カウンター (物質・生命・人類の本流は日本)の続編 - 談論サロン天珠道
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談論サロン天寿道

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[2518] (物質・生命・人類の本流は日本)の続編
愚按亭主 - 2017年01月03日 (火) 18時11分

>各自の主体性に任せれば いいのです。弱小民族の主体性にまかせればいいのです。それが何年かかろうと 衰亡しようと 彼らの内発的な努力に賭けるしかないのです。

 これは、学問的な人間とは何か、人類にとって・人間にとっての主体性の確立とは何か、が分かっていない、俗説でしかありません。言うなれば、子供の個性尊重・見守り論と同類の誤謬です。その結果、今の日本はどうなっているでしょうか?親が自分の子供を平気で殺すことが頻発する世の中になってしまいました。これと論理的に同様なことが今世界でも起きて、世界に大混乱を起こしている現実があります。白人帝国主義が平気で民族を蹂躙していた時代においては、民族自決はそれなりの正当性を持っていましたが、それを度外れに拡張しますと、大混乱の本となります。

 そもそも民族は、人類一般・人間一般から見ると特殊性でしかありません。では、その人類・人間とは何かと言いますと、人類は、生命の進化の最高形態として、生命が地球との相互浸透の歴史を概念レベルで措定した遺伝子を受け継ぎながら、その外化として新たに誕生した、能動性を持ち、自由に運動できる可能性を持った理性的認識が、動物的認識を受け継いだ感性的認識との統体止揚を通じて対象に働きかけ、あるがままの自然を目的意識的存在に創り変えていく存在です。そして、その人類が目指すべき本質的必然性の到達目標が、世界の概念的体系化の完了した絶対理念が目的意識的に世界創造をしていくことであり、そこに向けて歩を進めていくのが本流です。ですから、学問は、人類にとって本質的必然性なのであり、人類は学問を教育・学習する必然性があるから、世界中の学校で学問が教育されているのです。

 しかしながら、なぜ学校で学問が教育されるのかの必然性が、全く理解されていないのが実情です。残念ながら、この日本においてすらそうです。どうして学校に行かなければならないの?その問いかけに、良い学校・会社に入るためとしか答えられずに、まともに答えられる親がいない、否、学校の先生すらもが答えられない、したがってそういう肝心なことを教えられないという現実が、それを物語っています。

 理性の狡知が、それ自体が直接に現象することはなく、個々人の理性的認識の発展を通して、理性の到達目標である絶対理念へと到達していくように、国家も同様に、それ自体が直接に現象するのではなく、、個々人の認識や行動およびその総体として国家として、発展し完成していくという弁証法的な関係にあります。これを、個々人の側から見ますと、個々の国民は、直接に国家であり、国家の完成を通して自らを完成し、また反対に、自らを国民としての完成させることを通して、国家を完成させるという関係になります。このことが、国民の末端にいたるまで見事に体現できていたのが、かつての日本でした。これこそが日本が本流たる所以だったのです。この国家的個人である日本兵がアジアの独立戦争に主体的に参加したことを、国家と切り離した個人の行動だとしか捉えられないタマゴさんは、そういうことが分かっていないのです。

 ところが、今の日本は残念なことに、それが壊されてしまっています。その原因は、国家と国民を別のものとして切り離して、個性尊重として国家よりも個人を上に見ようとする教育がなされてきたこともさることながら、一番の大本は、憲法第九条によって、国家が国家として自立できない・主体性を確立できないようにしてしまっていることです。つまり、国家が国家として完成できない状態に置かれているために、国民も国民として完成できずに、公僕であるはずの公務員や官僚までもが、国家よりも私欲の方を優先するようになって、お隣の韓国や中国をわらえないようになってしまっているのです。

 じつは、これが現在の世界の混乱の根本的な原因でもあります。今起きているグローバリズムの破たんは、国家の解体の上になされようとしていたために、うまくいかなかったのです。このグローバリズムの原点は、白人帝国主義の植民地支配です。部族間民族間の対立を助長するように支配し、現地の経済が発達するのに必須な産業を壊して自分たちの利益が上がるように経済的に支配し、国家の発展に結び付くような教育は一切行わずに、国家が国家として壊れていくような支配でした。日本によってそういう体制が壊された後も、巧妙に国家を解体する工作が続けられ、結果として民族のエゴ・個人のエゴがむき出しになって紛争が多発し、移民や難民が旧宗主国のヨーロッパに大量に流れ込むことになってしまっているのです。これはまさに自分たちが行ってきた悪行の天罰が下っているように見える、歴史の皮肉です

 したがってこのような状況の中で、民族の即自の主体性に任せていたらどうなるのか、目に見えています。動物の場合は、遺伝子によって統括されておりますので、遺伝子的に進化の道筋から外れてしまったものは、その遺伝子のレベルで完成していって生態系的に進化の本流を支えてく役割を担っていくしかありませんが、人間の場合は、まだ挽回の可能性があります。

 それは、人間の場合は、遺伝子とその遺伝子的制約から自由かつ能動的に運動・発展できる理性的認識との融合体だからです。この遺伝子と理性的認識の働きとが、相互浸透的一体性を持って発展する論理を発見したのは、南ク先生の大発見ですが、ヘーゲルはすでに100年も前にその関連性についての大筋を喝破しておrました。つまり、未だ原始的生活のレベルから抜け切れていないアフリカや南洋の島国の人たちでも、必死に学問を自分のものにして、真に即自対自の主体性を確立して、自分たちの生活を創り変えることができれば、人類の発展の最先端に立つ可能性があるということです。しかしながら、それは自分たちだけでは不可能です。何らかの形で人類の最先端の学問を学ぶ機会がなければできないことです。それなしに民族の主体性に任せるべきという主張は、人間の真の主体性の確立とは何かが分かっていない愚論です。

 東洋の端っこにあった小さな島国の日本は、それを独力で立派にやり遂げました。といっても、さすがの日本でも、学問の本家筋の欧米諸国の圧力と介入なしにはそれを成し遂げることは不可能でした。それを見事に成し遂げたのが、幕末の佐賀藩藩主鍋島閑叟(直正)公でした。閑叟公は、イギリスのフェートン号事件で圧倒的な差を見せつけられて、このままではいかんと反省し、破たん寸前だった藩の財政・経済を立て直し、西洋の学問を積極的に導入して学ばせ、反射炉を創り、蒸気機関車や蒸気船を独力で造り、当時最新鋭だった英国製のアームストロング砲を改良して世界最高水準の大砲を創り、当時の日本最強の軍隊を創り上げました。明治維新で官軍が勝利することができたのは、閑叟公が薩長側につくことを決意したせいだといわれています。もし、幕府側についていいたら官軍は勝てなかったともいわれるくらいだそうです。幕府と縁の深かった閑叟公がどうして薩長側についたか、それは日本全体の行く末を勘案してのことだったそうです。

 つまり、当時の日本は、学問を学び取る姿勢を持ち、即自と対自そして即自対自の使い分けがしっかりとできていたということです。だから、藩ごとの対立競争が激しくとも、日本の国としてのまとまりをしっかりと創ることができたのです。そういう日本がアジアに対しても、たとえば、ブルネイの県知事に赴任した日本人が行ったことは、その国の柱となる産業を見つけ出して育て、対立する部族の対立を命を張ってなだめ、対立する部族が国づくりに協力する体制を整えてやったのです。この時、彼の秘書としてついて歩いていた王の弟が、やがて国王になって国づくりをするときに、彼から学んだ手法を生かしてブルネイを発展させた、という話は有名です。

 日本とは、そういう国なのです。そういう日本の領土の一部になった民族は、日本から学んでそれを生かせばよいのです。そういう体験は、民族の主体性の区立に大変貴重なものとなるはずです。それから後のことは、それぞれの民族の民族としての主体性の問題なのです。日本から独立して主体的に国を創って発展させていくもよし、日本の一部として自らと日本の発展に貢献するもよしです。人類の本流である日本と一緒にいる期間をできるだけ長くして、そこから学んでいくのが、民族の主体性の確立に一番よい道なのです。それを、民族自決だから何が何でも独立がよいとして、日本から離れていっても、うまくいく可能性は少ないのです。実際、無事独立できたアジアの各国はどうなりましたか?

 だから日本が独立を認めないから駄目だ、などという主張はナンセンスです。それこそ、その民族の主体性に任せるべきです。つまりそういう主張も、その民族の主体性をないがしろにしている、ということです。つまり、大きなお世話だということです。歴史の流れは、その時々の流れとして押しとどめられない面があるのです。その中でどう生きていくかは、その民族が決めることであって、日本は日本が良いと思ったことを推し進めればよいのです。日本は戦時中にもかかわらず、占領したところで学校を創り教育を施しました。白人たちは戦時中でなかったにもかかわらず、そういうことは一切行いませんでした。この違いが本流であるかどうかを分けるほどの大きな違いです。

Pass

[2519]
タマゴ - 2017年01月04日 (水) 12時27分

基本的にtadaさんへの返答だと思われますが、私の名前も挙がっているので、そこについてだけ横から首を突っ込ませてもらいたいと思います。

>この国家的個人である日本兵がアジアの独立戦争に主体的に参加したことを、国家と切り離した個人の行動だとしか捉えられないタマゴさんは、そういうことが分かっていないのです。

私は、一部の旧日本兵がインドネシア等で終戦後に独立闘争を支援した例を、
「国家と切り離した個人の行動」
と評価したことはありません。
私は、大東亜戦争(対米英戦)は、
資源獲得という生々しい目的でアジアに進出した戦争主導者達と、アジア解放という大義名分を信じた末端の日本兵達の意識とが、二重構造化していた、
と観る視点が必要である、と述べたのです。
(大東亜戦争開戦に反対していた昭和天皇や良識派も含めれば三重構造ですが)
波多野教授の論文にも明らかなように、
軍上層部はアジア解放には原則として反対の考えを持っていたのであり、将来的に各国を独立させる展望もそれに見合う精神性も持ち合わせてはいませんでした。
戦地に芸者を呼んで遊び呆けた寺内寿一や部下を置き去りにして敵前逃亡した木村兵太郎のような、数知れない愚将どもが、それを象徴しているでしょう。
しかし、末端の日本兵の中には、開戦より後に重光らが実質的に発案した大東亜会議・大東亜共同宣言の精神性を本気で信じた方々もいらした。
そのような有志が、終戦後にインドネシア等の独立闘争を支援した・・・という実態について述べたのです。

そして、そのような実態を見ようともせずに本流論だの一般論だのと名付けた単なる先入観を金属バットの如く振り回す天寿堂さんの姿勢を、批判したのですよ。
世界史を勉強せよと。
駒の動かし方も知らないド素人が、いくら
「俺は絶対真理があるから名人以上なんだ!」
と喚き散らしても、近所の将棋好きの子供に二枚落ちでも一蹴されてしまうでしょう。

天寿堂さんの歴史認識は、そういう次元だということです。

Pass

[2520]
tada - 2017年01月04日 (水) 21時26分

 2518文を読みました。私は条件付きでの 民族独立自決の可能性を指摘しました。そして 民族同化についても戦国乱世においては仕方のないこと。その例でアイヌ・琉球が同化され 明治維新の日本が 主体性をもち 自立したことを歴史的事実として容認しているのです。歴史性をもつ 国家社会民族として 世界史に登場できなかった現在における弱小民族の独立自立は確率的には低く 運良く独立したとしても 非常に難しい国家運営になるのは目に見えています。逆に過去において 歴史性ある国家として 名を残す民族の末裔ならば 現在が弱小民族だとしても そこからの飛躍も可能な内的資質をもつということです。天寿堂さんの意見のように 日本に学んでもよし。明治維新のように 先進国である英仏独に教えを請えば良いのです。それはそれぞれの民族の主体性の問題です。天寿堂さんと私はこのことにおいては同意見です。朝鮮民族に関しては ソ連や中国に征服されているよりは 比較的紳士的な?日本に征服されたほうがまだ安全とも言えます。だからといって その経済的コストと民族問題をうちに抱える政治的コストを考えれば そんな単純なことではないです。民族闘争 内戦 テロ 日本民族の衰退の原因になるかもしれないのですから。そういう意味で征服自体に反対です。押しつけの同化政策を教育と錯誤している考え方にも反対です。教育は国家―内―問題 民族同化政策は国家―間―問題です。同化政策は国家の問題を越える対国家の問題だからです。難民問題・移民問題など 戦争・外交問題なのです。
 台湾 朝鮮 満州 北支と続いていく地政学的陣取り合戦の<征服>の流れを 私は帝国主義と呼んでいるのですが 天寿堂さんの場合は 同じ帝国主義的国家でも英米と違う差異を日本に見いだして 評価しているわけです。私にはその違いが聖戦を標榜するような 人類史上の金字塔のような意味あいをアジア・太平洋戦争で読み取ることは 今もできないのです。軍首脳にはグランドデザインといえる戦略はなく 行き当たりばったりの政策しかない そんな国家の民族解放戦争云々はスローガンであるとしか思えません。波多野澄雄先生の研究でもやはり 実行されなかった事実でしかありませんでした。ガンジー・ネールが日露戦の日本を賛美したのにもかかわらず大東亜戦において 欧米帝国主義と同類であると失望し ビルマ バーモウの日本人と日本国家の賛美にかかわらず 抗日ビルマ人たちにそれらは受け入れられずクーデターで失脚。ここから見ても 当時の人々は大東亜戦を民族解放戦などとはみていなかったといえるでしょう。
 付録です。マルクスは<征服>を3種類に分けています。1,征服民族が征服された民族を征服民族自身の生産様式に従わせた場合。2,旧来の生産様式をそのまま存続させて貢納で満足する場合3、征服民族と被征服民族のとの間で交互作用がおこり、それによってひとつの新しいもの、ひとつの総合ができあがる場合 (マルクス 経済学批判 p289 国民文庫 )この分類でいくと 大英帝国・大日本帝国は1に該当します。3はアレクサンダー大王によるペルシャ帝国征服・遊牧民国家による漢人国家征服ですね。

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[2521]
タマゴ - 2017年01月04日 (木) 23時43分

天寿堂さんが挙げた、ブルネイの知事に赴任した木村強氏の美談についてですが、これを大東亜戦争を聖戦とする根拠として持ってくるのは無理です。
なぜなら、木村氏は、日本軍の占領方針にことごとく異を唱えて、独自の政策を施したのですから。

対英戦開戦後、イギリスに代わり日本の戦時統治が始まり、木村氏がブルネイに着任したわけですが、
彼は、資源獲得を最優先しようとしていた軍部に猛反発し、多くのインフラ設備と公共設備投資をして、ブルネイの経済発展の基盤を築いたのです。
また、日本軍を侵略者と見なし激しく対立していたイバン族を必死に説得してブルネイの発展に協力させたのも木村氏です。
要するに、日本軍にとって木村氏は目の上のタンコブのような存在だったのですよ。

現在もブルネイ人は親日的ですが、それは木村氏を尊敬しているからで、日本軍を尊敬しているのではありません。
もし木村氏が軍の言いなりになって目先の方針に沿った政策が行われていたならば、より多くの資源を獲得することができたでしょうが、ブルネイの日本に対する評価は違っていたことでしょう。

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[2522]
タマゴ - 2017年01月05日 (木) 01時41分

大東亜戦争の内の対中戦である1937年開戦の日中戦争は、当時は「支那事変」などと呼ばれていました。
(これとよく間違えやすいのが石原莞爾らが起こした満州事変ですが、これは1933年の塘沽協定で一応は終結しております。)

では何故に“支那戦争”ではなく“支那事変”と呼ばれたか?
それは、戦争と呼ぶには宣戦布告やら大義名分やら一定のルールが必要なわけですが、いわゆる日中戦争(支那事変)にはそれらが明確には存在しない戦いであったからです。
(満州事変が“事変扱い”である理由も同様。)
当時は、政治家も軍人も、そう認識していた。
天寿堂さんには、ここを押さえておいて欲しいと思います。

大東亜戦争という呼称は、1941年12月12日(対米英戦開戦の4日後)に東條内閣が支那事変(対中戦)も合わせてそう呼ぶのだと閣議決定したのです。
そもそも“アジア解放戦争”を、アジアの国である中国を相手に始めるというのは、明らかにおかしな話でしょう。

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[2523] 食い違いを整理しましょう
愚按亭主 - 2017年01月05日 (木) 17時19分

 どこが食い違っているのかの、行き違いの大元が分かってきましたので、ここで整理してみましょう。

 まず私は、全体の流れを俯瞰する立場から人類の歴史の本流は何かという視点から、新たな本流となる日本が欧米の帝国主義に戦いを挑んだ結果として欧米帝国主義の植民地体制が瓦解したという客観的事実。そしてそれにともなって植民地として欧米帝国主義に支配されていたアジアの各国が独立していったという客観的事実。そしてそれを機に、人類の社会的常識が、白人による植民地支配や人種差別が当たり前であるかのごとき風潮から、それはよくないこと、へと一気に大きく転換したという客観的事実は、戦争に負けたとはいえ、日本によってもたらされたものであり、歴史的偉業といえるものである、と主張しました。

 これに対して、タマゴさんやtadaさんは事実を精査する立場から、日本が国として直接にアジア諸国の独立に関与した事実はほとんどなく、現地の人たちもそう思っていないという事実がある。そもそも大東亜戦争はアジア諸国の独立を目的として起こしたものではなく、したがって、聖戦でも何でもなくアジア諸国の資源獲得を目的としたものである、という趣旨から反論を展開してきました。

 さて、この対立した両者の意見を、皆さんはどのように感じるでしょうか?おそらく、両方正しいと思われるかと思います。その通りです。それが正解です。それで良いのです。問題は、この滅ぼしあう対立をどう統体止揚したらよいかということです。これについてはすでにこの討論の中で行っていますので基本的にそれを踏襲すれば済むことだと思います。ただじつは、この両者は、よくよく見ると対立などしていない、つまり矛盾していないのです。

 どう矛盾していないかと言いますと、たとえば、大東亜戦争をアジアの独立や解放を旗印として戦ったのではないという、タマゴさんやtadaさんの主張はその通りだということです。しかし、だから私の主張は間違っているということにはならないということです。それは第一に、私は日本がアジアを解放したとは言いましたが、日本がアジアの独立・解放のために戦争をしたとは一言も言っていないからです。ところが、タマゴさんの反論は一貫してそう決めつけてそうではないことを主張しておりました。ここが大きく食い違うところです。

 次に第二点目は、アジアの一員として欧米の帝国主義と戦いましたが、その際にアジア諸奥の独立を直接にその戦いの目的に挙げられるわけがなかったことです。そもそもの戦いの発端は、他国の防衛よりまず、欧米の嫌がらせから自国を守ることであり、欧米との戦いは必然的に欧米の植民地体制への挑戦となるので、それに対抗するために大東亜共栄圏の構築は掲げられました。これは当然のことで、それでよいのです。独立という限定的な目標を確定してしまうと、それに縛られて自由に戦えなくなってしまうからです。強大な欧米帝国主義を相手にそんな余裕はありません。

 だからといって、日本がアジアの独立を掲げていなかったから駄目だ、聖戦と言える資格はないなどと、責められる筋合いはみじんもありません。むしろ、アジアの独立を掲げていなかったことが戦略的に正しかったのといえるくらいです。まず何よりも欧米帝国主義に勝利しなければならないからです。そして、ですからアジアの独立を掲げていなかったから、アジアの独立を時期尚早だとして否定したからと言って、決してアジアの独立そのものを完全に否定していることにはなりません。「時期尚早」とはそういうことに他なりません。

 ここが、アジア諸国の自分の国の独立を最優先に考えていた人たちと、日本の軍部との間にすれ違いが生じてしまった原因だと思います。ですから、私はこのことをもってタマゴさんのように日本の軍の指導者はダメだとは思いません。

 話のついでながら、タマゴさんは盛んに二重構造論を唱えて、軍の指導部はだめだが、それ以外のそれに反対する天皇や重光、さらに一般の兵士の中でアジアの独立戦争に参加した兵士たちは良かったとしています。そして、私があげたブルネイの県知事をしていた木村という人物も、軍部の指令に反対していたという事実を挙げて、私の挙げたブルネイの例が、がいささかも自説の例証になっていないと批判しています。

 これに対して、私は次のように反論します。私の言う日本の精神とは、日本の国家の精神であって、そこに軍部の指導部も国民もありません。それらの総体としての精神です。ですから、木村氏の行動はまさに日本精神の発露としてのものであったといえるのです。また、同時に軍部は軍部としての論理性にしたがって方針を出して動きます。これもまた日本精神の発露です。つまり、その軍部が木村氏と対立することがあったとしても、それらすべてが日本精神の発露といえるのです。ついでに言えば、重光氏が戦争の反対していたとしても、敗色膿区となった時点で日本の行く末を考えて大東亜宣言や大東亜会議を主導するという行動に出ましたが、これも日本精神の発露に他なりません。このように私は、タマゴさんのように分断して考えようとはしません。

 私は、タマゴさんの二重構造論について、国家論の二重構造論としてもおかしいと思っています。具体的に言いますと、この二重構造論は、学問的でない俗説レベルのものでしかなく、結果として、国家と国民を分断し、軍国主義と国民を分断して日本をバラバラにしようとする、グローバリストや中国の策謀に不用意に乗せられているようにも見受けられます。

 国家の二重構造とは、共同体としての国家総体を意味する広義の国家と、その国家が国家としてまともに機能できるように統括する実行機関としての狭義の国家との二重構造が存在し、しかもそもそも二重構造というからには、その両者は本来一体のものであり、かつまたそれは一個の人間体のごとき体系性を有するものであるというのが、学問的な国家の二重構造論です。

 かかる学問的な二重構造論からするならば、タマゴさんの言うような、中枢はやる気がないのに末端の手足の方が中枢の嘘を本気で信じてアジアの独立戦争を闘う、ということは空想的にはともかくも現実的にはまずあり得ない話です。では、なぜそういうことが起きたのか、それは国家の中枢も人類の本流らしく戦っていたということです。その証拠が、大東亜宣言であり、大東亜会議における東条英機の演説です。それを否定しようとするタマゴさんが、これを無視して認めようとしないことが、何よりの証拠と言えます。なぜなら、自尊心が強く自分を護ろうとする気持ちの強い人間は、本能的に都合の悪いことは避けようとするからです。つまり、タマゴさんが無視しているということは、逆にそこがとても重要だということです。これは、南ク先生がヘーゲルの弁証法の核心ともいえる三項の論理を無視して触れようともしないこと同様にです。

 問題は、「理性の狡知」のところでもふれていたように、国家も日本精神も「理性の狡知」と同様に、それ自体が直接に姿を現さずに一見自由気ままに運動しているように見える個々人の認識の運動として現象するということです。つまり、中には不良品も混ざってしまうということです。事実を細かく精査しようとするとどうしても、そういう不良品が目についてしまって、タマゴさんのように日本精神なんて大したことはない、となってしまうのです。

 私のように、俯瞰的にみると、そうした細かな事実は消えて見えなくなるので、日本精神の成し遂げた歴史的・医大な事実・業績を素直に見て取ることができて、それを正当に評価することができるので、日本がアジアを解放したと断言できるようになるのです。

 さて、いよいよtadaさんが提起してくれた問題の検討に移りましょう。まず、tadaさんの主張を見てみますと
>そういう意味で征服自体に反対です。押しつけの同化政策を教育と錯誤している考え方にも反対です。教育は国家―内―問題 民族同化政策は国家―間―問題です。同化政策は国家の問題を越える対国家の問題だからです。難民問題・移民問題など 戦争・外交問題なのです。台湾 朝鮮 満州 北支と続いていく地政学的陣取り合戦の<征服>の流れを 私は帝国主義と呼んでいるのですが 天寿堂さんの場合は 同じ帝国主義的国家でも英米と違う差異を日本に見いだして 評価しているわけです。私にはその違いが聖戦を標榜するような 人類史上の金字塔のような意味あいをアジア・太平洋戦争で読み取ることは 今もできないのです。軍首脳にはグランドデザインといえる戦略はなく 行き当たりばったりの政策しかない そんな国家の民族解放戦争云々はスローガンであるとしか思えません。波多野澄雄先生の研究でもやはり 実行されなかった事実でしかありませんでした

 tadaさんの冷静な計算は、70年たった今だからできる話であって、当時の切羽詰まった状況の中で果たしてできるでしょうか?私は決して朝鮮併合を間違っていたとは思いませんし、征服自体も完全否定はしません。大事なことは本流らしくあるか否かです。アレキサンダーは、征服地で師匠のアリストテレスの学問の教育を施しました。その本流の血筋を引く欧米の帝国主義諸国や共産主義国は、全く本流らしからぬ征服の実態しか示しませんでした。ところが、日本は本家の学問を十分に自分のものにする時間が充分になかったにもかかわらず、自然成長的に本流らしい統治・教育を施しました。だから、大東亜戦争が勃発したときに民度の低い事大主義で利己的な朝鮮人も、日本人としてよろこんで戦いに志願していったのです。残念ながら、日本が負けてしまったために、瞬く間に元の朝鮮人に戻ってしまいましたが、あのまま日本が勝っていたならば、朝鮮人も日本人になっていた可能性は十分にあると思います。

 後半部分の反論はすでにうえでしてありますので、省略します。

ですから 
>マルクスは<征服>を3種類に分けています。1,征服民族が征服された民族を征服民族自身の生産様式に従わせた場合。2,旧来の生産様式をそのまま存続させて貢納で満足する場合3、征服民族と被征服民族のとの間で交互作用がおこり、それによってひとつの新しいもの、ひとつの総合ができあがる場合 (マルクス 経済学批判 p289 国民文庫 )この分類でいくと 大英帝国・大日本帝国は1に該当します。3はアレクサンダー大王によるペルシャ帝国征服・遊牧民国家による漢人国家征服ですね。

 この規定についても、「大英帝国・大日本帝国は1に該当します。」と日本と英国とを同列に見るのは反対です。たしかに両者とも「征服民族が征服された民族を征服民族自身の生産様式に従わせた場合」と言えなくもありませんが、その内実を見ると、イギリスの場合は、その民族の生きていくために必須な生産様式を破壊する形で征服民族の生産様式に必要な一部分のみを押し付けるのみで、その社会が発展するために必須なインフラ整備も教育も行われておりません。結果として結果として、その社会が破壊されて多くの死者を出しました。これに対して日本の場合は、その社会が発展できるようにインフラ整備をし、教育も施して税金も本土より安いというその社会の発展に結び付くものでした。これ程の差があるのに、同じに分類されるというのは、その分類法がおかしくありませんか?

