カウンター パリは燃えているのか? - 談論サロン天珠道
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[2219] パリは燃えているのか?
tada - 2016年07月17日 (日) 13時54分

>南ク学派には、二重構造の多層化はあっても、三項・三重構造はないと思いますが、tadaさんが南ク学派の生命史観においてとらえた三重構造とはどういうものでしょうか?

南郷学派の生命史観とは何か? あまり熱心な学城の読者ではないのですが、学城1号の武道哲学講義Tpart2の 南郷先生の説明を再び読んでみました。世界史を理解する鍵は地球の歴史にある。社会も精神も、自然の生成発展の途上で、生成発展したものであるから 社会と精神を究明するには、大元である自然を究明していかなければならないと謎が解けない。弁証法性とは、自然で二重・社会で三重・精神で4重の構造をもち かつこれらが相互浸透しているという内容でした。生命史観の定義をこれだ。というような書き方ではなく まず地球の歴史 宇宙から地球 と生命の歴史 生物から人類 の自然の弁証法性の二重性 そこからの地球と生命の二重構造に社会の歴史 社会の弁証法性を組み込んでの三重性 最終的には精神の弁証法性 人類が文化をつくり 精神を生み出すことにより社会がかえられていく (ここでは精神を指導者の精神として 国家を意味している)を組み込んでの4重性と 積み重ねるような弁証法性の重層構造を発展史観として構築していく。というような書き方でした。いわゆる「生命の歴史」は天寿道さんのいう自然の弁証法性の二重構造でした。そして 南郷先生によると 自然の弁証法性はすでに「生命の歴史」としてすでに措定してきており、当然に次は社会の弁証法性の究明の段階にいたっているからであるとのことでした。 そのことを南郷先生は「世界史」とよび 「生命の歴史」に大きく規定された「世界史」と三重構造(ただし ここでは三重構造とは書いていない)を暗に示唆しています。そんなことを誤読して 私は「世界史」を吹っ飛ばし「生命の歴史」イコール「世界史」とすでに 「生命の歴史」が自然と社会の三重構造であると勘違いしておりました。お恥ずかしい限りです。訂正しておきます。

>滝村世界史の方法が弁証法を否定しているため 世界史の変化連関を扱えない欠陥を有すると論じています。

 これは、滝村先生が弁証法の論理学の方向へ収斂して形式重視の方向に行かれる様子をみて、運動性がなくなっていると解釈したものと思われます。これは弁証法と論理学との区別と連関が分かっていないための誤解です。一見形式化しているために運動性がなくなっているように見えますが、本当は運動性をより見事に論理的に表現できるようになっているのです。

 たとえば、南郷学派の生命史観では、生命現象的運動から生命の誕生に至る過程を、生命が現れたかと思えば消えという繰り返しを延々と繰り返す中で生命現象そのものが次第に実力を蓄えていき、ある時一気に生命現象が量質転化して生命として実体化する、と説明しております。

 これに対して、私はこの同じ現象を、三項の論理を用いて次のように説明しました。〈無機物(普遍性)ー有機物(特殊性)ー生命(個別性)〉の三項の諸契機が、入り交じり、絡み合い、相互移行・相互転化を繰り返す中で、次第に諸契機がまとまりだし、統体止揚されて一個の安定的な実体としての生命体が誕生した、と。

 前の南ク学派の説明は、いかにも運動性があるように見えますが、現象をなぞっただけでしかありません。これに対しての私の説明は、その構造をしっかりと解いて目まぐるしく変転していく様子が手に取るように分かり、しかも、現在に至るも、生命は基本的に同じ運動をしているのだな、ということがよく分かるはずです。すなわち、われわれが水を飲み食べ物を食べているのは、この三項の運動をしているということだということです。ところが、南ク学派には、弁証法をうたい文句にしながらこの三項の論理がありませんから、このように説けないのです。

