カウンター 絶対的真理としての<生命史観>と相対的真理としての<生命史観>の区別と連関 - 談論サロン天珠道
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談論サロン天寿道

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[2330] 絶対的真理としての<生命史観>と相対的真理としての<生命史観>の区別と連関
北のM - 2016年09月10日 (土) 18時40分

天寿堂様の学説において極めて重要な本質的問題であると考え、別スレッドを建てさせていただきました。天寿堂様は、いわゆる南郷学派は相対的真理レベルの止まっているのに対して、パルメニデス→ヘーゲル系列の絶対的真理の学問的重要性を、繰り返し指摘しておられますが、同じ<生命史観>という用語を用いておられるために、様々な誤解が生じているように感じます。そこで、標記のようなテーマで、あらためて天寿堂様の学説をここで披歴なされることが、今後の様々な議論を建設的に発展させていく上でも必要なのではないかと考えます。

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[2335] カギは絶対的真理の系譜と相対的真理の系譜の二重構造でとらえることです
愚按亭主 - 2016年09月12日 (月) 12時14分

 学問の歴史・弁証法の歴史を、絶対的真理の系譜と相対的真理の系譜との二重構造で読み解いて見せたのは、私が初めてではないかと思います。南ク先生も滝村先生も、残念ながらそれをやってはおられません。それができていれば、とっくに全集第三巻は上梓されていたことでしょう。ヘーゲルは、即自と対自の二重構造で説いておられますが、それを絶対的真理の系譜と相対的真理の系譜との二重構造として論理化したのが、私なのです。これによって私は、ヘーゲルがとてもよく理解できるようになりました。

 たとえば、〔2323〕のところで

「相対性理論のもとになった考えも 光は神とともにありきという聖書の言葉がその信念の支えになっていたようです。絶対精神も同タイプだと思います。」というtadaさんの意見に対して私は次のように答えておきました。

 「滝村先生もそこのところが引っかかって、結局ヘーゲルを信じ切ることができなかった結果、滝村先生の学問も中途半端に終わってしまいました。つまり、これまで何度も指摘してきたように、エンゲルスを批判しながら、ご自身も同じ土俵から抜けきることができなかったのです。
 ところが、「純粋理性批判」の序文にもある通り、カントは宗教的な専制的形而上学を克服して真の形而上学を樹立せんと志して出立し、ヘーゲルがその志を引き継いでついに宗教の手の届かないレベルに学問を引き上げ宗教との完全なる決別を果たしたのです。それは彼の宗教論を見れば一目瞭然です。ですから、彼の絶対精神は宗教的な神ではありません。そこのところをマルクスもエンゲルスも三浦さんも南ク先生も、そして滝村先生すらもが見誤ってしまったのです。そしてずっこけてしまったのです。
 逆説的に言えば、宗教の神は、絶対性を装いながら相対的真理の絶対化に過ぎないもので詐欺的欺瞞ですが、ヘーゲルの絶対精神は、本物の絶対的真理であり宇宙の本質であり、絶対理念は、その宇宙の本質が、論理として体系化され、物質から相対的独立に顕在化して自由に運動できるようになって世界創造を始めることのできる存在なのです。つまり、こちらこそ本物の神なのです。そのことを滝村先生は、ヘーゲルを丸ごと信じることができないで自分のほしいものだけをヘーゲルから学んだために、分からなかったのです。」

 この内容は、これまで誰も説くことができなかった画期的な内容が含まれていたのですが、それに気づいてくれた人はいなかったようです。タマゴさんは、わざわざ私が批判した内容そのままを説いて、私は全く理解できていませんよ、あるいは理解する気がありませんよ、ということを示してくれています。
 またtsdaさんは「絶対精神の説明ありがとうございます。やはり考えていたとおりでした。神を信じることと宇宙の秩序を信じることは 論理的には結果 同じことです。」とその違いを説いたのに全く理解できておらず、「事実から論理への飛躍が大きいのではないでしょうか?私なら 実証されていないことを論理化し断定するのは 怖くてとてもできないことです。」として弁証法性を否定しています。これは、私が南ク先生や滝村先生を批判した内容そのままですので、やはり分かっていないと思います。