 もう一つ、「3はアレクサンダー大王によるペルシャ帝国征服・遊牧民国家による漢人国家征服ですね。」これについても、中身が正反対で同列に論ずべきものではありません。というのは、「遊牧民国家による漢人国家征服」は、征服民族が自らの生産様式を被征服民族に押し付けることが不可能な条件のもとにあって、、文化のレベルも低い征服民族が被征服民族に合わせざるを得なかった場合と、アレクサンダー大王の征服のように、最先端の学問をもって、その学問の論理にしたがって、目的意識的に征服民族との融合を図る場合とでは、次元が全く違うということです。これは日本朝鮮統治と同質性を持つものです。日本の場合は、相手に融合すべき文化がほとんどなかった結果として、一方的に日本の文化を相手に融合させることになっただけで、本流に相手を同化させるという意味では同じとみて良いと思います。


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[2524]
タマゴ - 2017年01月05日 (木) 19時49分

>ここが、アジア諸国の自分の国の独立を最優先に考えていた人たちと、日本の軍部との間にすれ違いが生じてしまった原因だと思います。ですから、私はこのことをもってタマゴさんのように日本の軍の指導者はダメだとは思いません。

何度も提示している「大東亜政略指導大綱」には、資源産出地帯であるインドネシアを(植民地化を通り越して)日本領化する方針が記されています。
また、なぜ木村強が産油国ブルネイに“県知事”として赴任したのかと言えば、ブルネイを“日本国ブルネイ県”として、日本領化してしまったからです。
(勿論、国際的には認められていません。)
フィリピンは、もともとアメリカから独立の約束を勝ち取っていましたから、日本も独立を認めない訳には行きませんでした。
ビルマは少々特殊で、イギリスの援蒋ルートとして機能していた関係から、独立紛争を惹起することによりそのルートを遮断する目的があったのです。
軍上層部は、重光らの大義名分の再定義に渋々ながら同意したものの、将来的にアジア各国を独立させようという明確な方針はありませんでした。
天寿堂さんが考えるような、考えのすれ違いではないのです。

右派が大東亜戦争を聖戦と呼ぶ根拠としては、“アジア解放”という大義名分の再定義を挙げるのが普通でしょう。
しかし、その論拠が不確かなものである以上、私には大東亜戦争が聖戦と呼ぶに値するとは思えません。

Pass

[2526]
タマゴ - 2017年01月05日 (金) 21時03分

>私の言う日本の精神とは、日本の国家の精神であって、そこに軍部の指導部も国民もありません。それらの総体としての精神です。ですから、木村氏の行動はまさに日本精神の発露としてのものであったといえるのです。また、同時に軍部は軍部としての論理性にしたがって方針を出して動きます。これもまた日本精神の発露です。つまり、その軍部が木村氏と対立することがあったとしても、それらすべてが日本精神の発露といえるのです。ついでに言えば、重光氏が戦争の反対していたとしても、敗色膿区となった時点で日本の行く末を考えて大東亜宣言や大東亜会議を主導するという行動に出ましたが、これも日本精神の発露に他なりません。このように私は、タマゴさんのように分断して考えようとはしません。

天寿堂さんの唱える“日本精神”には大東亜戦争期の愚将どもの精神性も含まれるという。
戦地に芸者を呼んで遊び呆けたり、部下を置き去りにして敵前逃亡したり、他者に責任を擦り付けたり、
そんなクズどもも持ち合わせているという精神性に、何の価値があるというのでしょうか?
私は、欧米化・一神教化する以前の日本に存在した伝統的精神性(武士道など)には惹かれるところがありますが、
天寿堂さんの唱える“日本精神”なるものには全く興味を持てませんし、それが人類の本流だなどとは認められないですね。

Pass

[2527]
タマゴ - 2017年01月05日 (金) 21時36分

>私は、タマゴさんの二重構造論について、国家論の二重構造論としてもおかしいと思っています。具体的に言いますと、この二重構造論は、学問的でない俗説レベルのものでしかなく、結果として、国家と国民を分断し、軍国主義と国民を分断して日本をバラバラにしようとする、グローバリストや中国の策謀に不用意に乗せられているようにも見受けられます。

何故ここで唐突にグローバリストやら中国やらが登場するのか。
天寿堂さんの脳ミソは果たして大丈夫なのかと心配になります。

>国家の二重構造とは、共同体としての国家総体を意味する広義の国家と、その国家が国家としてまともに機能できるように統括する実行機関としての狭義の国家との二重構造が存在し、しかもそもそも二重構造というからには、その両者は本来一体のものであり、かつまたそれは一個の人間体のごとき体系性を有するものであるというのが、学問的な国家の二重構造論です。

この「国家の二重構造論」なるものが、南郷派による定義なのか天寿堂さんが決めたことなのか知りませんが、いずれにせよ、私はそれを前提にしていないどころか些かも意識していません。
私の述べている大東亜戦争期の認識の二重構造(ないしは三重構造)というのは、それとは全く別の話です。
二重構造という語は物体の構造などにも普通に使われている語であって、別に南郷派や天寿堂さんの占有物ではないことに留意して頂きたい。

例えば、高額な自己啓発セミナーの講師と受講者とでは、場を共有してはいても、両者の認識は同一の方向を向いてはいません。
コントロールする(利用する)側とされる側という二重の認識の関係性です。
もし受講者側が講師も自分達と認識を共にしていると思ったとしたならば、講師側としてはしてやったりです。

戦争を遂行する際にも、戦争主導者と一般国民との間で認識の二重構造が構築されることがあり得る、と私は述べているのですよ。
大東亜戦争期の日本が、まさにそれであるということです。

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[2528]
タマゴ - 2017年01月05日 (金) 22時19分

>タマゴさんの言うような、中枢はやる気がないのに末端の手足の方が中枢の嘘を本気で信じてアジアの独立戦争を闘う、ということは空想的にはともかくも現実的にはまずあり得ない話です。

私は「中枢はやる気がないのに末端の手足の方が中枢の嘘を本気で信じてアジアの独立戦争を闘う」などと述べたことはありません。
大東亜戦争のうち、明確な大義名分自体が存在しなかった支那事変(日中戦争)はともかくとして、
対米英戦(太平洋戦争)に於いて、戦争主導者は生々しい理由で開戦に突入したのに対し、末端の兵士や国民は自衛戦争ないしは後の亜細亜解放という大義名分を信じた方々も少なからずいらした。
私はそう述べたのです。

>その証拠が、大東亜宣言であり、大東亜会議における東条英機の演説です。それを否定しようとするタマゴさんが、これを無視して認めようとしないことが、何よりの証拠と言えます。

それについては既に何度も論じているではありませんか。
まあ、せっかくなので幾らか角度を変えて補足しておきましょう。
東條は、対米英戦開戦の際にも、天皇(実際は署名しただけですが)による開戦の詔勅を受け、ラジオ放送で演説を行っています。
ここでは、大雑把に言えば、米英が東亜(日本の勢力圏)を乱そうとしており戦わざるを得なくなりましたので皆さん共に力を合わせて頑張りましょう、という趣旨のことしか述べていません。
亜細亜解放やら独立などとは述べていない。
それから2年後の大東亜会議に於ける東條の演説内容は、重光らが中心となって作成した大東亜共同宣言を膨らませたものへと一変している。
なぜ変わったのかといえば、官僚に書かせたものを読んだだけだからという穿った見方もできるでしょうが、より本質的には、重光や昭和天皇による大東亜戦争の再定義の活動があったからに外なりません。
東條は、戦地での民心掌握を目的として、それに同意しただけです。

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[2529]
タマゴ - 2017年01月05日 (金) 22時56分

>中には不良品も混ざってしまうということです。事実を細かく精査しようとするとどうしても、そういう不良品が目についてしまって、タマゴさんのように日本精神なんて大したことはない、となってしまうのです。

不良品が少々混じっているということではなく、
戦争主導者が生々しい帝国主義政策を推し進めたのであり、
木村強や今村均のような末端の傑物が軍上層部の意向に必死に抵抗しながら戦地に寛容な政策を施したのです。
それが実態ですよ。
そのような末端の努力でもって主導者の愚行を覆い隠そうとするから本質を見誤るのだと述べているのです。

>私のように、俯瞰的にみると、そうした細かな事実は消えて見えなくなるので、日本精神の成し遂げた歴史的・医大な事実・業績を素直に見て取ることができて、それを正当に評価することができるので、日本がアジアを解放したと断言できるようになるのです。

天寿堂さんが見過ごしているのは細かな事実ではなく、歴史の大筋・本質です。
何度も繰り返し述べていますが、天寿堂さんのように多国を貶し自国を讃える偏見に満ちた人というのは、アメリカにも中国にも北朝鮮にも、掃いて捨てるほどいるんですよ。
天寿堂さんの場合は日本本流論なるものによって、アメリカの天寿堂さん的人々は自由と民主主義によって、中国の天寿堂さん的人々は唯物弁証法によって、その偏見を正当化しようとする。
天寿堂さんと同様に、アメリカ人の天寿堂さん的人々も自分らの占領によって日本はファシズムから脱して著しい発展を遂げることができたと考えているのです。
天寿堂さんのモノの見方はそういう次元なのですよ。
それもこれも、世界史を真面目に学ばず、歴史を概観する視点が確立されていないからです。
自国への拘りと他国への偏見を超越したところに視点を置くことが必要なのです。
それでなければ人類史に通底する本質を看破することなどできようはずがありません。

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[2545]
愚按亭主 - 2017年01月11日 (水) 22時14分

>軍上層部は、重光らの大義名分の再定義に渋々ながら同意したものの、将来的にアジア各国を独立させようという明確な方針はありませんでした。天寿堂さんが考えるような、考えのすれ違いではないのです。

 軍は、欧米の帝国主義との戦いに勝利するするための組織です。しかもその相手は日本の総力・アジアの総力を結集しなければ勝てないほどの強大な相手です。ですから、まずはそれに集中するのは、当然のことです。そのすれ違いを指摘したのです。タマゴさんの挙げた事実は、すべてそのことを示すものに過ぎません。ですから、何ら反論になっておらす、むしろ私の説を補強するものばかりです。

>右派が大東亜戦争を聖戦と呼ぶ根拠としては、“アジア解放”という大義名分の再定義を挙げるのが普通でしょう。
しかし、その論拠が不確かなものである以上、私には大東亜戦争が聖戦と呼ぶに値するとは思えません。

 私には、タマゴさんがここでわざわざ右派と対象を限定するのか理解できません。何故なら、大東亜会議の席上において、当事者のしかも首相である東条英機が、その論拠も明快に「破邪の聖戦」であることを宣言しているからです。それを否定するためには、そこに書かれている論拠を、明確な根拠を挙げて否定できなければ、聖戦でないと断ずることはできないはずです。これまでのタマゴさんの主張にはそれに当たるものが見当たりません。

>戦地に芸者を呼んで遊び呆けたり、部下を置き去りにして敵前逃亡したり、他者に責任を擦り付けたり、そんなクズどもも持ち合わせているという精神性に、何の価値があるというのでしょうか?
私は、欧米化・一神教化する以前の日本に存在した伝統的精神性(武士道など)には惹かれるところがありますが、天寿堂さんの唱える“日本精神”なるものには全く興味を持てませんし、それが人類の本流だなどとは認められないですね。

 私は大東亜戦争を遂行した日本精神が本流である理由を、はっきりと根拠を示して説いております。それに対する、直接の反論もなしに、自分が見たいところだけ挙げて、日本精神そのものを愚弄するタマゴさんの見方こそ、木を見て森を見ない、象の一部を撫ぜて気持ち悪いと思う盲人の群れと同じだと思います。大事なことは、人類の歴史において日本精神が何をなしたか、であると思います。

>何故ここで唐突にグローバリストやら中国やらが登場するのか。
天寿堂さんの脳ミソは果たして大丈夫なのかと心配になります。

 タマゴさんの二重構造論が、日本国民と軍国主義を分断する中国や、国家と国民を分断するグローバリズムと同じ論理構造だということを言いたいのです。それらは何らも学問的でないということであり、日本の国家を解体しようとする策謀のもとに唱えられているのと、変わらないのだということを言いたいのです。

>戦争を遂行する際にも、戦争主導者と一般国民との間で認識の二重構造が構築されることがあり得る、と私は述べているのですよ。大東亜戦争期の日本が、まさにそれであるということです。

 これこそまさにタマゴさんが、国家というものが分かっていないことを物語っています。そんな二重構造はなかったからこそ、日本は、強大な欧米列強を相手に戦いを挑むことができたのであり、結果として人類の歴史を大きく動かすことができたのです。タマゴさんの言うような二重構造があったら、できなかったことでしょう。当時の日本は本当の意味で一丸となっていたのです。軍部も国民も真剣に国のため日本のために戦ったのです。もちろん完ぺきだったとは言いません。しかし、その中に少々不良品が混ざっていたからといって、日本という国がなしたことを否定するべきではないと思います。大東亜戦争の意義を否定するべきではないと思います。それが本当の国家の二重構造なのです。日本はその国家の二重構造をまともに創り上げた唯一の国なのです。だから、タマゴさんの二重構造論は誤りだというのです。もちろん、現在の日本ならば成立する可能性はありますが、そういう現在の日本の姿から、おそらく昔もそうだったろうと考えたのでしょうが、しかし、それは誤りです。

>亜細亜解放やら独立などとは述べていない。

 開戦の詔にそれがないのは当然です。この開戦は、実質的に日本の側から仕掛けたものではないからです。つまり、アジア解放を直接に目指して戦いを仕掛けたものではないということです。追い詰められて追い詰められて、やむを得ず自己防衛のために開戦に踏み切ったのですから、それは当然のことで、それをもって聖戦でないとか大東亜戦争の意義を否定する理由にはなりません。その後の大東亜会議の演説でようやく自分たちの起こした戦争の意義を客観的にとらえ返すことができたのです。そういうことはありうることで、タマゴさんのように、歪んだ捉え方をしない限り、誰が読んでも大東亜戦争は聖戦だったということがその根拠から理解できるものです。タマゴさんはそれを認めると自分のこれまでの主張が崩れるものですから、それを否定するのに躍起となって書けば書くほど、かえって誰が読んでもタマゴさんの方が異常な悪意が感じられる説ひどい内容になってしまっているのですが、ご当人はそのことに気づいていないようです。

>戦争主導者が生々しい帝国主義政策を推し進めたのであり、木村強や今村均のような末端の傑物が軍上層部の意向に必死に抵抗しながら戦地に寛容な政策を施したのです。
それが実態ですよ。そのような末端の努力でもって主導者の愚行を覆い隠そうとするから本質を見誤るのだと述べているのです。

 軍部と木村氏の対立は、軍部は戦争を遂行するためという立場からの方針と、一方、木村氏は県知事という民生を推進する立場からの対立であって、それが総体としての日本精神の実力だということです。ですから、戦時中であり、日本の領土の一部になっていたにもかかわらず、その総体としての日本の統治は、ブルネイの国家としての発展に大きく寄与していたという事実の方を重視すべきなのに、タマゴさんはどうしてそれを認めようとせず、否定的にしか捉えられないのか、これでは、日本の正しい客観的な評価ができようはずもありません。

>天寿堂さんが見過ごしているのは細かな事実ではなく、歴史の大筋・本質です。

 おかしいですね(笑)これはそっくりそのままタマゴさんに当てはまることです。だから、タマゴさんには日本の正しい姿が見えないのです。私の説は、偏見でも何でもなく、事実であり、人類の学問の歴史を踏まえた、正真正銘の学的な一般論であり、人類の歴史の発展に大きく寄与する学的普遍性を持つ論です。だから、タマゴさんがいくら事実をもってきてもその事実をもって反対に論破されてしまうのです。

 日本が本物の本流である証は、戦争に負けてもアジアを解放し、人種差別が良くないことだということを人種差別の一番激しかった欧米の白人たちでさえも表面上は言わざるを得なくさせ、戦争で打ちのめされアメリカの属国状態にされて、えげつない収奪を繰り返されても、経済的な大国としてのし上がり、世界の中心にい続けている現状がそれを物語っています。しかし、このままでは日本はその本流としての使命を果たすことは不可能です。日本が、一日も早く国家として自立し、世界を学問力をもって導いていけるようにならなければ、人類は本当に不幸になってしまいます。

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[2546]
タマゴ - 2017年01月12日 (木) 09時51分

>軍は、欧米の帝国主義との戦いに勝利するするための組織です。しかもその相手は日本の総力・アジアの総力を結集しなければ勝てないほどの強大な相手です。ですから、まずはそれに集中するのは、当然のことです。

これは、どの時期のことについて述べているのでしょうか?
日清戦争の時期であれば清は同じ亜細亜の国ですから丸で成り立ちませんし、日露戦争の時期も日英同盟によりイギリスの東亜に於ける権益を認めており反欧米・反帝国主義とは言えません。
満州事変〜大東亜戦争期も、中国を主要な相手として戦っており、日本軍として“アジアの総力を結集”するなどという目標があったとは考えられませんよ。
要するに、事実関係を全く無視した空想上の話に過ぎないということです。

>タマゴさんの挙げた事実は、すべてそのことを示すものに過ぎません。ですから、何ら反論になっておらす、むしろ私の説を補強するものばかりです。

天寿堂さんが行き詰まると条件反射的に発する文句ですが、言っている意味が分かりません。
具体的に何を指しているのか挙げてもらえますか。
少なくとも、私は事実関係を客観的に述べただけであり、他人の個人的な妄想を補強した覚えはありません。

忙しいので、続きはまた後で。

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[2547]
タマゴ - 2017年01月12日 (木) 11時19分

>私には、タマゴさんがここでわざわざ右派と対象を限定するのか理解できません。

戦時中ならともかく、当時の客観的検証が進んだ今日に於いて、未だに大東亜戦争が聖戦であったと本気で思い込んでいるのは、右派の中でも特殊な連中だけだからです。
宗教的信条に基いて歴史を歪めて論じている宗教右派、左派(サヨク)から転向してきた転向右派、あとは、それらに付和雷同しているだけのネトウヨくらいなものでしょう。
(宗教的信条も左翼経験も無い)普通の保守系の人なら、歴史的事実に基いて論理的に説けば、大抵は、それも一理あるなと理解を示してくれます。
しかし、歪んだ歴史観を宗教的信条としてしまっている連中には、どれほど理を尽くしても絶対に通じない。
左派(サヨク)から転向してきた連中も、主張の内容を入れ替えただけで思考形態は昔のままガチガチなので、話が通じない。

天寿堂さんや青雲さんはサヨク時代があるそうなので、後者なのであろうと思いますね。

>それを否定するためには、そこに書かれている論拠を、明確な根拠を挙げて否定できなければ、聖戦でないと断ずることはできないはずです。これまでのタマゴさんの主張にはそれに当たるものが見当たりません。

この箇所は、天寿堂さんが、なんとかしてタマゴをやっつけてやろうという低次元の目的しか持たず、私の過去の投稿を真面目に読んでいなかったことの顕れでしょう。
そのことについてしか論じていないと言ってもよいくらいなのに。
これではtadaさんが呆れて匙を投げてしまうのも仕方ありません。
東條の演説の原稿が重光を中心として作成された大東亜共同宣言を膨らませたものであることは明白で、しかも大東亜会議を開催するに至った経緯も波多野教授の論文に詳述されています。

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[2550]
タマゴ - 2017年01月12日 (木) 17時54分

>私は大東亜戦争を遂行した日本精神が本流である理由を、はっきりと根拠を示して説いております。

繰り返しますが、私は、武士道精神など日本の本来の伝統的精神文化については高く評価しています。
欧米化(文明開化)以後がダメだと述べているのです。
これ迄にも例を挙げてきたように、大東亜戦争期にも軍の帝国主義的方針に必死に抵抗した人物も存在しますが、あくまでも傍流でしかありません。

>それに対する、直接の反論もなしに

私は、これ迄に天寿堂さんの根本的誤謬を指摘するために論を尽くしてきたようなものです。
それを“直接の反論もない”などと述べるとは、どういう読み方をしてきたのかと思います。
真面目に書いた内容について、そんな出鱈目な読み方をされたのでは、堪ったものではありません。

>国家と国民を分断するグローバリズムと同じ論理構造だということを言いたいのです。

グローバリズムとは何か分かって言ってます?
安倍政権が米国1%の言いなりになって推進してきた従米法案やTPPや積極的移民政策こそがグローバリズムの最たるものですよ。
私は、これ迄に一貫して安倍の新自由主義・グローバリズム政策に反対してきました。
安倍に近い右派がインチキなのは、大東亜戦争はアメリカが悪いと言いながら、従来法案に賛成したり、安倍の真珠湾への実質的謝罪行脚を支持したり、一貫性がまるで無いところです。

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[2551]
タマゴ - 2017年01月12日 (木) 19時07分

>その後の大東亜会議の演説でようやく自分たちの起こした戦争の意義を客観的にとらえ返すことができたのです。

ですから、東條の演説の原稿とは、重光らが中心となって戦争の大義名分を再定義し、それを膨らませて作成したものだったのですよ。
それまでの戦争の経過を客観的にとらえ返して云々、ということではありません。

>誰が読んでもタマゴさんの方が異常な悪意が感じられる説ひどい内容になってしまっているのです

「誰が読んでも」と言う割には、天寿堂さんに期待をしていたtadaさんも、天寿堂さんの元生徒の自由びとさんも、天寿堂さんの主張に否定的見解を示しています。
ましてや一般の閲覧者の方々は、なおさら天寿堂さんの主張が腑に落ちないのではないでしょうか。

>軍部と木村氏の対立は、軍部は戦争を遂行するためという立場からの方針と、一方、木村氏は県知事という民生を推進する立場からの対立であって、それが総体としての日本精神の実力だということです。

その解釈は無理です。
もし木村や今村のような傑物ではなく、冨永恭次や武藤章のような当時の典型的な将校が赴任していたとしたら成り立たない話だからです。

Pass

[2552]
タマゴ - 2017年01月12日 (木) 22時21分

>私の説は、偏見でも何でもなく、事実であり、人類の学問の歴史を踏まえた、正真正銘の学的な一般論であり、人類の歴史の発展に大きく寄与する学的普遍性を持つ論です。

既に述べたように、学問の歴史云々の部分に関しては、積極的に賛意を示すつもりもありませんが、特に大きな異論もありません。
違和感があるのは、特殊な右派論者の本にかぶれて付け足したと思われる大東亜戦争に関する箇所です。

>だから、タマゴさんがいくら事実をもってきてもその事実をもって反対に論破されてしまうのです。

天寿堂さんが弁証法を看板に掲げながら弁証法的議論を避け続けていることを指摘してきましたが、この「論破」或いは別の所で用いた「論争」という語に、意識の次元の低さが如実に現れています。

>日本が本物の本流である証は、戦争に負けてもアジアを解放し、人種差別が良くないことだということを人種差別の一番激しかった欧米の白人たちでさえも表面上は言わざるを得なくさせ、

繰り返しますが、戦争主導者は、そういう目的のために大東亜戦争を起こしたのではないのですよ。
結果としてそのような面もあった、という論調であれば、無下に否定するつもりもないのですがね。

>戦争で打ちのめされアメリカの属国状態にされて、えげつない収奪を繰り返されても、経済的な大国としてのし上がり、世界の中心にい続けている現状がそれを物語っています。

アメリカの天寿堂さん的人々は、戦後日本の発展を、アメリカが日本を占領してファシズムを駆逐し自由と民主主義をもたらしたおかげであると考えている。
だからアメリカが戦争に勝ったのは必然だったのだと。
勿論そんな言い分は大間違いで、日本人自身が必死に頑張って国を発展させたのです。

先入観が強く狭い見識しか無い人は何処の国にでも居て、あたかもそれを普遍であるかのように声を荒げているということです。

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[2553] タマゴさんに欠落しているもの
愚按亭主 - 2017年01月13日 (金) 17時36分

 タマゴさんの議論を総じて眺めてみて一貫していえることは、タマゴさん自身が発した次の言葉に尽きると思います。「天寿堂(タマゴー愚按)さんが見過ごしているのは細かな事実ではなく、歴史の大筋・本質です。」これは素晴らしい発想であり、指摘です。こういう指摘ができるようになったところに、タマゴさんの大進歩を感じます。

 これを少しでも、「当時の客観的検証が進んだ今日に於いて、未だに大東亜戦争が聖戦であったと本気で思い込んでいるのは、右派の中でも特殊な連中だけだからです。」としている自分自身こそが、細かい事実に絡め捕られて本質が見えなくなってしまっていることに気づいて、客観的に自分自身を反省できたら、タマゴさんは大化けすると思います。ただ、残念ながら自分が述べた「歴史の大筋・本質」の論理のレベルが分からないために、私の言うことをどうしても自分のレベルに引き下げてしまって、自分の思い込みきめつけを一心に守るという宗教的偏向からしか私の説を理解しようとしない点が、惜しいところです。すべては、そこから発しています。

 一つつけ加えれば、「当時の客観的検証が進んだ今日」の「客観的検証」なるものが、事実レベルの即自的悟性に過ぎないもので、これだけでは到底真理たる資格を持たないしろものでしかないことは、すでに三項の論理で証明して見せたところです。

>私は大東亜戦争を遂行した日本精神が本流である理由を、はっきりと根拠を示して説いております。
と言う私に対して、タマゴさんは

「私は、武士道精神など日本の本来の伝統的精神文化については高く評価しています。欧米化(文明開化)以後がダメだと述べているのです。」と述べていることに対して、私はおおむね次のように反論しました。

 日本精神が本流だったからこそ、流入してきた先進的な西洋の学問を瞬く間に自分のものにして様々な発明をするという形で部分的に本家の学問を凌駕し、当時の世界最高の性能を持つゼロ戦をも作り出して、ドイツの名機と言われたメッサーシュミットをも寄せ付けずに無敵と言われた米軍のB17を役に立たなくしてしまい、その結果として、大東亜戦争を長引かせたことがアジア解放につながっていくことになりました。

 また、国家としても封建的な国家を瞬く間に近代的な立憲君主制の統一国家に創り上げたこと、これは歴史の本流の流れに沿うものです。だから、本流なのだと反論しましたが、これに対する直接的な反論はいまだにありません。こういう事実を「論破」と表現したのです。

 私は本流の定義をはっきりと示しております。それはヘーゲルの言う絶対理念(体系化された学問)へと向かう流れの中心をなすものです。本流の直系にあたる欧米の方は、すでにそれが学問から実用主義へと転落して本流の流れから脇へと逸れて行っています。現在、その学問の真の体系化へと向かう本流の流れがわずかに残っているのが、世界の中で唯一日本だけなのです。その学問が日本に流入してきたのがタマゴさんが言うところの日本精神が堕落したとする明治の文明開化の時代です。

 タマゴさんが本物の日本精神である武士道だけでは、日本は人類の歴史の扉を開く力はなかったことでしょう。時代の最先端の流れを吸収して日本精神が時代の最先端へと進化できたからこそ、、人類の歴史を大きく前進させることができたのです。タマゴさんが評価しない明治以降の日本精神が、国際連盟に、今日では常識となっている人種差別撤廃条約を提議し、賛成多数を獲得しながら議長であったアメリカ大統領のウィルソンによって葬り去られてしまいましたが、これなども本流である日本精神が人類の認識の発展を主導的にけん引していたことを示す一例です。

 では、日本がなぜ国家として幼児レベルの人治のアジア的国家の象徴のような支那の文化圏にありながら、本流的発展を実現できたのかと言いますと、それは鎌倉時代の北条泰時が承久の変において天皇勢力に勝利して革命を成功させ、、御成敗式目という法律を自力で成立させたことによって、人治のアジア的国家を脱することができたからです。その後、、織田信長が宗教勢力を一掃して日本流のルネッサンスを成就させて人間性の主体性の確立を実現したことが、明治期に近代国家への脱皮を可能とした要因と言えます。一方、そういう過程を経ることがなかった中国や韓国・北朝鮮ではいまだにその形式はともかく、実質はアジア的国家のままという実態があります。それを物語るのが、慰安婦像問題であり、朴クネ大統領のスキャンダル問題です。


>大東亜戦争期にも軍の帝国主義的方針に必死に抵抗した人物も存在しますが、あくまでも傍流でしかありません。
>その解釈は無理です。もし木村や今村のような傑物ではなく、冨永恭次や武藤章のような当時の典型的な将校が赴任していたとしたら成り立たない話だからです。
>東條の演説の原稿とは、重光らが中心となって戦争の大義名分を再定義し、それを膨らませて作成したものだったのですよ。それまでの戦争の経過を客観的にとらえ返して云々、ということではありません。

 ここで私が何故これらを取り上げたかと言いますと、私とタマゴさんとの論理の次元の違い、もっと具体的に言いますと、私は、森レベルの、国家意志・国家精神の本質的実体たる日本精神を論じているのに対して、タマゴさんは森から切り離してしまっている木レベルにすぎない個人レベルでしか考えられないために、私の言うことが分からずに見当違いの反論をしているに過ぎないということをお見せしたかったからです。

 そういうことは、これまでにも逐次的に説明してきましたので一一取り上げませんが、一点だけあえてつけ加えるならば、

日本が、

英国のようにインドから人頭税で徴収したインド人のお金で綿花を買って本それを本国の機械で安く作ってインドで売って、インドの手工業の織物業界を破壊して
「『世界に冠たる織物の町』といわれたダッカの人口は、わずかのうちに15万から3万に激減しました。インド総督ベンティングは、1834年にイギリス本国に送った年次報告に『世界経済史上、このような惨状に比すべきものはほとんど見いだせない。職工たちの骨がインドの平原を白色に化している』

 と書」かれているような植民地統治をしている国であるならば、木村氏の行いはタマゴさんの言うような例外中の例外として扱っても構いません。

 しかし、日本の朝鮮・台湾・満州の統治を見る限りにおいては、木村氏の行いは、決して例外ではなくその範囲内に過ぎないもので、これが日本精神だと言えるものです。

>グローバリズムとは何か分かって言ってます?

 グローバリズムとは、ユダヤ系の経済至上主義者の系統が、自らの世界支配を貫徹するために、邪魔な国家を解体して国民を社会性のないバラバラな個人へと堕落させようとするものです。そういう側面をもって人類の認識を改造するために創られたものが、ルソーの民主主義や、マルクス・エンゲルスの国家を解体する共産主義、および昨今流行りの人権主義、これらは一定の合理性を持ちながら、それを度外れに敷衍していくと国家の解体につながるものです。その一つの具体的な試みがEUでしたが、それが破たんしてその反動が表れているのが目下の世界情勢です。

 なぜ破たんしたかは、そのグローバリズムが真のグローバリズムではないからです。真のグローバリズムは、国家・社会のまともな発展・成熟の上に行われるべきもので、そのためには、まずそれぞれの国家・社会がまともな発展・成熟が図られなければなりません。それを成し遂げた世界で唯一の国が日本なのです。だから、グローバリストたちは日本を徹底的に解体しようとしてきたのです。しかしながら、それは完全には達成できませんでした。日本は相変わらず本流としての実力は維持できているからです。これからは、日本が主体性を確立して、真のグローバリズムに向けて日本が世界をリードしていかなければなりません。だから、まずは憲法をまともな国家足りうるものにしなければならないのです。

>これではtadaさんが呆れて匙を投げてしまうのも仕方ありません。

 tadaさんもはじめはタマゴさんと同じように私の大東亜戦争聖戦論を、右翼の一部の主張と同列に思っていたようです。しかし、私が本流論を展開すると、タマゴさんのように無視せずに、しかもさすがに滝村さんや南郷先生の本を読んでいるだけあって、タマゴさんのように、自分の決めつけを守りたい一心でなりふり構わず一蹴することができなくなったのです。それでしばらくは静観して推移を見守っているのだと思います。


 

Pass

[2554]
タマゴ - 2017年01月13日 (金) 19時33分

>こういう指摘ができるようになったところに、タマゴさんの大進歩を感じます。

私は最初から同じことを繰り返し述べているだけです。
それを天寿堂さんが、

「タマゴさんの見方こそ、木を見て森を見ない、象の一部を撫ぜて気持ち悪いと思う盲人の群れと同じだと思います。」
「日本国民と軍国主義を分断する中国や、国家と国民を分断するグローバリズムと同じ論理構造だということを言いたいのです。」
「タマゴさんのように、歪んだ捉え方をしない限り、誰が読んでも大東亜戦争は聖戦だったということがその根拠から理解できるものです。タマゴさんはそれを認めると自分のこれまでの主張が崩れるものですから、それを否定するのに躍起となって書けば書くほど、かえって誰が読んでもタマゴさんの方が異常な悪意が感じられる説ひどい内容になってしまっているのです」

などと、斜に構えて私の書き込みを最初から真面目に読んでいなかったから、そう感じただけのことです。

>自分自身こそが、細かい事実に絡め捕られて本質が見えなくなってしまっていることに気づいて、客観的に自分自身を反省できたら、タマゴさんは大化けすると思います

天寿堂さんがダメなのは、歴史の流れも細かい事実も、ろくに知らないか誤認しているのにも関わらず、真面目に勉強しようという気がまるで無いところです。
「袁世凱は満州など要らなかった」
等々、数えきれないほど大嘘を真顔で並べて赤っ恥晒してきたのに、
「タマゴさんはおお化けすると思います」
などとデカい顔している場合じゃないんですよ。
自分自身の無知を自覚して、せめて高校生レベルの世界史くらいは、虚心になって学ぶべきです。
話はそれからですよ。
天寿堂さんはスタートラインにも立てていないのです。

南郷派も、それぞれの専門分野の基礎を修めた人々が本を書いているわけで、何の基礎も無いド素人が唯物論だけを金属バットのように振り回して暴れているのではないでしょう。
駒の動かし方も知らないのに、真面目に将棋を学んでいる人に、
「お前は絶対真理を知らないから大化けできないんだよ!」
と喚いて何の意味があるでしょうか。
天寿堂さんのしていることは、それと同じです。

Pass

[2555]
タマゴ - 2017年01月13日 (土) 23時26分

>日本の朝鮮・台湾・満州の統治を見る限りにおいては、木村氏の行いは、決して例外ではなくその範囲内に過ぎないもので、これが日本精神だと言えるものです。

1895年の台湾併合・1910年の韓国併合と、30年以上も後のブルネイ併合を、完全に同列に論じることはできません。
また、台湾・韓国にしても、初めから寛容な統治政策が行われていたのではないことに留意すべきです。

台湾の併合については、歴史教科書では、下関条約により清から日本に割譲されたと書かれているのみですが、実は、それに反発する台湾人による激しい抗日武装闘争が展開されたのです。
日本はこれをより強大な軍事力で制圧しましたが、総督府による統治開始後も各地で住民による激しい抗日運動が展開されました。
これらの戦闘により、数千人の台湾人が戦死したともされています。
また、樟脳の生産拡大のために総督府は無主地を接収しましたが、これは高山族などの原住民にとって死活問題であったために、やはり激しい戦闘が展開されました。
あまりの抵抗の激しさに、大日本帝国政府は、台湾の欧米への売却も検討したとされています。
日本が武力による高圧的政策を寛容な方針に転換したのは、このような激しい抗日運動があったからなのです。
それも、第四代総督に就任した児玉源太郎の治世を待たねばなりませんでした。

韓国も同様の経過を辿っています。
日本の進出時から抗日運動は展開されていましたが、併合後は総督府が憲兵による取り締まり体制を敷きました。
これを武断政治といいます。
その方針に変化を与えたのが、1919年に民族自決を掲げて起こった三・一独立運動です。
大日本帝国政府はこれを鎮圧したものの大きな衝撃を受け、武力だけで朝鮮支配は不可能と判断し方針を寛容なものへと変更したのです。
これを文化政治といいます。

