カウンター 日本国憲法はどう変えられるべきか - 談論サロン天珠道
【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催

談論サロン天寿道

この掲示板は、東洋医学に関する諸問題を真摯に討論するためのものです。
個人的な誹謗中傷ではなく、学問的な議論であれば、どんなに激しくとも可です。
最近他所の問題を此処で意見する者が増えてきました。
ここは独立した掲示板ですのでそのような書き込みは削除いたします。

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
アップロード
URL
削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[2103] 日本国憲法はどう変えられるべきか
愚按亭主 - 2016年05月30日 (月) 11時14分

 日本という國は特別な圀である。そのことを端的に示す言葉が、「日本の常識は世界の非常識」という言葉である。これは決して良い意味で使われてはいないか、日本が世界に比類のない國であることを示すには充分である。では本当のところは、日本はどういう意味で世界に比類のない圀なのか?ということをヘーゲル流に言えば、絶対精神が自らに回帰した圀ということである。つまり、日本こそ本流だということです。

 「『鉄理論ー地球と生命の奇跡』を生命史観から読み解く」の中で説いておいたように、地球は、非常にまれなケースとして太陽から飛び出した惑星群の中で、唯一惑星として完成できた貴重な惑星である。具体的には、月のおかげで熱い状態が長く続いたことによって生命が誕生しただけでなく、鉄が地下深く沈降して内核を形成でき、地磁気も完成した唯一の惑星となることができたことである。
 その地球に誕生した生命という物質の異次元の類まれな運動形態が、人間に至るまで発展できた、その生命の本流の歴史を論理的に措定したのが、他ならぬ生命史観である。そして、その人間が目的意識的に創り上げた社会・国家のうちで、日本だけがまともな社会まともな国家の形態を創り上げることができた唯一の圀なのである。

 このことに関してはいくつかの証拠が存在する。まず挙げられるのは、「逝きし世の面影」の中に描かれている来日した外国人たちの「これは自分たちの文明とは違う一つの文明である」という客観的な評価である。しかもその中身が、「下層の人たちまでもがこのように幸福そうに微笑んでいる国は自国でも歴訪した諸国にも見られなかった光景である」というものだったからである。しかも、これが社会の形が相当に崩れていたはずの江戸末期から明治初期のころの話であるからなおのこと、その凄さがわかろうというものである。
 そして、実際江戸時代の日本は文化的にも、経済的にもその当時の世界の最先端をいっていたといっても過言でないほどの実力を有していたことである。たとえば、学問の分野では安藤昌益がヘーゲルよりも百年先に、「自然真営道」(活真≪絶対精神≫の自己運動≪自然営道≫)という百巻にもおよぶ大著の中で絶対的真理の弁証法の祖型を創り上げていたこと、治未病医学の漢方(古方)は本場の明を凌いで世界トップレベルであったこと、また、芸術の分野においても伊藤若冲などはフランスの印象派よりもさきに陰影の描写を取り入れていたり、浮世絵がゴッホなどに大きな影響を与えるほどであったことは周知の事実である。
 経済産業の分野においても、種子島の鉄砲の分業的製作システムは当時の最高レベルであったし、金融の先物取引を始めたのも日本が世界初だったのである。

 そして、このような完成レベルの社会性・国家性を受け継いだ戦前の日本人が、現在の日本人と具体的にどう違うのかを、「心に青雲」のブログ筆者殿が、「軍人片岡覚太郎の至醇遥」という記事の中で次のように描写している。

「 片岡の述懐は、個人が社会なり国家なりの従者になっているように見えて、実はそうではなく主体性ある個になっている。それがあとで書くが現代っ子ほど個性的であるように見えて、実際は社会の従者にならされている皮肉な現象がある。」

 そしてそれを、より具体的に次のように説明している。曰く
「片岡の文章の前半を今一度読み返してほしい。彼は自分は認められようというさもしい気持ちで任務を遂行したのではない、と言い切っている。
 似たような記述は、藤原岩市の『F機関』(原書房)にもあったと思う。藤原は大東亜戦争のとき陸軍特務機関としてマレーやインド、インドネシアの独立に関わった男の中の男である。命を賭けで、インド等の植民地を独立させようと心胆を砕いた。私心を棄てている。
 また、多くの特攻隊志願兵の気持ちとも通じているだろう。
 こうした個人の認識は、国や社会にあまねく存在していた。別言すれば受け入れられる素地が社会にあった。
 現代の人間は、平和ボケし、個性大事で育ってきているから、片岡の思いはまったく理解できまい。
 例えば、まず教師が悪い、親が悪い、友達が悪かった、とすべて人のせいにする。俺を認めなかった教師や親が悪いのであって、俺は悪くない。という弁解で頭がいっぱいになっている。片岡のような人間は世の中から払底した。
 組織の理想実現のためなら、自分はどうなってもいい、そんな考えは今では嘲笑の的だろう。」