 つまり、自分自身を否定できないから私の説くことが理解できない、結果として私の意見を否定的媒介とすることができず、認識の発展が得られなくなってしまっているのです。それほどにエンゲルスが絶対的真理を否定したこと、そして三浦さんが人間の認識は近似的で本質的に相対的真理にしかならないとしたことの影響力の強さを実感します。エンゲルスを否定していたはずの滝村先生ですら、その影響力をぬぐいきれなかったのですから、その滝村先生に私淑しているtadaさんも、そうであることはやむを得ないことです。

 学問の歴史を相対的真理の系譜と絶対的真理の系譜との二重構造で説くことは、事実の論理で説くことと、論理中の論理すなわち本質的論理で説くこととの二重構造で説くということでもあります。そしてその統体止揚が本物の真理だということがどうしても理解しがたいようです。

 そして、先に振り返ってみた私の文章は、人類の学問の歴史において対自的な本質・本流の発展の論理は、すでに絶対精神の自己運動としてその基本骨格が完成し、その具体化も生命史観として着々と出来上がりつつあるということを示したのです。

 南郷学派もこの生命史観を措定する過程では、これは生命の歴史であって生物の歴史ではない、ということをはっきりと打ち出して、これは生命の本流の歴史である、と謳っておりました。ところが、南ク学派の真理観には絶対的真理がなく相対的真理しかありませんでしたから、それに足を引っ張られて事実の裏付けのないことは言えないと絶対的真理の観点からの明確な規定をすることができずに中途半端な内容に終わったばかりでなく、生命の本流の歴史の論理的な規定を明確化できていないがために、今回のようにtadaさんからの疑義が提出されるはめになってしまっているのです。

 では、絶対的真理の観点からの明確な規定とはどういうものか、たとえば、人間はなぜ動物的な本能で生きることをやめたのか?というテーマに対して、相対的真理の観点では森の中に入り込んで木の事実を一本一本丹念に観察してそこから事実を導き出します。具体的には揺れる木の上に登ることによって認識が、それまでのはっきりした像とあいまいにぼやけた像とに像の二重構造化が起こります。あいまいな像のほうはそれを自分で像を創り出して補おうとし始めます。そういう働きはそれまでの本能ではなかったことなので、本能の方はそれをどう統括したらよいかわからずに、結果として本能の統括が緩くなり比較的自由に運動できる認識が芽生えていくことになります。これが最終的に本能を凌駕することになり、認識による本能からの政権奪取につながることになります。というような具体的な過程を説明することになります。しかし、これではどうやって本能的な生き方をやめることになったのかは分かっても、なぜ本能的な生き方をやめたのかの根本的な理由がわかりませんし、人間はその後どういう生き方をしていくべきかもわかりません。

 それを明らかにするためには、木と対峙している即自の自分から離れて天空に上って森全体を俯瞰してその流れをしっかりと見ることによって、答えが出てくることになります。動物までの生命は自らと地球の内在的な発展力による相互規定・相互浸透によって発展していました。したがって、それはその自らをはぐくんだ環境とぴったりと一致した相対的真理にもとづく生き方でした。しかし、それには二つの限界が存在します。一つは、環境が変わると生きていけなくなるという相対的真理のもつ限界です。もう一つは内在的な発展力が衰えると発展できなくなるという限界です。

 人類は、この二つの限界を克服するために、動物的本能で生きることを止めて、いかなる変化にも正しく対応できる絶対的真理の弁証法を学問の冠石とした真の学問をあらたな本能として主体的に世界創造を目指していく道を選んだのです。これが絶対的真理の観点からの明確な規定です。このような見方は、「実証されていないことを論理化し断定するのは 怖くてとてもできない」とする相対的真理の立場からは絶対に不可能な見方です。しかし、人類の歴史を俯瞰的に見てみると、少々迷い込んでいる感はありますが、確実にその道を歩んできていることは言えると思います。また、こういう観点があるからこそ、人類の本流が何かがわかるのであり、日本国がどういう方向に進むべきかも見えてくるのです。

