたが実体を持った存在だったなら、もう既にバラバラに解体された後さ」
「もし、などという仮定を殺し合いの場に持ち込むようでは、お前もその程度ということか。それに、私がいつ本気を出したと言った?」
そう言うと、奴は軽く手を掲げた。
「何……!?」
気がついた時には既に、俺の体は反射的に後方へと飛び退いていた。
突如として、つい先ほどまで俺が立っていた場所から、黒霧が吹き上がる。
それは、直ぐに漆黒の球体を形成した。
奴が拳を握る。
と、同時に、無数の鋭い槍状の黒霧が、その球体を全方位から突き刺す。
さながら、大掛かりなマジックショーなどでやっている、箱に四方八方から剣を突き刺すあれの球体版と言えば、分かりやすいだろう。
絶対的に違うところといえば、手品なら死なないが、こちらは間違いなく即死だろうというところか。
「よくかわしたな。初見でこれを避けれるとは、さすがと言うべきか」
そう言って、奴は握っていた拳を解いた。
それを合図とし、闇色の球体とそれに突き刺さっていた槍が、その形状を失って再び元の霧へと還ってゆく。
「よく言うよ。初見も何も、捕まったら最期、即死は免れない技だろう。あれは」
「察しの通りだ。まぁ、全身を貫かれてなお死なない奴なら話は別だが」
そう言って浮かべる薄ら笑いは、そんな奴はいるはずもないということを暗に示すかのような、余裕とも取れる笑みだった。
しかし、厄介なことになったもんだ。
あんな即死級の技を持っているとは、予想外だ。
あの黒霧が球体となって対象を覆うまで、恐らく一秒と満たないだろう。
それを避けるには、常に神経を張り詰め、己の周辺状況の変化を鋭敏に感じ取り続けるしかない。
それに引き換え、こちらの攻撃は奴に傷を負わせることすらできないときた。
状況は最悪だ。
「……」
無言を保ったまま、横に視線を流す。
その視界に映し出されるシエルの姿。
黒鍵を両手にぶら下げ、ある一点のみを凝視している。
荒い呼吸と険しいその表情が、今の彼女の現状を表していた。
あちらさんも、あまり芳しくはないようだ。
「この期に及んで、余所見している暇などあるのか?」
視線を声のした方へ戻す。
奴の周囲に漂う黒霧。
それは徐々に濃度を増し、確かな形を持ち出す。
「行くぞ」
「……ふん」
鼻を鳴らし、今から訪れるであろう奴の攻撃に身構える。
……ちょうどその時だった。
「……ふっ」
そいつは突然構えを解き、腕を下ろした。
奴の周囲にて固形しつつあった黒霧が、急にまた元の霧へと戻り、空気中に霧散していく。
「何だ?」
「……どうやら、また客人のようだ」
「何……?」
奴の視線が、俺を透過してその向こう側へと向けられる。
「なっ……!?」
「これは……」
と、突然入り口付近に現れた二人分の気配と声。
振り向かずとも、誰かなどすぐに分かった。
「ようこそ、我が歪みし幻の世界へ。望まぬ客人にも、丁重なもてなしは約束しよう」

月夜 2010年07月05日 (月) 23時22分(94)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第十章)

一歩先は見知らぬ世界。
先ほどまで、確かに廃墟と化した教会の入り口に立っていたはずなのに、既に周囲の景観はあからさまなまでの変貌を遂げていた。
床には真っ赤な絨毯と、その上に規則正しく整列された木製の長椅子。
窓には豪奢なステンドグラスがはめ込まれ、天井には壮大な絵画が描かれている。
あれは確か……ダ・ヴィンチの最期の晩餐だったか。
資料で見たことがあるだけで、実際に実物を見たことはなかったが、その壮麗さにえも言えぬ荘厳な雰囲気を感じた。
「えっ!? と、遠野君!?」
そんなことを考えていた折、俺の名を呼ぶ聞き慣れた声に、視線をその方へ向ける。
そこに見えた姿に、俺は思わず大声を上げた。
「なっ! シ、シエル先輩!?」
黒鍵を両手に携え、漆黒の法衣に身を包んだその出で立ちは、紛れもなく彼女だった。
どうして……まだ動いていい体じゃないはずなのに……。
「何で……っ!?」
何かを言おうと口を開きかけて、先輩は直ぐに止めた。
目線を俺から外し、何もない空間を睨み付ける。
その瞳に宿る、憤怒と殺意の入り交じった激情が、眼差しをより尖鋭たらしめているかのようだ。
「うるさい!」
と、突然、先輩はそう大声で怒鳴ると、手に持った黒鍵を睨み据える先目掛けて投擲した。
何もない虚無の空間を、目にも止まらぬ速度で黒鍵が中空を駆ける。
間髪を入れず、前方へ跳躍。
同時に、懐より黒鍵を両手に掴むと、踏み込む勢いで片方を正眼に突き、もう片方で横方向に薙ぎ払う。
どういうことだ?
先輩、まるで見えない誰かと戦ってるみたいだ。
「遅かったな、志貴」
「七夜……あれは一体……」
「幻術の一種でしょうね」
七夜の代わりに、シオンがそう答える。
「幻術?」
「えぇ。相手の深層心理に根付く恐怖や畏怖の対象、もしくは罪に対する罪悪感の象徴のような存在を見せるのです。普通なら“見せる”だけで終わるのですが、奴は悪性情報を用いてそれを物質化しているのでしょう」
そう言って、シオンは視線を教会の中心部に向けた。
そこに佇む、人間の形をした人ならざる存在。
あれが、今回の騒動の根源か。
あいつが、俺の幻影を使役して先輩を、そしてアルクェイドを……。
考えるだけで、全身を激しい憤怒が駆け巡るようだった。
「ですが……」
「どうかしたのか?」
顎に手を添え、考え込むような素振りを見せるシオンに、俺は奴から視線を外すことなく問いかけた。
「いえ、幻術というのは、本人にしか見えなくて普通なのですが、この場合、代行者と対峙している幻影は実体を持っている。なら、その姿が私たちにも見えて当たり前のはずなのですが……」
「それが、俺たちに見えないのはおかしいってことか」
瞳だけを動かし、横目で先輩の方に視界を広げる。
そこには、こちらの目には映らない、姿なき実体を持った敵と戦っている彼女の姿があった。
刃と刃のぶつかる鈍い金属音と、それに伴って生じる火花だけが、その何者かが確かに存在していることを証明していた。
「他にも腑に落ちない点はあります。悪性情報によって物質化させた存在は、謂わばレプリカのようなものです。能力的にオリジナルには及びませんし、生み手の力を超えることもありません。そのような幻影に、代行者があれほど手こずるとは考えにくい」
「さすがはアトラス院次期院長様だな。なかなか鋭い考察だ」
そいつが口を開く。
ある種の重厚さを伴った低いその声が、酷く耳障りだった。
「恐らくは、その幻影そのものが、奴の持つ固有結界の特性……オリジナルに劣らぬレプリカの創造というところでしょう」
「どうでもいいさ、そんなことは」
俺は、そう言って一歩、前に足を踏み出した。
そう、そんなことは、別にどうだっていい。
今、この場において最も大事なことは、それじゃあない。
「お前が、今回の騒動の根源なんだな」
自分でも聞いたことのないような、底冷えのする声で呟く。
「あぁ、君か。七夜の名を棄てた殺人貴。君は、私のためによく働いてくれたよ。おかげで色々と事が運びやすくなった。感謝しよう」
そいつは嘲るように……いや、実際嘲っているのだろう。
面に浮かんだ嘲笑が、どこまでも目障りだ。
心の奥底から沸き上がるのは、激怒と言うのも生易しい烈々たる怒の感情。
故に、言葉にできないその思いを、俺は行動で表すことにした。
「……」
無言の内に魔眼殺しの眼鏡を取り外し、それを懐にしまう。
入れ替わりに、いつも持ち歩いている守り刀を、そこから取り出した。
「なかなか良い殺気だ。退魔の名は棄てどもその血は消せずということか」
「もう喋るな。癪に障るんだよ、お前」
短刀を手に、無感情な冷たい眼差しで奴を睨み据える。
「覚悟しろよ。今、お前をただのノイズに還してやる」
「せっかくだが、君らと遊んでやれるほど、私は暇じゃないんだ。これとでも戯れておきたまえ」
その言葉を境に、世界が爆ぜた。
歪む空間に消失する色彩。
「こ、これは……!?」
隣から聞こえてくるのは、シオンの上げる動揺の声。
「……」
だが、俺は無言を保ったまま、歪な空間の中で歪曲しゆく奴の姿を、ただ直視していた。
それが、周囲の空間に呑まれて、完全に消えてしまうその時まで。
世界が正常さを取り戻した時、そこにはもう奴は存在していなかった。
瞳だけを動かし、周りの状況を確認する。
だが、どこにも奴の姿は見当たらない。
どこにいる?
身を隠し、一体何を企んでいる?
そんな折、不意に中央部の磔にされたキリスト像の後ろから、一つの人影がその姿を現した。
そこか。
何を考えているのか知らないが、今すぐ俺が消して……!?
『なっ!?』
俺とシオンの驚愕の声が重なる。
だが、そんなことは気にならなかった。
いや、聞こえてさえいなかったのかもしれない。
それくらい、今眼前に佇む存在は異常だった。
「七夜の末裔か。このような地で、再び邂逅を果たすことになるとはな」
それは、未だに脳裏に焼き付いて離れない、あの時のままの声でそう言った。
間違いない……あいつだ。
突如として、全身を駆け巡り始めるのイメージ。
「軋間……紅摩……!」
それを払拭できないまま、俺はその名を口にした。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時22分(95)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第十一章)

「……」
「久しいな。シオン」
言葉を失う私の目の前で、そいつは私の方へと身を翻した。
その動きに合わせて、身の丈近くもある長いマントが、大きくたなびく。
それは、私にとって最も忌々しい姿をしていた。
短めに切り揃えられた金色の髪、薄く閉じられた両目、彫りの深い顔立ち、痩せ細った長身……それらのどれもが、私の記憶の中から、あのときの恐怖と憎悪を喚び起こす。
「ズェピア……!」
「懐かしい名だ。今となっては、君以外に知る者はいないだろう」
そう言って、その飲血鬼―ワラキアの夜という名を持つタタリは、紳士ぶった笑みを溢した。
なるほど、これが私の相手役に選ばれた幻影ということか。
笑わせてくれる。
かつて一度は退けた相手に、この私が不覚を取ると思っているのか?
「いや、今のお前はただの幻。ワラキアでもズェピアでもない、名もなきタタリの残滓だ」
そう言い放ち、私は軽く身構えた。
奴の能力が、もしオリジナルと何ら変わらないと言うのなら、決して楽ではないにしろ、勝機は十分にある。
思考を分割。
その全てを奴の攻撃パターンと、それに対する反撃方法の模索、更にはこちらの攻撃時に予測し得る奴の反応へと巡らせる。
「ふむ、タタリの残滓か。あながち間違った表現ではないな。だが、よく考えてもみたまえ」
そう言って、奴はうっすらと目を開いた。
その奥に覗ける、狂気に満ちた紅の瞳。
見ているだけで、気が触れそうになる。
「タタリというものは、その人間の持つ拭いきれない程の不安、恐怖を実存へと具現化したもの。そして、そのような負の感情こそ、他のありとあらゆる想年を抑え込み尚強い。しからば、その恐怖を逆に抑え込むことなど、果たして誰にできようか」
「貴方は、人間というものがどういうものか、まるで解っていない」
私は、奴の言葉が終わるのを待たずに、そうはっきりと断言してみせた。
「人とは、正義の心で負の感情を払拭することのできる生物だ。誰しもが、不安や恐怖に縛られた程度で、身動きが取れなくなると思うな」
「ほぅ……ならば、その証拠を示してもらえるかな」
「言われずとも……!」
その最後の言葉を切り口に、私は戦闘を開始した。
懐から、常時携帯しているバレル・レプリカを取り出し、奴の元へと疾駆する。

――ガンガンガンッ!