このように、日本軍がサンタクロースや足長おじさんのように現れて、台湾や韓国に寛容な政策を行ったのではないこと留意しなければなりません。
当初は欧米列強と同様の帝国主義政策が取られており、その方針を変化させたのは現地集合人による激しい抗日運動でした。

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[2556]
タマゴ - 2017年01月14日 (土) 00時53分

>日本精神が本流だったからこそ、流入してきた先進的な西洋の学問を瞬く間に自分のものにして様々な発明をするという形で部分的に本家の学問を凌駕し、当時の世界最高の性能を持つゼロ戦をも作り出して、ドイツの名機と言われたメッサーシュミットをも寄せ付けずに無敵と言われた米軍のB17を役に立たなくしてしまい

私は、日本人の頭脳の優秀性、勤勉性、忍耐力、手先の器用さなどを否定したことはありません。
しかし、それを無理やり

>大東亜戦争を長引かせたことがアジア解放につながっていくことになりました。

と、大東亜戦争がアジア解放のために起こした戦争であるという方向に持っていくのは、無茶にもほどがあります。

>国家としても封建的な国家を瞬く間に近代的な立憲君主制の統一国家に創り上げたこと、これは歴史の本流の流れに沿うものです。だから、本流なのだと反論しました

欧米列強に対抗するために、日本を中央集権国家に再編したこと自体を否定するつもりはありません。
最大の問題は、ユダヤ人の指導下で作成された帝国憲法が、文民統制の概念の無い欠陥憲法だったことです。


>これに対する直接的な反論はいまだにありません。こういう事実を「論破」と表現したのです。

天寿堂さんの主張のヘンテコリンな箇所は全て指摘し、訂正を施しています。
天寿堂さんが出鱈目な読み方をしているから、或いは(あまり言いたくありませんが)忘れっぽくなってきているから、そういう感想になるんですよ。

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[2557]
タマゴ - 2017年01月14日 (土) 08時17分

>グローバリズムとは、ユダヤ系の経済至上主義者の系統が、自らの世界支配を貫徹するために、邪魔な国家を解体して国民を社会性のないバラバラな個人へと堕落させようとするものです。そういう側面をもって人類の認識を改造するために創られたものが、ルソーの民主主義や、マルクス・エンゲルスの国家を解体する共産主義、および昨今流行りの人権主義、これらは一定の合理性を持ちながら、それを度外れに敷衍していくと国家の解体につながるものです。

マルクスとエンゲルスはユダヤ人ですが、ルソーはユダヤ人ではありません。
ルソーがユダヤ人だと記している文献は、モルデカイ・モーゼ著「日本人に謝りたい」くらいなものでしょう。
このモルデカイ・モーゼの正体は、ユダヤ人ではなく、久保田政男という日本人です。
ちなみにイザヤ・ベンダサンというのもユダヤ人ではなく山本七平という日本人。
Wikipediaの「覆面作家」という項目にネタばらしされています。
ユダヤ人がそう簡単に謝罪なんかするわけがありません。

また、マルクスはユダヤ人ですが、ユダヤの拝金主義を嫌悪して「ユダヤ人問題によせて」という本を著し、これを徹底的に批判しています。

どうも天寿堂さんや青雲さんは、ソースをろくに確認せずに、自身の嗜好に合うような俗説にダボハゼの如く喰い付いてしまう傾向があるようです。
そして、それにしがみ付き続ける。
排他的。独善的。融通が利かない。
サヨクからウヨクに転向して信条を入れ替えても、そういう思考形態自体は全く変わっていないのでしょう。
かつて私は、天寿堂さんや青雲さんの文章を見ただけで、「元サヨクの転向右派だな」と見抜きました。
サヨク経験の全く無い私の目には、“いかにも”だったからです。

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[2558]
タマゴ - 2017年01月14日 (土) 09時07分

NWOなどのグローバリズムの本質は、(ユダヤ系も含む)ごく少数の国際資本家・多国籍企業による、世界の寡占支配です。
安倍自民が可決したTPP法案とは、アメリカにケツ持ちしてもらう代わりに、ロックフェラーなどのグローバリストに日本の国益を上納する法案だったのですよ。
トランプに梯子を外されて赤っ恥晒してしまいましたがね。

また、グロール化の過程で各民族固有の文化は均質化され失われていくことが懸念される。
安倍政権は、既に、毎年20万人、50年間で1000万人もの移民受け入れ案の本格的な検討を開始しています。
民進や共産ですら、ここまでトチ狂った政策は提言していません。
安倍政権が「日本■!」と叫ばれるほど少子化対策に消極的なのも、移民受け入れを正当化するための布石だとも噂されています。

親子三代、米国1%の飼い犬として面目躍如といったところでしょう。

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[2559] タマゴさんの本質論の中身
愚按亭主 - 2017年01月16日 (月) 22時45分

>このように、日本軍がサンタクロースや足長おじさんのように現れて、台湾や韓国に寛容な政策を行ったのではないこと留意しなければなりません。当初は欧米列強と同様の帝国主義政策が取られており、その方針を変化させたのは現地集合人による激しい抗日運動でした。

 つまり、タマゴさんの言うところの「歴史の大筋・本質」というのは大東亜戦争の本質は、他の欧米諸国の帝国主義と同様の帝国主義的侵略だった、と言いたいわけですね。その自分の本質論だと思っている説を一生懸命守ろうとして、それに反する事実を見ないようにして否定し、軍部が資源獲得のために戦争を起こした、軍部はアジアの諸国の独立など考えていなかった、その軍部が渋々認めたのはアメリカが独立を認めていたフィリピンだけだ、また、石原莞爾の、欧米帝国主義の横綱とアジア諸国の横綱である日本との「最終戦争論」は、その宗教的教義からしてアジアの解放とは無縁である。さらに東条英機の大東亜会議での聖戦論も、重光の作った作文を読んだだけで本心ではないから欺瞞だ、というわけですね。

 こうしてタマゴさんのこれまでの主張と、その大本と考えられるタマゴさんの言ういわゆる「本質論」なるものを推測して並べて見てみますと、如何に不自然かが分かります。どう不自然かと言いますと、戦前の日本の取った行動に対して正当に評価すべきものを、あえて斜に構えて悪く悪く評価しようとする不自然さが目につくということです。たとえば、石原莞爾の最終戦争論に述べられている構図は、重光の作った大東亜会議での東条英機の演説の基本的構図と同じです。つまり、それは、日本の精神全体の共通認識だったといえることだと思います。それをなぜ正当に評価しないのか?その理由が、全く不自然極まりないということです。欧米とアジアとの対立構図において日本がアジアの雄として戦うという認識を、天皇中心の宗教だからダメとか、戦争に反対していた重光が戦争を正当化するために創った作文で、軍部の本音ではないからダメだとかいう立論は、おかしいと思います。

 それにしても、なぜ重光が書いたらダメなのですか?戦争に反対だった人間が戦争を正当化する自分の信条に反することを書いているから、本心でないから駄目だということなのでしょうか?重光も日本人ですから日本のために必死で大東亜戦争を客観的に評価してその正当性を立証したのではないですか?とりわけ大西洋憲章について批判しているところなどウィキに「イギリスはアジア・アフリカの植民地にこの原則が適用されるのを拒んでいた。ルーズベルトも実際には、『大西洋憲章は有色人種のためのものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ』と側近に語った[1]。この憲章に対して植民地支配の否定と有色人種に対する人種差別撤廃を掲げ、日本が提唱したのが大東亜共同宣言である。」とあるように、後世の我々から見ても実に見事です。そういう重光の誠意を、何故正当に評価できないのか?だから、不自然だというのです。

 冒頭に挙げたタマゴさんの論には二点おかしい点があります。一点目は、国を一体性をもって統一するためには、武力で反抗する勢力を平定する必要があるということです。そうでなければ国としての一体性を保てないのです。これは国内においても同様のことです。しかも、当時の人類の認識の発展段階は、まだ帝国主義が当たり前の段階であって、その時代性を無視して現代的な基準から日本を非難し、その行動を否定的に評価する態度は、正当な歴史の評価に値しないと思います。したがって、地元の抵抗する勢力を武力で平定したことをもって、他の欧米の帝国主義と同じだとして批判するのは少々短絡すぎます。現象的に同じだからと言って、即座に同列に論ずることはできないということです。

 大事なことはそのあとの統治のしかたの比較こそが大事なことです。なぜなら、その当時の支配勢力である白人の世界においては、アジアの国を侵略することは当たり前の時代であったからであり、その白人の帝国主義独占の体制に、白人でない日本が割り込んできたという事情を考える必要があるからです。白人の独占の体制が脅かされるということだけでも白人の独占が崩されるという意味があっただけでなく、その統治のしかたがまるで異なっていたからです。これこそがとても重要な点なのです。だから、先に挙げたインドに対する英国の植民地統治と、日本の朝鮮・台湾の統治のしかたを比較してその意味・意義を明確にする必要があるのです。それをタマゴさんは意識的に無視しています。欧米各国はここに触れてもらいたくないから日本も侵略した、日本も悪いことをしたと一生懸命宣伝したわけです。だから、タマゴさんは欧米列強の手先か?とつい思っていしまって、日本人なのかという疑問を発したわけなのです。

 次に二点目として、日本が朝鮮・台湾に対して行った統治が、その地域が社会として発展していけるような統治であったという事実を、タマゴさんは、「その方針を変化させたのは現地集合人による激しい抗日運動でした。」と、日本の主体性・日本精神の本流としての優れた性質を全く無視し認めようとしていません。つまり、平定後に日本的統治を始めたことを、日本ははじめからその予定だったとは見ようともせず、抗日運動が激しかったからやむをえずそうしたかのように書いています。そうでしょうか?こういう見方を、私は不自然だというのです。タマゴさんは、日本をとりわけ軍部を悪者にしたいので、それを認めたくないのです。それを認めると自分の軍部悪者説が崩れてしまうと恐れているのでしょう。そして、民間人の行った優れた業績は、日本がやったのではなくその個人がやったことで日本は関係ない。軍部が悪かったから日本も悪かったと言い張っている手前、日本がよかったなどとは言えないのです。だから、不自然になるのです。

 タマゴさんは、私を無知だとけなしますが、有知なタマゴさんは、その有知の中の腐った一部の木を見て木の大部分が腐っていると思い込んで、そのおかしな偏見をもって森全体が腐っていると決めつけて「本質」つかんだような気分に浸っているようです。どちらが質が悪いでしょうか?

>私は、日本人の頭脳の優秀性、勤勉性、忍耐力、手先の器用さなどを否定したことはありません

 私はそのような次元の低いレベルで日本精神を本流性を評価しているのではありません。タマゴさんはそれが分からないから、人類の歴史の大河における大東亜戦争の意義が分からないのです。

>「大東亜戦争を長引かせたことがアジア解放につながっていくことになりました。」と、大東亜戦争がアジア解放のために起こした戦争であるという方向に持っていくのは、無茶にもほどがあります。

 どうして「大東亜戦争を長引かせたことがアジア解放につながっていくことになりました。」が「大東亜戦争がアジア解放のために起こした戦争であるという方向に持っていく」ことになるのですか?ゼロ戦がB17を撃退し、アメリカの出鼻をくじいたことが三年半も戦争を長引かせることになり、アジアの白人宗主国軍を追い出して白人による植民地体制を破壊したことがアジアの解放に結び付いた、という客観的事実を述べただけです。「大東亜戦争がアジアの解放のために起こした」戦争であるということは述べていませんし、そうでないことは前にも説明してあるのに、何故そういうことになるのか。それが不自然だというのです。

>最大の問題は、ユダヤ人の指導下で作成された帝国憲法が、文民統制の概念の無い欠陥憲法だったことです。

 そんなものは最大の問題などではありません。枝葉末節の問題です。それが軍部の独走を招いたとでも言いたいのでしょうが、それは日本精神のエネルギーの然らしむるところで、それが人類の歴史を大きく動かしたのです。形式の問題ではなく中身の問題こそが重要な問題なのです。

>「これに対する直接的な反論はいまだにありません。こういう事実を『論破』と表現したのです。」→「天寿堂さんの主張のヘンテコリンな箇所は全て指摘し、訂正を施しています。」

 具体な「論破」の例に示した通り、私の言っているものは、まさに対立しているところのタマゴさんの言う「本質論」に対する私の「本流論」関するもので、それこそが肝であり要である問題です。タマゴさんの指摘したとするものは、みな事実レベルの問題であって、そういう事実レベルの問題は、私はいつも謙虚に認め訂正しております。それとこれとはまったく次元の異なる問題です。

>このモルデカイ・モーゼの正体は、ユダヤ人ではなく、久保田政男という日本人です。
>ユダヤ人がそう簡単に謝罪なんかするわけがありません。

 それはどうですかね。インターネット上ではそういう噂が流れているようですが、そういう噂を簡単に信じるとは、いつも慎重なタマゴさんらしくないですね。それとも特別な証拠でもあるのですか?「あとがき」に、モーゼ翁から話を聞いて、これをまとめてくれと依頼された、と執筆の経緯が書かれていますが、これから、日本人が書いたと解釈できますから、そういう噂が流れたのではないですか?この話が事実とするならば、その日本人の独創ではないのではありませんか。山本七平のような確実なものならばわかりますが、その山本七平にしても、元ネタはユダヤ人との話し合いようだったようですから、全くの独創と言うことではないのではありませんか。

>マルクスはユダヤ人ですが、ユダヤの拝金主義を嫌悪して「ユダヤ人問題によせて」という本を著し、これを徹底的に批判しています。

 マルクスは同時に、金融資本の基礎である資本主義を科学的に論理化して基礎づけています。そして何より、共産主義思想において国家を否定しています。そういう現象面よりも、肝心な点でグローバリストを支えているのです。これはマルクスがヘーゲルの観念論を否定して唯物論の立場から唯物史観を創り、物質的生活の生産を歴史の原動力にしたことによって、上部構造の軽視が起こり、国家の否定に行きついてしまったのでしょう。


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[2560]
タマゴ - 2017年01月17日 (火) 10時47分

イザヤ・ベンダサン、モルデカイ・モーゼ、ヤコブ・モルガン等がユダヤ人ではなく日本人であるというのは、情報通の間では定説ですよ。

まずおかしいのは、「日本人に謝りたい」の大筋が、本物のユダヤ人が史上最悪の偽書と呼んでいる「シオン賢者の議定書」の内容を踏襲していることです。
モルデカイ・モーゼの“ユダヤ人の長老”という設定も、ここから採ったものと思われます。
しかし、本物のユダヤの“長老”なら、尚更このような内容の本は書かないでしょう。
また、日本人でも分かりにくい「國體」「八鉱一宇」などの用語を駆使して右派思想を展開しているのも不自然です。
久保田政男は、日本人の右派のユダヤ陰謀論者ですので、彼が書いたとすれば、全て辻褄が合う。
実際のところ、この本の内容は、久保田が書いた別の本とほぼ同じ内容なのですよ。
また、モルデカイ・モーゼがアメリカによる日本統治に関わった要人という割には、いくらアルファベットで検索してもヒットしないし、
ウクライナ出身と設定されていますが、旧ソ連地域にモーゼという名字の人は普通はいないと言われています。

同業者の太田龍も、モルデカイモーゼは久保田のペンネームという見解を示しています。

ここまで言うと、天寿堂さんは、
「日本人が書いていても内容が正しければ関係ない」
と言うのでしょうが、その肝心の内容が噴飯もので、例えばエノラゲイが「天皇を屠れ!」というイディッシュ語であるというのも嘘八百なのです。

少なくとも、歴史学者でこの本を参考文献としている人は見たことがありません。
つまり、学問的には全く信用されていないということです。

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[2561]
タマゴ - 2017年01月17日 (火) 11時53分

私は、天寿堂さんが、
「グローバリズムとは、ユダヤ系の経済至上主義者の系統が、自らの世界支配を貫徹するために、邪魔な国家を解体して国民を社会性のないバラバラな個人へと堕落させようとするものです。」
と、あたかもマルクス・エンゲルスが国際ユダヤ資本家の命を受けて共産主義を唱えるようになった、というユダヤ陰謀論者の俗説を鵜呑みにしていることを批判したのです。
ロスチャイルドのような国際ユダヤ資本家が近現代世界史で大きな位置を占めてきたことは常識ですが、かといって、全てユダヤ人が一枚岩となって陰謀を巡らせてきたというのは、陰謀論者の妄想に過ぎません。
例えば、超正統派と呼ばれる、本当に真面目なユダヤ教徒の一部は、シオニズムには反対しています。

そういう俗説は、半世紀以上前のユダヤ陰謀論を焼き直しているだけです。
現在進行形のユダヤ事情は目まぐるしく変化しているのですから、そういう俗説ばかりに囚われていては、実情は見えてきません。

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[2562]
タマゴ - 2017年01月17日 (火) 14時24分

>ゼロ戦がB17を撃退し、アメリカの出鼻をくじいたことが三年半も戦争を長引かせることになり、アジアの白人宗主国軍を追い出して白人による植民地体制を破壊したことがアジアの解放に結び付いた、という客観的事実を述べただけです。

それが、大東亜戦争がアジア解放戦争であることの証拠ではなく単なる客観的事実である、というのであれば、
「だからどうした?」
と思います。

>それが軍部の独走を招いたとでも言いたいのでしょうが、それは日本精神のエネルギーの然らしむるところで、それが人類の歴史を大きく動かしたのです。形式の問題ではなく中身の問題こそが重要な問題なのです。

具体的に天寿堂さんが何を言いたいのか分かりませんが、
私は、文民統制が十全に機能していたら大東亜戦争は起きていなかった可能性もありうると思います。

>具体な「論破」の例に示した通り、私の言っているものは、まさに対立しているところのタマゴさんの言う「本質論」に対する私の「本流論」関するもので、それこそが肝であり要である問題です。

ここも天寿堂さんが具体的に何を言いたいのか分かりません。

まず、私は「本質論」などというものを唱えたことはありません。
客観的事実と正当な歴史理解からはアジア解放のために大東亜戦争を起こしたなどという特殊な右派の主張を導くことはできないし、
それを鵜呑みている天寿堂さんは、少なくとも歴史の本質が分かっていないことが確実である、と批判したのです。
天寿堂さんの日本本流論なるものも、後から取って付けたような大東亜戦争論以外は特に否定するものではありません。
(かといって諸手を上げて賛同するつもりもありませんが。)

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[2563]
タマゴ - 2017年01月17日 (火) 16時24分

>石原莞爾の最終戦争論に述べられている構図は、重光の作った大東亜会議での東条英機の演説の基本的構図と同じです。つまり、それは、日本の精神全体の共通認識だったといえることだと思います。

違います。
繰り返しますが、石原は、欧米を仏外の外道国とし白人を絶滅すべき悪鬼とする田中智学の特殊な日蓮主義と予言に基づき、日米決戦を前提とした満蒙領有を計画したのです。
彼の最終目標は天皇を中心とする世界統一であり、重光が大東亜戦争を再定義したようなアジア解放という視点はありません。
石原は、後に蒋介石との同盟も構想していますが、満州を切り取っておきながら同盟しようなどと手前味噌な話を持ち掛けても上手くいかなかったでしょう。
第一、石原は板垣征四郎に次ぐ関東軍のNo.2で日本軍全体のイニシアティブを握っていたわけでもなく、実質トップの東條とは鋭く対立していました。
因みに、石原自身は戦後この思想を捨てています。

>なぜ重光が書いたらダメなのですか?

繰り返しますが、私は、重光の戦後を見据えた大東亜戦争の再定義を評価しています。
アジア解放が開戦当初からの目標であったという主張が嘘であると述べたのです。

>地元の抵抗する勢力を武力で平定したことをもって、他の欧米の帝国主義と同じだとして批判するのは少々短絡すぎます。現象的に同じだからと言って、即座に同列に論ずることはできないということです。
大事なことはそのあとの統治のしかたの比較こそが大事なことです。

ですから、日本軍が武力侵攻した後の高圧的統治が成功せず、住民の激しい抵抗に合ったため、比較的寛容な政策に転換されたと述べたではありませんか。
欧米の植民地支配も同様の経過を辿っているのです。
(というか欧米の方が海外進出の先輩ですが。)

イギリスなども17世紀頃はインドなどの植民地から搾取する一方でしたが、19世紀後半からは現地に学校を多数建設しインフラを整備するなど積極的投資を行っています。
その方が現地住民の抵抗が少なく費用対効率の良い統治を行えることが分かってきたからですよ。
アジア・アフリカの主要鉄道は欧米が帝国主義地時代に建設したか計画したものが大半で、その総延長は日本が建設したものとは比較にならないほど長大です。
また、当時のシンガポール、マニラ、プノンペンなどは、当時の東京(江戸)以上に近代化された都市でした。
現住民の教育は効率的な植民地政策の基礎ですから、欧米列強も次第に力を入れていきました。
なぜ世界中で英語・仏語を公用語とする国が多いのかを考えれば、それが事実であると分かるでしょう。
産業の近代化に伴い、それに見合った現地人の知的階層の育成が必要になったためです。
(アメリカがフィリピンを手放したのは、時代の変遷に伴い、現地への投資に見合うだけの利益を上げることが難しくなってきていたことも一因としてあるのです。)
既に触れましたが、日本の海外統治や大東亜共栄圏の発想は、こうしたイギリスの植民地体制である英連邦の在り方を大いに参考にしたとされています。

イギリスの天寿堂さん的人々は、こうしたイギリス版文化政治を引き合いに出して
「我々の莫大な投資と近代教育によって植民地は発展できた」
「我々が日本などファシズム勢力に勝利したおかげでアジアに自由がもたらされた」
などと手前味噌なことをほざいているのですよ。
バカな連中です。
客観的視点が欠場している。

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[2564]
愚按亭主 - 2017年01月18日 (水) 10時19分

>日本軍が武力侵攻した後の高圧的統治が成功せず、住民の激しい抵抗に合ったため、比較的寛容な政策に転換されたと述べたではありませんか。欧米の植民地支配も同様の経過を辿っているのです。(というか欧米の方が海外進出の先輩ですが。)

 全くの現象論ですね。皮相的な見方です。というよりも自分が偏向していると思っている右派の主張と同じ内容は避けよう無視しようとするあまり、結果として欧米の日本悪者宣伝に洗脳されて自虐的に日本を悪く言うのと同じことになってしまうという逆の偏向した見方になってしまっています。欧米の植民地支配と同じだというのなら、ではなぜ、韓国・台湾よりも長く欧米によって統治されていたアジアやアフリカの諸国は、国として社会として長い間、発展できないでいたのですか?

 それは、欧米諸国は植民地として搾取することしか考えていなかったからです。教育も自分たちに代わって現地を統治する代理人を育てるための教育でしかなく、現地の社会が発展できるためのものではなかったのです。これに対して、日本の場合は、日本国の一部としてまともに発展できるような教育を施していました。しかもそればかりでなく、朝鮮ではまだ民族の言葉にもなっていなかった現地語であるハングル語を体系的に整備し、辞書までも作って、現地人の反対を押し切って教育しました。その結果、現在の南北朝鮮ではハングルが民族の言語として使われるようになったのです。もちろん、教育だけでなくすべての面にわたって整備したといっても過言ではないくらいです。しかも、税も本土よりは優遇していたそうです。ですから、戦時中の東亜日報の記事に、本土の賃金の高い炭鉱に働きに行くことが決まってお祝いの宴をやっている様子などが書かれていたそうです。だから、、多くの朝鮮や台湾の人々は自ら進んで戦争へ志願していったのです。ところが、戦後強制労働させられてひどい目にあったとか、韓国の慰安婦は軍の性奴隷にさせられてひどい目にあったということになっているのです。

 戦時中に軍が高圧的に出て住民の激しい抵抗にあったとは、具体的にどこのことですか?フィリピンのことではないですか?だとしたら、それは一般性を持たない特殊なケースです。インドネシアの隣のチモールでは、住民の通報によってオーストラリア軍の偵察兵を確保して偽情報を流して戦闘を回避して住民との良好な関係が保たれていたそうです。これもまあ、特殊と言えば特殊ですが、一般的に言って、戦闘中ですから、ある面で、住民の磯とそぐあないことも強制せざるを得ない事情もあったかと思います。しかし、だからと言って欧米諸国と同じだとはならないと思います。

>などと手前味噌なことをほざいているのですよ。バカな連中です。客観的視点が欠場している。

 日本が悪かったといえば、客観的視点だと思い込んでいる人たちも、逆の意味で同じです。

>彼の最終目標は天皇を中心とする世界統一であり、重光が大東亜戦争を再定義したようなアジア解放という視点はありません。
 
 それが石原流のアジア解放です。方法が違うだけで方向性は同じです。それのどこが悪いのですか?いずれ人類は一つの共同体・国家に統一されていく必然性があるのですから。現在の世界の混乱は、その生みの苦しみのようなものです。しかし、本当の意味でそれを実現するためには、人類は宗教を卒業して、学問を本有としなければなりません。その先頭に日本が立つべきなのです。宗教は、相対的真理の絶対化ですから、一部の真理を含んでおります。石原の場合、欧米の雄の米国とアジアの雄の日本との対決になるという予測は正しかった、と評価すべきです。


>石原は、後に蒋介石との同盟も構想していますが、満州を切り取っておきながら同盟しようなどと手前味噌な話を持ち掛けても上手くいかなかったでしょう。

 満州は支那のものではないから、手前味噌でもなんでもなく当然のことであり、欧米に対峙するアジア陣営として手を組もうとするのは正しい戦略です。欧米各国は、それを恐れていたので、、蒋介石をたきつけ支援して日本と戦わせたのですから・・・・。蒋介石に石原的視点がなかったことが、アジアにとって不幸なことでした。

>私は、重光の戦後を見据えた大東亜戦争の再定義を評価しています。アジア解放が開戦当初からの目標であったという主張が嘘であると述べたのです。
 
 誰も開戦当初からアジア解放を掲げていたと言っていません。だから、それを嘘だとタマゴさんが言っても何の意味もありませんし、それが大東亜戦争の聖戦性を否定する論拠ともなりえません。しかし、そういう目標をあえて掲げて居なくとも、当時の日本人はみなそういう意識は潜在的に持っていたことは、タマゴさんでも否定できないはずです。日本はアジアが次々に植民地化されていく現実を見て、富国強兵を掲げて国づくりをしたのであるからです。言葉尻だけにこだわって、大東亜戦争の意義をゆがめようとするタマゴさんの方がおかしいでしょう。重光の大東亜戦争の再定義を評価しているのであればなおのこと、タマゴさんの言動は一貫していません。スジが通っていないということです。

>私は「本質論」などというものを唱えたことはありません。
>少なくとも歴史の本質が分かっていないことが確実である、と批判したのです。

 「歴史の本質が分かっていない」と批判するということは、少なくとも自分の「歴史の本質論」を持っていなければできないはずです。しかし、言葉だけで批判することも可能です。つまり、批判のための批判でその「歴史の本質」なるものの中身が何もないということです。そういうことを言いたいのでしょうか?

 グローバリズム論については、稿を改めて論じます。

Pass

[2565]
タマゴ - 2017年01月18日 (木) 22時44分

>朝鮮ではまだ民族の言葉にもなっていなかった現地語であるハングル語を体系的に整備し、辞書までも作って、現地人の反対を押し切って教育しました。その結果、現在の南北朝鮮ではハングルが民族の言語として使われるようになったのです。

“ハングル語”なる言語は存在しません。
また、現地人の一般的民意としてハングル教育に反対したという事実もありません。

日本の文化庁の説明によれば、
ハングルとは、元々は訓民正音といい、1443年に李氏朝鮮の世宗が、民衆が学び使うことができる朝鮮語に合った文字体系として制定したものです。
その後、ハングルは民衆の書記手段として広まることになった他、支配層でもよく使われ、多数の古文書が現存しています。
日本人の林子平も「三國通覧図説」の中で、朝鮮に於けるハングルの普及に触れています。

開化期になると、民族意識の高揚とともにハングルが広く用いられるようになり、官報の一部にも採用されるようになります。
1894年には、勅令により公文書にハングルを使用すると定められました。
1906年に周時経が『大韓国語文法』、
1908年に『国語文典音学』を出版しました。
また同時期に、崔光玉の『大韓文典』、兪吉濬の『大韓文典』、金熙祥の『初等国語語典』、周時経の『国語文法』なども出版されています。
1907年7月には、朝鮮政府によって国文研究所が設置されました。

そして1910年に日本が韓国を併合します。
総督府は旧朝鮮政府の方針を一部引き継ぎ、公立学校では全教科が日本語により指導されることになりましたが、朝鮮語も必修科目とされ一定の時間が確保されました。
いわゆる文化政治です。
しかし、朝鮮教育令の発布を境として朝鮮語は必修科目から外され、履修時間も削減されていったのです。

これが、安倍政権下の文化庁HPや日本語版Wikipediaに掲載されているハングルの歴史の概要です。
韓国側の主張ではありません。
右派の主張が相当に手前味噌であると分かるでしょう。

さて、天寿堂さんの元生徒の自由びとさんのブログ記事の一部を転載して投稿したが反映されなかったので、再掲します。

「当時の日本は、他国の資源獲得の為にアジア諸国を侵略した、のである。
そして、その目的達成の為に「大義名分」を掲げ、「アジア各地から白人を追い払い、その間に学校を創り鉄道などのインフラを整備し軍隊まで作って…」なのである。
これは、その国の国民為に「欧米列強の植民地支配を打ち壊し」たのではなく、それは、速やかに日本の植民地支配を達成するの行為の結果である。
普通〜私利私欲の為の行動で、その結果が、たまたま他人の為になったからと言って、現実の社会では評価されない、モノである。」

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[2566]
タマゴ - 2017年01月18日 (木) 23時52分

>欧米の植民地支配と同じだというのなら、ではなぜ、韓国・台湾よりも長く欧米によって統治されていたアジアやアフリカの諸国は、国として社会として長い間、発展できないでいたのですか?

