《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4219)
日時:2016年12月18日 (日) 17時53分
名前:平賀玄米


        第四章 日常生活の霊的導き

◇「哲学者にしたところで、彼の心は多かれ少なかれ、『太古の神秘』を含んでいると信じている宗教的象徴主義で一 杯になっている。心理学者はその研究範囲を、人間の心の日常現象に対する
 錯綜反動(コンプレックス・リアクション)のみに限定してしまっている。

そして未知の力を取扱っている凡ての擬科学者の一群、即ち神秘家と呼ばれている人々のみ、未知なる神を探求するに当たって、最も大胆率直ではあった。しかし彼は、ともすればその取扱っている神秘力の性質を独断的に定(き)めようとするので、彼の研究報告も一般の人々には理解の的とはならなかった。 

かくして彼は人々を啓蒙するには失敗したが、その代わりに人々の好奇心を巻き起こした。彼は人々の心の中に、心の力を征服したいと云う願望の種子を播いたが、それはただ、魔術や奇跡の雑草となって生い茂ったにすぎなかった。
 
疑うべくもなく、自然界に於ける振動の力と、宇宙霊の内に起こる念波の振動の原理との間には、ある種の関係がある。何故なら想念は『心』に於ける運動であり、念の振動の強弱によって種々の異なった結果が得られる事が、我々の経験上明らかであるからである。

ある状態の下に於いては、想念は、霊感の強力なる光線として燃え立つ。他の場合にはこれらの光線は精神統一によって焦点に集められ、対象を透過し、今までの暗くぼんやりとしていた対象を照らし、見逃していた外形や詳細な模様を明らかにすることが出来る。

何人でも、彼の想念を心の作用の普遍法則というものと関連して考察しない限りは彼の心は隠されたままで発掘することは出来ないのである」(ハードマン博士著“God,The Uuknown”P.40)

   (一)

ハードマン博士の神学は神学を心理学化して精神科学としたところに独特な科学的な明晰性があると言うことが出来るのです。信仰を心理学的に解説しそれを支配する法則を科学的に説明しているところに生長の家の信仰との類似点が見出されるのです。

信仰には時代により、地域により色々あります古代の宗教に於いては、神は吾々の信仰と献物(ささげもの)とによって悦び給い、それによってご利益を与え給うところの人格的存在であり、信仰がなく献物がなければ決して悦び給わない、随ってご利益もないものだと云う様な考え方が広がっていたのであります。

こういう宗教に対して、近代的な科学的精神のインテリゲンチャは反対致します。信仰があったとてそれが迷信では何にもならないじゃないかと云う考え方です。


日本でも「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や護らん」と云う菅原道真の歌にあらわれているような考え方です。実際、太平洋戦争では日あ本人は諸方の神道の神社に於いて、神に対して戦勝祈願をしたのであります。

しかしその祈りはきかれないで日本はご覧の通り敗戦したのです。ここに於いて日本人は宗教的信仰に対して自己批判する機会が与えられたのでありました。

日本の宗教界が混沌とし、神社参拝の数が減り、更に及ぼしては仏教各宗の寺院宗教に対しても実際信仰によって神仏は報い給うや否やと云う批判が起こり、信者が動揺し、信者の信仰を利用して、その賽銭によって生活していた宗教的機関に鋭いメスが加えられるなったのは当然のことだと言わなければなりません。

つづく。

    <平成28年12月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4220)
日時:2016年12月19日 (月) 11時38分
名前:平賀玄米


ハードマン博士はこう言っております。「祈りと云うものは人格神に対して特別の注意をひき特別の報いを得んが為の訴求(アッピール)するものだと云うような考え方jは、信仰なるものの本質に関して、及び信仰なる語の不確定なる用い方についての、全ての混乱の底に横たわっている間違った考え方です。」(“A Formula for Faith” P.4)

今まで人類は二種の信仰を持っていたと言うことが出来るでありましょう。その一つは自然界に内在する神に対する信仰であり、もう一つは見えざる世界に棲息している霊的生物としての神への信仰であります。

併しこの二つの信仰がバラバラである間は眞の統一ある信仰を得たと云うことが出来ない。自然界に内在し、(人間も自然人としては自然界の一部である)同時に見えざる世界にも内在する普遍の法則(The Omnipresence of Low)としての神を自覚するとき、内外一貫の神、自然界と心霊の世界とを一貫せる統一ある神に対する眞の理解と信仰とに入ることが出来、その法則に随うとき吾々は自己の運命を支配し得、山を移す如き実践的信を得るのだと云うのがハードマン博士の考えなのであります。

そこにハードマン博士の神学は、一種の法則(理)の学の観を呈して来るのです。そして信仰は「心」の問題であり、それが必然的に宇宙を貫く「法則」としての神、「理」としての神との連関に於いて、神学は直ちに「心理学」としての形をとって来るのであります。

信仰の学は、ただ何でも矢鱈(やたら)に信ずると云うのではなく、自然界並びに心霊界に普遍する原因・結果の法則の学となるのであります。

仏教は一種の哲学的宗教であり、因果を説くというのでありますが、この点に於いてハードマンのキリスト教は仏教的キリスト教だと云うことが出来るのであります。

ただ神を所謂(いわゆる)「拝み倒す」のではなく、心の法則に随って吾々が思想し行動し生活するとき、原因結果の法則によって、所謂るお陰が現れて来るのであって、祈り方が上手であったり、お賽銭が多かったりすることによってお陰が現れて来るのではないと云う。

まことにそれは科学的であり、生長の家と同様な科学的信仰であって精神科学(Mental Science)と自称していられるにふさわしいのです。

つづく。

    <平成28年12月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4227)
日時:2016年12月20日 (火) 14時21分
名前:平賀玄米


   (二)

多くの今までの宗教は人間が神に隷属していたん奴隷の様な状態でありました。神に対して憐れみを乞うことによってご利益を得るのであって、人間の受ける幸福はただ神から奴隷に恵んでやる恩恵のような形を取っていたのであります。

そこから色々の弊害が生じたのでありまして、神を地上に代表する法主的又は法王的教権と、云うものが確立しご利益を得んとするものは、その法王又は法主に対して媚を呈し、多額の献納物や報賽金をしなければならぬと云うような宗教門閥と云うものを生ずるに到ったのであります

併しこの戦争により、日本に於いては、そのような地上の宗教門閥に対して媚を呈しても、献納物、報賽金等をしても、何らの御利益もなかったと云うことが実証されてまいりました。

ただ心の法則に随ったものだけが安全であり、その運命が護られ、祥福が確保されると云うことが分ったのです。即ちイエスの「主よ主よと云う者悉くは神の国に入るに非ず、天にまします父の御心を行ずる者のみ神の国に入る」と言われた教えの真実さが、今度の戦争によって愈々はっきり実証されてきたのです。ここに既成宗教の門閥が揺るぎ始めたのは当然であります。

これからの宗教は、結局ハードマン博士のメンタルサイエンスの様な、或は生長の家のような科学的宗教でなければならないと云うことになることは必然であります。

人間の祥福を、神への奴隷的な媚や懇願の結果としないで、人間自身の「心」の責任とする――換言すれば「自分自身が自分の運命の主人公である」とするのがハードマンの神学であり生長の家であります。

ここに個々人は自己自身の運命について責任をとる、ここに個人の権威と責任とを明らかにする典型的な民主主義の宗教の特長があります。

吾々がもし一方に於いて、見える世界を支配している絶対法則を認めながら、祈りによって神の個人的感情によってその絶対法則が変化して、吾々に幸福を与えたりすると云うような信仰を持つならば、そこには「自然法」と「神の律法」との二律背反が生じまして、科学的頭脳の人はそれを信ずることが出来ないであろうし、信仰家も科学の法則に背馳する何物かが感じられて本当に深き信仰とはなり得ないでありましょう。

科学の未発達時代はいざ知らず現代の如き科学時代には、見えざる心霊の世界を支配する法則、と見ゆる自然界とを支配する法則との一致が要求せられるのであり、その一致の上に築かれたる信仰こそ、真の宗教を形成するものでなくてはならないと云うのがハードマン博士の信仰観であります。

「一つの神が可視の世界と不可視の世界といずれにも共通する眞理であり、法則である」(The One God is the Reality and Low of both tne invisible)と博士は言っているのであります。(“A Formula
for Faith” P.5 )