実弾を立て続けに三発。
「ふっ……」
だが、奴はその場から動くことなく、迫り来る銃弾に対して小さくマントを翻した。
触れたその場で、突如として空間から消滅する銃弾。
だが、そんな単純な攻撃が通じるはずがないことなど、最初から予測済みだ。
エーテライトを伸ばし、奴の首元へと巻き付かせる。
「カット」
爪を延長したような黒い斬撃が宙を走り、エーテライトを途中で切断した。
断たれた細いフィラメントが、舞い落ちながら光を浴びてキラキラと輝く。
「まだだ!」
直ぐ様身をひねって、遠心力任せに腕を回し、再度エーテライトを奴の首へと飛ばす。
だが、それが奴の元へと届く前に、その姿は空気中に溶けて消えていた。
次いで感じる背後からの気配。
空いている方の手でバレル・レプリカを握る。
振り返って目標を確認する前に、私は撃鉄を引いた。

――ガン!

鈍い重低音が、密閉空間にて跳ね回る。
視界に対象の姿を捉えようとする。
だが、そんな私の目に飛び込んできたのは、こちらへと近づきつつある、悪性情報で構成された巨大な黒渦だった。
押し止めることも、防ぎきることも不可能。
「くっ……」
そう判断し、私は横方向へ跳躍し、直ぐ様その軌道から身をかわした。
「うぁっ……!?」
刹那、左足を襲った鋭い痛みに、私は思わず苦悶の声を上げた。
視界の隅、左端に映るのは、すぐ近くで巻き上がる槍状の黒い小渦。
反射的に、その痛覚の原点へと目を向ける。
そこには、勢いよく鮮血を吹き散らす、自分の左足があった。
肉が抉られている。
しかし、幸いなことに、骨にまでその損傷は及んでいないようだ。
だが、筋組織がかなり深くまで抉り取られているのは明らかだった。
これで、左足を軸として使う動作は、かなり困難なものとなった。
移動速度は23%ダウン、敏捷性は右方向に半減、左方向には支障なし。
戦闘行為に支障あり。
だが、戦闘続行は可能。
よし、まだいける。
「そこだっ!」
消えた黒渦の向こうに見える姿めがけて、右腕のエーテライトを振りかざす。
狙いは、先ほどと同様に首。
「またか。無駄なことだ」
これまた先ほどと同じく、黒き爪撃が繊維を断裂させる。
だが、狙いはそこではない。
首への攻撃はフェイク。
本命は……こっちだ!
「っ!?」
奴の口から、初めて動揺の声が漏れた。
だが、もう遅い!
捻りを加え、左腕を一気に引く。
やつの足首に巻き付いたエーテライトが、その足を払い飛ばした。
バランスを崩して倒れ込む。
この期を逃しはしない。
無傷の右足を軸とし、その方へ大きく跳躍。
片方の手でバレル・レプリカを、もう片方の手には通常弾と違った特殊な銃弾を持ち、宙で体を半回転。
ちょうど奴の上方にきたところで、銃口を真下に向ける。
装弾されているのは、槍鍵で作られた対タタリ専用の弾丸だ。
引き金にかかる指に力を込める。
「バレル・レプリカ……フルトランス!」

――ガァン!

轟音と共に発射される銃弾。
それは、光の尾を引く巨大な光弾となって、滅ぼすべき対象を滅却する。
その反動で、再度舞い上がった体を、私は中空で回転させて地に降り立った。
「うっ……」
左足を走る激痛。
右足から着地したが、やはり全荷重を片足に集中させることなど出来はしないか。
痛々しく穿たれた足は、まだ絶えず血を流し続けていた。
早く止血をしないと、出血多量で意識を失いかねないし、下手をすれば逝ってしまってもおかしくない。
首に巻いたスカーフをほどき、傷口をきつく縛り付ける。
よし、簡単な応急措置としては、これで十分だろう。
改めて、背後へと目線を送る。
そこに、先ほどまであったはずの忌避すべき存在は、もうなかった。
犠牲にしたのは左足一本、それも動作不能になるほどではない。
幻影程度にやられたのは不服だったが、このくらいならまだ予測の範囲内だ。
周囲を見渡す。
まだ依然として、他の面々は戦い続けているようだ。
見た感じだけで判断するなら、一番状況が悪そうなのは志貴か。
「早く加勢しなくては……」
足を引きずるようにして、彼の元へと歩みを進める……次の瞬間。

――ボキッ!

「……えっ?」
不意に、脳に直接響くような、鈍い砕屑音が聞こえた気がした。
力なく、膝から無惨に崩れ落ちる体躯。
「くぁっ……!?」
ワンテンポ遅れて、思い出したように全身を駆け巡る激しい痛み。
その原点は、右足の脛の部分。
見てみれば、その部位のある一点を支店に、足がおおよそあり得ない角度に曲がっていた。
手元より離れたバレル・レプリカが、床に落ち乾いた音を立てる。
その傍らには、溜状に湛えられた漆黒の水溜まりのようなものが。
そこから伸びるのは、同じく闇色をした数本の手。
「甘いな、シオン。あの程度で終わったとでも思ったのかね?」
滅したはずの忌々しい声が、何も無いはずの空間から聞こえてくる。
そんな虚無から突如として生じる漆黒の闇。
その中から姿を現したのは、傷一つ負っていない奴の姿だった。
確かに撃ち込んだはずなのに……当たる寸前に、己の体を形無き悪性情報と同化させたのか。
状況は最悪と化した。
あの距離、あのタイミングですら避けられるとは思わなかった。
あれで無理なら、完全に不意を突くか、もしくは密着状態での射撃、または奴の動きを束縛するしかない。
だが、この足では、もう動くことは出来ないだろう。
いや、動くことはおろか、立つことすら出来まい。
そんな体で、一体何ができる?
考えろ……予測するんだ、奴の行動パターンを……それに対する、私が取るべき行動を……。
私は、未来を予測するアトラスの錬金術士だ……!
「もう君に勝ち目はないよ。リーズの遺した外典も、無駄になってしまったな」
「……何?」
奴がふと口にしたその名に、私は一瞬思考を止めた。
いや、それは私が意識的に止めたのではなく、無意識下、本能的に止まったものと言った方が正しいだろう。
「あぁ、そう言えば君たちは知り合いだったな。今にして思えば、彼女も愚かなことをしたものだ」
「……黙れ」
心にて渦を巻き始めるのは、怒りと言うのも生易しいくらいの勁烈たる憎悪。
荒ぶる高波の如く、その勢いは収まることを知らぬまま、私の中でうねりを上げて高まってゆく。
「私に殺されることを承知の上で、尚向かってきたのだから。そして結局部隊は全滅。彼女自身も無惨なを遂げ、その後には何も残らず……所謂無駄にというやつだな」
「黙れぇっ!!」
私は激情の叫びと共に、近場に落ちていたバレル・レプリカを握りしめた。
構え、残弾の全てを撃ち尽くす。

――ガガガガガガガガン!

だが、それは乱れ撃ちとしか表現できないような乱射で、奴の姿を捕らえた銃弾は一つもなかった。
幾重に重なる銃声のみを残し、明後日の方角へと消えてゆく弾丸。
「醜いな、シオン。それでアトラシアの称号を得ることができるとは、アトラス院も堕ちたものだ」
そんな私の姿に、奴は溜め息混じりに呆れたような呟きを漏らした。
それは、嘲りでも怒りでもなく、ただひたすらに暗い失望感だけを湛えていた。
「さて、もう君と戯れるのにも飽きた。舞踏も踏めぬ低堕な役者には、そろそろ舞台を下りてもらうとしよう」
薄ら笑いを口の端に、奴はそう言いながら私の元へと歩み寄ってきた。
……愚かにも、無防備なままに、だ。
「……ん?」
微かな驚きの声と共に、その動きが突如として停止する。
……かかった。
私は、心の中で笑みを溢した。
残酷で冷たい、殺意に満ちた微笑みを。
「これは……っ!?」
「今更気付いた所で、もう手遅れだ」
私は、冷たく突き放すように、そう吐き捨てた。
「良く目を凝らして自分の体を見れば、その身を縛る物が何か分かるでしょう」
「これは……エーテライトか。だが、これほどの数、一体いつの間に……」
「お前の目には、ただ乱射しているように見えたようですが、その実そうではなかった。それだけのことです」
「なるほど、あのときか……」
そう。
あのとき、私はなんの狙いもなしに、ただバレル・レプリカを乱れ撃っていた訳ではない。
あの怒りに我を見失ったかのような態度は、全てただの演技。
銃弾の一発一発にエーテライトをくくりつけ、それを奴の体を中心に撃つことによって、その周囲に結界を張り巡らしていたのだ。
私はアトラスの錬金術士。
そんな私が、感情の奔流に押し流されたあまり、戦闘中に我を見失うなどあり得ない。
だが……。
「覚悟はいいか、タタリ」
だからといって、その感情を消し去ることまでは出来はしない。
揺るぎなき勝利を確定させ、思考を行う必要性のなくなった今、私の心はその制御を失い始めていた。
「お前は、彼女を……私のかけがえのない友人、リーズ・バイフェを侮辱した」
放つ言葉のそれら全てが、私の心の奥深くから込み上げてくる感情そのものだった。
こいつだけは、決して許しはしない……!
空になったマガジンを捨て、代わりに槍鍵を加工して作った銃弾を装填。
左手を銃底に添え、眼前にて惨めに捕縛される幻影に、バレル・レプリカの銃口を向けた。
「ロック解除。ガンバレル、フルオープン」
周囲にエーテライトを張り巡らし、使い物にならない足の代わりに、来るべき衝撃に備えて、体をその場に固定する。
「バレル・レプリカ、コード……」
引き金にかかる指先に、全神経を集中させる。
そして――

「……オベリスク!!」

――引き金を引いた。
発射された銃弾は、巨大な光の尾を引き、抹消すべき対象の存在を否定せんと、宙を超音速の速度で駆ける。
それは、世界全てを染め尽くさんばかりの眩い輝きを纏いながら、秒を待たず、その身を捕縛するエーテライトごと奴の全身を呑み込んだ。
壁面に激突し、空気中へとその光を霧散させる。
その軌跡に残るのは、ただひたすらに何もない無の空間。
当然だ。存在を否定されたものに、居場所などありはしない。
虚無より生まれた影が、再び虚無の果てへと還っただけ。
ただ、それだけのことだ。
その事実を前に、私の胸の内でうねりを上げていた先ほどまでの激情が、急速に鎮まっていくのを感じた。
「くぁっ……!」
そのせいだろうか、アドレナリンで飛んでいた痛みが、またしても痛覚を酷く刺激し始める。
だが、ここで痛みに蹲っている暇はない。
他の面々の戦況は、先の様相から依然として変化はなさそうだ。
早く……行かなければ……。
ノイズの混じる思考を閉じ、分割数を正常時の半分に抑える。
それでも、現状に対応するには十分だった。
頭に浮かぶ一つの案。
「志貴っ!!」
私は即座にそれを実行に移した。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時23分(96)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第十二章)