まず、日本の海外統治の歴史も欧米列強のそれと同様の経過を辿った、と述べましたが、では何が“同様”なのかと言えば、当初は高圧的方針であったのが、現地人の抵抗を受けて、寛容な方針に転換していった、ということです。
私は、天寿堂さんが曲解しないように、欧米列強も17世紀には搾取一方であったが19世紀後半からは植民地へ積極的に教育やインフラ投資を行った、とわざわざ書きました。
17世紀というのは日本では江戸時代で海外領土など持っていません。
後発の帝国主義国家である日本が初めて海外領土を持ったのは20世紀前半。
欧米列強の植民地政策の成功も失敗も学ぶことができる立場です。
敢えて失敗した方針を真似る必要などありません。

それでも、日本が台湾を獲得した際、未乙戦争という現地人による激烈な抗日闘争がありました。
台湾側の推計では、数万人の現地人が戦死したとも言われています。
そのような経過を経て、ようやく総督府は寛容な統治方針に転換したのです。
韓国でも武断政治から文化政治へと転換したのは、3・1独立運動があったからです。
つまり、日本は高圧的方針をとった期間が短かっただけで、欧米列強と統治の経過は同様なのですよ。

日本やドイツも敗戦によりアメリカの占領を受けましたが、その後、急速な復興を遂げました。
これはアメリカのおかげではなく、日本人やドイツ人が努力したからに他なりません。
台湾・韓国だけでなく、BRICsと呼ばれる新興諸国も、急速に発展することができたのは、その国の国民の努力があったからこそです。

>日本が悪かったといえば、客観的視点だと思い込んでいる人たちも、逆の意味で同じです。

ということは、サヨク崩れの転向右派は、若い頃も歳をとった今もバカってことですかね。

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[2567]
タマゴ - 2017年01月19日 (木) 00時53分

>それが石原流のアジア解放です。

だから、石原はアジア解放などとは述べていないんですよ。
ぐちゃぐちゃ言う前に世界最終戦論を読んで下さい。
天寿堂さんは、ヘーゲルをまともに読破したことも無いのにヘーゲルの威を借りたり、横着すぎるんですよ。

>それのどこが悪いのですか?いずれ人類は一つの共同体・国家に統一されていく必然性があるのですから。

と石原の日蓮主義的方向性を肯定しておきながら、

>本当の意味でそれを実現するためには、人類は宗教を卒業して、学問を本有としなければなりません。

などとは、意味が分かりません。
天寿堂さんが勝手に妄想と妄想を継ぎはぎしているだけじゃありませんか。
 
>満州は支那のものではないから、手前味噌でもなんでもなく当然のことであり、欧米に対峙するアジア陣営として手を組もうとするのは正しい戦略です。

だから、前に述べたように、満州が中華民國であるということは日本も正式に認めているんですよ。
この天寿堂さんの忘れっぽさはどうにもならないんでしょうけれど。

>誰も開戦当初からアジア解放を掲げていたと言っていません。だから、それを嘘だとタマゴさんが言っても何の意味もありませんし、それが大東亜戦争の聖戦性を否定する論拠ともなりえません。

ここも何が言いたいのか分かりません。
結果オーライってことですか?

>「歴史の本質が分かっていない」と批判するということは、少なくとも自分の「歴史の本質論」を持っていなければできないはずです。

運転の絶対真理を体得していると嘯きながらしょっちゅう事故ばかり起こしている人を、
「真理なんか分かっていない」
と批判する資格は、その辺の凡百の運転手でも持っているんですよ。

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[2568]
タマゴ - 2017年01月19日 (木) 08時08分

天寿堂さんが、かつて玄和内で「一般論の稲村」と呼ばれ他から浮いてしまっていたのは、先入観から結論を先に決めてしまい、そこから全ての現象を論じようとする姿勢によるのでしょう。
それは、おそらく生来の頑固な性格に加えて、認識が形成される時期にサヨク的原理主義的なモノの考え方を身に付けてしまったことに由来するのであろうと思います。
思想の中身が入れ替わっても、その思考形態はかわらなかった。
同じ元サヨクの青雲さんも玄和の幹部の中では浮き気味であると言う書き込みを掲示板等で目にすることがありますが、天寿堂さんはその青雲さんにすら独特の理屈っぽさを再三指摘されている。
年齢を考えると、この人格的傾向は治らないのでしょう。

元から右翼だった人というのは、こういう頭の使い方はしません。
「お前の言うことは理屈としては面白い。だが現実を見ろ。お前の理屈通りにはなっていないじゃないか。」
こんな感じで、グダグダと理屈をこることを嫌う。
元サヨクでサヨク的思考形態の天寿堂さんとは頭の使い方が真逆なんです。
だから、私は天寿堂さんの文章を見ただけで本物の右翼ではなく転向右派だと見抜いたのですよ。

それから、転向右派や宗教右派というのは、元から右翼だった人よりも極端な方向に行ってしまいがちな傾向があるようです。
田舎から上京してきた若者が、元から都民だった若者よりも流行りのファッションでガチガチに身を固めて、逆に田舎者丸出しだったりするのと似ているように思います。
白人を絶滅させろだなんて正気の沙汰ではない。
キリスト教原理主義者が、聖書に預言されているハルマゲドンを核戦争と見なし、これを実現化しなければならないと本気で思い込んでいるのと全く同じです。
アリストテレスの中庸とは真逆の発想。
中庸を嫌うのが彼らの特徴です。

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[2569]
タマゴ - 2017年01月20日 (金) 16時04分

天寿堂さんに知ってもらいたいのは、欧米列強と同様に、戦前の日本にも、植民地統治の諸政策を研究する「植民政策学」という学問が実在し、広く研究されていたという事実です。

近代日本の本格的な植民政策学は、日清戦争で初の海外領土として獲得した台湾において始まりました。
その際、総督府が、イギリス的な分離主義(自治主義)、フランス的な同化主義(同化画一主義・内地延長主義)のいずれかを統治形式として採用するかが議論されました。
つまり日本の目指す方向として、植民地を本国とは差別化する分離主義と、本国の一部化していく同化主義という二つの方針が存在したわけです。
後発の帝国主義国家であった日本は、この両方を研究し取り入れました。
大まかな傾向としては、海外進出初期は主にイギリスを手本にした分離主義、後期にはフランスを手本にした同化主義が主にとられたといえるでしょう。

いわゆる皇民化政策は、日本版同化政策として行われたものです。
(しかし、同化主義の本場フランスは遥かに徹底していました。
植民地住民にフランスの教育・文化を身につけさせフランス人化した結果、黒人の国会議議員や高級官僚まで登場することになったのです。
これをフランスの天寿堂さん的人々は、自分らの植民地政策が先進的だったからだと得意顔になっているわけです。)

台湾・韓国・満州が日本の植民地であったか否かは難しいところですが、少なくとも当時の日本は植民地として統治する方針で研究を行っていたということです。

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[2570] しばし
愚按亭主 - 2017年01月21日 (土) 08時28分

 昨日グローバリズムを原点から解き明かした力作・対策をアップしようとしたところ、ルーターがおかしくなっていてインターネットと接続していない状態でしたので、どこかに消えてしまって泡と消えてしまいました。志那楽はショックで手につかなかったのですが、気持ちを立て直し改めて書き直しますので、しばしお待ちを・・・・

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[2571]
tada - 2017年01月22日 (日) 15時28分

久しぶりです。韓国併合の経済的・戦略的意味を考えてみたいと思います。
 以前紹介したように 1920年代には石橋湛山が経済的負担を理由に植民地主義批判を展開しました。韓国併合反対者には伊藤博文がいます。伊藤博文にしても 経済的負担がネックでした。伊藤の場合 軍の満州への野望を封じるシビリアンコントロールのために 初代統監になっています。政策目標は韓国の文明化でした。民本主義と法治主義を韓国に根付かせ 韓国人たちによる自治を計画していました。実際には韓国人の愛国啓蒙運動が排日ナショナリズムを第一義としていたために 要の教育問題において 韓国人の協力を得られず そして皮肉なことですが 独立支持にもかかわらず 帝国主義の象徴として テロにあい 伊藤の理想は挫折していくのです。
 同化政策がむずかしいのは 民族意識が 国家意識として存在するために 戦争により民族が創出され 征服・支配されることで 民族意識が国家とともに消えるわけではなく より強く形づくられるということです。同化政策は民族意識をいかに緩和していくかにかかっています。主体性がある日系人のアメリカ人化をみても3世代の時間の経過が必要でした。他国による強制・その間に発生する移民カーストのような差別階級問題解消など100年はかかる難事業ではないでしょうか。それと合わせての近代化の問題ですが 近代文化とは「現実的 精神的自由」を構成原理にしているので 支配者層にも 被支配者層にも 思想的に日々つきつけられていくものになります。欧米の植民地支配者たちはそのことを知っていた。知っていたために 必要以上に植民地に責任を持たなかった、目をつぶっていたとも言えるでしょう。日本の場合 国家社会主義体制化のなか 皇民化と呼ぶ 同化政策を努めて 経営的には赤字のインフラの整備をも進めました。究極的には植民地主義を止揚することが目的だったのでしょうか。日本人化すれば 合法的とはいえ植民地化した負い目は消えます。しかし それはナチスによるユダヤ人絶滅と同じ 善意の朝鮮人絶滅につがなるものと言えるでしょう。
 韓国経済の近代化には興味深い点があります。近代は何かと簡単に述べれば それは富国強兵です。経済的・軍事的に強い国家国民の創成と言えます。(経済・政治に強い国民とは「自由・人権・民権」を社会構成原理に持っていることが当然のごとく前提です。)ご承知のように朝鮮半島は対ソ連・対中国の前線基地になるために 近代化=軍事化と まともな国家になる必要性があり 経済的には赤字ですが 軍事的投資として政治的に肯定されていました。  しかし韓国併合はこの点をみても戦略的・経済的には失敗でした。日本は韓国に軍政をひき 警察力の増強で民族運動を抑止し 教育・経済インフラ整備と 運営を見事に行い 韓国社会を統率していきます。欧米の植民地主義者と同じように 近代化した植民地が将来独立・反乱を起こす危険性を相当に意識し対応しています。 結局その軍事的投資は 泥沼の対中国戦と前線利用により 満州国ともども 財政破綻の原因となり回収できませんでした。陸軍は中国との和平撤兵が日本経済の破綻を意味することも知っていたために 戦争終結後の困難を予想しサンクコストを無視し続け 米国の了解による中国撤兵交渉は外務省のお役所的反対と独ソ戦の経過による米国側の変化で不可能になり 海軍主導のハワイ戦の短期決戦に賭けたのです。海軍は海軍で 陸軍の軍事的支配・独占化を防ぐために 海軍の出番であるハワイ作戦を推しだし 対ソ戦を妥協させ南方戦に誘導させたのです。日米戦実行のために 肝心の対ソ戦がなくなり 満州と朝鮮半島は 無用の長物化・諸刃の剣になったのです。(この省あっての国家なし。己が所属する組織を一番に思い 全体のことを二の次に考える思想。小中華思想・事大主義・儒教的思考・アジア的思考の考察は時間があれば 書きたいと思っています。欧米と対立する決定的なことであり 解放戦争か侵略戦争かという 文明の衝突の話でもあります。)
 諸刃の剣と思われる戦略的失敗の根拠としては 戦後の朝鮮戦争をみてください。米軍は中国軍に苦戦します。一部には人海戦術に負けたと言う人がまだいますが 正確には日本のインフラに苦戦したのです。そう 鉄道の利用です。中国は北朝鮮軍の助けを借りず 総督府に職業訓練を受けた鉄道マンの力を借り 満鉄と鮮鉄を利用して高速に大量移動をして米軍を苦しめたのです。(別宮暖朗 日本近代10大陸戦と世界)。その高度な工業化・軍事化がブーメランのようにかえってくることのリスクを思えば 朝鮮半島には不介入で臨み そのことで浮いた予算を有効に国内のインフラ・軍事に投資すべきだったのです。韓国に対しては自立自存の自己責任で良かったのだと思います。彼らの儒教精神が近代啓蒙主義により打破されること。時間がかかるために中国ソ連から干渉を防ぐために 日英米での共同管理をおこなうこと。それらが条件です。(朝鮮半島史の理解をブラッシュアップしたのですが 当時の政治経済状況はここまでひどいとは思いませんでした。国家としては体をなさない事大主義、併合したくなる気持ちはわかりました。)隣国に軍事的に強い国を作らないこと。特にその国が地続きで大国と隣接するのならなおさら慎重になるべきでした。陸軍はドイツを模範にするのではなく イギリスの戦略を研究すべきでした。ドーバー海峡はナポレオンもナチドイツも渡れず 英米の経済軍事支援によりロシアとソ連は兵站を確保でき ナポレオンとナチスに勝てたのです。つまり ベトナム戦争でもわかるように 後方に兵站を持つ大陸国は内に引き込みながらの長期戦を戦うことができる 無敵の国家になるのです。(この説は昔 長谷川慶太郎 最近では兵頭二十八そしてナポレオン戦争研究者の間ではよく語られていました。クラウゼヴィッツも知っていたということです。)日本は大陸国との戦争を行う場合 英米との同盟なしには戦ってはいけなかったのです。幸い朝鮮戦争では米軍が盛り返しましたが米国のいくさ下手もあり一時は危険な状態になったわけです。ちなみに私は日露戦についても必要があったのか 疑問を持っています。 
 まとめますと 朝鮮半島・中国大陸に国家を日本があえて建設する必要はなかった。英米との同盟が要であり 戦前の日英同盟と戦後の日米同盟は日本の戦略としては大正解だったということです。これこそが国家として歩む本流だったのです。(付け加えますと 滝村隆一の研究でおなじみの明治国家体制の不備が 元老・重臣による天皇制側近政治の崩壊が その流れを阻む大きな原因だったということです。そして 元老亡き後の 真の政治家の存在は昭和天皇だけだったと言えるでしょう。近衛にはチャンスがあったのですが 決断できる器ではなかったようです。)

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[2572] 私のグローバリズム論
愚按亭主 - 2017年01月22日 (日) 15時01分

 まず、「日本人に謝りたい」が日本人が書いた説についてのタマゴさんの説明に納得しました。すっかり騙されていた自らの不明を恥じ、その誤解を改めたいと思います。

 さて、お約束していたグローバリズムとは何かについて、私の考えを披露していきたいと思います。現在の世界は、イギリスのEU離脱や、米国のトランプ大統領就任などこれまでの体制が大きく崩れようとしています。いったいこれはどういうことなのでしょうか?

 これまでの体制というのは、自由貿易を掲げるグローバリズムが主流を占めていた体制のことです。これに対して、現在世界で起きている現象は、この体制が行き詰ったその反動として、国家の原点に立ち戻っての国家第一の保護貿易主義に戻ろう、という動きです。この動きに対して、米国は古い人種差別にまみれたモンロー主義に戻ろうとしてる、という批判がありますが、たしかに現象的にはそのように見えますが、問題の真相はそんな単純なものではありません。しかし、このままでは歴史は繰り返すと言われるような現実になってしまう可能性も充分にありえます。

 なぜなら、このグローバリズムとナショナリズムとの対立の解決は、弁証法以外には不可能だからです。ところが、人類はその肝心の弁証法を捨て去ってしまったままなのです。ヘーゲルの本物の弁証法をマルクス・エンゲルスが捨て去り、そのマルクスが、恩師ヘーゲルの弁証法を唯物論化した弁証法を駆使して共産主義をつくりあげ、その実験が失敗に終わった結果として、ますます弁証法は見向きもされなくなってしまっているのが、世界の現実であり、それ故に世界はこの混乱の中で八方ふさがりの状況を呈しているのです。

 そんな中で、この日本にそのヘーゲルの弁証法の遺産が変化技という形で生き残り、学問を創り上げる武器として活用されて一定の成果を上げていることは、人類にとって唯一の救いと言っても過言ではありません。しかしながら、残念なことにその弁証法は、今のままでは、学問の体系化にも、現在世界が突き当たっている八方ふさがりの問題の解決にも、役に立てられないのが正直なところです。それは本物のへーゲルの弁証法ではないからです。それはどういうことかと言いますと、唯物論に縛られ、事実に縛られて、事実を見事に使いこなす絶対的観念論のような自由がないために、大胆なみらいの論理的予測ができないからです。つまり、今はやりのAIのビッグデータ予測の域を越えられないということです。

 では、そのヘーゲルの弁証法は、このグローバリズムとナショナリズムとの対立をどのように理論的に解決するのでしょうか?これを三項の論理を用いて説くならば、
基礎的契機:ナショナリズム
否定的契機:グローバリズム
統体的契機:統体止揚された真のグローバリズム(グローバリズム的ナショナリズムとナショナリズム的グローバリズムの融合体)
となります。しかし、これだけではわかったようで何もわからないと思いますので、ムウ少し構造に立ち入って説明することにします。

 そのためには人間とは何か・国家とは何か、ということを踏まえていただかなければなりませんが、その前にとても大事な論理をどうしても分かっていただかなければなりません。それは、以前にも話題になったことのある「理性の狡知」が何を言っているのか、ということです。この「理性」とは絶対精神すなわち本質ということです。そして、その本質はそのままの形では現れることはなく、個々の事物・事象としてしか現れることはなく、それを通して本質的必然性を貫いていく、ということなのです。もっとありていな形で言いますと、理性が、理性とは到底思えないようなでたらめな勝手気ままな個人の活動を通して、己としての発展を実現していくということです。じつは、人間の本質・国家の本質・日本精神の本質についても、これと同じ「狡知」の構造が存在するのです。

 ここのところが、どうしてもタマゴさんが理解できないところなのです。どうしても個人は個人としてしか見ることができず、結果として日本精神を否定してしまっているのです。タマゴさんは、個人のダメな行動をもって日本精神そのものを否定しているのに対して、私は、日本精神が個人のダメな行動を通してアジアを解放し、ひいては人類の認識を大きく前進させたという本流性を発揮したと主張しているのです。これがヘーゲルの言う「理性の狡知」ということです。

 以上の前提を踏まえて、人間とは何か、国家とは何か、その発展はどういものかを見ていきましょう。人間は、自然成長的に発展してきた動物の性質を継承しながら、自らをも含めての自然の性質を探究してその性質を応用して自然にない形に目的意識的に創り変えることを通して、新たな発展・歴史を創りつづける必然性を持った存在です。ですから、サルからヒトになりかかったころの人類は、まだサルの時代の本能的な集団とほとんど変わらなかったものが、本能に縛られない自由な認識の発達につれて、次第にその自由な認識を本能に代わる法的規範の創造とそれによる集団の統括が行われるようになると、社会と言える様相を呈してくるようになり、かつまた他の集団・社会との対峙・抗争を通して、その社会が軍事力を持った国家として組織化されていくことになります。

 つまり、国家とは、即自の社会が、戦争と言う自らの危急存亡の否定的媒を通して、自らを対自的に運命共同体として措定するだけでなく、目的意識的に自らを体系的に組織化していくことを通して、即自的社会と対自的な運命共同体化・体系的組織化との統体止揚を果たしたものが国家に他なりません。したがって、国家は単純に個人が集まってできたものでもなく、個人のすなわち国民のものでもありません。国家は、見た目は違いますが、論理的には一個の魂を持った生命体と同じです。ですから、国民はその一つ一つの細胞と同じなのです。個々の細胞細胞すなわち国民は、日々入れ替わりっても、国家は同じ国家として継続していくことになります。この論理は、体の細胞の場合においては一目瞭然ですが、国家と国民の場合は、一人一人がバラバラで好き勝手なことをしていますので、なかなかわかりにくいのですが、これがすなわち「理性の狡知」なのです。その「理性の狡知」を見事に実践して見事な理性的国家を創り上げた世界で唯一の国が日本なのです。

 ではその国家の発展について見ていくことにしましょう。この国家の発展を、政治と経済と言う二つの要素から見ていくことにしたいと思います。まず、政治とは何か、経済とは何か、と言う肝心な点を明らかにしたうえで話を進めていきたいと思います。政治とは、国家の代表者の意志あるいは国家の法に基づいて形成された国家意志をもって社会を国家として統括することを言います。では、経済とは何かと言いますと、社会の生活の生産を中心とするその維持・発展に関する全般を、価値などの量的側面からその運動を統括することを言います。

 この政治と経済とは、はじめからその完成形として存在していたのではなく、萌芽としてあったものが、社会が次第に国家としての実質を具えていく過程で、まず政治がはっきりとした形で現れ、経済はそれに付属するものとして政治と一体・未分化の形で存在することになります。つまり、政治的な実権を握っていた者が、経済においてもその実権を握るという構造になっていたということです。この構造が封建時代まで続きます。

 ただ、じつは欧州においては、この封建時代にすでに経済の政治からの分離独立の萌芽は育っておりました。金融業で莫大な財産を創って宮廷に食い込み封建領主や王族に金を貸し付けていた、ドイツのロスチャイルド家に代表されるいわゆる宮廷ユダヤ人たちです。彼らはもともと国を持たない放浪の民でしたが、キリスト教が金融業を否定し、ユダヤ教が積極的に奨励するということもあって、蔑視され社会的迫害を受けていた彼らにとって金融業は宿命的必然性でもありました。これが後に商品経済が発達し重商主義が波多津すると、にわかに追い風となって莫大な財産を築くようになってそれをもって宮廷に食い込んでその地位を揺るがないものにしていったのです。

 もともと彼らは国に縛られない自由さを持っておりましたので、ロスチャイルドの一族の一部が比較的ユダヤ人に対する蔑視の意識のうすかった産業革命で資本主義の勃興著しかったイギリスへと進出し、産業資本家への資金提供を通じて金融資本家としてますます発展していくことになります。この資本主義経済の発展が、政治からの経済の構造的な相対的独立化をもたらすことになるのですが、それを、国家に縛られないユダヤ人の金融資本家によって大きく促進されていくことは、現在のグローバリズムの原点となるものです。つまり、国家の一部、社会の一部、政治の一部であった経済が、国家の枠を超えて度外れに発展・自己増殖して国家を凌駕し、政治を凌駕して、結果として国家を疲弊させ、社会を疲弊させ、政治を空洞化させて、結果的に自分自身をも行き詰らせて、国家のまともな発展・社会のまともな発展を無視した罰を受ける羽目になっているのが、現在の世界の状況です。

 では、こうした状況から人類を正しい道へと導き解決するためにはどうしたら良いのでしょうか?これに対する解決の道を示すものを二つ挙げておきたい。一つは、戦前の日本が実践として示した朝鮮経営・台湾経営そして満州族と協力して行った満州国建設の中に含まれている日本精神の本流としての魂です。そしてもう一つは、日本の中に唯一残存している学問としての弁証法の欠片をヘーゲルの学問の冠石としての弁証法との統合をはたして真の学問的弁証法を完成させて、それを日本精神の本能・魂として、日本を再建し、世界を清の発展へと導いていくことです。

 まず前者について、これはタマゴさんやtadaさんの説明に欠けている最も重要な点です。それがないために彼らの説明はいくら詳しく説いても、後付の解釈にしかならず、あそうそれがどうしたの?と言う感想しかもたらさず、日本の発展、世界の発展にいささかも役立つものとはなりえず、むしろ、中韓のねつ造歴史認識押し付け攻撃に立ち向かう誇り・気概を削ぐことには、しっかりと役立つ代物でしかありません。

 日本の朝鮮・台湾・満州国へのかかわりで見るべき点は、採算を度外視したと酷評されるほど日本精神の魂を込めて誠心誠意い発展性のある国創りをした点です。どこの帝国主義国の中に、自国の首都よりも見事な最先端の技術の粋を結集した都市を、植民地に創った国がありますか?あるとすれば、それは唯一ギリシャ哲学の学問の本流をもって世界統一を果たそうとしたアレキサンダー大王が行ったアレキサンドリアなどのヘレニズム文明建設ぐらいなものでしょう。ということは、日本のこの実践は、これと同じ本流の面目躍如たるものがあるということです。tadaさんの説はこの視点の欠如した、無味乾燥なものにすぎません。なぜなら、その「無駄」を魂込めてやったからこそ、日本の戦後の驚異的な復興があったと言っても過言でないくらいだからです。

 次に、後者の学的弁証法が日本に密かに息づいている件ですが、これはヘーゲルのベルリン大学教授就任演説の中で説かれているドイツの状況と全く同じであることに不思議な因縁を感じます。まずヘーゲルの言葉に耳を傾けましょう。

「われわれの使命と要務は哲学的展開の助成であり、(中略)この学問はドイツ人のもとへ逃げてきて、ただなお彼らのうちでのみ生き延びている。われわれにこの聖なる光の護持は託されているのであって、この光を護り育てて、人間の所有しうる至高のもの、即ち彼の本質の自覚が消滅し絶滅しないように配慮することはわれわれの使命である。」 

 どうです!全く今の日本と同じでしょう!ヘーゲルが言うように、我々にはこの学的弁証法を守り育てる歴史的使命があるのです。何故ならそれが人類を救う唯一の道だからです。現在のような世界の混乱で人類が惑っている今だからこそ、ますますその歴史的意義が高まっているというると思います。

 

 

 

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[2573]
タマゴ - 2017年01月23日 (月) 09時27分

ヘーゲル関連の話は後で述べるとして、まず天寿堂さんの事実誤認について指摘しておきます。

>日本の朝鮮・台湾・満州国へのかかわりで見るべき点は、採算を度外視したと酷評されるほど日本精神の魂を込めて誠心誠意い発展性のある国創りをした点です。どこの帝国主義国の中に、自国の首都よりも見事な最先端の技術の粋を結集した都市を、植民地に創った国がありますか?

シンガポールやプノンペンなどの東南アジアの主要都市は、欧米列強による巨額の投資が行われ、インフラ等も満州の首都・新京などより遥かに近代化されていました。
植民地への投資が莫大な利益を生むという発想は、なにも日本だけのものではなかったのです。
英仏など、このような植民地優先の投資により本国の産業育成が手薄になり、ドイツなどの後発の帝国主義国家に追い付かれてしまう要因となったほどです。
加えて、日本の海外領土の都市が東京より発展していたというのも嘘です。
当時の新京の人口は東京の10分の1程度ですよ。

天寿堂さんに再三「世界史を真面目に勉強せよ」と忠告しているのは、世界を俯瞰する視点と基礎知識が致命的に欠落しているからです。
高山やらモルデカイモーゼやらの本はエンターテイメントとしては面白いですが、歴史の実態を知るには何の役にも立ちません。
こんな漫画レベルの本の与太話を真顔で持ち出されても、マトモな議論にはならないんですよ。
自由社や育鵬社のものでもいいから、高校の歴史教科書でも読んで基礎知識を習得して下さい。
話はそれからです。

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[2574]
タマゴ - 2017年01月23日 (月) 15時03分

>理性が、理性とは到底思えないようなでたらめな勝手気ままな個人の活動を通して、己としての発展を実現していくということです。じつは、人間の本質・国家の本質・日本精神の本質についても、これと同じ「狡知」の構造が存在するのです。
 
実際にヘーゲルが著書の中で「理性の狡知」というものをどのように表現しているか。
『歴史哲学講義』より引用してみましょう。

「神の一なる摂理が世界のできごとを統轄している、というのは、理性の原理にふさわしい真理である。というのも、神の摂理とは、世界の絶対的かつ理性的な究極目的を実現する全能の知恵だからである。」
「特殊なものがたがいにしのぎをけずり、その一部が没落していく。対立抗争の場に踏みいって危険をおかすのは、一般理念ではない。一般理念は、無傷の傍観者として背後にひかえている。一般理念が情熱の活動を拱手傍観し、一般理念の実現に寄与するものが損害や被害をうけても平然としている様は、理性の狡知と呼ぶにふさわしい。」

つまり、神の摂理たる不可侵の一般理念なるものが超越的に存在し、その実現化のために個別の物質や事象が弁証法的に凌ぎを削り合っている、という世界観なのでしょう。
この世界観に依ると、もし大東亜戦争の本質が聖戦であったと仮定するならば、日本は戦争に勝って然るべきだったはずです。
勿論ヘーゲルの世界観が正しいと仮定すればの話であって、そうではない場合には、敗戦という事象が「大東亜戦争は聖戦である」ことを否定しませんけれどね。

>ここのところが、どうしてもタマゴさんが理解できないところなのです。どうしても個人は個人としてしか見ることができず、結果として日本精神を否定してしまっているのです。タマゴさんは、個人のダメな行動をもって日本精神そのものを否定しているのに対して、私は、日本精神が個人のダメな行動を通してアジアを解放し、ひいては人類の認識を大きく前進させたという本流性を発揮したと主張しているのです。これがヘーゲルの言う「理性の狡知」ということです。

日本精神なるものが未だに判然としませんが、そのようなものがあるとするならば、理性の狡知によって戦後世界に於いて勝ち残ったのは、アメリカ精神やソ連精神ということになるでしょう。
実際、アジア諸国を帝国主義支配から脱却させる最大の原動力となったのは共産主義思想でした。
但し共産主義に完全に支配された国家は、それはそれで、大変な状況に陥っていったわけですが。

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[2575] 理性の論理と事実の論理との違い
愚按亭主 - 2017年01月24日 (火) 13時19分

 ヘーゲルの「理性の狡知」の文章の紹介ありがとうございます。初めて読みました。やはり、私がそれを具体化して説明したものと同じでしたね。ヘーゲルの論理が分かれば読まなくてもわかるのです。論理は体系的ですべて一定の論理の筋道でつながっているからです。それが論理のよいところなのです。

 これまで何度か説明してきたように、絶対的真理の弁証法や理性・本流の論理は、論理の論理であって、論理が基点ですから事実の方がそれに従うという関係になります。したがって、事実的誤謬は、論理の論理で、事実の論理ではないその論理に影響を及ぼしません。事実の誤謬は修正すればよいだけのことであって、理性的・本流的論理は変わりません。それが、個別的事実・事象から「超然」としているということなのです。今問題となっている大東亜戦争の問題に関して、私がしていることは、この理性・本流の論理をもって、事実の論理に対してアンチテーゼを投げかけているのです。。つまり、三項の論理の否定的理性で否定的媒介をしているということです。

 これに対して即自的悟性の事実の論理の場合は、事実を起点としていますので、事実の誤謬は絶対にあってはならないことになります。なぜなら、その事実から論理を導き出すのですから、論理そのものが歪んでしまうからです。

 学問は、この両方の統一でなければなりません。これに人間の認識の二重構造に対応した論理です。つまり、人間の認識は、客観的事実・事象の反映という側面と、自らの内なる像・理性をもって対照的事実・事象に問いかける側面との、統一に他ならないということです。これは、人類の認識論の歴史で言えば、ヒュームが「懐疑論」において、それまでのイギリス経験論の「認識は客観的事実の反映だ」とする見方への、疑問。すなわち観念内において理性化するということがないと真理にならないのではないか?と言う疑問から、カントの先験的純粋理性論が生まれたことが、人類がそのことに自覚し始めたきっかけとなりました。

 つまり、事実だけでは正しい判断はできないということです。もう一つの理性の側面をいい加減にしたのでは、真理に到達することはできないということです。その理性も、悟性(すなわち相対的真理)だけではなく絶対的真理の理性との統一でなければならないことを、tadaさんの考察が示していると思います。tadaさんは滝村先生の論理に依拠しているようですが、それは悟性で会って理性ではないので、それだけでは本当の真理に到達することはできません。だから、その論理に依拠して事実を解釈してみても、無味乾燥なものになってしまうのです。

 以上を踏まえてタマゴさんの次の疑問に答えることにします。
>この世界観に依ると、もし大東亜戦争の本質が聖戦であったと仮定するならば、日本は戦争に勝って然るべきだったはずです。
勿論ヘーゲルの世界観が正しいと仮定すればの話であって、そうではない場合には、敗戦という事象が「大東亜戦争は聖戦である」ことを否定しませんけれどね。