天寿道さんの三項の論理 再掲載しました。さすがです!論理の運動性がよくわかります。南郷先生の夢講義(6)では滝村世界史の方法の二重構造の概念には 弁証法の歴史性・発展性がない。私南郷の二重構造の世界歴史には発展性すなわち歴史性がある。と述べていいます。これでは意味がとれません。論理はすべて二重構造だとの決めつけがあります。これは南郷先生と学派に三項の論理がない証拠です。だから言いたいことはわかるのですが 言葉遊びのように二重構造が多重化していく表現が続くのでわかりづらいのです。夢講義は6巻で完結し学城も13号(ちなみに1から4号と8号と11号に滝村批判があります)です。南郷継正全集も完成に近づいています。この三項の論理がないことは致命的なことです。パリの破壊命令は実行されなかったのです。パリは燃えなかった。陥落したのはベルリンでした。
 
>なぜ「ドーピングやウエイトトレーニングの理論」なのですか?
 高齢化社会日本の医療費の増加 その一つの解決策としての筋トレと糖質制限食。オリンピックをはじめとする様々なスポーツ国際大会での不正ドーピング、プロスポーツでの使用と 社会学的な興味はもちろんあるのです。しかし ここでは 単純に努力と環境の前提になる遺伝と素質の部分が南郷学派においては おざなりにされていることを指摘したいのです。例えばうつ病に対して 薬で回復することがありますね。脳内での化学物質合成ができないのでうつになる遺伝的原因説 筋肥大も成長ホルモンの体内発生量で決まりますので遺伝的 素質の影響が大きいと思うのです。個人差として 一般論では扱わないのかもしれませんが 自然の2重性そこから社会で3重性の規定をするのなら 生まれつきの考察も必要なことだと思うのです。

Pass

[2223]
愚按亭主 - 2016年07月18日 (月) 21時28分

>そのことを南郷先生は「世界史」とよび 「生命の歴史」に大きく規定された「世界史」と三重構造(ただし ここでは三重構造とは書いていない)を暗に示唆しています。そんなことを誤読して 私は「世界史」を吹っ飛ばし「生命の歴史」イコール「世界史」とすでに 「生命の歴史」が自然と社会の三重構造であると勘違いしておりました。お恥ずかしい限りです。訂正しておきます。

 そんなに簡単に引き下がらないでください。どうやら今回は私の方が訂正すべきのようです。私も読み返してみて、確かに南ク先生は、明確に三重構造と述べていました。そう言えば、認識学の構造も人類一般の認識の生成・発展・人間一般の認識の生成・発展、および個としての人間の認識の生成・発展、というふうに三重構造になっていて、見事に普遍性・特殊性・個別性の三項の論理とピタリと符合します。

 南ク先生は、実践の中で弁証法を創られたので、ある意味形にとらわれずに自由奔放に三重構造・四重構造というように論理を展開して、対象と見事に合致した論理を創り上げられることが多いのだと思います。とりわけ、P218の上段の中ごろから下段の最後までの論理展開は本当に見事です。つまり、南ク先生の説く三重構造は、結果的に三項の論理と同一の構造にはなっていますが、三項の論理を意識しての応用・適用ではない、と思います。ですから、それをtadaさんが三項の論理として読み取って、活かすことは素晴らしいことだと思います。

 このように、この時期の南ク先生は概念論レベルの素晴らしい論の展開をされています。これは、生命史観を措定したその勢いが保持されていたためであろうと思います。しかしながら、それをヘーゲルの絶対精神の自己運動のなかに位置付けるという肝心かなめの作業を怠ってしまったために、その一般論の中身が具体的に展開されないまま10年たっても、国家論も社会の弁証法もできないで、全集第三巻もだされないままになっているのだろうと思います。

 それはどうしてかといいますと、生命の歴史の一般性を解いたわれわれのみが人類の歴史・社会の歴史・社会の弁証法を解けると豪語して、その一般性として、栄えの場所の変化・正規分布の連続性における滅びと栄えのとの直接的同一性をあげていますが、これだけでは社会の弁証法・精神の弁証法は解けないだろうと思うからです。