「独角……!」
伸ばされる鋼の如き腕。
背面方向に大きく跳躍し、すんでのところで避ける。
「くっ……」
全身を駆け巡る、痺れにも似た鋭い痛み。
この癒えきっていない体では、何気ない回避行動ですら過負荷となる。
「遅い。閻浮……三定慧!」
次いで、前方に大きく突き出される、炎を纏った突撃。
「チッ……」
再度、今度は斜め後方に退く。
すぐ傍らを、全てを焼き尽くさんばかり炎撃が駆けた。
直接触れたわけでもないのに、全身に吹きかかる凄まじい熱風に、思わず表情が歪んだ。
攻撃そのものは避けるものの、着地の反動は確実にダメージとなって蓄積していく。
くそっ……こんな状態で、一体どうしろって言うんだ……!
内心密かに毒付く。
「どうした、遠野の権化よ。避けてばかりでは、戦況は有利に動かんぞ」
「そう慌てるなよ。こっちにも、色々と事情があるんだ」
こちらの不利を悟られぬよう、努めて涼しい表情と声色を装う。
「いささか手傷を負っているようだが、その程度の負傷で消極的になっているようでは、たかが知れているな」
……バレバレか。
溜め息混じりの笑みが溢れる。
しかし、その程度とは言ってくれるもんだ。
自分の動作一つ一つに返ってくる反動。
それにすら耐えられないほどの重傷に対する言葉とは思えないな。
いや、耐えられないのは、あくまで俺の神経系。
体そのものは、正常とは言えないまでも、未だ動いている以上耐えられていないとは言い難い。
肉体面より先に、精神面で折れているということか?
我ながら情けない。
このようなことでは、何のためにここにやって来たのか、さっぱり分からない。
俺の為に、無抵抗のままその身を散らしてくれた彼女に、申し訳も立たない。
覚悟を決めるしかないか。
殺るか、殺られるか。
そのどちらかしかないなら、無論選択肢はただ一つだ。
皆の目の前でんで、迷惑をかける訳にもいかないしな。
「どうした。来ないのなら、こちらから行くぞ」
「あぁ、来いよ、紅赤主。もう避けてばかりいるのは止めだ。幻は幻らしく、虚無の彼方に散っていろ」
その言葉を最後に、再び戦いは始まった。
今度こそ、本当の殺し合いだ。
口の端に微かな笑みを浮かべ、紅く猛る鬼を迎え撃つ。
自然、短刀を握る右手にも力が込もった。
「独角……」
腕を大きく振り上げ、鬼が俺の眼前にて強く足を踏み込む。
その力の余り、鈍い音を立てて局部的に砕ける床。
そこから突如として噴き上がるのは、さながら溶岩の如き紅蓮の炎。
素早く身を横に動かし、吹きかかる火炎を横目に短刀を構える。
「……緊那羅網!」
振り上げられた腕が、一気に降り下ろされる。
その腕に揺らめく赤き炎が尾を引いて襲い掛かってくる様は、まるで怒り狂った竜の如く。
赤色の猛々しい輝きを纏っているせいで、腕に走っているの線は捉えられなかった。
かといって、まともに受けたのでは、命がいくつあっても足りそうにない。

――仕方ないな。

心の中で呟き、後方に大きく跳躍。
炎の描くの軌跡より身を避けた。
……つもりだった。
「逃がさん……!」
俺が身を引いたことを確認し、奴は叩き降ろす腕により一層の力を込めた。
燃え盛る炎ごと、己の腕で床面を強打する。
先ほど同様に、ヒビを走らせて打ち砕かれる床。
しかし、その威力は桁が違った。
ほぼ全方位に蜘蛛の巣状に走った亀裂から、夥しい量の獄炎が舞い上がる。
そしてそれは、無論俺の足下まで優に到達していた。
だが、射程こそ全方位であるものの、その範囲はさして広くない。
これなら、もう一度後ろに跳ぶだけで大丈夫だろう。
そこまで考えてから、俺は自分が致命的なミスを犯していたことに気付いた。

――ドン!

鈍打の音を伴い、背中を打つ固い衝撃。
すぐ背後は壁。
だが、そのことに気付いた時には、もう手遅れだった。
既に、亀裂は俺の足下を含め、前方はもちろんのこと、左右にまで広がっていた。
前は鬼、背後は壁、その場左右は炎熱の宴。
逃げられる場所など、一つしか残っていなかった。
「くそっ……!」
足腰に力を込め、真上に大きく跳躍する。
だが、これは誰の目にも明らか且つ唯一の逃げ道。
ならば、それは退路とは言えず、さながら刑宣告に対する僅かな猶予でしかなかった。
下方より迫り来る鬼が視界に映る。
「ちぃっ!」
空中で身を捻り無理やりな蹴りを放つ。
しかし、それもまたただの悪あがき。
放った蹴りは容易く腕で防がれ、逆に隙となったその足を捕まれる。
「堕ちろ」
そのまま、力任せに地上へと投げつけられた。
「ぐはっ!!」
背中全体を起点に、全身へと広がる激痛。
「ぐぁっ……うあぁっ……!!」
ただでさえ満身創痍で絶えず痛みに苛まれているこの体に、その衝撃はあまりに大き過ぎた。
苦悶の声を上げ、のたうち回ることで、今にも飛びそうになる意識をなんとか留める。
すぐ傍に感じる気配。
それは、己のの予感。
俺は……ぬのか?
身近にを感じた途端、全身から力が抜け始める。
自分の意思に関係なく体を蝕む、虚無感と虚脱感の入り交じった無気力的脱力感。
「何だ、もう終わりか? その程度では戯児にも劣るぞ」
耳に届く奴の声。
だが、脳が理解するのは別の声。

――……目の前でなれると、迷惑なんだよ……。

あぁ、分かってる。
お前の足手まといになりたくはなかった。
けど……もう体が動かないんだよ。

――……もう二度と、私にこんな心配をかけさせないで……。

秋葉、いつも心配かけて、ごめん。
……できれば、直接謝りたかったけど、どうやら無理みたいだ。

――貴方は、私が守ります。

ははっ……俺が守ってやるとか言っておきながら、このザマか。
シオン……ごめんな。

――……ない。

……え?

――やっぱり……。

誰、だ……?

――……志貴は、殺せない……。

アル……クェイド……。
「は、ははっ……」
俺は何を言っていたんだ?
ぬ?
俺が?
はっ、何をバカな。
ぬわけにはいかないと、ここに来る前に誓ったんじゃなかったのか?
ぬべきじゃない。
んじゃダメだ。
俺の為に散った彼女の想いを、無にしないように。
右手を固く握りしめる。
手のひらに感じる、木製の柄の固い感触。
失いかけていた五感が、俺の制御下に戻る。
全身の筋肉に指令を送る。
動け。
痛みは忘れろ。
後のことなど考えるな。
どうなったって構わない。
今はただ、動け……!
「何を笑っている。気でも触れたか?」
「あぁ……そうかもな」
開いた傷口から溢れ出る血が全身を濡らすが、そんなものは気にもならなかった。
「お前にぶん投げられたおかげで、忘れかけていた大切なことを思い出せたよ」
ふらつく足で、まるで揺らめくロウソクの炎のようにその場に立ち上がる。
「ふ、まだやれるか? そうこなくてはな。あれで終わられては、興醒めも甚だしい」
「ほざけよ、鬼が。脆い夢幻の分際で、図に乗るな」
「ほう……良い殺気だ。ようやくやる気になったというところか」
「もう喋るな、耳に障る。殺してやるからよ」
出血のせいか傷のせいか、呼吸は酷く息苦しかったが、不思議と意識だけははっきりとしていた。
ずっと全身を蝕んでいた痛みも、今はもうない。
あるのは、このに体同然の身を尚突き動かす、烈々たる殺意のみ。
「来い、殺人貴よ。一足先に冥府へと送り届けてやろう」
「世迷い事を……昏き奈落へ堕ちるのは、お前一人だけだ」
そう言うや否や、お喋りはここまでと言わんばかりに、俺は前方へと駆けた。
秒の後に見える奴の姿は、もう俺の間合いの中。
直視の魔眼が、奴の内包するを視る。
逆手に持つ短刀で、その体中に走る幾本ものの線めがけて斬撃を放ち、の凝縮した一点を穿ちにかかる。
しかし、そのどれもが、奴の姿を捉えることはなかった。
いくら殺意で誤魔化そうとも、体は正直ということか。
「愚鈍だな」
そんな奴の言葉と同時に、振るう短刀が突然動かなくなった。
見てみれば、丸められた人差し指と中指の間で、刃の部分を挟み込まれていた。
いくら力を入れても、まるでびくともしない。
それだけ、奴と俺の単純な力の差が激しいということか。
「焼き尽くす……応破!」
空いている方の腕が、炎を湛えながらこちらへと襲いかかる。
だが、それもまた遅い。
「ふん……」
奴の上方へと大きく跳躍し、一撃必殺を体現したかのようなその突きを避ける。
握られて動かぬ短刀を、敢えて軸と活用し、空中で体を前方へと展開した。
その勢いのままに、遠心力を加えた膝蹴りを奴の後頭部に打ち込む。
ゴッという鈍い殴打の音が上がる。
と同時に、短刀の刃を拘束する握力が弱まった。
よし。
行き掛けの駄賃だ、指の数本はいただいていくぞ。
一気に引き抜き、走る白刃で奴の手のひらに見えるの線をなぞった。
中指から小指にかけて、手のひらの一部ごと切り落とす。
そのことを視界の端に視認しながら、失った勢いを取り戻すために、俺は奴の背中を足場代わりに蹴り飛ばし、その後方に着地した。
互いに背面方向へと向き直り、視線を交差させる。
先ほど殺した奴の左手からは、赤い血ではなく、黒い霧が立ち上っていた。
「今のは悪くない動きだった。さすがは黄利の息子と言うべきか」
指のなくなった手を開閉しながら、奴は感嘆混じりにそう言った。
「まさか、あんたの口からお誉めの言葉が出るとは思わなかったよ。さぁ、次で最後だ。今から、あんたに絶対のをくれてやるよ」
「面白い……やってみせてもらおうか」
「言われずとも」
その場に立ち尽くす鬼に向かって、力の限り疾走する。
みるみる内に縮まってゆく二人の距離。
狙う先は、の集約した点ではなく、首筋に視える滅びの線。
奴の姿が間合いに入るなり、俺は直ぐ様逆手に持った短刀で、その線めがけて刃を走らせた。
小さく後ろに飛び退き、避けられる。
瞬間、俺は足を強く踏み込み、疾駆から跳躍へと動きを変えた。
逆手から順手に短刀を持ち変え、再び首筋を薙ぎにかかる。
「甘いな」
首だけを斜め後方に反らし、最小限の動きで斬撃を回避する。
だが、これで終わりじゃない。
空いている左手で奴の肩を掴み、先ほど同様体を前へと展開。
天地が逆転する辺りで、薙ぎ払った短刀を手の中で回し、今度は順手から逆手へ。
その体勢のまま、三度首筋を刈る。
先の二撃とは違い、今度は奴の体に密着しての斬撃。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時27分(97)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第十三章)