 次に、生命の本流の歴史と生物の歴史の違いについてですが、tadaさんの誤解もここが理解できていないためと思われます。「これはすばらしいです。これこそ一般論です。地球が未完成の時代の生命体は未完成であるということです。つまりDNAも未完成でり、安定してはいなかったため DNAは容易に変化できる存在であったということを示唆しています。」とtadaさんが絶賛した地球と生命の内在的な可塑性・発展性の問題にも二重構造があります。

 つまり、人間へと向かう本流の可塑性と、その道を歩めなかったいうなれば落ちこぼれの可塑性との二重構造です。絶対的真理の弁証法の問題とするのは専ら前者の生命の本流の歴史なのです。生物の歴史は、落ちこぼれの可塑性がその後どのような環境と一体的に変化してどのような形で完成していったかも問題にします。だから、そこでは、すみわけの問題も問題にしなければなりませんし、「地球系からの規定 種社会としての規定 生態系としての規定 この三項の論理を」駆使して事実の論理を体系的に明らかにする必要があります。

 しかし、生命の本流の歴史の論理構造を明らかにする生命史観ではそれらは直接問題とはならないのです。だから、捨象されるといったのです。 

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[2336] 即時的真理=相対的真理と即且対自的真理=絶対的真理
北のM - 2016年09月12日 (月) 15時33分

>学問の歴史・弁証法の歴史を、絶対的真理の系譜と相対的真理の系譜との二重構造で読み解いて見せたのは、私が初めてではないかと思います。
私も、この人類が追究してきた真理の二重の系譜については、天寿堂様の以前の記述(たとえば、「真理とは何かの体系的構造」というスレッド)から初めて学ばせていただきました。今回の私の問いかけに対しましても、<生命史観>の観点からこの二重の系譜を見事に解説いただきました。ありがとうございます。

そこでひとつ気になりましたのは、今回のご解説では、絶対的真理としての<生命史観>と相対的真理としての<生命史観>の<区別>については明瞭に理解できました。しかし、私の理解不足もあるかもしれませんが、私の問いかけのもう一方である、両者の<連関>については、そのご解説から残念ながら読み取ることができませんでした。

そこで、これまで天寿堂様から学ばせていただいた上での私の理解では、この真理の二重の系譜を繋げる概念として、ヘーゲルの<即時>・<対自>という概念を導入してみますと、南郷学派の<生命史観>は即時的真理=相対的真理としての学説であり、一方天寿堂様の説かれる絶対的真理としての<生命史観>は、その即時的真理=相対的真理としての<生命史観>を統体止揚した即且対自的真理=絶対的真理としての<生命史観>とすることにより、これら2つの<生命史観>の論理的<連関>が説明できるのではないかと考えたしだいです。
これは、今回の天寿堂様のご解説のなかにある「木と対峙している即自の自分から離れて天空に上って森全体を俯瞰してその流れをしっかりと見ること」という記述からも示唆を受けたものであることを申し添えます。

Pass

[2338]
tada - 2016年09月12日 (火) 23時40分

天寿堂さんに何度も絶対的真理について解説していただいたのですが それでも私には今も「大局観」の説明をしているとしかみえないのです。「大局観」を絶対的真理と読み替えているだけにしかみえないのです。絶対精神も宇宙運動に対する確信的認識と読み替えても 天寿堂さんの定義と違和感はないのです。「大局観」を弁証法で体系化したのは功績だと思います。ですが現象的には 枚挙に暇がないものです。森を見ずして 木を見ると ことわざにあるぐらいのことです。その反対に私が主張していることも 灯台もと暗しになるなと これもまた 常識的なことなのです。そしてこれに論理性をもたし 普遍化するために 弁証法を使ったのです。この問題はこれからも 噛み合わないと思います。科学の発展とは そんなものだからです。それだから 学会など専門家集団の間において説得 宣伝 政治闘争などによって 形づけられ 真理があらためて生まれるのです。それを科学史家のクーンはパラダイムと名づけました。付け加えると 専門的に細分化している科学の世界に我慢できない野心的な科学者などがが全体を説明しようと宇宙論や進化論を使い 理論体系化を装うことを欧米では コスモロジーと呼ばれています。