つづく。

      <平成28年12月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4231)
日時:2016年12月21日 (水) 16時13分
名前:平賀玄米

 
      (三)

誰でも自然界の法則と云うものをば信じております。然らば自然の法則とは何であるか。それは科学の法則です。科学の法則とは何であるか。それは物質界の事物の背後にあってそれを支配している律であります。事物の背後にあってそれを支配している律とは、物質界、自然界をしてかくあらしめているところの神の叡智であります。

この世界を単なる知性なき唯物の偶然の結合から成るとするにはあまりにもこの世界の一切の事物が精妙なる智慧によって創造されているのであります。世界最大の工学的技術者及び物理化学者の智慧と技術とをもってしましても、木の葉の営むあの呼吸と同化とを司る簡単な有機的組織すら作ることが出来ないのであります。

吾々は脳髄で物を考えるのでありますが、その「考える」と云う様な複雑微妙な働きをする組織体を何者が造るのでしょうか。

脳髄で世界最高の文化人が工作しても出来ない複雑精緻な構造を物質の偶然集合の結果だとはどうしても言うことは出来ないのであります。

されば金を金たらしめ、銀を銀たらしめ、胃袋を胃袋たらしめ、脳髄を脳髄たらしめているところの目に見えない不思議な叡智があると云うことを吾々は想定しなければならないのです。
この不思議な叡智をハードマン博士は神と称し、法則と称したのです。

博士は言う、「若し吾々が吾々のために電流を必要とするならば、電気を流し込ますために適当なる方法があるのである。吾々は電気の利用を支配するところの法則を知り、それを絶対に信じなければならない。これは吾々が取扱わねばならぬところの凡ゆる自然界の力に当てはまるのである。

吾々が、自然界を支配している法則と、不可視の世界を支配している人格神の意志の法則と、この二つの間を区別するところの差別の観念を全く取去り、両方の世界すべてを支配する神の意志が絶対であり、不変であると云うことを知るならば、吾々は現在、物質世界に於ける法則を信じていると同じように、心霊界に於ける法則をも、確乎として不動のものであるとの信念を有つことが出来るようになるのである。」(同書・第五頁)

かくの如くハードマンの神学は、神を法則化し、信仰とは自然界の物理学の法則を信ずると同じように、心霊界の法則――を信ずることであるとするのです。ここに神とは、自然界、心霊界を通じての法則の人格的名称だと云えるのであります

つづく。

      <平成28年12月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4232)
日時:2016年12月22日 (木) 14時43分
名前:平賀玄米


或る人は自然界の法則を信ずるるのは、それは「信仰」と云うのではなく「知る」ことであり「知識」であると言うでありましょう。

ここにハードマンに於いては、信仰が心理学となる特長があるのであるのです。博士にとっては「あるかないか分らぬから信ずる」と云うのではない。

「神はあり、法則はあると知る」――「知る」から「信ずる」のであり、それは知識と信仰とが一つになっているのです。


もしここに自然科学者があって、或る自然科学の問題に就いてそれを解決しょうとする時、彼はどうするかと言えば、その要素、現象、法則、構造等々について精神を集中して考えるのであります。

そして実験し、色々やってみて、所要の解決の得られるまでテストにテストを重ねるのです。科学者は恐らくその時人格的な神が彼の耳元で囁いて何かを教えてくれると考えないことでしょう。

併し科学者は、そこに法則があり、眞理がる、そしてその法則なり、眞理なりは、吾々が一心に心を開いて求むれば必ずそれに応え給うのであると云う事を信じているのです。そしてその眞理なり法則なりは認めることによってあらわれ、その法則に随うとき法則は吾々に必要なものを与え給うたに相違ないと云うことを信じているのです。

ここに科学者は決して無信仰者ではないことがわかるのです。すべての自然科学者は「法則」という形に於ける「神」を信じていると言うことが分るのです。

だから全世界のありとあらゆる機械工場は、また汽船は、汽車は、航空機は、電動機は、電波装置は、悉く、「科学者」と称せられるところの「宇宙不変の法則」を信じている敬虔なる信者によって発見せられた神の力によって動かされていると言うことが出来るのです。

科学者は実に客観的宇宙に内在する「普遍にして不変なる永遠存在」――即ち「神」を信じていると言わなければならないのです。併し、現代の科学は「学」そのものと云うよりも「方法」だと言うことが出来ると思います。

現代の科学的「方法」をもってするのみでは、「存在」するものの万分の一をも知ることは出来ないのです。科学は此処に自己の方法の限界を知らねばなりません。科学の測定機にかからない神秘力を直ちに否定するような日本の科学者大多数の傾向は眞に科学的だと言うことは出来ません。

つづく。

      <平成28年12月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4238)
日時:2016年12月23日 (金) 14時42分
名前:平賀玄米


    (四)

◇吾々科学者は、神と共に謙虚に歩む。吾々の知識は、凡ゆる未知なるものに較べて、如何に寥々(りょうりょう)たるものであろうか。しかし吾々は、更に更に神を知ろうと努める。
常に、その間、吾々の既に得たる知識を利用しつつ。(ロバート・A・ミリカン博士)

◇現代の多くの人々にとって、教会は、死せる宗教の博物館である。(アレキシス・カレル博士)

ハードマン博士はその著『貴下の心のラジオ』(Your Mental Radio)の冒頭に上記の如き世界最大の科学者の言葉を引いてこう言っています、「ミリカン博士が、『科学者が更に更に神を知ろうと努める』と言っているのは、自然と自然法則――と云う形で、神なるものを、更に探求しようとする研究の事をさして言っているのだ。

科学者というものは神学を軽蔑している。神学で神を詳しく知ろうなどとは思っていない。何故なら、神学者は、独断的で、「神」を知るのに、このミリカン博士のような、『我々の知識は凡ゆる未知なるものに較べて如何に寥々たるものであろうか』という如き謙虚な態度ではないからだ。

神学者は神について現代発見される新しい事実や証拠よりはむしろ、古代の人々が、往時、神について語った様な、そう云った種類のものに関心を持っているのだ。科学者は、この『未知なる神』
をば、科学的業績によって発見された既知なる神よりも、無限に広大なものだと云う事を知っている。だから、新しい発見がなされた時、すぐその書物を修正し得る様に、彼の本を開いたままで用意している。

科学者は、その無限に広がり行く知識の境界に新しい一つの立場を打ち樹てた時にも、それが決して究極的なものではない、眞理探求の終極の前衛の地点ではなくして、更に次なる征服の出発点に過ぎないのだと云う事を知っている」と。

此の謙虚な心を以って神への探求を続けるのが科学者なのである。例えば、振動(バイブレーション)の原理と、振動の無限の可能性について考えて見るならば、音は大気に於ける一定の振動、或はその複合であります。その聞きうる最低音は毎秒32振動、最高音は毎秒32768振動です。
32振動以下は静の世界、32000以上も寂の世界です。これは丁度、2の15冪(べき)即ち幾何級数中の第11項に当たります。

つづく。

      <平成28年12月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4242)
日時:2016年12月24日 (土) 17時59分
名前:平賀玄米


これと、25冪(べき)、即ち毎秒約3300万振動との間は、振動に於ける未知なる世界であります。その中に如何なる神秘が隠されているかは誰も知りません。毎秒3300万振動から350億振動との間には、色々な電気現象が起こります。

35項から45項までは、又、未知の力の領域であります。その中には物質不滅の秘密が、全陸軍を殲滅させ得る、耳にも聞こえず目にも見えない「死の囁き」が、或は電気よりはるかに強力な何か新しいエネルギーが隠されているのかも知れません。

ここには毎秒350億振動から3億5000兆振動に亙る範囲の、まだ科学が探求し得ないところの広漠たる、「未知」の振動領域があるのです。振動数をこう並べてみると、吾々の知覚にも感覚にも測定器にも触れず感じられないものは、決してそれが「無い」と云うものではないと云うことが判ると思うのです。ただそれは神経繊維や、人間が物質で拵えた機械的測定器にかからないと云うだけの事に過ぎません。霊魂の波動と云うものは、おそらく物質的測定機にかからないで、ある特殊な精妙な人間の霊覚にのみかかり得るのかも知れません。

