[2103] 日本国憲法はどう変えられるべきか |
- 愚按亭主 - 2016年05月30日 (月) 11時14分
日本という國は特別な圀である。そのことを端的に示す言葉が、「日本の常識は世界の非常識」という言葉である。これは決して良い意味で使われてはいないか、日本が世界に比類のない國であることを示すには充分である。では本当のところは、日本はどういう意味で世界に比類のない圀なのか?ということをヘーゲル流に言えば、絶対精神が自らに回帰した圀ということである。つまり、日本こそ本流だということです。
「『鉄理論ー地球と生命の奇跡』を生命史観から読み解く」の中で説いておいたように、地球は、非常にまれなケースとして太陽から飛び出した惑星群の中で、唯一惑星として完成できた貴重な惑星である。具体的には、月のおかげで熱い状態が長く続いたことによって生命が誕生しただけでなく、鉄が地下深く沈降して内核を形成でき、地磁気も完成した唯一の惑星となることができたことである。 その地球に誕生した生命という物質の異次元の類まれな運動形態が、人間に至るまで発展できた、その生命の本流の歴史を論理的に措定したのが、他ならぬ生命史観である。そして、その人間が目的意識的に創り上げた社会・国家のうちで、日本だけがまともな社会まともな国家の形態を創り上げることができた唯一の圀なのである。
このことに関してはいくつかの証拠が存在する。まず挙げられるのは、「逝きし世の面影」の中に描かれている来日した外国人たちの「これは自分たちの文明とは違う一つの文明である」という客観的な評価である。しかもその中身が、「下層の人たちまでもがこのように幸福そうに微笑んでいる国は自国でも歴訪した諸国にも見られなかった光景である」というものだったからである。しかも、これが社会の形が相当に崩れていたはずの江戸末期から明治初期のころの話であるからなおのこと、その凄さがわかろうというものである。 そして、実際江戸時代の日本は文化的にも、経済的にもその当時の世界の最先端をいっていたといっても過言でないほどの実力を有していたことである。たとえば、学問の分野では安藤昌益がヘーゲルよりも百年先に、「自然真営道」(活真≪絶対精神≫の自己運動≪自然営道≫)という百巻にもおよぶ大著の中で絶対的真理の弁証法の祖型を創り上げていたこと、治未病医学の漢方(古方)は本場の明を凌いで世界トップレベルであったこと、また、芸術の分野においても伊藤若冲などはフランスの印象派よりもさきに陰影の描写を取り入れていたり、浮世絵がゴッホなどに大きな影響を与えるほどであったことは周知の事実である。 経済産業の分野においても、種子島の鉄砲の分業的製作システムは当時の最高レベルであったし、金融の先物取引を始めたのも日本が世界初だったのである。
そして、このような完成レベルの社会性・国家性を受け継いだ戦前の日本人が、現在の日本人と具体的にどう違うのかを、「心に青雲」のブログ筆者殿が、「軍人片岡覚太郎の至醇遥」という記事の中で次のように描写している。
「 片岡の述懐は、個人が社会なり国家なりの従者になっているように見えて、実はそうではなく主体性ある個になっている。それがあとで書くが現代っ子ほど個性的であるように見えて、実際は社会の従者にならされている皮肉な現象がある。」
そしてそれを、より具体的に次のように説明している。曰く 「片岡の文章の前半を今一度読み返してほしい。彼は自分は認められようというさもしい気持ちで任務を遂行したのではない、と言い切っている。 似たような記述は、藤原岩市の『F機関』(原書房)にもあったと思う。藤原は大東亜戦争のとき陸軍特務機関としてマレーやインド、インドネシアの独立に関わった男の中の男である。命を賭けで、インド等の植民地を独立させようと心胆を砕いた。私心を棄てている。 また、多くの特攻隊志願兵の気持ちとも通じているだろう。 こうした個人の認識は、国や社会にあまねく存在していた。別言すれば受け入れられる素地が社会にあった。 現代の人間は、平和ボケし、個性大事で育ってきているから、片岡の思いはまったく理解できまい。 例えば、まず教師が悪い、親が悪い、友達が悪かった、とすべて人のせいにする。俺を認めなかった教師や親が悪いのであって、俺は悪くない。という弁解で頭がいっぱいになっている。片岡のような人間は世の中から払底した。 組織の理想実現のためなら、自分はどうなってもいい、そんな考えは今では嘲笑の的だろう。」