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[2340] 本物の真理を獲得する道とは
愚按亭主 - 2016年09月13日 (火) 10時25分

 私がtadaさんの理解が違うとした肝心な点は、信仰の問題ではなく、真理の問題として把えていないところにあります。つまり、tadaさんは滝村先生と同様に絶対的真理を否定したままだ、ということです。だから、無理やり信じるかどうかの問題にしたり、大局観の問題に矮小化してしまうのです。だから、「絶対的真理など熱病病みの観念論者の妄想だ」としたエンゲルスの呪いは、げに恐ろしいと私は言い続けているのです。

 「『純粋理性批判』の序文にもある通り、カントは宗教的な独断的・専制的形而上学を克服して真の形而上学を樹立せんと志して出立し、ヘーゲルがその志を引き継いでついに宗教の手の届かないレベルに学問を引き上げ宗教との完全なる決別を果たしたのです。それは彼の宗教論を見れば一目瞭然です。ですから、彼の絶対精神は宗教的な神ではありません。そこのところをマルクスもエンゲルスも三浦さんも南ク先生も、そして滝村先生すらもが見誤ってしまったのです。そしてずっこけてしまったのです。
 逆説的に言えば、宗教の神は、絶対性を装いながら相対的真理の絶対化に過ぎないもので詐欺的欺瞞ですが、ヘーゲルの絶対精神は、本物の絶対的真理であり宇宙の本質であり、絶対理念は、その宇宙の本質が、論理として体系化され、物質から相対的独立に顕在化して自由に運動できるようになって世界創造を始めることのできる存在なのです。つまり、こちらこそ本物の神なのです。そのことを滝村先生は、ヘーゲルを丸ごと信じることができないで自分のほしいものだけをヘーゲルから学んだために、分からなかったのです。」

 ここに強調されているのように、人類は本物の絶対的真理をつかんだのです。それはヘーゲルの功績なのですが、ところがそのヘーゲルが否定されて、人類は再び彷徨ってしまっているのが、現状です。ほかのあまたある大局観は、宗教と同類の相対的真理の絶対化にすぎません。人類の最高の頭脳の英雄たちが苦労してつかんだ宝物すなわち絶対的真理の弁証法は、それとはまったく次元を異にするものです。それが分からなければ、本物の真理に到達することはできません。

 ヘーゲルは、その本物の真理に到達する道をも示してくれております。それが、
基礎的契機:即自的悟性・相対的真理の弁証法(南ク学派の生命史観)
否定的契機:対自的否定的弁証法的理性(ヘーゲルの絶対精神の自己運動)
統体的契機:即自対自的肯定的弁証法的理性(本物の真理)

 です。南ク学派は、唯物論の立場から生命の本流の発展の論理構造の解明に目的意識的に取り組み、一応の成功をみました。しかし、これだけではまだ本物の真理とは言い難いものです。本物の真理に到達するためには、観念論的な立場からの本質的論理からの、南ク学派の生命史観を否定的に媒介するとらえ返しが必要であり、その両者の統体止揚が必須なのです。この過程を経て、はじめて生命史観が本物の真理となり、絶対精神の絶対理念へ向けての自己運動の一部として融合一体化することになるのです。

Pass

[2341]
タマゴ - 2016年09月13日 (火) 12時19分

>本物の真理に到達するためには、観念論的な立場からの本質的論理からの、南ク学派の生命史観を否定的に媒介するとらえ返しが必要であり、その両者の統体止揚が必須なのです。

この箇所は、tadaさんと北のMさんと私の問い掛けに同時に答えているのでしょう。
うーむ・・・大筋の方向性としては間違っていないのかも知れませんが、しかし・・・。