人間が生きていると特殊の電気的流れが人体に起っていることは測定されています。電気との相互干渉からの霊魂の波動の順位がこの辺に来るのではないかと考えられますが、まだはっきり分かりません。
その次には、光が、化学線が登場して来ます。そして無数の未知なる領域が展開するのです。このX線なるものは非常に強力で鋼鐵の塊を貫き通し、高度に技術化された写真操作によって、他の方法では発見することが出来なかった様な材質の欠陥を見出すことも出来ます。

しかし、これを人体に長時間強力に照射すると人体は壊疽を起こしてその有機体を破壊する、これによって霊魂はX線の影響を受けて有機体を去る結果、有機体は無機物に還ったと云うべきか、まだハッキリしたことが判らない。

それから更に広範囲の未知の領域があり、次いでロバート・Aミリカン博士によって発見されたかの神秘なる宇宙線が出発するのです。

最も強力なX線が分子密度に於いて金に次ぐ鉛の一インチ板を貫くのに比して、宇宙線は12フィートの鉛板を透過することが出来るのです。併し今のところ宇宙線は、言わば科学的玩具に過ぎず、その強力な力を実用化するまでには到っておりません。

つづく。

      <平成28年12月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4324)
日時:2016年12月31日 (土) 19時31分
名前:平賀玄米


若し可聴の振動の範囲を測定の物尺(ものさし)として、これを仮に一フィートの長さだと例えれば、未だ知られざる振動の分野は幾マイルという長さだと考えられるのです。

畢竟、物質科学は存在するものの万分の一ほども知り尽くしてはいないのです。探求は続いています。科学は、ある領域を征服し、新しい第一線陣地に旗のぼりを打ち立てるやいなや、すぐさま更に未知なるものへの遠征が計画されるのです。アメリカの科学はそう云うところがある。

知らざるを知らずとして、謙遜に、その知らざる範囲の大きさを認めている。だから心霊現象や、精神科学や、宗教家の神秘的体験をも馬鹿にしない。医学で治らない病気が心霊力や宗教の信仰で治ったからとて馬鹿にしない。彼等は物質科学の限界を知っている。

ロックフェラー研究所の外科医長アレキシス・カレル博士は、「人間――未知なるもの」と嘆じ、フランスのルールドの聖癒の奇跡に驚異の目を瞠っているのも当然であります。

未知なる力と神秘の分野、自然科学者が殆んど何らの踏査をも試みていない分野はこんなにも広いのであります。自然科学者は幾度も幾度も興味を持ち好奇心に魅かれてそれを望み見るのですが、彼の持つ測定器具や指示表では精神や心霊の不可量性を犯すことも出来ず、顕微鏡も望遠鏡も生命や心のエネルギーの秘められたる特性をあばく事が出来ないのです。

自然科学者は「いたずらに手を拱いて」かかる研究探査の仕事を神学者や宗教家に任せる他はない。
しかし、眞に神学者や宗教家はその尊き任務を果たしているでありましょうか。

つづく

     <平成28年12月31日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4364)
日時:2017年01月05日 (木) 22時27分
名前:平賀玄米


    (五)

自然科学者が「宇宙普遍の法則」を信じている敬虔なる信者だと云うことは既に述べた通りであります。ただ自然科学者は客観的宇宙に内在する「法則」なる神を、ただ物質的知覚の法則によってのみ探求しようとするところに方法の欠陥があると云わねばねりません。

物質的示標にあらわれない振動数を持ったものは、他の方法によらなければならないのは当然であります。そこに宗教家の役目がありますが、今までの宗教的努力では駄目であります。

今までの宗教家はただ古来の宗祖たちの古き伝統とドグマとの言い伝え(所謂る「経典」)のみを漠然と奉ずるのみで、熱心に神の御心を自分みずから発見しょうと努力しなかったのです。

科学者は「普遍の法則」としての神を信じながらも、それを知るのに物質的方法のみを用いようとし、宗教家は、それを知るのに古聖者の言説のみに頼ろうとする、これでは宗教家は、古(いにしえ)の単なる糟粕を舐めるに過ぎない観があります。

「自然界の法則」としての神は科学的に研究すれば、或る程度発見されるが、「人格としての神」は人格的に接触することによってのみ発見せられる。多くの宗教の教祖は、神に対して人格的に接触して其処から啓示を得たのでありますが、啓示を受ける人間側の心の波長の異なるに従って、その啓示は様々に変わって来るのであります。

偶々或る宗教心厚い人が神に祈って求むるものを得たとしますと、其の人を教祖とする一団の信者は、人格的な神は、人間の哀訴や嘆願によって動かされて祈りに応え給うのである――こう考えるようになります。その結果祈ったことが実現しない時には、神も仏もないものだと考えます。

こうしたことから、人格的な神を信ずる宗教信者の方が信仰心が少なくて、「法則」を信ずる科学者の方が信仰心が強いと云うような奇妙なコントラストをなすことにもなるのであります。

科学者は曰う、「自分はここに作用している或る力が存在することを某々の証拠によって確認する。
その力を支配している一定不変の法則があることを確信する。自分はその法則を発見するまでそれを信じ努力するのだ」と。

宗教家は曰う、「神は何を吾々になそうとしていられるか人間には神の御心はわからない。しかし、一所懸命に吾々が祈ったら、神はその祈りに応え給い、吾々の求むるものを与え給うであろう。

吾々は神に悦ばれるほどに完全に善良ではあり得ないし又それほど信仰が深いとも言い得ない。
併し吾々は祈るほかはない、祈っているうちには恐らく、神は吾々に道を示し給うであろう。」
すべての宗教信者がこの程度の信仰であると云う訳ではないが、大多数はこの程度であると思う。

科学者が「一定不変の法則がある」と言うところを、宗教信者は「神の御心はわからない」と言います。科学者が「確認」すると言い、「確信する」と言うところを、宗教信者は「恐らく」と言い、
「であろう」と言う。

そして科学者が着々「実行」して行くのに反して宗教信者はただ甘い考えで「神への泣きつき」に終始するのです。この程度の宗教信仰が何らの効果をも実現し得ないのは当然すぎるほど当然であると言わねばならないのです。かくして科学者は進歩し、宗教は何らの進歩も見なかったのです。そしてついに現代に到りました。

つづく
 
     <平成29年1月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。




尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4523)
日時:2017年01月13日 (金) 11時16分
名前:平賀玄米


ハードマン博士は、物質界に内在する法則(神)を探求する科学と、心霊界に内在する法則(神)に直接触れるための宗教とは、車の両輪の如くに進歩して行かなければ、人生は片輪となって跛行
するより仕方がないと言っています。

科学愈々発達して、戦争の残虐性が一層苛烈になった如きはそれであります。戦争の責任は、この点に於いて旧き既成宗教が眠っていて、科学の新しき進歩に追従出来なかったところにあるとも言い得るのです。

科学は常に進歩するが、宗教は後方に還元する。これに反してハードマンの神学や、生長の家の如き新しき宗教はまだ芽生えたばかりであり、特に日本に於いてはその新興伝播の速度が既成宗教のみを保護する過去の文教当局の力によって封ぜられていたために快速なることが出来ませんでした。そこに科学の進歩と宗教の不進歩との跛行状態は国民をして険しい勢力拡張の闘争奪略状態に導かずにはいられなかったのです。

在来の宗教が懐古的であり、還元的であり、過去の宗祖教祖がこう言った、釈迦はこう言った、キリストはこう言った、達磨はこう言ったと云うように、信仰の範例を古典にのみ求めて行くのは今なを人間精神の封建的方面が宗教界に残っている渣滓(さし)であると言わねばなりません。

無論、愚かなる、霊感なき現代人の言行よりも、霊感鋭き古(いにし)への聖者の言行の中に深き神意があらわれているのは事実であります。だから温故知新ということも必要でありますが、旧きもののほかには絶対に神の啓示がないと云うように、すべての新興宗教を邪教として葬り去ろうとするが如きは、「神はもう過去に啓示のありだけを出し尽くして、後には何も啓示するものがないと独断するような傲慢な考えだ」(『信念の一形式』第9頁)とハードマン博士は批評しているのであります。
  
かくて時代は巡り、科学的な時代が来れば、神の啓示もまた科学的な民主的な姿をもってあらわれます。科学的な知性をも満足せしめる、そして古きドグマに満たされたる教権には支配されないところの、「神」なるものを自由に解釈し得て、ある特定の人のみに神意が了解されると云うような封建的な考えを撥無した、神を各々の自己自身のうちに見出し得ると云うような民主的な宗教が発現しなければならない、それこそがハードマンのメンタルサイエンス等の出現だと言い得るでありましょう。次にその概略を述べることにします。