避ける術はない。
殺った。
そう、確信を抱いた刹那。
「欣求浄土!」
奴はその場から動くことなく、鋼の如き脚で足下の床を踏み砕いた。
巻き上がる炎が、その体躯を中心に渦を巻く。

――チッ。

心の中で舌を打ち、俺は灰塵と化す前に奴の肩から手を離した。
先ほどと違い、今の奴は全身に火炎を纏っている。
そんな体を足場代わりに使う訳にもいかない。
使ってもいいが、足が一本使い物にならなくなるのは、いささか辛過ぎる。
結論、俺は危険を承知の上で、奴のすぐ背後に下り立った。
さて、ここで取れる選択肢は二つ。
振り返って斬るか、前方に跳躍して一旦距離を取るか。
判断に猶予はない。
俺は、奴が既に何らかの行動を起こしていると仮定し、横に少し体をスライドさせながら背後を振り返った。
視界の上隅に映るのは、突き出される奴の拳。
反射的に背を曲げ、膝を折ることによって低姿勢を取った。
すぐ頭上を、空を切りながら拳が通過する。
その腕の肘付近に見えるの線。
俺は膝を付いたその体勢のまま、その線を切り払った。
忌々しい黒霧を撒き散らしながら、奴の腕の肘から下の部分が吹き飛ぶ。
よし、これで奴の両腕を殺した。
この勝負、もはや見えたも同然。
そう、勝利を確信した時だった。
「っ!?」
突然、全身を襲った拘束感。
少し遅れて感じたのは、大地から足の離れる浮遊感。
それを俺に与えている正体は、先ほど中指以下を切り捨てたはずの、奴の左腕だった。
バカな!?
人差し指と親指だけで胸ぐらを掴み、そのまま持ち上げるだと!?
そんなこと、出来るはずが……!
「油断したな。勝利を確信したのか知らんが、動きが一瞬止まったぞ」
「くっ……!」
いくらあがこうとも、まるでびくともしない。
腕にの線を視ようにも、こちらに向かって真っ直ぐ伸ばされているせいで捉えられない。
の線をなぞれないのでは、この腕を落とすことは不可能。
かといって、胸の部分に視えるの点を穿とうにも、この状況ではそこまで短刀が届かない。
くそっ……為す術なしってやつか……!
「ちくしょう……っ!」
「無駄と知って尚足掻くか。見苦しいまでの生への執着だな。その未練、俺が断ってやろう」
この身を束縛する力が更に増す。
奴の体を起点に高まってゆく熱量。
それは、徐々にだが確実にその勢いを強めていく。
それに従い、近付きつつあるの予感もまた、確実なへと昇華しながら、その暗い陰を肥大化させていく。
脳裏に浮かぶ、追憶の日々たち。
絶対的なを前に、人は過去を走馬灯のように思い出すというが、どうやら本当のことらしい。
「残念なく逝くがいい。七夜。閻浮……」
皆……どうやら、俺はここまでみたいだ。
足を引っ張って、ごめん……。
心の中で陳謝を述べる。
そんな中、一際鮮明に脳内にて描き出される一人の人物。
そこにいる彼女は、おおよそ彼女らしからぬ悲しげな面持ちで、ただただ黙してこちらを見つめるのみだった。
ごめん……アルクェイド……。
お前の想い……無駄にしちゃったよ……。
あっちで会ったら……許してくれるかな?
「……堤炎上!」
すぐに訪れるであろう激痛と、その後にやってくるに、俺は条件反射的に歯を食い縛った。
「志貴っ!!」
そんな折り、不意に鼓膜を震わせたのは聞き慣れた声。
「なっ……!?」
次いで聞こえてきたのは、すぐ近くで上がる息を呑む声なき声。
不思議に思い、瞼を持ち上げた先に見えたのは、体勢を崩し転倒しゆく奴の姿だった。
その足首付近に巻き付く、光を反射して輝く、極細のフィラメントが目に映る。
時を同じくして、体を縛っていた拘束力が消えた。
今だ!
考えている暇はない。
邪魔な腕を払い飛ばすと、自由落下する自分の体など気にも止めず、手に持った短刀を突き出した。
狙うのは、胸部に見えるの収束したドス黒い点。
「うあああぁぁっ!!」

――ドスッ。

肉を穿つ鈍い音と、短刀を伝わって手のひらに感じる刺突の感触。
受け身を取ることもできないまま、床に激突する。
体中を駆け巡る、痺れを伴った痛み。
その苦痛を押し殺し、俺は素早くその場に立ち上がった。
先ほどまで、確かに俺と対峙していた鬼だったモノを見下ろす。
それは、全身から凄まじい勢いで黒霧を吹き出し、空気中に溶けては虚無へと還っていく。
今や、原型すら留めていない。
「残念ながら人違いだ。俺は七夜じゃあない。遠野志貴だ」
消え逝く黒霧へ向かってそう吐き捨てた。
周囲へと目線を向ける。
傷だらけになりながらも、今だ尚戦い続けている七夜に先輩。
そして、地に倒れ伏しながらも、顔だけを持ち上げてこちらを見つめるシオン。
その手首に装着された、大きめのブレスレットから伸びる無色透明の繊維のゆく先を辿れば、今まさに跡形もなく消えようとしている黒霧の元へ辿り着いた。
そうか、やっぱりあれはシオンだったのか。
でも、彼女には奴の姿は見えなかったはずなのに、どうやって……っ!?

――ガクッ。

突然、視界が下方向に著しくスライドした。
いや、俺が膝を付いたのか?
でも、どうして?
俺は、そんなことをしようなんて……。
――ドサッ。
次の瞬間には、目に映る世界が横転していた。
分かっている。
いきなり、世界が横になる訳がない。
俺が、倒れたんだ。
体を動かそうと試みる。
だけど、まるで力が入らない。
さっきの虚脱感や脱力感とはまた違う、一種独特の虚無感。
全身に激痛が迸る。
……はずなのに、何故か痛みは感じない。
あるのは、全身に麻酔をかけられたかのような、麻痺した感覚と急速に近寄る睡魔。
これが……、なのか?
なんだ、ぬのって、どんなに恐ろしいものかと思ってたら、こんなものだったのか。
ただひたすらに、眠たいだけじゃないか。
敢えて言うなら、いつもより深い眠りになりそうな予感。
それ以外は、何もない。
微睡んでゆく意識。
それに伴い、視覚はぼやけ、聴覚は遠退く。
抗うだけの力も、もう残ってはいない。
ははっ、どちらにせよ、俺はここまでってことだな。
あっちに行ったら……本当に会えるかな?
『志貴っ!』
薄れる意識の中、彼女の俺を呼ぶ声が、どこからか聞こえた。
……そんな気がした。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時28分(98)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第十四章)

漆黒色の実体なき爪撃を、横跳びに避ける。
同時に、地を踏みしめる足に力を込め、瞬時の内に方向転換。
手に持った短刀で、奴の体を逆袈裟型に切り裂きながら、その後方へと払い抜ける。
「チッ……」
だが、やはりと言うべきか、相変わらず手応えはない。
いくらその身を裂けども、溢れるのは黒い霧のみ。
「代わり映えしない攻撃だな、志貴」
そう言って、奴がこちらを振り返る頃には、もう既に噴き出す黒霧は治まっていた。
「穿つ……!」
しかし、そのような奴の言葉には一切耳を貸さず、その方へともう一度駆ける。
その姿を間合いの内側に捉えるなり、隙だらけなその体目掛けて突きを放つ。
額、喉、心臓、そして陰腹。その全てを突き穿ち、再び奴の後方へと距離を開けた。
いずれも致命傷となる人体急所だ。
普通の人間なら確実に絶命、それも、間違いなく即。
「ふっ……」
だが、これまたやはりと言うべきか、何の効果もなかった。
黒霧を吹き出しながらスカートの裾を翻し、こちらを向き直りつつ無造作に手を掲げる。
その指先から、指の数だけ闇色の弾丸が放たれる。
その描く軌跡と垂直方向に、背面側へと飛び退く。
そのまま、着地しようと足を地に伸ばす……と、視界の端に僅かに見えた異変。
着地予想点に蠢く、黒い液状の何か。
「くっ……」
俺は、空中で無理やり体を後ろに展開し、黒液の更に後ろ側に手を付き、バク転の要領でその範囲から逃れた。
地に足を付けると同時に、すぐ眼前にて形成される漆黒の球体。
その周囲に漂う薄い黒霧は、直ぐに鋭利な刃の形を為し、全方位から球体を串刺しにする。
もし、気付くことなくあの場に着地していたなら、今頃全身を貫かれて即だったろう。
「良い判断だ。先に続き、危機回避能力はさすがに高いようだ」
「あんたに褒められても、別に嬉しくもなんともないがな」
余裕を装い、言葉を返す。
しかし、実際問題余裕など全くなかった。
攻撃が当たらない奴と、攻撃が効かない奴。
どちらも結果は同じように感じるかもしれないが、両者は決定的に違う。
現に、攻撃が当たらない方……つまりは俺だな。
次第に蓄積してゆく疲労のせいで、全身の至るところに傷が刻まれていた。
どれもこれも軽いものではあったが、これ以上の負傷は避けたいところだ。
一方、奴の方はというと、未だに初めて互いに見えた時と何ら変わりはなかった。
当然だ。
攻撃が効かないのだから。
ただひたすらに、対象を殺すことにのみ意識を集中できるのだから、普通なら踏み込めない所にまで攻撃の手を伸ばすごとができる。
しかも、身構える必要もなければ、避ける必要もないときた。
まったく……なんとも不利な殺し合いを買ってしまったものだ。
いや、こちらの攻撃が効かぬ以上、殺し合いと言うより、一方的な虐殺と言った方が正確か。
「ふっ……」
思わず、自嘲の笑みに口元が歪む。
まさか、殺す側の殺人鬼が、殺される側に回ろうとはな。
「どうした? ぬ覚悟でも決まったか?」
「いや、俺もおめでたい奴だなと思っただけさ。期待に添えられなくて残念だが、お前如きにむざむざ殺されてやるつもりは毛頭ない」
「ほぅ。勝ち目のない戦いと知りながらも、まだ諦めもも受け入れないか。骨は残っていたと見える」
「勝ち目のない戦い、ねぇ……。あれだけ殺意を形にしておきながら、未だに俺を殺せていない奴が、よく言えたものだ」
「案ずるな。お前がぬのはもはや時間の問題だ。いつ消えるとも知れぬ風前の灯火。その時が訪れるまで、絶望と恐怖を糧に生を謳歌するがいい」
そう言って、奴は手を振り上げると、そのまま虚空を薙いだ。
半円状の爪撃が、空間を飛翔しこちらに迫る。
触れたら真っ二つだろうが、その軌道はあまりに単純な直線の動き。
難なくその隙間をくぐり抜ける。
「まだ終わりではないぞ?」
直ぐ様、俺を迎え撃つ第二、第三陣の漆黒の爪襲。
縦と横に交差するそれは、先ほど容易くは避けられそうもない。
身を屈め、その体勢のまま駆ける。
攻撃の角をすり抜け、その勢いのまま肉薄する……、
「七夜っ!」
と、突然、鼓膜を響かせた彼女の声に、俺は視界を僅かにそちらへと広げた。
その隅に飛び込んできたのは、凄まじい速度でこちらへと投擲される何か。
……黒鍵か。
このままだと、まともにぶち当たるな。
そう判断するなり、奴の目の前で、俺は動きを直角に変化させた。
壁へと跳躍し、黒鍵を避ける。
それを足場に再度、今度は僅かに角度を付けて跳ぶ。
俺の足が地に着くとき、既にその身は奴の背後。
短刀を持っていない方の手で頸椎を掴み、もう片方の腕は、奴の側頭部に肘をあてがう。
腰を捻り、遠心力任せにその首を――、

――ゴキャッ!