生命史観というのは、生命の歴史を、生命そのものだけでなく、その生成発展の背景となった宇宙の在り方も含めて“人類史上最高の南郷派の唯物弁証法”で論理化する試みだろうと思います。
別の見方をすれば、宇宙と生命の生成発展の原理(法則性)として“人類史上最高の南郷弁証法”が完璧に貫かれていることを証明したかったのでしょう。
さらに言い換えるならば、南郷弁証法が人類史上最高であることを生命の歴史を題材として証明したかった、とも言えるかも知れない。
本当のところは師範や南郷派に伺ってみないと分かりませんが、私はそう推測しています。

天寿堂さんが南郷派の生命史観を丸パクりしているようでは、南郷弁証法が人類史上最高ではないとする天寿堂さん自身の根本の主張と矛盾しますから、天寿堂さんが生命史観の上の次元を目指すことを明確に打ち出したことは支持したいと思います。
しかし、私は、天寿堂さんが生命史観の上の次元を目指すのは時期尚早ではないかとも考えています。
理由は2つありますが、ちょっと忙しいので後で書きます。

Pass

[2342]
タマゴ - 2016年09月13日 (火) 15時40分

まず、天寿堂さんが“絶対精神”なるものを確把できているのかどうか、という問題があるかと思います。
よく分かっていないのに、絶対精神という語だけを得意になって振り回しているということはないのでしょうか?

例えば、天寿堂さんは長きに渡って「交感神経は魚類が上陸する際に副腎から増設された」という一般論モドキを断定的文体で主張し、さらにこれ根拠として様々な主張を展開していました。
ところが、交感神経は魚類の段階で既に存在し、一方、副腎は魚類の段階では存在しなかったことが後に判明した。
そのため、この一般論モドキだけを修正するだけでなく、そこから導いた全ての主張を修正ないしは破棄する必要に迫られることになってしまった。
魚類における交感神経や副腎の有無など調べれば簡単に分かることなのに、自己の論理を過信して些細な労苦を惜しみ赤っ恥を晒す結果を招いてしまったわけです。
しかも天寿堂さんの場合、このように誤謬を断定的に述べて後に赤っ恥を晒したことが一度や二度ではありません。

私は、天寿堂さんが“絶対精神”に関しても同じような論理的な手違いを犯してはいないのだろうかと疑念を持っています。
ヘーゲルの著作にマトモにあたったことがないのにヘーゲルが分かってしまったなどと述べていますが、また同じパターンに陥ってはいませんか?

私が述べたいことは、簡単に言えば、
自身の論理能力を過信して事実レベルの知識を軽視すべきでない
ということです。

天寿堂さんの最大の悪癖は“過信”だと思います。
確かに、事物に通底する論理性を確把できている人であれば、そこから未知の事物の在り方を高い精度で推察することは可能かも知れない。
しかし、それは人智を超えた領域です。
魚類の生体の仕組みすら間違えていた天寿堂さんに神の如き論理性が備わっているとは思えません。
そもそも人間は有限の存在です。
我々は事実レベルの事象についても謙虚に対峙しなければならない定めの下にあるのだと思います。

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[2346]
タマゴ - 2016年09月14日 (水) 06時15分

天寿堂さんが、ヘーゲルの弁証法を基に南郷生命史観を全面改訂する意志を固めたこと自体は支持しますが、思うに、その前にやっておくべきことが少なくとも2つあると思います。
1つは、上に述べたように、直接ヘーゲルの著作にあたり、天寿堂さんの先入観を交えずにヘーゲルの謂わんとする“絶対精神”の確把に努めること。
もう1つは、これも既に述べましたが、天珠塾に弁証法的議論の機関を設け客観性のある“真の一般論”を創出するための基盤を整備すること。
「交感神経の一般論」モドキは、私との激論で修正されましたが、それが無かったら今も同じ誤謬が繰り返し展開されていたはずです。
私がここに居なくとも誤謬が修正される仕組みを作っておく必要が絶対にあります。
そのためには、天寿堂さんに敬意を持ちつつも「それは違います」と反対意見(否定的契機)を直言できる御弟子さんを作ることも必要ですし、そう言える空気を作ることも必要でしょう。
更にそのためには、三項の論理学を議論に適用する方法論を整理・体系化しておくことも必要でしょう。
このように、細かいところまで含めると、やっておくべきことは幾つもあると思います。