 なぜなら、人類が誕生するまでの地球の歴史や生命の歴史と、人類が誕生してからの社会の歴史・精神の歴史とをヘーゲルは明確に、絶対精神の自己運動と絶対理念へと向かう概念の自己運動とを区別していたように、そこには大きな質的な違いが存在するからです。ところが、南ク先生は、地球の歴史・生命の歴史の一般論で、社会の歴史・精神の歴史も解けると思い込んでしまったことが、つまづきの原因なのです。

「人間が創った社会のありかたは、精神の存在形式が違えばその行いからして違うのである。人類が文化をつくり、精神をうみだすことによって社会がかえられていく、社会すなわち一般大衆のなかの、精神中の精神が精神である。」

 南ク先生の説いたここの部分はとても素晴らしいと思いますが、ここをもっと重視してその意味を問い、ヘーゲルの絶対理念とのつながりを真剣に問うてこそ、人類の社会の本流の発展史・精神の本流の発展史が見えてくると思うのです。生命史観でせっかく生命の本流の発展史を措定できたのに、どうして人類の歴史においては、社会・精神の本流の発展の論理構造の究明ではなく、栄えの場所の変化・正規分布の連続性における滅びと栄えのとの直接的同一性といった現象論ばかりなのかと思います。

 南ク先生が、アレキサンダーの世界征服を「侵略したいから侵略した」と評しておりましたが、これは大きな誤りです。アレキサンダーは師匠のアリストテレスが学問の世界で世界統一をなしたその高い思想性・偉大な精神をもって世界の統一を成し遂げたのです。その証拠に、アレキサンダーは征服した地を奴隷化しようとはせず、アリストテレスの学問による教育を施して、その地を文化的に発展させようとしているからです。そしてその結果として、ギリシャとその地の文化が融合したヘレニズム文化が生まれ、その地からその後の世界に大きな影響力を及ぼすイスラム教が生まれ、ギリシャ哲学が温存され、後に西洋に輸出されるまでになったという事実があるからです。これこそ絶対精神の体現したまさに精神の本流に他なりません。ところが、これを「侵略したいから侵略した」としか見ることができないのは、生命史観を絶対精神の自己運動の一環としてみることができないからであり、人類の精神の本流を見極めようという視点がないからです。これも唯物論の弊害といってよいと思います。

 人類の誕生の意義は、生命(物質)がはじめて己を自覚し、己と世界の構造とを自覚して、それを用いて目的意識的に世界をそれまでない形に発展的につくりかえるところにあります。だから、それまでの物質の歴史や生命の歴史とは、同じ一般性を有しながらも、まるで違うのです。このことは生命の歴史における逆噴射とまで仰天動地の大革命であったことを強調しておきながら、なぜ過小評価するのか本当に不思議です。そこのところの自覚がなく、生命の歴史を解いたから人類の歴史も解けると軽く考えてしまったことが一番の問題です。

> 単純に努力と環境の前提になる遺伝と素質の部分が南郷学派においては おざなりにされていることを指摘したいのです。

 そこのところは、私はそれほど感じてはいないのですが、何かそれを痛感する事実があるのですか?むしろ、脳の障害などによる知的障碍者の、教育の詳細な実践的分析などで、むしろ進んでいるのではないかと思いますが・・・・。

 余談ですが、うつや統合失調症などの一つの原因として、現代人の食生活の傾向として、鉄不足になりやすく、そのため脳細胞の活性が低下して、やる気が出ないとか、認識の二重構造の統括がうまくできなくて勝手に幻影を創ってしまうという場合もあるようで、その場合には鉄分の投与によって確実に改善しているという報告があります。また、交感神経とスジの状態が悪いという体のほうからの規定性によって、うつになってしまう場合もあります。

 また、私が「なぜ『ドーピングやウエイトトレーニングの理論』なのですか?」と聞いたのは、よこしまな目的意識性によって正常なあり方がどう歪められていくのか、あるいは、今あるあり方をどう強化していくのかという目的意識的な取り組み方の理論が、国家の組織化などの問題を解く参考にしようというような問題意識なのかなと想像したためです。

 




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