――折った。
肉越しに聞こえる、骨の砕ける鈍い砕屑音。
先ほどまでの斬撃と違い、今度は殴打、それも間接技だ。
これでもし無理なら……。
「ふっ……」
……いや、間違いなく無理だったか。
まぁ、予想はできていたがな。
すぐ間近で沸き上がる黒霧。
俺は、迷うことなく距離を開けた。

――……ん?

と、不意に、何かを感じた。
何か……そう、漠然とした何か。
それ以外に、言葉として表す方法がなかった。
何かがおかしい。
さっきまでとは、何かが違う。
だが、一体何が?
何なんだ、この感覚の正体は……っ!?
「これは……?」
奴の全身に見える、今まで視得なかったもの。
身体中に走る、幾本もの薄い線。
それは、奴という存在の不安定極まりないその性質故か、一所に留まることなく、歪に歪曲した不規則的曲線を描いていた。
これが……の線というやつか?
「……ぐっ!?」
突然、全身を悪寒が走り抜けた。
急激に込み上げる吐き気。
早鐘を打つ鼓動。
加速度を増す脈拍。
止まり行く呼吸。
頭に響く鈍くも激しい頭痛。
白色化しゆく視界。
暗転しゆく思考。
そして……確かに感じる、自分が消えていく感覚。
その瞬間、俺は理解した。
そうか。
これが、シオンの言っていた、世界に否定されるということ……その初症状か。
それにしても、まさかこれほど唐突にやってくるとは……。
「逝け」
「っ……」
横跳びにその場を離れる。
だが、この薄れた視界に、奴の放った攻撃はほとんど映っていなかった。
「ぐぁっ……!」
さればこそ、それを避けられなかったのは、もはや必定と言うべきだろう。
左の二の腕付近に感じる、刺すような鋭い痛み。
そして、その部位を中心に感じる、生暖かく湿った感触。
程度の度合いこそ分からないものの、先ほどと同じ、飛翔する黒爪で皮膚が裂けたのだろう。
しかし、そのような思考に気を割けるのも、そろそろ限界か。
顔を持ち上げる。
薄れた視界に映り込む奴の姿も、また朧気。
曖昧な輪郭の中、その体に刻み込まれた黒いの曲線だけが、やけに鮮明に映える。
「……た……りか……?」
聞こえてくる声に、酷い雑音が混じる。
聴覚は、もう使い物にならないと言って差し支えないだろう。
……いや、聴覚に限らず、俺という存在全てが、もはや使い物にならなくなっていた。
片膝を着いた姿勢のまま、動くことすらできない。
そんな俺に訪れるのは、のみ。
遅かれ早かれ、それは必ずやってくる。
回避する手立ては、もうない。
ここまでか。
まさか、こんなところで、この程度の輩相手に終わるとは、な。
まぁ、これはこれでまた一興。
元より存在しないはずの者が、無へと還るだけのこと。
そう考えれば、俺のはこの世界にとって、自己修復の一環の一つでしかない。
あぁ、それにしても心残りだ。
あいつとの殺し合いは、結局白黒付くことなくお預けのまま。
あのの臭いを含んだ凄烈な刻を、もう一度感じたかったんだがな。
それに……、
「……ははっ」
そこで俺は考えることを止めた。
どうせ消える身。
現世に妙な未練を残すのは考えものだ。
瞳を閉じ、やがて来る決別の時を待つことにしよう。

――ドンッ!

……だが、そんな俺の体に響いたのは、全く予期していなかった衝撃だった。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時29分(99)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第十五章)

「はあっ……はあっ……!」
息を切らしながら、私は黒鍵を構えて眼前を見据えた。
その先にいるのは、全身を黒鍵で貫かれ、無惨に横たわるかつての私自身。
常人なら……いや、常人ならずとも、あれほどまでにその身を串刺しにされ、尚その生命活動を維持することなど不可能だ。

――……ピクッ。

指先が微かに動く。
「……ふふっ」
次いでその場から上がるのは、不敵な笑い声。
酷く緩慢な、それでいて見る者に恐怖と焦燥感を植え付けるように、そいつはその場に悠然と立ち上がった。
傷口から滲み、溢れ出る黒霧が、その存在の異常性を雄弁に物語っている。
「貴女も足掻くわね。いい加減疲れてこない?」
体中を射抜く黒鍵を引き抜こうともせず、そいつは嘲笑混じりに嘲った。
「くっ……!」
私の意思とは無関係に、思わずそんな声が漏れる。
これが普通の相手だったなら、今までにもう何度殺したか分からない。
心臓も貫いたし、喉も潰したし、首も跳ねたし、頭蓋だって砕いてみせた。
けれど、そのことごとくを無為と成し、奴は不死身を体現するかの如く立ち上がり続けた。
「貴女の中にある私という存在は、恐怖の象徴である以上に、不死というイメージが強く根付いている。なら、それを基に生み出された私が不死身なのは、当然のことでしょう?」
「何をふざけたことを……決して死を迎えない存在など、この世にありはしません」
「えぇ、確かにその通りよ。何者も一生命体である以上、いずれは死に、消滅する。……この世に生きる生命体なら、ね」
そう言って、奴は薄気味の悪い笑みに、口の端を醜く歪めた。
奴の言わんとしていることは分かっている。
現世に生を享受して生まれし命なら、その生命に寿命があるのは至極当然。
しかし、それが創られた命なら……神ならざる何者の手によって、擬似的に生み出されたものなら、それは世の理の枠内に収まるものとは限らない。
「だからといって、それが貴女が不死身であることの理由になりはしない。死というものは、誰しも一度しか訪れないもの。ならば、一体誰が自分は不死身だと断言できる?」
「できるわよ。貴女の中にある不死のイメージを、そのまま具現化したのが今の私。なら、それはつまり不死という事象に直結するということ」
全身に突き刺さった黒鍵を引き抜き、それを指と指の間に挟んで持つ。
「貴女に勝ち目はない」

――ヒュッ!

空を裂き、黒鍵が私めがけて宙を駆ける。
その投擲速度は、恐らく私と同等……もしくはそれ以上か。
いずれにせよ、不用意に上空へと逃げるのは避けたい。
そう考え、私は両手に持った黒鍵を構えた。
飛翔する黒鍵を、一つ残さず叩き落とす。
その更に奥に見える、漆黒の闇色をした飛ぶ斬撃。
十字架を形取り遅い来るそれは、黒鍵程度でかき消すには少々荷が重そうだ。
身を屈め、十字の型の左斜め下方をくぐり抜ける。
と、同時に、過去の私目掛けて黒鍵を投げつけた。
だが、避けない。
ドスッという肉を穿つ音が、鈍く響き渡る。
……ただそれだけだ。
何も効果はない。
「無駄よ、無駄。貴女の攻撃では、私は倒せない」
そう言い放ち、未だ黒鍵によって全身を貫通された状態のまま、こちらへと猛進してくる。
突き出される爪による一撃が、私の頬を薄く切り裂きながら擦過した。
だが、痛覚を刺激するそんな鋭い痛みには意を関せず。
腰を捻り、無防備な腹部目掛けて回し蹴りを放った。
「はっ!」

――ドゴッ!

鈍く痛々しい殴打音を残し、蹴りを正面から受けたその体躯は、壁際まで一気に吹き飛んだ。
背中から壁面に強く叩き付けられ、そのまま床に倒れ込む。
普通の人間なら、背骨が砕けて再起不能か、よくて重度の呼吸困難に陥って意識を失うか。
それほどの衝撃を与えたにもかかわらず、そいつは表情に苦悶の欠片一つ浮かべることなく、悠然とその場に立ち上がった。
「無駄と言ってるのに……貴女も諦めの悪い女ね」
嘲るとも呆れるともつかない侮蔑の響きを湛えた声が、酷く耳に障る。
これが自分と同じ声なのかと思うだけで、腸が煮えくり返った。
しかし、防御という行為を考える必要のない相手が、まさかこれほどまでに辛いとは思わなかった。
斬ろうが突こうがお構い無し。
対象を殺すことにのみ意識を集中できる分、攻撃は熾烈且つそれでいて正確だった。
少し油断すれば、間違いなく死ぬ。
背筋に怖気が走った。
「貴女と遊ぶのも、そろそろ飽きてきたわ。いい加減死んでくれる?」
「くっ……」
ジリジリと、無防備に歩み寄る死を具現化した存在。
その足が一歩踏み出される度に、本当に死が近づいてきているような錯覚を覚えそうになる。
「……そうだ。楽しいこと、思い付いたわ」
そう言って、そいつは運んでいた足を止めると、体に突き刺さる幾多の黒鍵の内数本を抜き取った。
大きく振り上げたそれらを……、

――ブン!