 これに関しても、私は糖に答えております。〔2412〕で展開しておいた持論を再びここで披露しましょう。


「私の説く精神あるいは日本精神は、tadaさんの説いたものとは根本的に異なるものです。私の説く精神とは、ヘーゲルが説いた精神のことであり、絶対精神が人間になってその認識が自らに回帰したところの精神であり、絶対理念へと向かうところの精神のことです。ですから、ある特定の個人の精神ではないのです。歴史性を持つ物自体の発露としての精神なのです。具体的には、学問の曙であるギリシャ哲学の誕生をもって、人類の認識に、はじめて物自体について自覚し始めた精神が誕生したのであり、そこから流れ出るところの発展の流れを本流と称しているのです。だから、アレキサンダー大王の世界統一はまさしく本流の発露であり、ギリシャ哲学の伝搬であり精神の放浪なのです。それがイスラム圏からキリスト圏に流れて行って、ついに個別科学の誕生という学問的成果を上げていく、という流れです。

 ではその流れにない日本がどうして第二の本流になれたのか?それは、日本はその本流から遠い僻地にあって、様々な条件に恵まれて、世界の中でも特異な立場の変換が縦横無尽に運動可能な弁証法的言語である日本語によって培われた思いやりの精神・ものごとを道として究める精神が、江戸期に開花し、安藤昌益の「自然真営道」というヘーゲルの絶対精神の自己運動に匹敵する哲学を、ヘーゲルよりも100年も前に創りあげているのです。つまり、日本の精神は江戸期にそういうものを生み出すほどに本流としての実力をもっていたのです。その精神が見事な社会を創り上げ、西欧の本流本家の哲学や個別科学に遭遇した時に、瞬く間にそのエッセンスを吸収して自分のものとして、世界的な新発見を次々に成し遂げ、その時に入ってきたヘーゲル哲学や、マルクスエンゲルスの唯物弁証法などが日本の精神の一部として連綿として受け継がれ、南郷継正の相対的真理の弁証法の完成と個別科学の体系化の成功へとつながっていったのです。ですから、明治期の西欧の文化の流入はン本精神の本流としての発展につながるものだったのです。

 そしてそういう日本精神が創り上げたゼロ戦がアメリカの誇る無敵のB17を全滅させて、三か月で終わるはずの戦いを三年半にも長引かせたことが、日露戦争後アジア各地で沸き起こった独立運動がみなつぶされてしまっていたところに、あらたに日本精神が注入されてそれが日本の敗戦後ふたたび欧米が植民地体制を取り戻そうとしたときに、それを打破する独立運動につながったのです。
 これらの現象の本質は、本家本元の本流のドラ息子たちの本流らしからぬ白人至上主義の人種差別的な植民地体制を、アジアの僻地にて独自の本流としての実力を磨いていた日本がものの見事に打ち壊して、彼らに人種差別を反省させることになったのです。しかしながら、日本精神はまだ本流としての実力を完成させていなかったがために、本流のドラ息子たちに敗れてしまいました。その後、日本が本流であることを自覚させないように、欧米によって悪者に仕立てられ徹底的に日本精神が復活できないようにされてきました。

 それでも、そんな状態に置かれた日本精神の中でも、脈々と学問の本流の伏流がひそかに流れて、ついに世界のどこにもないヘーゲルの絶対精神の自己運動の具体化としての生命史観が打ち立てられました。そして今まさにこの日本において、本流としての精神の要となる学問の冠石が復活しようとしているのです。これこそが、日本こそが人類の真の本流になることができる世界で唯一の国たる所以なのです。そして日本の復活は、この学問をもってなされなければならないのです。」


 つまり、大東亜戦争で勝利しなかったのも「理性の狡知」なのです。何故なら、まだ理性が完成していなかったからです。つまり、可能態がまだ現実態になりうる条件が整っていなかった、ということです。いかし、今は違います。可能態が現実態になりうる条件が整ってきているからです。どういうことかと言いますと、この日本で学問がもう少しで出来上がるところまで到達してきている、ということです。このことが、大東亜戦争で日本が負けたとはいえ、日本こそが本流だったことを示すものなのです。



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[2576]
タマゴ - 2017年01月24日 (火) 20時15分

>日本精神が創り上げたゼロ戦がアメリカの誇る無敵のB17を全滅させて、

ゼロ戦を開発したのは日本精神などではなく堀越二郎です。
また、優れた戦闘機を開発したことが国家の精神性の優秀さの指標になるというのであれば、
Me262を開発したドイツやP-51を開発したアメリカの精神の方が上ということになってしまいます。

>三か月で終わるはずの戦いを三年半にも長引かせた

それは、杉山元大将が昭和天皇に示した戦局の見通しの甘さを、天寿堂さんが誤解して認識しているだけです。

昭和天皇が
「もし日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」
と参謀総長の杉山に問うたところ、
「太平洋方面は3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」
と楽観的回答をしたので、
「汝は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと私にむかって申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていないではないか」
と語気荒く問いつめたところ、答えに窮した杉山は、
「支那は奥地が広うございまして、予定通り作戦がいかなかったのであります」
と言い訳すると、昭和天皇は、
「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか。いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか?」と一喝し、杉山は言葉を失った。
また、終戦直前に元帥として天皇に意見を求められた杉山は、
「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」
と奏上したが、同時に諮問された陸軍元帥の畑俊六は
「これ以上の戦争遂行は難しい」
という主旨の返答をしている。

天寿堂さんは、このエピソードをさも素晴らしいことであるかのように考えているのでしょうか。

>日露戦争後アジア各地で沸き起こった独立運動がみなつぶされてしまっていたところに、あらたに日本精神が注入されてそれが日本の敗戦後ふたたび欧米が植民地体制を取り戻そうとしたときに、それを打破する独立運動につながったのです。

大東亜戦争期の抗日組織であるベトナムのベトミン、フィリピンのフクバラハップ、ビルマの反ファシスト人民自由連盟などが、欧米列強からの独立闘争の主体として活躍したという事実はありますがね。
さすがに、これを日本の手柄にするのは無理がありすぎでしょう。

>これらの現象の本質は、本家本元の本流のドラ息子たちの本流らしからぬ白人至上主義の人種差別的な植民地体制を、アジアの僻地にて独自の本流としての実力を磨いていた日本がものの見事に打ち壊して、彼らに人種差別を反省させることになったのです。

政治的意図があったとはいえ、私は、日本の先人が人種差別撤廃の提案を行ったことを高く評価しています。
しかし、不思議に思うのは、
「日本が欧米の人種差別と戦った」
などと偉ぶる右派連中が、どういう訳か、東南アジア人を「土人」呼ばわりし、中韓を「シナチョン」などと露骨に蔑視していることです。
外国人の過剰な反日思想を批判することに何ら問題はありませんが、そうではなく、単にバカにするだけのことも少なくない。
差別をしている張本人が先人の功績を笠に着てふんぞり返る資格など無いんです。

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[2577]
タマゴ - 2017年01月24日 (水) 21時44分

>今問題となっている大東亜戦争の問題に関して、私がしていることは、この理性・本流の論理をもって、事実の論理に対してアンチテーゼを投げかけているのです。

私にはヘーゲルの世界観が正しいのか否かを判断することはできません。

しかし一つだけ言えるのは、絶対精神や絶対理念というものが万物の背後に存在する普遍原理であるならば、それは欧米列強や植民地にも存在していたはずだ、ということです。
従って、どの国家が本流であるかなど観念レベルだけで判断することはできず、必ず客観的かつ正確な歴史事実との擦り合わせが伴わなければならないはずなのです。
従って、偏り無く世界を俯瞰する視点を持つことが不可欠であり、
そのためには、日本人であれば日本人という立場を、アメリカ人ならアメリカ人という立場を、韓国人なら韓国人という立場を、一旦は離れなければなりません。
天寿堂さんには、それができていない。

実際、天寿堂さんも事象による判断は行っています。
しかし、その多くが単なる虚偽や誤解や偏見に過ぎないからダメなのですよ。
ヘーゲルも、あの当時の一流の学者達の学説を紐解いて体系化しました。
天寿堂さんもヘーゲルを信奉するなら、その姿勢から見習うべきで、インチキな論者のインチキな本ばかり読んで満足している場合ではないのですよ。

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[2578] 唯物史観・唯物論的な生命史観では人類の歴史は解けない
愚按亭主 - 2017年01月25日 (水) 18時53分

>ゼロ戦を開発したのは日本精神などではなく堀越二郎です。
また、優れた戦闘機を開発したことが国家の精神性の優秀さの指標になるというのであれば、Me262を開発したドイツやP-51を開発したアメリカの精神の方が上ということになってしまいます。

 こういうことを平気で書けるということは、タマゴさんが私の文章をいかに真面目に読んでいないか、ということを意味します。なぜなら、これに対する回答は、すでに何度も説いてあるからです。しかし、真面目に読んでもわからなかったということもありますから、もう一度、できるだけ分かりやすく説き直してみましょう。

 「ゼロ戦を開発したのは日本精神などではなく堀越二郎です。」事実的・現象的には確かにそうなのですが、この事実を対自的否定的理性の観点から見ますと、日本精神が創ったとなるのです。たとえば、その人が当時の支那や挑戦で育ったとしたら、到底そういうことはできなかったと言えるからです。なぜなら、当時も今も支那や挑戦には精神と言えるものが存在せず、まともに学問を学ぶ土壌がないからです。しかし、日本にはそれがしっかりと存在していて、脈々と本流と言うにふさわしい精神すなわち日本精神が創られ発展していたからです。

 だから、西洋から学問が入ってきたときに瞬く間にそれを自分のものにして、独自の技術を開発して当時の世界最高の性能を持つゼロ戦を創り上げ、それをもって、当事無敵と言われていたB17を撃退したのです。ですから、個々の飛行機の性能云々を問題にしているのではなく、西洋から遠く離れて科学とは無縁であった日本が、学問に出会うや怒涛の如く学問を自分のものにして、本家本元の技術をしのいだという事実こそが、日本精神が次の人類を救う本流である証だといえることを、わかりやすく端的に示す事実として、ゼロ戦を持ち出したのです。

 そして、前に私が説いておいたことは、その本家本元の西洋の方は、学問の冠石であるヘーゲル哲学をその座から追い出し、あろうことかそれまで熾烈に戦っていた、人間の主体性の確立を阻害する宗教と適当な妥協を図ってしまいました。その結果として、西洋においては、いつまでも人間が自立できないようになり、肝心の学問はと言えば、冠石を失って迷走し、学問本来の目的である体系化への道を放棄してしまっている現実があります。そして、英国に代わって覇者となった米国では、それがさらに拍車がかかって、もはや学問とは到底言えない実用主義的な技術の探究が、あたかも学問であるかのように錯覚されてしまって、学問的にはさらにいっそう後退してしまっている、という深刻な様相を呈しています。

 もちろん日本もその影響を受けておりますが、そういう中でも日本では、世界の中で唯一、まともな学問がひそかに息づいています。そこでは、本来の学問の使命である体系化を目指して、弁証法を駆使しようとしている学派が存在しています。このことが、日本こそが次代を担う本流であるということを示す証拠です。

 ところが、残念なことに、その当の学派が、このような見方をすることができないのです。それは何故かと言いますと、彼らのベースが唯物史観であり、唯物論的な生命史観だからです。なぜそういうことが言えるのかと言いますと、唯物史観では物質的な生活の生産を歴史の原動力としております。ところが、これはタマゴさんと同じ現象論に過ぎません。確かにそう見えるければ、それが人間の歴史の根本的な原動力ではないということです。

 そもそも人間とはどういう存在かと言いますと、自然成長的発展が限界を迎えた時代に、自然の構造を明らかにして、それに基づいて・則って、目的意識的に自然になり新たな形に自然のものを創り変えていくという発展を創り出す存在です。したがって、そのためには対象の構造を探究し、そして、それを見事に使いこなし人類が正しい発展の道を歩むためには、その成果を体系化した学問が必須です。つまり、学問は、人間にとって本質的必然性なのです。

 したがって、人間の歴史を大きく動かすものは、物質的生活の生産ではなく、その発展をもたらす学問の方なのです。たとえば、学問の発展によって起きた産業革命は、大きく人間の物質的生活の生産だけでなく人間の歴史を大きく変えてしまいました。だから、一時期西洋が世界の覇者になったのです。ですから、人間にとって本質性ともいえる精神を、歴史の原動力としない唯物史観や、南郷学派の唯物論的な生命史観では、人類の歴史を説くことはできないのです。

>絶対精神や絶対理念というものが万物の背後に存在する普遍原理であるならば、それは欧米列強や植民地にも存在していたはずだ、ということです。従って、どの国家が本流であるかなど観念レベルだけで判断することはできず、必ず客観的かつ正確な歴史事実との擦り合わせが伴わなければならないはずなのです。従って、偏り無く世界を俯瞰する視点を持つことが不可欠であり、そのためには、日本人であれば日本人という立場を、アメリカ人ならアメリカ人という立場を、韓国人なら韓国人という立場を、一旦は離れなければなりません。天寿堂さんには、それができていない。

 なかなかの力説ですが、肝心なところが分かっていないので、私の主張を正しくとらえられずに、結果として私を誤解することになってしまっています。それは何かと言いますと、

「絶対理念」とは、すなわち真に体系化された学問のことに他なりません。つまり、この世界の本質すなわち絶対精神が、論理的に整理され、体系化された学問として完成して「精神の王国」となって、己自身に回帰する=自覚されることを言います。

 つまり、学問の体系化すなわち「絶対理念」に向かう流れが本流となるのです。これは普遍的原理などではなく、本質的必然性の道を歩めたものが本流となり、その道を踏み外したものは落ちこぼれていくという不平等な世界なのです。しかし、その不平等な世界なりに生態系のように体系化されながら本流が世界を引っ張っていく構図になるのです。それが現実です。そして、この世界の中で、その本流の道を歩むことができる可能性を持っている、唯一の国が日本だという冷厳たる現実・事実が、たしかに存在するのです。

 これは、唯物論・観念論・即自の自分の立場から自由になった、真の学問の立場である絶対的観念論の立場からの結論なのです。したがって、タマゴさんの私への批判は当たらない、と言えます。

>>三か月で終わるはずの戦いを三年半にも長引かせた←それは、杉山元大将が昭和天皇に示した戦局の見通しの甘さを、天寿堂さんが誤解して認識しているだけです。

 そういう問題ではなく、事実を言っているのです。。戦争が長引いた結果として、東南アジアにはびこっていた西欧列強が、日本軍によって追い出されたということが、圧倒的な文化の差、武器などの力の差を見せつけられて、かなわないと思い込んでいた現地の人たちの認識が、大きく揺さぶられて自立性を持ち始めた結果として、日本が敗れて元の支配者がまた戻ってこようとしたときに、前のようにはいかなくなっていた、と言うことです。三年半に長引いた意義は、そこにあるということを言っているのです。

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[2579]
タマゴ - 2017年01月25日 (水) 22時07分

>事実的・現象的には確かにそうなのですが、この事実を対自的否定的理性の観点から見ますと、日本精神が創ったとなるのです。

なりません。
主体として想定されている日本精神というものが具体的に何を指すのか、未だに判然としないからです。
「地球の歴史がゼロ戦を作った」
「宇宙の摂理がゼロ戦を作った」
などと空論を振り回しているのと大差ありません。

>たとえば、その人が当時の支那や挑戦で育ったとしたら、到底そういうことはできなかったと言えるからです。なぜなら、当時も今も支那や挑戦には精神と言えるものが存在せず、まともに学問を学ぶ土壌がないからです。

欧米との比較して優れた点を挙げるなら分かりますが、日本軍に蹂躙された中国や日本の一部であった朝鮮と比較しても意味がありません。

>当時の世界最高の性能を持つゼロ戦を創り上げ、それをもって、当事無敵と言われていたB17を撃退したのです。ですから、個々の飛行機の性能云々を問題にしているのではなく、

問題にしているではありませんか。

>西洋から遠く離れて科学とは無縁であった日本が、学問に出会うや怒涛の如く学問を自分のものにして、本家本元の技術をしのいだという事実こそが、日本精神が次の人類を救う本流である証だといえることを、わかりやすく端的に示す事実として、ゼロ戦を持ち出したのです。

「日本精神が〜した」
という言説の無意味さについては既に触れましたが、このような漠然とした言い様で構わないなら、
「イギリス精神が産業革命を成し遂げた。その本流である証としてスピットファイアを持ち出した。」
「アメリカ精神が自由と民主主義を作り上げた。その本流である証としてP- 51を持ち出した。」
「ナチスドイツがユダヤ資本の陰謀に立ち向かった。その本流である証としてMe262を持ち出した。」
などなど、その国が“本流である理由”など幾らでも作ることが可能です。
要するに、一種の詭弁だということですよ。
堀越二郎という天才技師が存在しなければ、どれほど日本精神なる“観念”が頑張っても、ゼロ戦は完成しませんでした。

>学問の体系化すなわち「絶対理念」に向かう流れが本流となるのです。これは普遍的原理などではなく、本質的必然性の道を歩めたものが本流となり、その道を踏み外したものは落ちこぼれていくという不平等な世界なのです。しかし、その不平等な世界なりに生態系のように体系化されながら本流が世界を引っ張っていく構図になるのです。それが現実です。そして、この世界の中で、その本流の道を歩むことができる可能性を持っている、唯一の国が日本だという冷厳たる現実・事実が、たしかに存在するのです。

ですから、そのような理屈で世界が動いていると仮定するならば、大東亜戦争は聖戦などではなかった、という結論しか導けないのですよ。
私はヘーゲルの信奉者ではないのですが、帝国主義や一神教に汚染された戦前の日本が敗れたことについては、理性の狡知というか、ある程度の必然性があったものと考えています。

>三年半に長引いた意義は、そこにあるということを言っているのです。

三ヶ月で勝つつもりが見通しが狂っただけのことで、、アジアを解放するために目的意識的に長引かせたのではありませんから、単なる結果論に過ぎません。

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[2582] 展開してもらいましょう
愚按亭主 - 2017年01月26日 (木) 19時13分

>主体として想定されている日本精神というものが具体的に何を指すのか、未だに判然としないからです。

 ではもう一度
「私の説く精神とは、ヘーゲルが説いた精神のことであり、絶対精神が人間になってその認識が自らに回帰したところの精神であり、絶対理念へと向かうところの精神のことです。ですから、ある特定の個人の精神ではないのです。歴史性を持つ物自体の発露としての精神なのです。具体的には、学問の曙であるギリシャ哲学の誕生をもって、人類の認識に、はじめて物自体について自覚し始めた精神が誕生したのであり、そこから流れ出るところの発展の流れを本流と称しているのです。だから、アレキサンダー大王の世界統一はまさしく本流の発露であり、ギリシャ哲学の伝搬であり精神の放浪なのです。それがイスラム圏からキリスト圏に流れて行って、ついに個別科学の誕生という学問的成果を上げていく、という流れです。

 ではその流れにない日本がどうして第二の本流になれたのか?それは、日本はその本流から遠い僻地にあって、様々な条件に恵まれて、世界の中でも特異な立場の変換が縦横無尽に運動可能な弁証法的言語である日本語によって培われた思いやりの精神・ものごとを道として究める精神が、江戸期に開花し、安藤昌益の「自然真営道」というヘーゲルの絶対精神の自己運動に匹敵する哲学を、ヘーゲルよりも100年も前に創りあげているのです。つまり、日本の精神は江戸期にそういうものを生み出すほどに本流としての実力をもっていたのです。その精神が見事な社会を創り上げ、西欧の本流本家の哲学や個別科学に遭遇した時に、瞬く間にそのエッセンスを吸収して自分のものとして、世界的な新発見を次々に成し遂げ、その時に入ってきたヘーゲル哲学や、マルクスエンゲルスの唯物弁証法などが日本の精神の一部として連綿として受け継がれ、南郷継正の相対的真理の弁証法の完成と個別科学の体系化の成功へとつながっていったのです。ですから、明治期の西欧の文化の流入はン本精神の本流としての発展につながるものだったのです。

 そしてそういう日本精神が創り上げたゼロ戦がアメリカの誇る無敵のB17を全滅させて、三か月で終わるはずの戦いを三年半にも長引かせたことが、日露戦争後アジア各地で沸き起こった独立運動がみなつぶされてしまっていたところに、あらたに日本精神が注入されてそれが日本の敗戦後ふたたび欧米が植民地体制を取り戻そうとしたときに、それを打破する独立運動につながったのです。
 これらの現象の本質は、本家本元の本流のドラ息子たちの本流らしからぬ白人至上主義の人種差別的な植民地体制を、アジアの僻地にて独自の本流としての実力を磨いていた日本がものの見事に打ち壊して、彼らに人種差別を反省させることになったのです。しかしながら、日本精神はまだ本流としての実力を完成させていなかったがために、本流のドラ息子たちに敗れてしまいました。その後、日本が本流であることを自覚させないように、欧米によって悪者に仕立てられ徹底的に日本精神が復活できないようにされてきました。

 それでも、そんな状態に置かれた日本精神の中でも、脈々と学問の本流の伏流がひそかに流れて、ついに世界のどこにもないヘーゲルの絶対精神の自己運動の具体化としての生命史観が打ち立てられました。そして今まさにこの日本において、本流としての精神の要となる学問の冠石が復活しようとしているのです。これこそが、日本こそが人類の真の本流になることができる世界で唯一の国たる所以なのです。そして日本の復活は、この学問をもってなされなければならないのです。」


>欧米との比較して優れた点を挙げるなら分かりますが、日本軍に蹂躙された中国や日本の一部であった朝鮮と比較しても意味がありません。

 本家本元との比較は散々しておきましたから、その反対のものと比較することが、日本がどうして本流なのかを明らかにする意味があるのです。支那と朝鮮は、国家の発展段階としては、個人を調節した法を国家の本能とする以前の、即自的な幼児的段階であるアジア的国家の域のまま現在に至っている国家です。だから、平気で約束を破り、嘘をねつ造して相手を攻撃できる体質・民族性を持っているのです。このような状態では、学問は身に付かないのです。だから彼らのなっから学問的な成果が上がらないのです。このことに関しては、日本軍に蹂躙されたとか関係ありません。

 ではなぜ同じ文化圏にある日本がその段階を脱することができたのでしょうか?それは、北条泰時が天皇勢力を倒して革命を起こし、御成敗式目と言う自前の法律を作って公の法に従うという伝統・習慣を創り上げたからです。ここから日本の近代に向けた発展がはじまったのです。だから、西洋の学問や法制が入ってきてもすんなりと自分のものにすることができたのです。


>問題にしているではありませんか。

 ですから、個々の飛行機の性能云々を問題にしているのではなく、西洋から遠く離れて科学とは無縁であった日本が、学問に出会うや怒涛の如く学問を自分のものにして、本家本元の技術をしのいだという事実こそが、日本精神が次の人類を救う本流である証だといえることを、わかりやすく端的に示す事実として、ゼロ戦を持ち出したのです。

 つまり、「優れた戦闘機を開発したことが国家の精神性の優秀さの指標になるというのであれば、Me262を開発したドイツやP-51を開発したアメリカの精神の方が上ということになってしまいま」うということではないということです。

>このような漠然とした言い様で構わないなら、
「イギリス精神が産業革命を成し遂げた。その本流である証としてスピットファイアを持ち出した。」
「アメリカ精神が自由と民主主義を作り上げた。その本流である証としてP- 51を持ち出した。」
「ナチスドイツがユダヤ資本の陰謀に立ち向かった。その本流である証としてMe262を持ち出した。」
などなど、その国が“本流である理由”など幾らでも作ることが可能です。

 もう一度私の説明を見てもらいましょう。「本家本元の西洋の方は、学問の冠石であるヘーゲル哲学をその座から追い出し、あろうことかそれまで熾烈に戦っていた、人間の主体性の確立を阻害する宗教と適当な妥協を図ってしまいました。その結果として、西洋においては、いつまでも人間が自立できないようになり、肝心の学問はと言えば、冠石を失って迷走し、学問本来の目的である体系化への道を放棄してしまっている現実があります。そして、英国に代わって覇者となった米国では、それがさらに拍車がかかって、もはや学問とは到底言えない実用主義的な技術の探究が、あたかも学問であるかのように錯覚されてしまって、学問的にはさらにいっそう後退してしまっている、という深刻な様相を呈しています。

 もちろん日本もその影響を受けておりますが、そういう中でも日本では、世界の中で唯一、まともな学問がひそかに息づいています。そこでは、本来の学問の使命である体系化を目指して、弁証法を駆使しようとしている学派が存在しています。このことが、日本こそが次代を担う本流であるということを示す証拠です。」ここにすべて書いてあります。

>そのような理屈で世界が動いていると仮定するならば、大東亜戦争は聖戦などではなかった、という結論しか導けないのですよ。

 どうしてそういう結論になるのか?展開してもらいましょう。

>三ヶ月で勝つつもりが見通しが狂っただけのことで、、アジアを解放するために目的意識的に長引かせたのではありませんから、単なる結果論に過ぎません。

 戦いとはそういうものです。相手もそう思って戦いを計画していたのですから、勝てなかったまでも相手のそういう目論見見事にを打ち破ったことが、アジアの解放に結び付いたのですから、大いに意義があったのではありませんか!どうしてそういう否定的な見方しかできないのか不思議です。

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[2583]
タマゴ - 2017年01月26日 (金) 21時42分

>ではもう一度
>もう一度私の説明を見てもらいましょう。
>ここにすべて書いてあります。

そのコピペのおかしな点は散々指摘したし、その指摘に対するマトモな反論も一切ありませんでした。
答えに窮すると答になっていないコピペをひたすら投下するという行為は2ちゃんねるの住人よくが使うらしく、あちらでは禁止行為とされているようですが、さすがに天寿堂さんが2ちゃんねる以下の行為に手を染めるとは思いませんでした。

>支那と朝鮮は、国家の発展段階としては、個人を調節した法を国家の本能とする以前の、即自的な幼児的段階であるアジア的国家の域のまま現在に至っている国家です。だから、平気で約束を破り、嘘をねつ造して相手を攻撃できる体質・民族性を持っているのです。このような状態では、学問は身に付かないのです。だから彼らのなっから学問的な成果が上がらないのです。このことに関しては、日本軍に蹂躙されたとか関係ありません。

相当に勝手な言い草です。
日本軍に蹂躙され産業育成どころではなくなったことが、国家の在り方に関係しなかったはずはありません。
あの当時の中国の政治家にも、曾国藩、李鴻章、孫文など、日本にもなかなか居ないレベルの傑物が存在していましたから、もし欧米列強や日本の侵略・進出が無かったなら、或いは別の展開もあり得たのではないかと思います。
第一、天寿堂さんの考えでは、朝鮮や中国の一部であった満州には日本精神を注入されたのではなかったのですか?