つづく
 
     <平成29年1月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4643)
日時:2017年01月19日 (木) 21時55分
名前:平賀玄米


   (六)

宇宙の凡ゆるものは運動しています。貴方の住んでいるビルディングは、静止しているように見えますが、運動の原理に照らして考えてみますと、それは決して静止していない事がわかるのです。

それは地球と共に、一時間千哩(マイル)の速さで地軸の周りを廻転しているのです。それは又一分間千哩の速さで地球の軌道を毎秒十二哩以上の速さで動くにつれて、動きつつあるのです。

これらの運動の上に、更にビルディングを形造っている煉瓦や石や木切れは、凡て原子振動という他の種類の運動の舞台となっているのです。エネルギーを持った帯電微粒子が、信じられぬ程の速度で動いているのです。

この様な運動と振動の原理は心の世界にも存在します。丁度物質が空間に於ける運動である様に、想念は心に於ける運動なのであります。

ラジオ放送局は空間にみなぎるエーテルの中に波動即ち振動の波を起こす電気衝動を発信します。
この振動はラジオ受信機によって、放送局のマイクロフォンの前で発せられた音と相応する音に変えられます。

このラジオのプログラムを放送するに用いられる電気衝動によって作られるエーテル内に起こる波動と、個人の想念によって作られる宇宙の心の内部に起こる心的振動との間には、類似の関係があるのです。電気的振動は、エーテル内に波動を起こし、想念は宇宙の心の内に振動、即ち、「波動」を起こします。

エーテル波が音波に変えられることは実証されています。それでは、一体、ある人の心の中に起こった念波が、他の人の気分や感情やその他の心的反応に変化される事は、経験上証拠立てられては
いないでしょうか。

この問いに答える前に、私達は、心の構造や情緒の様態、また人間の心の機能を詳しく研究し、心というものがこの様な取扱いの出来る特性や機構を持っているかどうかを調べてみなければなりません。例えば、ラジオセットは真空管がなかったら、たといどの様に他の部分の機械が完全であっても、エーテル波を音波に変える事は出来ないでしょう。

人間の知覚神経系統は、物理的世界からの様々の振動を、心に伝えるように設計されています。音は大気の振動であり、それは鋭敏な耳の機構に衝き突ります。この現象を「聞く」と云うのです。

ある物体がエーテル中にあれば、その形に対応したエーテル振動を起こし、これらのエーテル波が眼に映像を作るのです。この「現象」を「見る」と云います。

ある物体がもし感覚器官の有効範囲内にあれば、そこから匂いと呼ぶ振動を発散する場合、その振動は嗅覚器官に作用し、知覚されるのです。すべての肉体器官は、物質界の振動を受取り心にそれを伝える様に作られているのです。

感覚が正常に働いておれば、私達は他の人々からの音信を色々な物的手段や方法で受取る事が出来ます。即ち言葉を手紙や電報、電話、ラジオ、その他の目に見える記号や耳に聞き得る信号などであります。

これらの振動は知覚神経系統を通して現在意識に到達します。では、一体私達は、それに相当するもので、心の振動が潜在意識に到達する仲介となる非物質的機官を持っているでしょうか。

潜在意識は外界からの訪れを感覚を通して受取り、印象を記録し、記憶の形でそれを保持します。
これ等の印象は、ある条件下では殆んど本能的に肉体内に起こる或る種の筋肉反射作用を引き起こします。これ等の反射作用は不随神経系統、即ち交感神経系統によって行われるのです。

一方に於いては現在意識と感覚、他方に於いては潜在意識と交感神経系統、この両者間の関係は非常に密接且つ本質的でありますので、一方に起こった様な事は他方にも起こるのであります。

今や、心理学者にとって重大な問題が起こって参りました。即ち――潜在意識は知覚神経系統からは独立して、純粋な心の振動を受取り得るか、実際受取るものであろうか、と云う事であります。

そして若しこの事が可能であるならば、丁度、外界からの感覚印象が強く潜在意識に作用するのと同様に、これ等心の振動は現在意識に到達しそれに強く作用する事が出来るものであるか、どうかと云う事であります。つまり例えば、テレパシーは個体内の非感覚的機構が、媒介物を通さないで、他の人の心から放送される心の波を実際直接に感受したものであろうか、そしてそれを伝える媒質が、明らかに大気でもなくエーテル質でもないのであるならば、一体その媒質の正体は何であろうか、という事であります。

この重大な問題に対してハードマン博士は曰う、「それは、宇宙霊が心の振動をある人の心から他の人の心へと伝える媒質になるのだと見做される。こう考えるのが論理的である。何故なら、吾々は他にこんな能力のある実質を知らないからである。

この宇宙霊はエーテル質の様に非個性的であるから、丁度エーテルが如何なる種類のラジオ番組でも伝えるように、どんな種類の心の振動でも、その性質性格を考えることなく、伝達するのである。」
                               (ハードマン著 “Your Mental Radio” P.17)

つづく
 
     <平成29年1月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4658)
日時:2017年01月21日 (土) 15時32分
名前:平賀玄米

テレパシーは科学的に存在すると認められた事実であります。愛する同志は互いに語り合わなくとも互いにその愛を感ずる。憎む同志も同じことである。その人の雰囲気が近づいて来るとその人の噂を始める・・・家庭の内の一人の心が変化すると他の家族の病気が治ったりする。

つまり私達は絶えず他の人の想念を感受し、それに影響されており一方絶えず宇宙の媒質――宇宙霊の中に、自分の心の振動を放送しているのであり、それが他の人に到達し影響しつつあるのだと結論するのが合理的だと思われます。ハードマン博士はかく論じて「その受信装置は潜在意識で、その放送装置は現在意識である」と大胆な結論を下しました。

私達の環境条件、対人関係などに大した変化も起こらないのに、私達の上にある種の気分や感情やその他の情態が襲いかかって来る事があります。例えば、何の理由もないのに「憂鬱に」考え込んだり、意気阻喪して沈鬱になったり、意気消沈したりしますが、そんな時には、私達はそう云った心の振動の中に抱き込まれてる証拠だと結論してよいと思います。

それは私が今から十八年前『生長の家』創刊号に書いている事柄なのだけれどもハードマン博士は1940年版の『貴下の心のラジオ』に書いております。そして、「こういう影響は、通常、何か過去の過ちとか失錯、落胆とか色々の心配事を、くよくよ思い煩う習慣に知らず知らず陥っている人々に、最も多く顕われる」と申しております。

昔の諺に、「類は友を呼ぶ」「泣き面に蜂」というのがありますが、この様にして人々は、人間社会を見渡したところで、自分と同じ様な不幸の精神グループを呼び寄せて不幸を二重三重に重ねているのであります。

潜在意識はこうして「類は友を呼ぶ」心の法則にのっとり、一定の傾向をもって考えたり感じたりする習性を持っており、その習性に相応ずる心的性質の振動に相い答えるのであります。
そして悪人は悪人のグループが出来、善人には善人のグループが出来、憑霊の感応などもこの法則に随って感憑してまいります。

では一旦一定の傾向が出来た潜在意識は変化出来ないかと言いますと、そうではありません。現在意識がその嚮導(きょうどう)の役となり、個人の肉体的習性のみならず心的習性をも規定してゆくのであります。即ち潜在意識は「傾向の心」であり、現在意識はその舵操り役であります。

私達が受信する念波の種類を変えると同時に、私達自身の放送する心のラジオ番組を変えるためには、先ず数個の心の法則を知ることがその基礎として必要となってまいります。ハードマン博士は次の六箇条を列挙しています。

(一)潜在意識は他人の心の中に起こる純粋な心の振動に対して非常に敏感である。

(二)潜在意識は非個性的であるから自己選択の作用がなく、それ故、不愉快な破壊的な心の影響でもそれを拒絶するとが出来ない。

(三)潜在意識は習慣の心である。それ故、若し現在意識が或る気分や感情、想念や心の傾向を長く保持しているな らば、潜在意識は他のものよりも一層これ等の心的振動の一定型式を印象されて、その傾向のみに振動する様になる