一気に投げた。
大気を切り裂く掠れた音が、鼓膜を微かに震わせる。
だが、その投げ放たれた黒鍵のどれもが、私の姿をまるで捉えてはいなかった。
一体どこに投げて……っ!?
その向かう先に目を向けた瞬間、奴の目論みを理解した。
そこにあったのは、相手に迫り、今にも攻撃を放とうとしている、七夜の姿だった。
その意識も目線も、殺すべき対象を真っ直ぐに捉えており、他の何かに気を回せているようには到底見えない。
「七夜っ!」
ほとんど本能的に、私は声を荒げてその名を叫んだ。
そんな私の叫びが届いたのか、彼はその場から素早く横に飛び退いた。
直前まで、その姿があった場所を通過し、床に突き刺さる黒鍵。
良かった……。
にわかに心に芽生える安堵の念。
だが、そんな感情は、奴の口から放たれた次の言葉によって、直ぐに影を潜めることになった。
「あ〜ぁ、貴女が余計なこと言うから、外れちゃったじゃない」
刹那、私の心を支配するのは、今までに感じたことのない激しい殺意。
もはや、怒りや憎悪といった言葉では、とても言い表せられない程に、それは際限なく肥大化の一途を辿ってゆく。
「まぁいいや。まだまだ黒鍵は沢山あるんだし」
もう、奴の言葉など耳に届かなかった。
こいつだけは、例え神が許そうとも、絶対に私が赦しはしない。
消してやる。
ここに存在したこと、その痕跡すら、跡形も残さずに。
そう。
やろうと思えば、それくらいのことはいつでも出来たのだ。
そう、必要だったのは、私の覚悟だけ。
だが、それももう決まった。
奴の進むべき道は、消滅への一方通行だ。
「ねぇねぇ、貴女は何本目で当たると思う? 私は、次の次くらいで当たると思うんだけど……あ、今度は邪魔しちゃダメだよ。フェアじゃないから……っ!?」
耳障りな言葉が、途中で途切れた。
私の黒鍵が、奴の全身を撃ち抜き、その勢いのまま壁面に磔にしたからだ。
「もう黙りなさい」
私は、底冷えのする声音で、静かに呟いた。
こんな声出せたんだと、自分でも驚くくらいに、それは冷たくて残酷な声色だった。
「お〜、怖い怖い。でもね、こんなのじゃ私は殺せないって、何度言ったら理解してくれるのかしら?」
「安心なさい。殺すのは、今からです」
背中に手を回し、奴を滅する為の兵器を取り出す。
先端に位置する一角馬の角が、光を浴びて刺々しく輝く。
概念武装、第七聖典。
このような下賎な幻影を滅ぼすには、勿体ないくらいだ。
「へぇ、今度はえらく厳かな武器を取り出したものね。でも、それがどれほどの威力を持っていようと、私には関係ないのだけど」
「えぇ、そうでしょうね。いくら破壊力を上げたところで、その程度じゃ意味はない。ですが……」
こで言葉を区切ると、私は構える第七聖典を奴へと向けた。
そして、呟く。
「……その体全てを、跡形もなく消されたらどうなのでしょうね?」
「っ!?」
奴の表情に宿った、一瞬の動揺。
だが、私はそれを見逃さない。
そう。
先も奴自身が言ったように、私の中の不死のイメージそのものが奴を形成している。
なら、私の中にある、不死をも越えた絶対の死を与えれば、その不死は否定されるはず。
私の中に根付く、絶対的な死の概念。
それは、実体の完全なる消滅だ。
「くそっ!」
磔にされた無様な姿のまま、必死に手足に力を込め、その拘束から逃れようとする。
だが、深々と刺さった黒鍵は、どのような力にも全くの不動。
微動だにすることはなかった。
「ぬ、抜けないっ!? どうしてっ……!」
「無駄です。あれだけ無防備に突っ立っていたのですから、遠慮なく全身の筋を断ち切らせていただきました。さぁ、覚悟はよろしいですか……?」
第七聖典の銃剣の部分に当たる一角馬の角を、身動きの取れないその体に軽く突き刺した。
「や、止めて……嫌……」
痛みを感じない分、意識は紛れることなくより一層の恐怖に囚われるのだろう。
弱々しいその声は、先ほどまで私が対峙していた者と同一人物とは到底思えなかった。
だが、容赦する気など毛頭ない。
「エウ・イスト・クワブロ(破壊する)……」
「け、消さないで……お願いだから……」
いくら許しを乞おうと、許してやるつもりはない。
その罪は、死をもってさえ償うことはあたわないのだから。
消え去れ……亡霊!
「……アルテミス(光の天弓)!!」

――ドォンッ!

世界を揺るがさんばかりの轟音と共に、銃口から巨大な光の束が放たれる。
それは、磔にされた奴の身を覆い尽くし、そしてその全てを呑み込んだ。
その跡に残るのは、無の空間。
さっきまで奴がいた場所には、もう何も残ってはいなかった。
「汝が罪はその存在そのもの也。完全なる無へ回帰し、現世より消滅することを贖罪とせよ」
そう吐き捨て、私は構えを解いた。
「すぅ……はぁ……」
一度、深呼吸。
「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……」
二度、三度と、深く息を吸い込み、吐く。
そして、改めて理解した。
……やはり、まだ実戦投入は時期尚早だったか、と。
「がはっ!」
腹の底から込み上げる衝動に、私は堪えきれず嘔吐した。
だが、その口から吐き出されるのは、胃物ではなく赤々しく生臭い血。
足腰から力が抜け、体が崩れ落ちる。
何とか膝と手をつき、完全に倒れ込んでしまうことだけは避けられた。
だが、それもいつまでもつことか。
全身が異常をきたしていた。
体中の筋肉が激痛を伴った痺れを起こし、骨はそのほとんどが砕け、視界は霞んで今や虚ろ。
酷い頭痛が意識を掻き乱し、出血した各内臓のせいで吐血が止まらない。
しかし、それは分かっていたこと。
まだ、ろくに改良も加えていない第七聖典と、今の私の体では、あの技の反動に耐えられないであろうことは、撃つ前から分かっていた。
そして、その先に待っている結末が、死であろうことも。
それを理解した上で撃ったのだ。
後悔はない。
……最期に……最期、彼に私の返事を伝えられなかったことだけが、唯一の心残りといったところか。
「……」
無言のまま……いや、もう言葉すらも紡げないまま、私は薄れゆく視界を彼の方へ向けた。
彼は……今もまだ戦って……戦って、倒れて……!?
「っ!?」
その姿を見た瞬間、今にも消えかかっていた命の灯火が、再びその光を強く灯した。
今の私と同じように、片膝を付いた体勢のまま、苦しそうに俯いて動かない。
その身に迫るのは、尾を引いて渦巻く漆黒の弾丸。
私は立ち上がった。
否、立ち上がろうとした。

――ドサッ。

だが、その体は惨めに崩れ、地に伏すだけだった。
「くそっ……!」
手を強く握り締める。
なんで!?
どうして立てない!?
今、ここで立ち上がれなくてどうする!
遅かれ早かれ、どうせいつかは死ぬこの身。
それなら、私は――

「うぅ……っ!」

私は――

「うあぁっ……!」

――彼を助けて死にたいっ!

「うああああああああぁっ!!」
立つ。
もう、感覚はない。
目も、ほとんど見えない。
けれど、今なら動く。
まだ、私は動ける。
「志貴ーっ!!」
私は、最後の力を込めて、彼のいる方へと跳んだ。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時31分(100)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(第十六章)

――ドンッ!

を覚悟した俺の身に響いた、横からの思わぬ衝撃。
「うぁっ……!」
次いで、直ぐ耳元で発せられた、ある人物の……彼女の苦痛に歪んだ小さな悲鳴。
「っ!?」
何故か、今にも消えてなくなりそうだった五感が、俺の意識下に舞い戻った。
突き飛ばされながらも、反射的に受け身を取り、声の聞こえた方へと目線を向ける。
そこにあったのは――

「シエル……」

――血溜まりの中でうつ伏せに沈む、傷ついた彼女の姿だった。
慌てて駆け寄り、その身を起こして腕の中に抱える。
胸の部分にぽっかりと空いた、巨大な穴。
それは、肉も骨も貫き、背側まで続いていた。
ここには、呼吸の要である肺がある。
肺にここまで巨大な穴が空いてしまっては、もう……。
それに、抱き抱えてみて分かったが、体を支える最も太い骨、背骨が数ヵ所で折れてしまっていた。
暗殺者として学んできた医学的知識を疎ましく感じたのは、これが初めてだ。
「う、うぅ……がはっ!」
夥しい量の血が、口から吐き出される。
体に付着する毒々しいまでの赤。
それは、を予感させる血の赤。
今まで、何度となく見てきたはずの血液に、こんなにも不吉な色の赤を見る日が来るとは、思いもしなかった。
「あ……志貴……」
彼女が、弱々しい声で呟く。
あのとき……シオンの部屋で、点滴を繋がれて放心していた時とはまた違った儚さが、痛く、痛くこの胸を刺す。
「……なんだ?」
俺は、話すなとも静かにしろとも言わず、ただ問い返した。
……助からない。
そう、分かっていたから。
「あのとき……私が腑抜けていた時に……言ってくれた言葉……」
「……あぁ」
「ぶっきらぼうで……無愛想で……ムードの欠片もありませんでしたけど……」
「……悪かったな、無愛想で」
「……嬉しかった」
「……そうか」
「あのときの言葉の返事……今……返しますね」
そう言って、一旦言葉を途切れさせると、彼女は震える腕を持ち上げ、俺の頬へと寄せる。
その動きが、あまりに健気で儚くて……気が付いたら、俺は自分の手のひらをその上に重ねていた。
いつかの病室での時間が蘇ってくるような……そんな幻想に捕らわれそうになる。
「……志貴……」
今にも閉じてしまいそうな瞳で、俺を真っ直ぐに見つめる。
「……私も……」

――っ!?

と、不意に、彼女が浮かべた表情に、俺は言葉を失った。
「私も……好きですよ」
それは、とても優しく、暖かい微笑み。
全てを包み込むように、それでいて、軽く吹けば飛んで消えてしまいそうなくらいに。
辛かった。
苦しかった。
胸が締め付けられ、このままんでしまうんじゃないかとさえ思った。
あの夜……アルクェイドが、あいつの幻影に向けた笑みを彷彿とさせるような……そんな微笑みを見ていると……。
「……」

――トサッ。

「……え?」
俺が我に返ったとき、もう彼女は笑っていなかった。
無機質な表情で、静かに瞼を閉じていた。
頬に触れる彼女の手。
その上から手を離すのが怖かった。
離して、力なく落ちてゆくその手を見るのが……彼女のを受け入れなければならなくなるのが、何より怖かった。

――どうしたんです? んだとでも思ったんですか? 貴方も心配性ですね。

そんな声が、微かに脳裏をよぎる。
しかし、それが起こり得ない望みであることくらい、自分でも良く分かっていた。
だから、俺は彼女の手を離すことなく、両手でその小さな手を包み込み、そっと胸の上に置いてやった。
今はまだ、体温の残る暖かいその体。
それも、いずれは冷えてなくなるのかと思うと、やるせなくてたまらなくなった。
今なら理解できる。
何故あの時、アルクェイドが、今、シエルが笑っていたのか。
なのに、最期……想いを伝えてくれた彼女に、どうして俺は笑いかけてやれなかった?
そんな後悔の念が、胸を刺々しく突き刺す。
「教会の代行者か……愚かなことを」
故に、そんな俺に向かって奴が放った言葉は、怒り以外の何物をも生み出さなかった。
「……何だと?」
「愚かと言ったのだよ。私に対抗する手段を持たないお前を、命を捨ててまで助けて一体何になるというのだ」
「……」
俺は、何も言い返さなかった。
言い返す価値もない。
問答する価値もない。
殺す価値もナイ。
だが、存在する価値もナイ。
ナイナイナイナイ、何もナイ。
なら、あれは何だ?
今、俺の目の前にいて、この感情を逆撫でするあれは何だ?
決まっている。
俺に消されるためだけに存在するモノだ。
あぁ、そうか。
そんなに消されたいのか。
なら、消してやるよ。
血が見れないのは残念だが、致し方あるまい。
「……シオン」
俺は、その場にゆっくりと立ち上がり、背後にいるであろうシオンを振り返った。