>ですから、個々の飛行機の性能云々を問題にしているのではなく、西洋から遠く離れて科学とは無縁であった日本が、学問に出会うや怒涛の如く学問を自分のものにして、本家本元の技術をしのいだという事実こそが、日本精神が次の人類を救う本流である証だといえることを、わかりやすく端的に示す事実として、ゼロ戦を持ち出したのです。

ですから、
「日本精神がゼロ戦を作った」
「地球の歴史がゼロ戦を作った」
「宇宙の摂理がゼロ戦を作った」
という筋の、無生物を主語にした極端に一般化された主張は意味を成さないと述べているのですよ。
こんなのは作ろうと思えば幾らでも作ることが可能です。
堀越二郎が、日本精神や地球の歴史や宇宙の摂理をどのように踏まえてゼロ戦を開発したのかを、きちんと話の筋が通るように説いたのでもあれば別ですがね。

>どうしてそういう結論になるのか?展開してもらいましょう。

仕方ないので、もう一度ヘーゲルの言葉を引用します。
「特殊なものがたがいにしのぎをけずり、その一部が没落していく。対立抗争の場に踏みいって危険をおかすのは、一般理念ではない。一般理念は、無傷の傍観者として背後にひかえている。一般理念が情熱の活動を拱手傍観し、一般理念の実現に寄与するものが損害や被害をうけても平然としている様は、理性の狡知と呼ぶにふさわしい。」
ヘーゲルの考えに依るならば、日本が大東亜戦争に敗れたことの背後にも不可侵の一般理念が働いていたということになる。

>戦いとはそういうものです。相手もそう思って戦いを計画していたのですから、勝てなかったまでも相手のそういう目論見見事にを打ち破ったことが、アジアの解放に結び付いたのですから、大いに意義があったのではありませんか!どうしてそういう否定的な見方しかできないのか不思議です。

「相手のそういう目論見」というのが何を指すのか分かりませんし、日本はアジアを解放してはいません。
大東亜戦争後に、ベトミン、フクバラハップ、AFPFLなどアジア諸国の抗日組織が欧米列強からの独立闘争の主体として活躍したのは確かですが、それを日本のおかげとするのはおかしい。
イジメられっ子がイジメっ子を倒すために武道を始め、稽古で培った体力・精神力が後の人生に役立ち社会人として大成したとして、それをイジメっ子が自分のおかげだと自慢するのはどうなの?という話です。

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[2584]
tada - 2017年01月26日 (金) 23時33分

 天寿道さんが歴史哲学を読んだことがないというのは驚きです。でも天寿道さんらしいと言えば らしいかな(笑) とはいえ歴史哲学は読んだほうがいいですよ。天寿道さんの発想とよく似ていますから 自分が書いたのではないかと思うのでは(笑)。
 私は若いときに 歴史には法則があるという考えにとりつかれ マルクス・へーゲルそして 滝村隆一の書物にたどりついたので 思い出があります。恥ずかしい話でもあるのですがノストラダムスの予言が当たるとしたら 歴史は大きく繰り返しているのではないかとのガキの発想からでした。上記の三人以外にもヴィーコなどが再評価されていて 知の変革が叫ばれていた当時を思い起こします。
 滝村隆一が政治の法則、マルクスが経済の法則そして ヘーゲルが文化(精神)の法則に対応しています。天寿道さんの本流思想はこのヘーゲルの系譜に位置するものですね。2578文「堀越二郎と日本精神」でわかりました。こういった発想は 日本では哲学者ではなく 文学者、文芸評論家の仕事です。小林秀雄・坂口安吾・吉本隆明・江藤淳の名前が浮かびます。(蛇足 江藤淳は大東亜会議を賞賛した深田祐介の文章を高く評価しました。江藤先生は漱石論では素晴らしい評論を展開しましたが。政治的には問題があると言われています。)似たような仕事ぶりでは 政治思想史の丸山真男がいますね。丸山真男はアルファブロガーの池田信夫先生が日本文化を語るときに必ず引用するほどの問題提起力がいまだにあります。
 彼らそれぞれ 方向は違うようですが 直観的に歴史と時代を読む能力にはそれぞれが長けていたと思います。天寿道さんの本流理論も彼らの系譜に位置することで 理解することができます。

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[2585]
タマゴ - 2017年01月27日 (金) 00時09分

天寿堂さんの2ちゃんねる以下のコピペ作戦に付き合うほど暇ではありませんが、天寿堂さんの忘れっぽさも考慮して、やや別角度から再度コピペの内容のおかしな点を指摘しておきましょう。

>世界の中でも特異な立場の変換が縦横無尽に運動可能な弁証法的言語である日本語によって培われた思いやりの精神・ものごとを道として究める精神
>その精神が見事な社会を創り上げ、西欧の本流本家の哲学や個別科学に遭遇した時に、瞬く間にそのエッセンスを吸収して自分のものとして、世界的な新発見を次々に成し遂げ、
>そしてそういう日本精神が創り上げたゼロ戦がアメリカの誇る無敵のB17を全滅させて

既に述べたように、私は、日本人が伝統的に培ってきた武士道や和の精神などは高く評価しています。
しかし、天寿堂さんの述べる「日本精神」なるものは、どうもそういったものとは異なるらしい。
おそらく、文明開化以降に徹底的に破壊され僅かに残った日本的精神性と、怒涛の如く流入した一神教や帝国主義など欧米的価思想・価値観が、渾然としたようなものなんでしょうけれど。

日本人の頭脳の優秀性や手先の器用さ、即ち高いモノ作りの能力についても多言を要しないでしょう。
それとと欧米の科学技術が統体止揚されゼロ戦の開発の下地となった、ということであれば、特に異論は無いのです。
実際その通りですから。
問題なのは、天寿堂さんもの頭の中にある「日本精神」なる得体の知れない観念がゼロ戦を完成させたという主張です。
堀越は東大を主席で卒業する頭脳を持ち日本人のモノ作りの能力を最高レベルで発露させた人物ですが、彼の能力は一神教や帝国主義といった大東亜戦争の精神性とは何ら関係ありません。
それは、堀越二郎は戦闘機の開発だけでなく、戦後に傑作国産旅客機YS-11の開発にも携わっていることからも分かるでしょう。
大東亜戦争が勃発しなければ、その能力は、おそらく平和的目的だけのために開花していたはずなのです。

>西洋から遠く離れて科学とは無縁であった日本が、学問に出会うや怒涛の如く学問を自分のものにして、本家本元の技術をしのいだという事実こそが、日本精神が次の人類を救う本流である証だといえることを、わかりやすく端的に示す事実として、ゼロ戦を持ち出したのです。

もし“イギリスの天寿堂さん”なら、
「大陸から離れた島国として学問を成すには不利であったイギリスが、世界で初めて怒涛の如く学問を自分のものにして産業革命を成し遂げ、世界最高の技術を作り上げたという事実こそが、イギリス精神が次の人類を救う本流である証だといえることを、わかりやすく端的に示す事実として、スピットファイアを持ち出したのです。」
とでも主張するのでしょう。
アメリカ精神バージョンでも北朝鮮精神バージョンも簡単に作ることが可能です。
「〜精神」という掴み所の無い“観念”を主体とした、検証不可能な詭弁に過ぎないからですよ。
世界全体を俯瞰し自国をも客観視できる者に対しては、この手の詭弁は通用しません。

Pass

[2586] 人類が動物的な本能を捨てた真の理由
愚按亭主 - 2017年01月27日 (土) 13時31分

>歴史哲学は読んだほうがいいですよ。天寿道さんの発想とよく似ていますから 自分が書いたのではないかと思うのでは(笑)。

 これは、私にとってはわが意を得たりのとてもうれしい評価です。というのは、方法論の基礎が分かったら、それを用いて自分で創り上げていくことがとても重要だからです。それを私はやったのです。だから、その論理の体系性が身について、ヘーゲルの言葉の断片だけでその論理の構造がわかってしまうのです。すべてのものは、論理性をもって体系的につながっているからです。そういう世界を丸ごとつかみ取って「精神の王国」として見事に体系化したヘーゲルの体系だけに、そういうことが言えるのです。

 お二人が、なかなかピンとこないのは、人類にとって学問こそが本質的必然性だ、として歴史を見ていることだろうと思います。しかし、人類の歴史を俯瞰的にみると、たしかに人類は学問を発展させてきている現実があり、それを学校で学ばせています。これは何のためかと言いますと、ほとんど自覚されていないのですが、学問を本能化するためなのです。そして、その学問を発展基盤としてより優れた技術を取得したものが、世界を支配していっている現実があります。それが非常に象徴的に表れたのが、16世紀から19世紀にかけて、科学・技術を発展させた欧米が他の地域を圧倒したことです。こうした流れを学問的にとらえてヘーゲルは人類は「絶対理念」へと向かうとしたのです。だから、何ら観念論者の妄想などではありません。

 この人類にとって学問は本質的必然性であることを、これまではヘーゲルの学問論を紹介しながら生命体の遺伝子とのつながりにおいて展開してきましたが、今回は少し視点をずらせて、なぜ人類は動物的本能を捨てたのかという観点から論じてみようと思います。

 長くならないように端的に結論から述べますと、人類は絶対的真理の弁証法を冠石とする学問を新たな本能とすべく、動物的な本能を捨てたのです。この見方は唯物論的な事実の論理から導き出したものではなく、絶対観念論の俯瞰的な論理の帰結として導き出されたものです。なぜこういうことをあえて述べるかと言いますと、タマゴさんから、大東亜戦争聖戦論の時と同じように、それを旗印にして本能を捨てたという証拠がない、と批判されるであろうことはこれまでの傾向から明白だからです。

しかし、これから生まれようとしている胎児レベルの人類にそのような芸当などできようはずもありません。それでも本流の流れの論理からそういう結論を導き出すことができるのです。そして、実際人類はそういう方向に発展して来ています。それと同じように、大東亜戦争もそういう流れから客観的に判断できるのです。

 では、人類が動物的な本能を捨てるに至った客観的な必然性とは何かと言いますと、それは、一つは動物的な進化を支えていた内在的な発展性が衰えてきたことです。それだけに、動物的な本能の限界性を何らかの形で克服する必要性が増してきたという事情があります。と言うのは、動物の本能は、自分の生まれ育った環境にぴったり合った合理性であり、その意味で相対的真理と言うことが言えます。つまり、環境が変化したらその後理性・真理は誤謬に転化して絶滅してしまうということです。要するに変化に対応できない、ということです。

 では、どうしたら良いのか?そこで生命は、生命の誕生に匹敵するほどの大革命を起こすことになります。それは、これまでのような自然成長的・内在的な発展力に頼るのではなく、様々な変化に対応できる柔軟性・創造性に富んだ目的意識的・外在的な発展力を新たに造りだしたことです。これがすなわち、それまでの動物的な本能を捨てて人間的な認識を創り出したということです。この人間の認識にも二重構造があります。一つは、それまでの即自的な動物の認識を受け継いだ目の前の事実的な変化に対応して発展させる相対的真理の系譜に連なる認識と、その現実的な立場から離れて自由に運動しうる、したがって、これまでの相対的真理の限界を根本的に克服できる可能性を持った、この世界全体を論理的に体系化していかなる変化にも対応しうる絶対性を持った、理性をもって人類の新たな世界創造を根本において支える絶対的真理の系譜へと連なる認識と、の二重構造が存在するということです。そして、この認識の二重構造を統一・統体止揚して創り出された学問を、人類の新たな本能とすべく、人類は出立したということが言えるのです。出鱈目なように見えて、あちこち彷徨い、寄り道をしながらも着実に人類はそこに向かって歩みを進める、というのが「理性の狡知」ということです。

 ところで、たしかに、先に述べておいた俯瞰的一般論は、それ自体が直接に事実の構造を解明してくれるわけではありません。だから、マルクスは役に立たないと一時的に放棄して、事実と格闘する道を選択しました。このこと自体は第一の否定として、正しい選択でした。しかし、否定の否定の論理にもある通り、これはあくまでも一時的な否定であって完全な否定であってはならないのです。それが弁証法というものです。つまり、事実との格闘を通じて創り上げられた事実の論理すなわち即自的悟性は、俯瞰的一般論すなわち否定的理性による否定的媒介の洗礼を受けなければ本物の真理になれないのです。

 何故なら、世界全体の部分的真理にすぎない事実の論理である即自的悟性の一般論が、全体の真理である俯瞰的一般論の体系とかみ合わない場合は、その即自的悟性の一般論の再検討が必要になり、そういう観点からの検証が必須となるからです。たとえば、話題となっている大東亜戦争に関して、即自的悟性の立場からタマゴさんもtadaさんも多くの日本の歴史研究家の先生方も皆、日本が悪いという論調です。つまり、それが一般論的傾向を示しているということです。

 しかし、俯瞰的一般論の本流論の立場からするならば、本流であるはずの本家本元の欧米よりも、むしろ日本の方が正統な本流性を示して戦った結果、欧米の植民地体制が崩壊しアジアが解放されたという歴然たる事実が存在します。そして、それによって人類の認識、すなわち本流の流れが明らかに大きく一歩前進したことは確かです。

 かかる観点から、日本が悪いとする多くの歴史研究家の結論は、何かがおかしいということになります。それは、タマゴさんがいみじくも指摘したように、個別の事実にとらわれて大きな流れ・本質が見えていないということです。事実はいろいろな要素が複雑に絡み合って現象しているので、いかようにも自分の好きな側面を切り取って説くことが可能です。その場合には、いわゆる「群盲象を撫ず」のように、同じ対象が様々な形に見えてくることになります。戦後の日本は敗戦国として、戦勝国史観を吞む形で国際社会に復帰させてもらったという負い目から、政治も学問も、その戦勝国史観に抵触しない範囲に自ら自粛するという自己規制をかけてしまっているのが実態です。。だから、日本の歴史研究者たちは、、内省的に日本が悪かったという事実を一生懸命探して持論を創っていった人たちばかりです。そして、できるだけ戦勝国の悪口には触れないようにしようと自己規制をかけているように見えます。日本が侵略したのは事実だから日本は悪いことをしたということばかり強調します。これは、事実の主観的評価とは言えても、客観的評価とは言えません。今の認識から過去の認識を断罪しているものばかりです。これは歴史を研究するものとして、あってはならない態度です。

 その当時の人類の国際社会の現実は、隙あれば互いに侵略し合うのが当たり前の時代でした。日本の戦国時代のようなものでした。ところが、そこに圧倒的な科学技術の差、武器の差をもつ西欧諸国が侵略してきてあっという間に東南アジア諸国を支配してしまいました。この文化の違い、力の差、人種の差に圧倒されて、現地の人たちは反抗する意欲をすっかりなくして諦めが蔓延していくことになります。(フィリピンだけは盛りの過ぎた弱いスペインが宗主国でしたので、例外的に紛争が続いていました)

 そして、西欧諸国の中でもドイツやイタリアなどの後発の勢力が台頭して、すでに皆囲われてしまっていたために、たの西欧諸国を叩き分捕ろうとする動きがでてきたので、すでに持っていた諸国は、自らの既得権を守るために、他人の土地を侵略するのは良くないという大義名分を持ち出しました。それが大西洋憲章です。しかし、その欺瞞性は大東亜会議の原稿を作成した重光が指摘した通りです。実際、日本軍によって植民地から追い出された旧宗主国たちは、日本が負けると、また宮に戻そうとしました。これは自らが掲げた大義名分を自ら破ることに他なりませんでした。

 このように、当時の人類の認識はそういうものだったのです。ですから、侵略したから悪いという論理は、その時代性をもって評価する場合、正しくないのです。これは日本の戦国時代でいえば、織田信長が浅井長政の領地を侵略したからけしからん、というようなものです。そんな中で、時代の流れとして評価すべきは、圧倒的な科学力・技術力の差を克服して侵略対象国の一つであった日本がその差を瞬く間に縮めて部分的に凌駕するまで実力をつけて、西洋諸国に戦いを挑んで、その植民地体制を崩壊させたということを評価するべきなのが、歴史学者としての正当な評価であるべきなのです。

Pass

[2587]
タマゴ - 2017年01月28日 (土) 09時18分

>大東亜戦争に関して、即自的悟性の立場からタマゴさんもtadaさんも多くの日本の歴史研究家の先生方も皆、日本が悪いという論調です。つまり、それが一般論的傾向を示しているということです。

「日本が悪いという論調」
ではなく
「大東亜戦争を聖戦と結論することはできない」
と述べているのです。
再三その根拠は提示してきたにも関わらず、天寿堂さんは全く認識を改めようとはしない。
なぜかというと、誤った歴史知識と強烈な先入観から、
「大東亜戦争はアジア解放の聖戦だ!」
という「結論」を先に決定し、それに反する事実がどれほど提示されようとも、「結論」は死んでも変えないと決め込んでいるからです。
普通の日本人は、こういう一神教的で原理主義的なモノの考え方はしませんから、相容れません。
過去に天寿堂さんと付き合いのあった人には、おそらく、このような奇妙な思考形態に匙を投げて離れていった人が少なくないであろうと想像します。
まあ、こういう人は、中東の一部やアメリカ南部や北朝鮮辺りには掃いて捨てるほど居そうな気がしますがね。

>しかし、俯瞰的一般論の本流論の立場からするならば、本流であるはずの本家本元の欧米よりも、むしろ日本の方が正統な本流性を示して戦った結果、欧米の植民地体制が崩壊しアジアが解放されたという歴然たる事実が存在します。そして、それによって人類の認識、すなわち本流の流れが明らかに大きく一歩前進したことは確かです。

私には、ヘーゲルの世界観の正否を判断することはできませんが、天寿堂さんの「俯瞰的一般論の本流論」の誤りを指摘することはできます。
なぜなら、些かも「俯瞰的」「一般的」でないから。
天寿堂さんは、日本周辺の狭い範囲の歴史を、インチキ論者のインチキ本を真に受け、元サヨクの転向右派という特殊な立場から観ているだけなのです。
だから虚偽・誤解・偏見が充満している。

日本が「正統な本流性を示して戦った」という事実も無ければ、
「欧米の植民地体制が崩壊しアジアが解放された」という事実も存在しません。
日本は、後発の帝国主義国家として、先発の帝国主義国家である欧米列強と同様の論理で争ったのです。
私もtadaさんも、そのことを手間暇を掛けて論証してきたのです。

亜細亜各国は、どの国も自助努力で独立を勝ち取りました。
天寿堂さんは一体、何処のアジアの国のことを言っているのでしょうか?
具体的に示して欲しいものです。

Pass

[2588]
tada - 2017年01月29日 (日) 12時49分

 天寿道思想の大義名分論ですが ちょっと不満です。やはり 文化思想も政治・経済の規定をうけるのですから 20世紀の初頭あたりからの近代化の流れ つまり政治・経済の発展にともなう人権思想の開花をも念頭に置くべきです。フランス革命の身分制度の解放・米国の英国植民地支配からの独立・米国南北戦争からの黒人奴隷解放など 近代思想のゆっくりとした発展の流れを見るべきです。もちろん 人権近代思想に反対・反発する大きな流れも大きくあります。賛成・反対のその2つの大きな流れをみることが大事なのです。英米にも植民地解放思想はありました。反対に日本にも帝国主義思想はありました。それはその時々の それぞれの国家のなかで 議論され政策化されてきたわけです。派閥・党派・権力闘争が理想をねじ曲げたり、 逆に現実的な対応が理想の実現に手を貸していたという皮肉さえありました。そういったことを含んで 「理性の狡知」が起きたと私は考えたのです。人権思想の開花・発展は 必然性をすでに把持していたのですから すべてが日本の手柄のように描く思想はちょっといかがなものかと思っているわけです。
 大東亜戦争は侵略戦争である。このことを英米の大義名分論で説明すれば 国際法・国際条約がその根拠になっています。日本もパリ不戦条約の当事国でした。4カ国条約では 当時の帝国主義で分割した領土を英米日仏で 互いに認め合ったのです。当時の国際法は大義名分として確立されていたのです。それを一方的に破棄したことが 英米列強にとっては同じ列強として 認め合った日本が変節して 「法と正義」を踏みにじり 米国に 違法である先制攻撃をおこなったとの認識につながっているのです。日露戦では 日本は国際法を研究して 違法ぎりぎりの線を見極めながら 開戦しているのですから その国際法の無視ぶりには英米には理解しがたいものがあったでしょう。(米国も国際法ぎりぎりで行動していることにも注目せよ)
 日本はそのとき 天皇制イデオロギーの徹底した思想教育によって 頭の先からつま先まで 天皇教に支配され 英米流大義名分の「法と正義」はアジア的大義名分である儒教朱子学的「中華思想」にとって変わっていったのです。この独善的な思想が政策として大東亜共栄圏に 米国を認めることができない中華思想が無謀なハワイ作戦につながるのです。植民地解放も中華思想として あくまでも日本がアジアの盟主として 各国を日本的に指導するという傲慢さに基づき 解放の美名を押し出しながら 各国の事情にお構いなく進められた面もあるのです。しかし 植民地解放戦争という大義名分は (欧米からは侵略戦争になるわけですが) 当時の日本国民に対しては 天皇の命による開戦の詔勅と同じように 絶対的に支持肯定されるものになっているわけなのです。
 近代という意味からみれば 侵略戦争論には 分はありました。日本の戦争観はすでに 時代遅れであったと言えるのです。そして反対に 侵略戦争のアンチテーゼである植民地解放戦争は アジア的大義名分論としては 日本国民に対する説明としてはよくできていることを認めなくてはいけません。それは 戦後になってからの戦争理由として 現在も出版流通していることからもわかります。
 私とタマゴさんの考え方は その中庸を目指すものです。世界史の方法から 近代の 政治・経済・思想を三項からバランス良く その戦争の構造を説くことを目的にしているのです。だから イデオロギー・思想性から 政策に反映されたことだけを 重要視し スローガン的言辞を排し腑分けし 現実の目的性 作戦に注視し 生(なま)の形を提出することで 結果 帝国主義的戦国的世界を語ってきたのです。思想に関しては 勝てば官軍 理由は後から汗牛充棟分の結果論で付いてくるものですので 注意が必要なのです。 しかし 我々の立場にいれば 東京裁判の意味も 侵略か解放かの不毛な二者択一問題も 戦後の米国との同盟 軍人官僚の暴走的派閥的行動の秘密 昭和天皇と立憲君主制の考え 山本五十六のハワイ作戦の構造的な説明できるのです。           天寿道思想には 日本人の心・魂を揺さぶる文学的な力はあります。アマゾンの書評をざっとみても 植民地解放戦争に共鳴され方は多数にいらっしゃるようですので 私とタマゴさんの意見も時と所が違えば 圧倒的に天寿道思想のほうが賞賛されるでしょう。選挙にでれば 天寿道さんのほうが当選するでしょう。私たちの意見はあくまでも歴史科学ですので 一般大衆に対しては複雑でわかりづらいし 結論が中庸凡庸なものでもあり 刺激・パンチがありませんから。

Pass

[2589] まず耳を傾けてみましょう
愚按亭主 - 2017年01月30日 (月) 07時06分

>私とタマゴさんの考え方は その中庸を目指すものです。世界史の方法から 近代の 政治・経済・思想を三項からバランス良く その戦争の構造を説くことを目的にしているのです。だから イデオロギー・思想性から 政策に反映されたことだけを 重要視し スローガン的言辞を排し腑分けし 現実の目的性 作戦に注視し 生(なま)の形を提出することで 結果 帝国主義的戦国的世界を語ってきたのです。思想に関しては 勝てば官軍 理由は後から汗牛充棟分の結果論で付いてくるものですので 注意が必要なのです。 しかし 我々の立場にいれば 東京裁判の意味も 侵略か解放かの不毛な二者択一問題も 戦後の米国との同盟 軍人官僚の暴走的派閥的行動の秘密 昭和天皇と立憲君主制の考え 山本五十六のハワイ作戦の構造的な説明できるのです。

 では、傾聴しますので、それを詳しく展開してみてください。

Pass

[2590]
タマゴ - 2017年01月30日 (月) 11時26分

ちょっと別の角度から日本本流論について論じたいと思います。

既に述べたように、私は、日本本流論自体を批判しているのではなく、
「大東亜戦争は聖戦であった」
という一部右派の主張を否定してきました。
日本も、欧米列強と同様に、領土や資源の獲得を目的として帝国主義政策を推進してきたのであり、大本営や帝国議会の一次資料を虚心になって読んでいくと他の見方をすることは不可能なのです。
当時の日本の本流である帝国主義的海外進出の中にも、今村均や木村強のように本流の方針に抵抗して寛容な軍政を施した例もありますが、それら傍流の例を繋ぎ合わせて聖戦を主張するのは無理があります。
そんなことが認められるなら、イギリスのクウェーカー教徒がアメリカの原住民と対等に接し友好関係を築いたような例は幾らでもあるわけで、そういった傍流の例を繋ぎ合わせて欧米列強の海外進出を正当化することも可能となってしまいます。

私は、一神教的な独善的・排他的・攻撃的な精神に対して批判的な立場ですが、文明開化〜終戦までの日本にも欧米と同様な一神教的・原理主義的な精神性が蔓延していたのです。
ラフカディオ・ハーン等のお雇い外国人が、彼らが愛した日本の寛容な伝統的精神性が欧米精神に急速に汚染されていった実情を嘆いた話は既に述べました。

では、江戸時代までの日本の伝統的精神性とは何か、というと、これは協調主義なのです。
平和主義と言ってもよい。
古きを訪ねれば、縄文人の遺骨を調べた結果、他者と傷付け合うことが殆ど無かったと解っています。
そのような平和が1万年以上も続いた世界史上に稀に見る時代が縄文時代だったのです。
その後、朝鮮半島から弥生人が渡ってきた辺りからキナ臭くなってきたわけですが、平和を求める遺伝子はその後も息づいていき、聖徳太子の和を以て尊しと為すという教えに繋がったと考えられるでしょう。
武士道精神も本質は平和主義です。
新渡戸稲造は江戸時代の武士道の本質を「血を流さずして勝つこと」と述べていますが、これはその通りで、上泉伊勢守、塚原卜伝、柳生宗則なども同様の思想(活人剣など)を展開しています。
有名な柳生新陰流の「無刀捕り」も、その思想から創られた技術です。
江戸川時代に発祥した古流柔術は全て本質は護身の術であり、人殺しの方法ではありません。
(グレイシー柔術がナゼ世界から称賛されたのかと言えば、単に強かったからではなく、武士道をルーツとしたセルフディフェンスの思想が守られていたからです。)
勿論、平和を守るために不当な攻撃を制する必要というのはありますが、自分から攻撃を仕掛けることは武士道精神に反するのです。

江戸時代の日本には、戦争して海外領土を獲得しようなどという発想は存在しませんでした。
それは欧米の弱肉強食の論理なのです。
日本も文明開化以降、その欧米の論理に汚染されてしまった。
私は純粋な縄文人に近いのか分かりませんが、その「日本精神」なる交雑種に全く魅力を感じないのです。

Pass

[2591]
tada - 2017年01月30日 (月) 21時33分

 機会があったら 詳しく書きたいですね。2588文にそれとなく書いてありますが 中心は朱子学からの天皇制イデオロギーの分析とその政治制度に対する影響力の考察になるかと思います。石原完爾の日蓮宗の異端性・永田鉄山派の国家社会主義と天皇制との親和性・昭和天皇 2.26事件による立憲君主制の自覚・東京裁判 蒋介石の策略と米国戦後体制の確立の狙い ハワイ作戦決断の思想による考察 特に田中新一と石原最終戦争論 山本五十六とシュリーフェンの比較 大川周明の反英米思想と社会主義 などなど。

Pass

[2592] 人類の本流史観はへーゲルなしには確立できない
愚按亭主 - 2017年01月31日 (火) 11時44分

>天寿道思想の大義名分論ですが ちょっと不満です。

 私は、大義名分論など説いた覚えはありません。私が主張したことは、本流論の立場から俯瞰的客観的事実として日本が欧米帝国主義と戦ってアジアから欧米帝国主義を追い払って欧米帝国主義の植民地支配体制を崩壊させ、アジアを解放したということだけです。それをタマゴさんが右派の説と同じと勝手に決めつけて、開戦時にアジア解放などという大義名分は主張していなかった、と反論したわけですが、これは全く私の主張を見よともしないで、自分の決めつけばかりを見ての見当違いの反論でした。しかし、そこから議論に発展して、よくよく聞いてみると、当時の戦争当事者たちは、しっかりと聖戦だと言っている事実を知って、目的意識的に戦っていたのだと感心し、なぜ当事者たちが主張していることを、無視し否定するのかと反論したまでです。

> 私とタマゴさんの考え方は その中庸を目指すものです。世界史の方法から 近代の 政治・経済・思想を三項からバランス良く その戦争の構造を説くことを目的にしているのです。だから イデオロギー・思想性から 政策に反映されたことだけを 重要視し スローガン的言辞を排し腑分けし 現実の目的性 作戦に注視し 生(なま)の形を提出することで 結果 帝国主義的戦国的世界を語ってきたのです。思想に関しては 勝てば官軍 理由は後から汗牛充棟分の結果論で付いてくるものですので 注意が必要なのです。 しかし 我々の立場にいれば 東京裁判の意味も 侵略か解放かの不毛な二者択一問題も 戦後の米国との同盟 軍人官僚の暴走的派閥的行動の秘密 昭和天皇と立憲君主制の考え 山本五十六のハワイ作戦の構造的な説明できるのです。

 期待外れで残念です。前のところで展開したとする内容も、生の時代を生きた日本人の思想性・魂とは、かけ離れた無味乾燥な解釈にすぎず、結果として中庸のつもりでも、戦勝国史観・自虐史観にしかなっていません。というのは、戦勝国の言い分には非常に理解があって無条件に肯定的であるのに対し、日本側の言い分に対しては頭から否定的にしか見ていないからです。これで本当に中庸と言えるでしょうか?事実は多様性ですから、如何様にでも見ることができ結果として、群盲象を撫でるように千差万別の説が出てくることになります。だから、タマゴさんが言うように本質論が大事なのです。それが本流論です。

 その本流論を出すまでもなく、tadaさんの説には、思想を説くときには政治と経済が全く抜けてしまっています。これで、どうして三項と言えるのですか?三項と言うのは一項に三項が内包されているから弁証法なのです。たとえば、米国大統領のルーズベルトは、厭戦気分に支配されていた米国民を欧州戦線へと駆り立てるために、日本に先制攻撃をさせようという政治的な意図のもとに、日本人が法や約束を律義に守るという性格を利用して、条約を守れとする一方で経済的に締め上げていきました。ですから、「その国際法の無視ぶりには英米には理解しがたいものがあったでしょう。(米国も国際法ぎりぎりで行動していることにも注目せよ)」どころか、しめしめしてやったり、だったはずです。tadaさんも、日本人であるならば、法を守り約束を守る日本人が、自らその法をやぶるにはよほどのことがあったはずだ、とその真相を追求すべきなのにその気配が全くありません。というようにです。やれ「中華思想」がそうさせただの、独善性が発揮されたなどと言って、学問的に解き明かしたつもりになっている、というようにしか見えません。、これはどう見ても公平ではありません。これが、どうして中庸なのですか?