(四)現在意識は意志を統御する操舵者である。

(五)否定的破壊的な心の影響を除く為には、意志の力を用いる事が必要である。意志によって現在意識を動かし、心の舵をとるのである。

(六)慎重な意欲や決意、或は瞑想及び眞理の祈りによって、私達は建設的な思想習性を涵養し、私達の心から凡ゆる有害な、邪悪な、退廃的な、そして物的環境にも我々の個性を幸福に伸ばす事を邪魔する心の振動を、取り除く事が出来る。

貴方の習慣的な悲観的な暗い考え方を変えるには、以上、ハードマン博士の示唆する六箇条によって実践することです。心の傾向がくらりと変わるには時日を要するでしょう。一日のうちに変わってしまう人も偶にはあります。


もし貴方が失意や落胆の時期に見舞われているならば、それは他の人の心の中に起こっている同様の気分が強く反映しているのであってこの様な情緒の状態は、他人と肉体的に接触していなくとも、心の波の伝播する媒体となる宇宙霊を通して伝わって来る他の人の情緒の振動によって知らず識らず強く影響されているのであります。
だから貴方は、原因不明の不快や憂鬱感が起こって来たら、科学者の様に冷静に正確に実体を把握しなければなりません。

更にハードマン博士は暗い性格の人と会話しない様になさいと注意しています。凡て人の悪しき事に就いて陰口をきくのは止しましょう。他の人がそんな話をしても、それに聞き入ってはなりません。建設的な考え方をし、建設的な話を行う様に致しましょう。

貴方がかくありたいと欲する様な、力強い、積極的な、楽しい、魅力ある人々のタイプを瞑想しましょう。この偉大なる心の法則を充分研鑽して、貴方の心の、情緒の、生活を美しく力強く送る秘訣をよく会得しなければなりません。

そうすれば、貴方は他人の否定的な心の振動から自分の心の力を完全に守り得る、そればかりではありません。貴方は全世界に向かって、力強い、愉快な想念のプログラムを放送することが出来るのであります。それは物を施与するよりも尚大なる施与であり、その功徳は全世界にひろがって無限とも言い得るのであります。

生長の家では光明思念連盟というのを作って、毎朝五時十分より五時四十分まで会員(誌友又は家族と言う)一同一斉に神想観を行って、眞理の念波を放送しているのであります。この光明思想連盟に加わって全世界の精神波動を浄めたいと思う人は次の如く同じ時刻に瞑目してお念じ下さい。

   『神の愛と智慧と生命とが全世界に満ちみちていてこの全世界は完全に平和である。』

つづく
 
     <平成29年1月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4782)
日時:2017年02月02日 (木) 17時19分
名前:平賀玄米


     (七)

ハードマン博士はその著、「貴下の心のラジオ」の第三節に第六感のことを書いています。
その大要を申し述べることに致します。

直観は、「意識的な理性を通さず、直接眞理を認識すること。内奥の知。本能的智慧又は感情」と定義されております。予感は、「将来起こって来る事を前以って予知すること」です。
テレパシーは、何ら肉体の感覚器官を用いないで、心と心とが直接交流することであります。

「虫の知らせ」は、或る時は認められる程強いが、或る時は余りに弱くて意識の表面に浮かんで来ない様な、何か起こりそうであるが、しかし起こると信ずる直接具体的理由は何もないと云った風な感情、或は、ある人が信ぜられる様な、或る事件がうまく行きそうな感じがして、或はその反対の感じがして、それがその通りの結果となる、そう云った風な感情を言うのであります。

これらの言葉は、或る種の人間固有の力(漠然としているが、普通に存在しているとされている力)、を示唆するものであります。我々には何か五官以上の心的能力がある。それを多くの人は漠然と知っているが、しかしほとんど確信してそれを利用しょうとする人はない。若しこの力を涵養して日常生活に利用出来れば、素晴らしい結果をあげることが出来る筈であります。

偉大なる成功者はこの心霊能力により思いついた事業を実践、成功したのです。人間には潜在的な心霊能力として、一種の第六感とも言うべきものが本来あり、それは本質的には獣類や鳥の持っている力と同様な本能的力である。多くの動物は心霊的力を持っています。

それが彼らに差し迫り来る危険を警告する、例えば、今年は例年より早く厳寒が襲う時には、渡り鳥は早く移住を始める。火災その他の災害が近づきつつあるときには鼠がいなくなったりするのであります。

人間は下等動物よりもずっと強力な心霊力に内接しているのですが、ただあまり世俗的な刺激が頭脳や感覚を興奮させるので、静かに内なる歓びの囁きに耳を傾けるいとまがないのだと考えられます。

つづく
 
     <平成29年2月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4802)
日時:2017年02月04日 (土) 15時44分
名前:平賀玄米


私達は実際に、或は少なくとも潜在的にかかる能力を持っているのです。「しかしそれが、確実に各人にとって有利なまでに開発され得るものだと云う充分な証拠はまだ出ていない。」とハードマン博士は消極的に遠慮勝ちに言っています。

しかし大抵の人は、何か或る種の心霊的な経験を持っているものです。二三人で話し合っている時、
誰か自分達の所へやって来そうだと、そんな事を考える理由は何もないのに、お互い共通の友達の名を話し合ったりする、と、突然その友達が次の瞬間現れたりします。「悪魔を語れば悪魔現る」という諺があります。

又よく、「虫の知らせがある」と言います。その他色々私達には、何か事件が起こる前にそれを予知する能力がある事を示す様な体験があります。日米戦争中に空襲の危害を免れた人々は随分「虫の知らせ」の体験を有っています。

霊媒、トランプ占い、水晶球占い、茶柱占い、その他種々な型の卜筮の流行は、人々が人間の心の中には予言したり未来を予知したりする能力のある事を、本能的に信じているからなのであります。けれども、凡ての人に先天的に心霊能力があるという事は、一般に理解されていません。

ハードマン博士は「これらの能力は実に潜在意識、即ち霊魂の贈り物なのである」と言って、潜在意識を単なる心理学的意味よりも広義に解して、それを「霊魂」の作用としているのであります。

博士によれば、智慧が感覚を通して物の世界を見抜く様に、霊魂は心の世界を見抜くのであります。
こういう意味での潜在意識は、最早、単なる受け身の受動的な「傾向の心」ではない。それは洞察者として私達が考えている以上に他人の心的生活や心的動機を見抜くものです。

そしてそれは直観者として啓示者として直観的に、事物の本質に、やがて起こる未来の事件にピッタリ合う正確な観察や判断をするものなのです。第一印象は概ね間違わぬというのはそれであります。

もし貴方が他人に対した場合に第一印象として起こる自分の内なる心の囁きに従順に従うならば、貴方は欺かれる事は殆んどないと言ってよろしい。第六感を発達させるには、常にインスピレーション式に思いつく「感じ」に頼り切る習慣を養うならば、内なる啓示者は決して貴方を失敗させません。

私達は屡々これらの「虫の知らせ」を無視します。そしていつも後で悔やむのです。それはまことに尤もな話で、信頼されれば裏切られるものではない。成功者は「思いついたこと」をすぐ実行する種類の人であります。

つづく
 
     <平成29年2月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4879)
日時:2017年02月09日 (木) 17時15分
名前:平賀玄米


ハードマン博士は第六感を発達させる方法として、二つの根本的方法を挙げております。
一つの方法は、心霊能力を啓発するために工夫された一種の精神統一法を用いて、直截に慎重に目的に達しようとする方法です。この方法の要点は、或る対象を定めて、それに心を集注し、それによって雑念を少なくし、現在意識を澄み切らせるのであります。

こうすることによって、心が平静になり、心が煩わしい心の振動で妨害されなくなります。心はかくして静かなよく反射する鏡の様になり、その中に潜在意識から啓示し来たる幻像がはっきり反映して来る。と云うのです。

この方法に習熟するには長い訓練の過程が必要です。適当な指導者に導いてもらわないとかなりな危険を伴います。心が半透明になった頃に邪霊がその心の鏡にいたずらなものを反映さす事があるからです。邪霊を精神力にて追払い、高級霊と感応し得るようになる時には素晴らしい報酬が与えられるのですが、一面その危険も重大です。

『生命の實相』第五巻の霊界篇にレイヌは水晶凝視球を見詰めて精神統一し、最初稍々低い霊のフェルナンがやって来た如きです。彼女にやがて高級霊のヴェッテリニがやって来なかったら危険だったかもしれないのです。