――エーテライトを繋げろ。

目線で合図をする。
「……」
そんな俺の合図を解し、シオンがエーテライトを脳に繋げた。
『聞こえますか?』
『あぁ』
視線は奴を捉えたまま、直接脳に響いてくる声に耳を傾ける。
『やって欲しいことがある』
『何でしょう?』
『俺と志貴の脳を繋げろ』
『なっ!?』
シオンの息を呑む声にならない声が、その驚きの程を示していた。
『貴方……正気ですか!?』
『もちろんだ』
『貴方の脳は、確かに本質的なものでは志貴の脳と同じですから、彼と同じモノを視れる資質はあります。ですが、それはあくまでも資質。志貴とは違う過程を経て今に至る貴方の脳は、を視ることに慣れていない。そんな貴方が無理にを視ようとしたら……』
『脳が耐えきれず、イカれて植物状態か、もしくはぬかだろうな』
『えぇ、そうです! そこまで分かっているなら、どうして……』
『シオン』
俺は、彼女の言わんとしていることを理解した上で、その言葉を途切れさせた。
そして、
『……頼む』
とだけ呟いた。
これ以上の言葉は必要ないと思ったし、これ以上の言葉はなかった。
しばらくの沈黙。
『……分かりました』
その後、彼女は小さな声で、そう呟いた。
……次の瞬間。
「っ!?」
目に映る世界に異変が生じた。
視える。
歪んだ薄い曲線しか視えなかった奴の体に、一次元の線ではないもの、零次元の黒い点が。
あれが、奴という存在が内包するか……っ!?
次いで生じた異変は、己が身に降り注いだ。
先ほどとは比較にならないほどの、激しい嘔吐感と頭痛。
まるで、自分という存在が壊れていくような感覚だ。
おそらく、俺が壊れて使い物にならなくなるまで、あまり時間はないだろう。
……が、アレを消すには十分過ぎる時間だ。
「どうした? そのまま黙って突っ立っているつもりか?」
「黙れ。お前はもう詰んでいるんだ。大人しく**
「ふ、面白い。なら、やってみせてもらおうか」
足下から沸き上がる黒霧。
俺を包囲しようとしてか、それは上昇しながら頭上を目指す。
ふん。
なんだこれは?
こんなにも遅い攻撃、誰が当たると言うのだ。
笑わせてくれる。
前方に跳躍し、避けると同時にソレの胴を薙ぎ払う。
切り口から吹き上がる黒い霧。
だが、これはどういうことだ?
今回は、何故か治癒が遅く見える。
反応も鈍い。
着地した時点でも、まだ奴は俺に背を向けたまま、未だに振り返る様子すら見せていなかった。
しかし、そんなことを一々気にしていられるほどの猶予が、俺にあるはずはない。
俺は再度足に力を込め、跳躍した。
床を、壁を、天井を。
それら全てを足場と成し、アレを中心に空間を無尽に駆けた。
耳をつんざく甲高い音が聴覚を狂わせていくが、そんなものは気にもならなかった。
絶え間なく襲いくる吐き気と頭痛も、いずれは消える身と思えば、心なしか楽になった気がした。
すれ違う度に、

払イ、
穿チ、
薙ギ、
抉リ、
斬ル。

楽になど消してやるものか。
己という存在が消えていく恐怖を抱きながら、やがて訪れる消滅の刻をただ待つがいい。

潰シ、
砕キ、
壊シ、
割リ、
断ツ。

全身を切り刻まれ、噴き出す黒霧のせいで、もはやアレの体は原型を留めていなかった。
この体を蝕む直視の代償に耐えるのに、そろそろ俺の精神も限界に近い。
そろそろ幕か。
いいだろう。
一思いに消してやる。
足を地に着ける。
すぐ眼前にあるのは、黒霧に覆われたソレの形なき姿。
「狂偽沁幻……」
短刀を順手に構える。
狙うは、の収束した一点、則ち喉元。
「総じて帰すは……」
惜しみなき殺意を前面に、俺は手に持った短刀を引き、そして――

「……無為の果てへ!」

――力の限り前へと突き出した。
周囲を取り巻く黒霧を切り裂き、喉元に深々と刃が突き刺さる。
それを境に、噴き出される霧の勢いが、その度合いを更に増した。
闇色の霧を上空へと立ち上らせ、その存在はみるみる内に希薄なものへと成り果ててゆく。
数瞬の時を経た後、そこにはもう何もなかった。
何かが存在していたという、僅かな痕跡すら残すことなく、ソレは文字通り消滅していた。
「元より虚偽なるモノなれば、闇に還るが世の理。鬼の哭鳴を抱いて逝くがいい。貴様という存在は、最初からここには亡かったのさ」
冥土の遺言だ。
受け取るがいい。
手に持った短刀を、懐に戻そうとする。

――カラン。

だが、その行動が行われることはなかった。
床に落ちた短刀が、乾いた金属音を巻き起こす。

――ドサッ。

続けざまに起きたこの音は……あぁ、そうか、俺が倒れた音か。
もう、何も感じなくなっていた。
頭痛も吐き気も、あれほどに胸を締め付けた痛みや苦しみさえも、何もかも。
今度こそ、間違いない。
これが、消えるということか。
しかし、もう心残りはない。
志貴と、本当の意味での決着をつけられなかったことは、確かに無念と言えば無念だが、途中までとはいえ、一度は本気の殺し合いができたのだ。
元より無いはずの存在が、これ以上の我が儘を言う訳にもいくまい。
それに何より、彼女の返事を聞くことができ、尚且つそんな彼女と時を同じくして逝けるのだ。
この上ない幸せと、むしろ喜ぶべきだろう。
さて、こんな下らなくも至高の時間は、そろそろ終演か。
偽りの命を得て、再び舞い戻ったこの時。
短かったが、なかなかに悪くなかった。
あぁ、また楽しくもなんともない、あっちの世界に逆戻りか。
しかし、これは悠久なる世界の持つ不変の理。
罪より生まれし俺もまた罪。
罪に対する対価は罰。
それを咎人が受け入れる。
これもまた世の理。
舞台に立てない役者は、このまま無惨に消えるとしよう。
心身の瞳を閉じ、全てを受け入れる覚悟を決める。
「まったく……二人揃って、面倒かけてくれるわね」
消え逝く自我の中、どこかで聞いたような声が、微かに意識の水面を撫でた気がした。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時31分(101)
題名:歪曲幻影〜Phantom Distortion〜(あとがき)



護身用に短刀を携帯するのは、果たして罪なのでしょうか?
















警「え〜、ちょっと君」


月「はい?」


警「なんだか最近、短刀持って薄ら笑いを浮かべながら、夜な夜な街を徘徊している

不審人物

がいるらしくてね」


月「へー、

不審人物

ですか〜」


警「そうそう。その

不審人物

なんだけど、特徴が(中略)でね」


月「ほぅほぅ」


警「ということで、所持品検査させてもらえるかな?」


月「はっはっは。何をお戯れを。こんな公衆の面前で、なんで己の性癖を暴露しなきゃならんのですか」


警「大丈夫。今、夜中の3時だから」


月「……おぉう? いつの間にそんな時間に……あ、早く帰らないと、お母さんに叱られ」


警「まてぃ。ってことで検査させてもらうよ……あらら? これは何かな?」


月「……なんでしょう?」



警「短刀だねぇ。何でこんなもの持ってるのかな?」


月「……」







ここで取る選択肢は


1:護身用です。


2:趣味です。


3:一回、人刺してみたかったんですよ〜♪























私の更新が著しく滞っていたなら、3番の選択肢を選んだと思ってくだしあ(´・ω・`)








゜。゜(つ∀`)ノ゜。゜







さて、私の犯罪者への過程は放っておいて、今作の反省会といきましょうか。

Phantom Distortion 最終回。
実は、最後の七夜がタタリを滅するシーン、他にも代案があったりしたんですよね。

お互いの存在が近付き、七夜は死の線が視えるようになり始め、逆に志貴は死の点が視えなくなり始めた辺りで、二人で協力してっていうのとか。

これいいかなって思ったんだけど、これだと最後のシエルのセリフと、七夜&シエルの二人の想いが薄れちゃうなと思いボツ。
結果、志貴の直視を得た七夜一人に頑張ってもらいました。
何となく気に入ったので、技名とかちょっと考えてたり(´・ω・`)

閃鞘・四戯紅

閃鞘・七夜の要領で前方に大きく跳躍。刃を薙ぐのではなく、こちらは突く技。
但し、一点だけではなく、頭部、喉、心臓、陰腹の四ヶ所を、瞬時の内に突き穿つ。

絶死・哭鬼刻命

書いて字の如く、鬼さえも哭かんばかりに命を刻む絶対の死。
己の身体を自らで傷つけない動きの限界を凌駕し、全身の筋肉をズタズタに引き裂かんばかりに空間を駆け、対象を全方位から微塵に切り裂く。
余りの速度故に、一振り毎に刃の風を切る音が生じる。
それはさながら鬼の泣き声のよう。


たまには中2病かかっても、いいよね(´・ω・`)

ってことで、あとがきはこの辺で締めるとしましょうか。
この作品に対する感想、批判、Love七夜といった叫びは「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」までどうぞ。

それでは、また次に会うその時まで〜(´・ω・`)

ここまでは、法学部の友達に冒頭の問いをかけたところ「それ、間違いなく犯罪」と言われ、ちょっとだけショボンってなった月夜がお送りしました。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時33分(102)
題名:幻実存在〜Lies to Truth〜(一幕)

「ふぅ……今日も疲れたなっと」
ベッドの上に身を放り投げ、大きく伸びをする。
学生としては朝から夕刻まで、学校という名の退屈な檻に囚われ、帰ってきてからは遠野志貴として、愛する妹に叱責される。
いつも通り、日常的な一日だ。
さして異変もない、平和でそこそこ楽しい日々。
あの日を境目に、そんな日が続いていた。
退屈とは言わないし、つまらないとも言わない。
平和が何より素晴らしいということを、非日常の最中で生き抜いてきた経験のある俺は、その事実を誰よりも良く知っている。
だが、それでも、何か物足りなかった。
たまに、アルクェイドが窓から侵入してきて、それに気付いた秋葉が激怒。
人智を越えた大喧嘩を巻き起こされては、冷や汗をかいたり。
稀に先輩までもがそこに乱入して、もう喧嘩を越えて戦争に近い領域に達してしまうこともあったり。
琥珀さんの魔の手によって、怪しげな薬の実験台にされそうになったり。
そんな、一般人からしてみれば、決して物静かではない、どちらかといえば賑やかで騒がしい毎日。
それでも、やはり何か虚脱感を拭いきれないこの気持ちが、消えることはなかった。
その原因は、自分でも分かっていた。
「……」
何気なく、俺はベッドの上に上体を起こした。
そのまま立ち上がり、天井に手を伸ばすと、

――カタッ。

そこにはめ込まれた木の板の内の一枚を、慣れた手つきで取り外した。
そこから顔だけを覗かせ、屋根裏を見回す。
だが、どこをどう見渡しても、望む姿は見当たらなかった。

――やっぱりいない、か……。

心の中で一つ、小さく溜め息。
そう、あの日……タタリの支配する教会に乗り込んだ日以来、七夜の姿を目にすることはなかった。
もう、あれから約一週間経っている。
分かっている。
あいつが……七夜がいた世界が、異常であったことくらい。
あいつは、元々この世に存在していなかった存在。
それが、確かな実体を持って存在していたこと自体、あり得ないこと、あり得てはいけないことだったんだ。
だから、今のこの世界こそ正常なんだ。
……そう、脳は理解していても、心までそうという訳にはいかない。
生意気で、無責任で、無愛想で、非常識の塊みたいな奴だったのに……やはり、昨日まで居たはずの誰かが居ないというのは、どうしても寂しいものだ。
前にも、3日程帰ってこなかったことがあったし、気が付いたらいつの間にか帰っていて、いつものようにぶっきらぼうな声が、天井裏から聞こえてくるんじゃないだろうか。
今日は帰ってなくても、明日にはきっと。
明日になれば、明後日にはきっと。
明後日になれば、弥明後日にはきっと。
そんな日々が、今なお続いていた。
諦めろという理性と、いつかきっと帰ってくるという思いを捨てられない本能との板挟みに、心を悩ませ、故に充実感を感じられない毎日を、今も過ごしている。
「ふぅ……寝るか」
本日、もう何度目かもわからない溜め息を残し、屋根裏と自室を隔てる天井に外した板を戻すと、俺はベッドに横たわった。
電気を消し、布団を株って瞼を閉じる。
やがて訪れる睡魔に身を任せ、微睡みの中をゆらゆらと漂う。
直に、俺の意識は深い眠りの中へと落ちていった。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時36分(103)
題名:幻実存在〜Lies to Truth〜(二幕)