 ここで、本流論に立ち戻って、少し説いてみますと、南ク学派は生命史観を創り上げる過程で、本流の発展の構造の一大論理を創り上げました。それは、本流は遅れて生まれて辺境で育つものによって受け継がれていく、という論理です。たとえば、海中の王者魚類の時代に、遅れて海の端っこで生まれて両生類になったものが、次の本流である哺乳類へと進化することができ、その哺乳類の中でいわば辺境の地ともいえる木の上で育ったサルが、人類へと進化できたというようにです。

 南ク学派は、この論理をもって人類の本流の歴史も解けると豪語して十年以上も経過するのに、未だにそれをなしえていません。それはどうしてかと言いますと、ヘーゲルの絶対精神から絶対理念へという弁証法の大事性が、分かっていないからです。

 このヘーゲルの弁証法があれば、人類の本流が何かが分かり、その本流の受け継ぎの論理が見えてくるのですが、ヘーゲルを否定しているために、それが見えず、結果として、いつまで経っても、人類の本流史観ができないのです。

 では具体的に、それはどういうものかといいますと、人類の本流は古代ギリシャ哲学とともにに誕生しました。それが中東を経て西欧で個別科学の誕生をもって学問として一応の開花を見ました。この学問によって西欧は地球の覇者となりましたが、人類の主体性の確立のための学問とそれを阻む宗教との戦いにおいて、当時勢いのあった科学が、学問の尖兵として宗教と熾烈な戦いをくりひろげておりました。その時、科学は、宗教と同じ観念論だとして、学問の冠石であるヘーゲルの弁証法を追い落としてクーデターを起こしたのです。ところが、その一方で、肝心の宗教とは妥協して人類の主体性の確立を先延ばしにしてしまいました。

 この結果として、西欧諸国はキリスト教を基盤として科学の応用としての技術の優位性をもって世界を侵略し、植民地支配を行っていったのです。したがって、彼らの人種差別意識とそれを正当化するキリスト教によって、アジアアフリカ・の人間を、異教徒は人として認めないという、自分たちだけの内輪だけの人権思想で、過酷な支配を行っていったのです。

 一方で、西欧から遠く離れた東洋の端っこの日本は、西洋から学問が流入すると瞬く間にその学問を吸収し、自分のものとして国家としても近代化し、富国強兵によって西洋諸国にも劣らない実力を身に着けていきました。そして、まだ術力を十分に蓄える間もなく、本家本元のドラ息子たちとの戦いになってしまい、残念ながら敗れてしまいました。

 その後、戦勝国である米国に国としての主体性を奪われた状態にさせられてしまいましたが、経済的には瞬く間に復興し、世界の一等国としての実力を創り上げ、肝心の学問においても、第一の否定から第二の否定へと向かう相対的真理の弁証法を創り上げ、本家の学問が堕落していく中で、それに逆らって個別科学の学問的な体系化をはたし、学問の真の体系化へ向けての準備を着々と整えていっるのが現在の日本の状況です。これらの流れをざっと俯瞰してみますと、日本こそが本流を受け継ぐ国家であることは明白であります。そして、これは、南ク学派が創り上げた本流の受け次の論理にかなうものであることは言うまでもないことです。

 大東亜戦争も、そういう観点から見ていく必要があると思います。

>日本はそのとき 天皇制イデオロギーの徹底した思想教育によって 頭の先からつま先まで 天皇教に支配され 英米流大義名分の「法と正義」はアジア的大義名分である儒教朱子学的「中華思想」にとって変わっていったのです。この独善的な思想が政策として大東亜共栄圏に 米国を認めることができない中華思想が無謀なハワイ作戦につながるのです。植民地解放も中華思想として あくまでも日本がアジアの盟主として 各国を日本的に指導するという傲慢さに基づき 解放の美名を押し出しながら 各国の事情にお構いなく進められた面もあるのです。しかし 植民地解放戦争という大義名分は (欧米からは侵略戦争になるわけですが)

 日本は、江戸時代までに公と私とを見事に弁証法的に統一して使い分ける、つまり、社会的個人として国家的個人としての基本的素養を一般庶民にまで創り上げた、世界で唯一の国でした。それはその当時、日本に来た西洋人が一様に驚いた点でもあります。日本が封建的国家から近代的な統一国家として転成していくことが短期間のうちにできたのは、その素養がすでにできていたからこそ、可能だったと思います。つまり、天皇制のイデオロギー教育の成果もそういう観点から見ていく必要があるということです。tadaさんのせつには、そういう視点が全くありません。結果として、独善的な「中華思想」としてだと断定して、今のイスラム国の独善的なアラー思想と同列に見なす観点になてしまっています。

 こういう見方は、私は反対です。当時の日本国民は主体的に日本精神をもって国家の統一性の象徴として天皇を崇拝したのであって、したがって、各自が主体性をもって日本精神性を発揮したのです。戦時中の数々の素晴らしいエピソードは、そういう日本精神の発露として見るべきで、例外的な個人の資質にのみ帰せしめようとするのは、間違いです。また軍部も軍部で精いっぱい日本のために戦ったのです。それを、あとから評論するのは簡単ですが、その当時の日本人の身になって考えることが重要です。そうしたらそんなに簡単に法論出来なくなるはずです。

 それから、欧米流の「法と正義」については、大東亜会議の東條の原稿の中で、重光が見事にその欺瞞性をついて、論破しております。そして、その欺瞞性を日本は大東亜戦争を通じて、欧米が侵略によって得た既得権を守れなくするという形で、欺瞞性を解消して、人類に認識の発展段階として定着するのに大きく寄与したのです。 

>一神教的な独善的・排他的・攻撃的な精神に対して批判的な立場ですが、文明開化〜終戦までの日本にも欧米と同様な一神教的・原理主義的な精神性が蔓延していたのです。 

 まず、一般的に言って、国家のまともなあり方として、イデオロギー的な統一は必須です。個性尊重、個人優位の人権主義は、国家としての体系性を崩壊させ、国家を弱体化し、社会の混乱を招き、結果として個人も自由を失うことになります。つまり、レベルの低い自由は、不自由にしかならないということです。その意味で、江田時代から明治・大正・昭和の日本の国家としての発展は、国家の発展としてまともなものだったと思います。問題は、その当時の世界が帝国主義的戦国の世で、うかうかしていると滅ばされてしまうという、非常に厳しい時代だったという時代は遺影を考えなければなりません。そういう時代の中での国家のあり方として正当だったということです。その意味で、米国の度重なるいじめに対して戦いを挑んだという当時の日本精神を高く評価すべきです。それが世界を大きく変えることになったのですから。それを早くから予見していた石原莞爾は異端などではなく、日本精神の先見性として評価すべきです。

>その「日本精神」なる交雑種に全く魅力を感じないのです。

 それはタマゴさんに人類の本流の発展と言う観点がないからです。 

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[2593]
タマゴ - 2017年01月31日 (火) 13時18分

>タマゴさんが右派の説と同じと勝手に決めつけて、開戦時にアジア解放などという大義名分は主張していなかった、と反論したわけです

モルデカイモーゼはともかくとして、日本会議系の宗教右派の本を鵜呑みにし、日本本流論とやらに取り入れたのは、天寿堂さんではありまんか。
それから、私は、日本軍は亜細亜解放などしておらず各国の国民が欧米列強から独立を勝ち取った、と述べたのです。
開戦時にアジア解放という大義名分を掲げていなかったという事実は、天寿堂さんの大東亜戦争に対する誤認を糺す過程で提示したもので、そのことを主に唱えたかったのではありません。

>まず、一般的に言って、国家のまともなあり方として、イデオロギー的な統一は必須です。

当時の日本にはアメリカのような大統領制は無理にしても、そのイデオロギーが国家神道という急ごしらえの一神教である必要はなかったはずです。
国家神道のルーツは平田篤胤が作った復古神道というもので、これは、神仏が習合する以前の純粋な神道を復古したものというタテマエになっています。
しかし、篤胤は、師と仰ぐ(実際には会ったことはない)外国嫌いの本居宣長の影響を強く受け仏教を毛嫌いしていたのですが、神道には仏教に対抗できるだけの教義が無かったために、こともあろうか江戸時代に禁教とされていたキリスト教の聖書をコッソリ入手し、その教義を神道に入れてしまったのです。
キリスト教も外国の宗教ですから矛盾も甚だしいわけですが、そんな大チョンボをやらかした。
明治維新以降の日本が欧米的一神教的価値観に浸食される方向へ進んでしまった原因の一つには、篤胤のヘンテコリンな教えを国体の理論として取り入れたことがあるのです。

勿論この国体なるものは明治維新期に創られたものであって、我が国の長きに渡る天皇の在り方とは異なるものです。
今上陛下が、平成21年4月8日に、
「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば,日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合,伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。」
と仰っていますが、流石に卓見だと思います。

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[2594]
タマゴ - 2017年01月31日 (火) 20時37分

>前のところで展開したとする内容も、生の時代を生きた日本人の思想性・魂とは、かけ離れた無味乾燥な解釈にすぎず、結果として中庸のつもりでも、戦勝国史観・自虐史観にしかなっていません。というのは、戦勝国の言い分には非常に理解があって無条件に肯定的であるのに対し、日本側の言い分に対しては頭から否定的にしか見ていないからです。これで本当に中庸と言えるでしょうか?事実は多様性ですから、如何様にでも見ることができ結果として、群盲象を撫でるように千差万別の説が出てくることになります。だから、タマゴさんが言うように本質論が大事なのです。それが本流論です。

この箇所はtadaさんへの返答ですが、私の名前も出てきているので、横から口を挟もうと思います。
まず、私やtadaさんは日本より先勝国を贔屓したことは一度もありませんし日本側の言い分を頭から否定したこともありませんので、戦勝国史観だの自虐史観だのというレッテルを貼られる謂われは全くありません。
当時の日本は本質的に欧米列強と同様の帝国主義国家であったと述べているのみです。
これが自虐だというのなら欧米列強も貶めていることになるし、欧米の肩を持っているというなら日本の肩も持っていることになる。
欧米列強や亜細亜諸国よりも日本を特別視しなければ自虐史観だ戦勝国史観だというのであれば、自身が世界を俯瞰できていない姿勢を露呈しているのですよ。
初めから日本を特別視するということが前提となっているのであれば日本が本流という結論になるのは当たり前のことです。
しかし、そのようなインチキが許されるならば、イギリス人がイギリス本流を唱え、アメリカ人がアメリカ本流を唱え、中国人が中国本流を唱えることも、幾らでも可能となります。
そういう前提無しで世界を公平に俯瞰したとしても日本が本流として浮上するのであれば、その時初めて堂々と日本本流を主張すれば宜しい。

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[2595]
tada - 2017年02月01日 (水) 00時14分

>そして、西欧諸国の中でもドイツやイタリアなどの後発の勢力が台頭して、すでに皆囲われてしまっていたために、たの西欧諸国を叩き分捕ろうとする動きがでてきたので、すでに持っていた諸国は、自らの既得権を守るために、他人の土地を侵略するのは良くないという大義名分を持ち出しました。それが大西洋憲章です。しかし、その欺瞞性は大東亜会議の原稿を作成した重光が指摘した通りです。実際、日本軍によって植民地から追い出された旧宗主国たちは、日本が負けると、また宮に戻そうとしました。これは自らが掲げた大義名分を自ら破ることに他なりませんでした。

 このように、当時の人類の認識はそういうものだったのです。ですから、侵略したから悪いという論理は、その時代性をもって評価する場合、正しくないのです。これは日本の戦国時代でいえば、織田信長が浅井長政の領地を侵略したからけしからん、というようなものです。そんな中で、時代の流れとして評価すべきは、圧倒的な科学力・技術力の差を克服して侵略対象国の一つであった日本がその差を瞬く間に縮めて部分的に凌駕するまで実力をつけて、西洋諸国に戦いを挑んで、その植民地体制を崩壊させたということを評価するべきなのが、歴史学者としての正当な評価であるべきなのです。

私の2588文は 上記2586文を天寿道さんの大義名分論としてみたことへの不満でした。英米はちゃんと日本の朝鮮台湾満州その他南洋諸島の権利を認めていました。日本が中立国南ベトナムに手を出したことで 侵略国となったのです。そのために米国は経済封鎖に踏み切りましたが それも日米通商条約の期限切れを待ってからの処置でした。戦後になって 重光はその当時水面下で進められた日米了解案 別名N工作を二重外交と呆けた批判をしました。重光にも限界はあったわけです。天寿道さんが思っているほど この分野は単純な話ではないんですよ。もっと世界史の勉強が必要だと思います。

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[2596]
タマゴ - 2017年02月01日 (水) 15時51分

大東亜戦争に対するtadaさんと私の見解は、全く同じというわけではないのです。
おそらく、細部については相違点もあるでしょう。
しかし、日本一国を特別視せずに世界情勢を俯瞰するという立場は共通しています。
立場が共通していれば、どれほど細部の見解が異なっていても、マトモな議論が成立するのです。

「俯瞰」とは全体を満遍なく観ることです。
つまり、知識不足で全体像がぼんやり見えていることではなく、全体も細部も見えていることが俯瞰なのです。
そのためには、世界史の知識、即ち、ヨーロッパ史、アメリカ史、中国史、インド史、東南アジア史、イスラム史、アフリカ史・・・といった日本国外の歴史に、ある程度は通じている必要があります。
それらの歴史を全て統体止揚した観方が俯瞰なのであり、自国一国を特別視することを超克する観方なのです。

天寿堂さんのように、日本周辺の狭い範囲の歴史しか知らず、しかも偏った見方しかできていない人が「俯瞰的」だの「一般的」だのという看板を掲げるのは、羊頭狗肉もいいところなんですよ。

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[2597] 歴史の評価のしかた
愚按亭主 - 2017年02月02日 (木) 09時55分

>天寿道さんが思っているほど この分野は単純な話ではないんですよ。

 単純な分野でないからこそ、単純化できる本流論が必須なのです。歴史を評価する場合、いかなる基準をもって評価するかが大事となります。人類の絶対理念への発展の道筋においてその歴史的事実がいかなる意味を持つか?と言う観点から見ていく必要があります。tadaさんは、当時の時代認識において欧米の唱える「法と正義が」最も進んでいたとみてそれをしっかりと守ろうとしたアメリカに対して、それを勝手に破った日本を時代に逆行した愚挙と断じているようですが、この歴史評価は、現象論・形式論にすぎないもので、内容のない皮相な評価だと思います。つまり本質が見えていないということです。ですからいろいろ評論するだけでいつまでたっても有益な教訓・結論・未来への展望が出せないのです。

 この世界は、今後もますます複雑化していくことでしょう。このように複雑化してしまった原因は、訪米列強にその責任があります。ですから、大東亜戦争で、本家でありながら変質して偽物化してしまった欧米に、本物の本流になるべき日本が敗れてしまった、という意味で日本にもその責任は大いにあります。しかし、それは少々酷な話でもあります。まだその準備ができていなかったからです。植民地体制を崩壊させアジアを解放できただけでも御の字と言うしかありません。しかし、植民地体制を崩壊させたものの、欧米の支配体制そのものは壊すことができませんでした。それが、現在の混乱の根本的な原因です。

 今のトンランプ現象について、テレビに出る評論家たちは、30年前の時代遅れの認識だと酷評するばかりで、その意味を正しくとらえているものはいないようです。トランプ大統領の移民の入国禁止令について、そもそもアメリカは移民の国なのにどうして?とか企業のトップは移民の優秀な頭脳が不可欠だと批判しています。ところが、その元移民たちの大半がトランプを支持しているのです。この意味は何か?移民は最早、移民ではなくアメリカ国民に量質転化しているということです。つまり、トランプ現象の本質は経済優先勢力によってガタガタにされた国家・政治を取り戻すということであり、経済に対して国籍を思い出させ、本来の位置に引き戻そうとしているということにほかなりません。しかし、自分たち自身の責任・反省をしないで、外国のせいにばかりするのはあまりいただけませんが・・・・・

 この件に関して、かつて私は次のように主張しました。
〔2518〕「今起きているグローバリズムの破たんは、国家の解体の上になされようとしていたために、うまくいかなかったのです。このグローバリズムの原点は、白人帝国主義の植民地支配です。部族間民族間の対立を助長するように支配し、現地の経済が発達するのに必須な産業を壊して自分たちの利益が上がるように経済的に支配し、国家の発展に結び付くような教育は一切行わずに、国家が国家として壊れていくような支配でした。日本によってそういう体制が壊された後も、巧妙に国家を解体する工作が続けられ、結果として民族のエゴ・個人のエゴがむき出しになって紛争が多発し、移民や難民が旧宗主国のヨーロッパに大量に流れ込むことになってしまっているのです。これはまさに自分たちが行ってきた悪行の天罰が下っているように見える、歴史の皮肉です」

〔2572〕「ロスチャイルドの一族の一部が比較的ユダヤ人に対する蔑視の意識のうすかった産業革命で資本主義の勃興著しかったイギリスへと進出し、産業資本家への資金提供を通じて金融資本家としてますます発展していくことになります。この資本主義経済の発展が、政治からの経済の構造的な相対的独立化をもたらすことになるのですが、それを、国家に縛られないユダヤ人の金融資本家によって大きく促進されていくことは、現在のグローバリズムの原点となるものです。つまり、国家の一部、社会の一部、政治の一部であった経済が、国家の枠を超えて度外れに発展・自己増殖して国家を凌駕し、政治を凌駕して、結果として国家を疲弊させ、社会を疲弊させ、政治を空洞化させて、結果的に自分自身をも行き詰らせて、国家のまともな発展・社会のまともな発展を無視した罰を受ける羽目になっているのが、現在の世界の状況です。」
「では、こうした状況から人類を正しい道へと導き解決するためにはどうしたら良いのでしょうか?これに対する解決の道を示すものを二つ挙げておきたい。一つは、戦前の日本が実践として示した朝鮮経営・台湾経営そして満州族と協力して行った満州国建設の中に含まれている日本精神の本流としての魂です。そしてもう一つは、日本の中に唯一残存している学問としての弁証法の欠片をヘーゲルの学問の冠石としての弁証法との統合をはたして真の学問的弁証法を完成させて、それを日本精神の本能・魂として、日本を再建し、世界を清の発展へと導いていくことです。

 まず前者について、これはタマゴさんやtadaさんの説明に欠けている最も重要な点です。それがないために彼らの説明はいくら詳しく説いても、後付の解釈にしかならず、あそうそれがどうしたの?と言う感想しかもたらさず、日本の発展、世界の発展にいささかも役立つものとはなりえず、むしろ、中韓のねつ造歴史認識押し付け攻撃に立ち向かう誇り・気概を削ぐことには、しっかりと役立つ代物でしかありません。」


 欧米帝国主義のアジアの植民地支配の尖兵となった東インド会社の主力はユダヤ人でした。これが現代のグローバリズムの原点です。そこで行ったことは、経済の搾取のみならず、民族対立を助長したり、違う民族をわざわざ連れてきて自分たちの代理をさせるというような支配を行っていました。これは、社会・国家の建設・発展をわざわざ難しくする意義を持つものでした。したがって、彼らの言う「法と正義」とは、これらの体制を守るということにほかなりませんでした。これを重光は見事に喝破し、tadaさんは無視して無条件に礼賛しているわけです。

 
 例示した引用の中で、私がその解決の道として示した「一つは、戦前の日本が実践として示した朝鮮経営・台湾経営そして満州族と協力して行った満州国建設の中に含まれている日本精神の本流としての魂です。」の内容をとても良く説明してくれているサイトがありましたので紹介しましょう。
イワクロ.com http://iwakuro.com/chapter_1/chapter_1-3.html
からの引用

「岩畔らの八面六臂の活躍により満州の地に新規の産業が次々と立ち上げられていった。在任中に岩畔が書き上げた会社の定款だけで65本あったという。新規の会社は、役員として「満州人」を必ず1人は置かなければならないと規定されていた。
植民地に過ぎないとの批判はあるものの、「理想国家」の建設に対する関東軍のこだわりは強かったようである。経済的利益を求めるだけの日本企業の進出は厳しく制限された。
満州の経済は次第にその形を整えていった。
結局は流れてしまったが、満鉄を解体してその広範な事業の各部門を満州国の一元支配に置こうという満鉄改組計画も岩畔らによって打ち出されている。
満鉄は、満州にあっては国家の中の国家とも言うべき巨大な組織だったが、せっかく、満州国というものができた以上、これを育成することによって経済の発展をはかるべきという理念であった。」

 以前にタマゴさんが、シンガポールやプノンペンが満州の日本が創り上げた都市よりも素晴らしかったと、反論されましたが、現象的にはそう見えても、中身が全然違います。満州国は『理想国家」を創ろうという高邁な理念をもって渾身の力を振り絞って創り上げたのに対して、交易で儲けるためにそれにふさわしい体裁を自分たちの進んだ文化性を誇示する形で創り上げたものにすぎないからです。

 この違い、その激突が大東亜戦争の本質であり、欧米が勝利した結果として、現在の混乱が招来されたとみることができるのです。そして、この混乱から人類を救い出すことができるのは、人類の本流である日本精神がまだ何とか生き残っている日本しかいないというのも、まぎれもない真実なのです。

>「俯瞰」とは全体を満遍なく観ることです。つまり、知識不足で全体像がぼんやり見えていることではなく、全体も細部も見えていることが俯瞰なのです。そのためには、世界史の知識、即ち、ヨーロッパ史、アメリカ史、中国史、インド史、東南アジア史、イスラム史、アフリカ史・・・といった日本国外の歴史に、ある程度は通じている必要があります。それらの歴史を全て統体止揚した観方が俯瞰なのであり、自国一国を特別視することを超克する観方なのです。

 このタマゴさんのもっともらしい「俯瞰的一般論」論に欠落している点は、事情に精通することと、俯瞰することとの論理の次元が全く異なることが分かっていないことです。前者は事実の論理であるのに対して、後者は論理の論理である、と言う違いが分かっていない、ということです。つまり、後者は「理性」であって「事実の論理」からは超然としているということが、分かっていないということです。だから、私の言うことを「天寿堂さんのように、日本周辺の狭い範囲の歴史しか知らず、しかも偏った見方しかできていない人が『俯瞰的』だの『一般的』だのという看板を掲げるのは、羊頭狗肉もいいところなんですよ。」としてしか見ることができず、それで反論したつもりになっているのです。

 これは、弁証法の基本である即自的悟性に対する否定的理性の意味が全く分かっていないということであり、そういう人が、「統体止揚」という言葉を使うということは、中身のない言葉でしかないことを意味します。本当に「統体止揚」の中身を知りたければ、私の言うことを偏見と決めつけずに、そういう自分の思い込みから自由になって、私の主張を謙虚に受け止めてみることです。それが第一歩ですが、できれば私の主張と自分の主張とを行ったり来たりすることを繰り返す中で、次第に自分の主張が違って見えるようになるという体験をすることです。そうすると、真実の姿が見えてくるはずです。

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[2598]
タマゴ - 2017年02月02日 (木) 12時33分

>この違い、その激突が大東亜戦争の本質であり、欧米が勝利した結果として、現在の混乱が招来されたとみることができるのです。

そのサイトは岩畔豪雄大佐を少々持ち上げ過ぎな感も否めませんが、まずまずよい内容だと思います。
陸大閥という受験秀才の集団が軍のイニシアティブを握った経緯、統帥権干犯の問題、石原莞爾の狂信性、満州国建国の経緯などが、コンパクトに纏まっている。
少々引用すると、

「石原莞爾率いる関東軍は張学良の無抵抗をいいことに破竹の進撃を果たしてしまった。事変に当たって、謀略の立案者・石原莞爾の狂信的とも言えるキャラクターは遺憾なく発揮された。」
「彼の思想はつまるところ、釈迦の入滅後2千年経つと世の中が大いに乱れるという仏教の末法思想に端を発していた。日蓮はさらにこれを具体的に、
「闘詳言訟して白法隠没せん」
として、いまだかつて誰も体験したことのないような大戦争が起こると予言したが、その教えを字義通り真に受けた石原は、教典に予言された未曾有の大戦争こそ東洋と西洋の戦いであり、それに備えて日本は満州を抑えておくべきだという判断から満州事変を起こしたというのである。そのためには邪魔な国際連盟など脱退すればいいし、脱退せざるを得ぬようにもっていこうというのだから無茶な話だった。」
「 自己実現予言(self-fulfilling prophecy)という言葉がある。予言をしておいて、自分でそれが現実となるよう持っていくことを意味するが、石原は結果的に末法予言を自分で実現していった。こうして、満州で暴れ放題の関東軍にとって、問題はむしろ日本政府をどう丸め込むかであった。しかし、事態の不拡大を早々に打ち出したものの日本政府に関東軍の独走を抑える力は全くと言っていいほどなかった。」
「さて、満州である。荒っぽい切り取り仕事が終わった後に必要なものは、撤密な計画に基づいた「新国家」建設であった。満州国建設は第2段階に入った。関東軍経済参謀として岩畔に課せられた使命は、満州国の国家組織の整備と産業の育成だった。瞬く間にごり押し同然に立ち上げられた新国家に、国際社会の目は厳しかった。国家としての正当性を主張するためには、独立国家として相応しい組織の整備が急務だった。」

こういった説明を踏まえて、後に天寿堂さんが引用した箇所が続くわけです。
筆者は石原の思想に対しても行動に対しても、否定的・懐疑的な言葉を投げ掛けています。
また、満州国に相応の整備が為されたのは国際社会に正当性を主張したいがためであったとも書かれている。
日本精神云々ではなく、欧米列強と同様に政治的理由での整備が行われたということです。
これが、
「植民地に過ぎないとの批判はあるものの、「理想国家」の建設に対する関東軍のこだわりは強かったようである。」
と、「理想国家」に鍵カッコが付いている理由です。
天寿堂さんは筆者の意図を無視して、一部分を切り取り、恣意的な解釈をしているだけなのですよ。

Pass

[2599]
タマゴ - 2017年02月02日 (木) 13時47分

>このタマゴさんのもっともらしい「俯瞰的一般論」論に欠落している点は、事情に精通することと、俯瞰することとの論理の次元が全く異なることが分かっていないことです。前者は事実の論理であるのに対して、後者は論理の論理である、と言う違いが分かっていない、ということです。つまり、後者は「理性」であって「事実の論理」からは超然としているということが、分かっていないということです。

既に述べたように、私には、ヘーゲルが唱えた絶対真理・絶対理念の正否は判断がつきませんが、天寿堂さんの主張が誤っていることは明確に分かるのです。
ヘーゲルは「日本本流論」「大東亜戦争聖戦論」など唱えておりません。
それは、これらの理屈が正しいか否か以前に、大東亜戦争という事象そのものを知らなかったからです。
ヘーゲルであろうと誰であろうと、知らないものは如何ともできません。
従って、事実関係を正確に知悉し、然る後に事実関係の中に論理性が貫かれているか否か両者を擦り合わせてみる以外に、判断の方法は無いのですよ。
ヘーゲルができないことを天寿堂さんができると主張するのは、単なる欺瞞です。

>本当に「統体止揚」の中身を知りたければ、私の言うことを偏見と決めつけずに、そういう自分の思い込みから自由になって、私の主張を謙虚に受け止めてみることです。それが第一歩ですが、できれば私の主張と自分の主張とを行ったり来たりすることを繰り返す中で、次第に自分の主張が違って見えるようになるという体験をすることです。そうすると、真実の姿が見えてくるはずです。

謙虚になるべきは、モルデカイモーゼやら宗教右派やらのインチキ本を真に受けて視野狭窄に陥っている天寿堂さん自身なんですよ。
これまでのやり取りの中で、どれ程の虚偽・誤認・詭弁を述べて赤っ恥晒してきたと思っているんですか?
にも関わらずエラソーな口をきける面の皮の厚さだけは凄いと思いますがね。

Pass

[2600]
tada - 2017年02月02日 (金) 22時50分

 天寿道さん 誤読ですよ。私は欧米列強の「法と正義」を無条件に礼賛などしていないです。当時の欧米側の正当性・大義名分を論じただけです。それに対する日本の「植民地解放」という大義名分は彼らにとって 侵略になると述べたのです。反対に「植民地解放」「大東亜共栄圏」「自存自衛」は当時の国民に対して 天皇制イデオロギーを通過しての 説明・説得性はあった。だから 国民一丸となって戦争に邁進できたといったのです。中庸にみて 価値観の違う国家同士の戦いを「帝国主義間」の戦いと規定したのです。いままで語ってきた私の話が台無しになっています。そんな単純な話を私が論じる訳がないでしょう。価値観の違うこの戦争に「宗教戦争」とか 「アジア国家対近代国家戦争」とか いいネーミングがないのです。それでいまのところ 帝国主義間戦争と呼んでいるわけです。
 イワクロcom でよく勉強してください。日米了解案・N工作の記事は少ないので貴重です。外交は重要です。歴史は二度繰り返す。ポツダム宣言・和平交渉にこの挫折的経験が生かされました。満州国朝鮮国の問題も すでに語りました。赤字だったので 経営面では失敗です。国税を使い、戦時国債を乱発し 大日本帝国を破産させた原因のひとつです。国家は国民を保護しなければならない。この国家は保護するどころか 国民を食いつぶしてしまった。根本的に反面教師にしなければなりません。仏作って「魂」を入れず。いい仕事をし、いいモノを作るのに その運用、戦略がだめ。組織はあっても国家なし。
 天寿道さんには 得意の本流思想から当時の軍人をコントロールできる国家体制への考察 欧米の「法と正義」を越える原理思想の提言に期待します。

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[2601] 大義名分を論じるには
愚按亭主 - 2017年02月04日 (土) 12時11分

>当時の欧米側の正当性・大義名分を論じただけです。それに対する日本の「植民地解放」という大義名分は彼らにとって 侵略になると述べたのです。反対に「植民地解放」「大東亜共栄圏」「自存自衛」は当時の国民に対して 天皇制イデオロギーを通過しての 説明・説得性はあった。だから 国民一丸となって戦争に邁進できたといったのです。中庸にみて 価値観の違う国家同士の戦いを「帝国主義間」の戦いと規定したのです。

 これは、「大義名分論」というにはあまりにもお粗末すぎます。これでは何も言わないに等しい程度のもので、「現象論」「形式論」と言われても返す言葉がないのではないかと思います。というのは、「大義名分」の中身が何も「論」じられていないからです。

 これまでのtadaさんの主張では、
「日本はそのとき 天皇制イデオロギーの徹底した思想教育によって 頭の先からつま先まで 天皇教に支配され 英米流大義名分の『法と正義』はアジア的大義名分である儒教朱子学的『中華思想』にとって変わっていったのです。この独善的な思想が政策として大東亜共栄圏に 米国を認めることができない中華思想が無謀なハワイ作戦につながるのです。植民地解放も中華思想として あくまでも日本がアジアの盟主として 各国を日本的に指導するという傲慢さに基づき 解放の美名を押し出しながら 各国の事情にお構いなく進められた面もあるのです。しかし 植民地解放戦争という大義名分は (欧米からは侵略戦争になるわけですが) 当時の日本国民に対しては 天皇の命による開戦の詔勅と同じように 絶対的に支持肯定されるものになっているわけなのです。」

となっておりますが、やはり、私にはとても中庸には思えません。日本を意図的に悪く見ようとしていて、結果的に欧米の側の肩を持っているように見えてしまうからです。

 たとえば、「アジア的大義名分である儒教朱子学的『中華思想』」「この独善的な思想が政策として大東亜共栄圏に」 「米国を認めることができない中華思想が無謀なハワイ作戦につながるのです。」という解釈は、果たして正しいでしょうか?

 「アジア的大義名分である儒教朱子学的『中華思想』」とは、皇帝を中心とするアジア的国家を連想させますが、日本はすでにその域を脱しておりました。したがって、これは正しくないと思います。現象的には似ているように見えて、中身は全然違うのです。まともな国家意識が天皇に化体したというのが、実態でした。ですから、国民一人一人が主体的に国民になり天皇の赤子になったのです。つまり、公と私が見事に弁証法的に統一されていたのです。だからこそ、あの強大な敵に対して、最後の最後まで皆主体的に戦い抜けたのです。アジア的中華思想では、ましてやにわか作りの天皇教などでは、こういうことは到底不可能だったと思います。

 次に欧米流の「法と正義」について、その実態は重光が喝破したとおりですが、欧米はこの「法と正義」を振りかざして、それを守るように要求する一方で、「黄禍論」をもとに日本と支那を戦わすべく蒋介石をけしかけて無法な攻撃を仕掛けさせ日本を日中戦争に引きずり込んでいきました。

 蒋介石は、強い日本軍に対してロシアがナポレオン軍に行ったような焦土作戦を取って日本軍を奥へ奥へと引きずり込んでいきました。その過程で、焦土ならぬ堤防を決壊させて意図的に洪水を引き起こして自国民を大量に殺害しています。これに対して日本軍は住民を救助し、防疫処理を施し、なけなしの食料までも分け与えています。米国は、そういう蒋介石軍を支援して有志と称してフライングタイガーと言う飛行部隊を派遣して加勢しますが、日本軍を撃退することができず、膠着状態になっていきました。そこでアメリカは公式に日本軍の撤退を要求しますが、日本はそれを拒否します。蒋介石の背後に欧米がいるのが分かっていたからです。つまり、対欧米と言う構図になっていたわけです。

 この戦争でかなりの消耗を余儀なくされた日本は、資源を求めて欧米の中で隙の生じていた仏印に日本軍を進出させて資源を確保しようとしました。このことをtadaさんは日本が無法な侵略国になったと規定しています。しかし、欧米が振りかざす「法と正義」なるものが、侵略でえた植民地という既得権を守るものに過ぎないことは、重光が喝破したとおりです。日本がしようとしたことは、この「欺瞞に満ちた「法と正義」を壊して革命を起こして大東亜共栄圏を創り上げることでした。

 しかし、この革命は、単にその地から権力者を追い出せば成就するような簡単なものではなく、欧米列強と戦って勝利しなければならないという、非常に困難なものでした。しかも、革命ですから、それなりにできていた経済の仕組みも壊してしまうことになり、一時的にかえって生活の困窮を招いてしまい、住民の方も長い間の奴隷状態で意識の程度も低く、とても独立させて任せられる状態ではなく、戦いのさなかと言う特殊条件下ではなおさらのこと、日本の領土として日本の統括下においておくのが最善の策ではあったものの、専門家でない軍が行う施策は、かえって社会の混乱を招き、多くの餓死者まで出してしまう、と言う現実があったようです。

 こうした現実をtadaさんは「各国を日本的に指導するという傲慢さに基づき 解放の美名を押し出しながら 各国の事情にお構いなく進められた面もあるのです」と評価していますが、これはあまりにも日本側の事情・当時のアジアの事情を考慮しない評価で、中庸とは思えない酷な評価だと思います。それはおそらく「帝国主義」と言う観点から見るからそうなるのだと思います。「革命」という観点から見たならば、少しは違ってくるのではないでしょうか?