若し高級の守護霊が来なかったら、こうした霊示を受け得る域に達するまでの途上には、甚だしい危険が伴います。当人の理解力や、意志力や、守護霊の力が足らなかったために、理性的にもバランスを失ってしまった人々も随分あるのであります。だからこの種の方法による心霊力の開発は、心霊界の知識深く体験多き、而も高級の守護霊ある指導者なくしては試みてはならないのです。

つづく
 
     <平成29年2月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。
     

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4894)
日時:2017年02月10日 (金) 11時41分
名前:平賀玄米


もう一つの方法はもっと簡単で行いやすいものです。それはハードマン・メソッドとでも言いましょうか。それはどうするかと言いますと、先ず自己を霊的存在であると云うことを認めるのです。そして潜在意識を個人に宿る宇宙霊、或は個人に於ける久遠の自我である事を認めるのです。

それが自己の精神的実体、即ち心霊的実体であると信ずるのです。そして潜在意識は霊体を持っており、それを乗り物としているので、従って、時間空間的な物質条件に制約されないと信じます。

博士は言う。「潜在意識は第六感を以って、丁度感覚意識の心即ち知覚が空間を見通し物的環境を見通す様な具合に、時間を見通す。それ故、潜在意識は心の世界に於いて来たるべき体験の鋳型として作られつつある心の要素を認識する事が出来るのである。

これら心の要素は、物質が空間を占めている様には空間を占領していない。だからそれは、時間空間の世界の出来事として具象化する前に、霊的映像として認められる。或る事件が起こると現在意識がこれを認識するのであるが、それと同程度にありありと、その事件は既に潜在意識の世界で知られているのである。

第六感の働きを利用しようとする私の方法の目指す所は、この潜在意識の認識を一定の神の導き又は神の護りによる虫の知らせ、即ち直感とインスピレーションの形に翻訳することにある。」
(”The Sixth Sense” P.28)

つづく
 
     <平成29年2月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (4925)
日時:2017年02月13日 (月) 11時02分
名前:平賀玄米


ハードマン博士は、第一の方法――即ち透視とか直感とか云う霊力を意識して求めようとするやり方を排して、潜在意識を人格化し、それに「我に宿り給う主」即ち「超越的自我」の凡ゆる特性を付与して自己の内に自覚する方法を用いたところに特色があるのです。

「潜在意識は私達がかくありたいと信ずる通りのものになると云う事実は、心理学の初歩的通年であって、自己暗示や催眠術の実験の証明するところである。
『人は自分の心に思う(信ずる)如くに成る』と。私は内なる自我の実在を確信するのである。イエスはこの内なる自我を、内なる父と呼び給うた。私はそれを主と呼ぶのである。

主は、主がなし得ると私が信ずる通りの事を。私の為に成し遂げて下さるのである。主は私を護り導いて下さると私は信ぜざるを得ない。或る場合に主がどういう風にして私を護り導いてくれるか、その詳細を予め知ることは必要ない。何故なら、主は私の神経器官や筋肉器官を通して働きかけ、私にある事を成さしめ、言わしめ、選ばしめ決定せしめ、その事をあたかも主が私にこれらの事をせよと口に出して語った如く、現実に効果的に私を導く形となってあらわれしめるのだと云う事を、私は知っているからである。」(”The Sixth Sense” P.29)

こう述べてハードマン博士はその実例を挙げている――1938年度の夏の夕べ、ハードマン博士は夫人と共にサン・ホセからサンフランシスコへとドライブしていました、黄昏が訪れて来ました。
そして薄明と暗黒との中間時期によくあるように、ヘッドライトをつけていても薄暗く、視界がぼんやりとして利かなくなったのです。

停車信号の赤旗を持った人は道端に見当たりませんでした。大きな付随車を連結した巨大なトラックが向こうからやって来ていました。博士達が、そのトラックからほんの四五フィートの距離まで
近づいた時、急にトラックは急旋回して道路を横切り側道に入ろうとしました。

博士は反射的に、今トラックが行きつつある右の方向に車を向きかえようとして、一寸ハンドルを廻した途端、そこに溝渠がある。このまま右へ廻れば溝渠へ墜ちる、真直ぐに行けばトラックに横から衝突する。博士は名状し難い程の力を出して反対(左)の方にハンドルを変更した。博士は普通の公道スピードで走っていたから、考えるいとまもない。

やっと気が付いて見ると、博士達の車はトラックのいる地点から左廻りに廻って、トラックの向こう側に出て、溝が丁度暗渠になっている上をゆるゆる横切っていたのです。博士は「車を止めて、
どんな風にしてトラックをやり過ごしたのか不思議な驚嘆の気持ちを抱いてお互いの顔を見交わした」と言っています。

「それは確かに、私達が意識してやった処置ではありません。私以外の強力な手が支配したのです。それこそ主、即ち私が平素最も率直に誠実に信じていた自我のなせる業だと信じます。」

この内なる力の教える通り思考する習慣を養うならば、直感やその他の心霊力の凡ゆる恩恵を受けることが出来るのであります。この方法はまた、霊性開顕の法則から貴方を切り離しはしないのです。

かくして貴方の現在意識は一層忠実に頭脳的知性の力以上の霊の内奥の映像を映し出す鏡となることが出来、神の智慧の奥義の忠実なる鏡となることが出来るのです。

博士の見解では、人間は常に「主」の叡智に内接している。そして、かかる方法によってはじめて、第六感を安全に確実に獲得する事が出来、第六感からの恩寵をかち得る事が出来ると言う。

霊媒現象に頼らず、「神格の内流」による自然の實相の発露に任せておれば万事が円滑に行くと云う生長の家の教えに頗る似ているのであります。

つづく
 
     <平成29年2月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。




尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (5164)
日時:2017年03月03日 (金) 15時56分
名前:平賀玄米


   (八)

◇「神は吾らに畏怖(おそれ)の精神を与え給わず、力の、愛の、健やかなる心の精神を
与え給う」――聖パウロ

私達は対象物をより詳細に観察するために、それを拡大して見ます。近代科学は、原子運動を観察する事が出来る程度にまで発達しました。同じ原理で聴き得る音の範囲も拡大されました。

金属を磁化する場合にそれに電流を流すと鉄の棒の分子の位置が移動し音を発しますが、今やその音までも聞く事が出来るようになりました。

人間の紛争や惨劇も科学の発達によって著しく拡大されました。世界大戦は人間悲劇の一大禍乱であります。しかしこの惨劇の原因には、大戦が実際に始まった運命的な日より先立つ事数年前の歴史の底流(アンダー・カーレント)となった心の世界があるのです。

即ちその背後には、たかまり行く国際間の猜忌(さいぎ)と経済的抗争が伏在しています。これらの要因に加えて、利己主義政治家達の野望、即ち彼らの国家的野望を背景として個人的野望が存在していたことを戦争裁判は明らかにしたのであります。

私達は人間のすべての悶着の根元を究明し解明して見ますならば、それは全く心的なもの、感情的なものであることを発見します。悶着とは換言すれば、苦悩、悲嘆、困惑、錯綜、悩み、悲しみ、
試練、混乱の状態であります。

これらの言葉は皆、心的又は感情的状態を言い表しています。たとい不幸が、病気の場合のように肉体的のものでありましても、実際の苦しみは、痛みとか感情の乱れの中にあるのです。そしてその紛糾の拡大された場合が国家間の戦争状態なのですから、それは個人の場合の紛争と同一性質のものであります。

闘争は常に長い心の歴史を背景として起ります。心の世界に和解がなければ、結局は何らかの形でそれは形に現れざるを得ないのです。永久平和への思慕が今ほど熱烈な時代はありません。しかも
国内での階級闘争が今ほど熾烈な時はないのです。この解決はどうしても宗教の力を借りねばなりますまい。

つづく
 
     <平成29年3月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (5188)
日時:2017年03月04日 (土) 12時09分
名前:平賀玄米


個人生活の場合のトラブルを解決するには、二つの方法があります。第一の方法は、中世の修道僧たちのした様に、隠遁し、人生の争いやいさかいから離脱して生活する事。しかしこの方法は、艱難を克服して生活するのだとは言えません。かえってそれに敗北した事を告白しています。

それは現実から逃避しょうとする足掻きに過ぎません。かくしてもたらされる報果(むくい)は、力強さではなくて、弱さに過ぎないのです。これでは自分だけの逃避であって人類を救う事は出来ません。