 この戦前の日本人の典型と現在の日本人の典型との違いは、一体何なのであろうか?まず、民主主義国家にして自由なと謳われている日本国民である現在の日本人の典型は、個の立場での即自の感情そのままである。これに対して、戦前の日本人の典型は、即自の自分の感情を対自の国家・社会全体の立場から自分をとらえ返す自分との区別がしっかりとできたうえで、主体的に対自の自分に即自の自分を一体化させることができていた、ということである。それが、国家・社会の隅々までいきわたっていたのが、「日本だけがまともな社会まともな国家の形態を創り上げることができた唯一の圀」の証しなのである。

 ではそれがどうして、戦後の日本人の典型などのような体たらくになってしまったのであろうか?これまで人類の歴史は国家の歴史として現象する必然性があって今日に至っているのであるが、その中で国家という形式を実質的に形骸化・空洞化してしまおうという目的意識的な画策が世界全体に広まってかなりな程度それが進行してしまっている現実がある。このような背景の中で、とりわけ日本が見事に国家・社会の実質を創り上げていただけに、第一の標的とされて様々な特別の破壊工作が繰り広げられてきた結果といってよい。

 ではそれは一体どういうことか?人類が今直面している問題は、テロとか宗教対立とかあるが、本質的には政治と経済との矛盾・闘いこそが最も重要である。これは絶対的真理・全体的利益=政治と相対的真理・部分的利益=経済との戦いである。これが現在欧州や米国で吹き荒れている旋風の正体である。

 本来経済は社会全体(政治)の一部分に過ぎないものだあったが、資本主義経済・金融経済が発展するにしたがって、経済権力が国家の枠組みを超えて大きく発展して、相対的真理の絶対化すなわち経済権力による世界支配を画策するような勢力までも生み出すようになった。
 これに対して政治は、本来社会自体・社会全体の発展を図ることを本質とするものであるから、人類の世界全体の発展は、本来その絶対的真理性をもつ政治によって本物の絶対的真理の確立がなされるべきである。なぜなら、経済権力(相対的真理)の絶対化は、おなじ相対的真理の絶対化である宗教と同じく人類を不幸にするものでしかないからである。しかし、残念ながら現在の政治の現実は、経済権力に牛耳られ、まっとうな政治家が現れがたい現実がある。

 この経済権力の絶対化をもくろむ連中が、国家を形骸化しようとさまざまな工作をしているのである。その要となるのが、民主主義であり、主権在民であり、人権主義であり、同性愛に市民権をあとえよ運動である。これは国民の即自的な感情を助長して、否定的媒介としての対自的認識との統体止揚によって、真の国民としての感情への発展を阻害するものである。

 したがって、まずは憲法からである。現在の憲法の主権は国民にある、はまちがいである。これでは日本圀の連続性・継承性は何によって保障されるのか危うくなるものである。だからこそ、主権は観念的実体としての国家にあるべきである。そういう意味で、これを廃した自民党の改革案は正しい。問題は、主権を持つとする国家の理念を正しく規定することである。物質の歴史、生命の歴史、人類の歴史における日本圀とは何かを学問的にしっかりと規定し、人類史における日本圀の歴史的使命をはっきりと謳い上げることである。そしてその高貴な理念から圀民を、一等圀にふさわしい圀民となれるように圀が責任をもって教育することである。勿論、教科書の選定も圀が行うべきである。こういうことをできないようにしてきたのが、主権は国民にあるという憲法の規定である。それがどれほど圀をダメにし、国民の劣化を促進してきたかは歴史が証明していることである。

 このように経済権力を絶対化しようと企む勢力との闘いは、学問をもって、日本という圀をその歴史的使命にふさわしい一等圀として再建することこそが、肝心なことである。そのためには、まずは日本国憲法をまっとうなものにする、ことから始めなければならない。

Pass

[2119] 日本の国家理念はどう創られるべきか
愚按亭主 - 2016年06月17日 (金) 18時04分

 日本国憲法を創る場合、まずなすべきは日本国の国家理念を学問的に創り上げることが何より重要なことである。国家の主体性をうんぬんする場合、この国家理念がその主体性の要となるからである。これに対して、米国が自衛隊を手足のように使おうとして集団的自衛権を認めさせようとしているのだから、それを拒否するのが何よりの主体性の発揮であり、こちらの方が本当の主体性だとして批判する向きがあるようであるが、これは皮相な現象論でしかない。その証拠に、米国から米軍を引き上げるぞそれが嫌なら経費を全額負担せよと揺さぶりをかけられ、中国からも軍艦を日本の領海に侵入されるという事態に直面しているときに、安倍首相に日本だけで日本を守る覚悟をせまるのではなく、日本のことなどそっちのけで党利党略に走って、安倍首相の暴走を止めて九条を守れの大合唱で野党が野合しようとしていることからも察することができる。日本が主体性を確立するために絶好のこの状況が分かっていないのはどちらの方かということである。変化に対応できないその頭の固さ、度し難いと言わざるを得ない。

 現在の世界の状況は、国家同士の対立の構造と、国家の政治権力とグローバル経済権力との対立という構造との二重構造の絡み合いの複雑な様相を呈している。その中で、国家を形骸化しようとするするグローバル経済権力の策謀によって世界中の国家がガタガタにされている状況が見受けられる。