「あれ? ここは……」
気が付いた時、俺は丘にいた。
暖かな陽射しの下、吹きそよぐ心地よい風が、背の低い草たちをゆらゆらと遊ばせる。
自然の香とでも言うべきか。
土の泥臭い匂いと、花の甘い香りの入り交じった、人工物で溢れ返る街では嗅ぐことのできない独特の香り。
間違いない。
ここはあの時の……そう、俺にとって世界が動き出した、始まりの丘。
「やっほー♪」
「え?」
不意に聞こえてきた懐かしい声に、俺はその方へと弾けたように振り返った。
赤く緩やかな長髪が、風をその身に受けてゆらゆらとたなびく。
そこにあったのは、俺が誰よりも尊敬する、あの人の姿だった。
「先生……って、あれ?」
駆け寄ろうとして、思わず足を止める。
なんだろう、この妙な感覚。
何だか、前にも似たようなことがあった気が……
「ん? どうかした?」
「あ、いや、なんでもないです」
反射的に首を横に振った。
これが、俗に言う既視感というやつなんだろうか?
「でも、どうして先生が?」
「呼ばれたのよ、貴方にね」
そう言って、先生は俺の顔を指差した。
「え?」
呼んだ?
俺が?
いつ?
「そ。まぁ、貴方にとは言っても、今度はもう一人の貴方にって言った方がいいかな? あ、ようやく来たわね」
そう言って、先生は俺から視線を外し、向こう側へと目を向けた。
ゆったりとした動きで、こちらへと歩み寄る一つの人影。
近付くにつれて、その姿が鮮明になってゆく。
そして、それを脳がはっきり理解したとき、
「……あっ!?」
俺は知らず知らずの内に声を上げていた。
「よぅ。あれ以来だな、志貴」
軽く手を挙げ、まるで何事もなかったかのように口を開く七夜の姿が、そこにはあった。
「七夜!? 今まで一体どこに……」
「まぁ、色々とあってな。それより、志貴。お前、ここがどこか分かってるか?」
俺の言葉を遮るように、七夜が周辺に目を向けながら問い掛けてきた。
「どこって……」
改めて周囲を見渡す。
目に映るのは、先ほどと何ら変わらない景色。
「……俺と先生が初めて会った丘だろ?」
「そういう意味じゃなくてだな……はぁ、お前も案外鈍いな」
溜め息混じりに頭をもたげ、呆れたように七夜は首を左右に振った。
……なんか、ちょっとムカつく。
「じゃあどこだって言うんだよ?」
そんな苛立たしさを隠すことなく、俺はちょっと刺々しい声で尋ねた。
「夢の中よ、ここは」
「……え?」
横から唐突に聞こえてきた声に、俺は首を傾げた。
夢?
これが?
……あぁ、そうか。
言われてみれば、確かにそうだよな。
今さっきまで……いや、現実の世界の俺は、今もベッドの中で寝息を立てているはずだ。
なら、今ここにいる俺は何か。
自分の夢の中にいる俺自身に他ならない。
よくよく考えてみれば、すぐに分かることじゃないか。
俺がここに来れる訳も、先生がここに居る訳もない。
……そして、あいつがここに居る訳も。
「理解したか?」
「あぁ……しっかりとな」
俺は頷いた。
あいつがここに来た……と言うより、あいつがここに、俺を呼び寄せた理由。
それくらいは、言葉を介せずとも分かっていた。
「なら、そろそろ始めようか?」
「あぁ」
だから、あいつの突然の、しかも主語のない問いに対しても、すぐに答えを返すことができた。
お互い、同時に短刀を取り出す。
「さて、この前と違って、今度は本気で殺り合えるな」
「何言ってんだよ。あのときだって、十分本気だったろうに」
「トドメを刺さなかっただろう? なら、十分手加減に値するじゃないか」
「あれだけ血まみれにしておきながら、よく言うよ。今度はそっちがああなる番だ」
「できるか?」
「やってやるさ」
「さ、そろそろいいかしら?」
いつの間にやら、主審的なポジションに立っていた先生が、俺と七夜の顔を見比べながらそう言った。
「あぁ」
「はい」
同時に答える。
「それじゃ……」
先生が手を上げる。
構えた短刀を逆手に、両者共に一気に飛び出す体勢を取った。
顔を見合わす。
どちらともなく口元に浮かばせるのは、嘘偽りのない、心からの笑み。
「……始め!」
合図と同時に、俺は一気にあいつのいる方へと跳躍した。





夜の闇に抱かれた、遠野邸二階の一室。
ベッドにて、安らかな寝息を立てるその部屋の主を、その傍らにて見つめる一人と一匹の姿。
「……ふっ」
男は微かに、それでいてどこか満足げに微笑むと、すやすやと眠る少年から視線を外し、その場に屈み込んだ。
「すまなかったな、レン。おかげで助かった」
そう言って、男はレンと呼んだ黒猫の頭を優しく撫でた。
「これはほんの礼だ。じゃあな」
プラスチックのケースをその場に置き、そのまま窓際へと向かう。
ガラス窓を開き、その縁に足をかけた。
「……」
一度だけ、背後を振り返る。そこにあるのは、依然として静かな眠りに就いている、自分と同じ容姿をした少年の姿。
「……」
無言のまま、男はまた小さな笑みを溢すと、何も言葉を発することなく、開け放たれた窓から外界へと飛び出した。
部屋に残された一匹の黒猫。
その目の前には、プラスチック製のケースに入った、黒くてぶつぶつとした楕円形の塊と、黄色くてパサパサした、こちらも同じく楕円形の塊。
だが、果たしてお腹がいっぱいなのか、それとも大して好きでもないのか。
結局、彼女はそのケースには目もくれず、主人の眠る布団の中へと潜り込んだのだった。

月夜 2010年07月05日 (月) 23時37分(104)
題名:幻実存在〜Lies to Truth〜(終幕)

「はぁ……」
思わず漏れた溜め息が、夜の街に呑まれて消え入る。
今日も今日とて、私は己の職務を全うしていた。
体そのものは、あの日以来悪くない。
むしろ、以前に比べればかなり好調だろう。
それもそのはず。
今の私は、また一昔前の私に逆戻りしたようなものだった。
まさか、吸血鬼を狩る側であるはずの私が、吸血鬼になってしまう日が来るだなんて、今でもまだ信じられない。
確かに、あの時の私は瀕死状態だった。
現代の医術をどれだけ集結させたとしても、助かる見込みはなかっただろう。
しかし、だからといって、普通吸血鬼化なんてさせるものか?
しかも、私が衝動を抑えきれず、理性を失い真に吸血鬼と成り果てた時は、自分が責任を持って殺してあげるときたものだ。
全く……あのアーパー吸血姫は、相変わらず何を考えているのか理解に苦しむ。
「……っ!?」
と、そんなことを考えていた折り、不意に感じた何者かの気配。
それは、曲がり角の電柱の陰に身を潜めていた。
「……」
黙したまま、静かに歩みを進める。
……だが、おかしい。
感じられる気配からは、殺意はおろか、敵意の欠片も感じ取れなかった。
けれど、私を待ち伏せているであろうことは、状況的に考えてあまりに明確。
私は、油断することなく、ジリジリとその距離を詰めていく。
そして……

――ザッ!

一気に飛び出す。
相手の姿を視認しながら、懐へと手を伸ばそうとした。
「……えっ?」
……だから、その行為が未遂で止まったのは、むしろ必然と言えた。
「久しぶりだな」
鼓膜を刺激するのは、聞き慣れた、それでいてどこか懐かしい声。
膨らんで弾けそうになる、あの日の想い。
そんな衝動を必死の思いで押し殺し、私は無理に呆れた表情を浮かべて言葉を返した。
「久しぶりだな、じゃありません。なんで今の今まで、私の前に姿を現さなかったんですか」
「あぁ……まぁ、色々あってな」
頬を指先でかきながら、ばつが悪そうに呟く。
「それにです。せっかく私が貴方の想いに答えを返したというのに、それに対する返事がなしというのは、一体どういう了見です」
「いや、その……あの時も色々とあって……」
その声に含まれる動揺が、次第に色濃くなってゆく。
「甲斐性なしにも程がありますね。呆れてものも言えません」
「う……」
遂に、言葉を失う彼。
返す言葉もないまま、苦笑いを浮かべて、明後日の夜空を見上げる。
星でも見ながら、なんと言おうか考えているのだろうか?
「ふふっ……」
そんなことを思うと、何だか無性におかしくなって、思わず軽く吹いてしまった。
私の言葉にオタオタする彼を見るのも、なかなか楽しいかも。
「……シエル?」
「あ、いえ、何でもありませんよ。ところで、貴方はこんな夜更けに何を?」
なんてことを考えていた、自分の気持ちを見透かされたくなくて、私は話題を別の方向に逸らした。
「ん、そうだな……まぁ、夜の散歩といったところか」
「へぇ、奇遇ですね。実は私も“散歩”の途中だったんですよ。どうです? 暇ならご一緒しませんか?」
「タタリの残滓の暗殺者と、吸血鬼化する代行者の組み合わせか……なんとも不吉だな」
「良いんじゃないですか? 私たちにはお似合いでしょう?」
「全くだ」
そう言って、どちらからともなく笑みを溢す。
「それじゃ、行きましょうか」
「あぁ」
二人で肩を並べ、同時に走り出す。
横に視線を送れば、今まで居なかった人がそこにいる。
そう思うだけで、胸の高揚を抑えることができなかった。
私たちは、互いに異端を狩る異端という矛盾を抱えた存在。
そんな二人には、手を繋いで歩く日溜まりより、異端を刈るために疾駆する月夜の下がお似合いだ。
「……」
「……」
夜の街を駆けながら、二人して顔を見合わせ、私たちはもう一度、お互いに小さく笑い合った。




「二人揃って世話のかかる……」
呆れたような、それでいてどことなく楽しそうな、そんな複雑な感情を孕んだ呟きが、夜の静寂に溶けて消える。
その声の音源は、街中に高々とそびえる、とある電柱の頂上。
そこで、彼女は夜風を身に受けながら、悠然と佇んでいた。
月明かりにを浴びて、彼女のもつ金色の絹を思わせるような金髪が、艶やかな輝きを放つ。
見下ろすその視界に映るのは、互いに見合って笑みを溢す、一組の男女の姿。
何を話しているのか、ここからでは伺い知ることはできないが、その楽しげな雰囲気だけは、見ているだけで十分に伝わってきた。
「ま、私にしてやれることはここまで。後はあの二人次第ってね」
そう言うと、視線を下界の二人から外し、彼女は電柱の上にて踵を返した。
「さて、と。私は、志貴んとこにでも遊びに行ってこよ〜っと」
そのまま跳躍し、その姿は夜の闇の中へと消えてゆく。
夜の街を、月の淡く冷たい光が照らし出す。
暗すぎず、明るすぎないその輝きは、何も見えない深い闇も、全てを白日の下に晒し出す乱暴な光も、生み出しはしない。
この街に満ちる、日常の陰に隠れた非日常。
それを知るのは、非日常の世界に生きる常人ならざる存在と、夜空を漂う白い月だけ。
今も、昔も、そしてこれからも……。


   〜Fin〜

月夜 2010年07月05日 (月) 23時37分(105)


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