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[2347] 絶対的真理と相対的真理の統体止揚としての<本物の真理>
北のM - 2016年09月14日 (水) 12時36分

>基礎的契機 : 即自的悟性(これがタマゴさんの説いた事実に基づ相対的真理に他なりません)
>否定的契機 : 対自的否定的弁証法的理性(これがタマゴさんが私を批判したもので、理念から解く絶対的真理です)
>統体的契機 : 即自対自的肯定的弁証法的理性(これが本物の真理です)
[2298]の上の天寿堂様の書き込みを見逃したまま、このスレッドを立ち上げたことを反省しております。この三項の論理と、
>基礎的契機:即自的悟性・相対的真理の弁証法(南ク学派の生命史観)
>否定的契機:対自的否定的弁証法的理性(ヘーゲルの絶対精神の自己運動)
>統体的契機:即自対自的肯定的弁証法的理性(本物の真理)
を併せて考えますと、標記のようなかたちで、本物の<生命史観>が、南郷学派の相対的真理としての<生命史観>が、ヘーゲル系列の絶対的真理を否定的媒介として統体止揚されて確立されていくべきものであると理解しました。

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[2348]
tada - 2016年09月15日 (木) 00時23分

天寿堂さん 惜しいことだと思います。私の説明 絶対精神と科学的確信、絶対的真理と大局観 これが同型 論理的には同じと考えれば 科学者が科学に対する信頼・信仰 そして真理に対する絶大なる確信の大元が絶対精神としてへーゲルがすでに論理化し弁証法で体系化していた。同じく科学としての直観・仮説の問題(私は大局観と呼んでいます)を絶対の真理の弁証法として天寿堂さんが論理化し弁証法で体系化していたことになるんです。スッキリと考えがまとまるし、南郷学派でさえ ここまでは体系化していない。滝村先生も直観という言い方しかしていません。科学史のほうでも 先回の述べたパラダイムというきわめて限定的な言い方しかありません。絶対精神の考え方はその点が普遍的で ギリシャ・中世の科学思考についても概念的に含んでいるのです。いかがですか? もう少し概念の拡張をしてみませんか。その方が実り多きものになります。
ヒトは進化の本流ではないですよ。私家版の生命史観ではヒトは進化の落ちこぼれです。落ちこぼれ 身体の虚弱さ つまり本能の弱さをもって生まれたのがヒトです。その弱さゆえに社会を形成し、文化をもったのです。牧畜農耕段階にたどりつくまで 落ちこぼれの動物ですよ。今で言うマサイ族レベルですから。牧畜農耕を手にいれはじめて 部族国家化し 進化の本流に乗った、逆説的な存在なのです。この論理は南郷武道論にもあります。グズの天才論です。グズであるがゆえに 秀技を身につける条件を持っている。秀技を身につけることは時間がかかるという難点があり 勝つために負ける構造があるということでしたね。滝村国家学にもあります。滝村先生は書かれていませんが 私が中世国家とアジア国家の比較を先生の研究から創りました。中世ヨーロッパというのは落ちこぼれ国家です。アジア国家のように大帝国を成立させることができなかった。王・貴族・教会という封建領主たちによるドングリの背比べ的小国家の集合体でした。それは地理的条件が原因でアジアに比べ 食物の生産性が低く 人口が増加しなかった。それが 戦国大名やそれをまとめる織田豊臣氏のような大名たちを誕生させなかったのです。しかし ヨーロッパ人はそれを徐々に補うために 都市をつくり 交通網を整備し 分業化をはかり 地理的条件を克服していったのです。労働人口の少なさは 省力化 工業化を促進しました。そして 産業革命を興し 落ちこぼれ国家は近代国家として 国家の本流になったのです。 

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[2349] 残念ながら
愚按亭主 - 2016年09月15日 (木) 14時18分