 では一体何が革命だったのか、が問題となると思います。欧米帝国主義による植民地体制から、大東亜共栄圏という理想国家連合の創出を目指した革命だということです。日本精神は、これに魂を込め、命を懸けた。だから、tadaさんの次の批判は当たらないと思います。

>満州国朝鮮国の問題も すでに語りました。赤字だったので 経営面では失敗です。国税を使い、戦時国債を乱発し 大日本帝国を破産させた原因のひとつです。国家は国民を保護しなければならない。この国家は保護するどころか 国民を食いつぶしてしまった。根本的に反面教師にしなければなりません。仏作って「魂」を入れず。いい仕事をし、いいモノを作るのに その運用、戦略がだめ。組織はあっても国家なし。

 これは、あまりにも、当時の日本精神の魂への理解の欠如がはなはだしすぎます。戦争で負けてしまったからそうなっただけで、勝っていたならばどうなったのかの検討もなく、一方的に揚げ足取り的な悪意の評価をしているように見えます。しかも、この植民地体制に対するアンチテーゼは、現在の世界の混乱を解決する意義を持つものに他ならないと、私は高く評価しているくらいです。そういう点からの評価ができないところに、tadaさん流の中庸の限界を感じます。

>中庸にみて 価値観の違う国家同士の戦いを「帝国主義間」の戦いと規定したのです。いままで語ってきた私の話が台無しになっています。そんな単純な話を私が論じる訳がないでしょう。価値観の違うこの戦争に「宗教戦争」とか 「アジア国家対近代国家戦争」とか いいネーミングがないのです。それでいまのところ 帝国主義間戦争と呼んでいるわけです。

 これについては、私はすでに本流論からの規定を行っておりますので、即自的悟性的観点からみていくことにします。そういう観点から見ると、次のようになるのではないかと思います。

 まず、tadaさん流で言えば、「法と正義」の帝国主義に対するところのアジア的中華思想の帝国主義との戦い、となるのではかと思いますが、tadaさんの主張を見れば当然そうするかと思いましたが、実際はそうしなかった。それは、自分の規定に自信がなかったからではないかと想像します。

 しかし、これではあまりにも日本精神が可哀想です。アジア的中華思想では「満州国朝鮮国の問題も すでに語りました。赤字だったので 経営面では失敗です。国税を使い、戦時国債を乱発し 大日本帝国を破産させた原因のひとつです。」ということは起こりえません。横領などの私腹を肥やすためにそうなることはあってもも、他国のために自国の経済が傾いてしまうなどということは、絶対にしません。なぜなら、アジア的中華思想は自分本位の思想だからです。

 ならば、これを私流に規定するとどうなるかと言いますと、欧米流の植民地帝国主義に対する、日本流の大東亜共栄圏構築のための革命戦争としたいと思います。そして、これが負けはしましたが、人類の歴史を大きく動かすことになったのです。そして、さらに現代にまでつながってくる正当な規定となると思います。

>私には、ヘーゲルが唱えた絶対真理・絶対理念の正否は判断がつきませんが、天寿堂さんの主張が誤っていることは明確に分かるのです。

 ヘーゲルの論理を分からずして私の論理の当否を判断できるわけがありません。なぜなら、ヘーゲルの論理も私の本流論も論理の論理だからです。事実から「超然」としたものなのです。これだけで充分なのですが、あえて百歩譲って、タマゴさんの唯一の根拠としている、私が大東亜戦争の事実を知らないからだという根拠について言うならば、それもあたりません。私は、必要な俯瞰的事実は、きちんとと提示しているからです。さらに言えば、本流論には細かい事実は必要ないし、初心者が本流論を理解するためにはかえって細かい事実は、その理解を妨げ有害であることも述べているはずです。したがって、細かい事実をいちいち知らないからと言って、それが私の唱える本流論が間違いだと断定する根拠とはなりません。

>天寿堂さんは筆者の意図を無視して、一部分を切り取り、恣意的な解釈をしているだけなのですよ。

 私は、自分の説を補強するために他人の説を借りようとは思ったことはありません。そこに説かれている本流論を証明する事実が必要だったから引用したのです。タマゴさんが引用し紹介してくれた筆者の説についても、私は、私流に「予言をしておいて、自分でそれが現実となるよう持っていくことを意味するが、石原は結果的に末法予言を自分で実現していった。」という事実も、むしろ目的式製こそ人間の本質であるから、これは否定的要素ではなく、石原の行動は、人間として正当であると評価できると思います。また、石原が

「その教えを字義通り真に受けた石原は、教典に予言された未曾有の大戦争こそ東洋と西洋の戦いであり、それに備えて日本は満州を抑えておくべきだという判断から満州事変を起こした」

ことは、単に宗教の教義に一方的に突き動かされたものではなく、石原独自の情勢分析と宗教的教義との統体止揚として生み出されたもので、その後の経過がその通りに推移したことから見ても、途中で石原自身が指導統括の立場を離れたのにもかかわらず、そうなったというのは、素晴らしい卓見・目的意識性だと思います。これがすなわち日本精神の発露だと思います。というのは、日本精神は個人の優れた認識・業績として表れるものだからです。

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[2602]
タマゴ - 2017年02月04日 (土) 13時11分

>ヘーゲルの論理を分からずして私の論理の当否を判断できるわけがありません。なぜなら、ヘーゲルの論理も私の本流論も論理の論理だからです。事実から「超然」としたものなのです。
これだけで充分なのですが、あえて百歩譲って、タマゴさんの唯一の根拠としている、私が大東亜戦争の事実を知らないからだという根拠について言うならば、それもあたりません。私は、必要な俯瞰的事実は、きちんとと提示しているからです。

また話のすり替え。
私は、
「ヘーゲルの論理がわからない」
ではなく、
「ヘーゲルの唱えた絶対真理・絶対理念の正否は判断できない」
と述べたのです。
ある人の述べている内容が理解できるかどうかと、その内容が正しいか否かの判断は、別次元の話です。

さて、例えば麻原が法廷で、
「神の摂理を分からずして私の教義の当否を判断できるわけがない。なぜなら、神の摂理も私の教義も宇宙の法則だからだ。事実から「超然」としたものなのだ。これだけで充分なのだが、あえて百歩譲って、検察の唯一の根拠としている、私が事件の反社会性を知らないからだという根拠について言うならば、それもあたらない。私は、必要な俯瞰的事実は、きちんとと提示しているからだ。」
などと主張したとして、認められるでしょうか。
当然、認められません。
検察に神の摂理の正否など分かるはずもありませんが、麻原の教義が誤っていることは教義と事件との関係を見て判断できるのですよ。

天寿堂さんの主張でいえば、
「大東亜戦争はアジア解放の戦争」
という“俯瞰的事実”自体が何処にも存在しないのであるから、絶対真理云々など関係無く、誤りであると言えるのです。

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[2603]
タマゴ - 2017年02月04日 (土) 15時48分

>むしろ目的式製こそ人間の本質であるから、これは否定的要素ではなく、石原の行動は、人間として正当であると評価できると思います。

そんな理屈が通るなら、ヨハネ黙示録にキリスト教徒と反キリスト勢力のよる世界戦争が予言されているとして核戦争を起こそうとしているアメリカの福音派も正当化されてしまいます。

>単に宗教の教義に一方的に突き動かされたものではなく、石原独自の情勢分析と宗教的教義との統体止揚として生み出されたもので、その後の経過がその通りに推移したことから見ても、途中で石原自身が指導統括の立場を離れたのにもかかわらず、そうなったというのは、素晴らしい卓見・目的意識性だと思います。これがすなわち日本精神の発露だと思います。というのは、日本精神は個人の優れた認識・業績として表れるものだからです。

まったく石原の目論見通りにはならなかったんですよ。
トーナメント戦的に説明すると、石原の世界最終戦論では先ず日本とソ連、アメリカとナチスによる準決勝が戦われ、それに勝ち抜いた日本とアメリカが決勝を戦うことになっていたのです。
勿論、その決勝は日本が勝つことになっていた。
石原が、日本国はおろか、日本軍のイニシアティブを握っていたわけでもないのに、こんなの上手く行くわけがありません。
天寿堂さんは、世界最終戦論を読みもせず、勝手に石原の虚像を妄創してそれを賛美しているだけなのですよ。
自分のしていることが、おかしいと思わないんですかね?

石原の「五族協和」「王道楽土」のスローガンも、日本精神云々から生まれたのではなく、孫文が儒教精神により唱えた「五族共和」「東洋王道」の模倣なんです。
孫文は、日本がロシアを破ったのは良かったが同じアジアの同胞を蔑ろにしている現実を嘆き、こう訴えたのですよ。
石原は、孫文に敬意を持ってはいたようですが、結局、その理念を都合よく利用しただけだったのです。

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[2604]
tada - 2017年02月05日 (日) 01時09分

>tadaさん流で言えば、「法と正義」の帝国主義に対するところのアジア的中華思想の帝国主義との戦い、となるのではかと思いますが、tadaさんの主張を見れば当然そうするかと思いましたが、実際はそうしなかった。それは、自分の規定に自信がなかったからではないかと想像します。

 天寿堂さんへ この規定は 私も不完全だと思っています。ソ連との同盟を「法と正義」の帝国主義に組み込む規定できていないからなのです。ソ連は 民主主義・資本主義を否定した専制国家体制ですから。「法と正義」の否定であります。ナチドイツも似たようなものですが 米国がヨーロッパを救うために まずは 近くの悪魔を倒すことに専念し 遠くの悪魔と手を組むという戦略でした。戦後は「法と正義」の帝国主義戦争を米国は日本と西ドイツと手を組んでソ連と対決することになります。非常に面白いところなので 昔からネーミングに困っています。第二次世界大戦でも ユーラシア太平洋戦争でもいいのですが もうひとつひねりを加えたいところなのです。天寿堂さんの 「欧米流の植民地帝国主義に対する、日本流の大東亜共栄圏構築のための革命戦争」ではこの戦争の本質的意味を やはりとらえきれていないです。天寿堂さんの革命戦争というのも欧米の支配に取って代わり日本がアジアを支配するという形であり やはり「帝国主義間戦争」でいいかもしれないですね。
 
>蒋介石は、強い日本軍に対してロシアがナポレオン軍に行ったような焦土作戦を取って日本軍を奥へ奥へと引きずり込んでいきました。その過程で、焦土ならぬ堤防を決壊させて意図的に洪水を引き起こして自国民を大量に殺害しています。これに対して日本軍は住民を救助し、防疫処理を施し、なけなしの食料までも分け与えています。米国は、そういう蒋介石軍を支援して有志と称してフライングタイガーと言う飛行部隊を派遣して加勢しますが、日本軍を撃退することができず、膠着状態になっていきました。そこでアメリカは公式に日本軍の撤退を要求しますが、日本はそれを拒否します。蒋介石の背後に欧米がいるのが分かっていたからです。つまり、対欧米と言う構図になっていたわけです。 
 
 これも事実誤認です。盧溝橋の小競り合いの停戦後1937年8月に第二次上海事変 いわゆるシナ事変の蒋介石による日本軍に対する先制攻撃(侵略戦争です)が開始されました。石原莞爾の無様な判断はこの際端折るとして ドイツに指導された蒋介石軍はまともな軍隊ではなく 兵力・物量に劣るにもかかわらず 日本軍は 敵の防衛陣地をなんなく突破し 12月のいわゆる南京事件(極東軍事裁判の国民党政府から出された資料では 15万6千人の屍体処理の大半壮年あるということ・女性がいないことから 死者の大半は兵士と推定される。)まで圧倒的に蒋介石軍を殲滅しました。侵略したのは蒋介石なので 中国軍に非があります。しかし 蒋介石の停戦講和嘆願を日本政府(近衛が悪い)は受け入れないのです。日本軍も停戦講和を望んでいたにもかかわらずです。ここから 日本軍は戦争を継続し 「日本軍の侵略戦争」と見なされる事態になるのです。米国の中国支援はこのことがあったからです。私が 「米国が国際法ぎりぎりに行動している」とはこういうことを言っているのです。その後 日米和平交渉では満州まではみとめ 中国からの撤退を米国は望んだのです。(シナ事変以前の状態にもどすということ。ポツダム宣言では日本本土4州のみになったのですから 破格の条件でした。)米国は日本との全面戦争は望んではいなかったのです。東条も武藤も近衛も望んではいなかった。だが 戦争は行われた。それは 山本五十六の「ハワイ作戦」が一人歩きしていたからなのです。

>欧米流の「法と正義」については、大東亜会議の東條の原稿の中で、重光が見事にその欺瞞性をついて、論破しております。そして、その欺瞞性を日本は大東亜戦争を通じて、欧米が侵略によって得た既得権を守れなくするという形で、欺瞞性を解消して、人類に認識の発展段階として定着するのに大きく寄与したのです。

 これも誤解です。重光は戦後の手記において 太平洋憲章を参考にし 大東亜宣言を書いたと言っています。大東亜宣言の民族独立自決・平等互恵の思想は 日本の伝統思想からではなく 欧米のデモクラシーの精神に由来するものであることを十分理解していました。しかし 当時の言論統制では 外相としても書けることではなく 逆の英米の戦争とは異質の目的であると書くしかなかったのです。当時の雑誌・新聞の大東亜宣言の解説の多くは 「日本以外は信ぜざるべし」と嘆いています。重光の目的は戦争終結・戦後体制の構想に対する議論が活発化することが狙いでしたが 言論界には戦争目的をめぐる議論を混迷に導く 一石を投じたものになりました。話はちょっと変わりますが 海軍はあくまでも 資源確保が第一であり 民族解放などは障害物のようなものでした。解放論は軍人よりも 大川周明たちのような言論人が大合唱していたと言えます。     

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[2605]
tada - 2017年02月05日 (日) 12時19分

>「アジア的大義名分である儒教朱子学的『中華思想』」とは、皇帝を中心とするアジア的国家を連想させますが、日本はすでにその域を脱しておりました。したがって、これは正しくないと思います。現象的には似ているように見えて、中身は全然違うのです。まともな国家意識が天皇に化体したというのが、実態でした。ですから、国民一人一人が主体的に国民になり天皇の赤子になったのです。つまり、公と私が見事に弁証法的に統一されていたのです。だからこそ、あの強大な敵に対して、最後の最後まで皆主体的に戦い抜けたのです。アジア的中華思想では、ましてやにわか作りの天皇教などでは、こういうことは到底不可能だったと思います。

 天寿堂さんへ この指摘は私と同じ方向性をもつ意見です。私の「中華思想」というのは 朱子学で言う「孝」の概念を根底におくものです。説明する時間がなかったので 端折っていました。「孝」でおわかりだとおもいますが 親孝行の「孝」です。親と子 父と子の関係は絶対であるということ。裏切り・下克上はもってのほか 父の意見は絶対服従です。(江戸封建社会の「忠君」のイメージですが 実際には「押込」もありました。主君への反逆です。このことで水戸学について話たいのですが またの機会に)天皇制イデオロギーは国家宗教(教育勅語をはじめ靖国神社や文学映画により 郷土愛や家族愛がお国のためと自然と天皇制に融合してくるイメージが大事)として 国民の精神世界および 国家中枢の軍部および行政官僚たちの精神世界 つまり国家権力の意志に多大な観念的規定をしたのです。中華思想とは 親である中国と子である周辺国の関係から「八紘一宇」が連想できます。家族・組織・国家すべてにこの思想が貫徹されたのです。もちろん 近代化とは欧米化でありますので 天皇制の下といえども完全無欠とはいえないのですが。(自由と平等デモクラシーの思想は塩漬けにされ保存はされていたことも考えよ)。この天皇制が日本の国家社会主義(日本・ナチドイツ・ソ連とではそれぞれ国家社会主義に大きな特徴をもち 違うことに注意せよ)と非常に 親和性があるのです。<親>官僚が<子>企業に天下り 企業経営に口をだし コストや合理性を度外視した計画経済を押しつけました。軍部組織・行政官僚組織内では犠牲親子である親分子分の派閥作りが蔓延し組織あっての国家ナシ 自己のテリトリーを守るだけの大戦略不在の場当たり主義が横行したのです。逆に親分しだいで 当時の軍部・官僚の主流の考え、作戦に反抗する流れもでることがあります。それが 「感動的日本人」岩畔・杉浦・木村・今村・山口などが存在する理由なのです。

>南ク学派は生命史観を創り上げる過程で、本流の発展の構造の一大論理を創り上げました。それは、本流は遅れて生まれて辺境で育つものによって受け継がれていく、という論理です。たとえば、海中の王者魚類の時代に、遅れて海の端っこで生まれて両生類になったものが、次の本流である哺乳類へと進化することができ、その哺乳類の中でいわば辺境の地ともいえる木の上で育ったサルが、人類へと進化できたというようにです。

 この文章をチラッと読んだとき 天寿堂さんも私と同じ意見だと思ったのですが 読みだすと南郷学派の批判でした。この理論の発想は私の世界史の方法と同じです。私は南郷学派に一票を入れます。天寿堂さんとは意気投合はできませんが 私のような意見があってもいいじゃないですか。反対に天寿堂さんのような意見があってもいいです。内容はともかく面白いです。 天寿堂さんとの意見は同意より相違のほうが多いのですが この論壇サロンは言論統制がなく 自由と平等の言論交流ができるデモクラシーがある<アゴラ>なので 最高です。天寿堂さんの運営姿勢は立派です。本流精神が発揮されていると思います。

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[2606] 完全なる国家への道
愚按亭主 - 2017年02月05日 (日) 17時56分

>天寿堂さんの 「欧米流の植民地帝国主義に対する、日本流の大東亜共栄圏構築のための革命戦争」ではこの戦争の本質的意味を やはりとらえきれていないです。天寿堂さんの革命戦争というのも欧米の支配に取って代わり日本がアジアを支配するという形であり やはり「帝国主義間戦争」でいいかもしれないですね。

 ではtadaさんの意見を取り入れて、欧米の植民地と日本の植民地の経営の理念・手法の違いに着目して、欧米流の植民地帝国主義と、日本流の大東亜共栄圏構築への帝国主義との間の戦い」と規定すべきだと思いますが如何でしょうか。

 こうすれば、ソ連も、共産主義を標榜してはいてもその実質は植民地帝国主義であることは、北方四島や南樺太の強奪のやり方からあきらかですので、当然含まれることになります。日本の場合は、平時の朝鮮・台湾・満州国の経営のあり方、および実際に大東亜共栄圏構想を持って戦ったこと、戦時のあり方がそのあり方からは程遠いという現実は、戦時であり、その過程の一時的な混乱現象として考慮すれば、大東亜共栄圏は日本が目指していたものと考えることができると思います。そして日本によって、実際に欧米の植民地経済圏が壊され、支配体制も復元できなかったことを見れば、大東亜共栄圏は実現できなかったものの、植民地帝国主義の植民地経営を困難にした意義をあると思います。

>重光は戦後の手記において 太平洋憲章を参考にし 大東亜宣言を書いたと言っています。大東亜宣言の民族独立自決・平等互恵の思想は 日本の伝統思想からではなく 欧米のデモクラシーの精神に由来するものであることを十分理解していました。

 これは当然のことです。日本精神は西洋の学問の歴史を吸収して日本精神として進化したのですから。重光も、その大西洋憲章を充分に検討した上で、大西洋憲章の「民族独立自決・平等互恵」が白人国家同士間のものに過ぎず、アジア諸国にそれが適用されるものにはなっていないと、その欺瞞性を批判しているのです。

>海軍はあくまでも 資源確保が第一であり 民族解放などは障害物のようなものでした。解放論は軍人よりも 大川周明たちのような言論人が大合唱していたと言えます。  

 これは当たり前のことです。軍は戦争に勝つことを最重要の目的とする組織ですから、まず、戦争に勝つためにすべてが体系化されていきます。民族や国家建設は、その後の問題です。しかし、軍以外のところで解放論が論議されていたということは、日本精神はそれを意識していたことを意味することです。おsれらを全部含んでの日本精神だと思います。

>天寿堂さんの主張でいえば、「大東亜戦争はアジア解放の戦争」という“俯瞰的事実”自体が何処にも存在しないのであるから、絶対真理云々など関係無く、誤りであると言えるのです。

 大東亜戦争によって、欧米の植民地体制がズタズタにされ、民族独立運動が起きて、旧宗主国は以前のような体制をとりもどすことはできなくなった、という俯瞰的事実は存在しないのですか?

>そんな理屈が通るなら、ヨハネ黙示録にキリスト教徒と反キリスト勢力のよる世界戦争が予言されているとして核戦争を起こそうとしているアメリカの福音派も正当化されてしまいます。

 予言を実現しようとすること自体は、良いも悪いもなく目的意識性を持つ人間の本性であって、それ自体を誤りだとするのは誤りだとしているだけです。その点を断った後で、その内容に触れて、石原の情勢分析は先見性があったと評価しているのです。ですから、すべての予言の内容を無条件で認めているわけではありません。

>石原が、日本国はおろか、日本軍のイニシアティブを握っていたわけでもないのに、こんなの上手く行くわけがありません。
天寿堂さんは、世界最終戦論を読みもせず、勝手に石原の虚像を妄創してそれを賛美しているだけなのですよ。

 私は、日本とアメリカが最終決戦をして、それに勝利したアメリカが世界の覇者となったという事実をみて、早い段階からそれを予測して、アメリカと対抗するために、満州国建設が必須だとした石原の慧眼を評価しているだけです。これは事実ではありませんか?

>石原の「五族協和」「王道楽土」のスローガンも、日本精神云々から生まれたのではなく、孫文が儒教精神により唱えた「五族共和」「東洋王道」の模倣なんです。孫文は、日本がロシアを破ったのは良かったが同じアジアの同胞を蔑ろにしている現実を嘆き、こう訴えたのですよ。

 その「五族共和」にウィキに面白い説明があります。これによると、以前議論した宣統帝の譲位の約束の文章は、タマゴさんの方が間違っていましたね。それにこのタマゴさんの解釈もどうも怪しそうですね。

「清朝の政体は五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除くモンゴル(蒙古族)、西域ムスリム社会(回)、チベットの実質三ヵ国は、漢族による中華民国政府の統治下に置かれることをよしとせず、清朝皇帝権の消滅をもって独立国家であると主張した。」

「五族共和(ごぞくきょうわ)は、中華民国北京政府が掲げていた漢族、満州族、蒙古族、回(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の五民族の協調を謳ったスローガン。中華民国北京政府を象徴するスローガンとして、北京政府の国旗・五色旗と関連付けて考えられた。」
「五族共和はもともと革命派のスローガンではなく、立憲派が革命派の排満論に対抗して提唱した五族不可分論を起源としている。[1] [2] 辛亥革命勃発後、各省代表が中華民国建国について話し合った際には、中華民国のスローガンとして採用された。

五族共和は、1912年元旦に中華民国が成立した際に孫文が南京で行った中華民国臨時大統領就任演説でも掲げられていたが、孫文自身は臨時大総統就任時と北方で演説した際にしか五族共和には言及しておらず、北京政府と対決後は五族共和は誤りであったと主張し、もっぱら大中華主義による同化主義を進めていくようになる。」


>逆に親分しだいで 当時の軍部・官僚の主流の考え、作戦に反抗する流れもでることがあります。それが 「感動的日本人」岩畔・杉浦・木村・今村・山口などが存在する理由なのです。

 なるほど、大変参考になりました。この問題は、個人の主体性と国家の主体性との統一をどのように図るべきか、という現在もまだ解決できていない問題だと思います。まさに今人類がぶち当たっている問題に他ならないと思います。明治の日本は、天皇教という宗教によって全体を統括しようとしましたが、宗教は相対的真理の絶対化であって、人間の主体性を否定しますので、主体性を持った日本人を抑えきれなかったのだと思います。

 残念ながら当時の日本には、ヘーゲルの弁証法、すなわち学問の冠石こそが、それを見事に解決できるものだという理解がありませんでした。(現在もありませんが)しかし、個人の主体性と国家の主体性との真の統一を図ることができるのは、国家がヘーゲルの絶対精神から絶対理念へと向かう発展過程を説いた弁証法を個々人の本能とすべく教育する以外ありません。それができて初めて完全なる国家が創造されます。

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[2607]
タマゴ - 2017年02月05日 (日) 20時51分

>私は、日本とアメリカが最終決戦をして、それに勝利したアメリカが世界の覇者となったという事実をみて、早い段階からそれを予測して、アメリカと対抗するために、満州国建設が必須だとした石原の慧眼を評価しているだけです。これは事実ではありませんか?

石原はアメリカの世界覇権など予測していません。
世界戦争には日本(と中国などの連合軍)が勝つと予測していたのです。
しかも石原は、戦後に世界最終戦論を実質的に放棄し、次のような非武装中立論を唱えています。

「狭小な国土に生きる7千万の同胞が、
主として国内の資源を利用する簡素にして健康な生活営みつつ、最新科学文明の粋を活用して人類次代文化の真姿を世界に示すとともに、身に寸鉄を帯びずして近隣と民族協和の実を挙げるならば、一の理論闘争を用いず、もちろん武力に頼ることなく、闘争に悩む全人類に八紘一宇の真義を信解せしめ得るものと確信するものである。」
「日本は蹂躙されてもかまわないから、われわれは絶対、戦争放棄に徹して生きて行くべきです。ちょうど聖日蓮が竜の口に向かって行くあの態度、キリストが十字架を負って刑場に行く時の、その態度を、われわれは国家としてとらなきゃならない。」

これが大東亜戦争の切っ掛けを作った張本人の一人が到達した結論だったということです。
専守防衛すらも否定するほど極論に振りきれてしまうところが、石原らしいといえば石原らしい。

>その「五族共和」にウィキに面白い説明があります。

石原の思想を主題として議論していたので、そういうところに噛みついてくるとは思いませんでしたが、まぁ一応返答しておきましょう。
代表的な百科事典の説明は次のようになっています。

ブリタニカ国際大百科事典
「中国の辛亥革命の際に主張されたスローガン。孫文ら革命派は,漢族,満州族,モンゴル族,ウイグル族,チベット族の5民族が平等の立場で中華民国を建設することを目指した。五色旗はこれに基づくものである。」

デジタル大辞泉
「中国で、辛亥(しんがい)革命当時、清朝を廃し、五族が協力して共和国を建設しようという標語。」

百科事典マイペディア
「中国で孫文が辛亥革命直後に唱えた民族融和による共和国建設のスローガン。五族は漢・満・蒙(モンゴル)・回(ウイグル)・蔵(チベット)。その後,孫文は五族共和論から発展し,五族に限定せず,国内各民族の自決権にもとづく自由で統一ある国家の組織という思想に具体化した。」

世界大百科事典
「中国,辛亥革命直後の1911‐12年以降,孫文らが提唱したスローガン。五族とは漢族,満州族,モンゴル族,回族,チベット族で,中国の主要民族を指す。各民族の平等,融和を主張し,多民族国家としての中国を擁護したもの。〈滅満興漢〉の漢族中心主義からの脱却をはかったものであるが,なお漢族への同化も主張するなど,漢族中心的色彩も残存し,孫文はその後もその弱点の克服に努めた。」

大辞林第三版
「中国、辛亥しんがい革命の際に、清朝を廃し、五族の共和政体樹立をめざして孫文らが唱えたスローガン。」

これらが一般的な説明です。
Wikipediaの説明は片岡一忠という方の説に依っているとなっていますが、私は彼の論文を読んだことがないので、片岡氏の論文が正しいのかどうか、Wikipediaが片岡氏の論文から正確に引用しているのかどうか、全く判断がつきません。
それを調べるのは、Wikipediaを引用した天寿堂さんの仕事です。
頑張って下さい。

>これによると、以前議論した宣統帝の譲位の約束の文章は、タマゴさんの方が間違っていましたね。

意味が分かりません。
分かるように説明して下さい。

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[2608]
タマゴ - 2017年02月05日 (月) 23時20分

>大東亜戦争によって、欧米の植民地体制がズタズタにされ、民族独立運動が起きて、旧宗主国は以前のような体制をとりもどすことはできなくなった、という俯瞰的事実は存在しないのですか?

私は、大東亜戦争期を境に欧米による亜細亜の植民地支配に変化があったことは、最初から認めています。
それを日本軍や大東亜戦争による“解放”などと表現するのは間違っていると述べているのです。

“解放”とは、ある主体が対象の束縛を解き自由な状態にしてやることです。
日本軍が大東亜戦争期に“解放”したと言える国は、何処にも無いではありませんか。
あるなら挙げてみて下さい。
また、欧米からの独立運動は、各民族が主体的に行った運動ですから各民族の手柄であり、“解放”などと表現するのは誤りだということをしつこく述べているのです。

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[2609]
tada - 2017年02月05日 (月) 23時51分

>欧米の植民地と日本の植民地の経営の理念・手法の違いに着目して、欧米流の植民地帝国主義と、日本流の大東亜共栄圏構築への帝国主義との間の戦い

「天寿堂思想」による 第二次世界大戦の本質的定義として わかりやすくいいモノだと思います。「私」の本質定義は 欧米キリスト教的帝国主義国家と日本儒教的帝国主義国家による戦争としておきます。ソ連 共産主義 ナチス ファシズムの思想的構造もキリスト教と同じ構造を持つものであることから少し強引ですが欧米キリスト教の仲間にいれました。

>日本精神は西洋の学問の歴史を吸収して日本精神として進化したのですから。重光も、その大西洋憲章を充分に検討した上で、大西洋憲章の「民族独立自決・平等互恵」が白人国家同士間のものに過ぎず、アジア諸国にそれが適用されるものにはなっていないと、その欺瞞性を批判しているのです。

重光の欺瞞性の批判というのがわかりません。天寿堂さんの誤読ではないのですか。重光は大西洋憲章が戦後体制の規定とみて それを取り入れることで 日本の戦後体制への国家改造の論議を喚起させる目的があったのですから。重光が大西洋憲章の欺瞞性をいうはずがない。それをどこから持ってきたのですか?教えてください。大西洋憲章は1941年と1943年では意味が大きく変わり 対象がヨーロッパから 世界平和への基準になっていきます。英米の手を離れ各国からの植民地解放への訴えを拾い始め 実際の政治を動かす原理になっていきます。ちなみに8条は日本国憲法において形になったとも言われています。大東亜宣言が国内だけでしぼんで終わったのと比べれば 大西洋憲章は世界を動かし 植民地解放に役だったのです。欧米もなかなかやると思いませんか?

>軍は戦争に勝つことを最重要の目的とする組織ですから、まず、戦争に勝つためにすべてが体系化されていきます。民族や国家建設は、その後の問題です。しかし、軍以外のところで解放論が論議されていたということは、日本精神はそれを意識していたことを意味することです。それらを全部含んでの日本精神だと思います。

これは特殊な論理です。日本精神という一般論に収斂することで政策論・組織論がすっぽり抜け落ちて 実証的議論になりません。天寿堂思想の真骨頂ですが 学問ではありません。対象を分析することができなくなります。独立政策も軍政の一部です。政策と実践と結果を見て考えるべきです。解放独立は明確な戦争目的にはなりえず 矛盾の重石なったのです。独立した国々を日本がまとめることができないほど 独立国家(タイ・フィリピン)が主体性を持ち始めたからです。それを知った内地である5族協和の満州・朝鮮でも独立の気運が起こり始め 火消しに力をそそぐ状態でした。大東亜共栄圏は絵空事です。日本精神で誤魔化さないほうがよいです。

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