今一つの方法は、生活の流れの中に踏みとどまって、環境の力を克服する方法を獲得することです。
人間は、振りかかり来る困難によって力を養うのであって、その困難から逃れ去っては何も得られません。若し吾らが人生百般の事物と調和した心を持つならば、人生の中に留まっていて艱難を克服して生活する事が出来るのです。

これに反して若し貴方が余り長い間現象の艱難を実在であると思い、艱難の意識を常に持っていると、潜在意識はその方向に傾向を持つ事になり、常に艱難を期待する様になり、そしてその期待は外れなくなります。

常に艱難を期待する人には、艱難は恋人の様にピッタリと寄り添ってその人から離れなくなるでしょう。艱難の原因は心にあるにも拘らず、普通の人には艱難は外部生活の一条件のように見えるのです。若しあなたがある体験に対して、心配や憤怒や、或は何か悲嘆にくれた様な反応を心に起こしますと、あなたの体験はあたかも心配や憤怒や悲嘆そのものとなるでしょう。

若し貴方が心の中に、苦痛や失望や損失の卵を抱けば、その結果は、現実の艱難が「孵化」してくるのです。これらは本来恐怖のなせる業なのです。それ故、聖パウロは恐怖を、力や愛や健やかな心と同格に置いて、戒めたのです。

つづく
 
     <平成29年3月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (5200)
日時:2017年03月05日 (日) 16時12分
名前:平賀玄米


それらは疑いや何か消極的な否定的考え方の所産であります。神は私達に精神の力を与え給うた。
しかし私達は誤った考え方でその贈物を悪用したり、誤用したり浪費したりすることが出来るのです。かかる艱難を癒す方法として、ハードマン博士は三つの要素を挙げています。

第一が力です。もしあなたが艱難を超克しようと思うなら、この力を用いなければなりません。
精神の力ほど強力なものは他にはありません。精神力こそ、勇気と信頼の源泉であります。それが外界の条件を変化せしめる中心的分銅となるのです。貴方自身が恐怖なく、平静である時にのみ他の人々の感情を静める事が出来るのです。

第二の方法は愛です。若し貴方が愛を以て物事を処するならば、如何に速やかに艱難が消滅するか、それは全く驚く位です。何故なら、前に述べた様に、艱難は実は外的条件ではなく、却って心の状態に依存するからなのです。そして艱難は他人に関係しています。

即ち他人が私達に対して何と言ったか、何をしたか、或は私達が他人に対して何を為したかと云う事に関係しています。或は又ある場合他人が私達と如何なる関係にあったか、他人がある場合如何に行為したかという事の私達自身との関係の間に紛糾が生ずるとも言えます。

若し貴方が愛をあらわし、深切な思いで他人に対するなら、あなたは艱難を超克することが出来ます。多くの心傷つける人々が荒々しい言葉を発したり、乱暴を働きそうになっていましても、あなたの深切によって柔らげられ大人しくなってしまいます。

愛の想いは他人に向けられると、たとい言葉に出して語られなくても、魔術的な力で働きかけるのです。一度これを無愛想な非友誼的な人に試みてごらんなさい。彼はあなたの深切にこたえてくれます。のみならず、あなたの態度に非常な好ましい変化があらわれますので、お互いの間には和気藹々たる了解が成立つに違いありません。

「これは下らぬ感傷主義(センチメンタリズム)ではない。実際に働く力であって、それは人生の道を滑らかにし、人生の道から邪魔物を取除く力がある」とハードマンは次に掲ぐるような体験を述べているのです。

つづく
 
     <平成29年3月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (5214)
日時:2017年03月06日 (月) 15時15分
名前:平賀玄米

1935年頃、博士がまだキリスト聖癒教会の准牧師だった時のことです。博士はニューヨークである男を知っていました。これから語るのは愛こそ重大問題解決の鍵であると云う彼の体験です。

彼は私に助力を求めに来たのでした。彼は、当時ある大きな工場の設計者兼企画者として一種の自働機械の製図中であったが、その地位を投げ出そうかと考え悩んでいたのです。彼のすぐの上役が憎悪の対象だったわけです。

自分がある機械の設計の変更改良を示唆したのを、その上役が自分の発案のようにして、うまく名声を博したのだと感じられ、そこに上役に対して誤った深刻な鬱憤の意識が生じたわけでした。
彼らは屡々衝突したし、雰囲気にそれが感じられるほどに反対の感情が相互の間にわだかまっていました。けれどもフレッド(彼)は有能な男でしたから、このような軋轢にも拘らず彼の位置は安全だったのです。しかし彼は非常に不愉快で、職を辞めてしまいたい思いで一杯だったのでした。

この紛糾は更に仕事場から家庭内にまで波及したのでした。彼がいつも非常に不愉快な気分でいたために、彼の妻も不愉快になる。そしてしばしば出る荒々しい言葉と誤解とでお互いの間は急速に疎遠になって行きました。心の中に、ある人に対して憎しみを抱いているならば、かくの如くその念は彼の全生活へと伝染して来るものなのです。

或る日、博士は彼に、「あなたは、こんな心配はもう沢山でしょう」と尋ねました。彼は答えました。「まったくです。だから、私はあなたの所へ訪ねて来たのです。どうか私を救って下さい、お願いです。」、

ハードマン博士は彼に心と感情の振動の法則を説明しました。たとい態度や言葉にあらわしていなくても、周囲の人は如何に私達の発する想念を感受するものであるかということを、科学的に説明してやりました。私達の感情は「雰囲気」を創るのです。その雰囲気を人はあたかも熱の波動や不快な噪音の振動を敏感にキャッチする様に、たやすく感受するものですが、それを詳しく博士は説いて聞かせました。

ここに於いて彼は自分の心的態度が上役から同様の応答を惹起したのであることを知り、心の原因を逆にすることに依ってその効果も逆になると云う心の法則を利用すれば好いと云う事を容易に悟ることが出来ました。彼は博士に同意して、博士の指定する様な態度をとると云うことを約束して早速それを実行したのです。問題は早速氷解しました。彼らは互いに親友となり家庭の内は朗らかになったと云うことです。

それは丁度十二年程前のことであるが、四年程前に、博士がニューヨークから離れる前、私はこの友人と彼の妻君とに会いましたが、両人とも全く幸福そうで博士の助言のお陰で、彼が上役と友愛の中に解け合った事を感謝し続けていたと云うことです。

その後彼は仕事に没頭し、眞理の研究に邁進し、今は教会の役員をやっていると博士は書いている。
愛が生活を悲劇から救い、まさに来たらんとしていた生活の過誤から彼を守った体験談であります。

艱難は、人間を鍛錬する場合もありますが、概くの場合心を委縮せしめる傾向をもっています。
と云うのは、艱難の来る毎にその人は、周囲の人々や諸条件に対して否定的、恐怖的に考えるからであります。

光明思想と云うものはその反対的な物の考え方をするのであります。「難儀は節や、節から目が出る」と或る教祖は言いましたが、これは洋の東西を問わず、艱難を乗り越えて生活するために神が示し給うた眞理なのであります。

つづく
 
     <平成29年3月6日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (5249)
日時:2017年03月07日 (火) 20時52分
名前:平賀玄米


      (九)

以上述べたハードマン博士の心理学を要約すれば、人間の意識は分かって、潜在意識(subjective mind)と個別意識(objective mind)との二つになる。そして潜在意識は感情的エネルギーの本源であり、それが意識の本源であるが故に、丁度、一波万波の本源である大海の水が普遍的に満ちているように、個々の意識の波の本源であるところの潜在意識も、宇宙に充ち満ちていて個性を超えた非個性的(impersonal)な意識だと言うのです。

非個性的と云う意味は、個性的には自己選択を行わない、無我の意識と云うような意味であります。
無我であるから何でも映す、恐怖を映せば恐怖があらわれ、勇気を映せば勇気があらわれる――ただ単にそのような感情をあらわすのみではなく、その感情に相応する客観界の事柄もその内部生命の力で造形的にあらわすのだと言うのです。

潜在意識は、宇宙に充ちている普遍的な耕地のような役目をするので、これに種を播きつけるのは個別意識(objective mind――個性の心)であって、恐怖の種を播こうと、勇気の種を播こうと個別心が吾々の感情の種類方向を決定します。すると潜在意識は、自己選択を用いずに、それをその人の肉体やその人の環境にそのまま具象化してくれると言うのです。