 私の批判は、お役に立てなかったようですね。議論をする意義は、相手の批判的な意見を媒介として・鏡として己を反省し己自身が否定的に発展するところにこそあるもので、相手を打ち負かすことではないと思います。私はこの議論のおかげで自分でも驚くほど己自身を発展させることができました。それは議論の流れを追っていただければ一目瞭然だと思います。

 私が問題にしたのは、tadaさんの真理観が相対的真理一色であることでした。相対的真理ベースの大局観と、絶対的真理とは違うと申し上げたのです。また、大局観と絶対的真理とは違うとはっきりと申し上げたはずです。絶対的真理は論理であり体系の冠石です。ですから、その論理は必ず全体に貫かれます。これに対して、大局観は単なる観方にすぎません。この違いは非常に大きいものがあります。その違いが具体的な形で現れたのが、「ヒトは進化の本流ではない」論と「中世ヨーロッパというのは落ちこぼれ国家です。アジア国家のように大帝国を成立させることができなかった」論です。

 事実はいかようにも解釈できる側面を持っております。ですから何が本質的必然性なのかを見極めるためにも、大局観ではなく、全体の本質である絶対的真理が不可欠なのです。

 たとえば、、「ヒトは進化の本流ではない」論は、大局から見た現象論に過ぎないものです。本流を能力の高さで判断しようとするのはナンセンスです。本流であるか否かは、絶対的真理である世界の本質の発展の流れであるか否か、によって規定されるべきです。具体的に言いますと、世界の本流とは、絶対精神(本質の発露としての物質自体の内在力による発展)から絶対理念(物質の本質を自覚した精神が自らを概念的に体系化)へと向かう流れこそが、本流といえる資格を持つと思います。その意味で、人類は、内在的な発展力が限界を迎えた状況の中で、その限界を突破する可能性を有する主体性をもって自由に像を創像し、絶対理念へと向かう道を歩むことのできる認識を生み出したところにこそ、人類が本流と呼べる所以があると思います。実際、人類は内在的な発展力を失った世界を、目的意識的に創り変える形で世界の発展を引っ張ている現実があります。

 同様に「中世ヨーロッパというのは落ちこぼれ国家です。アジア国家のように大帝国を成立させることができなかった」論は、人類へと通じる道から外れた恐竜が、如何に巨大な体躯を有しようとも本流とは言えないのと同じ理由で、明や清などの帝国がどれほどの文明を持とうとも、どれほどの領土を持とうとも、本流と規定すべきではないと思います。

 本流と呼べるのは、やはり、アリストテレスの学問を神学として受け継いだ中世ヨーロッパであり、そこから個別科学が生み出されていった中世ヨーロッパだと思います。この神学の独断性・専制性を克服して真の形而上学を創ろうとカントが志してヘーゲルが達成したドイツ哲学は、この本流の流れから生まれたものだからです。

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[2350]
tada - 2016年09月15日 (金) 23時05分

残念ながら 天寿堂さんは 論理の呪縛に陥っています。もう少し柔軟な思考体系だと思っていたのですが 弁証法による絶対的な固定化が完成していました。それは ヘーゲルが法の哲学で起きたことと同じです。最初から 完成系としてその学問体系を創られた。そのため アップデートできない状態になっているのです。だから いつも同じ紋切り型の文章の繰り返しなのです。絶対精神は今も躍動しているのです。その躍動が過去の意味をも変えていくのです。この世界に絶対などはありません。その言葉は論理と概念の世界で遊んでいる時だけです。
今回は率直に述べさせていただきました。納得がいかないと当然 思われると考えていますが 天寿堂さんの思考体系に危機感を感じているからなのです。天寿堂さんの歩む道に対して 否定することではありません。私の考えを心の隅にでも少しおいて見てください。そして 独善に落ちないよう 先行諸学に目を通して ドンキホーテにならないよう 絶対的真理の弁証法を大きく育ててください。私が先回 紹介しましたコスモロジーについてですが 欧米では疑似科学扱いされています。この鬼ッ子を一人前にするのは これからの天寿堂さんの腕にかかっているのですから。