 このような状況における人類の未来は、絶対的真理の世界の本質・本流である絶対精神の弁証法的発展の道筋にそって、社会全体を統括する国家の政治が、その否定的契機たる経済のグローバル化を媒介として、自らを完成するとともに他のものを創造し、自らを他のものとして創造するという形で統体止揚すべきであって、決してグローバル経済勢力の夢想するような国家を解体して国民をバラバラにして世界を支配するものであってはならないのである。

 そのためにはガタガタにされた国家を、学問をもって目的意識的に再構築していかなければならない。その先頭に立たなければならないのが日本である。ところが今の日本は、残念ながらそれを到底果すことができない状況にある。それは敵対国の米国およびそれを操るグローバル経済勢力が日本の国家としての見事さに脅威を感じて、立ち直れないように徹底的に破壊工作をしかけてきたからである。それによって日本はかなりな程度被害をこうむっているが、それでも日本の社会自体は、まだ風化を免れて遺産が残っている部分が存在して、日本ほど社会としてしっかりしている国はほかには見られないといってよい。これをもってその日本人としてのDNAに期待する声や皇室に望みを託そうとする勢力が見受けられるが、はっきり言って日本の再興は無理である。

 日本が、国家として社会として本流レベルの見事さを創り上げることができたのには、天皇は関係ありません。それを作り上げる原動力となったのは、当時の支配階級であった武士の見事さになります。武士道で己の在り方を厳しく律した武士が見事な国家・社会を創り上げたのです。武士道とは、公のために己を主体的に捧げる道ということである。これが江戸時代の三百年間という長い年月をかけて社会の隅々にまで浸透して世界に類を見ない見事な国家・社会を創り上げたのです。そして、これをグローバル経済勢力は、心底恐れたのです。なぜなら、これこそ自らの世界支配計画を阻む最大の脅威だからです。だから、日本は今に至るも最大の標的とされて攻撃され続けているのです。

 それに対する最大の武器は何かと言いますと、学問とりわけ弁証法です。幸いなことに今の日本にはそれがあるのです。その学問をもって、日本を目的意識的に見事な国家・社会として再創造することです。現在の日本は、多くの日本人以外の者が日本国籍を取得して日本に住んでいます。そうした人たちも心から共感できるような新たな国家理念を創り上げて、日本国を再興しなければならないのです。こういうことは、天皇では決してできないことです。

 ではその日本の国家理念は、どうあるべきかについて素案を披歴するならば、日本は世界の奔流にふさわしい歴史を持ち、これからも不断に自らを磨き、世界の発展をけん引し続ける国家であらねばならない、という内容が良いのではないかと思っている。だから、そのためにも日本は一日も早く国家の主体性を確立しなければならないのである。その絶好の機会が今なのである。

 さて、そのためにはこれまで流布されて支配的になっている国家を形骸化するための常識を、一つ一つ学問的に打破していかなければならない。その一つが憲法にかかわっての国民主権であり、民主主義である。えっどうしてそれが悪いの?と驚く人もいることであろう。それほどにこの国民主権や民主主義は、ゆるぎない真理として現代社会に定着してしまった観がある。それだけにそれに異を唱えると、強烈なバッシングが予想される。

 ところが、弁証法をものにするとその誤りが分かるのであり、人類はその誤りをどのように正していくべきかも分かるのである。そもそも国民主権や民主主義は、資本主義の勃興期に平民であった資本家階級が、封建領主を統一した絶対王政との権力闘争において、否定的媒介として創り上げた概念である。イギリスでは、それが妥協の産物として立憲君主制という形となったところから、憲法は王権を縛るものという考えが出てくることになる。ところが、これは憲法の本質・一般性ではなく、王制から資本家主導制への移行期における特殊性を一般化してしまったもので、その倫理がわからない憲法学者たちの主要な解釈となっている現実がある。

 憲法は本来、朕が国家であり法律であった絶対王制国家の王権に代わる国家の主権を客観的に規定するものであらねばならないはずである。その観点からすると、国民主権は、国家の主権を否定して国家を形骸化するものに他ならない。具体的には国家による教育の統括を否定して国民に任せるものとして、国民が真のおっく民として育たないように妨害し、国家としての崇高な理念をもたないがために、政治家や官僚も自分たちの利益にばかり走って、舛添問題の類の事象が頻発するようになったのである。これらの問題の根本的な原因は国民主権にあるのである。国家の主権はあくまでも国家であるべきであり、そうでなければ国家の永続性・発展性は保証されず、船頭多くして船山に登るどころか座礁して沈没する憂き目にあうことは必定である。そして何よりそういうことを意図して国民主権が叫ばれた可能性が高いことが何よりも問題なのである。国家を形骸化して世界支配を企図する者たちによって日本国憲法の国民主権が創られたということである。賢明なことに自民党の憲法改正案には、この国民主権が消えているそうである。

 



 

 

Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板