この戦前の日本人の典型と現在の日本人の典型との違いは、一体何なのであろうか?まず、民主主義国家にして自由なと謳われている日本国民である現在の日本人の典型は、個の立場での即自の感情そのままである。これに対して、戦前の日本人の典型は、即自の自分の感情を対自の国家・社会全体の立場から自分をとらえ返す自分との区別がしっかりとできたうえで、主体的に対自の自分に即自の自分を一体化させることができていた、ということである。それが、国家・社会の隅々までいきわたっていたのが、「日本だけがまともな社会まともな国家の形態を創り上げることができた唯一の圀」の証しなのである。
ではそれがどうして、戦後の日本人の典型などのような体たらくになってしまったのであろうか?これまで人類の歴史は国家の歴史として現象する必然性があって今日に至っているのであるが、その中で国家という形式を実質的に形骸化・空洞化してしまおうという目的意識的な画策が世界全体に広まってかなりな程度それが進行してしまっている現実がある。このような背景の中で、とりわけ日本が見事に国家・社会の実質を創り上げていただけに、第一の標的とされて様々な特別の破壊工作が繰り広げられてきた結果といってよい。
ではそれは一体どういうことか?人類が今直面している問題は、テロとか宗教対立とかあるが、本質的には政治と経済との矛盾・闘いこそが最も重要である。これは絶対的真理・全体的利益=政治と相対的真理・部分的利益=経済との戦いである。これが現在欧州や米国で吹き荒れている旋風の正体である。
本来経済は社会全体(政治)の一部分に過ぎないものだあったが、資本主義経済・金融経済が発展するにしたがって、経済権力が国家の枠組みを超えて大きく発展して、相対的真理の絶対化すなわち経済権力による世界支配を画策するような勢力までも生み出すようになった。 これに対して政治は、本来社会自体・社会全体の発展を図ることを本質とするものであるから、人類の世界全体の発展は、本来その絶対的真理性をもつ政治によって本物の絶対的真理の確立がなされるべきである。なぜなら、経済権力(相対的真理)の絶対化は、おなじ相対的真理の絶対化である宗教と同じく人類を不幸にするものでしかないからである。しかし、残念ながら現在の政治の現実は、経済権力に牛耳られ、まっとうな政治家が現れがたい現実がある。
この経済権力の絶対化をもくろむ連中が、国家を形骸化しようとさまざまな工作をしているのである。その要となるのが、民主主義であり、主権在民であり、人権主義であり、同性愛に市民権をあとえよ運動である。これは国民の即自的な感情を助長して、否定的媒介としての対自的認識との統体止揚によって、真の国民としての感情への発展を阻害するものである。
したがって、まずは憲法からである。現在の憲法の主権は国民にある、はまちがいである。これでは日本圀の連続性・継承性は何によって保障されるのか危うくなるものである。だからこそ、主権は観念的実体としての国家にあるべきである。そういう意味で、これを廃した自民党の改革案は正しい。問題は、主権を持つとする国家の理念を正しく規定することである。物質の歴史、生命の歴史、人類の歴史における日本圀とは何かを学問的にしっかりと規定し、人類史における日本圀の歴史的使命をはっきりと謳い上げることである。そしてその高貴な理念から圀民を、一等圀にふさわしい圀民となれるように圀が責任をもって教育することである。勿論、教科書の選定も圀が行うべきである。こういうことをできないようにしてきたのが、主権は国民にあるという憲法の規定である。それがどれほど圀をダメにし、国民の劣化を促進してきたかは歴史が証明していることである。
このように経済権力を絶対化しようと企む勢力との闘いは、学問をもって、日本という圀をその歴史的使命にふさわしい一等圀として再建することこそが、肝心なことである。そのためには、まずは日本国憲法をまっとうなものにする、ことから始めなければならない。
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