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[2351] あれっ、もうお終いですか・・・
愚按亭主 - 2016年09月16日 (金) 09時39分

 これまでになかった最高の学的闘論ができていると感じてワクワクしていたのですが・・・。最高のアンチテーゼを投げかけてくれて、さすがtadaさんただ者ではないなと最高の評価をしていたのです。これでお互い学的に大きく高めあうことができると期待していたのです。

 ダイナミンクな運動は、静と動との統体的統一によってはじめて生じるものです。たとえば、骨のようなガッチリとした動かない土台があるから筋肉はダイナミックな運動が可能となるのです。同じように、絶対的真理という動かない土台があるから相対的真理もその真価を縦横に発揮できるようになるのです。ところが今の学問界の現実は、その土台としての絶対的真理を否定してしまったから、クラゲのように何処に行くのか全く見当もつかない迷走運動を繰り返しているのです。それは絶対的真理を否定して学問の冠石をなくしてしまったせいなのです。

>ヘーゲルが法の哲学で起きたことと同じです。最初から 完成系としてその学問体系を創られた。そのため アップデートできない状態になっているのです。

 そうではなく、むしろそのため無限のアップデートが可能となるのです。骨格がしっかりと固定されているためいかなる変化があっても柔軟に対応できその内容が無限に組み込まれて、内容が無限に豊富化できる基盤ができたということなのです。それを学問の先達たちがしっかり創ってくれていたのです。どうしてそれを利用させていただこうと思わないのか不思議です。私の説き方が紋切型に見えるのは、同じ論理で全部説けるからです。そしてその論理が感情化し本能化しているからです。つまり、その論理で貫ける・筋を通せる本物の論理だからです。この現実の世界を一つの論理で説ききれる。すなわち、それがヘーゲルの言う「精神の王国」が本能と化してきているということです。

 tadaさんならエンゲルスの呪いの呪縛から自らを解き放てると期待したのですが、無理なのでしょうか・・・・・。

Pass

[2352]
タマゴ - 2016年09月16日 (金) 13時34分

私も天寿堂さんと激論を交わしてきた身なので、tadaさんのお気持ちがよく分かります。
私との議論は、交感神経や副腎といった具体的事例に関してでしたので調べたら答に辿り着きましたが、論理性の話となると何とでも捏ねくり回せますからね・・・。
天寿堂さんは自説への拘りとそれを死守する意識が強すぎるのです。
私のように健康腺療法への強い思い入れがあるような特殊事情でも無い限りは、議論する相手が呆れて匙を投げてしまいますよ。
そうして、対論者が居なくなり、三項の論理が機能しなくなり、天寿堂さんの論理の発展も止まってしまう。
結局自分が損をするだけなのに。

天寿堂さん。
tadaさんほどの頭脳はそうはいないし、そんな方が対論者になってくれたのに勿体無いですよ。

Pass

[2353]
タマゴ - 2016年09月16日 (金) 16時18分

正直、私もtadaさん同様、天寿堂さんの方向性に危うさを感じています。

天寿堂さんは、ついに「神」というものまで講釈し始めてしまいました。
しかし、天寿堂さんが考える「神」とヘーゲルの言う「絶対精神」は同じものではないと思います。
直接ヘーゲルの著作にあたったこともない天寿堂さんが想像力を逞しくして言っているだけのことです。
天寿堂さんは、
「いや、論理の力があれば読まなくてもわかるのだ」
と言うかもしれませんが、その“論理”もヘーゲルの著作に書かれているわけですから、読まずに分かるというのは変なんですよ。
まあ、読んだら読んだで、天寿堂さんは天寿堂さん流の恣意的な解釈をしてしまいそうな気がしますが・・・。

「神」は「絶対精神」であり、自分はその「絶対精神」を完全に理解しているというなら、その人は悟りでも開いたということなんでしょうか?
端から見たら、自我膨張を起こして全能感を抱いているアブナい人ですよ。
進化論を否定し創造論を妄信しているキリスト教福音派と同様の危うさを感じてしまいます。

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