個別心は概ね感覚によって左右せられ、外界の事物に触れて、喜怒哀楽等の七情の種を播きます。けれどもそれは自己選択を行い得る個性を持った心ですから、ただ無暗に外界に左右される心ではないのであります。

外界に起こる事件の種類や条件は必ずしもその人の感情を左右するものではない。大なる事件も何ら恐怖を起こさしめない場合もあるが、一匹の鼠が突然廊下に現れたと云うような取るに足りない些事が一人の婦人を卒倒せしめることもある。

ある子供は鼠の尾を持って平気でぶら下げて示すが、ある少女は鼠を見るとキャッと言って逃げて行きます。百万長者が財産税を課せられて、自分の財産の残りが五十万円にしかならないと思うともう貧乏になった気持ちで夜の目も眠れない場合もあれば、五十万円どころか無一文でも平然としている場合もある。

財界の混乱と、経済界の変動に或る人は慄(ふる)えおののくが、或る人はこの時こそと、手具脛ひいてほくそ笑む人もある。恐怖が起こるのは、外界の条件によって合理的に起こるものでも、数学的にその度が高まるものでもないのです。それは人それぞれに個性的な反応を示すものです。

だから恐怖心とか心配とか云うものは、恐怖する人にとって、何々がああだから」と理屈をつけはしますが、実は外界そのものが問題ではない。自分の心一つの問題なのであります。恐怖を去るには、外界に責任を帰しているその思想の間違っていることを先ず自覚し、観点を変えて、先ず自分の心を省みることなのであります。

つづく
 
     <平成29年3月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (5269)
日時:2017年03月08日 (水) 23時57分
名前:平賀玄米


恐怖と不安とは、どうして起こるかというと、やがて来るべき筈のものが、自分を害し、又は損害を与えはせぬかと疑うところから起こるのです。それは一面から云うと神に対する「不信」に根源を発し、他面から言うと、未知の世界に対する不安であります。

普通の人には、未知と云うものは何だか恐ろしい。他界に於いて却って一層よき境遇が得られるかも知れぬが、今いるあまり面白くない現世に生き残って方が好いと云うのは、死に近づいている多くの人々の感情であります。

恐怖心は結局、自分自身の事件を誰か外部が勝手に決定する、どう決定するかと云う時に起こる感情なのです。若し、吾々が「一切万事吾れより出でて吾れに帰る」と云う眞に自主的、民主的な考え方になった時には、その決定権は自分にあり、未来は既知の世界であると云うことになるから、恐怖心は起こらなくなるのです。

未知に対する不安は、それが未知であるが故に感じられるのでありますから、不安に思って空しく前途を空想しているよりも、先ず自ら身を挺して、その「未知」なるもの、事件、訪問客、商売・・・・・等々にぶっつかって行くことは不安を除去する方法となる。

事件と自分との隙がなくなれば恐怖心もなくなるのです。犯人は逃げ延びつつ、未来は捕まるかも知れぬと空想している間が恐怖と不安で苦しいのです。自首して出たら不安と苦痛はなくなるのが
普通であります。

ハードマン博士は「恐怖と不吉な予感とで吾々を悩ますものは、視えざる明日の神秘なる影の中に横たわる朦朧とした丘の上にある」と詩的な表現をしています。或はまた自分がこうありたいと思っている事に他の人がどんな決定を下すか分からない時に吾々は不安を感ずるものです。

こうして「不安」を心に描き、毎日それを心の世界に蓄積して行くに従って、その「不安」なるものは恐ろし妖婆のような姿を現すものなのです。

その過程ははこうなのです。最初の漠然たる不安から人々は色々な想像をめぐらします。或る母親は、自分の子供が学校から帰る時間が遅れたからとて何か途中で災難を受けたのではないかと心配します。お友達の所へ遊びに往ったその帰りが、夜遅くなってもまだ帰らないというような場合に、それは強盗に逢ったのではなかろうか、暴行危害を加えられたのではなかろうかなどと考えます。

併し考えたとて何になりましょう。「心配を心に描けば心配来たる」です。イエスは「汝ら思い煩うこと勿れ」「神は明日炉に投げ入れらるる、野の百合をだにかく装わせ給うがゆえに、況んや万物の霊長たる人間を護り給わないことはないのだ」「汝の信ずる如く汝にまでなれ」等々・・・と言っておられるのであります。

これは何を語るかと言いますと、「心配することは要らぬ。神を信ぜよ、神はお前たちを護っている。併し、現象界に現れる事物は、汝の信ずる如く汝になるのだ」と云うことなのです。

つづく
 
     <平成29年3月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)C (5273)
日時:2017年03月09日 (木) 17時26分
名前:平賀玄米


しかし「神を信ぜよ」と云っても、神が天空の雲の彼方と云うような意味に於いて「天にまします」のだったら、「神我を護り給う」と言っても、何だか頼りない感じがするかも知れませぬ。けれども、ハードマン博士は「天にまします」ところの「天」をば、生長の家の説くのと同じように、天空の彼方から人間の内部に引き下ろして来たのです。

「天」とは人間の實相・内性・本性と云う意味に解したのです。われらの實相に、内性に、本性に、神が宿り給うと云うのです。だから「神よ」と云えば、すぐに応え給う、今・此処・吾の内に神がある。それを自覚するまでは、恐怖と不安の根本は截ち切ることは出来ぬと云うことです。

眞の恐怖と不安とを根絶するためには「わが内性(うち)に今現にいます神」を自覚するほかはない。わが内在(うち)に今現にいます神を、我々は神の子と呼ぶのです。それを、ハードマン博士は“Father that dwell in me”(我に宿り給う天の父)と言っています。

そして、「人間がその幸福と豊富なる生活に必要なすべてのものを既に完全に与えられていると云う眞理を悟る他には、人生の災禍と悲劇とを逃れる道はない。」(同博士著“Worry” P.11)と断言しているのであります。

「他の人には或は何かの条件に頼ろうと云う考えが起こるや否や、自己に宿る主と権威と力とは簒奪(さんだつ)され、あなたの心を心配をもて苦しむる小さな悪魔が一団の伴廻りを連れて這入って来るのである」と。

幸福を持って来る「自己に宿る主」の力を信ずるか、災難を持って来る小さき悪魔の力を信ずるか、二つに一つで我等の運命は変わって来るのです。前者の信仰になるためには、ユダヤの或る特殊な人間にのみ、「天の父」の生命(いのち)が「神の子」として宿ったと云う旧い神学を棄て去らなければならないのです。そして、「キリストは各人の内にある」(Christ is in each of us)

それこそが「眞の自分」であり、我々の「一切の偽存在の罪をあがない、禍より我々を救い出だし、神の国の悦びの生活に導き給う全能の力ある「神の子」だと知らなければならないのです。

「ひとたびこの理念が承認されれば、吾々は救われるのであり、我に宿る主が、眞理の道に吾らを導き給うしるしを見るに相違ない」(同書 12P)とハードマン博士は言っているのです。

ハードマンに於いてはそれは単なる学説ではない。単にそれを学説だとして、それを自分自身に信じ且つ人間観を転回しない限りは、成る程それは学説に過ぎないでありましょう。しかし「主」を自分の内に在ると信じ、それこそが自分の眞の「自我」であり、自分の「眞の自我」が「神の子」であると云う眞理を受容れた人々には実際に体験の上に、神に護られている事実を実証することが出来るのであって、ハードマン博士は、教会での集会や、講習会に集まって来る人々の中に、この人生観を獲得して以来、今迄取越し苦労の習慣の虜になっていた人で、不思議に取越し苦労の習慣から解放されたと言って悦ぶ人があると云う実例を述べています。

或る人の如きは、「この暢気極まる今の自分が二六時中取越し苦労をし続けていた過去の自分と同じであるか」と自らを疑ってつねって見る位だと言っています。冷暖は自知すべきであり、おおよそ今まで小事件に夜徹し目覚めて転々として苦しんだ程の人が、それ以上の大事件にぶっつかっても何ら心配しないで安心し切って処理しようと思うならば、ハードマンの宗教に来たるべきであります。

第四章「日常生活の霊的導き」は今回にて完。次回から第五章「光明思想の先駆者たち」です。
 
     <平成29年3月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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